作家の経験

宮本百合子




 今日、私たちの精神には、人間性の復活と芸術再興の欲求がつよくおこっている。日本の未来のために、それは重大な関係をもっているし、私たち日本人の一人一人が、人間として充実した自分をとりもどすためにも重大な問題である。
 けれども、これまで十数年の間、自然な形で日本の文学活動は展開されなかった。文学的な独自性をもつ創作が発表されなかったとともに、文学理論の発展も阻害されつづけてきた。ちゃんとした小説も文芸評論もなかった。その中を、不具にされた日本の文学とその不具な文学をさえなお愛する人間らしい精神の人々が手さぐり足さぐりで、去年の八月十五日までを辿ってきていたのであった。
 こういう惨澹たる日本の現実は、十何年かの昔、日本文学の発展途上に提起されていたいくつかの重要な課題について、その後今日まで、一度もまともにとりあげ話しあう折を与えずにきた。研究し、討議され、なっとくを深める機会を得ずにきている。日本のプロレタリア文学運動が兇暴な嵐に吹きちらされた一九三二年以来、当時、未熟なら未熟なりの誠実さで論じられていた諸課題が、討論されている最中であったその姿のままで、ちりぢりばらばらに今日文学のあちらこちらに存在している。文学における世界観の問題、主題の積極性の問題、社会主義リアリズムの問題などは、すべて以上のようななりゆきに置かれている。
 民主日本への歴史的な転換は、当然文学にも新しい窓をひらいた。民主的な文学という欲求がある。しかし、今日のごく若い文学の働き手、または今日読者であるが未来は作家と期待される人々にとって、民主の文学といっても、なんとなしいきなりつき出された棒のような感じを与えるのではないだろうか。若い世代は、その人々の怠慢によって知らなかったのではなく、暴力によって現実から遮断され、学ぶことを奪われていた一時期をもっている。人生について、社会の歴史の動きについて知らされなかった時期は、文学についてもまた知らされなかった多くのことのある時期であったのだと思う。
 いわば茫然として新しい文学という、その新しささえ明確にはつかめないような今日の文学の世界のところどころに、がんこに、屹立して、世界観その他の問題が脈絡なく突立っているようにも見えはしないだろうか。
 去年から民主的な文学の翹望が語られ、人間性の再誕がよろこびをもっていわれはじめたとき、これらの文学の骨格には進転のための歯車とでもいうべき諸課題について、もっとこまかに、歴史的に話しだされるべきであったと思う。そういう努力がされていれば、民主的ということの文学における今日の現実が、もっとしっくり文学自身の内のこととして身についたであったろう。文学の上に、民主的とか民主主義とかいう字が、ただとりつけられたばかりのように理解すれば、文学はいつだって文学でいいのだ、という居直りも、その感情の根源に主観的な必然を主張しうる。

        プロレタリア文学と新しき民主主義文学

 今年のはじめ、新日本文学会が結成の大会をもった。そのとき、一人の有名な作家が立って発言した。今日、プロレタリア文学のための集団といわずに、なぜ民主主義文学という定義をするのであろうか。はっきり、プロレタリア文学、といってしまったらいいではないか、と。一種の皮肉をふくませたニュアンスでいわれた。
 日本にプロレタリア文学運動が起り、それがしだいにまとまり整理されて世界的な動きの水準に接近したのは、一九二八年ころのことであった。プロレタリア文学は、その発生の本質において、そもそも既成のブルジョア文学のなかでの一流派ではなかった。その時分出現した新感覚派と称する流派と並んでブルジョア文学の伝統とその流転のはてに咲きいでた新種のはやりではなかった。文学のうまれる母胎としての社会の階層・階級を、勤労するより多数の人々の群のうちに見いだし、社会の発展の現実の推進力をそれらの勤労階級が掌握しているとおり、未来の文化発展も、そこに大きい決定的な可能として潜在していることを理解したのであった。世界のプロレタリア文学運動は、世界のブルジョア文化とその文学の創造能力の矛盾と限界を見いだして、人類史の発展的モメントとして現世紀に登場している勤労階級の生新な創造性を自覚したところに生れたのであった。
 二八年ころ、日本の進歩的社会科学者は、まだその研究の集積において豊富であるとはいえなかった。日本では社会科学そのものが、プロレタリア文学の前駆的な運動とともにうちたてられたばかりの時であったのだから。そのために、日本の社会発展の歴史のこまかい具体的な特徴について、いちどきに、はっきり理解することが不可能であった。フランス、イギリスその他ヨーロッパ諸国のとおり、日本も明治維新によって、ブルジョア革命を完成しきった近代市民社会になっているのか、あるいはそうでないかという点について、大論争が行われていた。山川均を中心とする労農派は、明治維新によって日本のブルジョア革命は完成された、とした。日本の社会の封建的な諸要素は消滅して、天皇制は本質的になくなっているとした。これとは反対に『無産者新聞』や雑誌『マルクス主義』による市川正一、徳田球一その他の人々は、明治維新の未完成を強調した。日本の社会機構に根づよくのこっている半封建的要素と天皇制支配の非近代性を指摘した。
 日本の特殊性について、大切なこの論争がさかんに行われていて、まだ一定の決定を見ないうちに、ソヴェト同盟の社会主義の前進につれ、ドイツをはじめアメリカ諸国の革命的要因の高まるにつれてどんどん進むプロレタリア芸術の理論が、日本へも幅ひろい潮として流れこんだ。それは、すでに過去の歴史のなかでブルジョア革命を完成して、明瞭にブルジョアに対立する段階に立ったプロレタリア階級の芸術理論である。日本の細いながら雄々しい民主的文学の伝統は、この時期に後進国らしい飛躍をして、先進世界のプロレタリア文学理論をうけ入れ、影響され、それに導かれて動き出したのであった。
 こういう深い根源をもつ日本文化・文学の後進性については、おそらくその当時さほど注目されなかったのだろう。しかし、その後治安維持法が改悪され、日本の侵略戦争が着手され、拡大されてゆく社会波瀾の裡で、プロレタリア文学とその理論とがめぐりあった悲劇と、この後進性とはきわめて重大に関係しあった。いまわたしたちは、はっきりとそれを見るのである。
 小説として「蟹工船」「太陽のない街」「三・一五」「鉄の話」「キャラメル工場から」「施療室にて」などが生れ、プロレタリア文学の理論は、当時国際的な革命的文学運動の課題となっていた唯物弁証法的創作方法の問題、世界観の問題、前衛の文学の問題などをとりあげた。
 西欧の諸国では、彼らの文化が全体として市民社会の経験をもち、自身の発展の推移において、封建的文学とたたかい、それを克服してきている。文学の社会性についての理解は、前世紀においてその基本を文学認識の中に確立している。日本は、いく久しい封建の社会生活の間に、文学はいつもある意味で人間性の流露をもとめるその本質にしたがって、苦しい現実からの脱出であり、主情的ならざるをえなかった。自然主義の流れさえ、日本文学の伝統の岸にうちよせれば、それはおのずから変化して、次の世代へ進展するべき最もつよい要因である人間社会現実の剔抉という剛情なきっさきを失った。作品の客観的な批評という今日での常識さえ、その時分は平林初之輔によって「外在批評」というような表現で提起されるありさまであった。文芸批評はそのころすべて主観に立つ印象批評であったから、在来の日本文学の世界の住人たちの感情にとって、プロレタリア文学理論とその所産とは、自らも住む文学の領域内での新発生としてありのままにうけとられず、文学の外から押しよせてきて、文学にわり込んできたもののようにうけとられた傾きがある。一部から侵入者と見られた。それほど、日本の旧来の文学者たちは、自身の文学の限界について自覚がなかった。いいかえれば自身発展の意欲を欠いていた。したがって保守たらざるをえない。
 一九三二年に、国際情勢に関する国際的な研究結論が発表された。それによって、日本のブルジョア革命は未完成であることが結論された。天皇制支配、土地関係その他封建的資本主義の国である日本は、明治維新において、ブルジョア民主主義を確立しえていないことが明瞭に示されたのであった。
 この三二年に、日本はみずからの社会をそのようなものとして客観的に見いだしたと同時に、ソヴェトの第一次五ヵ年計画によって自然ひき出されてきた社会主義的リアリズムの問題をうけとった。さらに、この年の春、日本の急進的文化団体への大規模の暴圧があり、治安維持法は政党以外の大衆的な団体も同列に罰することになった。
 この錯雑した諸事情がからみあって、どんな紛糾を生じたかは誰にもよく想像されるであろうと思う。社会主義リアリズムの問題はそのものとして、治安維持法の改悪からひきおこされたさけがたい恐慌は恐慌として、率直明白に別な二つの問題として取扱うところまで、当時のプロレタリア文学者たちは社会人として、理論的に成熟していなかった。悪法によって恐慌する人間の自然なこころを、そのまま主張するのが、階級的な文学の声であると知るところまで、文学的に成長もしていなかった。勇ましくあらねばならず、恐怖を知らないものであろうとした。そのために、こわい、いやだ、それはまちがっている、という声々を治安維持法に向って発せず、かえって、緊張した顔をわきに向け集めて、社会主義リアリズム論争、文学指導の政治的偏向という主題に熱中した。文学理論は、そのものとしてとりあげられず、すでに下ゆく水の流れの上におかれて論ぜられるのであったから、論議は理論的に進まず、論点の転換点ターニング・ポイントはいつも心理的な動因に立っていた。しかも、誰一人(文学者であったのに!)その機微につき入る親切も、辛辣ささえももたなかった。そのようにおさなかった。稚く、こわばって、まじめであった。
 この事実は、日本における社会主義的リアリズムの理解を今日にいたるまでまったく歪めた。この理論から文学における階級性の消滅だけが強調された。プロレタリア文学が自分の歴史性を喪って、治安維持法と検閲の枠内だけに棲息する文学になり下るモメントとなった。三二年に国際的決定を見た日本の半封建社会は、その社会に即する半封建の思惟力と文学のよわい脚との上に、プロレタリア文学運動もろとも社会主義的リアリズムという、未来にわたって展望の長い、興味ふかい国際的な文学課題までも、崩れへたばらせてしまうことになったのであった。
 ファシズムにたいしてたたかう民主精神、ヒューマニズムの主張としてフランスを中心におこった人民戦線の運動が、この度の大戦中、どんなに社会的・文学的に高貴な地下活動を行ったかは、今日私たちが少しずつ学びはじめている。同じその時期、日本での人民戦線の提起が、どんなにその枢軸たる社会性・政治性を抜き去ったものとして行われたか。階級性ぬきのものとしようとしてついに能動精神というモットーにおち、もう一段の悪情勢で、日本の文学がほとんどまったく侵略戦争のローラーにひしがれたということを、悲傷をもって経験している。プロレタリア文学の運動がはじまったころ、文学の純粋性を固守し「花園を荒すものは誰ぞ」と書いた中村武羅夫や、文学の芸術性は独自のものだと社会性ときりはなして主張した菊池寛が、戦争の間は先に立って、その花園に戦車を案内し、その芸術性を、戦争宣伝性におきかえた。これらのことは、深い教訓を示している。
 こういうあらましのいきさつを経て、今日のわたしたちは、民主の日本を建設するという課題に当面しているのである。日本の社会がその半封建性とたたかう必然は、もう今日では万人の目にはっきり見えてきている。文学の領域でもそれは当然明瞭なわけなのだが、十数年前にプロレタリア文学としての運動があったから、今日民主主義の文学というと、後退したような感じを与える。文学の前線が時によって出たり引っこんだりしているようにも思われる。しかし、それはけっしてそうではない。日本のわたしたちは、今こそ、よかれあしかれ日本の社会機構の現実の基盤とぴったり結合した文化・文学の理論をもって、発展的に動きだせる時に来ている。社会科学、政治的活動、労働運動の全線が、今日は日本のいつの時代にあったよりも正常な関係をもって市民生活の中に立ちあらわれてきている。したがって、文学も文学の自主的な足場とともに、民主国としての日本の後進性をいまや十分自覚する能力を与えられ、その自覚に立って、はじめてとっくりと十数年来のことのなりゆきをふりかえり眺めわたせる時期になった。
 新しい理解での民主主義文学運動のうちに包括されて、その最も推進的部分をなすのが、プロレタリア文学である。半封建的なものとのたたかいが、日本においてどんなに重大であり複雑であるかということは、こんどの憲法一つを見てもわかる。民法が改正されただけで生活感情の伝統の相剋はなくなると思うものはない。日本の財閥が外見上解体されたとして、どうして徒弟制が絶滅したといえよう。バイブルに、男女は差別ある賃銀を、と書いてはなかろうが、カソリック教徒である日本の文相は、それらを教員たちとの係争点にしている。あらゆる市民が半封建的なものからの離脱を努力しているとき、文学もブルジョア民主主義的立場からの面をもたないわけにはゆかない。人間性の確保、個性の確立は、ここに根をおいて文学の上に主張されうる。けれども、後進の日本は、民法のブルジョア民法としての改訂さえやっと一九四六年に行う状態である。福沢諭吉が提案した明治年代の日本における資本主義興隆期にはそれを行わず、半封建憲法・民法で押してきた。その結果、わたしたちの日常生活のあらゆる面と感情とが、古きものへのたたかいと同じ刹那に、帝国主義末期の現象であるさまざまの矛盾と衝突し、そこからの出口として、より進んだ民主主義――社会主義的民主主義を見わたさずにはいられなくなってきている。日本の民主主義が、ブルジョア革命をなしとげながらその過程で社会主義的な民主主義にうつりゆく新民主主義であるという本質が、文学にも生きてきているのである。
 今日、日本の民主主義文学は、暗い旧い世界へたたかいを挑んだヨーロッパの十九世紀末の精神から、現実に進展している社会主義社会への展望までをその領域にふくむものである。新日本文学会の大会が、プロレタリア文学の面だけをとりあげなかった理由は、これでうなずけるであろう。日本では、ブルジョア文学さえも、西欧的な意味では結実していなかった。さもなければ、文化人、文学者が、民主主義の展望の具体的要因として、どうして今日のように、個人の確立を問題とし、苦悩し、ある意味で混乱して迷路にさえひきこまれる現象が起りうるだろう。この一つの文学における基本的な課題にしても、人間らしき歴史性は、わたしたちに、独特な日本の解きかたを求めている。一人の市民が勤め人として勤め先の機械性、非人間的仕くみに苦しみ、人間として自分の一生をしみじみと思いめぐらすとき、昨日までのわたしたちの文学は、その苦悶を限度として止らなければならなかった。けれども、今日、その勤人はおそらく組合をもっているであろう。組合をもとうとしているかもしれない。その場合、その勤人は、勤め先そのものの機械性、冷血に苦しむ苦しさを、組合としての要求の中に一部吐露しうる。苦しむ市民的自分はそこで複雑となり、勤労者としてのわれわれという表現をとる。昔のプロレタリア文学は、そこでハピー・エンドであった。今日、文学の前進性、血肉性――より拡大され聰明にされた人間への理解は、そういう型でハピー・エンドになるほど現実が簡単であるとは認めない。集団の一定方向をもつ行動との関係の中で個人はふたたび見なおされ、たとえば、組合や政党などと、そこに属するそれぞれの人々の人間的・社会的具体性を見きわめ、歴史的な前進の可能の核と角度のありどころを洞察し、当然の摩擦も見解の相違も予見して、さらにその個人の社会的拡大の道ゆきを追究するのである。個性の確立の道程さえも、こんなに複雑に二重の歴史性を貫き、質の変化を予約されなければならないものとなってきているのである。
 プロレタリア文学運動のあったころ、同伴者作家という表現があった。プロレタリア文学の画然たる主流に流れ入ることはしないが、ブルジョア文学の領域にありつつ進歩性をもつ作家を、パプツチキ(同伴者)と見た考えかたである。併行して流れるものとして考えられた。今日、日本の文学が、日本の民主主義の現実と、その特徴に立つ独自の機能を会得されようとしているとき、同伴者作家というもののありようは自然別様になるのだろう。並んで流れつつ、それは別な河、という存在ではなくて、澎湃ほうはいたる日本の新民主主義文学のゆたかにひろい幅と、雄大なその延長とのうちにとけ入り、包括されるはずのものと思う。伸びる芽には必ずきっさきがある。動く車に軸がある。歴史の前進の主軸が、現世紀においては勤労階級であり、したがって、きょうの努力は来るべきプロレタリア文化・文学への展開であることを不自然とすることもいらないのである。新しい民主主義の理解は、文化と文学におけるいらざるセクショナリズムからわたしたちを自由にするであろう。日本のすべての条理ある精神は、反民主的なあらゆることについては、どこまでも闘おうと決心した。反民主的な文学とその作家たちとは、夜も昼も強固な敵をもたねばなるまい。そういう人々にとっては、芸術そのものが立って刃向ってゆくだろう。芸術、そして文学は、そもそもの本質が、人生を愛し、評価し、人一人の生命と創造力の大なる開花を歴史のうちに期待するものなのだから。

        世界観について

 文学作品の批評が、ごく素朴な、自然発生的な主観の印象に立って行われていた時代から、「作者の眼」という表現が存在した。作者の眼がゆきとどいているとか、あるいは、作者の眼光はいまだそこに達しないのである、とかいうふうに。文学のそとの世界でも、東洋人は「眼」という字を意味ふかく扱ってきている。眼光紙背に徹すとか、心眼とか。あなたの眼力には恐れいったと叩頭こうとうするとき、人は、嘘もからくりも見とおしだ、という事実を承認したわけになる。
 プロレタリア文学の理論は、いくつかの点で、文学とその文学の発生する基盤としての社会とのさまざまの関係を明らかにした。社会科学の到達点にたって客観的に明らかに証明しようとした。文学的直観の表現ではなく、かんでわかる表現でなく、文学のそとのあらゆる市民に、社会現象の一つとして、人間の創造的な作業の一つの発露として、文学現象をわからせるための努力をした。
 そのことでは、うちけすことのできない貢献をしている。文学は、少くとも文学的天才の通力だけによる所産でないことが明らかになり、人類の歴史に数多い文学の傑作は、その当時の歴史の計らざる鏡としてますます愛すべきことを学んだ。一つの小説を、最もゆたかな奥行きと、人間生活の最も綜合的な角度で味う方法を会得したのであった。
 文学の端初は、世界のあらゆる民族の生活において歌謡であった。原始の人類たちは、彼らのよろこび、悲しみ、勇躍にあたって歌い、踊った。文字はあとから、歌われた歌を記録した。だが、その歌よりもさきに、原始の祖先たちは、狩猟をし、獣の皮をはぎ、火をおこし、女は針に似た道具でその獣の皮や粗布を縫い合わせた。酋長を囲んで相談し、収穫と生産とについて部族のしきたりと定めにしたがい、習慣をもって生と死の現象を扱った。定めは、種々の場合に変革をうけ、そこには苛酷な制裁や、意外の寛大があった。集団して生きる部族の政治は、ひとかたまりに生きてゆくやりかた、としてはじまって、やがて階級分化を行った人の集団と集団間のいきさつとなっていった。生きてゆくやりかた、の根源には、その集団の定着した地域の自然的条件が重大に関係した。その意味で、生産の現実事情が、集団間の関係としての政治をきめたし、歌うこころもちの波の高低も、おのずから、その社会の生きるやりかたによって、ニュアンスをちがえたことは疑えない。人間社会では、自覚されるされないにかかわらず、客観の事実として、そういうふうに生産と政治が、文学に先行した。そして現在そうであるし、これからもその関係は変らない。
 過去のプロレタリア文学の理論は、そこまで社会の客観的現実を見る眼を開いた。いわばその眼は見開かれたっぱなしで、やがて太古エジプトの護符の「眼」のように呪文的にもち扱われた。文学は政治のあとに発生するものであるけれども、固有の狭い意味での政治と文学とは、機能のまったくちがう人間精神の二つの作業であるから、一つが一つに従属するというものではないはずである。社会にあって文学が政治とともに経済の上部構造であるにしても、芸術のように旺盛な人間の創造的表現が、人々の心に訴え、語りかける以上、それがまた立ちかえって政治に影響しないということはありえないことである。発生の順を社会科学の角度からみれば、後次的であろうとも、文学の肉体に即して感じれば、政治は、文学の体の中のことであるとしか感じられない。社会そのものが、文学の肉体感でいえば、自分のなかにあるのだから。そして、私たち一人一人が個人として、どんな形かで、今日の社会の動きかた、またその動かしかたにかかわっているのであるから。「文学は政治に従属する」といわれる場合、私たちの感情に、なにか文学に身をよせてそれをかばう作用がおこりやすい。これまでも、この定義にたいしては少からぬ誤解と反撥がもたれた。そして今日、やはり常識の中にしっくりとうけいれられずにいる。
 文学との関係で政治がいわれる場合、その政治は、けっして文学の利用者また悪用者としての政治を意味しない。この社会に対立して存在している階級と階級との間の諸経緯ならびにそのたたかいをさしている。一人の人といえども、この社会では階級に属さない生きものでありえない。人間が階級社会に生活するからには、その文学も当然階級性をもたないわけにはゆかない。「文学は政治に従属する」ということをわたしたちの言葉で表現すれば、文学の階級性という平明な、わかりやすい事実になるのである。
 社会が単純な時代、私たちの実証性の対象は、感覚で確かめられる世界の実在であった。今日、わたしたちが日々の悲喜の源泉を辿ろうとするとき、それは呪わしいばかりに複雑である。わが心に銘じる悲しみが深きにつれて、文学はその悲しみを追求することによって、単なる悲しみから立ち上った人間精神の美を発見し、美を感じ生みだすことによって、個体の経験を社会の富に転化して、そこから成長しきるのである。が、一つの悲しみ、一つのよろこび、あるいは憧憬を、独自であって普遍な精神的収穫としてゆくために、わたしたちの眼は、錯雑する現実にくい入って、交錯した諸関係、その影響しあう利害、心理の明暗を抉出したいと欲する。芸術は、ますます生きつつあることを感じて生きんとするおさえがたい欲望であると思う。その欲望につき動かされて、わが心、ひとの心、それらの心を生む社会の密林にわけ入るのだが、今日の私たちは、少くとも、自分の諸経験を、社会現象の一つとして感じうるだけの能力は備えている。どうしてこうも辛苦であろう、とつきつめた思いは私たちに、どうかしてそのわけを知りたく思わせる。
 そのわけはじつにどっさりある。いくつかのわけはすぐ見えるところにあるが、そういう事情の湧いてくるまたそのわけは、私たちの目前に直接姿をあらわしていない。だが、小さい一つの現象の切り角は、キラリと鋭く覆いがたく、その現象の本質をひらめかせている。
 私たちは、直感にひかれ、情につきつめて、現象のギリギリのからくりまでを発見しなくては、芸術の欲望がしずめられないのである。
 世界観は、眼という表現でいわれてきた、そのものの科学的あらわしかたであると思う。この社会とそこに起伏する人生にたいしてどういう眼をもって生きているか、そのことである。このことが、つまりは往来いっぱいにころがっている「小説の種」から、作家にその人の題材というものを選択させる。その作家の人生に通じるテーマを見いだしたとき、その作家の全存在を集中する精気のこった活動としてモティーヴがはっきり把えられ、労作がはじまるのであると思う。
 世界観は、鋭く美しい活きた社会とその歴史にたいする眼として紹介されなかった。日本の主情的な文学伝統にとっては、よその言葉のような言葉で提出されたっぱなしであった。
 作家こそ、生活と創作の経験を通して、わが身、わが作品でこなした世界観とはどういうものであるかを語りうるはずであった。けれども、十数年前の作家、それらの諸課題に本気でかかわりあった作家たちは経験において若く、自分たちにとってさえもそれは新しい文学の自覚であった。こなされるには時間がいった。かさなる苦労がいった。少くとも、一人の作家としての私自身にとってはそうなのであった。
 今年のはじめソヴェト同盟からシーモノフ、ゴルバートフその他四人ほどの作家が来た。そのとき、いろいろの作家がこれらのお客をとりかこんで文学を中心とする座談会をもった。そして、特別な関心をもって、現在ソヴェト同盟に行われている芸術の創作方法はどういうものであるか、と日本の作家から質問を出されている。シーモノフは、ていねいに、現在ソヴェト同盟の芸術創作方法は社会主義的リアリズムであると答えた。それにつけ加えて、社会主義的リアリズムというのは、一定のグループが自説を押しつける強制的なものではないし、それぞれの国がそれぞれの社会の現実に即して、人民が人民のための文学をつくってゆくことを意味するという註釈をくりかえした。質問者は、シーモノフがゆったりした様子で坐りながら自明なこととして話すこれらの説明に満足したらしかった。
 傍でそれらの問答をきいていてさまざまの感想にうたれた。ソヴェトの若い文学の世代、ピオニェールからコムソモールと育ってきた世代の若い作家シーモノフは、日本の文学者たちがなぜそのように、創作方法ということについてやや執拗にきくのか、一九三二年ころの日本の事情はもとより知っていない。同時に、まだ社会主義に到達していない人民が、自分たちの重圧である半封建的なものと闘わなければならないとき、資本主義勢力が民主的進展の推進力であるよりも急速にその歪曲作用を与えているとき、社会主義的リアリズムの課題は、もう一度歴史の手前のところから解説されなければならない、という国際的文学にたいする教師の任務をも知らない無邪気さで育っていることをおどろいて眺めたのであった。階級の対立がのこされている国では、社会主義的リアリズムという創作方法の問題は、ひとくちそれといっただけでは正当に摂取されない。ソヴェトが一九一七年から十二年の星霜を経て、その深刻な根本的改変と建設との成果に立って、社会主義生産の段階に到達し、生産の全面と文化の全部門から利潤追求の企業性を排除しえたとき、国内的に勤労階級と有識人階級との対立、貧農と富農との対立が消えたと認められたことは理解できる。国内的にはプロレタリアートの指導権が統一確立され、ぐるりをとりまく資本主義国間の矛盾に面して社会主義人民政権として独自の立場から対処する能力がそなわった。芸術の創作方法が、第一次五ヵ年計画を境として、初期の、唯物弁証法的創作方法から、社会主義的リアリズムに進展した根拠はここにあったのであった。この時期に、唯物弁証法という哲学上の概念と、文学の方法とが機械的に結び合わされていることの不十分さも明らかにされた。
 日本が、社会主義的リアリズムの理論をうけとったとき、ソヴェト同盟のそれらの歴史的条件は、もとより明瞭に語られていた。けれども、はじめに触れたような壊乱的状況とこんぐらかって、この理論がこねまわされたために、客観的に研究されるよりも、当時の心理に便宜な方向への解釈で支離滅裂にちぎられた。社会主義的リアリズムにいたる以前の個々の社会事情の現実の究明、日本ならばそこにますます残酷な暴力を示しつつ階級対立があるということを、すりぬけて通る役に立てられた。社会主義そのものが、まだ階級的存在であるというそのことさえ認めなかった。そして、社会主義的リアリズムは、世界観などをとやかくいわないで、作家が作家としてリアルにこの社会現実さえ描けば、現実そのものが歴史を語るのだという主張のように説明された。バルザックは王権主義者であったにもかかわらず、彼の作品は当時のフランス資本主義発展のくまなき鏡である、とマルクスもいっているというふうな説明が行われたのであった。

 きょうもまた、この古き地点からそのままひきうつして世界観の問題や創作方法のことを語る若い人々がある。
 プロレタリア文学の新しい民主主義文学との生けるつながりが明らかとなるにつれ、新しい民主主義がすでにその前脚をかけている社会主義への道が明らかとなった。わたしたちの今日の創作方法として、いきなり社会主義的リアリズムだけをとりたてることは、たとえていえば、やがて摘める葡萄の房ばかりを話すようなものだと思える。その房に届くまでに脚たつがいるのか踏台がいるのか、なにかの過程がいる。新しい民主主義の全延長における背景的部分、半封建的なものとのたたかいの部分に照応する活かされかたが当然いると思う。それはなんとまとめて表現されるべきだろうか。現実を発展の過程において理解し、描き、かぎりない発展の可能をもつ民主主義の前途に期待する意味で、私たちは進歩的なリアリズムの創作方法に、十分の多様性と多産な成果とを求めるのである。
 芸術の根蔕こんたいはリアリズムである。どんな幻想的創作でさえも、それが幻想としてありうるためには幻想のリアリティーを欠くことは不可能である。人間というものが本格的にリアリストであり、芸術の根蔕がリアリズムであるからには、作家として現実を真にその活き動く関係のままに把握しうる眼としての世界観、史的唯物論に立つ現実のみかたと、そこからのリアリズムを求めるのである。
 現実を、その動的関係の中で把握しては、詩としての美が失われるのだと主張する人がある。そういうものだろうか? ほんとうにそう思うといえるのだろうか? 一九四五年の春、世界をどよもした叙事詩は、その人にとって美でなかったとすれば愕くべきことである。少くとも一人の作家たるわたしは、四五年の四月、五月において、現世紀の主題が、いかにその積極において捕えられたかということについて、腹から諒解した。十数年昔から、わかったようでわからなかった文学における主題の積極性の問題は、女として妻としての生きかたからいくらかずつわかってきていたが、四五年の五月、それは新世紀の勝利として理解されたのであった。
〔一九四七年一月〕





底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「展望」
   1947(昭和22)年1月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について