文芸時評

宮本百合子




        八月の稲妻

 読みたいと思う雑誌が手元にないので、それを買いがてら下町へ出た。町角と云わず、ふだんは似顔描きが佇んでいるようなところにまで女や男のひとたちが、鬱金うこんの布に朱でマルを印したものと赤糸とをもって立っていて女の通行人を見ると千人針をたのんでいる。出会い頭に、ああすみませんがと白縮のシャツの中僧さんにたのまれたりして、小一時間歩く間に私は四五度針をもった。私は何か一口に云いきれない苦しい心持で光る針に三遍赤糸をからめては小さいコブをこしらえて、お辞儀をしてかえした。外科的な専門の立場で云うと、千人針を体につけていて弾丸に当ると、弾丸の方は比較的たやすく抜き出すことが出来るが、小さい糸こぶをもった布切れがどうしても傷の奥ふかく食いこんでのこって生命のために危険なのだそうである。こうやって道行く人々をとらえてその千人針を懸命にこしらえている人々は、そういう事実を恐らくは知っていないであろう。知っているにしても、せめてはそれも心やりからで、出征してゆくものの無事息災を希う家族の気持がじかに迫って来て、縫うことを冷たく拒み得ないものがある。
 胸を圧される心持でバスにゆられてかえって来たら、私の住んでいる駅の方からバンザーイという沢山の人間の喉からしぼり出される絶叫が響いて来た。
 昨今はこういう日常の雰囲気である。『中央公論』と『改造』とが北支の問題をトピックとしているほか、トロツキーの「裏切られた革命」の翻訳を別冊附録としているのは、誰しも一応の注目をひかれることである。『改造』の附録の方の翻訳署名責任者として荒畑寒村氏が、最後に「訳者の言葉」を附し、この四六判二百九十余頁に亙るトロツキーの「絢爛たる文彩、迫撃砲の如き論調、山積せる材料、苛辣なる皮肉」が結局「どんなに善意に解釈しても、ソヴィエットの社会主義的進化の実状に対するトロツキーの思想と思索方法とが全く動脈硬化的な抽象論を一歩も出ていない」という翻訳者として意見を表明しておられる。
『改造』では、更に猪俣津南雄氏の「トロツキーの『裏切られた革命』」という一文をのせている。猪俣氏の平明な健康な常識は、ソ連における政治経済事情の歴史的推移の過程の要所にふれつつ、トロツキィーが「もしその間の事情を『科学的に評論』することが出来たならば、恐らく彼はこの『裏切られた革命』を書きはしなかったであろう。『革命』は彼自身によって『裏切られた』ことを認めねばならないからである」云々と、この一本が、今日の如何なる国際事情のもとにいかなる役割を負うて登場して来ているかという客観的意義を解剖していられるのである。トロツキーのこの著作の翻訳がいかなる傾向の日本の現状によってかく大々的に扱われるのであるかということを、歴史的展望に立って鋭く洞察しなければ、新聞代まで高くなったほど紙の騰貴した折柄、悪意を満載した紙屑がしかく普及されることの矛盾が私たちには諒解され得ないだろうと思う。

        春夫の狗肉

 昨今、ジャーナリズムに反映している面だけを見てもソヴェト同盟に関する興味というものは実に異常なたかまりを見せている。八月号の諸雑誌を一とおり見渡しただけでもそこには幾つかのソ同盟探求の座談会記事があり、出席者の顔ぶれは軍事関係者が多い。秦新聞班長などの活動はなかなかさかんなのである。
 この間ソ同盟の飛行機が北極を通過して一気に一万六百キロんでカリフォルニアのサンジャシント飛行場へ着陸し、六十二時間九分で、北極経由モスクワ・北米間の「スターリン空路」を確立したことがあった。報道映画の世界的傑作の一つとして、シュミット博士一行の「チェレシュキン号の最後」の新鮮な感動や人間的活動の美しさを記憶している夥しい人々は、ここにも自然に対して知慧ふかく順応しつつその条件を人間生活の豊富化のために積極的にとらえて行く活力の詩を感じたことであったろうと思う。
 ところがあの新聞記事を読んで、こんな成功は嘘だ、と云った人の話をきいた。そう云った人はロシア語で飯をくっている男である。所謂いわゆるロシア通の一人なのであろうが、こんなのは又例の宣伝だ、と云うので、傍のものがびっくりして、しかしこれはアメリカ側の公式発表ですよと注意したら、いや、それだってとにかく嘘だ、とがんばってがえんじなかったというのである。
 今日ソ同盟の社会的業績に対する関心の中には、この極端な一つの実例が暗示しているような感情の方向をも包括していると見るのが妥当なのだろう。
 ジャーナリズムのこの流行の潮にのって『文芸』八月号に勝野金政なる人物の「モスクワ」という一文がのっている。勝野金政という署名で嘗て妙なパンフレットが書かれた事実は世間周知である。「モスクワ」は小説として発表されており『文芸』の編輯者はモスクワかえりの「作家」として紹介しているのであるが、作家というのは何でも彼でも文字を書くものを総てひっくるめて呼ぶ名ではないのである。佐藤春夫氏は『文芸春秋』の社会時評に「諸共に禽獣よりも悲し」といい、ジャーナリズムが社会的効果に対して無責任であることを指摘しているが、もし現在のジャーナリズムにそのような弱いところがなかったならば同氏によって『文芸』に推薦されたと仄聞そくぶんする勝野金政の小説などは、烏滸おこがましくも小説として世間に面をさらす機会はなかったのである。
※(「さんずい+墨」、第3水準1-87-25)東綺譚を読む」という『文芸』の文章の中で、佐藤春夫氏は冒頭先ず「現代日本にもまだ芸術が残っていたのかというありがたい感激をしみじみと味わせる名作である」と荷風の「春水流の低徊趣味」が「主要な装飾要素になっている」文学精神の前に跪拝している。自分のその文章などは「末世の僧の祖師を売る者、妄言当死」と迄頭を垂れている。もしそのような芸術至上の帰依に満ちた芸心があるならば、佐藤氏も「モスクワ」が芸術品かそうでないか位はぎわけ得て然るべきであった。或る作家が未熟で、下手で書きそこなった小説というのとは別の、本来作家でない他の何ものかであるものの書きものを、小説として買い、それをジャーナリズムに押しつける佐藤氏の人間的態度は腑に落ち難いのである。時評の中で佐藤氏は、帝国芸術院が年金をきめていないことをあげ、芸術家の経済的窮乏が芸術家と政府とをおそれしめる結果になることを惧れているけれども、一個の芸術家が生ける屍として現れるのは、あながち経済的窮乏のみによらないことを教えられるのである。

        戦争を描く小説

『日本評論』八月号は戦争小説号として、三篇の戦争を題材とした作品をのせている。「明治元年」林房雄。「戦場」榊山潤。「勝沼戦記」村山知義。
 本多顕彰氏は月評の中で「勝沼戦記」は戦いを暗い方から描いたもの、「明治元年」は明るい方から書いたものという意味の短評をしていられた。
「勝沼戦記」は伏見鳥羽の戦いに敗れて落ちめになってからの近藤勇と土方歳三とが、新撰組の残りを中心とする烏合の勢をひきいて甲陽鎮撫隊をつくり、甲州城にのり込もうと進むところを、勝沼で官軍に先手をうたれて包囲された物語である。風雲児的な近藤、土方が戦いを一身の英雄心・栄達心と結びつけて行動したことから大局を破局に導いたところ、また甲陽鎮撫隊の構成の様々な心理的要素などに作者は軽く筆を突きすすめてはいるが、読後の印象は一種の読物の域を脱しない作品である。新講談の作者も試みる程度の事象と心理との分析に止まっている。
「明治元年」は林房雄というこの作者らしく「正論に従って、俗論とたたかい」「楽しく死のうとする」三春藩の官軍支持の若い兄弟を描いたものである。板垣退助を隊長とする官軍に属する医者の息子である一人の青年に「維新の業は我ら草莽の臣の力によってなさるべきだ」といわせたり「暗厄利亜アングリヤ国に、把爾列孟多バルレメントというものがあるのを御存知ですか。この戦争後に、それができるのでなければ、ちょっと死ぬ気にもなれないというものでしょう」などと云わせているあたり「青年」を書いているこの作者としては苦もない仕上げの艶つけであろうと思われる。この作者に向って、正論とは何か俗論とは何かということについて一般の読者の心に湧く疑問の答えを求めようとしても無理であろう。その作者は、ナニ? 正論は即ち正論さ、それがどうした、といい得る人なのであるから。
 榊山潤氏の「戦場」は、以上二つの作品が過去に材料を取っているのと異っている。東京で失業に苦しんだ知識人の一人である「私」という人物が、出征して「敵は誰であってもいい。東京にあって私の行く手をすべてふさいでしまった現実が、支那服を着て目前に現れたと思えばいいのだ。こいつが敵なのだ」「人間を歪めるものは戦場よりも寧ろ歪んだ平和だ」「人間性は、すでに今日の巷にあって破壊しつくされているではないか。この上に何の破壊があり得るか」そして、戦いの中に「昂然と身を捨て切った精神に洗われ」「自身の内に英雄を感じ」終結は「この戦場をのりこえて」「善良が不徳でないところまで、私を強くするのだ」という気持を、この作者は語ろうとしている。本多氏の短評では、「私」を出して書いているので作品として成功しがたかったと云われていたと覚えているが「私」を出したことそれ自身に問題があるのではないと思う。「私」と作者の腹のなかとが実はちぐはぐで、「私」の内省と苦悩とが真に読者の肺腑をつく態の真摯な人間的情熱を欠いているところに、この作品の稀薄さが在るのである。
 人道主義的なセンチメンタリズムを蹴たおして、仮借なく現実を踏み越えて生きようとする気組も、作品として十分の落付いた肉づけ、客観的な描破力を伴わないと、結果としては案外に単純な神経性ヒロイズムやスリルの追求に堕す危険をもつのである。

        ガンジーの糸車

「文化の再生における信仰と科学」という亀井勝一郎氏の論文(文芸)と、『中央公論』にのっている小林秀雄氏の「文芸批評の行方」という論文とは、昨今この種の批評家といわれている人々の辿っている内的斜面の姿を二人連弾つれびきで語っているところに、読者の注意をひくものがあった。
 この二つの論文は、執筆に当ってあらかじめ打合わせがされたのかどうかはもとより知らないが、思惟の傾向の本質では全く一体二面であるし、或る意味の組織的生産の印象を与えている。二人の筆者は、マルクスが「経済学批判序説」の終りで云っている文化に対する一句を同じく引用し、等しくその上に立場を求めて、この数年来世界文芸批評の分野に立ちあらわれている科学的批評の態度を否定している。古典の生れた環境の解明だけでは新しく文化を再生せしめ、「自己を変貌せしめる」役には立たず、それを憧れ、信仰し、永遠の青春として味到してはじめて血肉となるのであるから、例えば「日本的なるもの」の解釈に当って、その問題の発生を社会的な原因の面からだけ見るような一部の批評家、戸坂潤、岡邦雄の如きは反動であるという意見なのである。
 二つの論文が、永遠の青春とか変貌とかいう用語や非難しようとする対象に於てまで完全に呼応した一致を保って批評の科学性を否定しているところは、読者に何を暗示するであろうか?
 もし、両者の間に些かの相違を見出そうとするならば、小林氏が「ごく常識的に考えても世間には芸術の仕事と科学の仕事との対立が見られる」各自その分野を守って仕事しているのに、或る批評家はその間をどっちつかずにいると批評家にふさわしくない俗見に立ってののしっているに対して、亀井氏は「科学的」という文句を、今日或る意味での世界的チャンピオンであるトロツキーがつかっているように主観的に使用し「素朴な実証的な研究」即ちそれを通じてのみ、古典美への信仰に入ることが出来、「科学的認識は芸術的享楽の中枢に参画する」ことが出来るとしているところが違うと云えば云える。しかし、歴史の光に照して見れば、後退的な「素朴な実証」主義の合理化、憧憬は、小林氏の心持をもつよく引いていて、この批評家もやっぱり文中に福沢諭吉の少年時代の逸話を引用して、近代の科学は「いつも人間的才能を機械的才能に代置するという危険な作業」を行っていると主張しているのである。
 もとより具象的な感覚のものである芸術の味得や評価をするに当って単にそれがつくられた時代の社会的環境の説明や当時の歴史がしからしめた認識の限界性だけを云々するだけでは終らないものであることは、既に正常な情感を具えた一般人に充分分っているところである。人類が今日まで夥しい努力と犠牲によって押しすすめて来た文化の蓄積を最も豊富、活溌に人間性の開花に資するようにうけとり活用して、そのような動的形態の中に脈々と燃える人間精神の不撓な前進の美を感得することは、何故これらの批評家にとってこれ程まで感情的に承認しにくいことなのであろう? これらの人々の内心がどんなカラクリで昏迷していればとて、文化上のガンジーさんの糸車にしがみついて、人類の進歩をうしろへうしろへと繰り戻して行きたいのであろうか?
 亀井氏の説に従えばレーニンは未来を担う子供達を愛称しながら「遙かなる憧れ」としてそれを抱いていたから「スターリンは権力をもってマルクス・レーニンの芸術的意志を民衆に強制すべきである。マルクス・レーニンの次に来るものは奴隷なき希臘ギリシャ主義者ネロでなければならない」のだそうである。「文化の再生には、必ずかれたもの、狂信者、専制者を必要とする」と断言されるに至って、人々は一陣の無気味な風を肌に感ぜざるを得ないのである。

        何と解するかの問題

 同じ「文芸批評の行方」という『中央公論』の論文の中で小林秀雄氏は、この半歳以来世間が「文学界」的空気と目して来ている一種の政論的傾向に対する弁解として「文学的思想が、種々な条件からどんなに政治的思想と歩を合わせようとしても、根本的な点で一致することは出来ない。文学的思想の価値は現実的価値ではない、象徴的価値だ」と云っている。「アクチュアルなものから永続的なものへの憧憬」であるとして、マルクスの「経済学批判序説」にある文句が引用されているのである。
 読者の全部が「経済学批判」を読んでいるとは思われず、私も亦マルクス学者でないから知らないが、引用している文章――
「困難は、ギリシャ芸術及び史詩が或る社会的発達形態と結びついているのを理解することに在るのではない。困難は、それらが今も尚われらに芸術的享楽を与え、且つ或る点では規範として又及び難い模範として通るのを何と解するかにある」(マルクス、経済学批判序論)
だけについて見ても、ここで新しき文化の開花のための最も重要な鍵は、最後の一行、「及び難い模範として通るのを何と解するかにある」という箇処に意味深長に横えられていることがわかる。つまり、亀井氏のように文化再生のためにネロが必要であり、狂信者・専制者が必要であるという風に解するか、小林氏のように、「或る古典的作品が示す及びがたい規範的性格とは取りもなおさず、僕等が眺める当の作品を原因とする憧憬の産物に他ならない」と解するか。そのような解しかたが、小林秀雄氏の小さい一文の中でさえ、他の一方で主張されている実証的態度の主張との間にあからさまな自己撞着を示しているような誤りであることが自明であるからこそ、序説以下の「経済学批判」の方法が、今日の活ける古典として物を云うのである。
 この二つの論文及び批評家伊藤整氏によって書かれた小説「幽鬼の町」(文芸)を読んで、今日文壇で批評家として通っている諸氏の精神的性格に、芸術家として第一歩的な自己省察の健康な弾力が喪失していることを痛感したのは、恐らく私一人ではなかろうと思う。
 伊藤整氏の短い感想を折々読んで、氏は批評家が主観的に物を云う現代の常套的悪癖に犯されつつも、猶内部には「なんとか云わないではいられないもの」をもって、散漫ながら立っている文筆家であろうことと思っていた。「幽鬼の町」は、作者としてはダンテの神曲、地獄篇をひそかに脳裡に浮べて書かれたのかもしれないが、そこに地獄をも見据えて描き得る人間精神の踏んまえ、批判はなくて、作者そのものが、一箇の幽鬼であることを告白している。しかもそれは紙ばりの思想的凧に縛りつけられて下界に向って舌を出しながらふらついているオモチャの幽鬼である。
 ダンテの神曲が、後代の卑俗な研究家によって地獄、煉獄、天国の地図をつくられているのにならって、小樽市の現実的な地図などを小説の間に插入している作者の人をくった態度は、唾棄すべきである。或は、小林秀雄氏の所謂「象徴的価値」としての文学的思想の一箇の好典型であるとすれば、作者伊藤氏は少くともこの世に二人の支持的批評家をもち得ることになる。その中の一人に批評家としての自身を考えて。――
 批評と創造との仕事が一人の芸術家の内に小林氏のいうように「ディアレクティック」な作用で存在し得るためには、少くとも批判の精神と規準とが、或る場合その芸術家の主観をも超えて鞭うち、観察自省せしめ、引き上げるだけの勇気ある誠実な客観性をそなえていなければならない。主観に甘えた批評の態度が創作の芸術価値を低下させる実例を、伊藤整氏はまざまざと我らに示しているのである。
〔一九三七年七月―八月〕





底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「中外商業新報」
   1937(昭和12)年7月30日〜8月1日、3日、4日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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