数あるトルストイの伝記の中でも、このビリューコフの『トルストーイ伝』は、資料の豊富なことと考証の正確な点で、最も基礎的な参考文献であろう。これまであらわれたトルストイ研究は、その土台を何かの意味でビリューコフの伝記においていた。
十六年前に第一巻が訳されて、全四巻が完訳されるのは今度がはじめてであるのだそうだ。完成の上は、日本の読者も心に親しいトルストイについておびただしい新しい知識を増すであろう。訳者の労も感謝されなければならないと思う。
ビリューコフが、この精密をきわめた結果尨大な本とならざるを得なくなったトルストイの伝記を書きはじめたのは一九〇四年、ジェネヴァでのことであった。当時、宗教上の問題から国外生活を余儀なくされていたビリューコフがフランスで出版されるトルストイの作品集に添うものとして、執筆したのであった。
伝記記者としてのビリューコフは、終始一貫して事実に正確忠実であろうとし、常に「トルストーイ自身をして自己を語らしめるように努力」している。その態度が、つまりはこの伝記の資料的な豊富さをも信頼に足るものとしているのである。
第一巻は、トルストイの祖先たちの家譜から一八六二年、既に作者として揺がぬ歩みを示しはじめた三十四歳のトルストイがベルス家のソーフィヤと結婚するまでを扱っている。
この大部な第一巻だけを見ても、内容の精密さ、遺漏なきを期せられている周到さがはっきりわかるのであるが、同時に、頁毎にくりひろげられるこの偉大な人間及芸術家の生活現象に密林はおそろしいほど鬱蒼としているものだから、そのディテールの中で迷いこんでしまわないためには、その密林をとおして各々の客観的な歴史的な位置を知らせる、云ってみれば生活磁石のようなものが求められて来る。この気持は、単に読者の贅沢であろうか。今日では、人間一個の生活の歴史も、更によりひろい歴史との相互的ないきさつの中で生きられたものとして眺め、学びたいという文化の感情にまで、私たちの世代が成長して来ているのでもあると思う。
ビリューコフは、トルストイを自分の色どりで損わないための努力で、それらの密林は密林のままにしているし、或るところどころで控えめに試みている註解の文章では、ビリューコフという人にそこまでを望むのは無理であるということもわかって来る。セヴァストーポリからかえった時代のトルストイは、ジョルジュ・サンドが大きらいで、彼女の作品をひとがほめるのさえ我慢出来ながっていたことがこの第一巻に記されている。
ところが一方でトルストイは、女性が只雌であってはならないということをあれほど熱心にその頃の愛人ワレーリヤ・アルセーネワにも書き送っている。そういうトルストイが何故ジョルジュ・サンドは嫌いだったのであろう。トルストイが雌でない女性として描いていたものと、女性であるサンドが雌でない女性として自分たちにかけた望みとの間に、どんな相異があったのだろうか。この点はトルストイの芸術の世界の一面を理解するためにも興味がある。
トルストイ自身一九一〇年頃には、その文学的考察の一つに、婦人作家の作品がその真情によって示している文学上の価値を評価して日記に書いている。この三点は、トルストイの内的発展の過程でどういう
例えば、こんな点についてもビリューコフは、ただ「アンナ・カレーニナの中に現れた婦人及び婦人問題に対する独自の見解が芽ぐみはじめた」とだけ云っているのである。
かりにこういう一つの問題について、今日の歴史の感覚で私たちがトルストイを再び読みかえそうとするとき、広汎詳細な資料でその観察を扶け、裏づけてくれるのは、やはりほかならぬこのビリューコフの『トルストーイ伝』であろう。そういう関係におかれてこの伝記は不朽の価値をもつのである。
〔一九四一年五月〕