今日の文学に求められているヒューマニズム

宮本百合子




 今日、文学の大衆化ということが非常に云われて来ている。かつてプロレタリア文学が、芸術の内容と表現における社会性との問題にふれて、従来の純文学と通俗文学とは質において異った階級の社会性に立つ文学として、文学の大衆性をとりあげた。当時の大衆という認識の内容の中心は労働者・農民におかれてあった。通俗文学はなるほど数の上では多勢によまれているであろうが、描かれている生活の現実は勤労生活をしている者の日常の悲喜を活々とうつしているのではない。都会の安逸な有閑者の生活に生じてくる恋愛中心の波瀾、それをめぐっての有閑者流な人情の葛藤の面白さにすぎない。勤労大衆の文学は、その内容も表現も勤労者の生活に即したものでなければならないという理解に立っていたのであった。
 純文学はこの時代、はっきりとした対立をもって、プロレタリア文学の運動が当時の発展の段階で努力の目標としている大衆化の観念と対峙していた。通俗文学の作者も自信をもって、通俗小説の彼らの所謂いわゆる大衆的本質を固持していたのであった。
 今日、再び文学の大衆化が云われているのであるが、これは、かつてプロレタリア文学が独自の立場から、大衆性をとりあげた時代とは大いに趣を異にして来ている。あちこちで現在聞える大衆化の声は、主として従来プロレタリア文学に対して純文学を守って来ていた文学者の領域から響き出して来ている。これまでの純文学の作家の日常生活が余り特殊な文壇的或は技術的範囲に限られていた結果、そういう作家の社会的生活の経験の貧困は作品の質の著しい低下、瑣末主義を惹起した。一方、この四五年間における社会情勢の激動はこれまで純文学の読者であった中間層の急劇な経済事情の悪化をもたらした。経済事情の悪化は、原因として日常のこまかいものにまで及ぼしている増税、それに伴う物価の騰貴が直接のきっかけとなっており、増税のよって来るところの同じ源から、誰の胸に問うても明らかな思想的な一方的傾向の重圧がある。社会の事情は昨今まことに複雑である。民衆一般が手近に分りやすく知り得ない諸事情の錯綜の結果、或は率直に闡明され得るなら分明となるはずのところをそれが出来ない事情があるため、一層ものごとが複雑になっているというような、二重の複雑が平凡な民衆の生活の思いよらぬ心持の隅にまで影響している。
 従来の純文学の題材、手法は、こういう困難な日常におかれている人々の感情にぴったりしなくなった。作家の社会的孤立化に対する自覚と警戒、その対策が、文学の大衆化の呼声となって現れて来たのは、本年初頭からのことなのである。
 こういう事情でとりあげられているきょうの文学の大衆化の問題について、二つの問題が常にこんぐらがってもち出されて来ている。それは、文学の大衆化ということの本来の実体についての第一に行われるべき研究と、一人一人の作家が自分の芸術を大衆化してゆくにはどういう実際上の方法によるべきであるかという第二の研究とが、とかくいちどきに語られている。そのために、先ずはっきりと知りたい「大衆」という言葉の本体さえ見きわめられず、漠然、作家も大衆の感情を感情せよという風な流行が生じ、そのことは結果として、あり来った純文学の単純な在来の通俗化をひき起したりしている。『文学界』六月号所載川上喜久子氏の「郷愁」という作品などは、文学の大衆化が誤って理解された芸術的実践の一つの不幸な標本を示していると思われる。
 ひとくちに、大衆と云っても、その規定のしかたはいくつかあると思う。少くとも、大衆が低い文化をもっている方が御し易いという視点にたって大衆の文化を導いてゆく大衆に対する理解と、その社会を構成している多数の人々がだんだんましな生活をやってゆける方向に導かれなければ全体として社会の発展や幸福はのぞみ難いものであるとして大衆を見る観かたとでは、全く対蹠的な性質をもっている。漫然と、政府に支配されている者一般として大臣や何かでないもの全体として大衆というものを感じている人もあるであろう。
 大衆というものを、文化においても創造的能力より消費的面において見る、つまり『キング』と浪花節と講談、猥談をこのむものとしてだけ見て、しかもそういう大衆の中には種々な社会層の相異があり、その相異から生じる利害の相異もまたあるという現実を見ない一部の人々は、文学の大衆化は大衆の文化水準の最低のところまで作家がさがってゆくことであるとする。文学そのものが本来の性質としてもっている芸術の力によって読者の生活の感情を高める役割さえ、ここでは抹殺されているのである。
 プロレタリア文学が、運動としての形をもっていた時分は、当時の一般的な事情からの関係もあって大衆というものの内容を労働者農民中心に規定していた。後、社会の事情の変遷につれ、中間層、下級サラリーマン、インテリゲンツィアの生活条件の変化によって大衆という内容はひろくなった。自身の日常の生活を自身の働きで支えている一般の勤労生活者をふくむものとして理解されて来ている。
 今日、こういう意味での大衆の内容は益々広汎、複雑になって来た。何故なら、この四五年のうちに、かつては利潤生活者であったインテリゲンツィアの或るものが今は三四十円の下級サラリーマンになって生活と闘っている事実はざらであるし、中学を出て後、もとなら苦学して高等学校へでも入ったようなものが、今日は経済事情の変動から養成所へ行って大工場の労働者となっている例も少くない。このような場合は、インテリゲンツィアの勤労者化のみならず労働者の質をより近代的に変化させる結果となっている。経済上にあらわれたこういう事情は、文化の方面にも深い影響をあらわし、今日の真面目な勤労生活者はひところのように左翼的な専門の教養をもっていなくても、現実の生活教育によって、それぞれ生活からの欲求として、日常生活の上のより明るい合理的なもの、そして文学としては自分たちの生活の心持を語っている文学を求めているのである。
 文学の健全な大衆化は、この方向に志されなければならないということは、文学の発展ということを私心なしに考える者なら判断し得るところであると思う。
 人間らしい生活に対する翹望というものは職場、職分の相違、したがって細かい気持の部分部分では全く同一でないにしろ、働いて、税を出して、あてがいぶちの賃銀を払われて暮している者すべての人々を貫いて流れる一線である。この共感は、社会事情の一方からの圧力によって益々高められて来つつある。謂わば人生の歴史の或る四辻のようにさえ見える。こっちからインテリゲンツィアとして真面目にこの毎日の生活、人間としての生活の問題と一歩一歩闘って行って出た広場には、あちらの小路から工場の方から次第次第に欲求を追って進んで来た人々、更にそっちの耕地から農民としての生きる道を押して来た人々がおのずから落合うというようなところがある。こういう目に見える形ではないが、或る心持でそういう接近があり、それは今日、文学の上で大衆性を語る場合の特徴をなしているのである。
 プロレタリア文学の歴史はさまざまの曲折の道を辿るであろう。そして、その一曲の一折れは、それぞれ当時の歴史の客観的な事情と結びついて現れるのである。今日、プロレタリア文学の歴史的諸相の一つとして文学の大衆化を考えた場合、どうしても数年前とはちがう大衆そのものの広汎複雑な構成、その勤労的性質に即さねばならぬ。そこでは左翼的な意識の有無が第一の問題とはならず、或る勤労条件、生活環境におかれた一人の人間が、自分の人間らしい心持から周囲と摩擦し、自分自身の内にある新しいものと古いものとの間の矛盾を感じ、使うものと使われる者との必然的な利害の対立を感じ、そこに人間らしい解決を求めようと努力している。そういう努力の姿としての人間性が芸術化されるのを待っていると思う。文学の本質は、くりかえして云うが、その芸術の魅力によって、人間の心持を高める一つの確固不抜な要素をもっているものであり、少くとも文学として或る作品を手にとりあげた時、大衆は、自分の心持が人間として高められることを自然に求めている。勿論、直接の感覚としては面白さを求めるとも見えるが、面白さの要素は心理的に綜合的なものであり、探偵小説、怪奇小説の類でさえ書かれている世界のリアリティーは、面白くない面白いを決定する重大な契機となっている。
 面白さが読者大衆から要求されているということを、すぐエロティックなものだのチャンバラだの、くすぐりと見なすのは大衆の感情そのものを実際知らないものであるし、作家らしからぬ粗笨そほんさである。大衆の生活の現実にふれてゆく社会的リアリティーが作品というものの窮極の面白さであることには疑いない。大衆の人間的苦悩、時代の重しを感じ、それらの重みを欲していない心持の身じろぎを捕える芸術の社会性、そのような今日の顕著な人間性のリアリティーをもち得なくなったことから、従来の一部の作家が文学の大衆化を叫び出し、しかも大衆というものの誤った理解から誤った通俗化、低俗化への道を辿りはじめ、文学そのものを腐敗させつつあることから見ても、このことは明らかなのである。
 個々の作家が、それならば、どのようにして今日の人間性、大衆の生活感情を作品に反映してゆき得るかと云う点になると、答はまことに平凡な、耳馴れた、既に十分知られている数語で表現されるであろう。それは、作家自身の生活の大衆化であり、作家自身の大衆の一員としての生活感情の現実的な体得である。思うに、今日の現実生活のうちで、真に人間として、芸術家として自分の生き方を考え、求めている作家たちならば、自分たちの境遇がインテリゲンツィアとしてもどんなに大衆の一員としての共同条件に圧され、支配されているか、はっきり痛いほどわかるはずだと思う。一時、この点に関して、作家の労働者化が外部的に云われた時代があったが、今日は、インテリゲンツィアとしての日常からも真にインテリゲンツィアたらんとすれば当面する疑問があり、そのことでは労働者の持つ疑問と一致して来ているところに、時代の深刻な推移が反映し、文学に新たな内容のヒューマニズムが求められる理由があるのである。
 こういう生活地力の方からの大衆的感情、感覚なしに、作家や評論家が従前のとおり大衆対作家・評論家というような位置を仮想しつづけて、どういう作品を大衆に与えるか、という風に問題を出したのでは真の大衆化はないし、文学における人間性の再表現も行われ難いのである。
 人間らしい真面目な、情の深い、慮のある、平和をこのむ人間が、自身の人間性を守ろうとする必要を犇々ひしひしと感じ、その情熱で動かざるを得なくなっているところに、これまで云われて来たプロレタリア文学というものが、更にヒューマニズムへの拡大された要求を示している必然があると思うのである。
〔一九三七年七月〕





底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「文化評論」
   1937(昭和12)年7月創刊号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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