バルザックについてのノート

宮本百合子




        バルザックの小説

 バルザックの世界において、性格は寧ろ単純である。強烈ではあるが、各々がタイプとして凝固されている。その性格の中にとじこめられている。むしろきゅうくつに存在している。主人公たちは自身で自分たちの性格を破る力を与えられていない。
 しかし、真におどろくべきことは、バルザックがこのむしろ単純な性格の人々が遭遇した社会的関係の紛糾を描き出している巨大な力量である。
 彼が大作家たる所以はここにある。
「幻滅」のリュシアンは、高く低く波瀾は大きいにしろ、性格としてはありふれて凡俗な才気と野心と浮薄さと意志しかもっていない。しかし彼を翻弄した上流人の生活詐術、十九世紀の金力と結びつき権力と結びついた新聞人の無良心的な関係、手形交換に際して行われる金融の魔術――アングレークにおけるプティクローがリュシアンに対してとる態度――を描くときバルザックは殆ど淋漓たる筆力を示している。
 彼が、関係を描破した作家であるということには、未来への示唆があり、この作家が文学上のモニュメントとなってしまわず常に生きかえる力をもっていることの証左である。
 何故なら、二十世紀後半の文学は、益々人間の集団と集団の関係を真実のテーマとする必然にあるから。

        散文

 バルザックの散文は強壮である。「幻滅」などの傑作においてはことにそれが感じられる。生活力があふれ、人生の現実に充ち各行が何かを語り、紛糾の深味が次々へと、新鮮な炭酸水のように活気横溢してみなぎっている。
 ヨーロッパ文学においてもバルザックの散文の強壮さは失われた。大戦後は散文は神経腺のようなものになり、さもなければ破産的なものに細分された。
 アランの散文に対する誤った理解はよくそれを語っている。
 日本の近代文学において、散文はどんな伝統に立っているだろうか。
 そういう見地から見ると、漱石の散文は秋声の「あらくれ」「黴」などからみるとずっと、弱い。志賀直哉の散文はよくやかれた瓦できっちりとふかれた屋根屋根の起伏の美しき眺望のように見るものの心にうつるたしかさをもっている。が、生活の中からせり出して来る生々しい建造物の規模はもっていない。
 散文家として比較すれば、鴎外の方が漱石より雄勁である。漱石のよわさは、しかし彼の稟性の低さに由来するものではない。既に自然主義にはおさまれず、さりとて自身の伝統によって内田魯庵の唱導したような文学の方向にも向えず、新しい方向に向いつつ顫動していた敏感な精神の姿である。芥川の散文は教養のよせ木であり脆さが痛々しいばかりである。
 最近十年間に登場した作家の多くが、散文から全く逸脱して小径を歩いているのも窮極は、精神の不如意と苦悩とによっている。故に壮健な散文家となる希望も、その苦悩そのものの火にしかないわけである。そしてこの苦悩の重圧は、人々をひしぐか鍛えるか二つに一つしか返事を出さない。
 ツワイクがドストイェフスキー論の中に言っているとおり、
「ワイルドがその中で鉱滓となってしまった熱の中でドストイェフスキーは輝く硬度宝石に形づくられた。」

        巨人の檻

 バルザックは、徹底的に、雄渾に、執拗に人間生活の関係を描く作家であった。大抵の才能ならば、その白熱と混沌との中で萎えてしまいそうなところを、踏みこたえ、掌握し、ときほぐし、描写しとおしたところに、この巨大で強壮な精神の価値がある。文学史上の一つの定説となっているバルザックの情熱の追求、――悪徳も亦情熱の権化として偉大なものたり得る――ことを描いたのも、人間と人間との間のエネルギーの最大の集中の形として、関係の中におかれたのであった。
 そのように、バルザックは飽くまで、関係を描く作家であったから、発端した関係をどこまでも進展させ、発展させるためには、作中の人物たちの性格を、発端において登場したままの本質で一貫させなければならなかった。
 リュシアンはどこまでもリュシアンでなくてはならず、ダヴィドはどこまでもダヴィドでなくてはならなかった。そういう人間の性格の確定の図どりの上に、はじめて、諸関係は益々紛糾し得るのであるし利害は益々錯雑し、近代そのものの複雑を示して展開する可能をもったのである。
 ディケンズはクリスマス・カロールの中で、主人公をクリスマスの晩に転心させ、にわかに慈悲の心にめざめさせた。それ故あの小説はそこで終らざるを得なかった。
 バルザックは、クリスマス・カロールに向って鼻の頭に立て皺をよせるに止ったろう。バルザックの人物を典型的という名でよぶ習慣が、いつか文学の世界に入って来ているが、私たち人間そのものの動きに立って、バルザックの文学における虚構の真実をふわけするならば、彼の人物たちは、典型というよりも寧ろ原型にちかい。
 利慾、狡猾、打算、すべて「名誉のうらには金がある」という王政復古時代の現実をなまなましく反映したバルザックの人物たちは、その旺盛な爪牙をといでつかみかかる対象を常に必要としたし、その関係が、バルザック流の情熱で純粋を保つためには――純粋にぺてんにかけ、純粋にぺてんにかかるためには――この世の狡猾の英雄に対してこの世ならぬ無邪気な魂を必要とした。それゆえバルザックの浄らかさは誇張されざるを得なかった。リアリストとしてのバルザックの偉大さと、その偉大なリアリストが無自覚のうちにわが身を一つの檻にとじこめていた微妙なモメントは、この点から今日の読者にときあかされる。
 そして、我々は沁々と考える。時代というものは何と大したものであるか、と。巨大なバルザックの精神は、利害の出発点として金と権力と名誉としか見なくて(「幻滅」において、バルザックはセ・アルテの高邁さやそのグループの人々の団結を友情のまじりけなさとしてしか把握しなかった)、階級の歴史的な対立の中に高貴な精神もこの世に存在するということは知らなかった。しかし彼の百分の一の天賦しかない一個の青年も、今日の歴史の中に生きているという事実によって、例えばエールリッヒが、ジフテリア血清の最初の注射のために闘った対立に高貴なものを感じとり、自分のうちなるささやかな善意に鼓舞をうけとるのである。

        奇妙な別離

「魂と魂との結合が完きものであったときには、この美しい感情の極致を傷けるいかなるものも致命的なのだ。悪党どもなら匕首を振った後に仲直りするような場合にも、愛する者同志は、ただ一瞥一語のためにも仲をたがえ取り返すべからざるに至る。こうした心情生活が、殆ど完璧の域にあったことの記憶の中に説明のつきかねることの往々ある離別の秘密がひそんでいるのだ。」
「銭金のことは、どんなことでも円く行くもの、しかし感情は情容赦を知らないものである。」

 バルザックがこれを知っていたことは面白い。そして私たちを深く考えさせる。金銭の利害が人を支配するということをあれだけテーマとしている彼が。それだけに又「幻滅」ダヴィドとエーヴ、ポンスのような人物を描いたのだとも云える。そして決定的な一つのことを語っている。あらゆる大芸術家の重大な資質の一つは善良さと純潔な人間性であるということについて。
「二世紀(十五・六世紀、ルネッサンス)というものは権力に抗う人々が『自由意志』の怪しげな主義を築くために費された。更に二世紀(十七・八世紀)というものは、自由意志の第一段の必然帰結たる信仰の自由の発達を促すために費された。我々の世紀(十九世紀)はその第二段の必然帰結たる国民権リベルテ・ポリチック(普選)を築こうと試みているのである。」
「一八四〇年(ルイ・フィリップ)のフランスとは如何なる国であろうか。」
「われわれにとって国家なんていうものは――」

 すべてが完成されたと云われるこの時代に、すべての名誉も何も金! 金! 金! そこで極端な辛辣さが知性にびまんした。節操を失った。
 ジャン・ジャック・ルソーを嘲弄し、サン・シモンをせせら笑う。何ものも信じない。幻滅を通った七月革命後のフランスの堕落とバルザック。こういう彼が現代において「秩序ある社会を希望する人々」としてカトリーヌをあげている。
 そういう社会をのぞみ、信義をもち得る社会を求める心からバルザックは反対党――共和党に対して王党となったのか。
 ユーゴー(一八〇二―一八八五)は共和党であった。(一八四六年頃)そしてナポレオン三世の帝政布告に抗し二十年間亡命、一八七〇年普仏戦争による帝政崩壊後かえる。「レ・ミゼラブル」は亡命中。
 バルザックとユーゴーとの大きい差は、ユーゴーは二つの対立物から更に一つを生み出す能力をもっていたが(ゴーヴァン)、バルザックは、二者のうち、そのいずれかといつも対立においてものを見た。そのために彼はその洞察の強烈さにかかわらず、いつもリアクショナルな立場にいることになっている。衷心の希望は人間的であるのにかかわらず。

        「現代史の裏面」

 ベルナール氏、ヴァンダ、オーギュスト。バルザックはここでディケンズの真似をしている。不器用にしている。
 ベルナール氏の娘への溺愛について、かくされた貧困について。

 当時のイギリス文学がバルザックに与えた影響。
サッカレ
ディケンズ(「現代史の裏面」)
バイロン(「※(「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76)皮」?)

        ブルターニュ

 木菟党をよむ。深く感動した。今日、ヨーロッパ地図の上で、人間の理性の地図の上で、ナチス侵入に総反撃を加えつつあるブルターニュのマーキの人々の活躍の価値を思い合わせて。
 木菟党は、大革命時代に王党の残党としてブルターニュに活躍した農民軍であった。バルザックは、デュマばりのこの歴史冒険小説を生彩をもってかいている。
 きょうのブルターニュのマーキの人々のひいじいさんや大伯父たちが、木菟党について知っており、又その子孫たちがこの物語をもっていることは、いいことだ。人民は、いかにおろかに祖国を愛したかについて学び、またいかに賢く祖国を愛し得るかについて学ぶこと。勇気のつかいみちについて学ぶこと。

        怪物

 ステファン・ツワイクはフーシェを、一人のロマン的人物として定型した。――次から次へと裏切らずにはいられない悲喜劇的性格として。ツワイクによってこういう風に主観化されうすめられたフーシェとバルザックが描いたフーシェとを見くらべると、一驚する。バルザックのは、陰謀を企む人々の背景に、あるときはその前景にチラリ、チラリとフーシェの剛慾さ、あくどさ、無良心。悪計。実に大革命末期からナポレオン時代、つづいて第二帝政時代と三代に亙っての大陰謀家たるボリュームが髣髴とし、湯気を立てている。
 現代欧州作家の誰が、二十世紀の怪物であったヒットラーとその一味徒党を、描くだろう。





底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年4月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「歌声よ、おこれ」解放社
   1947(昭和22)年8月発行
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について