母かたの祖母も父かたの祖母も長命な人たちであった。いずれも九十歳近くまで存生であったから、総領の孫娘である私は二人のおばあさんから、よく様々の昔話をきいた。母方の祖父も父方の祖父も、私が三つぐらいのとき既に没して、いずれも顔さえ覚えていない。
二人の祖母たちは、それぞれ祖父とともに波瀾の多い維新から明治への生活のうつり変りを経験したのであるが、父かたの祖父は米沢藩で、後には役人をして晩年福島県の開成山で終った。地位としては大した役人ではなかった様子であるが、この中條政恒という人の畢生の希望と事業とは、所謂開発のこと、即ち開墾事業で、まだ藩があった頃、北海道開発の案を藩に建議したところ若年の身で分に過ぎたる考えとして叱られた。その北海道へ手をつけていた某華族は、明治に入ってから尨大な財産を持つことになったのを見て、政恒は、俺の云うことをきいておれば上杉家は大金持になったのに、と云った由。祖父は進取の方の気質で、丁髷も藩士のうちでは早く剪った方らしく、或る日外出して帰った頭を見ればザンギリなのに気丈の曾祖父が激憤して、武士の面汚しは生かして置かぬと刀を振って向ったという有様を、祖母は晩年までよく苦笑して話した。開発のことが終生頭についていた人であるから、金を蓄える方面は一向に駄目で、島根へ、役人として袴着一人をつれて行っていた暮しの間でも、米沢の家の近所のものには太政官札を行李につめて送ってよこすそうだと噂されつつ、内輪は大困窮。その頃の旧藩士と新政府とに対する微妙な感情から、政恒という人は政府から国のそとで貰う金は国のそとで使ってしまうべしという主義でいたのだそうだ。
そのときの役が参事司補。曾祖母と隣りの老人とが日向で話している。「今度のお役は何というお役むきでありますか」「参事司補であります」「ホウ、三里四方でありますか?」そういう対手も耳が遠いが曾祖母もやっぱり同様なので、おとなしく「ハイ、そうであります」と答えている。祖母にはそれがつくづくおかしかったと見え、ふざけることの下手な正直者であったが、切下髪を動して「ハイ、そうであります」という口真似から身ぶりまで実に堂に入っていて、私は大よろこびしたものである。
やがてゴリゴリする白縮緬の兵児帯などを袴着にまでしめさせて、祖父は一つのランプと一張りの繭紬の日傘とをもって国へ帰って来た。そのランプというものに燈を入れ、家内が揃ってそのまわりに坐っていると、玉蜀黍畑をこぎわけて「どっちだ」「どっちだ」と数人の村人が土を蹴立てて駆けつけて来た。火元はどっちだと消しに集ったので、明治初年の東北の深い夜の闇を一台のランプは只事ならぬ明るさで煌々と輝きわたった次第であった。得意の繭紬の蝙蝠傘も曾祖母はバテレンくさいと評した由。
北海道開発に志を遂げなかった政恒は、福島県の役人になってから、猪苗代湖に疏水事業をおこし、安積郡の一部の荒野を灌漑して水田耕作を可能にする計画を立て、地方の有志にも計ってそれを実行にうつした。複雑な政党関係などがあって、祖父が一向きな心で開墾を思っているように単純にことが運ばず、事業そのものは遂げられたが、祖父の心には或る鬱屈するものがあったらしい。晩年起居を不自由にする原因となった暴飲がこの間に始ったそうである。もともと政恒は薄茶がすきで、もんぺいの膝を折っては一日に何度か妻に薄茶をたてさせた。すると、或るとき曾祖母が、一服終った政恒に向って、お前は本当に開墾事業をなしとげる覚悟か、と訊ねた。政恒にとってこれは心外な問いであったろう。もとよりと答えると、曾祖母は私にはそうは見えぬ、と云ったそうだ。一日に何度も薄茶なんか立てさせて飲む性根で、土方の仕事のしめくくりがつくと思うかと云った。政恒は、その日から薄茶を断って生涯を終った。政恒は六十歳で没した。六十歳の息子のなきがらの前にややしばらく坐っていた八十一歳の曾祖母は、おうん、と嫁である私の祖母をよんで、政恒も可哀そうに、薄茶を一服供えてやれっちゃ、と米沢の言葉で命じた。祖母は思わず一生に一遍の口答えを姑に向って、その位なら、せめて、息のあるうち上げたかった、と云ったそうだ。
政恒という人は所謂乾分はつくらなかった。然し有望な青年たちの教育ということには深い関心をもって一種の塾のようなものを持っていたことあり、そこに長男であった父精一郎はじめ、何人かの青年が暮した。伊東忠太博士、池田成彬、後藤新平、平田東助等の青年時代、明治の暁けぼのの思い出の一節はその塾にもつながっていたらしい話である。
父は死に到る迄死ぬことを考えない活気で若々しく活動していた人であった。最後の一年ばかり前、或る海岸で珍しく父は幼年時代の思い出話を私にしてくれた。
いくつかの人々の名、祖父の塾の名も話され、私はノートにでも書きとめたかったのだけれども、ほんのその夜の感興で話している父の前へそういうものをとり出して、さも二度と来ない機会のように感じさせるに忍びない心持から、ついそのままになった。ましてや祖母の昔話の中では正確な年代も消えて、僅にのこった色濃いところどころが、思い出話のよすがとなっているにすぎなかったのである。
〔一九三九年七月〕