宇野さんには、まだお会いしたこともない。未知の読者の一人というに過ぎない。けれども、従来、小説を書いていた女のひと達とは、テムペラメントも違い、これまでなかった色彩を耀かそうと努められるらしい種々の作品に深い興味を感じています。近頃の作は、初期の「墓を発く」などから見ると、ずっと印象的に、直観的に描こう、のろのろ描写せず、感情の峰から峰へ飛躍しようとされるらしい。日本ばかりでなく、女の作家はとかく狭いモラリティーに拘泥してきびきび純芸術的に行かないのが多いから、宇野さんのお品ぶりのないのは強味だ。いろいろ期待するからこそ不平が出るのだけれども、遠慮なく云えば「一年間」にしろ、取材はわるくなく、細部にフレッシュなところがあるのに、全篇の印象が何故か読者の胸にぴたりとしないのはどういうものだろう。読んでゆくうちに心が吸いよせられ、アブゾーブされ切れない。或る点まで牽きよせられ、もう一つというところで何ともしようない状態に置かれるので、不満めいた気持になるのです。牽かれるのは、その感覚的な明るさ。或るところで、何だか悲しく溶けこみきれないのは、作につきまとっている一種ちらちら、ひどくちらつくもののためではないでしょうか。峰から峰へとぶのに、弁天様の着物のように沢山の襞や色どりが翻るようなのだ。今に、その点が洗練されたら、持ち前のよいものが純粋に立派に輝き出すと信じます。(――特色をなす多くの襞や色どりの各々を、真にユニークな作者自身の感覚で、生一本に、純に、強く感覚することによって。)
〔一九二五年十月〕