鴎外・芥川・菊池の歴史小説

宮本百合子




 森鴎外の「歴史もの」は、大正元年十月の中央公論に「興津彌五右衛門の遺書」が載せられたのが第一作であった。そして、斎藤茂吉氏の解説によると、この一作のかかれた動機は、その年九月十三日明治大帝の御大葬にあたって乃木大将夫妻の殉死があった。夜半青山の御大葬式場から退出しての帰途、その噂をきいて「予半信半疑す」と日記にかかれているそうである。つづいて、鴎外は乃木夫妻の納棺式に臨み、十八日の葬式にも列った。同日の日記に「興津彌五右衛門を艸して中央公論に寄す」とあって、乃木夫妻の死を知った十四日から三日ぐらいの間に、しかもその間には夫妻の納棺式や葬儀に列しつつ、この作品は書かれたのであった。
 十四日に噂をきいた折は「半信半疑す」という感情におかれた鴎外が、つづく三日ばかりの間に、この作品を書かずにいられなくなって行った心持の必然はなかなか面白い。一応の常識に、半信半疑という驚きで受けられた乃木夫妻の死は、あと三日ほどの間に、鴎外の心の中で、その行為として十分肯ける内的動因が見出されたのであろう。夫妻の生涯をそこに閉じさせたその動因は、老いた武将夫妻にとっての必然であって、従って、なまものじりの当時の常識批判は片腹痛く苦々しいものに感じられたのであったろう。興津彌五右衛門が正徳四年に主人である細川三斎公の十三回忌に、船岡山の麓で切腹した。その殉死の理由は、それから三十年も昔、主命によって長崎に渡り、南蛮渡来の伽羅の香木を買いに行ったとき、本木もときを買うか末木すえきを買うかという口論から、本木説を固守した彌五右衛門は相役横田から仕かけられてその男を只一打に討ち果した。彌五右衛門は「それがしは只主命と申物が大切なるにて、主君あの城を落せと被仰候わば、鉄壁なりとも乗りとり可申、あの首とれと被仰候わば、鬼神なりとも討ち果し可申と同じく、珍らしき品を求めて参れと被仰候えば、此上なき名物を求めん所存なり」という封建武人のモラルに立って、計らず相役と事を生じるに至った。伽羅の本木を買ってかえった彌五右衛門は切腹被仰附度と願ったが、その香木が見事な逸物で早速「初音」と銘をつけた三斎公は、天晴なりとして、討たれた横田嫡子を御前によび出し、盃をとりかわさせて意趣をふくまざる旨を誓言させた。その後、その香木は「白菊」と銘を改め細川家にとって数々の名誉を与えるものとなったのであるが、彌五右衛門は、三斎公に助命された恩義を思って、江戸詰御留守居という義務からやっと自由になった十三年目に、欣然として殉死した。三斎公の言葉として、作者鴎外は、「総て功利の念を以て物を視候わば、此の世に尊き物はなくなるべし」と云っている。乃木夫妻の死という行為に対して、初めは半信半疑であった作者が、世論の様々を耳にして、一つの情熱を身内に感じるようになって彌五右衛門が恩義によって死した心を描いたのは作者の精神の構造がそこに映っている意味からも面白いと思う。当時五十歳になっていた森鴎外は、このような生々しい動機から我知らず彼の一つらなりの「歴史もの」に歩み出したのであった。
 封建のモラルをそれなりその無垢を美しさとして肯定して書いた第一作から、第二作の「阿部一族」迄の間には、作者鴎外の客観性も現実性も深く大きく展開されている。芸術家としての鴎外が興津彌五右衛門の境地にのみとどまり得ないで、一年ののちには更に社会的に、その社会を客観する意味で歴史的に、殉死というテーマをくりかえし発展させて省察している点は、後代からも関心をもって観察せられるべきであろうと思う。
「阿部一族」を鴎外自身、殉死小説と日記に書いているのだそうだが、この作品は決して単純にその一面だけに主点のおかれた内容ではない。鴎外はこの作品において、封建時代の武士のモラル、生活感情のなかで殉死の許可の有る無しはどのような社会的評価と見られる習慣であったか、殉死を許す主君の心理に、経済事情に迄及ぶどんな現実的な臣下への考慮もふくまれたかということなどを、殉死を許されなかった阿部一族の悲劇をとおして、規模大きく描き出しているのである。作品の縦糸としては、細川忠利と家臣阿部彌一右衛門との間にある永年の感情的なしこりが、性格と性格との間に生じるさけがたい共感と反撥の姿として周密にとりあげられている。細川忠利は、初めは只なんとなく彌一右衛門の云うことをすらりときけない心持で暮していたのだが、後には、彌一右衛門が意地で落度なく勤めるのを知って憎悪を感じるようになって来た。しかし、聰明な忠利は、憎いとは思いながら、何故彌一右衛門がそうなったかと考えると、それはつまり自分が仕向けたのだと気づかざるを得ない。しかも、そう気づきつつ改められないで、最期の床に横わった忠利に向って、幾度も殉死を願う阿部彌一右衛門の顔を見、声をきくとどうしても「いや、どうぞ光尚に奉公してくれい」という返事しか忠利の喉を出て来ないのである。
 追腹を切って阿部彌一右衛門は死んでしまったが、そうやって死んでも阿部一族への家中かちゅうの侮蔑は深まるばかりで、その重圧に鬱屈した当主の権兵衛が先代の一周忌の焼香の席で、もとどりを我から押し切って、先君の位牌に供え、武士を捨てようとの決心を示した。これが無礼と見られ遂に権兵衛は縛り首にされ、一族は山崎の屋敷で悲惨な最期をとげてしまった。
 武家時代の社会で君臣という動かしがたい社会の枠の中に、このようになまなまと恐ろしい人間性格の相剋が現実すること、そして、その相剋する力がその枠をとりのぞく作用としては在り得ないで、その枠内で揉み合って、枠内のしきたりによって悲劇の終末へまで運ばれてゆくのが、常に正直一途な家臣としての運命でなければならなかった事情を、鴎外はいくつかの插話を興味ふかく配置しつつ立派に描写している。人間一人の生きかた、或は生かせかた。死にかた、或は死なせかたの諸相が、その時代のものとしてこの一篇には実にまざまざと多面的に取上げられている。人間同士の友誼が、対手の死なせかたに表現されなければならなかった当時のモラルも柄本又七郎の行動で表徴されているし、悪意ある方策によってかまえられた名誉の前に、生きるに生きがたい死を敢てする若い竹内数馬の苦痛に満たされた行動は、内藤長十郎が報謝と賠償の唯一の道として全意志を傾けて忠利から殉死の許可を獲て、それで己は家族を安穏な地位に置いて、安んじて死ぬことが出来ると、晴々と昼寝してから腹を切りに菩提所東光院に赴いた心理に対蹠する、複雑なかげとして忠利の死という一事をめぐっているのである。
 武家気質というものをそれなり歴史のなかのものと承認して、その心理の範疇のなかへ近代人としての鴎外が整理と観察の光りを射こんだ創作態度から云うと、この「阿部一族」は内容、構成、文章等最も傑出した作品である。
 今日の私たちにとって、森鴎外のこういう歴史への態度は、おのずからいろいろのことを考えさせると思う。「興津彌五右衛門の遺書」は、鴎外が人間の異常な行動のモメントとして、強烈な感銘を本人に与えた一片の恩義が猶よくその人の生命を左右する力をもっていることを、美と感じたロマンティックな創作動因に立っている。封建の思惟をロマンティックな作者の精神高揚でつつんだものであった。
「阿部一族」では、そのようなロマンティックな要素も作品の一つの色彩とはしつつ、作者はぐっとリアリスティックに心理と経済の事情にまで広く多岐に踏みこんで、一人の君主の死が、武家社会に波及させた悲劇と生死の幾とおりもの姿を描き出している。作者はこの事件をめぐる総ての人々の心理を、その時代のそのものとして肯定して描き出している。阿部一族の悲劇は悲劇として深い同情をもって映されていて、そこに作者の人間性においての抗議や批判は表現されていないのである。これは特に私たちの注意をひく点ではなかろうか。鴎外が、この時代の悲劇はその時代のものとして、人々の感情行動の必然のモメントをもその範囲において描いたということは、鴎外が歴史というものを扱った態度の正当な一面であったと思う。誤った近代化や機械的な現代化はちっとも行われていない。そのことは作品の自然さと重厚な真実性とをもたらしているのであるけれども、例えば「阿部一族」の読者は、精彩にみち、実感にふれて来るこの雄大な一作をよんだのち、満足とともに何とはなし自分の体がもう一寸何かにぶつかる味を味ってみたかったような気分に置かれることはないだろうか。いかにも完成された作品であり、豊かな完璧な作品にちがいない。だが、もう一寸何か皮膚にじかにふれて来る何かがあってもよくはないか。そんな感想にとらわれることはないだろうか。
 鴎外は芸術家として生れ合わせた明治という時代の特質を、漱石とは異った組み合わせで身につけていた人であったと思う。ロマンティックな要素、そしてその反面に根をはっている封建風なもの、この両者はそれぞれ独自なニュアンスをなして、云わばこの卓抜な二人の作家の正直さ、善良さ、真摯さの故に矛盾をも明かに示しつつ、生涯の実生活と作品とを綾どっている。
 今日の日本の若い精神も、つきつめたところにはまだこの血脈をひいていることは争えない。それでいながら、新らしきもの、古きものが溌剌と活溌に矛盾のままを発揚し、そのことによって発育してゆく可能を喪失して、一方では極めて低く単一化されている姿は、過去の歴史に対する今日の歴史の本質として深い省察と苦悩とを与えるものだが、それ故にこそ、なお鴎外の「阿部一族」の完成の上に更に何かを感じ求める今日の読者の心持は、今日の心として肯定され評価されてなければならないのではあるまいか。
「阿部一族」に対する読者の満足と同時に感じられるもう一寸何かというこの発展の欲求は、又作者鴎外の心にも感じられていたらしい。
「佐橋甚五郎」は「阿部一族」が書かれたと同じ大正二年に、二ヵ月ほどおくれて執筆されている。家康とその臣佐橋甚五郎という武芸に秀で笛の上手で剃刀のような男とが、一くせも二くせもある人物同士が互に互を嗅ぎ合い、警戒し合う刹那の心理の火花から、佐橋が家康の許を逐電する。二十四年後、朝鮮から来た三人の使者のうち喬僉知と名乗っているのが、家康の六十六歳の眼にその朝鮮人こそ正しく佐橋甚五郎と映った。「太い奴、好うも朝鮮人になりすましおった。」そして、怱々そうそうにして土地を立たせろと命じた。佐橋甚五郎が小姓だったとき同じ小姓の蜂谷を殺害したそのいきさつも、その償として甲斐の甘利の寝首を掻いた前後のいきさつも、主人である家康の命には決してそむいていないのだが、やりかたに何とも云えぬ冷酷鋭利なところがあって、家康は手放しては使いたくない人物だという危険を感じている。その家康の心を知った佐橋は、「ふんと鼻から息を漏して軽く頷いて」つと座を起って退出したなり逐電したのであった。
 岩波文庫本の解説で、斎藤茂吉氏は「甚五郎という人物はやはり鴎外好みの一人と謂って好いであろう」と云っておられるが、鴎外はこの佐橋の生涯の行きかた、それへの家康の忘れない戒心というものを、只、好みの人物という視点から扱ったのだろうか。
 阿部彌一右衛門は、人間の性格的相剋を主従という封建の垣のうちに日夜まむきにひしめきとおして遂に、悲劇的終焉を迎えたが、佐橋は君主である家康がおのれに気を許さぬ本心を知ったとき、恐ろしく冷やかな判断で、そのように狭くやがては己が身の上に落ちかかって来るに相異ない封建の垣を我から一飛びに飛び越して逐電した。鴎外はこの性格の対照、君臣のしきたりに対する態度の対照を面白いと思って佐橋甚五郎という短篇を書いたと思われる。
 佐橋と阿部とは生きかたに於て正反対であるけれども、それはやはり飽く迄性格的なものとして見られていて、作者は、佐橋の朝鮮までの高とびの因子が、到るところに垣を結っている息苦しいその時代の君臣関係の、臣として求められる限界性への反作用という点でテーマを扱ってはいないのである。結われてある社会的な垣は垣として存在を肯定して見られているのである。
「高瀬舟」は、大正四年の作で、鴎外の歴史ものとしては、どれよりもはっきり、社会通念への疑問をテーマとしてかかれたものと思われる。「高瀬舟縁起」という文章で、鴎外は「翁草」によっているこの短い作の中に「二つの大きい問題が含まれていると思った」ことを述べている。「一つは財産というものの観念である。」「今一つは、死に掛っていて死なれずに苦しんでいる人を死なせてやるということである。」即ちユウタナジイの問題である。高瀬舟の罪人喜助の場合はそれであったように思われる。その二つの点を面白く思って高瀬舟が執筆されたのであった。
「高瀬舟」の書かれたそれらの動機を今日に見る面白さは、「佐橋甚五郎」あたり迄の作品では、武家気質そのものが個人の主観の内容をも表現の形式をもなしているままに歴史を描いて来た作者が、「高瀬舟」では通念の代弁者である小役人庄兵衛に対して、全く個人の主観に立って安心立命をも得ており、弟殺しとして罪に問われたことも自分には十分わかっている真の動機からその心を腐らせるものとはなっていない不幸な喜助の個人の必然としての主観の世界を正面から扱っている点である。
 先にふれた三つの物語の時代より、この「高瀬舟」はずっと後代の物語であり、一方は武士社会のことであり、これは姓も持たない白河楽翁時代の江戸の一窮民の運命である。鴎外が、当時の江戸の庶民生活のありようの一典型として喜助のめぐり会わせを追究していないとこも、一方には注目される。作者を動かしたつよいモティーヴの一つであるユウタナジイの問題にしろ、同じ事情が武士の兄弟の間におこったとしたら、当時の通念はそれを庶民喜助の場合に対してと同様に判断したであろうか。兄と弟という順を逆にして弟と兄とのことであったら、どうであったろう。これらの点についての社会の判断は明らかに武士と庶民に対して違った標準で見られたであろうと思える。弟と兄と逆になればおのずと違ったものの在ったろうと思えるのも、時代が封建であったからである。
 財産についての観念も、扶持もちの侍と喜助とでは全く別世界のものである。
 鴎外は、歴史小説という意味では、「高瀬舟」の中に、このいずれの点をも追究していない。作者としての主観にいきなり立って、財産についての観念、ユウタナジイの問題に興味をひかれているところがまた私たちには面白い。鴎外の主観は、一方に昔ながらのものを持ちつつも、やはり明治は四十五年を経て大正と進んで来ている時代の知識人の主観であって、その主観は既に身分としての武士と庶民とを自身の感覚のうちに感じ分けてはいず一般人間性にひろがっている。一般人間性のこととして、喜助の財産の観念にもユウタナジイのことにも興味をひかれている。鴎外のこの進歩性に立つ面も、更に一層歴史に対する観念の進んだ立場から顧みられるとき、彼が一般人間性に歩み出した新しさに止って、人間性をその先で具体的な相異においている社会的な関係へは洞察を向けていないことで、それ自身一つの歴史的限界を示しているのは、何と意味深いところであろう。
 鴎外の歴史小説が、その本質に於て作者の主観の傾向に沿って一般的な人間性の方向へひろがって行ったことは、「寒山拾得」にも十分うかがえるし、「じいさんばあさん」のような余韻漂渺たる短篇にもあらわれている。
 この過程を通って、やがて鴎外が「椙原すぎのはら品」のような事実に即した作品をかくようになり、大正五年からは「澀江抽斎」「伊沢蘭軒」等の事実小説と云われている長篇伝記を書くようになったことも様々に考えられる。
 歴史小説において、歴史の時代的な枠としての社会関係を明瞭に意識し、その枠に支配される人間の苛烈な相互関係を現実的に把握せず、枠は枠なりにしてその内での範囲で人間を見てゆけば、作者の近代の心の主観で、それが当時の身分の差に内容づけられない一般的な人間性として感じられるようになるのは当然の道行きと思われる。しかも、鴎外の実生活の閲歴は、人間の主観が客観の世間では誤って評価される場合もある悲劇を熟知しており、むごく扱われる結果のあるのも熟知している。作者の主観に足場をおいて達観すれば、やがて、そのような主観と客観との噛み合いを作家としての歴史の底流をなす社会的なものへの判断で追究し整理するより、現象そのままの姿でそれを再現し語らしめようという考えに到達することは推察にかたくない。特に自身の生活態度に於ては封建的なものの一つとして世俗な力に従う傾向のあった鴎外がほかならぬこの道を、歴史小説に於て辿ったことも肯けるのである。
 鴎外の歴史的題材を扱った作品の、ほぼ「栗山大膳」ぐらいまでを歴史小説と云い、「澀江抽斎」「伊沢蘭軒」などを事実小説とする斎藤茂吉氏の区分も、私たちには何となしぴったりしない。最後の二作は伝記であると思われる。小説という文字が使われなければならないとすれば、それは伝記小説と呼ばれてはいけないのだろうか。

 芥川龍之介が、漱石に推賞されたのは「鼻」という歴史的な題材による作品であった。「羅生門」「地獄変」「戯作三昧」その他、芥川龍之介の作品には歴史的な人物を主人公としたり、古い物語のなかに描かれている人物をかりた作品が多い。
 大体、大正初頭、鴎外が歴史小説に手を染めはじめた時分から数年間、日本の文学に歴史的な材料を扱った作品が多くあらわれた。そして、それが、各々の作家たちを新しい道に押し出し或は文学に初登場させたばかりでなく、それから後につづく十年の間にそれらの作家たちが時代の推移につれて激しく社会と文学とに揉みぬかれなければならなかった。その時に当って、各作家が自身のものとして示した生きかたの萌芽が、すでに、この大正初頭の、歴史的素材へ向う各作家の態度のうちに含まれていたということは、歴史的文学のこととして今日私たちに実に教うるものが多い点だと思う。
「地獄変」「戯作三昧」にしろ、芥川龍之介が王朝の画匠や曲亭馬琴を主人公としてその作を書いたのは、決して所謂歴史小説を書こうためではなかった。人物と時代とを過去にかりて、テーマは作者自身の現実生活に横わっている芸術上の勇猛心を描こうと試みたものであり、或は文学における芸術性と社会性との問題についての疑いを語ろうとしたものであった。テーマは作者の主観において極めて生々しいものであり、当時の日本の文学の諸相との関係では、文学論議の中心課題をなした問題であるという客観的な重要さも持っていた。芥川龍之介は、それらのテーマを何故、殊更絵巻風の色調に「地獄変」として書かなければならず、侘びの加った晩年の馬琴の述懐として行燈とともに描き出されなければならなかったのだろうか。
 芥川龍之介という作家は、都会人的な複雑な自身の環境から、その生い立ちとともに与えられた資質や一種の美的姿勢や敏感さから、それらのテーマが主観のうちに重大であり、客観的に注目をひくものであればあるだけ、いきなりの表現で描き出すことは避けてゆくたちの作家であったと思う。重要な作品のテーマであれば、それにふさわしい表現の手段が彼としては無くてはならず、しかも、西欧の文学に通暁していたこの作者が、題材として手柔らかな、纏めやすく拵えやすい過去の情景へ向ってそれを求めたということの精神の機微にも目をひかれる。西欧の芸術家、たとえばトルストイなどは、身近な芸術上の巨人として、文学の芸術性と社会性との問題などでは身を挺して苦悩し、その判断に矛盾をも示した芸術家であったと思う。芥川龍之介の精神は、何故この或る日のトルストイを作品の主人公とはせず馬琴を択んだろう。
 芥川は日本の作家である。其故という説明も心理の一つの必然にはふれている。しかし、そればかりではないものもある。芥川のなかに潜んでいた或る弱さ、或る常識的な賢さ、それらのものも、彼の目を馬琴に向けさせる力となったと云える。馬琴自身は芸術の問題として芥川が「戯作三昧」に描き出したテーマの性質に於ては、苦悩しなかった人である。そこにえきれない時代の相異が横わっている。歴史の必然がある。芥川龍之介は、文学的風趣によってそこをさりげなく、知らぬふりに歩みこしているのである。
 歴史に向ってのここの作家的態度は、恐ろしいほど複雑で且つ心理的なものであったから、芥川は、時代の歴史の濤が益々つよく激しく我が身辺にたぎり立ったとき、彼の主観に亡霊のように立ちこめた「何となしの不安」を歴史の眼によって抱きとることも出来ず、克服することも不可能であった。主観は主観の無限地獄を掘り穿って、そこに彼の犀鋭な精神は没入し去ってしまったのであった。
 芥川龍之介の歴史に対する態度、それが彼の人及び芸術家としていかなる必然に立っていたかということは、同時代人である菊池寛の歴史的素材を扱った初期の短篇をみると、驚くべき対照をなして愈々明白である。
 菊池寛の「忠直卿行状記」以下三十篇ちかい歴史的素材の小説も、やはり歴史小説でないことでは芥川の扱いかたに似ているが、芥川龍之介が知的懐疑、芸術至上の精神、美感、人生的哀感の表現として過去に題材を求めたのとは異って、菊池寛は、自身が日常に感じる生活への判断をテーマとして表現するために歴史上の事柄、人物をとりあげて作品を描いているのである。
「忠直卿行状記」もそのような作品の一つである。作者は、忠直卿という若い激しい性格の封建の主君が、君臣関係のしきたりによって自分がおかれている偽りの世界への憤懣から遂に狂猛な暴君のようになり、隠居とともに天空快闊となった次第を語っている。作者は忠直卿とともに、人間関係の真率、偽りなさ、まことの現実を求める人間の情熱を辿ってはいるが、虚偽を生む社会関係を主体的に忠直卿から判断させてはいない。被動的に隠居仰せつけられその外力によって、社会関係の一部が変えられる迄は、さながら、自分からの解決の方法はないように旧態にとどまっている。ここが作者の人生態度としてもなかなか面白い点であろうと思う。忠直卿は、昔の殿様としてはびっくりするくらいむき出しのヒューメンな若者として扱われており、その点では作者が一見常識を蹴とばしているようだのに、さてそれならそのように苦しむ自分を虚偽と知らぬ虚偽でとりかこみ、それを命にかけて守っている者どもとの関係を我から一擲変更して、ええ面倒な、と隠居してしまうところまで飛躍してはいない。やはり仰せつけられるまではそこにいて、自分と周囲を不幸にしている。世の中をそのようなものとして、作者は見ているのである。
 菊池寛は、歴史的題材をあつかったあらゆるテーマ小説で、封建的な勇壮の観念、悲愴の伝統、絶対性への屈服、恩と云い讐というものの実体等に対して、真正面からの追究を試みている。菊池寛は文学的出発において、バアナード・ショウの影響を蒙って一種の合理主義の人生観に立っていたと云われている。けれども、彼におけるその合理主義は決してショウのものではなくて、菊池寛という一個の日本の作家の身についているものであったことは、その合理性そのものが、当時の日本の思想と文学潮流とにとって或る意味では生新なものであったにかかわらず、本質の要素に日本の自然主義的な日常性と常識とをひきついでいたことからも明らかであると思われる。
 この点でも菊池寛は芥川龍之介と対蹠をなしている。
 菊池寛は、「三浦右衛門の最後」「俊寛」等で武士道徳のしきたりよりも更に強い人間の生命への執着と生の力の強靭さというようなものをその原形において押し出している。風変りな俊寛は、鬼界ヶ島で鬼と化した謡曲文学の観念を吹きはらって、勇壮にぶり釣りを行い、耕作を行い、土人の娘を妻として子供を五人生み、有王を驚殺するのである。日本の封建の伝統が近代日本の心にも伝えている生命への蔑視を、これらの作品はつよく否定して、人間の生きんとする意志を肯定している。
「義民甚兵衛」が、「甚兵衛様は笑って死になさった」と数万の群集に賞めたたえられつつ、領主の磔柱の上で生涯一度の愉快そうな笑いを笑う。この笑いを作者は、惨酷に甚兵衛を扱いつづけていた継母、異母弟への報復の哄笑として描き出している。義民、英雄というものに向けられて来た、盲目な崇拝の皮を剥いで示そうとしているのである。
「極楽」の退屈さに苦しんで、地獄を語り合うときばかりは蓮のうてなに居並ぶ老夫婦の眼に輝きが添う姿、「羽衣」をかたに天女を妻とした伯龍が、女の天人性に悩まされて、三ヵ月の契約をこちらから辞そうとしたら「天に偽りなきものを」と居つづけられて、つよい神経衰弱に陥ったという物語は、何と私たちを笑わせ、そこにある一つの実際を肯かせるだろう。
 しかしながら、菊池寛のこれらの時代ものを素材としたテーマ小説をよみ終ると、私たちの心にはやがて新たな疑問が擡頭して来ることを否めない。成程、あらゆる人間はあらゆるとき生を欲している。しかしその表現の歴史としての複雑さは、三浦右衛門や俊寛の世界に描きだされているきりの形しかもたないものだろうか。生のそのようなつよい力は、死の形を積極的に変化させる力となって歴史の様々な時代にそれぞれの表現をとるのではないだろうか。義民にしろ、英雄にしろ、それに対する封建の伝習は否定して、しかも猶民衆の要求の焦点として歴史のなかに存在するものではないだろうか。そして、それは甚兵衛の場合のような周囲の必然と個人の心理を動機とするより、もっと異った人間と歴史の他の積極面で発露することもあるのではなかろうか。いろいろとそういうような詮索が感じられて来て、読者は、これらの菊池寛のテーマ小説が、人間性に率直明白に立ちつつ、それらのテーマの本質は封建世界に向ってうちかけられている疑問であるが故に生新であるが、その基本は近代常識の極めて小市民風な実際性に立つ暴露に置かれていることを理解して来ると思う。
 菊池寛のこの人生と歴史へのテーマの本質のありようが、芥川とどんなに相反するものであったかということは、大正末期、欧州大戦後の日本の社会が画期的波瀾にめぐり会ったとき、芥川はあのような生涯をとじ、菊池寛は「真珠夫人」等によって大衆文学の領域に進み出し、テーマの常識性、合理性の日本らしく低められた水準、要素そのものによって成功をかち得て今日に到っている現実に雄弁に語りつくされていると思われるのである。
 菊池寛は「義民甚兵衛」の生と死とを、あくまで人間の利害得失の打算、必要の相互関係のなかで発揮された一個人甚兵衛の彼にとって最も効果的な命のすてかた、敵の殺しかたとして観察しているのであって、そのような機会をつかんだ甚兵衛の辛辣な笑いに表現された復讐の対象に、象徴されるべきより広汎なものは掴んでいない。
「義民甚兵衛」の作者が徐々に大衆文学に移って行ったその時代に日本の文学は質的に一変転を経過して、このような個人としての利害に行動した甚兵衛も猶当時の周囲の農民の生活のありようの中でみれば、一個の犠牲であった歴史の現実までを描き出そうという努力を自覚する時期に入った。
 藤森成吉の「磔茂左衛門」片岡鉄兵の「綾里村快挙録」などは、歴史のなかにおける個人の関係を個人の自然主義風な本能的なものからのみ見ず、社会において彼等の日々の生活がおかれているその現実の諸相からの反映、又それへの主観的な働きかけの歴史性において、歴史を描こうとした小説であった。歴史そのものに働きかけてゆく歴史の力として描き出そうとしたのであった。

 今日、日本は刻々に最も深刻な歴史的な生活を経験しつつあるのであるが、歴史というものは今日の文学の中でどのように見られ、感じられ扱われているであろうか。ここに非常に錯綜した課題が在ると思う。歴史一般が、今日は重く顧みられているが、それは過去の炬火として今日へ光りをそそぐべきものとして扱われていて、今日の現実の光が過去の現実を明晰にして明日の糧とするという意嚮に立つ面は弱いと思われる。いくつかの文学作品の題材は、過去に求められて成功もしているのだけれど、その社会的なモティーヴはどこにあるだろう。今日の現実を真に歴史的に描きつくした上で創作の欲求が過去にまでさかのぼった姿であろうか。或は又、現実の文学化に堪え得ない何か事情が内外にあって人々は題材を過去にかりようとしているのであろうか。
 この問題は、今日伝記小説というもののありようとも併せて考えられなければなるまいと思う。欧米でも伝記小説は流行している由であるが、それに対して批評家は、今日のヨーロッパにおける文芸思潮の指導性の喪失の表現として観察している。日本には島崎藤村という現存の老大家を主人公とした伝記小説さえ出現している。一方、文学は質において果して今日豊饒であろうか。インフレ文学という苦笑が漲って、量が質とは相反するものとして観察されているのは如何なる理由からであろうか。
 あらゆる文学が、芸術的表現・社会表現としての性質からそうであるように、歴史文学も、歴史の現実とのかかわり合いかたによって、逃避ともなるし文学の廃頽となっても現れるということについて戒心されなければなるまいと思う。

 註 本文に引例した諸家の作品を、直接に見ようと思われる読者のために、それ等が何に収められているか(特に岩波・改造等の文庫の名)を、記して置く。
「興津彌五右衛門の遺書」・「阿部一族」・「佐橋甚五郎」(岩波文庫・『阿部一族』所収)、「高瀬舟」「寒山拾得」・「じいさんばあさん」(岩波文庫・『山椒太夫・高瀬舟』所収)、「椙原品」(鴎外全集)、「澀江抽斎」(改造文庫)、「伊沢蘭軒」・「栗山大膳」(鴎外全集)、「鼻」・「羅生門」(新潮文庫・『羅生門』所収)、「地獄変」・「戯作三昧」(新潮文庫・『傀儡師』所収)、「忠直卿行状記」・「三浦右衛門の最後」・「俊寛」・「極楽」・「羽衣」・「義民甚兵衛」(改造文庫・『恩讐の彼方へ・他二十八篇』所収)、「磔茂左衛門」(改造社刊)、「綾里村快挙録」(――)
〔一九四〇年六月〕





底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「古典研究」
   1940(昭和15)年6月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
2005年11月8日修正
青空文庫作成ファイル:
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