無題(四)

宮本百合子




 ヘンリー・ライクロフトの私記の中に、
 自分は、斯うやって卓子の上にある蜜も、蜜であるが故に喜んで味わう――ジョンソンが云った通り、文学的素養のある人間と無い人間とは、生者と死者ほどの違いがある。この蜜についても、若し私がハイメッタスやハイブラをちっとも知らなかったら、自分にとって何だろう、と云って居る。蝙蝠こうもりが夕暮とぶのを見る面白さも、闇夜の道に梟の鳴くのを聞く満足も、皆彼等が詩の世界に現れるものだからだ、と。
 私は自らギッシングの心を二様に考えさせられた。
 一方の考。――彼は本当に純な尊い文学愛好者であった。自分が文学者として如何うだと云う批評や野心等は抜きにして、青年のような熾な愛、帰依で先人の文を追想し得た尊い心情の持ち主であると云う感服。
 他の一方は。――彼も、ヴィクトリア時代の考証癖を脱し切れず、自分がこれはどう感じ見るかと思うより先に、シェークスピアやホーマーの文句を思い出し、そのものを徹し、その描写にまとめて、自分の直観に頼らない、第二流文学者――否、芸術家的素質しか持たなかったか、と云う些の物足りなさ、惜しさ。
 ヘンリー・ライクロフトの私記。p. 181.
 英国民が偽善者と云われることにつき、真相をギッシングは実に明確に、愉快に指摘して居る。彼の意見によれば英国民は決してヒポクリットではない。この言葉の使用法は間違って居る。正しく云えば英国人は、パリサイ的なのだ。悪徳の第一は、常に己れを正義とする信念にある。彼等は、“gone wrong”は認める。けれども、英国人たる者が生得権として敬虔、真実な徳義を持つと云う信条は決して否定しない。自分等は選ばれたる者で、特別な精神高揚の努力なしで、仁慈に達せられると思って居る。自分の金を出して一つの教会を建てる騒々しい成上りものは、そう云うことで社会の尊敬を得ると思うばかりでなく、彼の奇妙な小さい霊に、彼は神を喜ばせること、人類に貢献することをしたと信じるのである。両性間の徳義についても、偽善と云う言葉は甚しく間違って使われて居る。英国人の大部分は今日もう国家的宗教の教条は無視して居る。けれども、英国に於る社会表面上の道徳は世界屈指のものだと云う信念を捨てた人は実にまれだ。ところが、実際、若しする気があれば人は、まことに雑作なく、英国の社会生活は他の国々のそれよりちっとも純潔でないと云うことを証明することが出来る。最早絶えることない特種の野卑な醜聞は、嘲弄者に潤沢な機会を与える。大都市の街路は夜毎に世界の他の何処にも又と見られないような展覧会を示して居る。これら総てのことあるに反して、普通の英国人は自分の国の徳義上の優越を授けられたものと考える。そして、他のひと人に迷惑な思いをさせて、それを宣言する機会を失うまいとするのだ。このような男を、偽善者と呼ぶのは抑々そもそも其奴を知らないのだ。彼も、自分としては下劣な心情の所有者になるかもしれないし、生活に不注意な者になるかもしれない。が、それは問題外だ。「彼は美徳を信じて居る。」云々。
 この一章は、ヘンリー・ライクロフトが最も鋭鋒を現した部分と云えよう。
 今日の私共がこれを読んで感じるのは、「あに英国のみならんや」と云うことである。又、ショウが英国で嫌われる。その理由を、国民が彼の云うことが本当なのは認めるが平然と、堂々とそれを認め、云う、そのことを異端として毛ぎらいするかと苦笑されもする。又、一層悲しき微笑の浮むことは、日本から行った者が、帰るときっと無批判に所謂英国の紳士道の盲信にかぶれ、変に奇麗ごとの好きになることである。





底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
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