余録
菅公を讒言して太宰の権帥にした、基経の
小学歴史で読んだ時から、清くやせた菅原道真に対して、グロテスクな四十男が想像されて居た。ところが、実際はそうでなかったらしい。寧ろひどく偏狭な、神経質な、左大臣の官服の下に猿のような体のあることを想わせる男ではなかったた。小さく窪んだ二つの眼を賤しく左右に配って、せかせか早口な物の云いようをしたようにも想われる。
彼の住居は八條にあった。内裏までかなり遠い。冬だと、彼はその道中に、餅の大きなの一つ、小さいのを二つ焼いて、温石のように体につけて持って行った。京の風に、焼いた餅はいくばくもなくさめる。ぬるくなると、彼は、小さい餅なら一つずつ、大きなのは半分にして、車の簾越しに投げ与えて通った。当時有名であったらしい。
彼の性格の一面が現れ、私には非常に面白く感じられた。
醍醐帝の延喜年間、西暦十世紀頃、京の都大路を、此那実際家、ゆとりのない心持の貴族が通って居たと思うと、或微笑を禁じ得ないではないか。
彼は又、薬師経を枕元で読ませて居た時、
笑い出すとだらしなくはめを脱した事。横車を押し意だけ高に何かを罵って居た時、才覚のある者が、ふみばさみに
「大臣 ふみもえとらず、手わななきてやがて笑ひて、今日は術 なし、右の大臣にまかせ申すとだにいひやり給はざりければ々々」
と大鏡の筆者は記して居る。手を震わせつつにやにやとした時平の蒼白く、頬の肉薄き笑いが目に見えるようだ。僅三十九で死んだ。延喜九年道長の出世の原因
藤原為業は明晰な、而して皮肉な頭の男であったらしい。望月の欠くるところなきを我世と観じた道長の栄華のそもそもの原因を斯う云って居る。
二十三で権中納言、二十七で従二位中宮太夫となった道長は、三十歳の長徳元年、左近衛の大将を兼ねるようになったが、その前後に、大臣公卿が夥しく没した。その年のうちにも三月二十八日に閑院大納言、四月十日には
これが道長の運命に大きな変化を与えた。
前述の先輩達が順当に長寿したら、道長とてもあの目覚しい栄達は出来なかったであろう。それを、嗣ぐべき人が相ついで世を去った為道長は、あさましく夢なのどのようにとりあえず、なったのだ。と。
短い小説を書こうとして居るのに、どうしても趣向がぴったり心に映らず、従ってちっとも信念が湧かないので、一字も筆を卸せない。殆どその事ばかりを思いつめ、今日は心が苦しい程になった。
夏目漱石の「門」をとびとびに読み、終りに近く、宗助が鎌倉の寺に参禅したところで、ひどく感動する文句に遭った。彼の作より寧ろ引用してある禅僧の話が心を打ったのだ。
「悟りの遅速は全く人の性質で、それ丈では優劣にはなりません。入り易くても後で塞えて動かない人もありますし、又初め長く掛っても、愈と云う場合に非常に痛快に出来るのもあります。決して失望なさる事は御座いません。ただ熱心が大切です。亡くなられた洪川和尚などは、もと儒教をやられて、中年からの修業で御座いましたが、僧になってから三年の間と云うもの丸で一則も通らなかったです。夫で私 は業が深くて悟れないのだと云って、毎朝厠に向って礼拝された位でありましたが、後にはあのような知識になられました。云々。」
と云うのだ。自分が苦しい最中なので、業が深くて云々と云う処を読んだら涙で眼がかすんだ。