作家に語りかける言葉

――『現代文学論』にふれて――

宮本百合子




 窪川鶴次郎さんの『現代文学論』の、尨大な一冊を読み進んでゆくうちに、特別感興をそそられたことがある。それは、論ぜられているそのことが、論として読者である私を承服させるというばかりでなく、一つ一つと読み深めてゆくにつれて私のなかの作家としての心が目醒され、ヒントをうけ、身じろぎを始めて文学への情愛を一層しみじみと抱き直すような感情におかれた点である。
 このことは、六百六十一頁もあるこの文学論集を貫く一つの特別な味であると思う。そして、この著者が『文芸』二月号に書いている「私の批評家的生い立ち」と合わせて、私は永年の友達であるこの著者の人柄や心持ちなどの真髄を、あらためて印象のうちに纏められたような心持がした。
 いきなり人について云いはじめるのは妙なようだけれども、先頃『現代文学論』の評として書かれた或る文章のなかに、窪川という人は、ひとが皆馬鹿に見えるのじゃないだろうかというような言葉があって、それを読んだとき何だか喫驚びっくりした。博覧であるとか、強記であるとかいうことは、それだけ切りはなして云われれば全く意味も価値もないことだし、よしんば、それらの条件を批評家として活かしているにしろ、やはりひとが馬鹿に見えるというようなことと一つことにはならないだろうと思われる。
『現代文学論』を読むと、著者の気質は、ひとが馬鹿に見えるというような或る意味でののほほんとは、全然対蹠的だということがわかる。寧ろ、「私の批評家的生い立ち」の前半に語られているように、「評論を書いていると、論理の容赦なき発展が、逆に私自身に何か哀愁をさえ感じさせる」という感じやすさがつよく現れている。評論における「現実認識の直接性が、自己の生身の存在に対して上位にあるかの如き意識を絶えず感じさせられている。批評家は作家たちに対してのみならず自分自身に対しても照れ臭いのである」これもなかなか含蓄のある感情だと思う。この著者が、そのようにして批評家として自分の書くものから蒙る「逆作用」のなかに生きつつ、他の多くの例に見るように、それへの内面的抵抗を、歪んでも自分で歪みの見えない主観のなかに立てこもることで、即ち評論から随想へ転落する方便に求めていず、刻々の生きた動を執拗に文学の原理的な問題に引きよせて理論的に追究しようと努力しているというのも、つまりは批評というものがそれとして、批評家の意識や能力にかかわらず指導性をもつものであるという、その現実に向っての忠実さによるものなのだと思われる。
 もし『現代文学論』に何かの物足りなさを感じる読者があるとすれば、その理由の一つには、昨今、評論と随想との区別がごちゃごちゃになって多くの評論家は現実評価のよりどころを失ったとともに自分の身ぶり、スタイル、ものの云いまわしというようなところで読者をとらえてゆく術に長けて来ているため、読者の感覚が、現実と論理の奇術は行わない本筋の評論の骨格になじみにくくされていることがあげられるのではなかろうか。
 更に本筋の評論として、まだもっと何かをと求めるものが読者の心にあるとすれば、それは、この著者がこれまではどこやらいつも自分の照れ臭さを克服しきれないで、一気に自分の主題を歩きぬけて来ている、その力まけのようなものから生じている線の細さというようなものでもあろうか。しかし、これは、評論家としてのこの著者の内にある、よいものが頂点まで育ち切っていないと云うことで、正当な成育を阻む性質のものがあるという意味ではないと思う。
 多くの作家たちにも恐らくこの評論集は読まれたことだろう。それらの人々の心にどんな感想が湧いただろう。それが知りたいように思う。
 この評論集には昭和九年ごろから今日までの文芸評論が収められていて、とりあげられている文学上の問題のいくつかについては、私も感想をかいたりして来た。作家の感想の範囲であるにしろ、評論に近いようなものも書く一人の読者に、この評論集が、その人間の評論的要素を刺戟しないで、作家としての心にある温い動きを与えるというところは、重ね重ねこの本の面白いところだと思う。それだけ、この『現代文学論』一冊は、評論としての正統な理論的追究と同時に、文学の芸術的因子にこまかくふれた論考であるということが云えるのだと思う。
 この十年の間に、日本の文学は実に激しい風浪にさらされた。社会の屋台骨ごと揉まれている。著者が云っているとおり、「芸術一般という概念ぐらい私たちをつよく支配しているものはない」にかかわらず、急激な濤にうたれ、洗われ、文学の問題としてそもそも芸術一般というような概念に立つ判断が、現実を正しく把握し得るものであるかどうかを十分明らかにしきらないうち、社会生活と文学とは近代文学の本質であった自我を喪失し、商業主義と政論とが混交した読者としての大衆の課題をおこし、それも身にしみてはつきつめられぬままに、純文学の通俗化を伴いつつ長篇流行が生じ、やがて今日は又短篇の愛着が見られている。大人の文学。行動主義。ヒューマニズム。報告文学。生産文学。何と夥しい呼び名がこの間に響いたことだろう。これらの声々は、ある点から見ればまことに悲痛な、今日の日本の文学における生ける人間の存在の消失に伴うつむじ風の唸りであり、作家と歴史とのめぐり合わせにおいてみれば「個人生活における一貫性」が砕けゆく過程の叫びであった。
『現代文学論』の第一篇、第三篇、第四篇、第五篇、第六篇は、次々に推移したそのような生活と文学との相貌を、具体的な個々の文学現象にふれて、文学的要因から闡明している。
 時間の上からは第一篇についで書かれた第二篇は、それらの諸問題と必然なつながりをもっていると云うばかりでなく、この評論集全巻の核心をなす重要な部分ではあるまいかと考える。日本の文芸批評は、十年ほど前に鑑賞批評、印象批評から発展して、漸々ようよう社会的文学的にある客観的な意義をもった評価を試る段階にまで達した。その推進の役割を演じたものとしてプロレタリア文学の努力は、単にその文学のためのみならず日本の文学全体としての成育のために、いつの時代になっても無視することの出来ない意味をもっている。しかしながら、この文学作品評価の基準の問題は、夥しい論議と自身の未成熟のうちに端初的な数歩を踏みだしたばかりで、以来、文学原理の課題として正当な発展はさせられないでいた。この文学評論の著者は、第二篇の「内容と形式の問題」「文学史と批評の方法」とで、主としてこの極めて大切であって同時にいろいろの偏見にとりかこまれがちな文学の価値の問題を明らかにしようとしているのである。蔵原惟人の芸術論のなかではまだ筆者自身にとって曖昧にしかとらえられていなかった芸術性というものをも、文学原理として、ここで初めてはっきり会得出来るものとして解明されている。「文学史と批評の方法」で、著者は過去の理解が、現実の歴史との関係で文学史を静的なものとし、批評を動的なものとして区別をもったまま止っていた誤りを訂して、両者の職能を密接な関連のもとに統一することをこそ、批評の本質が批評家に求めているものとしてみている。こういうものとして見ると、第二篇は、文学の原理的な問題にふれつつ、それを明かにすることによって、おのずから批評家として著者自身に向けられるべき任務の性質もひき出されて来ていることがわかる。実際に著者は、この第二篇で追究した諸点を文芸評論家としての自身の評価のよりどころ、評価の方法として、他の諸篇にふくまれた労作をなしとげている。文芸思潮史としてこの一巻をまとめることを念願したとあとがきに書かれているが、批評及び文芸思潮史の方法として、ここに示されている数歩は、日々があわただしくて人々の視線も上ずっているような今日の世相のなかで、決して瞠目的な形ではあり得まいが、しかし、文学の問題としては本質的な成長の数歩であることを、深く感じるのである。
 この著者が、どこまでもどこまでも文学は生きている人間を描くものとして、つかんでいるその勘どころを飽くまで手離さずに、理論上の歩み出しもしているところが、しんから気持よく思われる。原理的な芸術性の問題にしろ、結論の流れいずる源をさぐれば、そこには現実に生きた人間の芸術における関係があらわれる。「文学の虚構の真実」にしろ、「芸術至上主義の現代的悲劇」にしろ、「現代の創作方法論」にしろ、いずれもそれが云える。
 文学において、創作の方法というものは、何とまざまざとその作家の社会的で芸術的な生きかた全幅を示すものであろうかということも、興味ふかく考えさせられる。例えば今日云われている農民文学というものの在りようについて、又、読者としてあらわれている大衆と作家との互のかかわり合いかたの真実の姿について、著者は、創作の方法という、全く文学独特の因子からつきつめて行っている。
 作家としての心が、このような語りかけに対してとても知らんふりはしていられないように触れられるというのも、この著者がどこまでも文学の独自なものから云っているためであると思われる。
 何かを求めながら、しかもこれぞという自分の選択も定まらないままに今日いろんな小説を片はじから読んでいる読者層は、この一冊の本からどんなに多くのものを与えられるだろう。文学作品を文学の作品として理解してゆくたすけとなるばかりでなく、読者としての自分たちがこの社会の現実関係のなかで、どんな関係におかれているかも釈然として、そこから感じて来るものは浅くあるまいと信じられる。
「長篇の形式と内容の問題」で、この著者も昨今流行の長篇が、所謂力作主義ではあるけれども、文学作品としてはいずれも訴えて来るものが少く「一番つよく考えさせられることは、思想の弱さ、曖昧さである」としている。ところで、文学の思想性というような言葉は随分見かけるが、文学の内のものとしての思想とはどういうあらわれをもつのが本来なのだろうか。「それは、どんな思想でもよいから強く明確なものを欲するという意味から云うのではない。どんな思想でも芸術を美しく輝かせることが出来るとは云えないからだ。又私は、(中略)一つの名を持った特定の思想体系について云おうとしているのでもない。芸術作品について思想と云う時、それは一般的に作者が私たちの生活の中で何に注目し、それをどう理解しているかを指している。そう云っただけではまだ不充分だ。作品の与える感動の質や強弱や方向や深浅や大小を、具体的に規定している、作品のその関心や理解こそ思想であろう。感動の性質をよそにして作品から思想を抽出し、評価することは出来ない。このように考えられた作品の思想は、作品の骨組みである構成において示される。」
 こういう部分は実に面白いと思う。そして本当のことが観察されている。作品の構成が、通俗的なストーリイとしてではなく、「大きな世界をその詳細な見取図において取り扱う」筋として、「人間関係を表示する行為が、決定的に重要な意義をもって来る」ものとして会得した上で、今日流布している長篇小説のあれこれの内部にふれて思い到るとき、そこではどんなに屡々所謂事件の運びが文学本来の人間追求としての筋に代えられていたり、問題の説明としてだけ人間が動かされていたりしているかが理解される。読者としての私たちの胸に、絶えざる満ち足りなさののこされるわけも、うなずかれようというものではないか。
 このことは、作者作品と、作品がそこから創り出されて来る現実との三角関係のありようにもかかわって来ることが、「現代文学の非恒常性」のなかで、興味ふかく語られている。先ず、作品と作者との関係は、作者の主観的な意欲や創作熱意だけで解決する簡単なものではない。一方的に作者の主観的な意欲や創作熱に基いて表現的努力にばかり傾いて行くと、そこには作品の制作という作品そのものの支配はあっても、作者と作品との関係に対する作者の支配はなくなって行くばかりである。文学作品として書かれるべきものがみずからの表現を得るというのではなくて、作者自身の風俗が展開されるばかりで、「文学は自分自身に対していよいよ第三者的たらざるを得ない。」作者と作品との正常な関係は、作者の熱意と意企が、書こうとする対象に文学として明瞭な表現形式を与えようとする創作過程を、同時に、ある表現形式を与えようとする「作者の方法への自覚、反省、批判の契機において、対象がどのような現実として把握されているかということをも追求する過程たらしめるところに」成立すると云われているのである。
 多くの作家たちが、或はこれらの言葉を、わかり切ったものだとするのかもしれない。けれども、この文学をして文学たらしめる一筋の道が果してめいめいの創作過程のなかで今日十分身につけつくされているであろうか。青野季吉氏が二月の『中央公論』に「作家の凝視」ということを書いていられる。現実を凝視する粘りづよさを作家に求めているのである。作家が自身の作品に深々と腰をおろしている姿には殆ど接し得ないという、「作品と作家の間の不幸な関係は、そのままで放置すれば、作品と作家がすっかり離縁して、てんでに何処へ漂流するかも知れないのだ。小説の前途について、いろいろ不安の説を聞くが、私にとっては、その離縁がもっとも恐ろしいことに思われる。
 小説というものは、作家の誠実な生命と結びついたもので、その意味では容易に産み出されるものでなく、誰も云うように『六つかしい』ものであるが、それは創造としての小説の話であって、小説には、他の芸術でも同様であるが、作者を離れても、手芸的に制作されうる調法な抜け道がある。その抜け道を誰も彼も心得るようになっては、小説の運命はそれまでだ。
 この時勢を生きるための作家の心構えなど、いまの私には聰明ぶって説き立てる勇気はないが、私にはこう云う時勢の中で、作家にとって最も大切なものは、執拗な凝視であると強調したい一念を抑え難い。」
 日本文学のなかでたとえそれがどんな形で経験されたにしろ自然主義の時代は背後にしている私たち今日の作家にとって、現実への凝視と云う場合、それが対象への単に主観的な執拗な絡みであっては、文学を健全におしすすめる力として弱いことがわからせられていると思う。現実の凝視ということも、具体的な創作過程にあっては、つまるところ、『現代文学論』の著者の示している如き、作者と作品と、作品がそこからつくり出されて来る現実との三角関係で、作者と作品との関係に対する作者の支配が、不可欠の条件だろう。近頃の活動的と目されている作家たちが、昔の作家のように「書けない」という苦しみをどこかへおいて来てしまっていることから、いつしか生じて来た「作品と作家がすっかり離縁して、てんでに何処へ漂流するかも知れない」(作家の凝視)という「手芸的に制作され」(同上)た小説が、まともな文学へ押し出される道も、文学の道として云えば、以上の点に、深刻な連関をもっていると思うのである。
 小説が「作家の誠実な生命と結びついたもので」(同上)あるために、私たちにとっては作家の意企、作品の主題、及び創作のモチーフというものの関係も切実なものとして迫って来る。『現代文学論』第五篇の「現代文学の非恒常性」のなかで、著者はこの問題において、志賀直哉氏の言葉と横光利一氏の言葉を何と適切に対比して、批評していることだろう。
 志賀直哉氏は「テーマがあってもモチーフが自分の中に起ってくれなけりゃ書けない」という態度である。横光利一氏はそれに対してこう云っている。「いつも文学を文壇の習慣と結びつけなければ棲息出来ぬ因循さが、自然主義以来牢固として脱けず、テーマがあってもモチーフがなければ仕事は出来ぬという完成にまで達するに到った。」そして横光氏は、彼によって何ものかである如く示される自意識の整理の要としてモチーフを見ている。「作家の世界像という観念構成に関する希いは、この意識の整理の必要から生じて来たのである。これを云いかえると、近来の作家にとっては、あらゆるテーマというものは、整理の必要というモチーフから起ると言うべきである。」
 だが、モチーフとは、横光氏が云うようなそのようなものなのだろうか? 文壇の習慣と結びついた、というようなものとして、作品のモチーフが感じられるというようなことは、私たちにとっては愕きであると思う。『現代文学論』の著者が、横光氏の「意識の整理の必要」という限りでは、それは作家の意図であり得ても、個々の作品の創作におけるモチーフの説明とはなっていないとしているのは、極めて自然にうけがわれる。モチーフを、「作家の内的要求が、テーマの直観的な端緒を」とらえるものとして理解することは、私たちの心の具体的なありように即している。「モチーフとは、作品にとっては作者なる母体につながる臍の緒である」本当にそうではないだろうか。
 例えば青野氏が真情をこめて「小説というものは、作家の誠実な生命と結びついたもので、その意味では容易に生み出されるものでなく」と云われる場合、モチーフの健全で真正直な理解なしに、作家はどこから自分の作品への血脈を見出して来ることが出来よう。モチーフは、テーマの直観的な端緒と云うとき、その現実の内容は豊富きわまりなく、或る一つの作品を一貫する文学的感動のニュアンスをきめるものもモチーフである。作者と作品と作品のつくられて来る現実という三つの関係へ、方向をつける必然の力として作者の胸底に湧き立って来るものも外ならぬモチーフであって、その生きた脈うつ道を辿って、作家は作品のなかに深々と腰をおろし、互の命を生き得るのである。
 臍の緒なしにつくられる「手芸的作品」氾濫の問題は、案外に大きく、真実の意味での創作の方法を見失った作家が、モチーフをさえその心胸から消して、敢て苦しまないという不幸から生じているのである。
 作家がモチーフをつよく自身の芸術的魂のうちに求めるという態度こそ、現実と自分というものの間に可能な限り自分からのヴィヴィッドで鋭い関係をとらえようとすることになる。モチーフを整理の必要として感じているとき、作家は、「在るものへの追随によって世界像を求める傾向へ」と発展せざるを得ず、今日の生活のなかで、それが文学にどのような結果をもたらすかということは、察するに余りある。所謂純文学が或る面では、案外に文学的内容を低めている動機もこのような点と切りはなしては見られまいと思われる。
 私はこの『現代文学論』から、自分としてわかっていた筈だったのに、こんな風にはっきりとは分っていなかったと自覚する多くのものを与えられた。それが非常にうれしく思える。
 そして、こんなことも思う。この著者が『文芸』の文章のなかで「兎に角小説をかきつづけていたらもっと人間がよくなっているのではないかと思うことがある」と云っているけれども、それも、決して一概に小説とは云えず、今日小説を書き並べているものが、人間としてよくなっているかどうか、大した疑問だとも云えるのではあるまいか、と。著者が益々、文芸批評の本来性として在る極々の要因を、情熱の源泉として身につけて、細密にして柔軟、逞しい成長をとげてくれることを切望するのは、作家としても決して私一人ではなかろうと思っている。
〔一九四〇年三月〕





底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「日本評論」
   1940(昭和15)年3月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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