時計

宮本百合子




 私が女学校を出た年の秋ごろであったと思う。父が私に一つ時計を買ってくれた。生れてはじめての時計であった。ウォルサムの銀の片側でその時分腕時計というのはなかったから円くて平たい小型の懐中時計である。私は、それに黒いリボンをつけ、大変大切に愛してもっていた。袴をはいたときは、袴の紐にその黒いリボンをからみつけて。
 或る日、急に八重洲町の事務所にいる父に会わなければならない用が出来た。どういう道順であったか、上野の山下へ出た。そこで自働電話を父へかけた。何時までならいると父が云ったので、私は、黒リボンを帯留めにくくりつけるひまのなかった例の時計を電話機の前の棚のところへ出してのせ、それを眺めながら、だって父様すこし無理よ、十五分のばしてよ。などかけあった。
 自働電話を出て、少し行った時、私は俄に額際から汗の滲み出すような気持になり、殆ど駈けて、今出て来た自働電話の箱へ戻り、そのままとびこんだ。人は入っていなかった。だが、もうそこの棚には、私の大切な銀時計がない。私は暫くその中に立ったまま首をかしげ、歩き出すことが出来なかった。どんな人がもって行ったか、その人相を想像するよすがもない。私は、父の顔を見た途端、困っちゃったと云った、時計をなくしちゃった、と云った。泣けないけれども、そういう時は、頬っぺたがとけたような心持であった。
 これの代りに、程経ってから両蓋のやはりウォルサムの銀側が出来た。父がこれも買ってくれたのであった。私はそれに再び黒いリボンを結びつけた。北海道で、荷馬車のうしろへ口繩をいわいつけた馬にのってアイヌ村を巡った時、私の帯の間にはこの時計が入っていた。
 ニューヨークの寄宿舎では豌豆がちの献立であったから腹がすいて困った。その時、デスクの上で何時かしらと眺めるのも、その時計であった。
 ところが、二年ばかりすると、動かなくなってしまった。ウォルサムの機械の寿命がそんな短いわけはない。どれ、俺がなおさせてやろう。第一回は父が直しに出し、次には私が出した。しかし、もう元のように動かず、三度目に直させた時、ああ、これは内の部分品が代っています。別なのが入って居りますから、どうも……。とことわられた。私はその頃、非常に自分の居場所におちつけない妻としての生活をしていた。夫婦喧嘩のようなことをして、家にいたくなかった夕方、ふらりと、その結婚前からの時計、今は故障している時計をもって店も考えつかず足の向ったところで直させたのであった。そこで、胡魔化されたのであったろうと思う。其とて、はっきりした証拠はないのであった。
 時計は性に合わないらしいから、いらないわ。そう云い、又思いして、其から永年私は時計なしに暮した。私は、その良人であった人と別れた。
 一九二七年の冬、ロシアへ行くときまったとき、じゃあ、餞別に一つ時計をやろう、父がそう云って、私を銀座の玉屋へつれて行った。いろいろ見て、少しいいのがよかろうと、父はモ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)アドの腕時計を一つ選んでくれた。落付いたいい趣味で、リボンも黒いのよりこれがいいと、灰色鼠のようなのをきめた。私は、その頃腕時計しかないようなので其にきめたのではあったが、本来、手頸に何かを絡めているのをこのまない。大抵の時、手からはずして、ハンドバッグに入れて、そして持って歩いているのであった。
 モスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)へ着いて二年目、と云っても五六ヵ月経ったばかりの或る夜、私は連れの友達とオペラ劇場へ、ラ・トラビアタをききに行った。連れが、その午後銀行から受取ったばかりの札を入れて、ふくらんでいる紙入れを、クロックのところで、一つの外ポケットから内ポケットへしまい替えた。クロックのところは混雑していて、人の目は多かった。
 オペラをきいていると、一人の少年が私共のとなりの席へ来て、ここは空いていますかと訊いた。空いています。かけてもかまいませんか。いけない理由を私共はもたないのであるからおかけなさい、と云った。
 その少年は、私が舞台を見ているオペラグラスが珍しいのであった。幕間に、それをかりて、ああ近い近い、とよろこび叫びながら平土間の聴衆を見下したり、わざわざ平土間へそれを持って下りて、バルコンの方を見上げたりしている。
 いろんないきさつがあって、やがて閉場はねると、その子供は、是非日本の写真が見たいから、ホテル迄送ってゆくということになった。
 ホテルの部屋には連れの方がとまっていて、私はずっと遠方の下宿にいた。そこへその子と一寸よって、私はやがて電車で下宿へかえりかかった。夜十一時頃であったろうか。その混んだ電車の中で、その子に、私は自分の小さい茶皮のハンドバッグをかっぱらわれたのであった。
 私は、ありがとうだの、今日は、だのという慇懃な挨拶の言葉はロシア語で云うことが出来たが、かっ払いだの、泥棒! と絶叫することなどは知らなかった。ベルリッツのロシア語教課書に、そのような言葉はなかったのであった。私は日本語で思わず、畜生! と口走って人ごみをかきわけたが、やっと出口まで辿りついた時どこにもその小僧の素ばしっこい姿は見当らない。こうして私は第三回目に時計を失ったのである。
 その時の秋、宮島幹之助氏がジェネ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)への途中モスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)へよられた。宮島氏と父とは同郷であり、親しかったので、私は自分の下宿へ、この国際連盟委員を招待し、アルコールランプで、鶏のすきやきをこしらえ、馬車に並んでのって、モスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)市中見物のお伴をした。とりは大変かたかった。
 正月、大使館のひとに逢ったらジェネ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)の宮島氏からことづかったものがあると、一つの小さい紙包みを渡された。あけて見たら、白い四角い箱が出て、中の薄紙には、アンリー・ブランの金の時計が入っている。私は意外でうれしいのと恐縮したのとで、顔を赤くした。「蛙の目玉」の著者は、あなたでも小僧にかっぱらわれる位抜けたところがあるのが面白いから、この間のとりのお礼にあげます、と書いていられるのであった。
 計らず手に入ったこの腕時計を私は重宝し、無事息災に五年間もっていた。たまには手頸につけたり、多くの時はハンドバッグに入れたりして。出来のよいのに当ったと見えて、この時計は殆ど進んだりおくれたりしたことがなかった。その正確さを私は深く愛していたのであった。
 三二年の二月に私は結婚した。或る晩、風がつよく吹いて、小さい二階をゆるがすような宵、私共は机を挟んで坐っていて、その机の上においた時計の話が出た。さっぱりしているし、ちっとも狂わないから好きさ、と私は云って、ガラスの面を拭いた。良人が、いいねと手にとって眺めていたが、僕にかしておくれなと云った。僕のはホラあれだろうと笑い出した。私も笑わざるを得なかった。彼のクローム腕時計はクロノメータア・ミリカという名をもっているのであったが、ミリカとは何の意味か、夏になるとそれは一日三十分ほどおくれる時計であった。冬になると同じ位きまって進んだ。その時分は寒かったから、何時? ときくと、サア、俺の時計では何時だよ、と答えなければならない有様だった。私は暫く躊躇したが、じゃ、なくさないで。そう云って、彼の皮紐に私のその時計をつけ、クロノメータア・ミリカへ、細い黒リボンとルネサン風の模様をうち出した止金とをうつした。
 そうして二ヵ月ばかり経った。
 ところが、私達の生活は外的な事情から急変して、私の良人とその手頸についたアンリー・ブランの時計とは、共に私の日常の視野から消え去ってしまった。
 そして、二年と八ヵ月の日と夜とが経過した。私が、髪の蓬々とのびている彼に窮屈な場所で会うことが出来るようになった時、俺の所持品はどうしたい? 時計はどうしたい、戻したか、ときいた。
 これが所持品全部だと私に渡されたのは、何も入っていない茶皮のポートフォリオと、背広と、鼻からしたたったらしい血のしみのついたシャツと靴だけであった。財布も文房具もアンリー・ブランもないのであった。だが、彼は、はっきりと固有名詞を云って、それらの人間が、どこそこであの時計を俺の手からはずして机のひき出しに入れた、かえして貰え、いろいろの記念であるからと云った。私も、取戻したく思い、一通りその手続きをした。役人は、品物はないから、金で弁償する、その書類を出せというのであるが、その手続その他いろいろ厄介である上、まして、金で貰って何とするかというのが私の心であり、手続は打切り、私の心に深い憎悪がのこされてある。その時計のことなど跡白波となってしまうであろうと思った者の気持のいきさつが、にくらしいのである。
 一九三五年の二月十三日、私の誕生日の祝いに、父が精工社の柱時計を買ってくれた。これは私が自分からたのんだものであった。父の家の台所に美人の絵のついたボンボン時計がかかっていて、それは私の生れる前からのものであった。柱時計なら、なくなることもないであろう。そう思って、私は柱時計をたのんだ。父はどちらかというと、ごくありふれた形の十円内外のものをくれた。それは上落合に私が独り暮していた家の柱にかかって働いていたが、五月の或る朝、私のところへ二人の男が来て、そのまま私をその家から連出した。後ひきつづいた一年の留守の間に、その柱時計は、私のいない跡の家をとりかたづけてくれた友達の家の柱にかけられていた。
 本年の一月三十日に、この柱時計をくれた父は没した。
〔一九三七年二月〕





底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「ペン」
   1937(昭和12)年2月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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