デスデモーナのハンカチーフ

宮本百合子




 ルネッサンスという時代が、理性の目ざめのときであるけれども、その半面にはまだどんなに智慧のくらさを曳いていたかということはオセロにもつよくあらわれている。オセロの悲劇は美しくやさしいオセロの妻デスデモーナが、女として一枚のハンカチーフをどう扱ったかというところにかかっている。
 エミール・ヤニングスが映画のオセロに扮したとき、彼はそのもち味で、黒人の英雄であるオセロの直情径行の素朴な人間性とデスデモーナへの情熱の面を強調した。シェクスピアは、オセロをもうすこし複雑に生かしている。黒人英雄の官能をつき動かす濃くあつい血の力のほかに。シェクスピアのオセロの心理には、黒人という生れあわせに対するオセロの白い皮膚のひとと等しい人間的尊厳の主張や自尊心やが作用している。美しいしとやかなデスデモーナが、父の許を訪ねて来て、その雄々しい物語をするオセロに心をひかれ、結婚する気分もルネッサンスらしい。また、植民地膨脹期のエリザベス朝の戯曲家シェクスピアが生きた時代のイギリス感情でもある。
 オセロの黒檀のようなつややかなきつい人間美。デスデモーナの柔かく白い大理石のような美しさ。その二人の間に、オセロの愛のしるしとして一枚のきれいなハンカチーフが存在する。イヤゴーはオセロとデスデモーナの白と黒との異国的な調和の美が完成されたまますぎてゆくことに、焦だった刺戟を感じる。人間の苦しみ、まどいする姿を、いま幸福なこの夫婦の上に現出して、そこを眺めたのしみたくなって来る。デスデモーナのハンカチーフは、イヤゴーのその詭計の媒介物としてつかわれた。オセロの嫉妬をかきたてるために罪ふかい一枚の布きれとして利用される。デスデモーナはそのハンカチーフをぬすまれ、しかもそれを男にやったように、イヤゴーに仕組まれた。
 デスデモーナが、ハンカチーフのなくなったことを心づいてからの心配は、はためにいじらしい限りである。このハンカチーフは、お互のまことのしるしとしてあげるのだからなくさないように、とオセロに云いわたされた、そのハンカチーフがなくなってしまった。デスデモーナは、閃くようにオセロの憤りを思った。その思いは、何事もないとき、甘美に耳を傾けていた良人たるオセロの武勇のつよさを連想させ、そこに自分に向ってぬかれる剣を感じ、デスデモーナは、愛と恐怖に分別を失った。きょうのわたしたち女性はデスデモーナのその恐怖やかくしだてを、全くあわれな、おろかしいルネッサンス婦人の卑屈さとして感じる。オセロがどんなにおころうとも、デスデモーナはどうして二人にとって大切なハンカチーフがぬすまれたことを気づいたときすぐオセロに云わなかったろう。一緒にさがして下さい。と、その胸にすがって訴えなかったろう。デスデモーナにはまた別の恐怖があった。オセロが、却ってそれで妻の貞潔を疑いはしないだろうか、と――
 舞台の上に見れば美しくあり悲劇でもあるこの女奴隷の恋めいたオセロへの畏怖から、イヤゴーの心理的トリックは着々と成功してゆく。そして遂に、かがやくばかりに美しかった白と黒との調和は、血潮のなかに壊滅させられる。
 オセロの悲劇の頂点は、オセロの嫉妬だけにおかれていない。オセロの人間的尊厳を愚弄されたと思った憤りと絶望の深さにある。その角度からみれば、地球上に植民地というものが存在し、人種間の偏見が少しでものこされている限り、オセロの悲劇のファクターは、人間社会から消えていないということにもなる。
 それにしてもデスデモーナは、愛のあかしとしておくられたハンカチーフは、つまるところ一枚のものであるハンカチーフにすぎないのだということを、どうして見ぬかなかっただろう。
 シェクスピアの描いた女性のなかには、堂々たる婦人裁判官ポーシャばかりでなく、おそろしいマクベス夫人ばかりでなく、なかなかぬけめない、機略にとんだ女がいくたりもある。しかし、それは大体、おかみさん、または娘という環境で、デスデモーナのような貴族の姫ではないのが多い。「ロミオとジュリエット」で、ジュリエット姫は、どんなに哀憐にロミオ! ロミオ! とよび、夜の露台で有名な独白を月、星、夜鶯にかけて訴えたろう。しかし、ジュリエットが現実に出来たことは死ぬことしかなかった。デスデモーナが、まばゆいほど白くて美しい額の奥に、オセロを出しぬくだけの生一本な正直さもしんのつよい情熱ももたなかったお姫様気質を、シェクスピアは描き出そうとしたのだろうか。ハンカチーフは失われた。けれどもハンカチーフはハンカチーフよ、愛するオセロ! では、わたしたちの愛を護りぬきましょう、と、オセロのすべての勇猛を、自分たちの愛のまもりに動かす人間らしい誠実さがなかったろう。ルネッサンス時代の若い貴女デスデモーナは、お父様、わたくしはあの方と結婚しとうございます、というところまで自主的になっているけれども、その夫婦としての愛のなかでは、やっぱり歴然と、絶対の権力、生殺与奪の力をふるうものとしての良人しかみていない。恐慌におちいったデスデモーナの心理の中でオセロの黒ささえ一層の畏怖となってゆくところも、考えさせる。
『テアトロ』という雑誌にソヴェト赤軍劇場が、シェクスピアの「じゃじゃ馬馴し」を上演することが書かれている。この場合、一般人間性の解放というところに力点をおいたり、男女平等というところにだけ力点をおくものとすれば、幾等かのナイーヴであろう。じゃじゃ馬は甘やかしとびと屈伏では、決して馴らせるものではない――条理に立つ分別に立ちもどらせられないものだ。それは、のりこなされることが必要である。女だけにをとおすには限りがあることを、ぴしり、と教えられる必要がある。この観点から、シェクスピアの喜劇「じゃじゃ馬馴し」は極めて愉快で強壮なモラルを語っている。人間・社会関係のあらゆる場合について。
〔一九四八年二月〕





底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「女靴の跡」高島屋出版部
   1948(昭和23)年2月
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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