作家への新風

――著作家組合にふれて――

宮本百合子




 封鎖で原稿料を払うということは、これから作品をかいてゆく人のために、ますます条件がわるい、新しい作家、新しい日本の文学は生れにくい、ということである。今日、出版は、大部分が営利に立っている。営利の目やすから、荷風のところへ、封鎖ですが、と長篇をたのむ玄人はいない。
 それこれ考えていたらば、この間、労働科学研究所から、一枚のアンケートが送られて来た。それは珍しい作家の労働調査のアンケートである。
 その中に創作活動を有利にする社会施設のようなものはいらないか。営利出版と作家自身の出版と国家による出版といずれをとるか。そして、最後の項に、著作家の組合は入用と思うか、という問いが出ている。

 戦争中の日本の文化殺戮の実状や、日本の文化人が歴史的に自主性を欠いていることについての反省は、日本の近代史の見直しと共に真摯な課題となって来ている。日本の作家のおくれている状態は市民精神に於ておくれたまま、文学は神聖な超俗的な仕事であるという先入観に絡みとられている無力さに現われているとも考えられる。軍事的専制と営利出版との共同圧力で、真の文化は潰された。
 その営利出版は、今なお残って、今度は、モラトリアムその他破局的動揺と結合して、新しい文学者の出発を阻んでいる。
 いつの時代にでも、文学を愛し、それを生もうとする者は、金銭ずくではない。それだからこそ、社会労働のうちでも、最も複雑な、最も高い見地から人類の富の生産者と考えられなければならないものだろうと思う。最も自身の任務と価値との責任に目ざめた精神労働に従うものであることを、作家自身は知ってよいのではなかろうか。
 税務署では、弁護士や医師と文筆家を並べて一つカテゴリーに入れている。自分のもとでで儲ける者としこの区分に入れている。作家はおとなしくその類別に従って来た。けれども、少し考えると妙だと思える。
 作家は、大部分が出版企業に結びつけられて、真の儲けは、出版屋が吸いとっている。これは明々白々である。皮肉にいえば、粗末なタネであることを自ら知っている作家だけが、主観的に、タネの粗末さにしては儲けがある、と思うだけである。
 文学を別格に生きて来たものは、出版企業の枠からしばしばあふれ出して、営利性を外から見る立場におかれて来ているから、文学の仕事がじかに民衆とその歴史のものであることを痛感せざるを得ないのである。

 私としては労研のアンケートの最後に、著作組合はいらないかという問いがあったことについて感銘を受けた。暫くして著作家組合の話が出て、誘われたとき、私は、それを日本の作家生活への、よりひろい社会的な新風として感じたのである。
〔一九四六年六月〕





底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「東京新聞」
   1946(昭和21)年6月8日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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