「現代日本小説大系」刊行委員会への希望
宮本百合子
「現代日本小説大系」が刊行される意味は、ただ日本の近代文学をもう一遍よみかえし、検討し、将来の文学に寄与するという風な、すべてのこれまでの刊行会の挨拶の範囲では、使命が果されないと思う。これはまじめに日本の社会の推移を基礎にした精神史のみなおしという決心のもとにすすめられるべき仕事だと思う。目次のゲラをみると、これまでの既成文学史と同様に、写実主義時代、浪漫主義時代、自然主義時代と順を追って、プロレタリア文学、モダニズムとすすんでいる。こういうわけ方は、東京堂出版の「日本文学史」や改造社の「文学全集」でもやったことである。写実主義時代の日本の民主的な文学、浪漫主義時代の作家によってかかれた反戦的な作品は、ここに見当らない。しかし、われわれがこんにちと明日の日本の文学を真すぐにのばしてゆくためには、小田切秀雄著「発禁作品集」、宮武外骨の「筆禍史」をも十分研究した文学史が必要である。写実主義時代といえば、二葉亭から緑雨、露伴の「風流仏」というのでは、解説者の努力によってのみなにかの新しい文化史的価値がそえられるという程度ではないかと危ぶまれる。
昭和十年代の扱い方は、とくに複雑であろうと予期される。この時期は日本のおそるべきファシズムの時代であった。この時代の後半にジャーナリズムに通用した作品は、決して率直にファシズムと戦争に対して抵抗を示すことができなかった。この目次では戦争協力と超国家主義の作家たちが登場していないとともに、こんにち新しいファシズムの力と闘ってゆくために皆が知らなければならない当時の現実の、むしろ本質的な部分がうずめられている。綺麗ごとになってしまっては、歴史を前進させるバネがぬける。したがって、一層これ以前の時期から、野暮に正直に不遇な日本の民主精神と、平和への精神が追求される必要が痛感される。
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