傾く日

宮本百合子




             ○
 十一月になり、自分の心には、林町とああ云う関係にあると云うことが、次第に苦しい意識となって来た。九月の二十九日の夜、母上が、当分会うまいと云われた時、随分自分は苦しく思い涙を流した。けれども、その心持は今とは異う。あの時、自分には、其那ことが如何にも詰らない、不合理なことに思えたのだ。直接の原因は、太陽に書いた小説が母上の感情を害したと云えるかもしれないが、左様な決心を彼女にさせたものは、単に彼の小説一つ位のものではない。Aが気に入らないのだ。気に入らないと云うことを知って、子供らしくそれを取除こうと努力する気になれないAの心持が、彼女を我慢させなかったのだ。それにしても、私共に会わないことが、どうして事態をよくして行くだろう。
 会わない、見ない、と云うことが、何も私共が母娘であり、Aと自分とが夫妻であると云う事実に変更を与えるものではない。其那ことをし、故意に生活に強制した一点を作るより、互に理解しようと努力し、友情で団結して行く気に、どうしてなれないのかと、自分は、自分の心持より、寧ろ、母上とAとの心持を恐れ悲しんで歎いたのであった。
 あの時、自分は、若しそうしなければならないのならば、我慢する。此程のことを、無益に過させたり、其裡から、何か自分を養てるものを見出さないような自分では真逆なかろうから、と云った。実際、左様やって一月でも二月でも会わず、互に遠くから静かに互のことを思ったら、必ずよりよい理解が湧くに相異ない。良人に愛され、母に愛され、その地上的愛の葛藤に苦しむよりは、相方が或強制を以て、人生を眺める方が、人格が深まるのかもしれないと云うような、稍々利己的な積極的解釈さえ加えて居たのである。
 けれども、近頃、自分の心は、林町のことを思うと、暗く、淋しく沈むのを覚える。
 母上は、其後の自分の心持の変化については、一言も書いて下さらない。AはAで、自分から頭を下げて謝すべき理由は見出さないと確信する。一月の時日の間に、彼等の間には何の流動、何の心的交通も開けては居ないのである。どうして其ですんで行くだろう、此が一年続いても、二年続いても、彼等は平気なのだろうか、恐ろしくなる。
 私と云うものを挾んで相対する彼等は、私に対してはどちらも、愛に充ち輝いた笑顔を向けて呉れるのだ。然し、私が一歩傍へのいたら、彼等は、どちらも、理解されないまま、開かれない扉に面して生活して行く可能が明かなのである。
 私だけが、母上との間を又元の円らかさに返したとて、結局どうなるだろう。何も改善されない。又、元のいつでも争いを起し得る固執状態が帰って来る。
 来年の新年を、林町へ「お目出とう」を云いに行くことも出来ないのかと云う予想は、自分に涙を浮ばせずには置かないのである。
 自分に生活の、愛の確信があり、自分と彼女との性格的差異を熟知して居るばかりで、私は辛うじて今の心持を支えて居る。
 支えて居なければならない必要が、果してあるのだろうか。
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 高い、堅い二つの絶壁の間に、子供が落ちた。目をあげて見ると、空まで真暗にキリギシが聳えて居るのが堪らなく怖い。じっと竦んで、右を見、左を眺め廻した末、子供は恐ろしさに我慢が出来なくなって、涙をこぼし泣き乍ら、小さい拳で、広い地層を叩き出した。
「よう! よーお!」
 両方の絶壁は子供の感情を知った。憐れに思い、何とかしてやりたく思う。泣声は次第に激しく、叩く拳は次第に熱烈に、苦しくなって来る。
 真個に、崖も辛く思う。然し、彼には手がない。彼方の崖にも腕がない。せめて柔かく身でも屈めてやりたいが、後に引続いた地盤は厚く広大で、動きもとれない。
「ようお! よう!」
 オイオイ泣く児を挾んで、崖は、冷たく、堅く立って居るように見えた。
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 金は、無くなると其量だけ結果に於て Less になる。然し、愛だけはそうでなく、不死で、不滅で、同時に、或人の持つ総量に変ることないのを知った。
             ○
 人間が、血縁の深さに惑わされ過ぎることを思う。いつか、人間の如何那関係に於ても、欠けると大変なのは、友情だと云うのを読み、深い真のあるを思う。
 母上、貴方は、どうしてもう少し私や、Aに、友情を持って下さることは出来ないでしょうか。
 A、貴方は、もう少し、一人の友に対して寛大であっては呉れませんか。
 私には、貴方がたのどちらもが、互に害されることを辛く思わずに居られない。どっちからでも可愛がって貰ってさえ居ればよいと云う時代は、いつか過ぎて居るのを知った。

 秋の日の三時頃、縁先に立って、斜にのきばから空を見あげて居た。
 何処かで大工が物を叩いて居る音が響き、ちいちく、ちちと雀の声が聞える。
 日足を擾して、一羽、梧桐の葉かげから、彼方の屋根に飛びうつった。ちちくくとせわしく鳴く。
 又、一羽来て、今度は隣の庭にある、何に使うのか滑らかそうな材の頂上に止った。
 二かたまり、流れる白雲と青空とを背にして、雀は、嘗て見たどの雀よりも、簡潔に、強く、心を動かした。





底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
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