この間、『朝日新聞』であったか、『読売新聞』であったか、文芸欄に、座談会についてのモラルという文章があった。座談会の席上では勝手な熱をふいてかきまわしておきながら、記事になるときはすっかりそれを削ってしまうようなことがあったりしてはよろしくないという点を云っていた。座談会の常識としては、他にいくつかのことが考えられるであろうが、その一つとして、謂わば自分のうちの座敷へひとをよんでおいて、そこが自分のうちだというその場の気分的なものから妙に鼻ぱしをつよくして座談会の席上に嘲弄的、揶揄的口調を弄ぶようなことがあるとしたら、それも見っともないことの一つではないであろうか。
『文学界』(二月)の座談会は一種の印象を与えた。ある箇所で気分的に
昨今作家の生活、作品が現代一般人の生活から浮き離れ読者の関心を失って来ているということの文壇人自身による自覚と、それに対する対策とがこの座談会でも真先に語られている。林房雄氏は、真面目な文学者評論家は当今意識的に文壇を離れたがっている、と云い、岸田国士氏は文壇が重荷になっている、と明言しておられる。そして、文学が大衆性とか指導力とかを持つようになるためには、実業家・官吏・軍人等の真面目な要求と共通するものを文壇における中心問題として二年でも三年でも提唱しつづけるということが我々の義務であるという林氏の結論が出されている。
「小説の刃は
文学または思想における日本的なものの追求が近頃これらの作家達によって熱心にされている。万葉、王朝時代の精神が今日の生活に求められている。それらのことについての感想は後にふれるとして、世間普通のものの目から見ると、そのような一部の作家たちの今日の姿こそ、まことに日本的なるものの顕著な実例として、ことの成りゆきをうち眺めざるを得ない気持を起させているのではあるまいか。分るようで分らない。そういうものがある。
私は混乱をかきわけて単純に問題に近づいて行きたいと思う。そして先ず何が、今日一部の作家の自覚をそのように迄苦しめている文学と一般読書人の生活感情の疎隔を生じさせたのであろうかということを考えて見たいと思う。そしてまた、壮年期に入りつつある時代に今日のような社会情勢にめぐりあったこれ等の作家達が、大人の文学を創りたいと思うと、何故その精神的な
『文学界』の座談会では、はじめの問題について、従来の文学は、既に文学が人間をひっぱりまわしているので、人間が文学の主でなくなって来ている。文学青年は、小説や評論から活きかたを学ぼうとするより、書き方をならおうとして読む、その特殊な読み方に作者が追随して来たから、遂にここに到ったと云われているようである。しかしながら、一般読者の胸の中には、折りかえして、では何故、現代の文学愛好者の大多数がそういう自他ともに低めるような情けない末技的興味にひき込まれてしまっているのであるかという反問が生じる。
明治以来今日までの七十年間、日本のブルジョア文学はみな少からぬ波瀾を経て来た。いくつかの文芸思潮がそれぞれの作用をのこして過ぎたが、真に当時の社会的欲求と全面的に結びつき、それを反映しつつ民衆の生活感情にまで浸透して指導的な役割を果したブルジョア文学の時代と云えば、日本では恐らく明治初年から国会開設まで二十数年間の
福沢諭吉は勿論のこと、東海散士、末広鉄腸、川島忠之助、馬場辰猪等にしろ、自身と専門的な作家、小説家の生活とを結びつけることなど夢想さえしなかったに違いない。川島忠之助は正金銀行の支配人として活躍したし、東海散士、柴四朗は農商務次官、代議士、大阪毎日新聞初代社長、外務参事官、閔妃事件で下獄したこともある。馬場辰猪は、明治四年頃ロンドンで法律を学び、自由党解散の前年「天賦人権論」を著し、獄中生活の後、渡米してフィラデルフィアで客死した。
自由党が禁圧せられ、国会開設が決定され、今日殆ど総ての作家によって理解されている日本の資本主義の特徴ある性質が組織化されてはっきり正面に押し出されて来ると同時に、文筆、言論の文化的分野には、この胎生期の奔放、自由が失われた。今日ごく手近な出版年鑑を開いて、明治初年から四分の一世紀間に亙るところを見ると、実に新聞発行の盛なのと、執筆者たちが刑罰をくって、罰金、禁獄に処せられていることのおびただしいのは誰しもびっくりするであろうと思う。それらの罪名は、殆どことごとく官吏侮辱による罪である。三木清氏等によって、明治以来、政府は文化政策というのを持たなかったと云われ、アカデミーの問題も今日そこのことからふれられているのであるが、明治初期から文化振興のための政策はなかったかもしれないが、その或る面を罰することには決して吝でなかったことが分る。
出版取締に関して未だこまかい法規が定められなかった時代の新しき日本社会で、或る種の著作が官吏侮辱という理由で罰せられたということは、何と興味ある、特質的な現象であろう。今日の情勢で大きい役割を果している日本の官僚というものが、その発生の歴史においてヨーロッパ近代諸国のそれとは異り、日本の特別な近代化の過程で生じたものであることは、長谷川如是閑氏の説明(読売、座談会)でも明らかである。明治の文化的相貌も、当時の所謂金時計に山高帽子の官員さんの全面的登場とともに、次第に変化した。新しい日本の文学が分化し、まとまりはじめた頃は、既にその作品の中に、野暮で厚かましい官員さんに対する庶民的反撥の感情(一葉)やそれに対する庶民的憧憬・追随の感情(紅葉)が反映するようになって来たのであった。普通一般人の生活感情とそれを語ろうとする文学とは役所的なもの、権力に属したものと漸く遠い懸隔を示して来たからである。が、明治文学が、その渾沌とした胎生期において、一方には福沢諭吉の「窮理図解」を持ち、他方に仮名垣魯文の「胡瓜遣」を持っていたということは、今日の文学の事情にまで連綿として実によく明治というものの複雑な歴史的本質を語っていると思う。
ヨーロッパの文明開化は、人間の合理性や社会性の自覚、人格、個性、自我の自覚の刺戟を伴って、ガス燈と共に我々の父たちの精神に入って来た。然し一方には江戸文学の伝統をその多方面な才能とともに一身に集めたような魯文が存在し、昔ながらの戯作者気質を誇示し、開化と文化を茶化しつつあった。このような形で発端を示している新しいものと旧いものとの相剋錯綜は、日本文学の今日迄に流派と流派との間に生じたばかりでなく、一人の作家の内部にも現れているのである。
坪内逍遙の「小説神髄」は近代日本文学にとっての暁の鐘であったとされている。逍遙はこの論文の中で、馬琴風な封建的枠内での勧善懲悪文学を否定して、文学における写実・客観的観察を提唱したのであった。しかも猶、この新しい写実文学の提唱者によって書かれた小説「当世書生気質」が、作品としては魯文の血縁たる強い戯作臭の中に漂っていた。
二年後の明治二十年に、二葉亭四迷の小説「浮雲」があらわれ、日本文学ではじめての個性描写、心理描写が試みられたのであった。この小説が当時の知識人に与えた衝撃は深刻且つ人生的なもので、己を知るに賢明であった逍遙が人及び芸術家としての自分を省み、遂に生涯小説の筆を絶つ決心をかためるに到ったのも、逍遙自ら率直に語っている通り「浮雲」における作者の人間探究の態度の真実さに打たれてのことなのであった。
「浮雲」が発表される前後に、山田美妙斎による言文一致の運動が擡頭した。これは、漢文読下し風な当時の官用語と、形式化した旧来の雅語との絆を脱して、自由に、平易に、動的に内心を芸術の上に吐露しようという欲求の発露であった。
ところが、二葉亭四迷の芸術によって示された文学の方向、影響は、上述の日本の事情によってそのままには発展させられず、硯友社尾崎紅葉等の作風に遮断されている。
紅葉が活動した時代、日本には既に憲法があり、国会が開かれており、官員さんの全盛時代、成り上りの者の栄華が目立った時期である。文学者の世界は当時の権柄なる者にとってもはや自身の啓蒙のためにも、支配のためにも必要がなくなっており、人間並に扱われなかった。作家は作家としての軽侮をもってこれに報いたのではあったが、経済・政治生活からの閉め出しは、客観的には紅葉を再び魯文に近いところへ押し戻した。俗輩どもを無視する作家としての誇りを、紅葉は自身の文学的感覚、教養に認めるしかなかったのであるが、ヨーロッパ文学は未だ彼の血となり切っておらず、境遇的事情もあって、彼は自身を通人として、文人として伝統の裡に活かしめたのであった。
ここで、面白く思われるのは、自由民権が唱えられた時代からのより社会的性質のつよい文筆家たちは「経国美談」の作者の矢野龍溪にしろ中江兆民にしろ、主として新聞人として活躍していることである。作者紅葉とは編輯者対寄稿家という現代の関係が既に生じている。
「金色夜叉」は一世を風靡したが、硯友社の戯作者的残滓に堪え得なかった北村透谷は、初めて日本文学の上にヒューマニティの提唱をもって立ち現れた。高く、広く、輝かしく飛翔せんと欲する自我、人間性は、ロマンチシズムの焔に照らされて、通人の妥協的屈服的世界観を拒絶したのであった。
続いて藤村によって「誰か旧き生涯に安んぜんとするものぞ。おのがじし新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる」と叫ばれ、「遂に、新しき詩歌の時」が来た。
日清戦争後に起った自然主義の移入は、過去の因習に反逆すると同時にこのロマンチックな人間性への憧憬をも蹴破った。人間生活の暗い半面、神性に対する獣としての人間が描かれはじめたのであったが、自然主義も日本の特殊な社会的・文化的地盤へ落ちては、独特な花を開かざるを得なかった。その精神史においてまだ一度も人間らしい人間としての自覚、活動の歓喜を味ったことのない日本の知識人の生活感情の裡には、綿々として尽きず、人間性において成り成らんとする意欲が
明治四十年から十年間に亙る旺盛な文学活動において、夏目漱石は日本文学の上に初めて、自我を批判する目をもった自我の姿を提出した。人間性のひき上げてとしての人間性観察者・批判者としてのインテリゲンツィアの意義と任務とを、漱石は作品の裡に強烈に描き出した。明治四十一年首相西園寺公望が、文士を招待して雨声会を催した時、漱石はその招待を「時鳥厠なかばに出かねたり」の一句を送って出席しなかった。漱石は日本の伝統である官尊民卑が文学の領域にまで浸潤することを快く思わなかったのであろう。感想に、文学の事がききたいのならばそのことではこちらが師匠である、そちらから出向いてしかるべし、というような意味を洩している。漱石の主観の裡では、一箇の人間として宰相と同等である自我、専門とする文学の領域においてはその分野における権威者として自己を主張した気概が
然しながら、漱石が、人間性のより高さへの批判をもって観察した現実の自我は、社会の諸制約によって歪み、穢され、細分され、自我と利己との分別をさえ弁えぬ我と我との確執、紛糾であった。彼が晩年「明暗」を執筆していた頃の日記には、この偉大な芸術家の内心をさえむしばまずにいなかった日本文化の矛盾が露出しており、殆ど肌に粟を生ぜしめるものがある。漱石は、ブルジョア・リアリストとして自分の最高の到達点で「明暗」の驚くべき冷静、緻密な描写を運びつつ、小説を書いていると塵っぽくてやり切れない、だから詩をつくると云い、日に数首ずつの漢詩をつくっている。私に漢詩を味う力はないが、卒読したところ、それらの詩は、どれも所謂仙境に遊ぶ的境地を詠ったものが多い。白雲飛ぶところ、鶴舞い遊ぶところに、漱石は、「明暗」から日に一度ずつ逃げて行っている。もし漱石が「明暗」完結後まで生きていることが出来たとしたら、この恐ろしき矛盾、自我の分裂は、果して彼をどのように生かし得たであろうか。
芥川龍之介は、ブルジョア文学の背骨の中に漱石がのこして行った宿題を、その生涯で解いた作家であった。社会的制約の間に切っぱつまった自我の姿を凝視しつつ、彼は自己を破壊することでそれを主張したのであった。
プロレタリア文学の擡頭は、日本の文学に新しい局面を開き、新たな芸術の価値と質的展開の可能を示したのであったが、一九三二年以後の日本の社会事情は、最も瞠目的な方法と過程で、その退潮を余儀なくさせた。作家として、自己の帰趨に迷ったブルジョア作家の一部は、この退潮を目撃して、文芸復興の呼び声を高く挙げ、爾来この二三年間は古典の研究、リアリズムの問題、純粋小説の提唱、能動的・行動的精神の翹望が次々に叫ばれつづけて来たのであるが、文学の実際の復興は困難にめぐりあった。
プロレタリア文学運動を退潮せしめた力は、社会情勢の有機体の内でやはりブルジョア文学をも萎縮させざるを得ない実際となった。一般人の生活水準の低下と社会的自主性の低減は、日本のブルジョア文学の独特な伝統が、ヨーロッパのイッヒ・ロマンとはまた異った歴史性をもつ私小説について自我の啓発、探求をもとめているにかかわらず、遂に芸術の中に語るに足るだけの自我の内容と発動とを、作家生活の実質から喪失させてしまっているのであった。
『文学界』の座談会で指摘されている作品から活きかたを学ぶ読者が減ったということは、とりも直さず、作家自身、示すべき人間的生き方を社会的現実の上に失ってしまっている事実を語っているのである。貧困が文化面に迄及んでいる一般人は、身に迫った生活の苦痛の中で、活きかたを求めこそすれ、こなごなのようにされ、生気を失っている自我がああでは如何、こうでは如何と、自意識の鏡にうつして身をよじる文学の眺めに、ついて行けないのは当然ではないであろうか。文壇は、この冷淡さにおどろかされ、新人を新人をと求め、賞を氾濫させている。文学青年が益々、いかに書くかを見習おうとして、一部の作家と作品の周囲に集るのもまた避け難いことと思える。
近代日本のブルジョア文学において、常に
文学青年と一括して呼ばれる若い時代の社会的・経済的支持の力は、彼等の苦しく逼迫する現実生活の必然から、従来の所謂文壇人の生活を負担しがたくなって来ている。このことは、文芸家協会の納金低下にも現れ、修飾のない実際問題として一部の作家のダンピング的執筆を惹き起している。新進作家の経済的困難は誰でも大っぴらに語る状態である。荒木巍氏が、最近出版された小説集の印税代りに、出版
現在、壮年になっている作家たちが、他の職業にたずさわる同年輩の男の社会的・経済的地位を観察した時、作家生活の現実は、彼の内心を暖くするであろうか。冷たくするであろうか。
今日の社会的情勢は、日本のブルジョア作家の大部分がそこに属している小市民、中農の経済事情を極端に劣悪にしている一方、従来の文学の立前においては精神の牙城を喪っている。荒涼たる心持で周囲を眺め、大人の文学をつくり、その大人の文学によって現実社会で官吏、実業家、軍人等によって占められている支配的上層部に伍そうとしたとして、それは容易なことであるだろうか。
フランスではユーゴーが宰相であり、ドイツではゲーテが宰相であり、イギリスで十八世紀文学を指導した文学者はそれぞれ顕職にあったという例は、今日までのところわが日本の社会では再現し難い。日本の近代社会の成り立ち、官製文明国としての特質が、日本的な現実性においてそうあらしめないであろう。
若し、社会的条件がそれを可能ならしめるならば、例えば犬養健氏、水上瀧太郎氏等の文学が、今日在るのとは全然変ったものとして生れたであろう。単に作家的才能云々の理由ではないのである。
私が、一部の読者を退屈させながら、この文章の前半に長々しく明治文学の略図を描いたのも、ここのところの歴史的の姿をもう一度、読者の判断の前に供したかったからである。
文学の仕事、文学者の任務が、大衆の指導にあるという自覚と、そのことで大衆より経済的にも優位におかるべき筈であるという、芸術至上的な自己評価の習慣は、ブルジョア文学が実際は大衆の生活感情とのつながりを失っても猶作家の心に残像としてのこっていることがあり得る。読者としての大衆の文化水準の低さのみがこの場合目につけられ、作家そのものの実質を低下させている社会的母胎の質の問題が見落された時、一部の作家自身が云うように「抽象的な情熱」が
私は、今日万葉、王朝の精神を唱えている一部の作家が、我からそれを「抽象的な情熱」と云っていることを、実に意味ふかく思う。明治、大正のブルジョア文学の潮流においては、仮にそれはどのように孤立的、短期、且つ不成功であったとしても、一度も「抽象的な情熱」という自覚をもって云われたものはなかった。二葉亭の一生にしろ、北村透谷の生涯にしろ、樗牛、漱石、芥川、すべてこれらの人々の情熱は、生活的であり具体的であった。藤村、晶子にしろロマンチシズム時代の空想をさえ生活実体として具体的に感覚し得ただけ生活力と若々しさをもっていた。
「抽象的な情熱」という十分の自覚に立って日本の文学古典のうち最も生活と芸術とが融合一致していた万葉時代の、生命力に溢れた芸術の精神を唱えるという人々の矛盾を、私たちは何と解釈すべきであろうか。万葉とは対蹠的な罪業や来世の観念に貫かれた王朝の精神というものを、万葉とともに、抽象的な情熱として愛するということは、殆ど理解しがたい迄に困難である。
このように相反する時代精神を享受する情熱が、何故に芭蕉の芸術的精神を肯けないのであろう。抽象性は、何故に芭蕉に面して透明を欠き、具体的となるのであろうか。
芭蕉の作物には源氏物語のような書きだしがないからであろうか。或は林氏のように座談会へ袴を穿いて出席することによって自分が文学をするサムライであることを証言しないからであろうか。または、芭蕉の芸術家としての生きかたは、当時の時代的環境によって、鬱屈的であり、浪々的、捨て身すぎて、今日の作家生活の実際にふさわしくないからでもあろうか。
万葉の芸術家たちの心を、私は自分の粗雑な理解ながら親しみぶかく感じて読んで来た。万葉の芸術には、高貴な方の作品もあり、奴隷的な防人の悲歌もある。万葉の時代は、日本の民族形成の過程であり、奴隷経済の時代であり物々交換時代であり、現実に今日私たちの生きる社会の機構とくらぶべくもない。万葉の精神を唱える作家自らがそれを抽象的情熱と、認めざるを得ない理由もうなずけるのである。
『読売新聞』に、この一月座談会記事が連載されていた間の或る日「てんぼうだい」に一読者よりとしての投書でのせられていた。「前略、万葉古義を拵えることも勿論立派な仕事と思いますが、而し民衆はそういう(文化的な)ものよりも、もっと生活に喰いこんだものを求めているのではないでしょうか。略」
ぼんやりした表現で書かれていたけれども、私の印象にのこった。『文学界』の座談会で小林秀雄氏は「やっぱりでたらめでもいいから
山本有三氏は或る意味で大衆に愛読されている作家である。しかしそれは、志賀暁子の公判に検事が「女の一生」にふれたからではなくて、山本氏が氏としての誠意と研究とをもってこの社会に対している真実さが、読者とこの作者とを
作家も民衆の一人として、知らしむべからず風な境遇におかれていることについて、林氏もふれている。氏は、そのことで益々大人になること、知る境遇になりたいことを刺戟されている模様である。同じような点に、島木健作氏もふれている。島木氏は、今日の作家のそのような姿こそ、そのままで却って積極的なものを語る場合がないとは云えないと云っている。唐人お吉が自分の惨めな生存そのもので当時の社会に抗議しているように、作家の惨めな姿そのものが抗議であると。
だが、このことも、自身の置かれている境遇を自覚し、抗議として生存している明瞭な意欲と、それに応じた動きがあって客観的になりたつことであると思う。
日本の文学は明らかに一つの画期に来ているのであるが、「抽象的情熱」によって日本的なものを探求しつつある作家たちが、生活の必要から具体的にはどのように動くのであろうかと、注目をひかれる。より多く、より深く我が骨を埋むべき日本を具体的に知ろうと欲しているもの、愛こそは具体的であると信じているものにとって、人間的にも作家的にも教訓ふかき眺めであると思っている。
〔一九三七年三月〕