マクシム・ゴーリキイの人及び芸術

宮本百合子




 現代は、一つの深刻で巨大な時期である。旧いものの世界的な崩壊、新たな社会の建設。二つの力が切迫して相うち、どんな平凡な一市民の生活さえ、それを観察すれば複雑な社会的矛盾からまぬかれ得てはいないのである。動揺はいたるところに起っている。
 この時代に、世界は文学の分野において誇るに足る二人の勇士をもっている。ロマン・ローラン、マクシム・ゴーリキイの二人である。
 これらの人々は、いずれも自分の遭遇した時代の種々さまざまな矛盾をもっとも偽りない心で悩みつつ頑強に人類の幸福とより合理的な社会を求める熱誠を棄てなかった人々である。そして、永年にわたる困難な闘いを通じて、遂にその解決を見出した人々である。彼らは勤労人民こそ新しい歴史の担い手であり、知識人としての自身のあらゆる豊富な才能やまじめな思想も、プロレタリアートが自分たちの運命の主人となった社会に於てこそ初めて花咲き輝くものであることを会得した人々である。そして、躊躇するところなくこの地球が初めてもったソヴェト同盟の革命を支持し、その社会主義社会の達成のために全世界の進歩的な労働者、農民、インテリゲンツィアと共にその第一線に立っている人々なのである。
 マクシム・ゴーリキイの短い伝記を書くときまった時、私は大変嬉しかった。私はゴーリキイを愛しているし、彼がどんなに熱心に生きたかを簡単ながら大勢の読者と共に語り、数々の教訓を引き出したいと思ったからである。ところが、仕事にとりかかって見ると、ゴーリキイの伝を書くということは案外にむずかしい仕事であることがわかった。それ程、ゴーリキイが今日まで経て来た六十五年の歳月は内容豊富であり、波瀾にとみ、その一つ一つがどれもロシア革命の歴史ときっちり結びついている。一八六〇年代以後のロシア革命史は、何かの形でみんなゴーリキイの生涯の出来事のうちに反映しているのである。

 一九二八年、五年ぶりでソヴェト同盟に帰って来るゴーリキイを迎えるために、モスクワもレーニングラードも一種の亢奮で湧き立っている。モスクワの中央図書館では、特別移動的なゴーリキイ展覧会を組織し、ゴーリキイに関するあらゆる資料をあつめ、統計をあつめて大衆に無料公開をしている。労働者クラブの「赤い隅」はゴーリキイの著作と、その工場の労働者がどの作品を一番愛読したかという表などで飾られている。工場の労働通信員たちは、黙ってしかし胸をときめかしている。ゴーリキイが自分達の工場へ見学に来たら、それこそ腕一杯の素晴らしい記事を書かなければならない、と。――ゴーリキイが昔から労働者の手記、新しい作家の作品について親切な注意を払うことは知れわたった事実である。
 南露からコーカサスまでを巡遊し自分の新しい建設に熱中しているソヴェト同盟の労働者・農民の嵐のような歓呼に迎えられ、ゴーリキイは感動からもやや疲れてレーニングラードへやって来た。そのころの私はレーニングラードにいて、「ソヴキノ」試写室で世界的映画監督プドフキンによって映画化されたゴーリキイの「母」を見たりしたところである。ゴーリキイには会って見たい心持を制することができなかった。彼は、いたずらに名士ずきで会う人間とそうでない人間との種類を見わけるであろう。その確信が私に勇気を与えたのである。小さい白い紙に下手なロシア語を書いて打ちあわせ、六月のある朝、ヨーロッパ・ホテルの一つの戸をたたいた。
 ひどく背の高い、ゴーリキイの息子が出てきた。普通の長椅子やテーブルの置いてある室へ案内した。朝日が、二つならんだ大きい窓から大理石のテーブルの上にさしている。そこへ食べのこしたのか、まだ食べないのか一切れのトーストがぽつんと皿にのって置かれている。
 息子と入れちがいにゴーリキイが入って来た。かわいた、大きい温い心持よい手である。低いソフト・カラアにネクタイを結び、茶っぽい毛糸のスウェータァの上へいきなり銀灰色の柔い上着を着ている。瘠せているが息子よりもっと背が高く、青い注意ぶかい、鋭い眼である。
 ゴーリキイは低い椅子にかけ、片肱を膝に立てた恰好で、ゆっくり話す。分り易い、気どらない言葉づかいで、それは体全体の調子とつり合い、深い信頼を起させた。日本の文学のことなどをきき、単純に、
「ソヴェトをどう思うか」
ときいた。私は力をこめて、
「大変面白い」
と云った。ゴーリキイは暫く黙って考えていたが、やがて、
「それは本当だ」
と云った。自分は、貴方はどう思っているかとはききかえさぬ。何故なら、ゴーリキイは五年ぶりの訪問で、驚くばかりの建設を目撃すると同時に五年前彼がレーニンの考えとは一致しない見解をプロレタリアート独裁下のインテリゲンツィアに対して抱いていたのにつけ込んで、ソヴェト同盟内の富農的ブルジョア的残存分子が、いろいろの泣きごとを彼に向ってぶちかけた。「哀れなる少年の一団より[#「*」の注記]」の問題もその一つである。
* ソヴェト同盟は当時、すべての学校に先ず労働者の子供らを入れ、農民の子供を入れ、勤め人の子を収容した。ツァー時代のブルジョア・地主の子等は学校に入れなかった。そのことについて「真理の擁護者マクシム・ゴーリキイ」に対する「哀れなる少年の一団」からの訴えの公開状が発表された。ゴーリキイは、それについて二度にわたって答えの文章を書いた。公開状の性質は明らかに反革命的な効果を期待して書かれたものであった。

 ゴーリキイが私のたった二言の返事に対し、それは本当だと云った重々しい調子から、私は文章を通じて感じていたよりもっとはっきり、彼が今非常におびただしい複雑な印象を得てそれを整理したく思っていることを感じたのである。
 ゴーリキイは日本の「根付」を集めたことがあることやムッソリーニは婦人に出版権を与えていないこととかを話した。私は自分の本を贈り、短くそのときの自分の心持(インテリゲンツィアの女としての)を話した。
 モスクワへ帰ってから、あるところで或る知人に会ったら、その人は一つの書類を私に見せた。それは「哀れなる少年の一団より」の翻訳であった。そして、対外的には反ソヴェト的にゴーリキイがそこに引き合いに出されているのを見た。私はゴーリキイが世界的にもっている影響力の深大さに打たれた。一九二八年のゴーリキイのソヴェト訪問の結果は、世界のすべての資本主義国が卑しい期待にがつがつして待ちかねていたところであった。イタリーのソレントに住んでいながら、常にソヴェト同盟の達成に留意し、反ソヴェト運動に対して文筆をもって闘って来たゴーリキイが、実際のソヴェトを見て何と云い出すか、それによっては直ちに牙をむいて飛びかかろうと待ちかまえていたのであった。ゴーリキイは、自分の置かれている歴史的な立場については正しく慎重に理解した。卑しい期待は満たされ得なかったのである。
 一九〇九年に、ゴーリキイは教訓的な経験をしている。レーニンが指導するボルシェヴィキと修正派ボグダーノフとがマルクス主義哲学について大論争を行っていた当時、プロレタリアの世界観をわがものにしていない「マルクス主義者に近いもの」であったゴーリキイははなはだしく動揺して、ボグダーノフと雑誌を出したり、ボグダーノフに利用されるような労働者学校を組織したりして、一時レーニンの社会民主労働党から脱落しかけた。その時、フランス、イギリス、ドイツ、ロシアのブルジョア新聞は手を拍ってよろこび、レーニンはゴーリキイを除名したと宣伝した。ゴーリキイ自身これに対して闘い、レーニンはその時党機関紙『プロレタリア』に特別な論文を書いた。「同志ゴーリキイは、彼の偉大な芸術的制作によって、かかるやからに軽蔑を以てして以外には答え得ないほど強力にロシアならびに全世界の労働者運動と結びついているのである」と。

 さて、マクシム・ゴーリキイ、本名アレクセイ・マクシモヴィッチ・ペシコフは、一八六八年三月二十八日、中部ロシアのニージュニ・ノヴゴロド市で生れた。父親はある将校の息子であったが、十七歳になるまでに五度も家出をくわだてた。父親である将校は部下を虐待したかどでシベリアに移されたという男である。ニージュニへは十六歳で来た。二十歳の時は一人前の家具師で、その仕事場が祖父の家とならんでいる。
 ある日、祖母さんのアクリーナが娘のワルワーラと庭へ出て木苺をあつめていると、やすやすと隣から塀をのり越えてたくましい立派なマクシムが、髪を皮紐でしばった仕事姿のまま庭へはいって来た。
「どうしたね、若い衆、道でもねえところから来てよ!」
 祖母さんのアクリーナがきくと、マクシムはひざまずいて云った。「俺達は結婚したいんだ。」りんごの樹のかげにかくれて、ワルワーラはのいちごのように体じゅうを真赤にして、何か合図して、眼に涙を一杯ためている。「あたし達はもうとうに結婚しました。あたし達は只婚礼をしなくちゃならないの」――。
 ゴーリキイが生れた後まで祖父さんは二人の自由結婚を許さなかった。ニージュニの職人組合の長老をやり、染物工場をもったりしていた祖父は、自分の娘が一文なしの渡り者の指物師などと一緒になることを辛棒できなかったのである。
 五つの時父はコレラで死に、幼いゴーリキイは母と一緒にニージュニへかえって祖父の家で暮すようになったが、この鋭い刺のある緑色の目をもった祖父の家の中の生活の有様は、到着第一日から幼いゴーリキイの心にうずくような嫌悪、恐怖、好奇心を湧き立たせ、類のない程多岐なゴーリキイの少年時代の第一歩をなした。一つ家の中には家内持ちの二人の伯父がいて、財産分配のことから祖父と悪夢のようにののしり合い、時には床をころげてなぐりあった。そうかと思うと大人まで加わって、半盲目の染物職人に残酷きわまるいたずらをしかける。
 子供らは、家の中にいる時は大人の喧嘩にまき込まれ、往来での遊戯は乱暴を働くことであった。土曜日ごとに、祖父が子供らを裸にしてその背を樺の鞭で打った。これは一つの行事である。ゴーリキイはその屈辱的な仕置に抵抗して、とうとう気絶し、熱をだして病気になるまで鞭うたれたことさえある。
 一八六一年にアレキサンダア二世が欺瞞的な農奴解放を行い、ゴーリキイが生れた時分、もう農奴制そのものは廃止されていたけれども、二百五十年にわたったロシアの農奴制によってしみこんだ封建制は、家庭の内に信じられない父の専制、主人と雇人との間の専制主義となって残っていた。ゴーリキイの祖父の家の中の生活は、その息づまるような標本なのであった。
 熱に浮かされるような恐ろしい生活の中で小さいゴーリキイの心は自分や他人の受ける侮蔑、苦痛に対して鋭く痛み、人間の生活についての観察を学び、一生を通じて彼の特質をなした真理を求める熱情が既に目覚め始めたのである。
 この時代、ゴーリキイに最も強い影響を与えたのは、祖母アクリーナの素晴らしい存在である。あらゆる憎悪、衝突、叫びのうちに暮して、祖母さんだけはすきとおるような親切、人間の智慧に対する希望、生活の歓びを失わなかった。彼女の独特な信心で美に感じやすいゴーリキイを魅したばかりではない。聴きてを恍惚させるほどの物語り上手であった。彼が屋根裏で、台所の隅で、祖母から聞いた古代ロシアの伝説、盗賊や順礼の物語は、みずみずしく記憶にきざみつけられたのみか、ゴーリキイの初期の創作のうちに反映しているほどである。
 祖父はやがて染物工場を閉鎖した。伯父の一人は自殺し、一人は家を出て、気違いのようにしわくなった祖父と五十年つれそった祖母との間に不思議な生活が始まった。祖父と祖母とは、茶、砂糖から、聖像の前につける燈明油まで、きっちり半分ずつ出し合って暮した。が、祖父は財産分配の時、祖母に家じゅうの小鉢と壺と食器とを分けただけなのである。祖母は昔ならったレース編を再びやり出した。ゴーリキイも、「銭を稼ぎはじめた。」
 休日ごとにゴーリキイは袋をもって家々の中庭の通りを歩き、牛の骨、ぼろ、古釘などをひろった。またオカ河の材木置場から薄板を盗むことも(たまに)やった。それで三十カペイキから半ルーブリを稼ぎ、銭は祖母にやる。――この時代の仲のよい稼ぎ仲間とのほこりっぽい、だが多彩な生活の思い出を後年ゴーリキイは長篇小説「三人」のうちにいきいきと描いている。
 八歳になると、ゴーリキイの「人々の中」での生活がはじまった。祖父は彼を靴屋の小僧にやった。熱湯でやけどをしたゴーリキイが二ヵ月で暇を出されて来ると、次は製図工へ見習にやられた。そこで一年辛棒した。生活はあまり辛い。逃げ出して、ヴォルガ河通いの船へ皿洗いとして乗組んだ。
 月二ルーブリで、朝六時から夜中までぶっ通しに働かせられる合間、小学を五ヵ月行ったきりのゴーリキイは次第に本を読むことを覚え、プーシュキン、ディッケンズ、スコットなどを愛読するようになった。料理番スムールイが、ゴーリキイに目をかけ口癖のように云った。
「本を読みな。わからなかったら七度読みな。七度でわからなかったら十二回読むんだ!」そして、肥った獣のようにうめいて深い物思いに沈み、荒っぽくどなった。
「そうだ! お前には智慧があるんだ。こんなところは出て暮せ」ゴーリキイは、生涯の中に出会った四人の人生についての教師の一人として、このスムールイをあげている。スムールイは、一度ならずその嘘のような腕力をふるって水夫や火夫の破廉恥で卑劣ないたずらから少年ペシコフをまもったのであった。
 十歳の時、ゴーリキイは詩のようなものをつくり、手帖に日記を書きはじめた。日々の出来事と本から受ける灼きつくような印象を片はじからそこへ書きこんだのである。が、それと知った聖画商の番頭は、奇妙な反り鼻の小僧を呼びつけて、云いわたした。
「お前は抜萃帖か何かを作っているそうだが、そんなことはやめちまわなくちゃいけない。いいか? そんなことをするのは探偵だけだ!」
 一八八一年、ゴーリキイが十三の時、アレキサンダア二世が暗殺された。

 人生の矛盾がますますつよくゴーリキイの心を不安にした。彼の周囲に充満しているのは無智やあてのない悔恨や徒食、泥酔、あくまで互にきずつけ合う残酷などであるのに、彼が読む本は何と人間の智慧の明るさ、生活の美などについて語っていることであろう。当時のロシアをみたしていた生活の浪費の苦痛がゴーリキイの心を狩り立て、十五の年、彼は故郷ニージュニを出て、遂にカザン市へ出て来た。何とかしたら大学に入れそうに思ったのであった。
 ところが、カザンで若いゴーリキイを迎えたのは、一八六一年に歴史的ストライキをやり、数年後にはレーニンがそこで学ぶめぐり合わせになっていたカザン大学ではなくて、飢えであった。カザン大学正課にはないゴーリキイの「私の大学」時代がはじまったのである。
 ゴーリキイは、淫売婦や貧しい大学生、人生での敗残者などがごたごた棲んでいるカザンの貧民窟の一隅に、急進的な一人の学生と暮した。そこにはたった一つの寝台があるだけであった。学生とゴーリキイとは夜昼交代にそこへ寝て、ゴーリキイはヴォルガ河の波止場の人足をやって十五カペイキ、二十カペイキと稼ぐ。――ロシア人はヴォルガ河を「母なるヴォルガ」と呼んで愛するが、ゴーリキイの半生のさまざまな場面は洋々としたヴォルガの広い流れと共に動いている。冬になって河が氷結すると、ゴーリキイは波止場仕事を失って、或るパン焼工場へ入った。
 そこは月三ルーブリで十四時間の労働である。体も辛かった。更に精神的には、ゴーリキイにとって最も苦しい時代の一つであった。何故ならこの時代、ゴーリキイは近づき始めた新しい世界から再び切りはなされてしまったのである。
 カザンに来てからゴーリキイは数人の急進的インテリゲンツィアと知り合いになって、時々その研究会などへも出るようになっていた。長時間ぶっつづけの討論は時に彼を苦しめ、またこれらの「人民主義ナロードニキ」の学生達が、むっつり黙って、だが全身の注意を集めて参加しているゴーリキイの目の前で「生えぬきだ!」とか「民衆の子だ!」とか感嘆し合うのが少なからず彼にばつの悪い思いをさせるのであったが、ゴーリキイは、彼らに対して深い興味と渇望とをもって接した。少くとも、生活をいい方へ向けようと努力している一団の人々をゴーリキイは見たのである。
 この「人民主義」の学生達が「民衆」というものについて示す考えは、深くゴーリキイを驚ろかせ、且つ考えさせた。彼らは民衆を叡智と、精神美と善良の化身のように云うが、ゴーリキイが五つの年から観察し、まもれ、闘って来ている現実の生活で、彼は「このような民衆を知らなかった。」
 パン焼場での労働は学生達の集会へ出ることを不可能にした。当時の急進的学生は、憎むべき徒食階級に対置して「民衆」を観念的に理想化するにとどまり、誰一人実際にパン焼工場の地下室へゴーリキイを訪ねて彼を鼓舞しなければならぬという必要には思いいたらなかったのであった。
 ゴーリキイ自身の精神的飢餓と当時のロシア労働者の一部がインテリゲンツィアに対して抱いている辛辣な敵意が彼を苦しめた。その頃ゴーリキイはもちろん、労働者とインテリゲンツィアの対立を政治的に利用するために、どんな金を政府が撒いているかなどということは洞察しなかった。ゴーリキイは、その中でパン焼職工の連中に折を見てはもっと楽な、もっと意義ある生活の可能について啓蒙的な話をするのであった。このパン焼工場での生活の断面は「二十六人と一人」という名篇につよい筆致をもって描かれている。
 二十歳の時、ゴーリキイは自殺をしかけた。一八八七年の十二月のことである。ゴーリキイは市場で四つ弾丸のつまったピストルを買い、凍ったヴォルガ河の雪深い夜の崖にのぼって胸を撃った。弾丸ははずれた。彼はこの事件がすむと同時に、この経験を深く批判して、恥しく感じた。
 新しくよみがえった生活に対する真率な積極性によってゴーリキイは春になるとロマーシという「人民主義」の革命家と一緒に或る農村に入り、農民の自覚を促すための運動を始めた。その土地の富農たちの恐ろしい悪計によって、革命的であった農民イゾートはヴォルガ河のボートの中で頭をわられて殺され、ゴーリキイたちの店は放火され、そのどさくさにゴーリキイやロマーシももうすこしのところで殺されかけた。流刑地でのいろいろの危急の場合にきたえられていたロマーシの勇敢で適宜な防衛で命が助かった。
 村を出てからゴーリキイは裏海の漁業組合で働き、やがてドウブリンク駅の番人として働き、駅夫や人夫に地理や天文の本をよんで聞かせてやりながら、半分歩いてニージュニイにたどり着いた。その時分ロシアの辺鄙な田舎の果でもツァーの官吏や司祭らが、どんな腐敗した醜聞的日常生活を営んでいたかは、その時の経験を書いた「番人」その他にはっきり現れている。
 ニージュニイで再び急進的インテリゲンツィアの群に加わった。情勢は移って「資本論」などが読まれだしていた。然し、ゴーリキイの疑問と本能的な苦悩はかえって深まった。ニージュニイのこれらの連中のある者はマルクス主義に近づくや否や個人主義的毒素や利己主義や偸安で勝手にマルクスの理論をゆがめ、多くの者は唾棄すべき卑俗な「唯物論者」になり下った。彼らは一人一人の革命家が生死を賭してツァーリズムとたたかった前時代の運動の方法を嘲笑し、もし歴史的な必然性というものがあるというのが本当ならば、物事は俺たち抜きでも何とかなる! と、口笛を吹き出したのである。
 ゴーリキイはそういう口笛に合わせる笛をもって生れて来ていなかった。当時ロシアにはびこった機械主義的マルクス主義の理解によって、真理に近づこうとする正当な努力の方向をそらされたのはもちろんゴーリキイ一人でなく、例えば当時ニージュニイで急進的文化活動の中心をなしていた作家コロレンコはそのゆがめられた機械的見解に納得できないままに「唯物論」そのものまでを一種の流行的思想という風に見た。コロレンコは「人生は無数の妙にからんだゆがんだもので合わさっていて」、「それを理論的組立ての四角い中にはめこむことは困難である」と話し、ゴーリキイもそれはそう考えた。二人とも、コロレンコにあっては知的蓄積、ゴーリキイにあってはその鋭い生活的追求力にもかかわらず、正統なマルクスの唯物論というのは、複雑な現実を切って殺して理論の四角い枠にはめるのでなく、逆に最も錯綜し、からみあった事物そのものの根元的矛盾をそのいきいきした発展の道ゆきに於て明らかにし、見透しを与え、より真理に近づく可能性をもつものであることを理解し得なかったのである。
 このことはゴーリキイの生涯にあっては後々も或る尾を引いた。重大な時期に、例えばこの伝記の初めに書いた一九〇九年の哲学的論争の時期に於て、或は一九一七年の十月革命の時代におけるブルジョア・インテリゲンツィアの評価に際して、ボルシェヴィキの見解と一致し得なかったことの遠い根源となっているのである。
 読書にも討論にもゴーリキイは魅力を失った。「非凡、善、不屈、美と名づけられるべきすべての小さな、珍らしい細片」をじかに人々のうちからあつめたい欲望に刺戟されて、再び放浪の旅に出た。
 日雇い仕事でパンを稼ぎながら秋までほとんどロシアの南半分を歩きまわり、最後にチフリス(グルジアの首府)スターリンの故郷に落着いて鉄道工場に入った。処女作「マカール・チュードラ」がチフリス新聞『カウカアズ』に掲載されたのはまさにこの時なのであった。
 ゴーリキイは「マカール・チュードラ」をきわめて無邪気に書いた。輝くような話し手であった祖母に似てゴーリキイ自身なかなかたくみな話し手である。友達に放浪時代の見聞を話した。友達は感歎し、ぜひそれを書けとすすめた。そこで、ゴーリキイは書いた。頑丈な二十四歳のゴーリキイの胸に溢れるロマンチシズム、より高く、より強く、自由に美しく生きようとする憧憬を誇り高きジプシイの若者ロイコ・ゾバールの物語にもり込んだ。一篇の「マカール・チュードラ」は当時の蒼白い、廃頽的な、幻をくって溜息をついているようなロシアのブルジョア文壇に嵐の前ぶれの太い稲妻の光をうち込んだ。バリモント、メレジェコフスキー、ソログープ、チェホフもトルストイも、ロシアにどのような力ですでに労働階級が発育しつつあるかを理解しなかった。ゴーリキイもロイコ・ゾバールの物語では労働階級の存在にも問題にもふれていない。一見彼もプロレタリアートとは何ら無関係のようにある。それにもかかわらず、「マカール・チュードラ」を貫いて流れている熱い生活力、不撓な意志、卑劣を侮蔑する強い精神そのものが、おのずからプロレタリアの闘争と一脈相通じるものであった。ゴーリキイはそうと自身知らずに新興労働階級の代表として立ち現れた。どん底からの創造力の可能性をひびかせ初めたのである。
 このチフリスで、ゴーリキイは初恋のオリガがパリから二年前よりさらに美しくなり、良人をのこして帰って来ることを知った。狂喜のあまり彼は卒倒した。
 ニージュニイに帰った。ゴーリキイは月二ルーブリのひどい離家をかりて、オリガとその小さい花のような娘と三人で生活しはじめた。
 コロレンコとの友誼が深められた理解の上によみがえった。「チェルカッシュ」はこの時分コロレンコに励まされ、たった二日で書いたものである。
 ゴーリキイは自分の文学的労作について、だんだん真面目に考えるようになって来た。それと共に、フランス小唄のうまい、美食家の、「美しく煙草を吸い、奇智にとんで、男の知人を揺ぶる」ことのやめられない貴族学校出のオリガとの生活は、彼を歩いて来た道から脱する力をもっていることを理解しはじめた。ゴーリキイはオリガとしっかり抱き合い、黙ったまま、いくらか悲しんでわかれた。後年ゴーリキイはその「初恋について」の中に書いている。「こうして私の初恋の歴史――その悪い終末にもかかわらず、よい歴史は終りを告げた」と。
 巨大な歴史的矛盾の運びとトルストイとゴーリキイとの交友は、いろいろの点で興味を与えるが、女について二人の態度が全く相違しているのは面白いことである。トルストイはゴーリキイとの会話の間でも、もっとも多く神と百姓と女について話すのであったが、彼は女について妥協しがたい敵意をもち、女を罰することをよろこんだ。ゴーリキイは、女をいかなる醜悪な場面、条件においても理解すべきもの、哀れむべきもの、或は愛し尊敬すべきものとして観察し、女の情慾をもある時は一つの驚くべき力として感じている。ゴーリキイはトルストイの女に対する態度に対して純真な疑問を発している。「それはできるだけの幸福を汲みとることのできなかった男の敵意であるか?」と。だがこの女に対する態度の違いの根本原因は、めいめいの階級によって接触した女の種類と形態とがトルストイとでは全く異っていたことにこそあるのである。
 一八九八年、ゴーリキイは憲兵に家宅捜査をされた後検束されチフリスへ送られた。検挙は九年前にうけたのと二度目である。革命運動をしたというのであったが、証拠がなくて許された。
 一九〇一年、ゴーリキイは初めてペテルブルグに現れた。今は誰知らぬ者ない「フォマ・ゴルデーエフ」の作者、「三人」の作者、鋭く小市民性に反撥して人生の叡智を勇者の飛躍にあることを示した「鷹の歌」の作者、フランス・アカデミーのユーゴー百年祭にパリへ招待された国際的作家マクシム・ゴーリキイである。
 ある日ゴーリキイがペテルブルグの数多い橋の一つを歩いていると、理髪屋風の男が二人づれでゴーリキイを追い越して行った。が、一人の方がびっくりしたように小声で仲間に云った。
「見ろ、ゴーリキイだぜ!」
 もう一人の男は立ちどまってゴーリキイを頭のてっぺんから足の先までじろじろ眺め、やりすごしてから夢中になって云った。
「――えい! 悪魔め――ゴム靴をはいてやがら!」
 ゴーリキイはこの時すでに彼自身の表現によれば「マルクス主義者に近い」者となっていた。当時三十三歳であったゴーリキイより二歳年下のレーニンは妻クループスカヤとミュンヘンにいて社会民主党の全国的新聞『イスクラ(火花)』を出すために活動し、有名な「何を為すべきか」を書き上げた頃である。ゴーリキイは「小市民」、「どん底」と続けて戯曲を書いた。ゴーリキイといえば「どん底」と応ずるくらい世界に知られた傑作であるが、この戯曲の成功によって得た金で彼は「ズナーニエ」というペテルブルグの出版書肆を買いとった。恥を知らぬツァーの政府の言論と出版の自由の抑圧に抵抗する進歩的な書肆が必要であったためである。
 一九〇四年のメーデーは、日露戦争開始によって特別の意味をもつものであるが、その時のビラを書いたのは外ならぬゴーリキイであった。翌一九〇五年一月九日の日曜日、歴史の上で有名になった「血の日曜日」に、聖旗をかざした女子供を先頭とする約十万の民衆が、日露戦争の終結、政治的自由の保証、パンと職とをツァーに求めて冬宮広場に進んだ時、ガポン僧正の裏切りによって、聖像を先に立てて「父なるツァー」に請願のため行列して行った民衆は、冬宮を背にして並んだ兵士の発砲によって千数百の労働者がたおれた。その前、ゴーリキイはこの労働者に対する射撃を防ごうとして他の同志とともにウイッテと会い、熱心に談判したがきき入れられなかった。ツァーの砲火の下に罪なく無智な労働者、女、子供の血が雪を染める間、ゴーリキイは大衆に混ってこの歴史的殺戮の証人となった。戦慄すべき記録「一月九日」はかくて書かれた。引きつづいてロシアの各地に勃発した人民殺戮に対する抗議のストライキの間、ゴーリキイは正義の擁護者としてきわめて具体的な活動を行った。
 それを理由として政府はゴーリキイをペテロパーヴロフスク要塞にぶちこんだ。政府はロシアばかりか外国でまで行われたゴーリキイ死刑反対の大示威運動におどろいて、余儀なく釈放したのであった。
 不幸なロシア人民の解放運動資金を集めるためにゴーリキイは次の年アメリカへ講演旅行に出かけた。ツァーの秘密警察は手を廻してゴーリキイについての醜聞を流布させ、その計画を妨害した。ゴーリキイの肺病はこれらの激しい活動の間に悪化して来た。アメリカからの帰途イタリーのカプリ島により当分そこで静養することにし、一九一三年ロマノフ王家三百年記念の大赦によってロシアにかえるまで八年間カプリに止った。
 ところで、非常に一般化されている「どん底」に一言ふれるならば、この作は傑作であるにかかわらずゴーリキイの発展の歴史及びロシアの労働者階級の発展の歴史、どちらから見ても一時の後退を示した作品であった。ゴーリキイは正しい社会を建設するためのよりどころとなる社会的勢力を「フォマ・ゴルデーエフ」においては商人階級の中に求めたが発見し得ず、さらに「小市民」の中で、インテリゲンツィアのうちにも見出すことが出来なかった。彼は、そこでロシアの擡頭するプロレタリアートのうちにこそ進むべきであったのに、ゴーリキイはかえって作家生活の初期に彼をひきつけていた浮浪人の中へ、「どん底」へ、さらに深い心理観察をもって戻ってしまった。
 階級的自覚をもった労働者は一九〇七年に書かれた「敵」にはじめて姿を現した。ここでゴーリキイははじめて資本家と闘う労働者を描いた。さらに同じ年「母」が出た。レーニンの指導する社会民主労働党のロンドン会議に出席したりしたゴーリキイは、感激をもってロシアの労働運動の広汎、複雑な発展の過程を描写しようとし、革命的な労働者ウラソフの闘争と息子の生活につれての母ベラゲヤの社会に対する目のひらかれて来る過程を中心に置いた。
 新たなプロレタリアの描写を試みて、老練なるべきゴーリキイははなはだ興味ある若さ、未熟さ、英雄主義を作品に導き入れた。ゴーリキイはベラゲヤをネロ時代キリスト教殉教者のように描いた。労働者ウラソフが公判廷で行う演説は、説教者くさいところもある。プロレタリア解放運動の問題を、この作品でゴーリキイは経済的・政治的基礎においてとりあげず、むしろ道徳や、美の問題と混同してさえいるのである。では、「母」は一つの失敗の作であろうか? 決してそうでない。それらの欠点にもかかわらず、作者ゴーリキイの若々しく濁りない熱情、独特な誠実さにみちた調子、劇的要素によって、十分読者をひきつけ労働者の革命的行為の高貴さを理解させる力をもっている。少くとも資本主義国の支配者たちは映画化された「母」の輸入を許可することが出来ないだけ、強力な何ものかがあるのである。
 ロシアへかえってから一九一七年の革命まで、ゴーリキイは「幼年時代」、「人々の中」その他多くの自伝的回想風の作品を書いた。これらの作品においてもゴーリキイは、自分だけを中心として書かず、自分の周囲の種々さまざまの人々が、それぞれの時代、それぞれの場所で何を考え、どんな行動をしたかということを、鋭い感覚と善良さと、ありのままに人間を観察するすばらしい能力によって描いている。ゴーリキイの回想的作品が、今日の歴史のなかで、決して過去の物語ではなく、明日へ向って特殊な社会的意義をもっている理由である。

 世界を震撼させた「十月」がロシアに来た。
 レーニンを指導者とするこの偉大で困難きわまるプロレタリア革命の時期に、小市民出身であり、自身率直に告白している通り「怪しげなマルクシスト」であったゴーリキイは、きわめて複雑な経験をした。彼は永い革命活動の閲歴と正当な社会に対する理解によって、もちろんこの革命がロシア人民のための「自由への道」であろうことを見抜いた。当時彼が主宰していた『新生活』の紙上では、ボルシェヴィキの政策について正しい理解をひろめるため、またレーニンに対する逆宣伝の撃破のため、精力的な活動を惜しまなかった。人民委員会の顧問となって、ソヴェト政権のもとに行われる新文化建設のために、「学者の生活改善委員会委員長」となり、また『世界文学叢書』の刊行を指導した。十月革命と同時に亡命したアンドレエエフやクープリンを高給でソヴェト同盟での活動に召集しようと努力したのもゴーリキイであった。
 レーニンが、大衆の不幸というものに対して妥協のない憤激を持ち、その不幸はとりさることが出来るものであり、且つ大衆自身の力によってこそ取り除かれるものであるという明白な確信の上に立っていることは、深くゴーリキイを感動せしめた。
 しかしながら、ゴーリキイには当時のロシアの社会事情ではソヴェト政権が階級としてのプロレタリアートの独裁のもとに樹立されなければならないということは、政治的問題としてなかなか腑に落ちなかったらしい。彼は、インテリゲンツィアというものは無条件にいつも進歩的であるように考え違いしていた。そのために新しい社会は、無差別にインテリゲンツィアと革命的労働者との階級的混成指導部によって建設され得るのではないかという混乱した見解をもった。レーニンと意見が一致しかねたのはこの点であった。ゴーリキイは過去において、まだ労働階級の自覚が乏しかった時代、ロシアの革命の主導的な力はインテリゲンツィアであったという、社会史の一定の時期にあった現象に執着してこの見解をもったのである。
 ゴーリキイの「ヴェ・イ・レーニン」はまことにゴーリキイらしい飾り気なさ、温かさをもって彼とレーニンとの意見の相異についても書いている。ゴーリキイの誠意に満ちた、ひるむことのない、だが決してロシアにおけるプロレタリア革命の意味と、プロレタリアートの動かすべからざる革命的任務とを十分理解しているとはいえない批評や、提案や、依頼に対して、レーニンがある時は沈思し、ある時はまだるこそうに皮肉に、ある時は悲しげに同情的に応答した様子は、尽きぬ興味を与える記録の一つである。
 レーニンとゴーリキイとの間に見解の相異があるということは、その頃しばしば国内的にも国外的にも逆宣伝に利用されたが、当時の革命の指導者達は、一九一〇年にすでにレーニンによって洞察されていたゴーリキイに対する評価を決して変えなかった。
「プロレタリア芸術のことに関しては、エム・ゴーリキイは一個宏大なプラスである」と。
 一九二三年、レーニンは自身もう病気で苦しんでいたにかかわらずゴーリキイの健康をひどく心配し、すすめてイタリーのソレントに住まわせた。
 ゴーリキイのイタリーにおける五年間の生活は、たえまない注意でソヴェト同盟の建設を研究することと、今こそ彼の目にも全貌を示した反革命的陰謀からソヴェト同盟の建設を擁護するための、大小様々の活動であった。革命運動から転落してイタリーへ行ったと思いたがっていた資本主義国の支配者は、ゴーリキイが年ごとにプロレタリアートの政党ボルシェヴィキの政策を理解し「十年」「私の祝辞」において、ますますそれに接近することを見て失望した。一九二六年から着手された「四十年」でゴーリキイは十月革命までのロシア近代の生活を描こうとした。ゴーリキイの誕生六十年記念祭にあたって、ソヴェト同盟・共産主義アカデミーで行われた討論は、ゴーリキイをもっとも重大な使命を果した文豪であるとした。〔伏字二十八字〕(この一行は復元できない)ロシア民衆の生活がいかなるジグザグの道をとおり、流血と犠牲をもって十月革命の大道へ辿りつき、更にその道を前へ前へと進んでいるかということを、その多様さ、複雑さ、矛盾のままの姿で描いた作家は、ゴーリキイなのである。
 一九三二年、ロシア革命第十五周年記念に、世界は一つの壮大な老勇士の前進を目撃した。六十四歳のゴーリキイは、その永い闘いと動揺の後、旧インテリゲンツィアという社会的集団とともに、階級から階級へ移行した。ソヴェトの建設、生活の現実をつらぬいてゴーリキイの個人主義的な理想主義は社会主義的世界観に高められた。ゴーリキイはソヴェト同盟の真の一員、プロレタリアートの政党の一員となった。十九年前、大赦でカプリからゴーリキイがロシアに帰る時、レーニンはこういう手紙を彼に送った。「ロシア(新しいロシア)を巡遊し得るということは一人の革命的作家に――ロマノフ会社に対して一つの有能な打撃を与えるための百倍もよりよき機会を提供する……」と。
 ソヴェト同盟へゴーリキイは帰って来た。今こそどんな手紙が、全世界にあってレーニンの示した社会発展の方向に向って生きる大衆から彼に送らるべきであろうか!
 ゴーリキイは、ますます豊富なソヴェト同盟の社会的経験と可能性によって、ますます大なるプロレタリア文学の達成に進みつつある。彼は全ソヴェト作家団の再組織に関する委員会の指導者であると同時に、最近、卓越した一つの戯曲を執筆したという報道がある。
〔一九三三年十月〕





底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「婦人公論」
   1933(昭和8)年10月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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