「小説の書けぬ小説家」の後に、「汽車の罐焚き」を読むことが出来たのは、一つの心持よいことである。この感じは作家中野重治の友達である私一人の感情ではなかろうと思う。中野さんが誰かに、もう当分私小説はおやめだ、と云ったというようなことを聞いたが、私小説をやめるということが、この頃文壇の一部で云われているような文学の通俗化の方向をとらず、中野さんの小説で、この作品のような方向にあらわれて来たことに、一般が注意を向けるべきであると思う。
作家としての中野さんは、上手な語り手である。その特色は、昔「鉄の話」によい価値で現われたし、この「汽車の罐焚き」において作品としてまとめ、読者をひっぱってゆく技術的な力として役立っている。だが、それ故にこの作品の扱いかたが、作者としては謂わばより抵抗の少ない線を辿っている点も自覚されているであろう。
初めの部分に、鈴木君から作家である私という人物が、この話を書かないかとすすめられた時の気持が、或る立場をもつ作家の良心の問題として挾みこまれて語られているところがある。作者は、今日この部分をどう考えているであろうか。
中野さんが全力をつくして対象に引組むことでそういう部分を内面的にも発展させ切ってしまうための本気な努力を益々継続することを心から期待してやまない。
これらは作家の発展の途についての感想であるが、私はこの作品を読んで更にもう一つのことを考えざるを得なかった。今日、勤労する人間の生活はまだどんなに部分的にしか文学の現実としてとらえられ得ない事情に置かれているかという感慨、並に、それであるからこそ作家は一層まめに、一層着実に、やがてこの総体の為の各部分を現在においてとりあげて行かなければならないということである。
〔一九三七年六月〕