村の三代

宮本百合子




 三春富士と安達太郎山などの見えるところに昔大きい草地があった。そして、その草地で時々鎌戦さが行われた。あっち側からとこっち側からと草刈りに来る村人たちは大方領主がそれぞれちがっていて、地境にある草地の草を、どっちが先に刈るかというような争いから、丁髷を振り立てて鎌戦さになることがあったのだろう。
 明治の政府になってから五年目に安場保和の建案を発端とし、大久保利通の内地の開発事業の一つの典型として、福島県でも猪苗代湖から疏水をこしらえて、これまでは鎌戦さのあった草地へ田を作る仕事に着手した。
 さまざまの政治的変動の余波を蒙って、多くの波瀾を経ながら辛うじて疏水事業が進行しはじめたとき、米沢藩だの久留米藩だのから下級武士たちがそれぞれ一家をひきつれて開墾へ移住して来た。そしてそれぞれにもとの藩の名をつけて久留米開墾という風に呼ばれるようになった。
 桑野村という村は、疏水事業や開発事業につれて附近の藩から移住して来た人家で、どうやら明治の村の形をなしたところらしく思える。兼てこの村が附近の開発の中心地となって村役場も出来、大神宮も建てられ、そのあたり一帯は開成山とも名づけられた。
 この開成山の村役場というのが、そんな東北の開墾村の役場にふさわしくないような三階建てで、屋根はコバ葺きながらなだらかな反りを松の樹蔭に陰見させている。一里ばかり離れた郡山の町から一直線の新道がつくられて、そのポクポク道をやって来たものはおのずから村を南北に貫通している大通りへぶつかり、その道を真っ直ぐ突切ると爪先上りの道は同じ幅で松の植込みのある、いくらか昔話の龍宮に似た三層楼の村役場の玄関へ導かれているのである。
 まだ荒漠としている開墾の遙か彼方の山並の上に三春富士を眺め、その下に連る古い町々の人煙を見ながら、松林の中へ三層楼の役場を建てた当時の人々の感情のなかには、明治というものがどんなに明るく、広く、真直な美しさをもってうちひらけ、描かれていたかが実に髣髴とするようである。
 明治二十年ごろまでの世の中は面白くて、明治大帝の東北御巡幸のとき久留米開墾の爺さんが、何の珍らしいものもないが、これは近来の出色の物産として三尺ばかりの大根を一本三宝にのせて御覧に入れた。そして、おほめの言葉を頂いた。
 そんなに貧寒であった開墾地の村々も次第に耕地が肥え、田畑の収穫もましになって、三つ並んで街道の傍にあった池の一つは郡山の町の貯水池となったり、一番池のそばにはいくつかの工場が建ったりして、日露戦争を経、欧州大戦の余波の経済パニックも経た。
 もうこの頃には、どこの開墾村でも初代の移住者たちは年をとって、二代目が中堅となっており、村役場の三層楼も年とともに古びて来た。郡山が膨張して、附近の村々の若いものはそこの工場で働くようになったし、大戦のころ米価暴騰につられて田地を買い込んだ農民たちは忽ちその借金なしに追い立てられることとなり、村の生活へは明け暮ひろい流れで町の息吹きが動きはじめた。
 やがて、それらの村々が併合されて郡山が市になった。村の小学校を出た少年少女は殆どのこらず工場や商店に通うようになり、バスが通りはじめた。
 今度の事変がはじまった。先ずガソリン節約でバスがまた一日二三度しか通らなくなったことから始まって、村の空気は段々しかも急速に変化して来た。
 近所に出磬でけい山という妙な重箱よみの名をもった山があってその麓一帯何万坪かの田畑が今度買いあげられ、そこに兵営が出来ることになった。
 秋のとりいれを待ちかねて、田畑はほりかえされ工事に着手されはじめた。一ヵ村が生計の道を新しく見出さなければならない次第である。誰しも思いつく兵営のぐるりの餅菓子屋だの、一寸一杯だのの店を開くのも今はたやすいことではない。
 作っただけの米が自由にならないこと、夜の目も眠らず上げた繭を組合で内金だけで売らなければならないこと、村人たちはそれらの新しいことにまだ馴れにくいのである。
〔一九四一年一月〕





底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「日本農業新聞」
   1941(昭和16)年1月1日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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