現実の道

――女も仕事をもて――

宮本百合子




 先日はどうも失礼。久しぶりでお目にかかったし、元気に働いていらっしゃる御様子だったので、私もたいへんいい心持でした。
 ところで、あなたは大きい宿題をのこしていらっしゃいましたね。永年職業婦人としての経験をかさねて来ているあなたが、とくに、職業というのではなく、と念を入れて、一般に女のひとがもっと自分の生活感情のよりどころとして何か真に打ちこめる仕事を持つようにすすめたいと強調されたことが、あの折にも私の心に深い印象としてのこりました。
 まったく全体として女の日暮しの姿を落付いて、こまかに眺めれば、そこには人生の浪費とも心づかれていないような惰性のうちに、貴い生活力と歳月との消耗がくりかえされています。娘から妻へ、妻から母へと、女の生涯は綿々としてうつりすすみつつあるのだが、自分という一人の女の生きかたにある見通しを立てて、一応はありふれたような生活の道をも辿っているという女のひとは、本当にこのおびただしい女の中で何人いることでしょう。
 ひとりでいる時の気持が、たっぷりと豊富でなければ、自分の周囲に生活の暖さや、鼓舞や希望を与え得るものではありません。自分が生き、ひとを生かすために、女はますます多くの困難にうちかって行かなければならない時勢です。だから、明るい生活力を充実させる意味でも女は家庭にあっても何か一つ、中心的な仕事を持つことがのぞましいと、あなたはいっていらしたのだと思います。
 職業をもって働く必要のない娘さんたちでも、昔のようにただ嫁入仕度としてあれこれの稽古事をするのでなく、一つだけはまとめた技術を身につける方がよいという考えは、進歩的な家庭の今日の常識ではないでしょうか。
 家庭をもっている女が、良人と子供とのために自分の全時間、全精力、あらゆる悲喜を打ちかたむけて生きることも、それで生き終せればあるいは一つの幸福かもしれません。しかし、予期しない波瀾や破局が起った時、そのようにして自分の若さも才能も生活の力も使いへらして来た女のひとが、目の前に見得るのが満天の灰色な空虚でしかないことも、恐ろしいことです。精神的にも、女の自主的な部分が拡大されることは、私たちの生活の毎秒ごとに起っている悲劇のいくつかを防ぐであろう。悲劇を惨劇に終らせぬ力を増すだろう。そのためにもと、あなたは、女に職業としてではなくても仕事があった方がよいとお考えになる。
 家庭にいても何か一つ本気でやろうとする仕事をもっていれば、確に彼女は時間の上手なやりくりや家事の単純化を実行するでしょう。些細な日常の感情軋轢あつれきを整理することをおのずから学ぶであろうし、その点では、仕事そのものの上達につれて二重の賢さ、生活術を会得してゆくわけになります。この事は実際上、良人や子供の理解なしにはなりたたないから、好都合な事情で運べば、よい妻、いい母さん、そして手芸であれ、エッチングであれ何か一つの仕事をもった女主人として、描かれる一家団欒の画面は非常にこまやかで活溌な生気に溢れていることも想像し得るのです。
 女の生活と仕事をもつことの意味、有益さについて、ここまでは至極わかりやすいのではないでしょうか。結婚したら女房には稼がせたくないという考えをもっている若い男が今日もなお多勢います。そのために、自分の薄給では結婚もできずにいる不幸な青年たち、今日の多難な社会で特別な経済的根拠も持たない若い男と女とが、ともに助け合って生きてゆく結合の形として、家庭というものをいまだに長火鉢中心の古い型にあてはめて不自由に、消極的に考えている不幸な男のひとたちでも、以上のような意味ですすめられる女の仕事を、一概にけなすことは不可能でありましょう。
 抽象論としては一応誰にも納得されるだけに、私たちはこの女と仕事の問題を、注意ぶかくしらべる必要があるのだと思います。なぜなら現代の女の生活は、実に複雑な経済的文化的な諸事情に影響されているのですから。――

 まず、一人の女が生きてゆく上で心のよりどころとなる仕事というからには、それが、ただ好きだというだけでは不十分です。その仕事によって、ある程度の生活保証もできるだけの仕事でなければならない。一つの技術の上達に対する確信に加えて、それによって社会的にも一人立ちしてやって行けるという自信、安心。生活の実際ではこの点が将に重大な意味をもっている。これは否めない事実です。
 たとえば新交響楽団の演奏会のおりおり、ハープの弾奏者として舞台に現れる加藤泰通子夫人があります。日本に演奏者の少いハープがこの夫人の趣味にかなったことから稽古をはじめられたでしょう。はじめは全く生活に余裕ある夫人のよい一つの仕事であった。ところが技術の進歩につれ、だんだん公開の演奏会へも出られるようになり、夫人の仕事はいつしか邸内の音楽室から公会堂へまでうつり、よりひろい社会関係の間に露出されて来ています。
 また、先頃フィリッピンのバシラン島附近で高麗鶯の新種を発見して博物学界に貢献した、博物採集を仕事としている山村八重子さんの自分の仕事に対する愛情は、すべての事情からいわゆる商売気は離れています。彼女には商売気を必要としない生活の好条件があり、普通ならば、遊惰に消されるその好条件を、学問的に活かして社会的なあるねうちを与えているところに、彼女の仕事の価値が輝いているといえます。
 吉井徳子さんの場合は、幾重にもたたまってかぶさって来た境遇的な不幸を、一人の女としてはねかえして生きる道を見出すために佐賀錦の仕事がとらえられました。仕事、そして職業。ここでは二つのものが、生活の必要という立前から虚飾なく統一されている。
 あのひと、このひと、と実際の場合について考えて見ると、仕事らしい仕事をしている女のひとは、結局みなそれぞれの技術で、万一のときは十分やって行けるところまで達している、つまり玄人であるということに気付くのです。
 私は、ここに人間の本然的な社会性と仕事の現実性の面白いところが潜んでいると思います。仕事というにあたいするだけの仕事はこの社会の現実の中で決して超人間的、超社会的関係にはあり得ない。人間と人間との相互的ないきさつの間からこそ、仕事は生じるのであると見られます。仕事というのは、あるひとの生活意欲の社会的価値への転化具体化であるのではないでしょうか。人に見せるためではない。人に聞いたり、読んだりして貰う為ではない。本当に私一人の慰みのためにという表現で女のひとが、自分の余技、仕事を語る。特に日本ではそれが一つの謙譲なたしなみのようにさえ見られて来た習慣があるけれども、そういう慣習こそ、わるい意味で女の仕事を中途半端なものにしてしまっていると思います。ポーランドの代表的な婦人作家エリイザ・オルゼシュコの「寡婦マルタ」という小説は、ヨーロッパの文化の間でも女の教養というものが飾りとして、嫁入道具としてだけ与えられていた結果、いざ本当にそれで食わなければならないとなったときに、知っていたはずのフランス語もピアノも絵も、生活の役に立たないことが証明されて、悲劇的にその命をを終る美しく潔白な女の一生を描いて心を打つものをもっている。現在それで食わないにしろ職業としてやってゆけるだけの実力があるということこそ、ある仕事をもつことで女に心と生活のよりどころを与える必須条件だと思わずにはいられません。そして、それを職業としてゆくからこそ、道楽では踏み切れないところをも踏み切って、自分の技術をも発展させてゆくのではないでしょうか。社会的な責任の自覚やある意味で仕事の上での闘志も強靭にされてゆくのではないでしょうか。よく世間で、なかなかやるが結局お嬢さん芸でね、奥さん芸でね、という批評を、殿様芸に並べていうのは、ここのところの機微にふれていると思います。
 では、お嬢さん芸でない技術、奥さん芸でない技術をそれぞれの仕事において女がつけて行くことが、今日の社会の事情ではたして楽なことでしょうか。私はこの答えは決して容易でないと思います。この頃は日本でも生活に困らない教養のある若い女のひとがいろいろの仕事に従事するようになって来ました。けれども、その根柢においては、真に女の生活の社会的条件が高まったとはいえない例が多い。月給で自分が食べたり、家庭を扶助したりしている女はとかくうるさい、月給なんかなしでも何か仕事をしたいという娘がこの頃は相当沢山いる、そういう女でもさがそうじゃないか。そういう言葉が平然といわれている状態です。若い女のひとの興味趣味などに沿うて、雑誌の編輯員の中には、今日一人や二人きっとこういう種類の若い女の技術志願兵、実は女の労働力・才能・教養を社会的にダンピングしている人がいるのです。
 それらの若い女の人たちはもちろん微塵の悪意もないのです。これまでの家庭生活が若い女に加えている窮屈な常套をはねのけて、生活的によりひろい社会との接触の中に生きたいという欲望から、また、仕事そのものに興味があるということから、無邪気にこの社会の機構が思いつかせる悪計に利用されているのです。
 職業的という言葉は、現在の社会では私たちの感情に何か特別な響きを与えます。反対に、あああのひとは職業的にやっているのではないから、という時、おのずから前の場合とちがう感情を刺戟されるならわしです。しかし、これはどういう理由によるのでしょう。はたして自然なことなのでしょうか。
 今日の社会では、職業的ということと金儲けが眼目ということはほとんど同義語に印象される習慣です。生存競争が全く個人主義的に行われているから、職業的というとき、ひとよりちょっとでも分をよく立ちまわるということがすぐピンと来るような憐れむべき事情におかれているのです。職業的にやっていると聞いて、はじめてそのひとの技術なり責任感なりが安心して感じられるようにならなければ間違いなのではないでしょうか。
 婦人車掌が結婚するとやめさせられる。そのことに彼女たちが反対の意見を表していることは周知の通りです。こういう女の職業についての奇妙な不公平も、要するに過去の久しい間、女の職業というものについて女として求める確乎性が社会的に認められていなかったからです。女自身、ましてインテリゲンツィアの女のひとが、とかく抽象的に自己完成のための仕事を偏重して、それを正々堂々と職業として、それ相当な社会的評価を求めようとしなかった傾向はふるい社会の通念を計らずも裏から合せ鏡で照り返しているようなものだといえます。
 それにもかかわらず、昨今はいくつかの事情が輻輳して、ますますその仕事と職業との分裂が強まって来ている。そういう傾向の一番あらわれ易い文学の領域などではこの現象がまことに顕著です。直接生計の不安のない夫人たち、家事はほかのひとにまかせることのできるだけゆとりある社会的環境の女の人々がある意味で進出して来ています。これは、今日の文学そのものの問題も一面にふくんではいるが、そういう条件をもった婦人たちの文学の仕事ぶりと、一方に、真の意味で若い時代の声を反映するような新しい婦人作家の誕生と発育の困難性とを客観的に比して見ると、単純に女の文化は高まりつつあるといい切れぬものがある。今日の現実生活のうちで、仕事と職業とを切りはなして考えるひとの事情というものは、多く何かの意味で特殊なものです。その特殊な環境の作用からある意味での貴族主義、ひろい目から見るとある意味での独善に傾く危険がなくは無い。大多数の女のひとの今日の生活は逼迫の度を加えられていることは実に明らかなのですから。サラリーマンの妻としての暮しにおいても、サラリー・ウーマンとしての暮しにおいても。
 女の仕事と職業とが性能の上からも一致し、正当な社会評価を求め得る気風が一般化されてこそ、女の生活は豊富になり、明るい力強さをもつと思います。当面生活の心配などなく、永年多額の金を修業につかうことのできたごく僅の女のひとたちだけが、いわゆる仕事から職業へ有利に移ることができるのだとしたら、私たち大多数の女にとって悲しい残念な事実ではないでしょうか。金のあるひとだけが金を儲けて得ているという今日の冷酷な原則がここにも形をかえてのぞいて来ているのです。
 インテリゲンツィアの若い女が勤労者として生活しなければならない必要は、昨今急激に増してきています。しかも、必要によって捕えた職業は常にそのひとの心から好きな仕事でないことが多い。女として職場での条件にあき足りぬことも多い。小学卒業したまま製糸工場の寄宿舎へつれて来られた小さい女の子たちは自分たちのおかれている悪事情さえ意識できない程度であるが、女学校以上専門学校出の職業婦人は、この点では敏感であり、人間としての自尊心もある。社会事情はその人間的なものを苦しめるし、傷ける。よろこんで働ける場合が本当に少い。そこから、職業は生活のため、人間としての心持のはけどころとして他に何か、と別に仕事を目で追い求めてゆくのでしょう。だが、彼女たちの経済力と時間と精力とが、はたしてどの程度に自由な利用のためにのこされているでしょうか。ここに痛切な疑問があると思います。体力的に見て、二種類の活動に精力を分けられる程度の疲労だけですむ職業は、少くとも今日職業と名のつく職業にはないと思う。職業をもつ女は、いわばもっと腹をすえなければならないのではないでしょうか。昔の立身出世の意味でなくもっと自身の境遇、その職業にうちこんで、職業そのものの条件をいくらかでも人間的にましなものにしてゆくために腰がすわらなければならないと思います。
 女のひとが仕事と職業とを分けて考えがちになる気持の根拠には、複雑な形で今日の社会の事情が反映しているのですが、私はそれであればあるだけ、女がますます仕事と職業との一致確立を可能ならせる方向に共同の努力を向けてゆかなければならないと思うのです。境遇の事情で、いわゆる仕事として技術を身につけているひとも、これまでのように、私は職業にしてはいないのだからと、離れた心持でなく、やはりその仕事の実質で、女全体の社会にとい得る価値を高めるように押してゆくべきでしょう。女の職業と仕事との分裂した評価が女の側からさえ行われている間、仕事そのものの内容や評価も、自然客観的には低められ、歪み無気力なディレッタンティズムの中にかがまってしまうことになると思います。
〔一九三七年七月〕





底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人公論」
   1937(昭和12)年7月夏季特輯号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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