鼠と鳩麦

宮本百合子




 友達と火鉢に向いあって手をかざしていたら、その友達がふっと気づいたように、
「ああ、一寸、これ御覧なさい。こういうものがあなたの爪にあって?」
 左の中指の爪のところをさすのを覗きこんで見ると、そこには薄赤い爪の中ごろに、すこし輪廓のぼやけた白い小花のような星が一つ出ているのであった。私はふーんと感心して、自分の十の指先を揃えて眺め直した。
「私にはないわ、そんなもの」
「そうでしょう? でも、私にはあるのよ。だから着物が出来るのよ」
 そういう昔からの云いならわしがあるのだそうだ、私の指の爪に白い小さな星が出来ると着物がふえるという。
「だって――変ねえ……いつ本当に着物なんか出来るの?」
「きっとこの星の消えないうちなんでしょう」
 は、は、は、は、とその友達は面白そうに笑った。毎日の暮しの事情はお互にわかっていて、その友達がきょうあす着物をこしらえることなど思いもよらないのであった。私は、
「白い星の代りにこんなもの持っている」
と右手の拇指を見せた。
「あら!」
 友達は真顔になって、
「いつ出来たの?」
ときいた。
「いつだか。――何年かの間にいつの間にか出来ちゃった。変でしょう? 三つもこんな魚の目みたいなものが拇指にばっかり出来るなんて……」
「拇指に出来ると、親に死に別れるって云うのよ……当ってるのかしら」
 おのずと低い真面目なような声になって友達が其れを云ったのは、私が数年前に母を失い、それから足かけ三年目の一月末に、父を喪っていたからであった。二つの説明はそれでつくとして、あともう一つの分はどういうことになるのだろう。そう思って、友達が当ってるのかしら、と疑わしく云う気持が私にわかるのである。私は拇指の腹を眺めて、やがて其の上をこするようにしながら、
「もしそうなら、誰でも一生には四つ出るわけね」
と笑った。
「だってさ、自分の親たちと、つれ合いの人の親たちと……」
 そんなことを喋ったのは去年の冬のことであった。その後私は盲腸炎を患ったが、切開することが出来なかったからいつ迄も工合わるくて、下駄が右の腹に響いて歩いてもいやな気分がつづいた。その話をきいて、又別の年長の友達が私に一つの漢方薬を教えてくれた。それをのんでいて、いくらかずつおなかのいやな気色を忘れた。
 或る時、湯上りに爪を剪っていた。左の指をずっと剪って、右の方になったとき、思い出すともなく思い出して拇指の裏を見たら、魚のめのようなものは二つ、いつの間にかすっかり消えてしまっている。指紋が綺麗に流れていて、その間に小さい島のように一つだけ楕円形に光ったところが残っている。
 おや、こんなものが出来たと心付いて眺めた時より、おや消えていると思ったときの方が何だかびっくりした。薬を教えてくれた人にお礼がてら魚の目のことを話したら、
「それは、鳩麦のせいですよ」
とはっきり云われた。では盲腸のしこりも、魚の目のようにとかすのかしら、何だか気味が悪いと笑った。
 鳩麦というものだけ買って、戸棚に入れたまま何月か経った。買ったときの私のつもりでは、其れを田舎に暮している私の姑にあたる人に送るつもりだった。まだかっちりと若々しくて、黒い耀いた眼ざしをしているそのひとは、指にたこのようなものがあって、ちゃんとした装などのときは袂のかげにそっちの手を置くようにしているのであった。
 ところが鳩麦だけの飲みようが私に分らない。売った店にも判らない。飲みすぎて、どこかが薄くなりでもしたら可怖い。それでつい送らずじまいになっていた。
 昨夜、友達が来ているとき、私が座っているうしろの戸棚の中で、盛に鼠が何かをカサコソ云わしている。なんなのだろう。襖をあけた途端、その中につみ重ねてある雑誌類の上を渡って棚の仕切りの間に消えかかっている鼠の尻尾の先が見えた。
「蝋燭! 蝋燭!」
 私は、せっかちな声を出して、その小さい灯かげを戸棚の奥へさしいれて見て、
「どう? 一寸! これ!」
 灯をその位置にかざしたまま体をひらいて友達に戸棚の中をのぞかせた。鼠は鳩麦の袋を破ってそれを喰べていたのであったが、私たちの驚き且つ感歎したのはそのたべようの巧緻さである。鳩麦の、瀟洒な色の、つるりと堅い細長いこまかな殼の胴なかを噛みやぶってみだけ綺麗にたべている。鳩麦の夥しい殼はからの小舟のような軽い粒々をあたり一面に散ってカサコソと鳴るのである。
 鼠がものを齧る音は聴くのはいやだ。ずっと先、上落合の方の家にたった一人で暮していたときは、鼠のあばれようがひどくて、天井の上で何か齧っている物音が、無人さに対して動物の悪意を示してさえいるようで、猛々しかった。一々その鼠を追っぱらっていられない。その強情でしつこい歯の音の下で長い夜の間、私は物を書いていた。そして、くたびれて眠ると、夜中に枕元でその鼠か別の鼠かがあばれて、一度は顔の上をとびこされて、暗闇に愕然と目をあけたことがあった。
 いま鳩麦をかじった鼠にも、格別の好意はないのだけれども、その齧りかたが一定の方法をもっていて、しかも何百粒か数え切れない粒を、その方法でかじりつづけて行ったところに一種の気持よさを感じた。
 この前のヨーロッパ戦争のとき、塹壕の兵士たちの苦しんだものに野鼠がある。太った大きな、野獣化した野鼠との格闘のことが文学にもあらわれている。日本の兵士のひとたちにこの苦しみはどうなのだろう。お福さまなどと呼ぶが、私は鼠の音からいつも何となし人生の或る荒涼を感じる。
〔一九四〇年七月〕





底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「書物展望」書物展望社
   1940(昭和15)年7月号
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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