新しい躾

宮本百合子




 この半年ばかりのうちに、私たちの生活におこった変化は、日本のこれまでのいつの歴史にもその例がないほど、激しいものです。日本は今、非常な困難とたたかいながら、一日も早く民主の国となり、平和の保証された国となり、世界に再び独立国として登場するための努力をはじめております。

 これからの私たち日本人は、世界に恥しくない市民として、どういう風でなければならないでしょうか。新しい躾の問題も、こういう広い、雄大な立場から考えられなければならないであろうと思います。

 躾という字をみますと、美しく身をもつ、ことと思えます。美しく身を持した生活態度というのは、どういうことをさしていうのでしょう。

 昔から躾というと、とかく行儀作法、折りかがみのキチンとしたことを、躾がよいといいならわして来ました。しかし、今日の生活はあわただしく、変化が激しく、混んだ電車一つに乗るにしても、実際には昔風の躾とちがった事情がおこって来ています。しとやかに、男の人のうしろについて、つつましく乗物にのるのが、昔の若い女性の躾でした。
 毎朝、毎夕、あの恐しい省線にワーッと押しこまれ、ワーッと押し出されて、お勤めに通う若い女性たちは、昔の躾を守っていたら、電車一つにものれません。生活の現実が、昔の形式的な躾の型を、押し流してしまいました。
 けれども、私たちの心には、やはり美しく、立派な生きかたをしたいと思う念願は、つよくあります。そうだとすれば、新しい躾の根本は、第一に、毎日の荒っぽい生活に、さらわれてしまわないだけの根深い根拠をもつものでなければならないということが分ります。そのように、しっかりした躾は、どこから、生れて来るものでしょうか。

 親が子供を躾けるとき、先ず願うことは、体が丈夫であることの次に、正直な、公明正大な人間になって欲しいということであると思います。
 子供たちが、正直な、公明正大な人間となってゆくために、果して現在の社会の有様は、ふさわしいものでしょうか。

 子供たちが、いつもおなかをすかしていなければならないという、事情一つを考えてみても、子供のためによい社会の状態であるとは、いいかねます。国民学校の教育も戸惑っている形ですし、住宅難の問題もあり、子供は可哀そうに、悪くなってゆくどっさりの条件の中に、さらされております。

 こういう困難の中で、公明正大な人間を作ろうとするのは、理想論だといわれるかもしれません。しかし、子供は実に敏感です。
 同じ辛苦をしながらも、親たちが、いつも明るい愛と勇気と、率直公平な物わかりよさをもって困難をしのいでゆくならば、子供たちは、困苦の中にも伸び伸びとして育つものです。これまでにしろ、誰が金持の子なら必ず立派だと考えていたでしょう。却って、あれは、金持の息子さ、という言葉には、人間として、余り期待しないという意味が仄めかされていたではありませんか。

 躾の根本は、真面目に社会のために働く人間としての誇りの自覚であると、信じます。

 こまかい実際問題として、躾の一つに欠かされないことがあります。それは、これからの日本人は、ひとから意見を問われたとき、これまでのように、あいまいに「サア、私はどうでもいいんだが――」という風な返事をしないようにならなければならないということです。問われたことをよく考えてみて、よいならよい、悪いならわるい。もし又、はっきり分らなければ、そのとおりに、はっきり分らないと答える習慣を持たなければなりません。今すぐ返事が出来ないから、待ってくれという場合もあるでしょう。いずれにせよ、明白に責任のある答えをする習慣を身につけなければなりません。

 これまでの私たち日本人は、大事なことはみんな役所まかせで、肝腎の命さえ、自分の勝手にはなりませんでした。役所は、小さな区役所から内閣まで、一度で用のすまないのが普通です。云ってみれば、これまでの私たちには、自分で自分がままならず、自分で自分のことがすっかり分ってもいなかったのです。従って、日本人の返事の曖昧さは、世界でおどろかれる特徴の一つとなりました。私たちは、この習慣をやめなければなりません。

 はっきり返事をして、ひとの意見も落付いてきくという躾は、日本人にとって、思っているより大切です。
 ひとがものを云っているときには、わきから口を出して邪魔をしてはいけません。自分の気に入らない意見でも、しまいまでチャンときいて、堂々とそれを討論してゆく人間にならなければなりません。
 自分で考えてみる力を、守り立ててやりましょう。
 自分の思いつきを大切にして、それを実現してゆく方法を、根気よく見つけてゆく人間を作らなければなりません。
 人間の社会には、いろいろの行きちがい、矛盾、醜いことがあるけれども、最後のところへゆけば、人間は道理に従って生きるものである、という、動かすことの出来ない天下の真理を、稚い心のうちに明るく、しっかりと植えつけてやらなければなりません。

 そのために母親は、自分の都合でばかり子供を叱らず、忙しくても辛抱して、とっくりと子供の言い分をきいてやり、親の思いちがいであったならば、さっぱりと、母さんが間違えていてわるかったね、ごめんよ、と云ってやることが大切です。こういう親の扱いこそ、子供にとっていいつくせないよろこびであり、尊敬であります。子供が将来、独立人としての見識をもち、同時に、美しい寛大さと、威厳を失うことのない譲歩とを学ぶ、みなもとです。
 日本が民主の国にならなければならない、その大切な毎日の発展は、こういう母たちの心がけのうちに、かもされてゆくのだと思います。

 このように明るく、親も子も同じように、道理には従うというきちんとした習慣で育てられれば、男の子も女の子も、おのずから動作もしっとりとし、正しいことに従う素直さをもち、互に扶け合う気風も出来ます。
 躾にも筋がとおる、ということが大切です。手足の上げおろしを細々と、やかましくいって、肝腎の性根に及ばない躾は、最悪です。
 今日男女の青年たちの或るものが、形式ばった挨拶だけは上手で、一向に公徳心も、若者らしいやさしさもない心でいるのは、形式一点ばりであった軍事的教育の害悪です。

 女の子だからと云って、女のくせに、と禁止ばかり多い育てかたをする時代でないことは、もう申すまでもないことです。
 人間を育てる根本の精神では、男の子も女の子も、同じであってよいと思います。
 女の子は、愛嬌がないときらわれる、意志がつよいと敬遠される、と、受け身にばかり育てられた日本の若い女性が、今日、どのような姿で、この古い日本の躾の欠陥を社会に示しているでしょうか。

 世界の人が、日本の謎の一つとする「日本人の笑い」というものがあります。本当に嬉しいこと、おかしいこと、楽しいことが一つもないのに、日本人はいつもぼんやりした微笑を、顔の上に漂べている、と、不思議に気味わるく思うのです。
 言葉の通じない外国人に、こちらのおだやかな気持を通じさせようとするのかもしれません。けれども、ニヤニヤしないでも、真実のこもった親切な表情で十分心もちは通じます。
 長い歴史の間、過去の日本人が、上から抑えつけられてばかりいた結果、習慣となった卑屈な愛嬌笑いは、男にも女にも、不用です。
 私たちは、そういう日本人であることを、自分に拒絶しなければならないと思います。

 ところで、躾の根本を、そういう風なものとして考え直して来たとき、新しい躾は、果して子供たちにだけ必要なものであろうかと、自分に向って質ねたい心持になりました。

 私たちは、自分のうちのものは、実によく気をつけて大切に使い、清潔に保ちます。しかし、汽車の中をよごすので有名なのは日本人です。公共建物の洗面所その他を、よくこわし、よくよごしぱなしにすることでも有名です。
 これは、わたしたち日本の国民が、すべての公共物を自分たちの計画と資力・労力で建て、それを自分たちで愉快に使う場所とする習慣がなかったからです。つまり、社会万端の施設も、民主の方法で利用されるものでなかったからでしょう。

 せまい、個人的なまとまりよさだけを眼目とする躾は、社会全体の幸福を目ざす、大きい着眼点に移されなければなりません。
 愛の躾は、社会に対する愛と識見の、よりひろい土台の上に立てられるべきであろうと思います。
〔一九四六年四月〕





底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年5月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:NHKラジオ
   1946(昭和21)年4月19日放送
   「女性の歴史」婦人民主クラブ出版部
   1948(昭和23)年4月発行
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
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