石川達三氏の「結婚の生態」という小説について、これまで文学作品として正面からとりあげた書評は見当らなかった。それにもかかわらず、この本は大変広汎に読まれている本の一つである。大変ひろく読まれながら、その読後の感想というものが読者の側からはっきりと反映して来ないまま、読者は作家と馴れあって一種の流行の空気を作者のためにかもし出す作用を行っている作品である。
「結婚の生態」が、まともな文学作品としてとりあげられないでいる原因は何であろうか。それは簡単に云えば、少くとも今日まで日本の文学が成長し、つみ重ねて来た文学というものの本質の理解から、この作品が
文学の本質というものをひとくちに表現するのは難しいけれども、つまりは人間生活の諸相の要求の探求であって、日々の我々の現実に対して一人の作家が、人間及び芸術家としてかかわりあってゆく、そのいきさつが、その評価が、作品の世界の現実として創造されてゆく過程に、芸術の本質は脈うつのであると云えよう。
「結婚の生態」は、そういう意味で芸術の世界を作品のなかに持っていない。アナトール・フランスの言葉が引用されたり、愛とか、よき生活への理想とかが文句として存在してはいるけれども、なまのままの現実生活と、そこから創造されるものとしての芸術としてのリアリティーとの関係では、作者は実生活の運用のために芸術的表現をも使っているというような工合にこの小説を書いている。
序文で、作者はこの小説は小説ではなくて、研究報告であると言っている。それ故、これが小説でなくてもそれは作者もことわっていることだと言いきってしまうことは出来ないだろう。小説というものの真髄は昔っから型にはまった
初め「蒼氓」を書いて認められたこの作家が「生きている兵隊」を経て「日蔭の村」を描きやがてこの「結婚の生態」を書くにいたった今日までの足どりは、一個の男が世相の間に次から次へと押し流されつつある跡として、そこに惨憺たるものがある。
「蒼氓」はおそらくこの作者が文学としていいものを書きたいと欲して力を傾けた素直な作品の唯一のものであったと思う。この作品によって、素材の規模の大きさやそれを扱う手腕を認められた作者は、「生きている兵隊」では、当時文壇や一般知識人の間に問題とされていた思想の諸課題、例えばヒューマニズムの問題、知性の問題、科学性の問題などをそのまま職場へ携帯して行って、そこでの現実の見聞、情景、插話の中から、携帯して行った観念を背負わせるにふさわしいと思われた人物をつくり出して、一つの小説にまとめた。
「生きている兵隊」は、軍事上の理由から問題となったが、作品の実際で文学の問題となり得たとすれば、それは現実と、その現実が強引に背負わせられている観念のままの観念との結びつけかたの作為性への批判においてであったろう。
作者がこの作品に対して野心的な態度をもって向ったことは、以上のような文学としての誤りそのもののなかにも十分窺われると思う。作者は当時口々に云われしかも深刻な日本の現実を理由として、当然未解決のまま息苦しくおかれていた思想の諸課題を、戦争の插話的情景見聞の断片と外面的に道具立的に組み合わせて扱おうと試みた。作者としても作中の世界としてもそこに、真の思想の呼吸があり得ないことは当然な現実の帰結であった。
「日蔭の村」は、やや「蒼氓」の線に近づいた傾きを示した作品であったが、ここでは、既に作者の習慣のようになった、あれこれを題材的に按配して書く、という大衆小説の手法に通じる外面的な方法がやはり消極の作用を示した。作品としての現実が渾然と読者の心を撃つというよりは、調査した実際と想像とが文学の現実以前のままのありようでつなぎ合わされていた。
文学の世界の現実と日々の実際というものとの間にあるこの作者独特な混乱は、或はこの作者が人間としては芸術のかんを持たず、ごく実際的な生きかたをしてゆくように生れついている性格だということを語っているのかもしれない。「結婚の生態」は、実際的な一人の中年の男が、若くていくらかフーピーな身よりのない娘といい家庭をこしらえてゆくことを眼目に結婚をすることから始まる。
初めは、奪う愛は誤っている、与える愛でなければならないと細君の教育や家政への手助けや大いに努めるが、やがて「それでは男の精神が寂しい。行動では我ままをしてもいいのだ。奪われる愛というものも、特に女にとっては在っていいのだ」というところへ落着く。
その間のいきさつを、人間生活の問題、両性の生きかたへの探究という云いまわしをとりつつ、現実には、ごく実際的な女房と家のもちかたというありきたりの内容を、真の精神の努力はなしに辿っている作品である。
作品のそういう本質からいうと、この小説は書かれても書かれなくても全く同じであったと云えるたちのものである。いい生活というとき、芝生があってテニスコートもあるような家を心に思い浮べるのは、どんな卑俗な若者でも、映画ぐらい見ていれば一応は描く空想であろう。どしどし仕事をして儲けて、それを実現する生きかたは、小説にかかれるまでもなく踏み古された凡庸な道ではなかろうか。
あらゆる文学は、この世俗の道への人間としての疑い、あるいはその道すがらなお魂を噛む苦しみがあることの承認から出発していたと思う。「愛情とは理由のない感情である。」「第一、恋愛とはそれ自身、認識不足によって生ずる感情の偏行にすぎない」と片づけきれない人間の心から発足するのが文学の一つの本質であったと思う。
「我々の魂の中にもし何か価値あるものがあるとしたら、それは如何に他人よりももっと激しく燃焼したかにあるのだ」とジイドの文句が引かれていても、主人公の男がいい家庭と云い、その建設のために妻を教育し扶けようとするという、その実質について全然人間生活という見地からの省察が向けられていない時、読者はどこに作者の魂の価値たるより激しき燃焼を見出すことが可能であろうか。
つまりは世俗の目やすにいい生活というものの基準をおいて、家庭は家庭と代々の凡俗な生き手たちが結論した結論をこの作品の中に知ろうとして、もし現代の若い人々がこの小説にひかれなければならないとしたら、彼等の青春の精神の鋭さと誇りとは、今日の日本の社会生活のなかで、どのように不具にさせられ、麻痺させられているというのだろう。