フロレンス・ナイチンゲールの生涯

宮本百合子




 慈悲の女神、天使として、フロレンス・ナイチンゲールは生きているうちから、なかば伝説につつまれた存在であった。後代になれば聖女めいた色彩は一層濃くされて、天上のものが人間界の呻吟のなかへあまくだった姿のように語られ描かれているが、フロレンス・ナイチンゲールの永い現実の生活は、はたしてそんな慈悲の香炉から立ちのぼる匂いのようなものであったろうか。人間のために何事かをなし得た人々は、今も昔もきわめて人間らしさの激しくきつい人々、その情熱も智力も意志もひとしおつよい人々ではなかったのだろうか。

 フロレンス・ナイチンゲールは一八二〇年イギリスの由緒ある上流の娘として誕生した。一八二〇年といえば日本では徳川時代の文政三年、一茶だの塙保己一だのという人が活躍した時代、イギリスは植民地インドからの富でますます豊かになりながら、一方にうめることのできない貧富の差を示して来たヴィクトーリア女皇の時代である。
 少女としてのフロレンスの明け暮れは、上流家庭の娘たちがみなそうであったように立派な家庭教師についてフランス語、ラテン語などの語学を勉強したり、音楽、舞踊、絵画、手芸などをはじめ、若い貴婦人として社交界に出たとき、狩猟の折にこまらないようにと乗馬などまで、規則正しく仕込まれていたに相違ない。小さいこの上流の令嬢が、あるとき一匹の犬が負傷しているのを見て大層可哀そうがって、折からそこにいあわせた牧師を大人のように命令して手伝わせながら、その傷の手当をし、副木をつけてやるまでは満足しなかったというエピソードが、生れながら慈悲の女神であったフロレンスの逸話のようにつたえられている。が、この插話がもし実際あったことなら、本当の面白さは後から粉飾された小天使めいた解釈とは別のところにあると思われる。小さい犬を可哀そうがる心は、子供にとって普通といえる自然の感情だけれども、その感情を徹底的に表現して、犬の脚に副木をつけるまでやらなければ承知できなかったフロレンスの実際的で、行動的な性質こそ、彼女の生涯を左右した一つの大特色であったと思う。そして又、その小さい少女の彼女が、牧師を終りまで手つだわせねばおかなかった独特の人を支配してゆく力、それもやはりこの婦人の生涯をつらぬいた特徴ある一つの天稟であった。
 ロンドンの住居は、当時社交界のよりぬきの人々が住んでいたメイフェアにあった。ダービーシアに別邸があり、次第に若い令嬢として成長して来たフロレンスの生活は、子供部屋から客間へ、舞踏の広間へと移って行った。どこか気性に独創的なところのある、富裕な教養たかいこの令嬢のまわりには、当然崇拝者の何人かが動いていたろうしまたどこの社会でも共通なように、彼女の両親の社会的な地位により多くの魅惑を感じている青年やその親たちが、月並のお世辞で彼女をとりまいてもいたであろう。だが、フロレンスの両親はやがてこの才色兼備のわが娘の素振りに、少しずつ疑問を抱きはじめた。
 世間では親も娘もそれを唯一の目的として心を砕いている婿選びに興味をもつ素振りもないし、社交界に出たばかりの娘たちを有頂天にさせる華美な遊楽や交際も、フロレンスはただ生れ合わせた境遇の義務の一つとして、それに従っているというだけのように見える。フロレンスの心がそこで満されていないということは、ふとしたおりおりにフロレンスの表情ににじむ何ともいえない倦怠のかげから十分察しられる。何不自由ない淑女であるフロレンスがもとめているものは、一体何なのだろう。
 彼女は自分のうちに、正に燃え立って焔となろうと願っている一つの激しくせつない欲望を感じているのであった。一人の女として、自分の全心をうちこんでやれるような意義のある何事かをしたいという情熱、自分の生涯をその火に賭して悔いない仕事、それをこのヴィクトーリア時代の淑女はさがし求めて、毎日のなまぬるいしきたりずくめの上流生活の空気の中であえいでいるのであった。
 何か全心のうちこめることがやりたい。この願望は、おそらく活溌な心をもって生れた千万人の若い女の胸に、今日もなお湧きつつある思いではないだろうか。だが、そのうち何人が、そういう仕事を自分の行手に見出すことに成功するだろう。よしんばそれらしいものを見出したとして、果してそのうちの幾人が、自分の最初の希望を、人生の終りまでつらぬきとおすことができるだろうか。
 若い婦人にとって何よりの敵である境遇の重荷は、フロレンスの若い頸筋にもずっしりとのしかかっているのであった。第一は、彼女が生れた時代のイギリスの習慣の保守的な重み、第二は彼女が特に上流の淑女であるという重み、その二つの石は、やっとフロレンスが自分の人生に目的を見出して、看護婦になりたいといい出した時、先ず母夫人の驚愕、涙となってあらわれた。フロレンスは、二十五歳で、看護婦の仕事こそ自分の全力を傾注するに足る社会的な事業だと思いきめたのであった。

 十九世紀中葉のその時代のイギリスで、病人の看護をするのが聖業であるというような女は、他のまともな正業には従えない女、主としてもう往来を歩くには年をとりすぎたアルコール中毒の淫売婦あがりの婆さんたちであった。こういう看護婦というものがどんな不徳、冷血、不潔でおそろしいものであったかディッケンズの小説によく描き出されている。病院の看護婦といえば、風紀のみだれたもの、という代名詞のように思われていた。酒気を帯びないで勤務している者は一人もないという状態であった。他ならぬそういう看護婦の中に入って行こうというのであるから、フロレンスの周囲が驚倒したのもいわばもっとものことであったろう。
 フロレンスの申出は、断然反対された。フロレンスはこの第一歩の挫折を、決して自分の生涯の計画の挫折としてはうけとらなかった。それから後の八年という歳月は、フロレンスの上流令嬢としての生活の底におそるべき不屈な努力と実力の蓄積とをはらんで進行した。この表面の挫折に遭うまでのフロレンスは、何といっても自分の境遇の条件にしばられている一方であったが、この八年に、彼女は不撓ふとうな精神で、自分の境遇の条件を一貫した目的に従わせ、そのために活かしてつかって行くという生涯の態度を学んだのであった。
 この期間にフロレンスは医学調査会の報告や、衛生局のパンフレットや、病院、孤児院などの沿革をむさぼり読んだ。ロンドンの社交季節の閑をぬすんで貧民学校や救護所の見学をした。両親との贅沢な外国旅行の間に、暇を見つけては病院めぐりをし、貧民窟めぐりをし、ヨーロッパの大都会の病院と貧民窟とでフロレンスの知らないところはないという位になった。ドイツのカイゼルスウェールト温泉へ母と姉とで逗留したとき、フロレンスは二人の貴婦人たちが入湯や社交に日を消している間をぬけ出して、同地の看護婦養成所に三ヵ月以上も滞在した。「これこそ彼女の生涯を支配した重大事件であった」と、興味ある伝記作者のリットン・ストレーチーは、記録している。
 同じころ、更にもう一つの重大事件というべきものが、フロレンスの生活をその根から揺り動かした。やがて三十歳になろうとしている婦人の強烈な情感が一人の優秀な青年にひきつけられたのであった。フロレンスにとってこの情感のなみは全く新しいものであり、その激しい生れつきにふさわしく並々ならない動揺を来したらしく見える。当時のしきたりは、生粋の上流人であるフロレンスの感情の秩序にもしみこんでいるのであるから、彼女にとって恋愛の心は結婚の門に通じている一本道の上だけで自身に向って承認されるものである。当時の日記にはフロレンスの苦しい心持がまざまざとのこされている。「私には満足を求める知的な性質がある。その満足はあの人から得られる。私には満足を求める情熱的な性質がある。その満足もあの人から得られる。私には満足を要求する道徳的、行動的な性質がある。その満足はあの人の生活中には得られない。時には私もともかく情熱的な性質を満足させようと考えないでもないが……」しかし、フロレンスは自分の本心を知っている。そういう自分の心があるとき自分に涙をこぼさせるものであったとしても、やはり「私の現在の生活の延長と誇張とに釘づけにされ、自分にとって真実な豊かな生活をきずく好機会を永久に逸し去ること」はとてもできないとわかっている。フロレンスは、苦しくても本心の声に従わずにはいられない。彼女はその青年との結婚を断念することで、自分の愛の火の上にもふたをきせてしまった。これほどまでに人生的な大望に身をこがす一人の成熟しきった女性にとって、活動の機会を与えられず過ぎてゆく日々は如何に苦悩そのものであったかは、彼女の正直な次の告白が語っている。「人生三十一年、好ましいと思われるものは死ばかりである」と。
 この状態が更に三年もつづいたとき、フロレンスの周囲は、ごくありふれた考えからいくらかずつ彼女に自由を許しはじめた。この風変りな未婚の淑女も、そろそろ中年未婚婦人スピンスターと呼ばれる方に近くなって来てみれば、匙をなげた意味で、気まかせにさせるあきらめもついたというわけであろう。フロレンスはついにロンドンの医者街、ハーレー街にある私立の慈善病院の監督となることができたのである。
 それにしてもフロレンスは何故そのような執着をもって社会衛生に関係した仕事などに情熱を感じたのであろうか。

 無責任な幾多の伝記者は、ここであの犬の插話を思い出し、ナイチンゲール嬢の天使の心を描き出すのであるが、現実はもっと強力複雑な動機を時代の空気としてもっていた。その事実は、私たちにとってまじめに理解されなければならない。フロレンスが、物心づいて世の中を眺めはじめた一八四五、六年代は、イギリスがヴィクトーリア女皇の統治の下に近代社会として未曾有の発展をとげた画期的な時期であった。商工業の急激な進歩、産業界全面の革新は一方に大英国の富をつみ上げてゆくと一緒に、その大都会の他の一方に猛烈な勢いで貧民窟と救民院の無力な活動と犯罪率の上昇とをうみ出した歴史的な一時代であった。心あるイギリス人は、この富と貧との新しい社会悲惨の図絵に無関心でいられず、ひろがる犯罪、流行病から自分の家族を安全にあらせようと願えば勢い都市の衛生、都市の施設というものを議会の問題とせずにはいられなかった。文学の世界で、写実主義がおこってディッケンズがあらわれ、ロンドンの下層の生活の悲惨を描いたのがこの時代であった。サッカレイが「虚栄の市」「ペンデニス」「ニューコム一家」などで当時上流を占めた投資家貴族の生活を辛辣に描き出したのもこの時代であった。ロシヤではツルゲーネフが「猟人日記」からひきつづき、その時代の若いロシヤの青年男女の姿を「その前夜」「処女地」などに描いた時代である。よりよい社会への願望、研究、行動が空想的であった前世紀の理想社会への憧れから科学的な社会主義の方向に高まりつつ、世界の卓抜な才能と思想とを方向づけていた巨大な一時代であった。たとえ、淑女らしさという金縛りを身にうけてはいても、その時代の先進国であったイギリス生れの知識婦人であったフロレンス・ナイチンゲールが、社会衛生、道徳改善の事業にその規模の大きい現実的な精力の対象を見出したということは、決して不思議ではなかったのであった。
 ハーレー街の慈善病院監督となった翌年、三十四歳のフロレンス・ナイチンゲールが遂にその渾身の力を傾けて遂行すべき仕事が起った。一八五三年に英露のトルコ分割を目的とするクリミヤ戦争が起った。この戦役におけるイギリス負傷兵の状況の酸鼻が、しばしば議会の問題となり、世界の注目がそこにあつめられた。この時代まだ笞刑の行われていたイギリス陸軍の兵士が、クリミヤ戦争で傷つき、運ばれてゆくスクータリーの陸軍病院という名は、有識の人々の間に「地獄」の別名となった。
 シドニー・ハーバートという時の大臣の一人が、この時思い出したのはフロレンス・ナイチンゲールの存在であった。彼はフロレンスこそ、この場合に何事かをなし得る婦人であるとして、招きの手紙を送った。折から、ナイチンゲールの心にひらめいていた計画も、符節を合してまさにそのことであった。
 フロレンスが二人の親友と三十八人の看護婦をひきいて一週間のうちにロンドンを立って、トルコのスクータリーに到着したのは一八五四年の十一月であった。
 このクリミヤ戦争にはトルストイが一士官としてロシヤ軍に加わっており、セバストーポリについた第一歩に負傷者の哀れな有様に激しく心を動かされたのが、この同じ年の十二月であったことも思い出される。
 ロンドンを立つ時、当局の役人はナイチンゲールの問いに答えて、スクータリーには何一つ欠けたものはないと明言した。よしんば衛生材料が多少不足していても四日間でコンスタンチノープルから支給されるのだから、と。その言葉にもかかわらずフロレンスは女の勘で、いろいろな材料と金とをどっさりたずさえて、さて、到着したスクータリーの陸軍病院は、彼女の一行をどういう有様で迎えただろうか。巨大なバラック建ての廊下や大きい病室には、ありとあらゆる欠乏、怠慢、混乱、悲惨が充ち満ちていた。建物の真下を走っている大下水から汚物の悪臭がのぼって来る。その床はぼろぼろで洗えもしない。壁には塵埃が厚くこびりついて寝台は四マイルもぎっしりつめられていた。ところ嫌わず南京虫の大群が横行している。フロレンスがみたどこの貧民窟よりも不潔である。日常品の欠乏ははなはだしく、ビールの空壜にローソクがたっていた。たらい、タオル、シャボン、箒、盆、皿、ナイフ、フォーク、スプーンなどという必需品さえなかった。医療材料、薬品も揃っていない。働いている人々といえば無能な医者と官僚主義に頭も心も痲痺している役人と、疲労困憊して自身半病人である少数の人々ばかりであった。
 ナイチンゲールが女としての勘でもたらした品物と金とは、全く無限の役にたった。スクータリーの名状できない混乱をとおして、秩序と常識と先見と判断との光りが、日に夜にフロレンスが執務しているバラック病院の大廊下のそばの小さい部屋から放射されはじめた。変化は確実であった。病兵はタオルとシャボン、ナイフとフォーク、櫛と歯ブラシとを、喜んで使い初めた。六ヵ月の間に病院の料理場と洗濯場とは改良され、本国からの積送品を整理するための政府の倉庫ができ、病兵の寝具類は煮沸器で消毒されるようになった。彼女が病兵にもスープ、葡萄酒、ジェリーなどが必要だといったとき、役人たちはお話にならぬ贅沢だ! と目をみはった。彼女の努力でも精力でも、どうしても実施されなかったことが、このスクータリーに一つ残った。病兵の喰べる「肉を骨から離す」事である。役所の規定は「食物は等分に分配すべし」とだけあって、配られたのが骨ばかりだったにしてもそれはその兵士の不運なのだし、ましてそれを噛む顎を弾丸にやられていたとすれば、それこそその兵の重なる不運と諦めるしかない状態なのであった。病院へのあらゆる必需品を調達するのは全部フロレンスの仕事であった。兵たちに靴下、シャツが着せられたのは彼女の個人的な出費とタイムズ社の寄附金があってからできたことであった。これらの緊迫した仕事はどんなものであったかは、当時彼女を看護の天使、優しい「灯をかかげた女人」として世人が感動を示したのに対して、フロレンス自身洩らした言葉にもうかがわれる。看護という特殊な仕事は確に彼女に「おしつけられた役目の中で一番軽い物であった」のだと。しかしながら、その軽いものも何と度はずれな大きさをもっていたことだろう。病院の苦痛のもっとも激しいところ、助けのもっとも必要なところには、いつも必ずナイチンゲールの平静な鼓舞のまなざしがあった。そのまなざしは危ない瀬戸際で兵士たちの勇気をとり直させ、医者の沈着を支え、そして、失われそうであった命をとりとめる役にたつのであった。その死亡率を半減された兵士たちの心からなる喜びの眼に彼女が天使に見えたのは自然だった。

 けれども、この雄々しい活動の人を夜鶯ナイチンゲールめ! と罵る人間もいた。その筆頭はスクータリー病院の院長ホール博士と連隊長連であった。女と戦争と何の関係があるのか。彼らはこの観念から抜けられなかった。軍医、看護卒、看護婦、病院関係の諸役人と大臣たちも、ナイチンゲールを天使とは考えられない人々の群であった。おそろしい無秩序と官僚風のしみとおったスクータリーへ、新しい敷布を一とおり行きわたらせるためにでもナイチンゲールは、厳格な方法、きっちりした規律、些事をゆるがせにしない厳密な注意、不断の努力、不屈の意志と断乎とした決心が入用であった。彼女の平静な表情の下に燃えさかっている情熱、澄んだ静かな声の中にこもっていて一旦その声に命じられたら服従せずにいられない一種独特な権威、それらは臆病の夜鶯ナイチンゲールの持ちものであるはずはない。おだやかな優しさや、いわゆる女らしい自己否定で、彼女はクリミヤでの業績をなしとげたのではなかった。この一行がはじめコンスタンチノープルに近づいた時、一人の看護婦が「上陸しましたらすぐ可哀相な人々の看護をはじめましょう」といったに対して、「一番丈夫な人たちは洗濯盥にかかって貰いましょう」と答えた彼女の実際の鋭い洞察も、記憶さるべきところではないだろうか。
 戦争が終って四ヵ月後の一八五六年の夏、フロレンス・ナイチンゲールはクリミヤの天使として民衆の熱狂に迎えられながらイギリスに帰って来た。ヴィクトーリア女皇が贈ったブローチを白レースの襟の上に飾ったナイチンゲールの肖像は世界の隅々にまで流布した。
 世間的な名声は、クリミヤでの英雄的な行為の記憶によって、世の人々の間に生きた。が、それから後の三十年間に、ナイチンゲールがほとんど長椅子の上に臥たきりで完成した事の意義こそは、更に重大であった。ナイチンゲールにとってクリミヤでの成果は彼女の経歴の有益な踏み石に過ぎず、それは世界を働かせる為の梃子てこ台であった。クリミヤでの激労ですっかり健康を害してイギリスに着いた彼女は、心臓衰弱に襲われ、たえず気絶の発作と全身の衰弱に悩まされた。医師は極力静養を求める。ナイチンゲールにとって、どうして今休養などをとっていられよう。今こそ好機が到来したのだ。鉄は熱い中にこそ打つべきだ。長椅子の上であえぎながら、彼女は報告を読み、手紙を口述し、心悸亢進の合間には熱病的な冗談をとばした。ナイチンゲールは、イギリスの陸軍病院の全組織の改善という大計画につかれているのであった。自分の体のままにならないフロレンスは間もなく自分の周囲に献身的な人々の小さい群をもった。もっとも重要なのは後に陸軍大臣となったシドニー・ハーバートとその夫人とであった。きわめて柔軟で同情に富む天質をもって生れ、従ってその時代の人間性を強調する息吹きにも感じ易かったシドニー・ハーバートは、フロレンスの指揮と指導の性質にひきよせられ、公共の目的のためには全く献身的な独特な友情を保った。そのほか、このグループの中にはハリー・バーネー卿があり、詩人のクラッフがおり、クリミヤへも一緒に行ったメー叔母さんもあった。そして、三十年以上彼女の最も緊密な秘書として働いたサザーランド博士があった。当時の社会が婦人の登場を許していなかったあらゆる政治的関係、役所関係の間へ、ナイチンゲールは彼女のあらゆる条件を活用して、ハーバートを動かし、バーネー卿を活動させた。ナイチンゲールに役立とうとして仕事をはじめたこれらの人々は、やがて真剣にその能力と忍耐との極限まで彼女のためにはかたむけつくさなければならないことを知った。寝台の上に真蒼になって息をきらしながら、なお仕事を捨てないフロレンスを見て彼女が骨身を惜んでいるといえる者は一人もないのであった。
「病院に関する覚書」が出て、その方面に根本的改革をもたらしたのは一八五九年のことであった。その翌年にはナイチンゲール看護婦養成所を開設した。彼女の剛毅、機智、大衆から与えられている輿論の支持を全面的に用いて、ナイチンゲールの官僚主義とのたたかいはつづけられていたが、シドニー・ハーバートが病いに倒れるとともに政治的な敗北が、役所方面での彼女の計画をほとんど旧態に戻してしまった。苦しい時がはじまった。詩人のアーサー・クラッフがひきつづいて亡くなった。忠実であったメー叔母は、彼女の許から去った。これはメー叔母が死んだよりも大きい苦痛をフロレンスにもたらした。
 けれども、彼女の不撓な気質は、それから後は一層広汎な病院、貧民収容所の状態を改善した。彼女の傑出した論説の中には一九〇九年の窮民救助法調査会に先鞭をつけているものもあった。インドの衛生状態にも彼女の関心が向けられ、長年の間、新任印度総督はその出発前にナイチンゲールを訪ねるのが習慣であった。

 このインドの衛生問題について、私たちに多くのことを教える一插話がつたえられている。それは、インドにおける彼女の影響が最高潮にあったとき、ナイチンゲールがクリミヤの経験をどこまでも固執して、炎熱の激しいインドの病院でも、病室の窓々は開放されていなければならないと強硬に主張したために大恐慌を来したという事実である。「彼女の生涯の大成果は、病気の科学的な取扱いに非常な刺戟を与えたことである。しかし真の科学的方法への理解は彼女に縁遠いものであった。彼女はこれまでの活動家の一人として、経験論者であった」と有名なイギリスの伝記者リットン・ストレーチーは率直にいっている。パストゥールとリスターによって病原菌が発見され、世界人類の病と死とは飛躍的に克服されるようになったが、彼女は「病原菌狂信」を嘲笑し「伝染」というものはないとした。しかし、新鮮な空気の利きめは彼女が自分の目で見、その手で開けた窓々からスクータリーへ導き入れたのである。新鮮な空気が必要なのに、窓を密閉していたとき、それを開放した彼女の方法は貴重であった。けれども、気温が全くちがい、暑さの全く違うインドで、病室を開け放したらどうだろう。全インドの医者が、インドで窓を開けたら病人の命は忽ち危くされると大抗議をしたのは当然である。彼女は組織者、企画者、行為する天才であった。が、近代科学者ではなかった。経験にたよってその範囲での成功を固執する彼女の主観的な態度そのものが、科学的でなかった。いってみれば、貴族らしい強情さでもある。
 このようにしてその天稟の中に極端な行動の力と確信の力とをもったナイチンゲールが、その気質で少女時代からの宗教心と上流婦人らしい社会の見方の一面とをないまぜ三巻にわたる労働者のための宗教解説の本を書いたというのも、興味のあることだ。さきにのべたような当時の社会の巨大な息づきは、ヴィクトーリア時代の淑女の活動的な精力を、社会改善へ向けさせたのであったが、その社会の「悪の起源」を究明する段になると、ナイチンゲールは、スープをのむには匙がいると考えて、それを手に入れたと同様の解釈をしている。彼女によれば、神は全知全能であるから、唯一つであるその神と同じものをいくつも創れない、ために神は常に完全でないものをこの世に造らなければならないというのが、論旨であった。この本をナイチンゲールから寄贈されたジョン・ステュアート・ミルが、この本を手にした労働者と同様に、彼女の理屈はよく納得されないといった時、四十歳に達していたフロレンスはさも意外な面持であった。
 社会における「悪の起源」は神が完全であるからではない。社会全般の生活の安定のために働くべき生産の手段――工場や機械などが、それを所有している少数の人々の利益のためだけに運転されて、労働者は、一生ただ日々を生きてゆくための賃銀しか支払われていない、という近代資本主義の生産、経済の方法こそ、社会悪の起源である。イギリスでもロバート・オウエンがこの点に注目し、フリドリヒ・エンゲルスはフロレンスがスクータリーに着いた一八五四年の十年前に、イギリス労働階級の状態について詳細、正確、なまなましい記録を著わしているのである。
 しかもこの奇妙な本の中で、フロレンス・ナイチンゲールは時々宗教の議論も労働者の問題も忘れて、当時の上流婦人の地位や家庭生活の虚偽、結婚の欺瞞と因習の無意味さとを痛罵している。彼女のはげしい筆端が深い憤りに震えながら、裕福な家庭の未婚婦人がおかれているおそるべき運命を描き出すとき、読者はその百ページのうちに、突然一種名状しがたい強烈な婦人としての実感がみなぎりわたっていることにおどろかされるのである。そこに深刻に女としてのナイチンゲールの生の呼吸がきこえるのである。
 現実的なものと神秘的なものとの間で揺れ動いたこの偉大な女性の混乱も、老年にいたってはバラ色の霞の中にとけこんで、八十七歳で「勲功章」を授けられた時の彼女は「古い神話の復活」にも心を労されず終日にこにこした柔和な一老婦人であった。鋼鉄が遂に柔げられて、その九十年の生涯を終ったのは一九一〇年であった。
〔一九四〇年四月。一九四六年六月補〕





底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人朝日」
   1940(昭和15)年4月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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