図書館

宮本百合子




 あいそめ橋で電車をおりて、左手の坂をのぼり桜木町から美術学校の間にある通りへ出た。美術館の横手をのぼって、博物館前を上野の見晴しの方へ通じるこの大通りは、東京の風景がこんなに変った今もやはりもととあまり違わない閑静さをたもっている。美術学校の左側の塀を越して、紅葉した黄櫨はじの枝がさし出ている。初冬の午後の日光に、これがほんとに蜀紅という紅なのだと思わせて燃えている黄櫨の、その枝かげを通りすがりに、下から見上げたら、これはまた遠目にはどこにも分らなかった柔かい緑のいろが紅に溶けつつ面白く透いていて、紅葉しつつ深山の木のように重なりあっている葉の複雑な美しさにおどろいた。
 電車の乗り降り場にしては、重々しすぎて陰気な京成電車の、何年もしまったきりの入口を見て左へ折れ、音楽学校前への通りをすぎると、木の下に赤いポストが立っている。そこが上野の図書館入口の目じるしである。きょうは曝書でもやっていてお休みではないかしら、余り久しぶりに行くんだもの、そう云いながら、本当に半信半疑でそこまで来た。けれども、前をゆく三人ばかりの、いかにも図書館の常連らしい中年の男の人々が次々植込みに消えるところをみれば、きょうは開館しているらしい。だらだら坂を、もと入場券売場になっていた小さい別棟の窓口へのぼって行った。そしたら、そこはもう使われていず、窓口から内部をのぞいたら板ぎれなどが乱雑につんであった。七年ばかり前、春から夏、秋、冬と、ちょいちょい通っていた頃は、ここの窓口で特別券を買って昔の新聞などを見た。戦争の間に、ここのしきたりもおのずからかわったのであろう。
 下足場へ下りると、ここは昔ながらの薄ら寒いくらがりで、もと二人いた下足番の爺さんが、きょうは一人で、僅かのはきものの番をしていた。わたしは草履をもって来たんだけれど、と云ったら、じゃあ、下駄はもって行って下さいよ、番号があわなくなると困るからね、あとで、番号が分らなくなってこまるからね、とくりかえし云って、新聞にくるんだ下駄がノートの入った風呂しきにしまわれるの迄を見てから、腰をおろした。この爺さんは、もと来た頃いた爺さんだろうか、下駄をあずかる気分にもちがったところをもっていて、来る人間に、目前の利慾からはなれたこころもちをおこさせる調子があるのである。久しく来なかったら、よくよく様子が変りましたね、入場券、あちらで貰うの、そう訊くと、爺さんは、ああと肯きながら又ひとりでに立ち上って、そこを入って行った右手のところでね、と教えた。
 やっぱり柵の間を通るようになっていて、そこにテーブルをひかえてこちら向きに受付がいる。そこで閲覧料を十銭だせ、と書いてある。十銭ですか、特別も? 黒い毛ジュスの事務服を着た中爺さんは、首だけで合点して、そう、と答えた。この役人風な調子も、やはり上野風である。戦争でやけてしまわなかった図書館をよろこんで珍しく眺め直すこころもちには、役人くささも、相変らずとほほえまれた。
 二階へ上ると、おどり場に台と腰かけがおいてあって、喫煙室と書いたしるしが立てられている。そこで外套をきた若い男が二人、てんでにちがった方角を見ながら煙草をふかしていた。三階の書籍かり出しのところとカタログ室とは、もとからここにこうしてあっただろうか、いかにも埃っぽくて奥が深く暗い書庫に向って、裁判所めいた高い卓があるところは、見馴れたここの光景だが、カタログ室の方が妙にガランとしている。書籍かり出しに、相変らず時間がかかると見えて、いつからそうなったのか、皮ばりの大長椅子が二列、三かわほど置かれ、そこにすき間なく閲覧者がかけて待っている。それは病院のような、役所のような燻んだ雰囲気である。婦人閲覧者のかり出しぐちは、別に塗板がかけられて、一人専任がいた。これは元のとおりである。
 きょうもまた、古い昭和初期の新聞を出して貰うのを待ちながら、私は特別の関心で、高い卓のあっち側で事務をとっている黒い上っぱりの三人の男の顔だちを見くらべた。まだここにつとめているだろうか。そう思いながら来た人があった。
 はじめてこの図書館へ来たのは、女学校の二年ごろのことであった。元禄袖の着物に紫紺の袴、靴をはいた少女が、教室の退屈からのがれてこの高机の前に立ち、手を高くのばして借出用紙を出したとき、それをうけとった黒い上っぱりの人が、あなたまだ十六になっていないんでしょう? ときいた。早生れの二年生であったから、十六になっていなかった。返事に困って黙っていると、ここは十六からなんですよ、と云って、それでも何だったか、借りようとして書き出した本をわたしてくれた。そのとき、年のことを云った人の顔立ちが、不思議に後々まで鮮やかに私の記憶に刻まれた。どこと云って目立つところのない、おとなしい小ぢんまりした色艷のよくないその顔は、顎の骨がいくらか張っていた。特徴がないその顔には、しかし、何年も一つ仕事についていて、しかも朝暮本ばかりを対手にしている人間の、表情の固定した、おとなしい強情さというようなものがはっきりと感じられるのであった。
 それから三十年近い歳月の間には、波瀾があった。私は一人の女として、何年も図書館など見向きもしない有様で暮したことがある。そうかと思うと、又ひょっこり現れて、暫く熱心に通いつづけるという工合であった。そういう風にして、何年ぶりかで図書館へゆくとき、いつも、そこに一人の司書の小堅い顔と黒い上っぱりのくくれた袖口とを思い出した。その人はいるかしら、と思って来て、待つ間に見まわすと、たがわずその司書は、もとのように司書の席にいるのを発見するのであった。それは、たまにゆく古馴染の家の見なれた目じるしの柱の節のようであった。格別何という意味はない。けれども、そこへ行って見てその節があると、何となく心がおさまる。私にとってそういう風な、図書館の一つのつきものなのであった。書籍をかかえて書庫との間を往復する少年や青年たちの、あの興味なさそうな、のろくさいすべての動作と埃っぽい顔色と同じように。――
 この前に来たときと、きょうとの間に七年の月日が経過している。間に戦争のはさまった七年であった。あの司書はいるだろうか。左へ右へ司書の顔を見くらべた。それらしい人は見当らない。ぼってり太った、白い無精髭の生えた爺さん、この司書は体つきからして別人である。若い人は論外だし、もう一人いる人も、円いような顔の老人で、すっかり背中を丸め、机の下でこまかい昔の和綴じの字書の頁をめくっている。もうあの人もいなくなったのかもしれない。
 時の推移を感じ、私は視線をうつして、前後左右に待っている閲覧人のどっさりの顔を眺めわたした。ここには青年が多い。それは、いつもそうであった。だけれども、今そこここに佇んだり、長椅子にかけたりして本の出されるのを待っている若い人々の顔つきは、こうして集っているところを見ると、もととはちがっているのにおどろかされた。何と、これらの若い顔々は、木彫りか土偶かのような、単純に目、鼻、口と切りあけたというようなマスクをしているのだろう。顔だちとしては、一人一人が別の自分の顔立ちをもってはいるけれども、奇妙な無表情の鈍重さが、どの顔にも瀰漫している。医大の制帽の下の眉の濃い顔の上にも。無帽で、マントをきた瘠せた青年の顔の上にも。しかも、その顔々は、図書館の広間に集り、街頭には無い何かのゆたかさを、それぞれの精神に摂取しようとして、待っているのである。混む省線の中で、どっと乗りこんで来た専門学校の学生のかたまりなどと、計らずも密着して立ち、揺られてゆくようなとき、それらの若い顔の粗笨な単調な刻みにおどろきを感じたことが一度ならずある。戦争は、におやかであるべき青春の相貌を、このようなものに変えた。その思いで、いつも、心の底ふかくこたえて来る感銘があるのであった。戦争をさしはさんで何年ぶりかで図書館へ来て見れば、図書館に充満しているのは、そのような青春の顔々である。これらの顔々が、人間らしい軟かさ、鋭さ、明確さの交々流動するものに、両び成りかわってゆこうとしている。その無言の欲求が、ここにこれだけの数のその顔々をあつめていると思えるのである。これらの人々が、今日読もうとしている書物は、何であろう。
 そう思って、新刊書のおかれている網棚の方へ目を移そうとしたとき、入口わきの凹みに、横顔をこちらへ向けて小卓に向い、何か読んでいる一人の司書の老人に注意をひかれた。黒い上っぱりを着ている。袖口がくくられてふくらんでいる。その横顔の顎の骨は、私の記憶のなかにくっきりとしているとおりのおとなしい強情さで小さく張っている。それは、あの顔であった。図書館につきものの顔である。が、髪の白さはどうだろう。脊のかがまり工合はどうだろう。この人は最近に全く老人になった。ひょいと、何かのはずみで、その人がこちらへ顔の正面をむけた。私は、一層おどろいた。その顔は、さっき正面からじっとみていたときには、別人としか思えなかった円顔の老司書の容貌である。栄養が十分足りて、ふくらんでいるとは思えない、むくんだような艷のわるい老司書の顔である。再び横に戻ったその輪廓を眺めれば、それはまぎれもない昔馴染の耳の下から顎へかけての線である。生活の物語が、そこから溢れてこちらの胸に流れ入るように感じられた。歳月によって老い、面変りした正面の顔、それにもかかわらず失われることのないその人の俤が小さく保たれている横の顔。こんな永年、経済の上では成り立ちようもない俸給で司書の仕事をしつづけて来ているのだから、この人の三十年の生計は平安であり、寧ろゆとりがあるものかもしれない。そうだとしても、三十年という時間は人生における何かである。そして、この人は三十年間一つの仕事にしたがいつづけ、高い卓のうしろのその場所から動かなかった。
 以前に来たときは、三階の大廊下を右へ入ったところに婦人閲覧室があった。重い古新聞の綴じこみをかかえて、廊下へ出て来てみると、そっちへ行く大扉が閉められて、つき当りの一室が開いているだけである。新聞は「特別」で、先頃は特別閲覧室でみなければならなかった。広間の入口で、学生に、婦人閲覧室はどこでしょうときいたら、不思議そうに一寸黙っていて、ここです、と答えた。ここというのは、一般閲覧室である。入って行ってみると、男女区別なしに隣りあって読書したり、ノートしたり、居睡りしたりしている。戦争はその結果としていろいろの変化をもたらした。けれども、この役人くさい図書館が、やっと世間なみに、男女共通の閲覧室をもつ決心をしたということには一種のユーモアがある。
 男子、女子の区別は、従来の日本の半官的な場所では愚劣なほど神経質であった。上野の図書館には、明治の前半期に樋口一葉がよく通った。一葉日記に、ここは屡々出て来る。その頃、おそらく一人か二人しかいなかったであろう女子の閲覧人は、どういうところで読んだり勉強したりしていたのであったろうか。私の記憶にあるはじめの婦人閲覧室は、現在、手洗場のある長廊下のつき当りの小さい光線の不十分な一室であった。そこだけは、カタログ室からも一般閲覧室からも遠くはなれていて、薄暗い灯にぼんやり照らされたその長廊下を受付けまで歩いて来る宵のくちの図書館の気分は、独特であった。暗くなって、その室の人数が一人一人減ってゆくと、少女の心は落付いていにくかった。背筋のひきしまるような気もちで、人気のない長廊下を来て柵のところの机に、電燈の光を肩から浴びた受付の人の姿を見るとき、人里に近づいた暖かみと安心とを覚え、階段にかかっている円形時計の面を見上げるのであった。その円形時計は、針が止ったまま、あたかもその壁の上についている。そして、こんど行ってみると、その長廊下へ出るところに、木箱がどっさりつみ重ねられていた。深い長めな四角い箱で、積んである外見に、そのなかにつめられている本の重量が感じられた。今年の夏、駿河台にある雑誌記念館へ行ったときも、その建物の中の使われていない事務室の床の上に、こういう木箱がずっしりとつみ上げられていた。日本から海を越えてアメリカへ送られる書籍だということであった。上野図書館の廊下につみあげられている木箱の形は、その印象を思いおこさせた。
 一般閲覧室は広くて、明るかった。ただ西日がきつくさし込んだ。それで、勉強にはふさわしくない眩しい反射が頁の上に出来ているのにかまわず、若い専門学校の女生徒らしい人たちがあちらこちらにかなり多勢読んでいる。婦人閲覧室が別になっていたとき、その室には女ばかりの空気があって女学校の寄宿舎の勉強室のようであった。同時に、友達同士で来ている人たちの私語がかなりやかましいようなときもあった。男の人々と交って一般閲覧室にいる女のひとたちで、気になるような話をしているものはない。度々同じ閲覧室で出会い、ときには必要な本の索引のひきかたをきき合ったりすることから、婦人閲覧室の仲間が出来て、東京でたった一つ、それがきっかけとなっている興味ある婦人たちのグループがある。その人たちは、十年前には、それぞれ専門学校生徒だったり勤めをもっていたりした人々であった。若い女性の心にうごく願望に導かれて、それらの人はばらばらに図書館に来て、学校の課目や勤めの義務以外の勉強をしているうちに、段々互に顔なじみになり、話しがはじまり、御弁当のとき一緒に食堂へ行くようなことから、一つの集りが出来た。互に励しあい勉強しあって、夜が更けてからの気味わるい上野の山内をみんでかたまって帰って行くような扶け合いから、これらの人々は若い女の人たちの集りとしては珍しく、時によっては経済上の援助もしあった。その時分、一番早く一本だちになって開業した女医さんである一人の仲間が、そういう場合、よくみんなのために尽力した。
 十年が経ってゆくうちに、或るひとは結婚し、或る人は専門の職業で確立し、或るひとは更にこれまでの職業から、個性のより大きく生かされる仕事に進もうと計画している。上野という地域や、図書館や、わたしにも親しい思い出のあるその珍しい集りが、久しぶりで桜木町の仲間の一人の家でもたれた。集りの仲間は、戦争でちりぢりになっていた。それが今度めいめいの女としての人生の行手に新しい期待をかけて月一回ずつ集ることになったのであった。
 見かけよりはずっと奥ゆきの深い、いかにも桜木町辺の家らしい二階によったその集りには、非常に好感がもたれた。みんな、生活を知り、この社会で女が自立し、働くということの現実を知っている十五人足らずの人たちであった。なかには幼い娘を膝にのせている人があり、元来はお母さんが集りの仲間であったのに死なれて、文理大の研究室助手をしているその娘さんが、第二世会員として出席しているというようなこともあった。この集りは、上野の図書館の婦人閲覧室が、夜はほんとうに気味のわるかった音楽学校の森よりの場所から、本館の三階の上へ移って後、つくられたものなのであった。
 女の友情と云えば、たよりないものであったのも、つまりは婦人が社会人として無力であったからであった。経済的能力もないし、はっきりした職業の上の立場もないし、友達にたよられれば共にゆらつく生存の足場しかもたなかった。女子の専門学校や大学の学校仲間というものも、これまでのように、親の資力の大さでそこの生活が保障されて来た娘たちの集り場所であっては、結局、生活の問題までをわかち合う仲間としての友情は生じにくかった。
 もうこれからは、どこの図書館でも、婦人閲覧室というものは無くなってゆくだろう。云ってみれば、社会の全面から、そういう差別を無くしたい気持に燃えている、女の人たちの集りが、最後の婦人閲覧室から生れたことは面白く思われる。
 この頃の上野の山はこわい東京の中でもこわいところの一つとなった。初冬の落日は早くて、五時すぎると上野の森に夕靄がかかりはじめた。西空にうすら明りはあるのに、もう美術学校の黄櫨はじの梢は、紅を闇に沈めてただ濃く黒いかげと見えるばかりである。婦人閲覧人たちは、殆どみんなこの時刻に帰り仕度をはじめた。わたしも、ふろしき包から下駄を出して、正面の段々をのぼり切ったところで穿きかえた。
〔一九四七年三月〕





底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「文芸」
   1947(昭和22)年3月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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