なぜ、それはそうであったか

――歴史・伝記について――

宮本百合子




 私たちの日常生活でのものの考えかたの中には、随分現実よりおくれた型が、型としてはまりこんだまま残されていると思う。たとえば歴史というものの理解についても。――
 一般に歴史ときくと、まず昔のこと、と思う。歴史的といえば、昔より今までの間に起ったことで、社会的に人間的に一つの峰をなすような過去の事件という風に思う。歴史はいつもすぎたこととして感じとられ、今日という今の刻々が歴史そのものであり、しかも今の刻々には、過去のどの時代ともちがった条件で、人間の主動的な善意、熱意による変革を加えることのできるおどろくべき可能がひらかれているという事実が、割合実感されていないことは残念だと思う。
 いつの時代でも、最も人間らしいぴちぴちした理性と情感とをもった人々は、柔軟でつよいその意力で、歴史というものを、彼等の生きたその時代の今の上にとらえた。レオナルド・ダ・ヴィンチにしても、ヨハネス・ケプラーにしても、決して歴史を過去のものとして実感せず、自身の業績のうちを明日の発展へ向って流れる時の感覚として自覚していたと思う。もちろん、どんな偉大な能力をもつ人でも、それぞれの時代の限界を全くとび越えた生きようはできない。ケプラーのような真摯な天文学者でも、彼の生きた時代の権力と宗教とが暗愚であったこと、彼の母親が魔法つかいとして宗教裁判に附されようとしたりして、そのために時間を費し、精力を費してたたかわなければならなかった。けれども、魔法つかいといわれた年老いた母の救いかたにおいて、宗教裁判とのたたかいかたにおいて、ケプラーのとった方法は、全く近代の科学者らしく実証的であり、科学的でその上行動的であった。ケプラーの伝記「偉大なる夢」をよんだすべての人々は、この点を感銘深くうけとっただろうと思う。母のために宗教裁判所とたたかったケプラーの科学者としての客観的実証的な方法と、堅実果敢だった態度とは、ほんとに人類的な学者というものが、その学問にたって正しさを貫くことから、社会歴史の強力な推進者として歴史の上にあらわれるものであることを示している。
 レオナルド・ダ・ヴィンチは、いかにもルネッサンス開花期の人間才能の典型であった。当時の芸術科学の分野でほとんど万能に近かったと語られている。今日われわれの地球をとびまわっている航空機の発明もレオナルド・ダ・ヴィンチによって着手されていた。この事実は、歴史的に評価されている。だけれども、レオナルドが、彼のフロレンスの仕事部屋で、人間をのせて飛ぶことのできる機械について力学的な計算をし、製図し、製作しているとき、彼の胸には、どういう感想があったろう。ギリシア神話にあるイカルスの冒険を、科学の力で、人類のすべてにとっての冒険ならざる可能として実現してみようとする思いだけがあっただろう。人類の視界の拡大というひろやかな想像に動かされただろう。空をとぶ大きな鳥のたのしそうに悠々とした円舞を見あげて、あんな風にして自分たちも自由に空をとんでみたいとあこがれる人類の感情を、ギリシア人が、若々しい人類の歴史の若年期を生きつつ、自分たちの社会の伝説にとりいれたことはいかにも面白い。同時に、歴史はそのときにつくられつつあるものだ、という証拠が、イカルスの物語に証拠だてられてもいる。というのは、空をびたいと熱望した少年イカルスが、大鳥の翼を体につけて地上より飛び立ち、高く高くと舞い上って行ったけれども、あんまり天に近いところまで行ったら、ジュピターが人間の少年イカルスの剛胆さに腹をたてて、イカルスの背中に翼をくっつけていたにかわのようなものを太陽の熱気でとかしてしまった。そのためにイカルスは飛行力を失って、翼と体とをばらばらに海上へ墜ちて死んでしまった。伝説はそう結ばれている。
 イカルスの物語は、人類の発展的な冒険心の肯定とその終結における否定との矛盾で、わたしたちに同じギリシア神話の中のプロメシウスの物語を思いおこさせる。巨人プロメシウスがオリンパスの神々の首長であるジュピターの神殿から火を盗んで来て、それを地上の人類にもたらした。人間は追々その火を使うことを学び、はじめて鉄を鍛え、それで耕具や武器をこしらえることを発見した。火と鉄とは人類の発展のための端緒であった。この社会の現実をギリシアの人々は正当に理解した。巨人プロメシウスの勇気は、美しく高く評価された。しかし、当時のギリシア人はこの巨人プロメシウスの人類的な貢献にたいして、天上と地上の支配者ジュピターは激怒するという想像を拒むことができなかった。プロメシウスが、ジュピターによって地球の骨といわれたコーカサスの山にしばりつけられ、日毎新しくなる肝臓を日毎にコーカサスの禿鷹についばまれて永遠に苦しみつづけなければならない罰を蒙った、というこの物語の結末を、後代からは叡智の選手のように見られたギリシアの哲人たち誰もが変えようとしなかった。
 比類なく自由だったと思われているギリシア市民が、彼等の伝説の中で、なぜイカルスやプロメシウスのように雄々しく、若く美しい冒険者たちを、黒髯のジュピターの怒りのもとに無抵抗にさらさなければならなかったのだろう。ギリシアの諸都市が、奴隷をもってその繁栄の基礎をなす生産労役をさせていたという現実が、この微妙な自由における矛盾の心理的根拠となっている。ギリシアの自由都市の人々は、自由人一人について奴隷数人という割合であった。自由なギリシア市民の精神は、自由という面よりイカルスもプロメシウスも積極的に想像し、その想像をうけいれることが可能だった。しかし、その半面の現実である奴隷使役者としての市民感情は、敢てなお人類の勇敢さというものを無際限、無条件に肯定しかねる心理が存在した。自由市民が労役奴隷に対して、どたん場で発揮し得る絶対権力があった。その姿がそっくりそのままギリシア伝説におけるジュピターの専制権力として反映した。かりに優秀な人間的力量にめぐまれたある奴隷が、奴隷として許された限界を突破して――主人の繁栄と利益のためにだけ献身するという目的を破って、自身の解放のためにその才能を活躍させるとしたら、奴隷所有者の不安はいかばかりだろう。奴隷の能力は、公平に評価され、愛され、一応の屈辱的待遇より彼を自由にするであろう。だが、決してそれは条件なしではなしに――決してそれが、自由市民の安定と繁栄とをゆるがさない条件の下において。――さもなければジュピターはたちどころに天罰をくだすだろう。奴隷自身の自由のための奮闘は、所有者にとって反逆とうけとられる。反逆という観念は、所有者の政策に反した。イカルスを死なせ、プロメシウスをさいなむような残忍さで、主人の怒りは才能と勇気のありすぎる不運な奴隷の頭上におちかかるだろう。身のほどを忘れるな。ギリシア神話における自由の矛盾のかげには、このような奴隷制の上にきずかれた自由市民の自由そのものにある矛盾が反射しているのである。
 ギリシアのどんな賢人も、今日、東洋の一人の婦人作家が、彼等の伝説について話すこんな風には自身の伝説を話さなかった。なぜなら、彼等の叡智も、ギリシア社会の自由の矛盾を客観することは不可能だったから。叡智は奴隷の労役の上につくり出された閑暇の上に咲いていたから。ギリシア伝説の支配階級のものとしてのモラルは、それら賢人たちのモラルとして実感されていたのであった。現代の社会科学は一人の平凡な女性にもこの意味ふかい秘密をときあかして見せている。そこに進みゆく歴史の足どりの意義がある。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの能力に匹敵するどんな能力が、いまこの物語をかいている一人の日本の女とその読者のうちにあるというのだろう。比較になり得ない後者の貧弱さにかかわらず、なおかつ、わたしたちはレオナルドの時代が考えなかった事実を航空機に関して考え、彼らの感じなかった感情を感じつつある。イカルスの物語は、空をもとびたい人間の憧れを人類的な規模で語っている。レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネッサンス時代の新鮮旺盛にめざめた科学への開眼で、その人種のあこがれを科学の力で実現してみようとした。前後いくつもの世紀を経て、人類の科学的能力はとうとう、航空機製作というものを最も大規模な近代的産業部門の一つとするまでになった。ところで、すべての人類共通のものである空をとびたい思いは、どんな形でかなえられているだろうか。目ざましい航空能力は、果して全人類のよろこびのために、幸福のために万遍なくつかわれるところまで発達しているだろうか。
 航空能力は、人類生活のよろこびと、よりひろい眼界をもつことによって、より宇宙的人類に生長してゆくために、全人類に解放されなければならない。他のあらゆるよいもの、賢いもの、美しいもの、有用なものと同様に。石炭、石油、鋼鉄そのほかさまざまの地球のもちもの同様に。音楽、文学、映画などが、地球の各人民の生活からそれぞれの特長をもって発生しつつ、全人類の所有に帰すると同じように。
 したがって、現代説話のイカルスは、太陽熱にとかされる古風な膠などで自分の背中に翼をとりつけてはいない。イカルスは一人ではない。複数になった。地球上幾億の翔ぼうと欲している男女はイカルスとしてあらわれて来ているし、その翼は、膠で背中へつけた二枚の羽根ではなくて、飛ぶ可能を万人に与えるような社会条件をつくり出してゆく科学の諸方式と集団的なその実行となってきている。イカルスも、プロメシウスも現代説話では、その質と表現とをかえた。ギリシア伝説の巨人は人民のなかに入って、一つの民族をかたちづくるそれぞれの人民の可能性として、今日から明日を生み出しつつある歴史のにないてとして、登場して来ているのである。
 歴史というものは決して、ただあることがこうしておこり、こうして終ったという現象の記述ではない。あることがおこった条件、それがそのように終った理由、全事件が人間社会の発展にどんな意味をもつかというところまで立ち入って見られたとき、それははじめて、人間の記録として、今日をより豊かにし、明日をより聰明にする歴史というにふさわしい。
 日本の新しい歴史教科書『国のあゆみ』がその精神において低劣なのは、あの本のどこにも日本人民のエネルギーの消長が語られていず、まるで秋雨のあと林にきのこが生える、というように日本の社会的推移をのべている点である。毛穴のない人工皮膚のような滑らかさで、ことなかれ、ことなかれと時代から時代へぬき足してすべりこんでいる。人類は、そんな卑劣な生存ではない。リアリティーはゴム製人形の陳列棚ではない。生きる情熱は、よかれあしかれ、しぶきをあげて波うち、激し、鎮静し、その過程に何らかの高貴さを発現するものである。
 伝記というものも、こういう歴史そのものの本質に立つ以上、ある人の身の上にただこれこれしかじかの事件が起った、よくそれに耐え、それを凌いだ、云々という訓話的記述であってはつまらない。個人の枠のなかで、どんなに詳細にそれを分析してみても、過去及びこんにちの現実にプラスすることが少いのは、ステファン・ツワイクのようなすぐれた伝記作者でも、フーシェをつまらなく書いたことでよく証明される。ツワイクはフーシェに個人的興味をよせすぎ、主観的な照明をあてすぎ、血の気のうすいものを書いた。バルザックが、彼の人間喜劇のところどころに隠見させているフーシェの方が、垣間見の姿ながら時代の生々しい環境のうちにあくどい存在そのままにとらえられていて、はるかに傑出している。
 ナポレオン伝において、大革命につづく混乱期に列国の旧勢力とフランス内の旧勢力とがどのように結托して、名誉ある本命の血から帝政と王制復古の馬鈴薯を生やしたかというかなめが解剖されていないならば、こんにちの日本のわたしたちにとって読むべき真実の価値はないだろう。そして、今日の世界はフーシェにあきている。欲するのはジャン・ジョレスである。――四分の一世紀を経た今日では、一人のジャン・ジョレスも死なせまいとする世界平和のための大組織を目ざす自主平和の人民のよみものとして。
〔一九四八年十一月〕





底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「伝記」
   1948(昭和23)年11月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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