一九二九年一月――二月

宮本百合子




 二月
 日曜、二十日
 朝のうち、婦人公論新年号、新聞の切りぬきなどをよんだ。東京に於る、始めての陪審裁判の記事非常に興味あり。同時に陪審員裁判長の応答、その他一種の好意を感じた。紋付に赤靴ばきの陪審員の正直な熱心さが感じられる 例えばこんな質問のうちに。
 マッチから指紋をとろうとしなかったか 指紋をとることを思いつかなかったか
 又煙はどっちへ流れたか
 素人らしき熱心さ、若々しさ。これはよい心持だ。
 ○新恋愛探訪
 颯爽として生活力的な恋愛一つもなし。
 三つの記事 各々に対する記者の態度が反射して居て面白い。[#この行は枠囲み]
 山川さんの時評、愉快。近頃日本林氏専売コロンタイ式恋愛に対する彼女の批評は全く正当だ。この論文は当然いつか誰かによって書かれるべきものであった。
 ジャーナリズムの頭のわるさ或は誠意のなさは、斯の如き恋愛論と、石原純の記事へ真杉氏の恋愛的人道的認識との間にある間隔に対して何の判断をも与えて居ない。
 ○三時頃、少しうとうとして居たらYが来た。昼間の光でYの顔を見るのは珍しい。故に嬉しい。一つ芸当をして見せた。自分一人で半身起き上って、右肱をついて左手で傍の卓子からものをとるという芸当。そしたら、始めて彼方の隅に一つ白い布のかかった卓子のあるのが見えた。

 十九日 土
 ひどい風だ。雪が降り出した。――たきりの自分には何もわからない。ただ目の前に日光のささぬ水色の壁があるばかり。ファイエルマン退院をするので、噪いで аптека へ買物に出かける話だ。
 一番若い医者が来た。椅子にかけ乍ら
――どうですか
――ありがとう 相変らず
――昨日は 我々 随分頭を振った
――何故?
――悪いものが出た、永く臥てなくちゃなりませんよ
――というと? 重いというわけ?
――石はない。胆嚢炎らしいです
 いよいよ病名がわかった。が、若い医者が好意的に話してくれたので、主治医は何にも説明しない。「よらしむべし」という風だ。
 ○夜、始めて独りで横わり非常に安静だ。然し 室にはまだファイエルマンの臥て居た寝台がある。静かな夜の中で、そこから彼女の寝息が聴えて来るような気がした。
 この自覚から林町の家のことを偲い出し、憂鬱を感じた。さぞ 家じゅうに英男の若々しき二十一歳の息、跫音、笑声ののこりが漂って居ることであろう。そこに住む。やさしくないことだ。

 ○日
 Gが来た。
――窓のそと どんな景色? 私、まだ知らないのよ
――云ったげましょう、樹が三本、隣の建物
――それっきり?
――それっきり。
「知られざる日本」という自著をくれた。紺と黄との配色。自動車、蓑笠の人物、工場の煙突、それらの上空には飛行機のとんで居る模様だ。日本東京の或ものを捕えて居る。

 月曜
 ニャーニカが二人で私のシーツをとりかえ乍らの話。
――この毛布二十四ルーブルしたんだって
――十六留でいい厚いのがあるよ
――だってアレキサンドラ・――カヤがそう云ったもの
――十留位足駄はいて云ってるんだろう、あのひとそういうことがすきだ
 アレクサンドラ云々というはここの女監督だ
 それからターニャが私に着せる麻の上衣をふるい乍ら
――此那のにいくら出すんだろう
 そこで私が云った。
――三十留
――二十七留 足駄はいて?
 みんなで笑った。
 私の白いものすべて枕かけにも 寝間着にも8という番号が書いてある。即ち私はユリコ チュージョーではなくてただの8なのだ。
 ○入院した第一夜 夜十二時まで眠ったがあと眼がさめ、どうしても寝つづけることが出来なかった。
 隣の床で同室患者が寝息をたてて居る。
 口がかわく。手をのばして椅子の上においてあるミカンをとり、汁を吸う。五分もすると又干く。今度は鉱泉をのむ。暗い室内から、扉の上の硝子をとおして廊下の天井が燈を反射して居るのが見える。反射する明りは 私の顔に届くほどきつくはない。森とした夜中だ。
 暫くすると、どこかで病人が呻り出した。声の見当は廊下を越して左側の室から洩れる。
 重い病人の苦しむ時刻というものは大抵定って居る。午前一時二時三時。地球の引力の関係。のむねが三寸下るうしの刻。アンドレーフの小説に深夜の病院を書いたのがあった。それ等を切々に考え乍ら呻り声をきく、自分は猶ミカンの汁と鉱泉とをちゃんぽんにのんだ。
 二日目の夜、やはり午前一時近く目をさました。同室患者の寝息――時計の音――廊下の天井をてらすぼんやりした明るさ――十数年前の夏東京の大学病院小児科の隔離室に暮したことがあった。英男が三つで疫痢を病って入院して居た。自分は十二位だった。母と病室に泊った。深夜氷嚢をかえに行くのが自分の役であった。
 廊下は長かった。夏の夜に電燈があつくるしく赤っぽかった。その下をずっと自分の踵からあまる草履の音だけをきいて通り、右側の薄暗い室に入る。つめたい空気が顔をうった。三和土たたきの段を三つ下り、三和土の床を歩いて三和土の湯槽のように大きなものの中に氷がおがくずに埋ってあった。三和土の床も、三和土の湯槽のようなものも、みんな湿って居た。ぬれて電燈を小さくてりかえした。私は一面の夜と、無人な空気と、湿りを巨大に厳粛に自分の小さい存在の周囲に感じた。
 私はひとりでにいそぐ。いそいで氷を破り、氷を破る音が濡れた三和土の床や天井に大きく反響して廊下へ響くのをきく。この静止のなかに動くのは自分だけだというのは異様な感じであった。……――この時廊下をいそいで歩く二三人の跫音がした。緊張し 眠気のさめた跫音だ。自分はおや誰か死んだなと思った。
 翌朝同室患者のファイエルマンが彼女の一日分五十グラムのパンの端から一切をきり乍ら
――あなた我々の隣の病人の呻るのをききましたか
と云った。
――一昨夜の晩は聴えた。でも昨夜は呻らなかったようです
――一昨日は僧侶がよばれたんですよ
 最後の塗油式に呼んだということであろう。
――そんなにわるいの
――ふうむ、そして昨夜死にました
 あの跫音はそれであったか。変な心持がした。
 彼女は
――ここはまだよい。重い病人は一人の室へ入れられるから
と云った。
――目の前に散々苦しんで死んだ人間が寝て居て御覧なさい、随分いやな気持だ
 五年糖尿病を病って六度あっちこっちの病院へ入って歩いて居るうちに、そういう経験もしたらしい。
 ○内科婦人患者だけ二十七人居る。一室十二人詰のところ一ヵ月四十五円。
 二人室 百五十留
 一人  二百五十留
 ロシアの病院の特徴は、看護婦がわりに 乳母ニャーニカというものがあってそれが一切直接身の周りのことはしてくれる点にある。看護婦はチラホラしか居ない。ニャーニカとフェルシンニッツアの間に昔はセネラーが居た。私の枕元の卓子の上に真鍮の鈴がある。ガクガクになった首をガーゼで巻いてある。今は金がない。※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンドが一本で五人の患者にまわす。
 私の呪われたる胆嚢にのって居る湯たんぷが冷えたとする。私はそのベルをとってならす。白い上っぱりに白いプラトークをかぶったニャーニカが来る。私はそれに毛布の下から引ずり出した湯たんぷを渡せばよいのだ。
 ニャーニカの労働は十二時間――午前八時―午後八時、これが二人ずつ四組あって、当直もするのだ。月給四十留(ホテルのゴルニーチナヤは四十二留五十カペイカだ)
 50[#「50」は縦中横]人に対して一人のフェルシンニッツア、体温計、その中に一本いつも三度低いのをもってかけ廻る。
 ニャーニカは大体親切だ。けれども、彼女達の話すアクセントを一度きいたら 彼女達のカカトにはどんなに田舎の泥がしみ込んで居るか。敏ショーとか 医学的教養とかからはどんなに遠い婆さん達であるかを感じるだろう。
 故に、病院へ入ってもモスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)に於て、病人は決して聖ルカに於てのように日常生活のデテールまでを人まかせにしてしまった安らかな快感は味えない。ニャーニカ達は、私が毎朝茶に牛乳を入れてのむという習慣を決して記憶しない。彼女等の頭は恒に新しい。
――そこの卓子に牛乳の瓶があるでしょう。コップへ半分ばかり温めて頂戴 私はお茶を牛乳とのむんだから――
 お茶は戸棚に入ってる
 モスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)では まだ、身動きの出来ぬ病人はよごれて寝て居ても当人やニャーニカの恥辱にはならぬ、寛容があるらしい。午前七時に当直のニャーニカが入って来て手拭の端をぴしょぴしょ濡してくれる。私は五歳の女の子のようにそれで果敢はかなく顔を拭いて、手を拭いて、オーデコロンをつけて、日々新たにその卓子の上にある牛乳瓶についての説明をくりかえさなければならないのだ。
 病院へ入ってもСССРに於ては自分の意志と茶罐とを失ってはならぬ。病院では朝晩熱湯をくれる。
〔欄外に〕
 ロシア人と茶。午後三時茶がわく。シュウイツァールの男がクルシュクールもってそっと歩いて行く。エイチャイピーラの唄=事務所の茶=クベルパルトコンフェレンスのトリビューンにもさじのついた茶のコップの写真が出た。
 健康な村のニキートや技師マイコフがする通り、患者達も朝は自分の茶を急須につまんで、病院からくれる湯をついで、それがすきなら受皿にあけてゆっくりのむ。
 正午十二時に食事が配られ、四時すぎ夕食が配られ、夜は又茶だ。
 夕方の六時、シェードのないスタンドの光を直かにてりかえす天井を眺めつつ口をあいて私はYにスープをやしなって貰って居る。
 わきの寝台に腰をかけ、前へ引きよせた椅子の上に新聞をひろげ、バター、キューリ、ゆで卵子二つ、茶でファイエルマンが夕飯をたべる。彼女は昼の残りの肉を ナイフでたたき乍ら
――この肉上げましょうか、食べたくなる程美味しい肉ですよ 全くさ
 それでも三週間キャベジの煮たのだけたべてやっと百グラムの牛肉が食べられるようになったのだから、彼女はその肉も結局は食べ終る。
 歩き乍ら 青いすっぱい林檎を皮ごとたべる。糸抜細工ドロンワークを始めた。
 Yが
――このスタンドはいいがどうしてかさがないんでしょうね、病院らしくもない
と云った。
――それがソヴェート式
 廊下では 左右の長椅子を中心としてそろそろ歩ける女の患者たちが集る。揃ってお仕着せの薄灰色のガウンをかき合わせ、それだけはわずらわぬ舌によって空気を震わす盛な声が廊下に充満する。
 Yは
「ここの廊下、一寸養老院の感じだよ」と囁いた。
 Y、牛乳の空びんやキセリの鍋を白いサルフェートチカにつつんで八時頃かえる。
 ファイエルマンは新聞を巻いて上手にスタンドの明りを覆うた。自分はそれを見、ロシア人の持つ生活上の伸縮性を強く感じた。現在二十歳以上のロシア人はすべて革命、飢饉時代を経て生きて来た。生活に必要な条件というものがある。それの全然欠けた日々を潜って如何にして生きるかを習得して来たわけだ。
 この民衆の強みはСССРの底石だ。
 骨格逞しい丈夫な民衆の上にあらゆる不如意、不潔、消耗がある。然し彼等はその底をくぐって生きぬくであろう。
 民衆のこの生活力の上に立つ限りСССРはアメリカの僧侶が希望する以上に強靭な存在であるのだ。
 ファイエルマンは明りを暗くすると、寝台の横のトリムボチカをあけ乍ら 私に云った。
――私のすることを見もききもしないで下さいね
 彼女は白い股を開いて旺盛に水の迸る音をさせた。音がやむと同時にすっくり白い牝馬のように彼女は立ち上った。――
(日本女子の袂にある Chirigami と称する存在はСССРの白き肉体の末端にとって「知られざる習慣」であるのだろうか)

 十六日
 今度の共産党事件のリーダーであった三人の若い主義者の一人××さんの親御と私はずっと前から知り合いの間柄であった。
 国は九州です。こっちへ立って来る前 国へかえったら××さんのお父さんがわざわざ会いに来られての話に
「○○がもう一年で大学を卒業するというとき、突然もう学校はやめたいと思いますと云い出した時には 実に天地が暗くなる程驚きました。が何ともいたしかたない。彼は学校をやめて鉱山に入ってしまった。そして労働運動の指導者になった。私にはどうしても息子の考えがわからぬ。いろんな噂が聴える。段々私の地位も危くなるようであった。ところがあの事件で牢へまで入ることになったがあれの態度は公判のときもなかなか立派であった。牢へ入ろうが どうしようが、ゆるがぬ決心が見られた。これが私には分らぬ。御承知の通り、あれは中学をずっと一番で卒業した。大学でもよい方だった。あれだけ決心して身を捧げるからには、あの仕事の中に必ず何か真実がなければならぬと思うのです。その真実はどんなものか私はそれを知って自分の息子のやることを理解したいと思う。こんどロシアへいらしったら、どうぞ彼方の様子もよく視ていらして下さい。いろいろ御話を承りたい。」
――実に親の心ではありませんか。そこで私が訊いて見た。「貴方はこれまで息子さんをどう教育していらっしゃったのですか」
 ××さんが云われるには
「――私はただ嘘をつくなとだけ云って育てて来ました」
 私は答えたが
「貴方のその願いは完全に果されたと云うものです」
 今の世で嘘をつかぬということはこれ丈のことを意味するのだと感じました。

 この話は自分を感動させた。聞いて居る間に涙が出たが 後でYに話してきかそうとし、自分は終りまで一気に喋ることが出来なかった。

 二十五日
 十日ばかり経つがこの話から承けた感銘が消えぬ。心が心を撲つ力は「尤な理論」にだけはない。それを生きる、生きかた真情の総計中に在る。
          ――○――
 ○日
 m来。クリスマスの日に行ったら居なかった話をする。
 レーニングラードの家へかえって居た由。
 Kの病気は肺嚢がわるそうな様子だったがバセドーウ氏らしい。勤先の国立出版所から一ヵ月半休暇をもらってクリミヤの休養所へ行って居る。
――どんなだって?
――初めのうち大変よかったけれども、あとはそうでもないように書いてよこしました。でももう直きかえって来るでしょう。
――どうして? よくならなくても?
――休暇が一ヵ月半しかないんですもの、かえって又工合がわるいようなら、再び休暇をとって行くことになるでしょう、
――療養所の医者の証明でもっと居るわけには行かないんですか?
――いいえ。それは出来ません
 mは疑をはさまず首を振って いいえそれは出来ませんと云ったが、自分は此点は不合理だと思う。
 СССРの勤人が休暇をもらって休養所へやって貰える制度は非常によい。
 然し欠点がある。
 クリミヤ モスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)間は少くとも五日ぶっ通しの汽車旅行を必要とする。汽車には食堂がついて居ない。チェホフが薬罐を下げて走ったように Kも駆けて食物を調えなければならぬ。
 一ヵ月半折角休養所に居た。なおり切らないところを、そういう旅行で疲れ、モスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)で再び許可を得るために医者歩きをし、愈々いよいよまだ駄目だときまって、クリミヤへ戻る頃は一ヵ月半の休養は元もこもなくなって居るであろう。
 療養所の医者と勤務先との間に連絡ないことは、恐るべき金、時間、精力の浪費を来して居る。消耗をいとわぬロシア人のうねりの大きな純然たるロシア的不便さだ。

 ○日
 ファイエルマンがこういう話をした。レーニングラード附近の或田舎での出来事だ。
 誰かが七歳と四歳になる二人の女の児を雪の深い森へ連れ込み零下十何度という厳寒モローズの中へ裸にして捨てて行った。
 女の児は凍え始め劇しく泣き出した。
 もう日暮で――冬は午後四時にとっぷり暗くなる――折から一台の空橇が雪道を村へ向ってやって来た。
 森の中から子供の泣き声がする。百姓は恐怖した。チミの仕業だと思ったのだ。彼は手綱をとって馬の腹をうった。森の中から児供の泣き声は次第に近づき小さい裸の人間の形をしたものが雪路の上へ飛び出して来た。そして泣き叫びつつ橇を追っかけ始めた。百姓は夢中で橇を速める。小さい裸の人間の形をしたものも益々泣き叫んで追っかけて来る。――馬の尻をたたきつづけて百姓はやっと村へ着き、恐ろしかった自分の経験を人々に話した。
 怪しんで村から人が出た。
 百姓の逃げ去った雪路の上には、その橇の止金にかかって片腕をもがれた七歳の女の児の死骸が発見された。四つの女児は森の中で凍死んで居た。

 二十四日
 細いゴムの管がある。管は二米ばかりの長さだ。先に小さい楕円形 紅茶こしのような金のたまがついて居る。それをたまの方からみ下さなければならない。十二指腸から胆汁をとる療法だがこのゾンドなるものをかけられる時は一種悲しき芸当の感じだ。フセワロード・イワノフが曲芸師であった時嚥んだ剣より工合がわるい。イワノフの剣はバネで三分の一ずつ縮んだ。このゴム管は本当に腸まで嚥み下さなければならぬ。眼尻に流れた涙を手の甲でふいて、右脇を下に臥て、コップの中に胆汁の滴るのを待つ。

 医者は去年大学を出た青年だ。彼のところには一匹のセッター種の犬と妻とがある。フランス藍色の彼の服は襟がすり切れた。アフガニスタンからアマヌラハンが逃げる前 月六百留で医師を招ヘイして来た。残念なことに彼にはその時まだディプロマがなかった。――
 独逸ドイツの女子共産党員――がСССР女性生活について書いたものが 文芸戦線にのって居た。*月号第○頁
 疑問なき簡明な文章だが実際上にはもう少し説明のいる事実だ。純粋に現在及未来の衛生問題として。
 ターニャ・イワノヴナはレーニングラードのマリンスキー劇場の第一舞踊手と結婚した。美男の良人につかまって数番の初等トウダンスと両脚を床の上で一直線に展くことをおそわった時 ターニャ・イワノヴナは自分の姙娠したことを知った。踊りての良人は不機嫌に
「僕あ赤坊なんぞいらないよ」
と云った。ターニャ・イワノヴナは 人工流産の手術を受けた。二十五留払って、三日病院の人工流産部に横わって居る筈であった。三日は三月になった。四ヵ月目に、二十二歳のターニャ・イワノヴナが髪の毛と食慾と永久に健康な子宮を失って家に帰った時、彼女は更に一つのものを自分が失ったのを知った。彼女の良人はもうタマーラ・イワノヴナの良人ではなかった。マリンスキーの舞踊手でどこか他の強靭な子宮の配偶者であった。――
――こんな例、人工流産の失敗する例は沢山ありますか
――パーセントは少いがあることはあります。一度の人工流産は大したことはない。三度 四度、モスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)の女がやるようにしては全然害があります。
――貴方の知っていらっしゃる場合で一番多くしたというのは何度です?
――××病院でこんな例があった。六度人工流産をした女が、七度目の子供を自然に産みたいと思った。ところがもう六度の手術で子宮の組織がすっかり破壊されてしまって居たので、胎児の発育を持ちこたえられず子宮破裂で その女は死んでしまった。
 人工流産を小さい番号札と最大限二十五―三十留までの金と三日の臥床とにだけ圧搾して考えるСССР的無智を啓蒙するために映画「第三メシチャンスカヤ街の恋」はどの程度に役立ったであろうか。第三メシチャンスカヤ街は労働者町だ。
 良人とその友人の子をもった女主人公は、掌に握って居た人工流産番号札をすてて 母になるために去った。
 そういう瞬間にもセマシコフの名に於ける病院の人工流産科の第七十五台目の寝台に新しい患者が横りつつあるであろう。
 そして 彼女の三日と三月との間にリスクを犯すであろう。

 日本女の胆嚢は計らず一つの問題を、СССРの社会衛生に向ってなげ与えた。仮令先について居るたまが金むくであろうとも、二米のゴム管を十二指腸へ送り込む芸当は優美にして 快適な至芸ではない。自分は一生の間に屡々しばしば此は繰りかえしたくないことだと思った。そこで、眉毛が目の三倍位長い医者に質問した。
――私は自分の胆嚢が如何那原因ではれたのだか興味がある。ゾンドが美味いものでないのが分ったから、注意して、又嚥まずにすむようにしたいと思いますが
 彼の答えは斯うであった。
貴方は モスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)でずっとストロー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ヤで食事をして居たと云いましたね。それが原因と見られる。ストロー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ヤは大体よくない。不潔だし材料を注意しない、時には腐敗したものも使うからこれからもうストロー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ヤで食事することは禁物です、
 是は寧ろ日本字で書くより ロシア字になおして、衛生大臣セマシコフに見せたい答だ。
 公平に云えば 我が呪われた胆嚢は2/10だけ既に日本トキョーに居たうちにわるかった。然し胆汁のはけ口を逆行してそのもち主を呻らせる炎症をおこすバイキンは、СССРモスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)市の食堂が一ヵ年間補てん提供したのは事実だ。
 日本女の胆嚢に入ったバイキンは、あらゆる瞬間に、ルバシカに包まれたモスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)市民グラジュダニンの胃にも侵入しつつある。モスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)全住民の幾割が衛生的な家庭の食事にありついて居るであろうか。
「女性が台所にとじこもって居る間、社会革命は完成されないであろう」
 СССРは過度姙娠、育児の負担から女性を解放すると同時に、戸毎の大小の厨炉の前から女を解こうとした。集会に於て勧告するであろう
「我等新社会*の一市民は、各自の精力を最も有益に利用することを学ばなければならない。二杯のスープと二皿のカツレツの為に主婦が半日石油コンロの前に立って居なければならないという必要がどこにあろうか」
 モスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)夕刊新聞所載 ストロー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ヤの閉店時間 モスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)のストロー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ヤが僅にセントルで十二時まであるだけであとは八九時にしめてしまうため夜勤の労働者が熱い обед をたべられない
 モスソヴェートは附近の労働状態を考慮して閉店時間の延長を許可するであろう。
 対外文化協会発行のパンフレットは 新しい共同厨房の蒸気釜の写真をのせる。
「食う準備」は人類が獣の皮を腰に巻きつけて棍棒と石でマンモスと戦った時代からの問題であった。
 スパルタ以来最も台所から解放された市民はモスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)と New York に発見されるであろう。最後にして最大の問題はこの社会的釜から体内に送られる不用なるバイキンを如何にして撲滅するかという点だ。
             ○
 薄緑色の壁。紅いシクラメンの鉢の載って居る円卓子がある。窓枠が古いので一月の日光とともに室内を空気が流れた。シクラメンの花がゆれるのでそれがわかる。鉢の側――右腕に肩から白毛糸のショールを巻きつけ、仰向いた胸の上にのせた手帖へ、東洋文字を縦に書いて居る。日本女ヤポンカの患者の室へ、大学医科三年生が男女六人医師に引率されて入って来た。
 白衣の下に女子青年共産党の服をつけた赤い顔の娘が臨床記録を書くための質問を始めた。病症の経過。生年月日 職業 過去の健康状態 父母と弟妹の健康状態
――祖父さんに性病はありませんでしたか
 生物遺伝子は三代目のモルモットに最も興味がある。――然し自分は祖父の顔さえ覚えて居ない。私は手をひろげて云った。
――この答えはむずかしい。私は自分の親と自身がそれを持って居ないのを知るだけだ
――宜しい。
 それから女医学生は質問した。
――貴方は饑えたことはないか?
 饑えたことはないか。――否と答えたが、この入沢内科ではきくことのないであろう単純な質問は自分に強烈な印象をのこした。
 社会と病との相互関係の密接さが自分を圧した。

 一月三十日
 二十六日間臥て居る。病院へ入ってから三週間と一日になった。
 えさは牛乳、茶、スープ、キセリ、マンナヤ・カーシャ、やき林檎とオレンジの汁、その他は自身の皮下脂肪。
 これ丈永い間病臥して半流動物の食物しか摂れない経験は始めてだ。
 去年の一月、グリップを患った。熱が高くて頭や頸がこわばって一寸夢中になった。少しましになってからYが 弱るから何かおあがり、何か食べたいものをお考え と日に何度となく云って呉れた。
 食べたいものはあるんだけれど、駄目。
 何さ、云うだけ云って御覧。そこで私はつみ重ねた白い枕の上で 云うに云われぬ 一種の笑顔になりながら 遠慮深く答えたものだ。
 つめたい素麺そうめんがほしい。
 数年前或ところで醤油の味を殆どけした極めて美味いだしでひや素麺をふるまわれたことがあった。その味と素麺のつるつるした冷たさ 歯ぎれ工合が異常な感覚的実現性をもってモスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)の一米ある壁の此方こちらまで迫って来たのだ。
 臥て居た間自分の心に最も屡々現れた民族的蜃気楼は林籟に合わせ轟く日本の海辺の波と潮の香、日向の砂のぽかぽかしたぬくもりとこの素麺とであった。
 勿論我々のトランクの中に そのデリケートにして白い東方の食料品は入れられてない。自分は青葱入のオムレツをたべて恢復した。零下十五度のモスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)で牝鶏は卵を生まない。――から木箱に入った卵が来る。
 一年目に又病って、今思い出すものは日本の海辺でも素麺でもない。日本の長い椽側だ。秋の清澄な日ざしがその椽側に照り、障子が白く閉って居る。障子に小枝の影がある。微かに障子紙の匂いを感ずる――
 食べたいものの第一は支那料理の白菜羹汁だ。それからふろふき大根。湯豆腐。
 特徴ある随筆の筆者斎藤茂吉氏は覊旅蕨という小品を与えた。
 同行二人谷譲次氏は新世界巡礼の途についた。そして Mem タニが女性の適応性によって、キャパンの流行巴里料理を通じ熱心に one of them たろうとする時 Mr. タニは更に一層の熱をもってロンドン日本料理店献立表を報告した。
 ヨーロッパ人の云うところの soyu(醤油)や食える木の端(鰹節)を米とともにいさぎよく――海峡の彼方へ置いて来た。
 自分もこうして遂に些かながら、味覚郷愁を洩すことになった。
 それにしてもラフカデオ・ハーンは、彼の幾多の随筆力のどこかに美味なアメリカのチキンポットパイについての感慨をのこして居るであろうか? 神戸の生垣にもカタツムリは這って居たろうがそれを見てロチの心臓は平静であったろうか?
 ブラジルでコーヒー畑の間を歩いて居る裸足の日本海外移民の魂には消えぬ望郷がある。日本にしかないソーユが構成した生理的望郷がある。ワシントン市在留駐米日本大使の知らぬこれは強烈な感覚的思慕だ。(大使館には 日本の塗膳とその上に並べる皿小鉢を満す料理人が居るであろう。)北緯四十*度から**度の間に弦に張られた島 日本が、敏感に西からの風、東からの風に震え反応しつつ、猶断然ユニークなソーユ

○人間がこの世に生きる人としての価値は、その人にどんなことでも――恐ろしいこと、けたはずれなことでも話せるかどうかという点にある。「尤も」以外にどの程度まで拡張して居るかということだ。
 芥川龍之介に向って馬鹿なことは云えなく感じた人は一人ではあるまい。芥川に人世に対する好みがあって、愛の少なかった所以だ。

○リアリストとしてのレムブラントからレムブラントのリアリズムへの飛躍

○病気して居ると
 一、早く朝になるのがよい。わるいときは六時頃でも。
 一、きれいで元気な女を見たい。
 ○日光がうれしい。
 ○緑の芽が出て育つもの。

 一九二九年一月
 アフガニスタンのアマヌラハン、前年の春、イギリス、フランス、ロシアなどを廻って人気者であった。イギリス 金を出して叛乱を起させた。アマヌラ今年に入ってカブールから逃げ出した。逃げるときはイギリスの飛行機で逃げた。又暫くして帰る。
 カブールにはバチェ・サカオ Баче-Сакао が居たが、一月三十一日には逃げ出したがって居る。(より平和なるインド国境へ)多分イギリスの軍用飛行機が彼をのせて行くであろう。





底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
※「*」は一字空白。
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について