これまで、郵便切手というものは、私たちのつましい生活と深いつながりのある親しみぶかいものであった。三銭の切手一枚で封書が出せた頃、あのうす桃色の小さい四角い切手は、都会に暮しているものに故郷のたよりを、田舎に住んでいるものに、都会の生活の物語をもたらす仲だちであった。私の子供の時分には、台帳に一枚ずつ切手を貼ってゆく郵便貯金のやりかたがあった。一日に一銭でも、二銭でも、切手を買って貼りつけていって、台紙が一杯につまると、郵便局へもってゆく。そんなやりかたであったように思う。その頃は、十銭の郵便切手を買うことは一年のうちにめったになかった。十銭の切手は外国郵便につかわれたのだから。どんなうちでも毎日外国へ出す手紙はなかったから。
三銭が四銭になり七銭になり十銭になった。切手のねだんは、いつも物価の値上りの一歩ずつあとを追ってたかくなった。封書へはる一枚の切手の値があがることは、既に生計費がその幾層倍かの率で高価になっていることを示したし、同時にそれは、日本の権力者たちが、ますます内実の苦しい、勝味のない侵略戦争を押しひろげて行ったことを示したのであった。
三銭で手紙が出せた時代はわりあい長かった。四銭になってから七銭になり十銭まであがったのは最近数年の短い間のことである。獄中に家族の誰かをもっていた人たち、そして、家族の大切な誰かを出征させていた人たち、その人たちにとっては、郵便切手が実に特別な意味をもっていた。出征している人々と家族とのあいだの幾千里をつなぐ愛情のよすがの便りは郵便であったし、獄中と外との生活は、切手をはられた郵便で、やっと交通を保ちつづけた。
獄中で封緘が買いにくくなってから、私は友達にたのんだりして、封緘を買い集めてそれを差入れした。買った当時は、その封緘に印刷されていた四銭ですんだものが七銭になって、別に切手を貼り添えなければならなくなった。二銭のハガキに一銭足さなければ役に立たなくなった。そして、一銭の郵便切手というものが、珍しく毎日に必要なものとなって来たのである。
今からちょうど三年ばかり前のことであった。郵便局の窓口で十枚ばかり一銭切手を買った。ハイと若い女事務員に出された切手を見て、わたしは、あら、と思った。その一銭切手は、わたしの視線をひきつけた。これまで日本の切手の図案と云えばあきもせず乃木大将・東郷大将一点ばりで、すこし変化したと思えば、その頃の四銭には格別美しさもない議事堂の絵がついていた。ところが、その一銭切手の模様は、農夫の働いている姿であった。菅笠をかぶり尻きりの働き着を着た男が鎌をもって田圃の中でかがんで稲を苅りいれている。わきに、同じように菅笠をかぶり股引ばきの女が、苅られた稲を束につかねている。茶色の地に白で、比較的こまかな男女二人の農夫の図案がついているのであった。
米というものが、日本では大体みんな食べているもの、という心やすい食物から、だんだん不足な食糧、増産のいる主食、配給不足の命の綱、闇米とおそろしいものに変りつつあった時期である。その時期に、日本ではじめて農民の勤労姿が、郵便切手の上にうつされた。大日本帝国郵便と印刷され、天皇の紋章が真中についていたその下に、男と女で働く農民の図案がある。一言にいいあらわしきれない思いがした。
一銭という銭の単位は、数千万の金額の土台である。何百億という狂気めいた予算が丸のみされて、戦争は進められたのだが、その数億にしろ、現実には一銭なしにはじまらないのである。字面を万単位にしたいかめしい政府の計算にしろ一円は百銭である、という子供が先ず覚えはじめる勘定の基礎に与えられているのである。そのかくれていても消すことの出来ない経済の土台の一銭の切手に、男女二人の農民の群像が現れたことは、何と意味ふかいことだろう。この絵は億の根拠が一銭であるとおり、日本の社会生活の土台にあるのは農民である、という事実を語っている。一銭のとおり目に立たず、何だ一銭、と扱われ、しかも、それがなければ万も億も成り立たない非常にどっさりの一銭のような日本の農民。しかもこの小さい四角い切手の面積に、わざわざ男女二人の働く農民を描き出したのは何故だろう。戦争は、農村から働く人手を奪った。女も働かなければならない。日本の勝利のため、天皇のために女も前よりもっと働け、そう強調されていた時だった。それ故図案には、農民に食糧増産させるために、切手の絵にかくからは女も入れて描いたのは当然のことであった。この切手を手にとって、沁々と眺めながら、わたしは、昔から今日まで「お上のもの」というものは、どうしてこういやらしい見えすいたことをするのだろうと思った。徳川時代、水戸黄門が一粒の飯のこぼれさえ勿体ない、お百姓の苦労をしのべとやかましくひろわせた。これは有名な話だが、黄門はじめ徳川の農民に対する政策は「生かすな。殺すな」で一貫していた。これは支配の鉄則とされていた。心のしっかりした農村の人々は今日のこの一銭切手を何と見るだろう。私はそう思って丁寧に、四銭の封緘にはり添えて獄中に送った。四銭の切手は議事堂、次の二銭は乃木大将、三番目の一銭はその農民たち。日本の或る姿がここに縮図されていた。
ところが、程なく、私たちはまた新しい図案の一銭にめぐり合うこととなった。その一銭に登場したのは若い勤労婦人の三分身像であった。白い布で頭をくるみ、作業服に白いカラーを見せ、優しくしっかりした横顔を見せている遠景には、何か工具らしいものが覗いている。女子の能力は男子の七十パーセント以上である、近代重工業にもふさわしい、と云われて、女子の技術補導所があちこちにつくられ、女子整備員のオバーオール姿が婦人雑誌に出された時代である。
これも一銭切手であることを、わたしは忘れられなく感じた。男子が戦争の犠牲としてひき出された後、日本の人口は女子の増大をもたらした。生活の支え手は女となった。戦争の道具のつくり手として女が狩り出された。どちらの意味からも女は生きるために働かなければならなくなった。そのとき、日本の忍耐づよい農民とともに辛棒づよい日本の勤労女性は、一銭切手の絵の中に白い布をかぶったその働き姿をあらわしたのであった。
くりかえしくりかえし眺めて、私はそれも獄中への封緘に貼った。ここにまた一つの日本の縮図があった。
さて、今日、私どもは、もう十銭でも二十銭でも手紙は出せない。三十銭入用である。このことは、物価がどんなものかということを十分物語っている。二人の男女の農民のついた一銭切手、若い働く婦人の横顔のあった一銭切手。二つながら、どこでどうつかわれているのだろう。ともかく私たちの目の前からそれらは消えた。女は家庭へ帰れ。そう云われる時が来て、働いていたあのおびただしい女は、みんな切手からぬけ出して、生計上の必要というものも荷物にまとめて家庭へ帰ったというのだろうか。全国で七百五十万人を失業させようというその第一の白羽は、三百五十万の女子、青年従業員に立てられている。さらに行政整理では二百万人の失業が出るだろう。軍需補償のうち切りでは百万人が職をはなれるだろう。新聞はそう報じている。一方に、労働調整法が出来かかったりしているが、金融資本を守るためからの失業は誰にとっても脅かしの影となっていて、勤労大衆はまったく主権在民を実現して合理的に生産関係を独占から解放しなければ、生きてゆけないところまで来ているのである。そのきょう、私たちが、手紙に貼る切手の模様は何だろう。宮島の海の中の鳥居がかかれている。妙義山がある。観光日本のポスターがちぢめられて出て来ている。その上、七銭と二銭の切手とは昔のままの東郷・乃木で、国際裁判をからかっているように見える。私たちには私たちの気に入った図案の切手がほしい。そう思うのは、きょうの現実の中で決して私一人ではないと思う。
〔一九四六年十・十一月〕