女流作家として私は何を求むるか

宮本百合子




 なぜ女性の中から良い芸術家が生れないか、或いはそれが生れたにしてもなぜ完成の域にまで成長しないのか、その質疑に対して私は第一に女性教育の欠陥を挙げたいと思います。個性の上に温かいはぐくみを持たない今の教育は、綜合的な人間常識を授けるにとどまって、その人の持っている質の善悪にまで敷衍されていないからです。その点から一面、人間中心芸術中心の天才教育があってもよいと思います。
 芸術家としての素質に就いて女性をどう観るかという事に就いては、私は女性にも十分に芸術家になり得る天分は賦与されていると思います。趣味の上から、その生活に湿うるおいのある点から、或いはその環境が女性の上に及ぼす体験から、到底男性に持ち得ないと思われる何ものかを持っていると思います。それがなぜ力として芸術化されにくいか、或いはその創作が多くの場合、彼女は女であるという目安の上に置かれて批判され、価値づけられているか、この点に関しては、例えば「性」の問題を取扱うとして、つぎの如きもどかしさがその創作を裏切る。即ち「性の問題」を取扱う場合も、男はそれを彼の生活の一部として虚心に口にし、芸術化し得るのに対し、女性はそれをより以上に敏覚する素質を与えられていながら、彼女がその原始時代から伝統的に培われてきた道徳性は、この問題を直ぐに善悪の批判の上に結び付けたがります。一面男性よりも性的の徹底性を持ちながら、芸術家になり切れない道徳性の為めに、フッ切れない女性の力のはがゆさが痛切に感ぜられます。
 これは僅かにその一二の例に過ぎないが、これらの点からも女性はもっともっと力強く自己を開拓する必要があると思います。

 私は過去の自分の創作やその態度に非常な飽き足りなさを感じたことから、今度の長篇に対してはこれまでとは全く異った気持で向っています。私は過去の生活が割合に順調であった為めに、それから享容うけいれた或る純真さはあったかも知れないが、他面に於て前に述べた伝統から享容れた欠点のある事も否めない事実であるから、これからは一切の不純な気持、身に附き添った色々なこだわりから離脱し、創作境そのものの中に自分を投げ捨ててかかった覚悟で仕事に掛かりたいと思います。
 今月の『新小説』の和辻哲郎氏が「入宋求法の沙門道元」に就いて書いて居られるが、あの中の「即ち十丈の竿のさきにのぼって手足を放って身心を放下する如き覚悟がなくては」という気持、あの「人を救うための求道ではない、真理の為めに真理を究める求道」であるという心境、それを私は求めたいと思います。私の目下はあの地虫が春が来てひとりでに殼を破って地上に抜け出る、あの漸進的な自然の外脱を得たいと思います。
 至純な芸術境にあって死身に仕事が出来れば結構ですが、要するに其も質の問題だと思います。エルマンをお聴きでしたか。世の中に一人あって二人とないあの芸術、物理学的な機械観念から離れた真実の心音、あの心境が創作の上に移し得られるならばと思います。名匠が仏体を刻む鑿の音、其処にあって私は仕事がして見たいと思います。私はあの里見※(「弓へん+享」、第3水準1-84-22)氏の芸術からその気持が享容れられます。
 私は創作は議論ではない力だと思います。それはお互いに争った両人の画家が、最後に無言で両人の作品を並べて其力を批判した力其物の表現だと思います。
〔一九二一年三月〕





底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「読売新聞」
   1921(大正10)年3月6日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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