現実と文学

――思意的な生活感情――

宮本百合子




 十一月号の『中央公論』に「杉垣」という短篇を書いた。その評の一つとして武田麟太郎氏の月評が『読売新聞』に出ているのを読んだ。
「勤め人夫婦が激動する時代の波濤の中でいかに理性的に生くべきかを追究する次第を叙し」「各人物の性格なぞも現代的特徴のうちに生かされてはいるし、それが矛盾に於て把握されているが、そうした矛盾した複雑性も、作者の余りにも構えた分析解明の跡が見えすぎ、如実に操られている各性格が息のかよわぬ人形であることがいよいよ哀しく読者に印象される。読後、私は妙なことを感じた。というのは、これが翻訳小説であったならば随分佳作として称讚したのではないかと云うこと。おかしな云い方だが、日本の小説性格形成の過程と、西洋的のとは、根本的に相違があるのではないか。」
 大体以上のように武田氏は云われている。
 一つの小説が発表されてからめぐり会う運命は、云わば港を出た船のようなものなのだから、それがそれぞれの風を受け、波におくられることは当然であり、作者としての私は直接作品との関係でその評について何か云おうとは思わない。けれども、武田氏の評の終りの部分は何かそこに現代日本の文学、武田氏から考えられている小説の問題が現れていて、今日の生活感情と文学のリアリティーの問題として感興を動かされるものがあった。
 文学として見た場合、日本の小説であろうと西洋の小説であろうとその作品の中で描かれている人間が単に人形であるなら、その作品を佳作と云ったり出来ないことは明らかであると思う。又、日本の現実の中で日本の人間が動いている小説を、外国小説ならばという仮定で云えないことも自明であるから、武田氏が云いたかったところは、自身書かれた文章のそういう矛盾のうちにふくまれている、日本の小説の性格形成の過程は西洋の小説とちがうということにある、作家の現実への態度について一個の芸術家としての感じかたであったろう。

 この間うち、散文精神というようなことが考え直され、論議された。この散文精神という表現は武田さんが三四年前云い出されたことで、云い出された心持には、現実に肉迫して行ってそこにあるものをそれなり描き出すことで、現代のあるがままの姿そのものに語らしめようという気持が基調となっていたと思う。現実の複雑な力のきつさに芸術精神が圧倒される徴候がまだ目新しいものとして感じられていた当時、西鶴の名とともに云われたこの散文精神ということは、のしかかって来る現実に我からまびれて行こう、そしてそこから何かを再現しようという意味で、文学上、一つの意気の示されたものであった。
 しかしながら、散文精神の発足にやはり時代のかげが落ちていて、芸術が現実へ働きかけてゆく面からそれが云われず、どちらかと云うと、現実の反映としての小説をより見たことは、散文精神が、市井風俗小説を多産するに至ったことで裏づけられている。
 先達てうち、再び散文精神ということがとりあげられた。それは要するにその点の再吟味であり、散文精神が今日の文学の受動性の枠づけとならぬよう、文学のリアリティーを風俗小説の範囲にとじこめぬよう、そのことが論ぜられたのであったと思われる。

 この二三年来、各作家はめいめいの個人の生きかたというものに、これ迄とちがった腰の据えかたをしており、そこでの実感というものが、文学の上で多くのものを語る因子となって来ている。そのこととして、これはもとよりわるいことでないし、一種の政治性で文学が吹きまくられ一律化されようとした危険のあったとき、それは必然に作家の文学というものへの本能から生じた文学の成長を護る態度であった。
 だが、生活の実感、生ける姿というものはどういうものなのだろうか。
 私はよく思うのだが、例えば、現代の日本の生活感情・文学の実感のなかで、今日現実に多くの人々が心に抱いて生きている思意的な感情というものは、どう生かされ描き出され人生に評価されているであろうか、と。日本の今日の文学は、人間感情のリアリティーとして思意的な感情というものを所謂いわゆる理性とか理知とかいう古風な形式にしたがった心理の分類によらぬ情緒そのもののリズムとして、情感として、どこまで承認し且それを描き出しているであろうか、と。
 これは明日への文学の課題としても面白いところではないかと考えられる。
 現代の日本の文学へは、行動の感覚と未だ区分されていない程度のものとして意力的な感情が少くない分量でもち込まれて来ている。それは、或る場面での実感の肯定として現れて来ている。思意的な生活感情は、そのような実感の吟味から表現されるとともに、あらゆる行動を行動のなかで消してしまわずそれを人生の歴史のうちに、生活の集積としてもたらして来る力となる種類のものである。

 アランの言葉と云うと、その思意的な情感がうけとられ、評価され、国産であると思意的な人間感情そのものの存在が理知と一つにされたりリアリティーが疑われるというようなことがあれば、そこにはやはり今日の日本の文学、或は作家の心というものが考えられるわけではなかろうか。自然主義の時代からからんで来ているそういう思意的な感情の発育の不完全さは一般の社会生活のありようと密接な歴史をともにしているものであり、そういう環境の中でおのずから我々の思意的な感情も今日にあって猶粗末なものであり、低いものであろうということも考えざるを得ない。

 日本小説の性格形成の過程と西洋的なのとは根本的に相異があると武田氏が云われるとき、私の心には、それに連関する一つの事実として以上のようなことが浮んだのであった。そして、そのことから武田氏の結論をそれなり肯定するよりも、日本の小説性格形成の過程そのもののうちに既にある変化が生じているという感じをつよめ、同時に、現実から受け再びそれを現実へ積極な何ものかとしてもたらしてゆく生活感情そのものに、皮膚とともにきわめて日本らしきそのもののうちに、或る変化が生じていることを感じ直す心持に動かされるのである。客観的に今日の文化がそういう欲求を内包しているからこそ、散文精神の見直しが試みられもしたのであったろうと思う。
〔一九三九年十一月〕





底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「帝国大学新聞」
   1939(昭和14)年11月20日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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