今日の女流作家と時代との交渉を論ず

宮本百合子




          一

 女性からどうしてよい芸術が生れ難いか、またこれまで多く女性によって発表された作品に、どうして時代との交渉が少なかったかというような問題に対して、私は先ず第一に文芸の本質たる個人の成長ということを考てみたいと思います。私は物を見る時に、必ず個人という観念を基礎にして物を見ます。その物を見究めることに於いて、個人としての女、個人としての男に就いていうならば、その生活上に於ける色々の意味から、個人としての女の方に、ヨリ多くの欠陥が見出されます。
 今、女の立場からその個人の成長に就いていえば、――それは当然私自身のことですが、私の小さかった時代には、反って或る一種の反抗心が私に仕事をさせたものです。そしてそれは可なり純なものではあったものの、同時に単調であったに違いありません。尤も今日に於いてもそれは依然として存在していますが、そればかりでは仕事は出来ません――そうした女にのみ負わされているものが、いろいろ目前に積まれていることです。それを切り抜けるには男の知らない苦労、努力がいります。これらのものは過去の社会制度、組織、または生れながらにして与えられた性的関係――これは日本の女だけかも知れないが――女の個性の充分の発達を阻止しつつあるからではないのでしょうか。
 この芸術に専念する力を阻止するもの、今それをデリケートな問題として見るならば、生理的方面からは、女の持った細かい神経の動きが、生活感情に影響することによって、その時々の生活感情に捉われ易いことです。これは男よりも女の方が細かく、正直に、同一の物に向っても或る時は極端に悪く、或る時はこの上もなく可愛いという、感情の大きな動揺が波打つことによって、その本心が何処にあるかを知ろうとすること、それに就いては男よりも、女がもっと深く屡々しばしば反省する必要があるのです。それは女性に共通の一種の道徳観念とでもいうのでしょう。
 また一方から考えると、女は特別な貞操観を強いられることによって、その芸術が阻止されることになるのです。それは男性なれば極端な性欲或いは愛の葛藤も書け、そしてそれが批判される場合も、女性によって書かれたもの程つまらない好奇心を起させますまい。勿論、芸術品に対してそんな下劣な観賞者の言葉を気にする必要はないわけですが、この懸念が実際に女の心の中にあるのは、争われない事実であります。

          二

 仮りにそうしたデリケートな場合を想像するならば、此処に一人の女があって、その人が大胆な恋愛の葛藤を書いたとします。と、それに就いて、自分は自分の態度を信じ、良人もまたそれを理解していてくれる。然し、それが対社会的になって、一人の人間として社会に入って行くとなると、其処にいろいろ困難な実際上の出来事が待ち設けています。例えばその作品に対する作者の自由な態度を曲解して、その本当の意味でない、作者の毫も予期しない、不真面目な事件が起り易いことです。仮りに或る会社内の事を想像してみましょう。その中の女事務員、只単に女が放たれているという自由のために、男がそれを曲解して自由な交際が其処に始まったとします。と、これは真の女性の解放ではなく、その境遇がそういう交際を形作る機会を与えたに過ぎないので、従って本当に自分の立場を知るのは其処から自分の生活を切り放さなければならないでしょう。
 また一方、女性として必然に持たねばならぬ母というものに就いていえば、母にとっては子供は大きな心の対象となるもので、一方で自分の芸術のために、良人は越えることが出来るとしても、子供を本当に忘れ切ることは出来ないでしょう。例えば自分の書くものは、純粋の芸術品ではあるが、十二三の子供がそれを読んで果してどういう判断を下すであろうか、という感情上の危惧が、其処に起ってきます。
 次に女は毎日の実生活の上に於いて、家事上の事柄に力を浪費することも大きなものです。たとい女中を使ってするにしても、その中心になる仕事に対しては、主婦がこれを指揮しなくてはならず、従って家のことを忘れて白熱的の力で文芸に専念する場合、それは大きな邪魔となるものです。
 更に女の身だしなみということも、創作をする場合、かなり関係があります。女は昔から見られるものとして取扱われてきました。一度外出するにも髪形から衣裳まで整えねばならず、風が吹けば、髪が乱れる。伝統的というのか本質的というのか、とにかく女性にはこの外廻りの小さな注意が沢山いります。それらに対して出来るだけ心配しなくてはなりません。この水の表面のような反射的な注意を持っていることは、心の中の深い落付きを乱だすものです。それを平静に保とうとするには、やはり男の知らぬ努力がいるのです。男はこういうことに対して、それだけのことを意識として経験しなくともよいでしょうが、女性はそういうことが或る程度まで反省的に取扱われなければなりません。その上で初めて落付いて仕事に向う気持にもなるのです。
 また時代というものに対しても、それから時代精神ということに就いても、本当にその時代に生存するには、前後及び終極の場所を見極めなくてはなりません。
 時代というものは一つの大きな道です。私共は現在歩いているその道をよく見詰なければならず、それと同時に自分の行くその前途をもよく見極めなくてはなりません。即ち本当の意味で時代に触れ、それを産むには、自分の中からその時代が発展して来なくては駄目で、本当にそうした心掛けで生活する人には、必ず其中に時代は産れて来るものです。それは丁度人間が原始時代から或る発達の経過を踏むと同じことです。万有は勿論、人間も文芸も、それと同じ一つの大きな道を通って来たものです。その各時代がそれを正しく発表していると同様に、自分がその大道の一期間に正しい生活をすれば、その中に新しい時代はあるわけです。その経過に於いては内的の発表を意識しないで、其時代を形造って来た人もあるでしょう。私共の祖母、母などは、私共が反省しつつ自分の時代を造り上げているのと違って、只単に一種のシンボルとして一時代の変遷の跡を表わして来てはいたでしょうが、それが正しく私までへの道を形作っていることは事実です。
 例えば、女性の政治的権利の要求、社会生活の上の機会均等などの要求も、一人の人の発育の過程によって、其態度が違って来る。一人の或る女――それは娘時代には昔風の母親に生活させられた、然し時代が真の女性の本分を要求したのに刺戟されて、初めて自分の過去の生活を反省し、社会主義から婦人運動の中にまで入り、やや反抗的な態度の生活に入る。そしてその女はそれを人間としての最上の生活であると信じ、そのために働き且つ勉強する。私は然し、それが終極のものであるかということに就いては疑いを懐きます。抑々そもそも其女のこうした欲求は、本当の人間として生きて行きたいというそれから出たものであろうが、本当の人間の理想、要求は主義で解決は出来ない。主義の項目を如何ほど暗記しようとしても、それの中心たる、これでこそ生きているという終極の安心は得られないでしょう。その時その女性は、本当に自分の道を見出す必要に迫られて来るのです。自分の安心立命の出来るものを発見しようとした時、初めて時代と自分というものの本当の交渉が理解されるようになり、或はまたその時代の標準、方法、理想に満足するかも知れません。然しそれは人によって違うことで、ある人はその道の前に、或いは後に、それを見出すでしょう。そこに、その人の運命は定まるのです。

          三

 この意味から、真の自分が何であるかを知る必要があります。それは教育でもなければ、また時代の影響でもない、三つ子の魂そのものです。これは各個人によって違っているものであるから、真実まことの自分を各自は考えなければなりません。此処に於て初めて、或る時代に一人の人間が生きているということになるのです。即ちその人は色々時代的な感興を享けるのでなくて、時代の中にあるものを吸って真の時代に混和させ、而して自分を作り上げるのです。時代通りにすることは無意味です。然しするもしないも自分の誠心一つではあるが、この真の時代と混和した心持こそ、初めてその時代を知るものに外なりません。この大切な事柄さえも女性にとっては、その自由が阻止され勝ちです。
 なお最後に女の自由は、その子供のうちは比較的解放されているが、十八九位になると、全く男と違った生活を強いられます。今の時代に於いては「お前のすることは全部お前に委かせるから、責任を持っておやりなさい」というのではなく、娘は「どこそこのお嬢さん」というものとして取扱われ、親の作った輪の中に閉じ込められているのであって、真の解放や自由は与えられていないのが多くはありますまいか。娘から妻になる場合、それも多く親が結婚させて呉れる、そこに自由がない、個性がない、男の人の経験する「恋愛模索時代」というものが少ない。即ち信じたり疑ったりする経験を持つ時代が女には乏しくなり、従ってそのために熱も欠けようといった有様です。
 男は良人になり、父になり、益々その責任が強くなる。また社会人としても、その経験が広く深くなります。女は多くの場合、家庭内の生活に堕し、社会的関係がないから其まま納まってしまうが。娘時代から結婚時代へ、妻、母と類型的な生活にその日その日を送る女、其処から生れる芸術も自然、型の中で反省し得られる程度にしか出来ません。従って生活感情の真髄が狭い心の中の狭い体験が多い関係から、女性の作り出す創作には本当にユニックなものが乏しい。類型的でなくなる努力、淡泊さ、見栄え等を本当のものにする精進、性の上から来る色々の欠陥と不自由、それから脱出する苦悶――女性は芸術の種を実に沢山持ってはいるが、然しそれを植えつけ、花にすることの困難をもっています。其処に女性として永久的な苦しみがあるのです。
〔一九二二年五―六月〕





底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「読売新聞」
   1922(大正11)年5月31日〜6月2日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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