あるところで、トーマス・マンの研究をしている人にあった。そのとき、マンの作品の或るものは、実に観念的で、わかりにくくて始末がわるいものだけれども、一貫して、マンの作家としての態度に感服しているところがある。それは、トーマス・マンはマンなりに、自分の問題を自分のそとにとり出して作品としての客観的存在を与え、それを真剣に追究して行って、作品の世界で到達した点まで自分の生活を押し出し、そこから次の生活を展開させようとしている点だ、という意味を話された。
トーマス・マンの「魔の山」などは、わたしによくわからないし、親しめない。けれども、マンがそういう風に自分の人生と文学との関係を生きているという話は、よくわかったし、本当だと思えた。その話をした研究家は、マンについてただそういう感想を語ったのではなく、日本の現代文学に、作品と作家の生活との間にそういう生きかたが見られないのは残念だという面から出た話なのだった。
作品は、いつも何かの意味で作家の実感によりたっている。その範囲で、作家は作品を生きていると言える。けれども、人間性を自分の枠のなかからたたき出して、辛い旅をさせ、客観的に追いつめられるだけ追いつめて見て到達した地点へ、自分の生きかたの足場を刻みつけて進んでゆくという、アルプス登攀のような文学と生活との方法は、ざらにあるだろうか。
経験というものは、日本の文学伝統のなかで、消極的に扱われて来ていると思う。或いは日本風に変化させられた傾向での自然主義的に。経験は、人間生活における一つの問題提起として作家にとり上げられるというよりも、むしろそれは、その経験が終ったところで作品のテーマの展開も終ってしまう話として語られている傾きがつよくはないだろうか。すべての経験が経験されたあとに、わたしたちの精神にのこるものがある。それが、問題であるか、感銘であるかは別として。そののこったものが酵母となって、わたしたちの心情に働きかけ、そこで、経験のなかから、文学のテーマが浮き出て来る。経験を経験なりに辿るとしたら、それは題材のままで語っているということではなかろうか。芸術の制作という意味は、こういうところに在るのではないだろうか。
自分のとかく定着しようとするどちらかというと生物的な限界を、本当にテーマをつかんだ自分の作品の客観性でうち破り、一歩一歩進んでゆくような制作ぶりこそ、芸術らしいと思う。芸術は、小さい自分というホウセン花の実のようなものを歴史と社会とのよりつよい指さきでさわって、はぜさせて、善意と探求と成長の意欲を人間生活のなかにゆたかに撒くことでしかなかろうと思う。自分を突破して客観的真実に迫ってゆく歓喜が余り深くこまやかであるから芸術の制作に対する熱情と献身とは、人間の世界で愛の範疇にいれて語られるのだろうと思う。
〔一九四七年七月〕