生粋の芸術的な作品が私たちに与える深い精神の
この間、アランの『文学語録』という本を頂いた。はじめの方に散文と詩とのことが語られているところがある。アランに云わせると、散文は自己自身と他からの働きかけとの間の調整を求めるのを法則としていて、従って外的ないろいろな力に追いまわされもするものであるが、歌・詩は、自己の均衡の上に築かれていて自身の諸部分のあいだに諧和を求めるもの、従って歌は人間の救われている状況の建築を表現し、強く直立しているかたちを表現する、という風に見られている。
面白いのは、私たち散文をもって全人間の生きている姿をとらえようと願っているものは、散文を、アランのようには考えていないことである。散文と詩とを、アランのようなポイントから外的なもの内的なものとしていない。唯受動的に自己自身と他からの働きかけの間の調整を求めるもの、ただ合図の叫びとして在るのではなく、散文は自己と外からのものとの間から生れた更に新しい一つの人生的な価値を、創作の過程、作品の現実のうちに帰服させつつ、それに拠りたのんでゆくものである。
散文が、芸術の言葉として生かされるとき、もし人間の救われている状態を内包することの出来ないものなら、どうして散文でかかれた一つの壮大な悲劇が、悲劇においてさえ猶芸術は人間の精神をよろこばせるという意味ふかく豊富なおどろきを与え得よう。アランの散文と詩の区別のようなところにひっかかっているものだから、現代の散文精神の屈伏があり、美が喪われている。
〔一九四〇年二月〕