日本にこれまでブルジョワ民主主義が確立されていなかった。現在は、日本のおくればせなブルジョワ民主革命の完成の時期である。だからヨーロッパでは十八世紀の終りから十九世紀のはじめにかけてみられた市民精神の確立――近代的自我の確立が必要であると考えている人がどっさりある。
まったく思えば日本の封建的尻っぽというものは、妖怪じみて巨大である。なにしろ二十世紀のなかばまで、あれほどの封建的絶対性が社会全般をつつんでいた事実を思えば、日本の「近代」というものは明治以来ヨーロッパでいわれている意味の「近代」でなかったことは明らかである。そして社会がもっているこの封建の暗さのために、日本の文学上の重大なエポックであった自然主義もヒューマニズムもデカダニズムさえも、日本的な変種としてあらわれた。日本的な変種の現象は、自然主義の社会観を社会文学の思想と実践に発展させなかった。家族制度の重しの下で、藤村の文学にあらわれているように、「家」の探求やせまい家族関係の中での「自分」の主張におわらせた。こうして日本の私小説は悲しい誕生をつげた。
ヒューマニズムも白樺の代表者である武者小路実篤の「人類」観を見ても、どんなにヨーロッパの近代的ヒューマニズムとちがっているかがわかる。日本のヒューマニズムは、ヒューマニズムの歴史的前進の核である社会と階級の問題をはじめから落していた。それゆえ、一九三八年ごろフランスでナチスの暴虐にたいして人間の理性をまもるために組織されたヒューマニスティックな人民戦線のたたかいも、日本に紹介される時には、大事な闘争の社会史的な核心をぬいて伝えられた。日本の天皇制は、帝国主義の段階にあってファシズムの性質をあらわしはじめていた。フランスの人々が、人民戦線によってめいめいの近代的自我を主張し、個人の尊厳をまもった努力にくらべれば、日本でいわれた人民戦線、行動主義の文学能動精神などというものは、実に社会的誠意をもっていなかった。
プロレタリア文学運動に加えられた野蛮な圧迫をおそれ、圧迫をさける一つの逃げ道としてばかりあつかわれた日本の当時の動きはもとより「自我」をまもるどころではなかった。
これらの事情をかえりみると一緒に、わたしたちは真面目に一つのことを反省しなければならないと思う。それは日本の封建性の圧迫をつねに感じていて、そのために感受性が異常になっている日本のインテリゲンチャの間には、一九二八年以来、奇妙な自己撞着があるということである。その自己撞着は、いつも自我の解放、個人の運命の自由な展開ということについて熱心に念願しながら、いざその実行に立たなければならないという時には、きまって何かの影におびえて動かないような理窟を見出して来たことである。
ちょっと見ると不思議に思えるこの現象は、人民戦線時代の文学の論争を見ても明瞭である。社会主義リアリズムの論争についても微妙な特色となっていた。そして今日、またこの苦しい自己撞着が自我の確立の問題についてあらわれている。
わたしたちは率直にならなければならない。わたしたちの求めるものを、真実に求めなければならない。日本と中国の新しい民主主義が歴史の深いたたみ目をもっていて、民主化という一つの言葉の中に、ヨーロッパの二世紀と今日のもっとも前進した民主主義とを包含しなければならないという歴史を否定しないならば、自我の問題も世界史のこの雄大なプログラムにしたがって解決してゆかなければならない。
発展と成長とのおさえがたい力を信じなければならない。夜の間にも動いている歴史を見透さなければならない。人間の愛情を見るとこのことはよくわかる。小さいこどもが歩きはじめたとき、その親やぐるりの人は何といって見るだろう。今はヨチヨチ歩きの段階だから、この期間は完成させなければならないといって、もっとよく歩けるようになる日のために、下駄やくつをよろこびをもって用意しないだろうか。
わたしたちが人間を愛し、その価値を評価する意味で、自分と人との「自我」について考えるとき、その自我の最大発展の可能を希望することはへんだろうか。歴史がその複雑さでわれわれの前に示している最大の可能にまで、自我を発展させ成長させ、新しいものにしてゆく機会をつかもうとすることは幼稚なことだろうか。
人間が変革されなければならないということは、人間を変革し得る社会をもたなければならないということを常識とするまでに、一人一人の心の中で半封建的であった日本の社会感覚が変革されなければならないということである。この生きた厳粛な相互関係をぬきにしてわたしたちの人生の発展はない。
われわれがものを考える能力をもっているということは、つねに人類の誇りであるとはいい切れないことを痛切に感じる。絵にかいたらば妖怪のような理性の逆立ちした思惟や、勇気の欠けていることをおおいかくすための詭弁や、――それは人間の愚劣さをあらわすものとしてわたしたちの周囲にあふれている。解放したい「自我」を詭弁の足かせでしばりつけることは、あまり悲しいことと思う。
〔一九四八年三―四月〕