「推理小説」

宮本百合子




 一九四九年の日本の夏は、勤労人民のすべてにとって、切実な生存擁護のためのたたかいの季節としてはじまった。
 七月四日に国鉄は九万五千人の整理を発表し、組合側はそれに対してただちに抗議を組織化した。国鉄当局は九日―十一日の国電ストの損害賠償として組合あいてに二千万円の支払いを提訴した。これは、ルイスなどに対して使われたが、これまでの日本にはなかった新しい権力行使の方法である。
 七月五日になって、夕方のラジオは意外なニュースをつたえた。下山国鉄総裁の行方不明事件が告げられた。そして、六日午前五時すぎ、小菅刑務所のわきの五反野南町のガード下で、無残な轢死体としての下山総裁が発見された。
 日本じゅうに非常なセンセーションがまきおこった。五日の午前九時すぎ下山総裁が三越で自動車をのりすててから死体となって発見されたまでのいきさつ。自殺か他殺であるかという重大な点も、すでに十日ちかくたったこんにち、まだ明瞭にされない。簡単に明瞭にされ得ないいりくんだ事情も伏在しているわけだろう。いわゆる推理小説家にとっては、この事件が他殺か自殺かをはっきりさせて、その原因、手段をときあかすことが眼目だろう。けれども、一人の民主的作家としてわたしは、別な角度からこの事件に感じているところがある。
 自殺であるにしろ他殺であるにしろ、下山総裁の死は、国鉄の大馘首と直接関係がある。七日の時事その他は、技術畑出身の地味な性格の下山氏が、その性格をかわれて六月に総裁となり、こんどの十六万人の整理問題について、非常に苦慮していた。「切ないがわが道をゆく」、「部下への思いやりに苦しむ」という記事は、下山氏の人間ぽさを、わたしたちに感じさせた。まして国鉄本省にあらわれた下山氏がとりみだしていたという姿は、一日に千余通送られていた人民の哀訴の手紙と、権力に奉仕する官僚としての板ばさみの立場に苦しむ同氏の心の乱れのほかではないだろう。
 死の過程がどうであったにしろ、下山氏の死の本質は政治屋でなかった同氏が、十六万人の従業員ともども、吉田政府の犠牲となったといえるものである。
 各新聞を注意ぶかく読んでいる人は、誰しも心づいたことだろう。下山氏の死亡、その人間としての立場から同情的にあつかった記事は、一日ぐらいしか出なかった。日本の政府は権力に忠実な人格者英雄をつくることがさきであり、美談ずきなのに、下山氏の事件は、犯罪的な疑惑へと一般の関心を導くことに専念されている。どういう事件であるにしろ、本質は、政府の首きり政策が原因である、と死のモメントから人々の注意がそらされつづけている。これはなぜだろう。下山事件がおこると早速「非常事態宣言」の用意があると首相が声明し、それをのせたのは読売新聞であり、他新聞は、自殺説・他殺説それぞれの客観的根拠を語っているが、読売の記事は一貫して犯罪性を濃く表現し、しかもそれを何のよりどころもないのに共産党、組合と結びつけている傾向が露骨である。日ごろ進歩的な意見をもっている作家である豊島与志雄、新居格氏などからさえ、この新聞はまるで共産党系統のだれかが暴力的行為を仕組みでもしたような話をひき出している。田中耕太郎氏の談話などは、事件が明瞭にされたときには、共産党に対するその発言の社会的責任をとわれてしかるべき性格のものである。
 一九三三年二月二十七日、政権をとって一ヵ月のナチスがゲーリングを先頭にしてドイツ国会放火事件を仕組んだ。放火人ファン・デア・ルッベは共産党員と自白し、後生大事に党員証を身体につけていた。しかし裁判で、ルッベがナチスのまわしものとしての正体が明かにされドイツ共産党幹部トルグラーやデミトロフは無罪となった。ルッベは死刑となった。
 斎藤国警長官の進退をめぐって政府と公安委員会が対立し、公安委員会は斎藤氏の適格を主張し、ついに、政府は静観となった。この事件も、下山氏の死にからんで強行されようとした何かの政界の失敗であり、この失敗そのものが、逆に下山氏の死の微妙ないきさつについて、暗示するところもあるかのようである。
 七月十二日(きょう)の新聞をみると国鉄は十三日から第二次整理六万五千人を行おうとしており、労組は五度交渉申し入れをしている。十六万人の馘首は、下山氏の事件によってさわがしく、ものみだかく不安にさせられている社会の空気のなかで、「順調」に行われるのである。馘首と生活不安に直面している国鉄数十万の従業員そのものの関心の半ばが、きょうもあすもと推理の種をひろげる下山事件の謎にひっぱりこまれている。これは実にたくみな群集心理の階級的な誘導である。下山氏の死が、自殺か他殺か、明らかにされない条件は、あらゆる暗示をこめて反民主的、反労働者的な疑惑に人々をひきこむために活用されている。ドイツの国会放火事件ばかりでなく、世界の人民のたたかいは、いつもデマゴギーと挑発のわなをしむけられる。日本のこれまでの現実をみても、テロを行ったのは、どういう人たちであったか。
 桑原武夫氏が十日の毎日で「引揚げ」という文中に、インターナショナルをうたって引揚げて来た人々を見て政府がびっくりしたからといって、すぐその「驚き」の感情を「取締り」に転化させることのあやまりを警告していた。わたしたちの「驚き」は、反人民的な心理戦術に利用されるほど素朴であってはならない。
〔一九四九年七月〕





底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「青年新聞」
   1949(昭和24)年7月19日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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