去る二月二十日、暴虐なる天皇制テロルによって虐殺されたわがプロレタリア文化・文学運動の卓抜なる指導者、組織者、国際的規模におけるボルシェヴィク作家、同志小林多喜二の全国的労農葬は、プロレタリアの恨みの日三・一五記念日を期して敵の弾圧に抗し、東京はじめ各地において敢行された。
日本プロレタリア文化連盟に結集する各文化団体は、それぞれの機関誌を特輯号とし、あるいは号外を刊行して、同志小林の英雄的殉難を記念し、虐殺に抗議し、労農葬に向って大衆を召集しつつその復讐を誓った。
野獣の如き軍事的警察的テロルの虐殺制度に対し憤激したのはひとり革命的労働者、農民ばかりではなかった。ブルジョア作家、自由思想家などもその衝撃を披瀝し、三・四月の文芸時評はことごとく何かの形で、同志小林の受難にふれたのである。しかしながら、それらのブルジョア作家、批評家の大部分が、同志小林多喜二の業績を追慕しながらも、自分の属す階級の制約性によって同志小林の不撓の発展の本質を正しく評価し得ず、ある者は結果として反動におちいり、ある者は誤った文化主義を強調するに至ったのも、やむを得ないというべきであろう。
ところが、わが「コップ」加盟の各団体およびその同盟員によって執筆、刊行された同志小林に関する諸文献を仔細にしらべて見ると、それらのあるものも、やはり同様な文化主義的傾向や右翼的逸脱への危険を示していることを発見する。(たとえば「コップ」東京地方協議会署名にかかる同志小林労農葬のビラ。『農民の旗』創刊号における同志小林の虐殺に対して示された曖昧な非階級的な態度。同志大宅、立野、貴司らによって執筆された同志小林の追想記中に現れた作家主義的な一面性など。)
これらに対する批判的追補として『プロレタリア文化』三月特輯号に掲載された同志松山、坂井の論文は、前者は全文化運動の新らしい活動家のタイプ、指導的理論家としての同志小林の輝やかしい発展を跡づけることによって、後者は前衛作家同志小林の全貌を押し出すことによって、同志小林の業績から何を学ぶべきかを明かにしようとしたものであった。
要するに、同志小林に関するこれまでの評価はひとしく尊敬をもってなされているとはいえ、そのあるものに若干の誤謬、不正確な認識などがふくまれていることも否めない事実である。
この際、同志小林多喜二の業績の評価に当って基準となるべき諸点を概括し、それによって、誤謬を含む見解を正すとともに、評価を統一することは、わが「コップ」中央協議会の責務の一つであると信じる。プロレタリア文化・文学運動の今後の正しい発展は、栄誉ある前衛、同志小林の業績のまじめな評価とその成果のボルシェヴィキ的摂取なしには全くあり得ないからである。
同志小林多喜二が、日本においてたぐいまれな国際的規模をもつ共産主義作家であったこと、同志小林が常に全力的であり、前進的であり、創作のために寸暇を惜んで刻苦したことは、彼に関する最も断片的な追想の中にさえ読まれた。
貧農の息子、搾取と抑圧をうける若い下級銀行員として同志小林は、ごく初期の作品(「健」、「最後のもの」など)においてさえ、大衆の苦悩とその社会的根源をあばかんとする方向を示している。
「一九二八年三月十五日」は三・一五当時における敵階級の野蛮な白テロを曝露するとともに、革命的労働者の不屈の意気と、その家族のさまざまの姿を描き、当時のプロレタリア文学の画期的到達点を示すものとなった。そもそもの第一歩から小説を書くということは同志小林にあっては階級社会変革の翹望をひそめた仕事であった。「一九二八年三月十五日」が書かれるにおよんで、彼は人道主義者からマルクス主義者として立ち現れた。この時分、同志小林はすでに階級闘争の実践に参加し、組合に活動し、日本プロレタリア芸術連盟に活動していたのである。
以来、「蟹工船」「不在地主」「工場細胞」「オルグ」「沼尻村」その他最近の「党生活者」(『中央公論』編輯局によって「転換時代」と改題されたものである)「地区の人々」に至るまで精力的に発表された諸作品は、どれをとっても、それぞれの時期におけるプロレタリアートの課題を自身の課題として反映したものであり、何かの意味でプロレタリア文学の最高峰を築こうとするものであった。
同志小林は「蟹工船」において、日本資本主義の植民地的搾取の真相と、日本海軍がどのように人民収奪を援助する任務をもっているかということを、生産面においてくまなく描こうとした。「不在地主」「沼尻村」などは、農民の解放はプロレタリアートの闘争との結合なしには実現されないこと、社会ファシストの偽瞞と闘うことなしに農民の革命力は正しく発展し得ないことを示した。「工場細胞」「オルグ」は、大衆のうちにあって活動する前衛を日常闘争を通して描き、プロレタリアートの党の大衆化が試みられている。個々の作品を厳密に批判すれば、種々不足としてあげられる諸点はあるが、同志小林が、たゆまず倦まず、日本におけるプロレタリア運動のレーニン的発展過程に照応し、正しい革命的理論を創作活動のうちに生かそうとしつづけた高邁な努力は、プロレタリア作家の典型である。
同志小林こそ最もよく、「文学の仕事は組織的、計画的、統一的な」(レーニン)社会主義建設のための事業の一構成部分とならなければならないことを会得し、その実現のために献身したプロレタリア作家であった。文学におけるレーニン的党派性の貫徹を、真のボルシェヴィク作家にふさわしく熱情と世界観によって、実践した。
彼を知るものを常に驚歎させた同志小林の不断の創造的エネルギーの源泉は、実にプロレタリアートの革命的エネルギーそのものの中にあったのである。
かくの如き同志小林がその発展の過程において、プロレタリアートの前衛の組織の活動に参加したことは、極めて必然なことというべきである。同志小林は論文「文学の党派性の確立のために」において、自身いっている。「『弁証法的唯物論は党の世界観であり』、それは最高の観点であるから、(我々は絶えまない困難な勉強によってこの観点を獲得するのだが)社会の隅々までをも一番正しく見得る立場である」と。
宮島新三郎(『報知新聞』三月文芸時評)板垣鷹穂(『文学新聞』小林多喜二追悼号)などは、同志小林の殉難を惜しみつつ、同志小林がその活動を文学的活動の範囲に止めておかなかったことを遺憾とし(板垣)、または、今度のことにつけても作家同盟はよく考えて欲しい(宮島)と云っている。彼等は、ボルシェヴィク作家としての同志小林の発展の必然の道を理解し得ない。即ち、プロレタリアートの道を見出し得ず、かえって同志小林を虐殺した不倶戴天の敵の姿を大衆から覆うことによって、反動の役割を演じているのである。
同じく、発展の本質に対する誤った認識の上に立って、同志小林の創作活動は「蟹工船」を頂点とする見解がある。
しかしながら、「党生活者」「地区の人々」を熟読せよ。作品の具象化の点で部分的難点はあるが、同志小林によって最近執筆されたこの二篇の小説は、「蟹工船」時代の自然主義的手法の晦渋さ、その反撥として以後の諸作を貫いていたやや浮き上った平易さへの努力の跡を揚棄している。作者のレーニン的世界観の統一、政治的鍛練によって、自らそなわって来た独特の簡明さ、迫真力、革命的気宇の大さが、作品の深い光沢となってかがやき出そうとしている。主題の把握においても、敢然と多数者獲得の課題に応え得ている。
同志小林は「組織活動と創作活動の統一」の課題に対し身をもって「文学を党のもの」とし、最も高度なボルシェヴィキ的解答を与えたのである。
同志小林多喜二が創作の実践にあたって非常に理論を尊重したことは上述のとおりであるが、彼は、決して「理窟のいえない小説家」ではなかった。従来執筆された文学に関する感想、論文などは、レーニン的理論の展開に際し確固性において十分でなかったとはいえ、理論家としての素質を示していた。
去年四月の暴圧以来、文化・文学運動の切迫した情勢は同志小林に新たな指導的理論家としての任務を課した。
同志小林が不屈な精神によって新たな任務を遂行し、しかも最近どんなに刮目すべきテンポで理論家としても発展しつつあったかは「右翼的偏向の諸問題」に関して昨年十二月以来プロレタリア文学、文化に堀英之助の筆名によって発表された諸論策が物語るところである。
昨年四月の白テロ後、文化運動の一部に日和見主義が発生した。文化運動の方針、批評、創作活動、サークル理論、その他日常闘争において、明らかな右翼日和見主義が生じた。「コップ」の中央機関への参加を拒否する同盟中心主義、あるいはさまざまな名目による運動からの脱落、敵との妥協。大衆追随主義としてあらわれた自然成長性への屈伏など。右翼的偏向は、複雑な組合わせと多様と度合とをもって現れたのであった。
「戦争と革命との新たなる周期」において、文化運動の内部に発生したこのような敵に対して、仮借なき闘争こそが必要である。同志小林は、この課題に率先して立ち向い、次々に、逞しき諸論策を送った。同志小林は、日和見主義発生の階級的根源を抉発し、日和見主義者の理論と実践とを具体的にあばき、そのレーニン的解決方向を明示した。
このような同志小林の闘争のための論文は、右翼日和見主義者にとって身をかわすに余地ない痛撃であった。それにもかかわらず、右翼日和見主義者とその眷族調停派たちは、自身の誤謬を固執し、作家同盟の一部の同志は、同志小林の指導的批判に対していささかも科学的根拠のないデマゴギー的漫罵をわめきたてさえしたのである。
同志小林の克己と努力とは遂にその逆流を克服した。プロレタリアートの党派性は勝利し、闘争の成果の一部は、最近作家同盟常任中央委員会が「右翼的偏向との闘争に関する決議」を発表するに至った事実にも認め得るのである。
同志小林は確固たる国際プロレタリアートの観点に立って今日の情勢を分析し、そこからプロレタリアートの課題を導き出し、革命的任務を遂行するためには、それを妨害するあらゆる小ブルジョア的日和見主義と闘い、それを克服することを緊急事とした。特にこの点における同志小林の指導的理論家としての功績を無視し、あるいは過少評価してぼやかすことは、そのこと自身誤った右翼的危険を示すものなのである。
最後に、同志小林の業績を評価するに当って、その発展のスプリングを、抽象化された性格に置こうとする誤った見解が存在する。同志貴司の『改造』四月号における「小林多喜二の人と作品」は、この危険を最も顕著に代表するものである。同志貴司は、同志小林の卓抜な闘志、前進性などの根源を同志小林のゆるがぬ党派性の上に認識せず、具体的な革命的実践と切りはなして、「鼻っ柱」のつよさ、「強がり」、「偏狭性」、「馬車馬的な骨おしみ知らず」、「田舎者の律気」などに還元している。そして「かれが積極的になる時、飛躍する時、かれの性格の唯一の欠点である偏狭性が跳梁した」というに至って、誤謬はデマゴギー的性質にまで発展しているのである。この論法をもってすれば、同志小林が残虐きわまる拷問にあいつつ堅忍不抜、ついにボルシェヴィキの党派性を死守して英雄的殉難を遂げたそのボルシェヴィクの最後の積極性が発揮された時こそ、同志小林は最も偏狭であったということになるのだ。
同志小林の業績を無条件、無批判に賞めることは、もとよりわれらの念願としないところである。しかし、レーニンは喝破している。「一体人は何か全く特別なものを考え出そうと努力すると、その熱心のあまり馬鹿げたことに陥るのである」と。また「環境と人間的活動との変化の合致、あるいは自己変革は、ただ革命的実践としてのみとらえられ、且つ合理的に理解することができる」(マルクス)のである。
プロレタリア文化・文学運動とその活動家全員がすき間なくレーニン的党派性をもって貫かれ武装されることは、活動を狭くするどころか、今日のように「近い将来において革命的危機に立つかも知れぬ」(第十二回総会決定)日本の情勢の下にあって、運動をますます強め、ますます広汎ならしめる唯一にして無二の原動力なのである。
かかる意味において、われらは同志小林の闘争の生涯がボルシェビキ的強情さ(確固性)によって貫徹され、高き規範を示したことに無限の敬意を捧げるのである。同志小林が身を挺して確保した革命的到達点を、理論、創作、組織的全活動の分野において更に推進させ、同志小林を虐殺した権力を粉砕することをもって評価の実践とするのである。
〔一九三三年四月〕