しようがない、だろうか?

宮本百合子




「電燈料がまたあがるかね」
 ほんとにしようがないわねえ。
「新聞でね、東畑博士がいっていますよ、日本の主食は三百万トン外国から買えば、芋ぬきで二合七勺配給になるのに、政府は三百七十五万トン輸入しようとしている。これは制限しなければならないって。日本の米のねだんは一石四千二百五十円でしょう? 輸入米は同じ一石が九千六百七十一円よ。誰が考えたってへんなことだと思うわ」
 あきれかえるわねえ。でも、しようがないわ、どうせいまの政府だもの。――
 考えてみるとわたしたちの日常生活に「しようがない」という言葉が、なんとはばをきかしているだろう。一日のうちに、いくど「しようがないなア」という声があがるだろう。ところが不思議なことには、しようがないなア、といいながらも、実際ではすぐそのあとから、何とかそこに当意即妙の知恵を発揮して、わたしたちは、そのことをともかくしようことのあることにして生活して来ている。この意味では、日本の婦人たちが日々の辛苦をしのいでいる手腕は、しようがないどころのさわぎではない。おどろくべき根づよさをもっている。それだのに、問題が直接家庭の内からはみ出した大きいことと思われる場合、特に政府のやることとなると、日本の婦人のこころもちのうちにある、しようがない、は最大限にこれまでの習慣の魔力をあらわして来る。何といっても日本は戦争にまけた国なのだから、しようがないという気持には、軍国主義で養われた服従の感情がそのまま裏がえされたあきらめとしてにじみ出す。やけになった女の心には、しようがないわよ、どうせなるようにしかならないんだから! と、他力本願がさかだちしたタンカもきられている。
 講和の問題がおこって来ているにつれ、役人のある種の人たちは、さかんに、日本はまけた国なのだから講和問題について自分から発言する権利はないのだという考えかたを、みんなの頭にしみこまそうとしている。したがって強い国が日本に対して要求するどんな条件もきくしかしようがないのだという気持をかきたてようとしている。
 湯川秀樹博士がノーベル賞を受けた日、「わたしは原子爆弾をつくれないし、そういう興味をもっていない」と語った言葉は、世界のまじめな人たちの心に響いた。
 南原東大総長がワシントンの会議で、「民族とその文化の独立のためには、世界平和が確立されなければならず、そのために役立つ平和な日本の政治的独立が必要である」といったことは、日本人の真情を告げるものであるとして内外からうけとられている。
 日本の憲法の精神は、永世中立でなければ実現できないのは実際である。一家が詐欺にかかりそうになったとき、それをふせいだ母の機転、娘のかしこさがほめられるなら、人民全体の未来が国際的なおそろしい私慾の鍋にうちこまれようとするとき、それをふせぐ婦人たちの強い発言がどうして無視されていいだろう。わたしたちが望んでいるのは安心して生きられる日々である。その根本の希望からいって、こういう場合、しようがない、という言葉はなりたたない。
〔一九四九年十二月〕





底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「共同通信」
   1949(昭和24)年12月24日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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