一月一日
(土曜)〔書信〕大久保明子
〔読書〕私は今日一日何も読まなかった事を恥じる。
之から新らしい一年が始まると云う事については又新らしい幸福な勇気が自分に湧き上って来るのを感じる。久米さんが来てこの間から私の頭をなやまして居た人類の愛と云う事について話が出た。母としての人の云う事、一人の男として思う事をのべる人との間には異った点があんまり大きい。
自分は何か自分の考えを得なければならないと思う事が苦しい位明かに思われて来る。考える事は私にとって今は労力の消費をはげしくするにすぎないと云う人もあるけれ共、私は考えはあくまでもねられなければならないと云う考えから出来るだけ考える。思索を以て始められた此の一年は私にとって意味深い事である。
一月二日
(日曜)〔書信〕(来)高嶺
(返)同右 大久保 小田切
〔読書〕「宇宙の謎」を四十一頁、「戦争とパリー」を少し、四十三頁
「宇宙の謎」を読みながら思った。私共は考えずには居られない人間に生れついて居る。考えるのはいくらでもよい、親と云うものにつき自分と云うものにつきどんな学理的な解釈をしてもかまわないので有る。けれ共学理的に解剖した事は実生活に不都合かと云うに必ずそうではない。却ってたしかに親なら親を知り宇宙なら宇宙を知り得るので快いのである。今まで極くおぼろげなものであった宇宙と云うものをこの本を読んで恐ろしく学理的に書いてあってよく分って宇宙と云うものが確かに自分の見る宇宙になった。世のすべての事を神秘説で被うには及ばない。有りのままを静かに見るべきである。その結果として世の中はつまらなくなるものではない、又そうならない解釈でなければ正しくないのである。私はすべてを学理的に理解して確な踏み台に立って世の中を見るべきである。一月三日
(月曜)〔書信〕坂本千枝子へ出
巨勢春野返
〔読書〕「宇宙の謎」三十頁
「戦争トパリー」一一三頁
書き掛けの物をいつまでも持って居るのは辛いものだ。(八)十六枚を書きあげる。
今日は去年最後の産物だった「二十三番地」と「追憶」を父が箱根の
相当に物も読んだし書きもしたので満足である。
彼の大きく出来すぎた袖模様の羽織が又母との感情の不和の原因に今日もなった。女の生活に着物と云うものの占めて居る位置のつよさにおどろく。寿江子[#中條寿江、中條家三女]が大変私に機嫌がよかった。嬉しい事である。
一月四日
(火曜)久米正雄氏より『帝国文学』、手紙
久米さんの所から「金井博士とその子」と云う劇を送って呉れる。一番音彦と云う息子と、巴子が一番よく出て居る。一番力を入れて書いた人物だからでも有ろうけれ共恋心の芽生のある巴子と、メフィステックな音彦と、おっかけっこのおとぎ話はいかにも印象的な面白いものである。兎に角「牛乳屋の兄弟」より一番何となし劇的効果のある作である。それにつけてよこして呉れた手紙は又私共の感情をかき乱すものになった。無同情な年長者の心に悲しくさせられる。夜父からの贈物の花瓶を見つける。
一月五日
(水曜)〔書信〕坂本千枝来
大風が木枯しの空を吹き荒れる。黄枯れた梢が淋しく晴れた空の下に揺れて居るのを見ると、一種異様な感に打たれる。種々な分らない事を抱えて、毎日、毎日思うより幾分の一外仕事の出来ない日を送って居る事は辛い。今日から三日掛って、「お久美さん」を書き上げなければならないと思うので、九のすっかりと十だけをまとめた。百三十八枚ある。自己反省の多い人間は悲しみが多い。考えなければならない様に生れついて居る人々は淋しい。多勢の人間が集まって居ながら一人一人異った考えを持って居るのを思うと、真に一人一人の人間の集合だと云う事は明かに思われて来る。確かな自己をとり守って、やがて大きな自己拡張を行いたいと思う。苦難に堪える自分を作る事は必要だろうかと云う事は思われて居る。
一月六日
(木曜)一月七日
(金曜)〔読書〕「人類の過去現在及び未来」、「宗教心理学」、Fantoms
夜になってから非常に気が滅入ってたまらなくなった。借りてきた五冊の中、満足によめたもののない事、今日一日何にも書かなかった事が私を非常にせめた。明日から又学校が始まる。却って規則正しい一日が送れて私にはよい。三月になると入学試験になるから今から勉強しなければならない。一番はっきりして居ない文法が不安の様にもあるけれ共、仕て出来ない事はあるまいと思う。兎に角出来ると思ってやるに限る。そうすればきっと成就するものである。
明日半日掛ってあさってにかけて、書きかけを出来さなければならない。
不満だらけになって来るので辛くもある。
「貧しき人々の群」はかなり醸されて居る。
一月八日
(土曜)植物園に英男と行く。非常におだやかな寒とは思われない。〔読書〕「宇宙の謎」四十四頁 文法、リーダー
始業式出席、又努力の事について話が有った。私は又深く考えさせられる。今年は私にも確かに変った事が起って来るに違いない。植物園へ行って、珍らしく好い気持になった。「小さい子供」十枚を書く。「宇宙の謎」を読んで「神は宇宙と一体なり」と云う言葉ではっきり神に対する考えを得た何よりうれしい。今日はつくづく思って居た事だが私共は好い事にも悪い事にも臆病である。私等は思って居てそうしたがりながら出来ないで居る事が多い。もう少し勇気があらなければならない。ほんとに力が足らない。好い事もはきはきと出来ずまして悪事もせいぜい小悪戯をする位の所では情なくなって仕舞う。勇ましくどうぞ此の気の毒な私の育ちます様にその事を、無限の空間を充たして居る不変のエネルギーに祈る。一月九日
(日曜)〔読書〕文法、「十八史略」、「人及芸術家としてのトルストイ並にドストイェフスキー」
今日は実に私は自分の力の足りない事を感じた。きらいな事は出来ないと云うせまい今までの自分であった事を恥じる。小さい事でもそれは何物かを私に教えるものである事を思えばいやな事はないはずである。自分の身の囲りに起って来た事すべてを引きうけてやれる丈余裕のある人間でならねばならなかった。私は学校のだけの事にはすべてよろこんで仕様、寡言にドシドシ進んで行こう。私の集一月十日
(月曜)〔読書〕「人及芸術家としてのトルストイ並にドストイェフスキー」、テニソンのソネット四、Fantoms
大変に強い風が吹いて行く。雪にでもなりそうな引きしまった不安が満ちた夜である。非常に私の心は落ついて居る。しなければならない事は沢山あるがゆったりして居られる。「お久美さん」のつづきを書いて仕舞いたいが出来ないで居る。「追憶」の中の宗教に対する自分の意志を発表するにあれではあまり浅薄すぎて恥かしいなおさなければならない。彼れを去年の九月だかに書いてそれから三月の日の進みの中に少しずつなり自分が進んで居るのが分ればうれしい。今日は下らない用事のために私の思って居たことは出来ないで居る。けれ共どうせ仕なければならないんだからよろこんでするのである。明日は千葉先生へ手紙を書こう。この頃の内心の動揺を云わずには居られない。私の愛して居る先生へ心の声を聞いていただこう。今日一日はかなり今までよりはよい一日を送ったことであった。明日は又今日よりよくあります様に。
一月十一日
(火曜)〔読書〕「人及芸術家としてのトルストイ並びにドストイェフスキー」、Fantoms
小此木先生に行く。文法の動詞の変化をさらって行く事になった。今日反省録が返って来た。あれ丈の素直さをもって書いたものが何にも気をつけられずに月日を記入なさいとだけである。千葉先生に云って上げたいと思わずには居られない。作文「三十日の町中 自由題」を書いた。私の内心には或る力が満ちて居る。静かにじりじりと努力して行ける。私は千葉先生に対しての愛情がはげしくはげしく動いて居る。明日は書きかけのものを仕あげなければならない。夜はじきにねた。今日まで不寝がつづきすぎた。一月十二日
(水曜)〔書信〕千葉先生へ出す
〔読書〕「人及芸術家としてのトルストイ並にドストイェフスキー」
歯が痛むので何にも仕たくない。舌でさわって見ると、歯と歯の間に何かがはさまった様に肉が飛び出て居る。気がふさいで、仕なければならない事が山程あってもするのがいやである。明日帰りに又榎本さんへ行かずばなるまい。
いそがしいのに気分を悪くさせては置けない。
今日も亦何も書かずに仕舞うのかと思うとたまらなくなる。
もう二三ヵ月ほかないのにどうするのかと云う様な気になって来る。
四月の一日に発行できる様に仕たいと思いは思ってもなかなかむずかしい。
ああ歯がいたい。何も考える事も何も出来やしない。
ほんとにいやになる。
一月十三日
(木曜)〔読書〕「人及芸術家としてのトルストイ並にドストイェフスキー」
今日は朝から歯が非常に痛んで殆ど堪えられなかった。体の一部に故障のあると云う事はまるで私の生活を真面目さから奪って仕舞って、半夢中に暮して仕舞った。
帰りに榎本へ行ったけれ共歯ぐきを切られたり電気をかけられたりして辛い思いをした甲斐もなく痛みは止まらなかったので、家へ来るとすぐ床に就いて仕舞った。
ろくに物もよまず書きもしずに一日を送った事が非常にくやまれた。
けれ共肉体的の苦痛には堪えられなかった。
一月十四日
(金曜)〔読書〕「西洋哲学史」、「人及芸術家としてのトルストイ並にドストイェフスキー」
久米氏来訪。先達っての手紙の事から種々の議論が百出した。私の頭は非常に掻き乱された。
又新らしい苦痛が湧いた。
人間の集団としての世の中に生きて居る私共は箇こを確かにして行くと云う事を益

ドストイェフスキーに対しての新たなる愛情と追憶は、今の興奮した心と一つになって益

勇気に満ちてありたい。生き抜く力を欲しい。私は私の作品が力強くドシドシと進んで行きたいのである。大足に勇ましく我心よ進みてあれ。
一月十五日
○(土曜)貧しき人々の群 百枚 ┐
お久美さんと其周囲 二百枚│
鈍色の夢 百枚 │920頁
追憶、二十三番地 六十枚┘
「追憶」と「二十三番地」をのぞいた外は皆この三月の中に作って仕舞わなければならない。私は実にうっかりしてのらのらしては居られない。
一月十六日
(日曜)〔書信〕小田切秀子
寒く冷たい夜に座して、私はどんなに相容れざる魂の歎きに沈む事だろう。私の周囲はあくまで二元論者である。文学を人間以上神に近づいたものとして要求されて居る私は苦しい。私は人間である。あくまで人間である。
これからどの位の苦痛が私を困らせ様と来る事だろう。
私は辛い。静かに涙をたれて自分の行き道をながめやる。
我心よ勇ましく育ちてあれ、我思いよ高まりて行け。
私のたよりになるものは只私ばかりである。
私は私のみを力に一日一日を送って行くばかりである。
私は静かに自分の心に祈るのである。
一月十七日
(月曜)二月と三月の中に私はもう二つか三つを書かなければならない。
どうしても出来せる。私の踏み出の第一歩としてまとめたものを出す事は無駄ではないのである。少し位無理をしたってしなければならない。
割合にたゆみなく行く足どりを有難く思う。
私は沈黙し、同情者を得、そしてどしどし進んで行けばよいのである。
一月十八日
(火曜)帰りに榎本に行き電車の中で四年の名は知らない人に会うと、
夜は又歯ぐきが非常に腫れて何もしずに早く寝て仕舞った。
一般感覚と云うものが如何ほど我々の心に影響を与るかと云うことをはっきりと感じる。
一月十九日
(水曜)学校欠席
「お久美さんと其周囲」脱稿非常な満足を以て寝る事が出来る。
去年の暮から仕かけて居た事の出来上った喜びは実に非常なものである。
一月二十日
(木曜)学校欠席
歯医者に行くと、根に膿がたまって居るから抜かなければならないと云う。非常な不安を感じる。その時の痛みが今はっきりと感じられる。これを思うと十一、二の時平気で一年に一度ずつはきっと指をはらして居たのに何とも思わないで切ってもらった事をふしぎに思う。病気だとか怪我だとか云う事に非常に臆病になって来て居る。今日大学の前から高等学校まで歩いて見た。天気もあったかだったしするので非常に気持がよかった。大変おだやかな気持で一生懸命明日の会の準備をする事が出来たのを嬉しく思う。肉親の愛の快に調和の一時を感じる事が出来た。軽い興奮が体中に流れて恐ろしく精力が満ちて居る。一日でも意味ある日を送れたと云う事は喜ぶべき事である。言葉に表わせない感激が眠りを欲しない程の興奮を与えて居る。
一月二十一日
(金曜)欠席
〔書信〕久米氏より来信
呼吸の苦しい様な感情が胸一杯になって居る。何のためか分らない。私は「貧しき人々の群」を非常によく書きたいと云うのぞみもあるし日曜には坪内さんにつれて行ってもらいたいと云う事もあるし歯を抜かなければならないと云う不安もある。二十四日位から書き出して今月中か或は二月に少しかかってから書きあげなければならないと思う。三月になれば入学試験もある事を考えるとうっかりしては居られない。
明日は文法と読書を、よほどしなければならない。
一月二十二日
(土曜)出席
久米氏に会う
出て行きたくなかったのを遂に出かけて行った。「三十日の町中」を返してもらう。音楽の時間が休みだったので蜷川さんと、この頃の心の様子を話し合う。
今日は種々な感情が私を苦しめたのである。本田の道っちゃんの顔を見てはげしいにくしみを感じた。私がする事に一々口を出して何かと干渉して居られるのも辛いし無自覚な顔をしてオドオドと何かして居るのを見るのも歯がゆい。一日も早く広い世の中に飛び出したい。私に遠慮しながら種々な影弁慶をして居るのを見るとよけいにくらしくなる、それは私にも欠点は有ろう、明らかな欠陥を自分も知っては居るけれ共それで私のすべてが評価されるべきものではあるまい。私の心を苦しめて居る様々の苦困を私のみが噛みこなしてあわれんで行くのみである。
一月二十三日
(日曜)二つの心と心の衝突、何と云う可哀そうな事であろう。
私は自分の心の産む沢山の悩みにいじめられて自分を失って居るのである。
私は非常に考えなければならない。
気が重くて何も出来ない。
「貧しき人々の群れ」を書き出したのだけれ共一寸も考えがまとまらない。すべてものの考え方の一変転期にある事を予想するのである。貧者に対してもって居た気持の偽である事、偽りの多い生活をして居る事をはずかしく思う。
一月二十四日
(月曜)何一つまとまった仕事の出来ない心持である。
今日明日の内に私のこの気持をきまりをつけなければならない。
非常な不安と、淋しさに迫られて、一時も静かな時のない事は実に苦しい。
私は生き方をかえなければならない必要に迫られて居る。
一月二十五日
(火曜)欠席
昨夜四時まで道っちゃんと種々な問題に付て話し大変心が安まった。明日からは勉強が出来る。もう一月もすぎて仕舞うのだから実際うっかりしては居られない。先週の土曜から何だか落付かないで仕様がない。確な心持にならなければならない。上杉博士の憲法の講義を読んで見たい。私はすべての事に明かになって居なければならないのである。今日は実に落着いた気持である。
明日は早く起きて学校へ行って勇ましくやりましょうと偽でなく思う。
Every morning, every night and every-where I must exact myself to the utmost. である。
一月二十六日
(水曜)〔読書〕「宇宙の謎」読了、「現代思想十六講」
「宇宙の謎」を読み終った。宗教、宇宙、道徳その他すべての事に持って居た自分の考えをはっきりさせられた事を非常に愉快に思う。「現代思想十六講」は非常に面白そうである。「貧しき人々の群れ」を書き出したけれ共この二三日の睡眠不足から頭の工合が何だかはっきりしないのですっかり書けない。一頁にも足りないでやめて仕舞う。部屋は暖かで出るのにどの位おしいか分らないけれ共、これからのいそがしい日に若し一日でも二三日でも頭のはっきりしない日などはまことに無駄だから今日はもうねるのである。一月二十七日
(木曜)〔読書〕「近代思想十六講」
「近代思想十六講」は有益なものである、少くとも私にとっては。レオナルド・ダブィンチの「愛は智の娘なり」と云う言葉は今の私を非常によろこばせる。序の中の霊と肉の調和、自愛と他愛の最もよき折合、イブセンの第三帝国を建設すべく
頭が疲れて居る様ではあるけれ共私は快い。
漸々「貧しき人々の群」を書き出せた。
一生懸命に書けばよくなると云う
一月二十八日
(金曜)先に書いて置いた「農村」を失った事を非常に悔ゆる。どうしてもさがし出さなければならないと云う願望を押える事は出来ない。
あれさえあればきっと楽になるとその事を思って仕様がない。
今日学校で黒田さんが自分の嫁入姿を持って来て皆に見せて居る。見せてくれと云うと「いやーよ」と云って逃げて居ながら待って居る気があんまりはっきり分って不快になる。
傍のものもあんまりさわぐからいい気になるのだ。
娘達のする芝居を非常に面白い様な浅ましい様な気持で見る。私の愛すべきものは、只一人の人間でも動物でもないと云う様な気がして居る。
一月二十九日
(土曜)女子大学の入学試験は四月の七八日頃だと云う。余裕を与えられた様な気がする。そうすればそんなにせわしい思いはしずにすむ、書きたいものも書けるのである。四月頃にはどんな苦痛があっても『小さきもの』として出版する。私の一歩のたしかなふみ出しは実に必要である。ルッソーの自然ニ帰ル説には同意出来ない節々があるけれ共、「エミール」の教育論に関しては幾分そうであった方がよいと思う事がある。すべてを
一月三十日
(日曜)沢山仕なければならない事があったにも介わらず何も出来なかった。
「貧しき人々の群」も出来なかったし、さほどのものもよめなかった。
朝寝をした一日のはかどりの早いのがいやになる。
もう二月になるとそろそろ試験と云うものがやって来る、たまらない。
この一月を非常に複雑に送って私の実質となったものも亦少くないのである。
来月から私は専心に書こう。三月にならないうちに「鈍色の夢」も書けなければならないのである。精々丹精して書きあげたら又どうにかしてもらえる事を信じて居るより仕様がないのである。私は馬鹿である。
一月三十一日
(月曜)けれ共ルッソーの主唱して居る自然に帰れの言葉は私にも今尚一つの教訓をしめすものである。ニイチェがショペンハウエルの厭世哲学のすべてを死に安らぐ外はないと云う説から抜けてよりつよく生きると云う事に進んだのをどれ位感激してよむかしれないのである。「神よりも真理である」私には真の研究に日夜究々として居るのではないか。私は罪の償として死ぬのより尚生きる方が辛い事であり同情すべき事であると云う事を明かに思ったのである。
実際おてんとうさまは生きる様にお作りなさったのである。
実に変化の多い一月であった。私の周囲には種々の事が起っては消えて行って居るのである。私の改革期の来た事を切実に感じた月である。私は思想的に種々の変化をした。
私の愛人は真である。
私の貧者に対して持って居た感じははたして真実な一点の虚栄心もなかったものであったろうか。この心は私に「貧しき人々の群」をかかせるのである。「お久美さんと其周囲」に於ける不平を私はとり返さなければならないのである。
この一月は私の第十八年の最初の月として充実して居た。それ丈は自分でも信じられるのである。
これよりも短かい二月は更に緊張して居なければならない。そして私のたてて居る予定を着々とはかどらせて行かなければならないのである。我心、只専に努力めよ!
十九日 「お久美さんと其周囲」脱稿
二十八日 「貧しき人々の群」起稿
二月一日
(火曜)夜文法を一寸見たなりたまらなくなって十時すぎに床に入った。
日記もつけず書きもせず、僅ばかりニイチェの哲学を知ったばかりの一日を顧みるのはたまらない事である。
二月二日
(水曜)英語ディクテーション
英男が四十度の熱を出したので家中ごった返して仕舞った。何も出来ない。明日小此木先生へ行かなければならないのに作文は出来ても居ず文法はさらってなしいやになって仕舞う。夜は四時まで暗い灯の下に起きて居た。
頭が疲れて来て居たので作文も思う様には出来なかった。僅ばかりニイチェを読んだけれ共あんまり明かには分らなかった。
二時すぎて来ると妙に
二月三日
(木曜)欠席
十一時まで寝てしまった。学校には行かれない。小此木先生も同様。何だか頭が重いのでそわそわして何も出来ない。
頭を使うわりに私は食物を多くとりすぎる傾向か。少し考えなければならない。
夜は赤ちゃん[#寿江]が大変泣いて二時半まで掛ってしまった。
英男の熱が高い、皆心配して居る。
どうかして早くなおしたいものである。
本を読むでもなく一日ごたごたくらして仕舞う。
どこか馬鹿になった様で気が気でない。
「貧しき人々の群」も早く書きあげなければならないのになかなかそれどころではないのにこまる。
二月四日
(金曜)早退。教育試験。看護婦来る。
風が大変強い。風邪がよくないので、喉が痛むやら鼻汁がつまるやらして気が重い。英男さんはよくないらしい。松岡、細井氏が来る。母上は非常に不安だと見えて涙ぐんだ様にして居らっしゃる。看護婦はクリスチャンで利口らしくはないが静かな人である。よい「貧しき人々の群」第四をかく。久し振りで安心してねられる。夜英男七度一分に熱が下る。胸をひやしたためであろうとの事だ。先ず何より結構。
ニイチェの哲学を読み終ったが何だかすっかり捧げつくす所まで共鳴されない。これ等の思想を元として私は私の哲学を産み出さなければならないのである。「汽車に石炭の必要な如く我々には日に三四〔約二字分空白〕立方の新思想が必要である」と云う〔約四字分空白〕の言葉は非常に面白い。同人の書いた、愛した、生きたと云う墓銘。
二月五日
(土曜)欠席
学校に演習会がある筈だけれ共行かれない。英男もあまりよくないので、家中はごった返しに返して居る。日が曇って陰気なので、私は到底堪えられないほど憂鬱な気持になって仕舞って、焦々しながら種々な事を考えて涙をこぼして居た。「生き抜こうとする努力」徹底した底力のある生活を出来得ない事をつくづく悲しく思ったり、思い出される毎に胸の痛くなる様な思い出に苦しめられた。自分自身に対して絶えず自分が不安を持って居ると云う事は私に実につらい。自分の安心のために私は愛して居て呉れるものもふりすてたのである。思い出を私は恐れる。胸のかき乱される様な衝動的な悲しさを恐れるのである。
二月六日
(日曜)私は自分が家のものの中心になって動いて居る事を思うと愉快である。私は、人間の中の人間であらねばならない事をつくづく思ったのである。
私は只文章が書けるではいけない。飯のたき様も知り、台所の世話も出来なければならないのである。
二月七日
(月曜)雪が少し積る若し相談して好い様だったら去年あたりの事から書いて見たいどうぞしてよいのが出来る様に、
只記録として残す丈でもよいのである。
英男の名も出さずに書いたら大丈夫だろう。
英男の熱が一日下って居た嬉しい。何かにつれて佐渡の金山と、大島、八丈島へ行き巣鴨の気違い病院について見たく思う。
狂人の心理を研究して書きたいものである。二重人格も面白いと思う。
二月八日
(火曜)いそがしい一日を送って仕舞った。
二月九日
(水曜)家中も少しずつくつろいで来た。
今夜は、「貧しき人々の群」を書きたいと思ったのだけれ共頭が疲れて居て出来ない。
夜十時頃に床に入ってしまった。
二月十日
(木曜)〔書信〕安藤千枝子
激しい風が吹く、「鈍色の夢」を書いたら英男の事を一つ書きたいと思う。母上に相談して許しを得た。夜は珍らしく筆が進んで十九枚書く。
(四)を大抵なおし(五)を書く、四十幾枚かになって居る。百枚はじきである。私は「お久美さんと其周囲」で得た失望をとり返さなければならないのである。どうしても。
一時頃まで起きて居たのだが不思議な興奮が私のすべてを領した。グースベリーの熟れる頃を書いて見たいと思って居る。一つの可愛いい小さいエピソードであろう。あの東京をしたって居た若い子供の事を思い出す。「徳馬鹿」の事も思い出した。
二月十一日
(金曜)道っちゃんと二時頃まで話し合った。先の頃の思い出が私の心を非常にやわらげて涙ぐまれるのであった。あの松原の中――に百合が咲いて居ましたっけね、あの湿地に好い香の花が一杯咲いて居ましたっけね。
お月様がようございました。I remember, I remember that night, that moon-light and……. My heart leaped up when I thought my young day's dreams.
二月十二日
(土曜)明日午後一―三時千葉先生へ
It was very cold today. At the morning the wind blew hardly but at the afternoon it settled, and the sunshine was bright. I heard a very sorrowful news, that Miss Rikiko Suzuki was die at the 10th. How I was surprised with this news! My mother went to visit for her unhappiness. This evening Ishida (nurse for Hideo) was returned to her home, but she would not do so, and submitted to my mother. At night I wrote my 6th part.二月十三日
(日曜)二月十四日
(月曜)地理試験、千葉先生出席、女子大学入学の事を甫守に話す。
〔読書〕「我生活より十六講」
千葉先生がズーッと欠席していらっしゃった事を知ってびっくりした。でも今日は出ていらっしゃって、入口の所でお目にかかる。昨日は上らないで却ってよかった。又近い内にいらっしゃいと云って下さる。夜は書かずに明晩の分までよむ。イブセンの第三帝国の所で、キアルケガアルドが真理は主観であると云う事を云って居たとあるがそれには同意しかねるのである。
若し主観が真理であるとすれば万人に真理は万変なものであるべきであると云う事を許さなければならない。「無か しからずんばすべて」と云った言葉には動かされる。第三帝国に於てイブセンも亦超人を持ったのではないか。
生きんとする努力、人間として苦悩と歓喜を深く味ったものは得がたい心意の動を持つものである。生きぬく! 動きぬく! 書きぬく!
二月十五日
(火曜)At school in English lesson, we turned words into Japanese, and heard and wrote one sentence but I missed. At night I wrote my Vth. 10p.
二月十六日
(水曜)At school I met Miss Okonogi and promised next week I would ask her times. At night I read the Decameron and recieved some spiteful thoughts. Every man, and every word was filled with such spites and such sorrows. I am sorry I have not hour to write my Vth.
二月十七日
(木曜)I am very sorry for her. I think of my sorrow that will come sometimes next. I read the children's maid of Takashima because I must write the matter of my youngest brother Hideo. At night I wrote my 7th. corrected the Vth and it became 15p, and I think it better than.
二月十八日
(金曜)二月十九日
(土曜)It was examination of music.
二月二十日
(日曜)二月二十一日
(月曜)How I felt sorrow that I couldn't write my 8th! Realy I have no time to settle my thought. My heart was filled with a wonderful memory, sad, delight, light, dark, I could not say but some of them made me heavy.
二月二十二日
(火曜)明日学校の帰りに図書によらずに来て夕方までに千葉先生のを幾分なりとも書き、夜は文法と作文を書いて小此木先生に都合を御伺いしなければならない。今週の二晩位はひまであってもよさそうなものであると思う。八には、国分の豆腐の子と気狂いと、首吊りと私の見たあの生々しい松の切り株と
二月二十三日
(水曜)私は、「小さき憂悶者」として小学校の五六年時代の事を書こうかと思い立った。
二月中に「貧しき人々の群れ」を書きあげなければ「鈍色の夢」を書いて居る暇がないであろう。
文典をもしらべなければならないかと思うと、たまらなくなる。
けれ共私はだまってこつこつやる丈の事だ。
二月二十四日
(木曜)明日の昼と朝は少し早く行って文法をさらって置かなければならない。
もう明日が二十五日だと思うと気が気でなくなる。
母上も非常に気のりがして居られるので幸福に感じないわけには行かない。
二月二十五日
(金曜)原稿紙が二十二銭になったと云う事は実に私にとっては大打撃である。本と原稿紙の代一円十六銭をいただく。
明日は千葉先生のへかき、夜から夕方は創作を進めなければならない。夜は学校の手紙を書いたら一杯になってしまった。何だかつかれて居て何をするのもいやだ。
二月二十六日
(土曜)原稿紙三百枚
ペン 五銭
二月二十七日
(日曜)英語にかかってしまった。
二月二十八日
(月曜)小此木先生へ行く。Tanglewood tales を訳して見ようかなんとも思って見る。
Dragon's teeth は大抵よんでしまった。
二月二十九日
(火曜)「貧しき人々の群」を書く、十二まで、百三十一枚になった。来月の始めには出来る予定である。
短い月ではあったけれ共私としてはかなり有効に送れた事を感謝するのである。
「貧しき人々の群」を書きながら、実に私は人々の愛すべき事、彼等が如何に尊むべき心の芽を持って居るかを感じてやまないのである。
私はニイチェの哲学に非常に動かされて居る事を自白する。それは私に嬉しい事であると共に、一種の恐怖である。
足元の強い一日を送る事はやがて、輝きのある一生を送る事であるべきである。
愛すべき我よ、尊むべき数多なる人々の群よ。
私はどんなに芽ぐむこの春を歓び迎る事であろう。
二日 英男今日より発病重症インフルエンザにかかる。
三月一日
(水曜)書斎で種々話しをする。あの人の天地の如何に可愛らしい事よである。あれ丈の中に甘んじて居られるのを思うと実際内的事件はその人がまねかなければ必ず起るものでないと云う事を感じてしまった。
「貧しき人々の群」と「農村」を出して見る。まるで比較にならない。彼那ものをとくとくとして書いて居たのかと思うとなさけなくなる。
二月が英男のためにごちゃごちゃになった事を惜しくも思うが、三月を有効に用えばよいとも思われる。
三月二日
(木曜)今月中はどんなにいそがしい思いをしても「追憶」とこれと「小さき憂悶者」をまとめなければならない。
そして四月の十日頃にはどうしても出さなければならないのを思うとゆっくりはして居られない。「お久美さん」を残念に思わない訳には行かないがそれに刺戟されたのを思えば有難い。
三月三日
(金曜)欠席
国民美術協会の展覧会へ行く。石井柏亭さんの扇面はりまぜの屏風と、青楓さんの二折屏風が図案としてはよかった。
T女史の肖像、パンドラ、が彫刻では目立ってよかった。光風会の方などをいそいだのでよく見て居られない。三越へ廻り、半襟と、白粉入を買う。半襟の特別陳列などはあってもなくってもよい様にさほど心も引かれなかった。道っちゃんに会った。青ざめた顔をして居ていかにも疲労して居るらしい様子であった。
三月四日
(土曜)夜は疲れて居たので何にも書けなかった。午後中掛って千葉先生のを書いてしまったので少し安心になった。本田の道っちゃんが来ておはじきをして遊ぶ。
何となし子供の時分が思い出される様で淡い気持になった。
○小雨する春の夜なれば何となく
静かなる心おはじきをする。
○音もなく降りしきりたる春雨に
土の
夜なれば春の夜なれば何事も
只うるほひて我目にぞ見ゆなる。
静かな夜が――静かな夜が
音もなく迫り来る。
柔かき香をたてゝ……
我心いかにおどるよ
春の夜なるかな。
三月五日
(日曜)西尾先生(小学校の)に会った。
種々昔の話が出てあの先生も年も取った事をつくづく感じてしまった。私が十八になったのは決して無理ではない。
夜は三四人の食事客
かなりいそがしい思いをして、一日少しばかりの本を見ただけで過ぎてしまった。
三月六日
(月曜)どうしても三月の十日までに出来して仕舞わなければ、間に合わない。四月の十五六日に発行してもよい。又そうでなければ出来ないだろう。
ほんとに日が短かいにはやり切れない。
どうぞして、よく出来上ります様に。
若しこれが悪かったら実に私は失望して仕舞うであろう。
三月七日
(火曜)欠
春が如何に私にとって私の精神は或る圧迫に堪えられない様になって来て居る。
すべての平衡が破れた様で頭の工合が大変悪い。
早退をして帰ってから働いた方がよかろうと部屋を片づける。
夜十四を書きあげ十五の少しまで進む。
妙に過敏になって昨夜うなされてばかり居たのですっかり疲れてしまったのである。
三月八日
(水曜)欠
父上から電報が度々来たのでとうとう英男をつれて七時の汽車で京都へ出発なさった。お送りに行く。途中雑誌を買い新橋の博品館で手袋を買って行ってあげる。
午後から行くつもりであったのにとうとう欠席してしまった。
明日からは是非行く。夜数学をさらいながらこの恐ろしい学課とももう一二週間で別れるのだと思うとたまらなく嬉しい気持になった。小此木先生のが出来ないので気が気でない。金曜に行くのを止め様か等と思って見る。主婦の居ない家は妙にがらんとして底淋しいものである。火事だの泥棒だのに過敏になる。
三月九日
(木曜)この頃はいそがしくて実にこまる。来週中はせわしいであろう。
ねる前にコーヒーを飲んだので少し興奮して床に入ってから目がさえてこまった。
自分の書いて居るもののことなどを思うと妙に感情的になって、祈りたい様な気持になってしまった。
手を胸に組んでしずかにして居る内にねてしまった。
幾何試験があったが、こまりもしなかった。
三月十日
(金曜)英男へ葉書をかく。
頭の裡が不透明でイライラしてたまらなかった。絵なんか少し風の変ったのを書くとすぐ何とかかんとか変な目をして見るものの顔を見るとおだやかな感じなどはどうしても持てない様な気持になって来る。陰鬱になって淋しくて仕様がなかった。夜英語を少しさらうとじきおそくなってしまった。謝辞がなかなかかけないでたまらなくなってしまった。月曜に小此木先生は随分辛いけれ共しかたがない。
三月十一日
(土曜)音楽、体操の試験があった。来週中せわしい思いをしなければならない事を思うといやになる。国語の時、「適当な自殺が許されない限り生きなければならないために
自殺者を
三月十二日
(日曜)帰りには自動車で来たけれ共自分自身の恥かしめから逃れる事も出来なかった。あのやっちゃ場のわきの狭い道で多勢の貧民にとりまかれて巡査に電話をかけさせて居る自分等を見てくれ。
自制と、自己を偽ることを話し合う。本田の道ちゃんは、自分を詐る事と自制とを等しく見て居る。エレンケイの、子は親を選ぶ権利があると云う言葉は今まで、人種改良で疾病にばかり限られて居た様であるがそれは貧者の繁殖と云う事にも考え及ぼされることであると思う。同情と、あわれみは区別されるものであると云う事をよく考えて見なければならない。
三月十三日
(月曜)はっきりしない天気で困ってしまった。
修身と家事の試験。
修身はかなりよく書けたけれ共家事は滅茶滅茶であった。
何だか頭の工合が悪くて困ってしまう。
三月十四日
(火曜)いよいよ頭の工合が悪い。
春の妙にムカムカした天気と、衝動的な空気が頭の平静を破って実に苦しい気持がする。
家計簿記がベリーグードなのは滑稽。
三月中にどうしても「貧しき人々の群」を書きあげてしまわなければならないのである。
四月中には出版しなければならない。
今日は学校へ行くまいと思う。夜、父上『建築世界』への原稿訂正。
三月十五日
(水曜)欠
三月十六日
(木曜)欠
三月十七日
(金曜)早退
国語試験。千葉先生の教育の答案が返って来る。
人生観と感想に実に嬉しい評をして下さった。
「これ丈の反響を生じ得る素質を備った方に私が此の学科をお話しする事の出来た機会に私は心から感謝しました。」
「真剣な態度で、貴女の歩んで行かれる人生を何時までも理解して行ける様に、私自身も発達させたいものである、と云うのが私がこれを見終っての感じです。
君が行く路は一すぢ ひとすぢを
行かるゝかぎりゆけよとぞ思ふ
と云う尾上柴舟先生の御歌を以て前途を祝福致します。」
三月十八日
(土曜)欠
とうとう「貧しき人々の群」脱稿二百二十一枚。私は最後の一節を泣きながら書いた。如何に深い喜びと悲しみが私の心を領した事であろう。厚く重なった結果を見ながら一月の努力の結果を深く感謝したのである。
今までのどれよりもよく出来た事は信じるけれ共はたしてよいかどうかと云う事はうたがわしい。夜の一時半風呂に入りながらどの位私は泣いた事であろう。
三月十九日
(日曜)坪内先生の御帰京をきいたが分らないと云う。
どうかして早く見ていただきたい。
どうかして出版したい。
種々の希望と気味悪さがまじって一杯になる。
一日字句の訂正でつぶして仕舞う。
三月二十日
(月曜)独歩の『運命』をかりて来る。
今日で学校もおしまいになった。境先生の御話には涙がこぼれそうになった。
夜六時半頃から坂本さんの所へ稿を持ってたずねて行った。
行きがけに屋並みの黒いかげから大きな月が上りかけて居るのを見た。大変に気持がよかった。終りの方をきいてもらう。苦しい位によいと云われたけれ共、只嬉しい丈ではない。
帰りに九時すぎ好い月を浴びながら帰った。
佐藤さんの子供が「お父さん死んじゃえばいいそんなもの皆夜店にたたき売っちゃう」と云い一人が「ほんとに早くしんじゃえば好いあのおもちゃ皆ぼくのにしてやる」と云ったと云う。一つの暗示を得た。劇にして見ようかとも思う。
三月二十一日
(火曜)彼の時代の文芸家の中で彼が如何に苦悩多く苦しかったかと云う事を思いやる。
「空知川の岸辺」は、巧な叙事と旅情の表れである。
夜女子大学の願書を書く。
三月二十二日
(水曜)銀行へ行き。夜弘道会の名人会へ行く。
永田錦心の薩摩琵琶はよかった。
低い声の時は声楽にきく丸味と落つきがあってよかったが甲声が悪い。
義太夫の綾花の語り口は呂昇などから見ると如何にも下びて居る。
筑前琵琶はあまり繊細な女性的なものすぎる。
旋律の三味線的な、精神のない声がまことに気味が悪い。
伊十郎の声はいつもよい。
倉知の連中に会って、食堂に行った。
三月二十三日
(木曜)あまり感服は出来ない。
進化論の適者存続の論などに対する反対がかなり単純なものである。種々の疑問が起った。
人道主義は今の有様では空想であると云うのは感心出来ない。
夜、文法とリーダーをすっかりよんでだけ仕舞った。
「貧しき人々の群」少し訂正。
坪内先生のはつまりお帰りまで待つと云う事になったのである。
三月二十四日
(金曜)どうも合点が行かない。
氏は進化論で国家は、適者として生存せんとする必要上から最もそうするに都合のよい国家と云う形式をとったのだと云うが、そうではなくて、国家をなすべき本質を有するのであると云うのであるが、凡そ本質があると云えば何か必要があって本質が起るのであるから適者として生存せんとする本能のさせる所であると云ってよいのである。
権力は優越なる意思の力なり
と云う事があるが、単純に権力は優越な意志の力と云う事は出来ないのである。下劣な意志を我々は優越な意志と云うのか?
三月二十五日
(土曜)なかなかよく出来ないで困って居ると銀地へ図案の様に置くがいいと云うのでそうするつもりで玉川堂に緑青と銀を買いに行く。
銀、金は須田町の箔屋で買った。
夜おそくまでかかって書いたがよく出来ない。
あまり単調で立派でもなければ美術的でもないのを見るといやになってしまった。
夜は妙に陰鬱な気持になってしまった。
三月二十六日
(日曜)支那留学生に対して侮蔑的な様々な微笑の加えられるのを見ると汗が出る様だ。故皇太后陛下の御歌のうつしと御親署勅語を拝覧、貴族的な好い御字であった。御色紙のすりものを分けてもらったがつまり持ち
夜美音会へ行く。小島氏に会う。妙に私のどうしてもすきになれない態度を持って居る。
真水に会う。醜悪な人達だ。昨日神保町の停留場で腹がたつまで私を見て居た人が保育会の会員だとかで挨拶をする。
帰りの電車に或る病的な欲情に支配されて居る男を見た。
三月二十七日
(月曜)「爛」を読んだが私には批評出来ない。
三月二十八日
(火曜)三曲合奏で胡弓を引いた婆さんの超然とした姿がよかった。
夜文法を二六頁さらう。
日を数えて見ると実にぐずぐずしては居られないのである。
久し振りで部屋に落付いて見ると気持がまことによかったけれ共何だか身内がムズムズする様でたまらなかった。
会のときくじを引いて伊藤先生のところへ安藤さんと行く事になった。
三月二十九日
(水曜)左の
大瀧から丸善の五円切符をもらう。
夜は文法、習字、もう明日三十日だと五日外ない。
実際懸命にやらなけりゃあならない。
明日三越へ行くのだそうだけれ共実に考えものだ。
一日つぶさせてはやり切れぬとも思う。
家督相続のことで書きたい事があるが当分は駄目だろう。
三月三十日
(木曜)いつもと同じ感じを得てかえる。
非常に平和な夜の中を車で走ってかえる気持はよかった。
水道橋の通りから見ると春日町からズーット掃除町のあたりに一かたまりになって灯の沢山の輝きが色々な色にまたたいて居るのが子供らしいよろこびを与えた。
春と云ってもどことなく薄ら寒いので風を切って運ばれて行くとたまらなく気持がよかった。行きに中村屋によったら黒光女史らしい白い丸顔の目のきれいな人が居た。広子がませて何だか可愛気がうすくなった様に思える。
三月が過ぎて仕舞った。
私は如何程の感じを持ってこの一句を書く事であろう。日が暖く頸元をてらす様になった。
花が咲き出した。
けれ共この一月の間にどれ程のものが出来たかと云う事はその事を考えた丈で苦しくなる。
けれ共「貧しき人々の群」を出来した事だけはよろこべる。精神上肉体上に春の圧迫が強くて堪らない様である。頭の中が始終とがとがして居る様でいやである。
早く秋がまたれる。
けれ共秋が来ると又一つ年をとるのが近いと思うのもいやである。二十になるまでに少しの事はして置かれなければたまらない。
まだ三年の先がある事はうれしい。春は御身の能う限り美しくあれ。
八日 英男母上京都出発
十二日 父上母上英男帰京(英男にとりては最初の旅行なりき)
十八日 「貧しき人々の群」脱稿
二十二日 女子大学願書呈出
二十六日 御親署勅語拝覧
二十七日 卒業式同級会
二十八日 第一回作楽会 女子大学に証書を見せる。
二十九日 大瀧より祝として丸善の五円切符をもらう。
四月一日
(土曜)四日午前八時ヨリ試験
雨が降って居る。静かな好い日であった。丸善に本を買いに行った。
『後に来るものに』、『人及芸術家としてのトルストイ並にドストイェフスキー』、ドストイェフスキー著『叔父の夢』、『貧民心理の研究』を買って来る。
夜はそれ等を大抵一通り目を透した。「叔父の夢」の中には又愛すべき沢山の人が居る。「後に来る者に」は彼の人の如何にも純な心持のいい説である。よく読んだら多くの教訓と悦びを得る事と思う。
「貧民心理の研究」で、「貧しき人々の群」の心理に大した誤りのない事をうれしく思った。夜は妙にメランコリーになってやたらに涙をこぼしたくて仕様がなかった。
四月二日
(日曜)三丁目で花を買って行く積りだったが切らなかったので大曲りまで行って六十銭で花束を作らせて行く。六時すぎまで種々な御話しをして帰る。もう太陽の面と向った光りには堪えられない様になって来た。
千葉先生と堺先生の御話をして来る。「貧しき人々の群」を見ていただきたいと云って来た。
本田の道っちゃんと直之[#小田切直行、父精一郎の従弟]さんが来る。
御父様御母様浅草、午前中さらった丈で夜は英語なんかちっとも見とれなかった。
四月三日
(月曜)何と云っても気が引きしまる。
私の新らしい生活の始まるのである事を思うと よしそれがやさしいものであっても馬鹿にすべきではない事を思う。
四月四日
(火曜)割合にやさしいなと思った。
同じ日の午後に発表、女学校に入った時ほどうれしくはなかった。ひどい風が吹いてたまらない。夜は早くねる。
お父様山形御出発。
非常に混乱した心持であった。
四月八日
(土曜)千葉先生に御目にかかって来る。日曜の午後は居るとおっしゃった。
「おめでとう」と後から声をかけて下さったとき何とも云われないうれしさがこみあげて来た。坂本さんがラセラスの訳を拝借して来たと云う。
帰りに芝へ行く。お婆さまが一人でぽつねんとして居らっしゃるのを見たら可愛そうになってしまった。
お祝に十円いただいた。
四月九日
(日曜)高嶺さんが留守だったので先生に丈御目に掛って来る。
好いものがあったけれ共マッツや何かがよくないので下品な感じを与えた。 Wallpaper が安っぽい。自分の家の食堂は好いなあと思わない訳には行かなかった。
堺先生は可愛いと思った。
「後に来るもの」それは好い感化を与える。純一な心持が又心に戻って来る様に感じられた。
「自分を最も自分の望む人間に仕立てて見せる」と云い得るものが幾人かあろう。私もその一人であろう事をのぞむ。
四月十日
(月曜)校長の演説は詠歎的のものであった。けれ共自我が如何に尊ばれて居るかと思うことはうれしかった。
署名の上に何か句を書かなければならない事になったので、求めよ然らば与えられんと書く。私は私の周囲にどの位失望仕様として居るか。
私は私一人の道を進むばかりである。
千住さんと云う人がざらざらして居ていやになる。
私のほんとを理解し私のほんとを愛してくれる人は居ないであろう。私の道は一人で進むべきである。
四月十一日
(火曜)『ニイチェの研究』、『我等何をなすべきか』、『社会力』、『結婚の幸福 泥濘』。「泥濘」を少し読む。偉大と云おうより寧ろ私をおそれさせる。
そして私の持論の裏書きをさせられる様に感じた。実際性慾からはなれて、醒め切った心持で、或る形式の許に結ばせられた二箇の二人が互にとけがたい敵意を持って向かい合って居る姿は何と云う浅間しい胸を悪くさせるものであるか。
「二人きりの時をねがうよりも却って第三者のあった方がどことなしくつろげる」と云うのは事実である。痛ましい事実である。
世の中の所謂幸福なる幾多の夫婦者よ。
四月十二日
(水曜)「生長老成死」と云うのを読めと云って下さる。種々な御話しをしながらあの坂を下りた。この間から申し上げたいと思って居た反省録のことなど又は生徒気質がこんなに浅間しく感じられたかと云うことも御話した。一つ一つ丁寧にきいて下さった。
いつもの様に紫っぽいお羽織を召していらっしった。
夜それもまだ夕方妙にメランコリーな心持になって、トルストイの「結婚の幸福」を読んだ。夕闇に浮いて見えるこぶしの伸やかなうす赤い花を見て妙に涙ぐましい心持になってしまった。自分は何と云っても若い。私は彼の中の人物にどの位感動させられた事であろう。
四月十三日
(木曜)「貧しき人々」の中に非常に足らなく思われる所が出来た。
四月十四日
(金曜)夜は雨になる。岸本先生の発音の教授は一番熱があって面白い。国文の教師は只堺先生をしたわしく思わせる役にたつだけである。桜がここいら中に咲く、桜だらけと云う感じに打たれる。
五時頃になると桜楓会[#日本女子大学同窓会]の建物が灰色に澱んでその前にかたまって居る白い花の群のために丁度雪のつもった日の様な感じを部分的ながら感じた。今夜の分では明日は学校へ行くまいと思う。
四月十五日
(土曜)四月十六日
(日曜)四月十七日
(月曜)私は此処でも私の要求する友達を得る事は出来ない。
友達に於て私は失望したけれ共学校そのものに於ては何のがっかりも見出し得ない。私は永久に少くとも四年の間はそうであろう事をのぞむのである。江戸川の花見だと云ってあの殺風景な堤の泥水の中をぼろ舟で漕いで廻って居るのを見たら変な気持がした。あの位不具な状態で忘我の快楽を得られるものとすれば人間もかなり単純である。木曜から授業がないだろうと云う話が出た。
四月十八日
(火曜)級会がある、皆同じ様な気持になって同じ様な事を繰返して居た。
研究掛になる、メーテルリンクやトルストイでもせっせとつぎ込んでやりたい様な気持になった。かえりに安達に会う。後姿を見るとフト声をかけたい心持になってあいさつをすると例の顔をしながら私の髪の事を云い出した。その時どの位私は妙な心持がしたか。私は子供だなあと思わないわけには行かなかった。あの様な他人の髪にまで一々気をつかって居なければならない人の心は憐むべきものである。何か一言云いたい心持になってかけよった自分の心を私は祝福する。私はまだ愛すべきあまたを持って居ると思うのはよろこびであった。
四月十九日
(水曜)午後から四時頃までの間に千住が何か宗教の事を話して居たがだまってそれをきいて居ると浅薄さに反感を持ってしまった。一種の自己広告だと思うときく気もしなかった。
単純にあれを感心して聞いて居られる内は人間も幸福である。私は軽い侮蔑を感じながら傍によって、Faerie queen を子供のために抜書いたものを読んで居た。ほんとにどうかして沈黙な重々しい人間でありたいと云う感望がしきりに起った。
人から軽く見られる人間でありたくないと云う心持がしきりにされる。
四月二十日
(木曜)四月二十一日
(金曜)夜は部屋を整理。「小さき憂悶者」を書き出す。少し長い事何も書かないで居たので筆が思う様に心を表わしてくれない。恐ろしい気がした。これからどんなにせわしなくても書かずには居られないと思わずには居られなかった。二日程不規則に生活して来たから今夜は早くねて明朝早く起きた方が利益があると思ってねる。買って来た真紅のアネモネが非常に電気の光線で美くしく見えた。
四月二十二日
(土曜)浅草的なすべての刺戟を受けた。
四月二十四日
(月曜)四月二十五日
(火曜)校長に書いたものを出す。
四月二十七日
(木曜)千葉先生にも御目にかからなかった。
私の卒業の写真がマクベス夫人の様だ等と蜷川さんと話をする。
どこに行ってもつまりは失望しなければならないのかと思うといやになってしまった。お茶の水の橋のところにたって学校帰りに御目にかかったとき御話したことを又話してきかせる。
どうしても割合によみかきが出来ないので
大変楓の新緑が美くしい。
四月二十八日
(金曜)坪内先生が御帰京なすったので持って行く筈の「貧しき人々の群」をなおし出した。
よみ返して見ると如何にも単純な様でいやになって来る、「カラマゾフの兄弟」の結構が思われて書くのなんかあんまり恥かしい様にもなって来た。が私は書かずには居られない。最初の二つが余り説明的になって居てつまらないと思う。
やめて仕舞おうかしらん、大変興奮して来る。
四月二十九日
(土曜)メーテルリンク一流のものであるが、「ペリアス、メリサンダ」に見たと同様の人が動いて居るがあの人物とはまるで異った思想である。「智慧と運命」の云うことが非常に多くふくまれて居る。特にアストレーンは悲しみのかげから歓びを見出す人である、ほんとの運命を知った人らしく見える。
夜、「貧しき人々」を書きなおし始めたけれ共何だか昨日睡眠が不足だったのでねむいからやめてしまう。
火曜の会には、精神的疲労の事を少し話して見ようと思う。
四月三十日
(日曜)「貧しき人々の群」第二まで書きなおす。
家から泥棒の出ると云う事はまことに気みが悪い。
母様などは仕たことは憎いが罪に落すのは堪えられないと云う様な混乱した気持になって居らしったらしい。私も、若し牢に入る様な事にでもなれば、更により悪い人間になるのは分って居るのにそこを思わない被害者や巡査の心持がいやになる。三円たらずの金で人一人を暗くさせ得る人は非常に剛胆な人である。
青葉が美くしくなった。空の色が生に満ちて来た。四月は美くしいと云うけれ共、此度は種々の境遇に変化があったので四月は非常に長くたって行った。殆ど私が退屈した程、何と云う事はなし、私の周囲の事情から自分が全くたった一人定まった先手の星を持って多勢のものが迷うて居る中をかきわけて行こうとする生活の様に思える。
それは面白い――嬉しい事でもあるけれ共
四日 入学試験 合格
十日 宣誓式
五月三日
(水曜)欠席
「貧しき人々の群」の書きなおしにかかる。When I think about my life, my heart beats quickly with sorrow and joy.
五月四日
(木曜)五月八日
(月曜)私は又
私はうれしかったけれ共苦しくて夜ねむられなかった。
I am very happy to finish my Writing already but wonderful sad came upon my heart and my eyes covered with tears.
Why so excited my heart? Be still! My young heart!
五月九日
(火曜)出て行らしった方はいいお爺さんであった。私は何だか心が安らかになる様が気がした。
最初の頁に指を触れられたとき私はひったくりたいほどのよろこびと不安の混乱した心持になっておののいた。
よく読んで見て批評するといって下さった。最初の頁と中頃を見てとうてい駄目なのはすぐ分ると云う事であった。
どうぞよくあってほしい。どうぞよめるものであってほしい。
私はどんなにはりつめた心でこの一月ほどを送ることで有ろう。
五月十日
(水曜)五月十一日
(木曜)At night I studied very much and make ready for Saturday's[#「Saturday's」は底本では「Saturday,s」] lessons.
五月十二日
(金曜)absent.
It was very unpeaceful to-day. Many feelings and thoughts came up to my heart. It〔以下空白〕○
五月十三日
(土曜)心理学講話をききに行く。
音楽の発達は分り易くもありあまり人をあきさせない講話であった。
長井博士の副腎分泌物と精神作用との講話は興味を持たなかった人も多くあったらしい。
体の工合で気分が悪くて仕様がなかった。
小此木先生へ手紙を出す。『作楽会報』へ十頁ほどのものを書こうかと思う。
五月十四日
(日曜)風がひどくていやになる。裾がペカペカして歩くのをさまたげる丈でも、日本服はよくないなあと思わずにはいられない。
何だかやたらにいらいらして夜はなにも出来ない様な心持になって居た。
人を君臣と云う名で自由にして居った時代の夢をさませないで、家をかき廻される華族等の事を「殿様御めさまされましょう」という題で皮肉に書いてみたい。追憶の書き出しが頭に浮んで居る。書きなおしてよいものにしたい。会報へ十頁は何か軽いさらりとしたものにして見たい気持で居る。気持がこんなにいらいらする事は苦しい。
しめった闇の中に蛙が鳴いて居る。
五月十五日
(月曜)一日中いらいらしい気持になって何も出来ずに心持悪く暮した。
四時から学校に行ってノートをとって来る。
電車の中で岡田さんに会う。相変らず鋭い調子をして居なすったが疲れたらしい様子であった。
風が強く吹いて居る。『会報』へは、「育ち行く彼」を書こうと思う。昨夜は妙にヒステリックになって泣いたり笑ったりしてしまったので朝になるとつかれてどうしても起きられなかった。
五月十六日
(火曜)教科書のネロの最後を読む。
私が若しあの場合になったら必ず左様であろうと思う様な心持がうかがわれた。
ネロの死に様は、死に持った考えは、只単に臆病なものであろうか。私はそれを只一口に云う事は出来ない。
彼は所謂悪い事はして来た。
けれ共愛すべき所々を持って居たのではあるまいか。
私はたしかに左様であると思える、そして彼の心をどうかして何かに表わして見たいと云う気持になって居る。
五月十七日
(水曜)この日に私は、久米氏が先に本能の尊重と云う事を云った意味がよく分らなかったのがある程度まで明かになったのを感じて非常にうれしかったとともに、私がごく表面的なと云おうより本能と云う事につれて一般的に第一に頭に浮ぶ習慣をつけられて居る限られた小部分のみに目をつけたことを非常に耻かしく思った。けれ共天才と云う論の意味にはすべてを同感する事は出来なかった。すべては天才である、人間のすべては天才であると云う事には私は合点出来なかった。若しすべての人が今まで云われて来た天才であるなら――それはおそろしい事である。
五月十八日
(木曜)過敏になった頭が妙にイライラして殆ど苦しい位かんしゃくが起り情なくなった。
武者さんの「後に来るものに」を少し見る、ほんとに彼の人の言葉は香り高いものだと思う。大様などことなく上品な言葉を持って居る人である事をつくづく思わされた。
「悪霊」をかなり読む。いつもの涙ぐましい位の感激を持つ。
こんな偉大な人の前に自分は何の光りを持つのか。哀れなものよ、けれ共私はその光りを持たなければならない。
五月十九日
(金曜)五月二十日
(土曜)夜になってあの死に顔の所を書き出そうとすると、妙にこわくなってどうしても書けなかった。実感は恐ろしいものである。
いつまでかかってもいいから、変質他愛病患者を中心にした貧民窟のことを描いて見たい。
非常にのぞんで居るが、まだ一度も左様云う所へ行ったこともないし、見たこともないので、まだ一年二年はかかる事であろう。けれ共どうか好く立派なものを書きたい。
若し正直な観察を以て見てかけば必ずよく出来る事はたしかである。
五月二十一日
(日曜)母様によんでいただく。かなりすなおにかけて居るそうだ。
それにつけても坪内先生の方が案じられる。この二三日は夜床に入るときっとあの事を思い出して、若しよかったらこうし様若し悪かったらどうし様などと云う考えがチラチラ湧いて来る。
「貧民心理の研究」を読む。
斯様に彼等の世界があって、彼等の真理のある中に今まで持って来て居た道徳律は何の価値もないものになってしまって居る。彼等――
五月二十二日
(月曜)人を殺した事が悪い事だと云うので、政府が殺したものを殺すのはどういうわけかということがほんとうに考えられる。
又、自分は単純によい、わるいで人間のすべての行為を判断して行きたくはない。と云いながら何か起ると、自分自身それを裏切って居るのはまことに悲しいことである。
社会的感情に支配される様に子供の時から癖づけられて居るのはいやである。
どうかして何事もしずかな理解のある気持ですごしたいと思う。どうかして左様ありたい。父上北海道出発。母上歌舞伎。
五月二十三日
(火曜)一日何をすると云う事なしに暮してしまった。
毎日雨が降ってうっとうしい。
夜千葉先生へ手紙を書く。
種々思って居る事
感じて居る事を
五月二十四日
(水曜)小田切の秀子氏へ返事。あの人が行ってしまったので、彼那してとりとめのない様な悲しさに迫られて居るのかと思うと、可哀そうになって来たが何とも云ってやり様もなかった。
夜なんかして、「ドリアン・グレー」を読んで見る。
いつもながら驚く。Longfellow's Poem を一つ二つ見る。Day is done と云うのはしずかな、やわらかみのある快いものであった。明日から学校へ行く様にきめる。
五月二十五日
(木曜)出席
今日は種々な事があった。学校へ行って見ると、内藤が、電話の行き違いを妙にかんたぐって先生に云ったと云う事を知らしてくれたので、どうでも好い様なものだけれ共、昼に行ってちゃんと云い立ててきた。何でも他人のことまで立ち入ろうとする半目醒の女はやり切れない。今まで持って居た好意が一時に消えた様に感じた。千住氏が妙にチヤほやする。人の心は妙なものだ。級会の「美」の事について一寸喋る。西岡が「読書をなさったでしょう分ります」と云う。二十を越したものの口のききかたは違うと思った。夜久しぶりで関先生の所へ行って、かなり緊張して話して来た。『水の上』を貸し De. Profund を借りて来る。夜はつかれたが愉快だった。
五月二十六日
(金曜)昼の時間に昇夢さんのツルゲーネフの伝を読んで、急に「獵人日記」がなつかしく感じられる。
どんな人でも偉かった人々の一生を読むと種々の感激を起させられる。人の一生、それは様々の形式と色彩を持って居ようけれどもいずれも尊いものである。
自分の生涯も何物か人に与えるものでなければならない、同時に最も多く吸収したものでなければならない。
五月二十七日
(土曜)夜、「獵人日記」を読んで見る。もう三年ほど前に一寸見た限りなので新しい発見も多いが又訳の悪いところも気になった。
夜は、作物に感激させられたのと夜がしずかにしめって居るので、妙にセンチメンタルになって悲しくて仕様がなかった。
五月二十八日
(日曜)少しむずかしすぎると思った。夜錦輝館へ行く。いつもながらよくするものだと思って見て来たが疲れた。
いつでも見たいものである。趣味は低級であろうが何であろうが目先のたのしみに丈はなる。
夜久しぶりでよくねた。
五月二十九日
(月曜)外の明るい様な時に部屋の中丈くらくしてさっぱりした布団にねて居ると、妙に淋しく気持が沈んで来る。
此頃は頭の工合があまりよくないので感じがするどくなって来て困る。種々な思い出だの悲しみだのが一杯に湧いて来る。
夜は久しぶりで本田の道っちゃんが来た。
五月三十日
(火曜)ラムの沙翁を読んだが、あまり抜いてあって面白くない。
昨夜道っちゃんが云った事が非常に頭に残って居る。
I can not love so long as anyone can――yes, I know it clearly. So please love me till I will die.
何と云う悲痛な言葉なのか。私の可哀そうな人よ。
五月三十一日
(水曜)昼間は苦しくあつかった。
実践論理、非常に感激させられた。私は多くのものを吸収する事が出来た。
種々な点で私には記憶すべき月であった。
第一私の生涯に第一の経験として、あの「貧しき人々の群」を坪内先生に御目にかけに出した。
それからこの想が醗酵したら非常に立派なものになるべき変質他愛病者とその周囲に対する思いつきを得た事もよろこぶべきことである。
かなり思想的に生育の出来た月ではあったけれ共、頭の工合を悪くしたのであまりはかどりもしなかった。
私はこの月に本能の尊重を知り、宇宙の真の運命と云うものはどう云うものであるかと云う事が
八日 「貧しき人々の群」脱稿
九日 坪内先生に御目にかけに持って行った。
二十一日 「追憶」
二十四日 千葉先生へ手紙
二十五日 関先生、久しぶりで御目にかかる。
二十二日 父上北海道御出発
二十七日 「雨が降る」三枚
二十八日 「動かされないと云う事」
六月一日
(木曜)六月二日
(金曜)夜どこかで一緒に食事をして帰っていらっしゃった。
もう一年の半分に来たのかと思うとおどろく。
今月の十五日は今年の丁度まんなかにあたる、何と云う早く立ったのか。
私は情なくなってしまう。これだけの中に自分は何をして来たか。彼那いやな、「お久美さんと其周囲」と、「貧しき人々の群」と、「追憶」と、その他の一寸したものが僅か許りではないか。
今までこの様なら又これから先もこの様に過ぎ様と思う事は恐ろしい事である。
六月三日
(土曜)蜷川氏より。
小此木氏より電話。
今日学校でふとこの間書いた「追憶」を三部作の一部と仕様と云う事に思い付いた。あれが第一になって次の「小さき憂悶者」が第二になりもう一つ安積へ行って居た間のことでも書いて見たら面白そうであると思う。そしてすべてを「記憶の断片」と云う名にまとめる。今月中には出来るであろう。よいものにしたい。夏休みにはツルゲーネフの Clara Milltch をどうせ読むんだから訳して見たいと思う。部屋をすっかりかたづけて北をあける。風通しがよくなった。
夜蜷川さんから手紙が来る。子守唄を送って
静かな声で「しいばのおりどの、しずがあやーに」とゆるく歌って居ると、昔の種々な心持がしみじみと戻って来る。
六月四日
(日曜)今日の様に暑いと又五色の霧を思い出した。
六月五日
(月曜)まだあつさにもなれないので、一寸日が強いとたまらなくあつい。
六月六日
(火曜)これで漸々私の出発点が定まった様なものである。
これから私のほんとうの生活がはじまる。
私の周囲に沢山満ちて居る敵に対してどの位自信のある事だろう。『中央公論』の秋季増刊に出させる様に口をきくと云って下さった。それから単行本にするのだそうだ。
私の今までの努力は決して無駄ではなかった。
私の生活は真に力づけられたのである。
六月七日
(水曜)一、思想の健全なる事
二、文体の短かく女らしい欠点の少ない事
三、観察のこまかなる事
種々力をつけて下さった。安心していそがず迫らず書けばきっと立派なものが出来るとまで云って下さった。終りの方を少し書きなおした方が好い所があると云うので原稿をいただいてかえる。
かえりに妙な田舎田舎したすしやに行き、大味氏
中西屋へ行ったけれ共買い度いものなし。
六月八日
(木曜)六月九日
(金曜)六月十日
(土曜)六月十一日
(日曜)朝葦の湯からわざわざ御葉書をいただく。
石井の婿だと云う人が来て久米氏の例のことを云って帰ったが、私共もあの人達については或ることを知って居るので久米さんばかりどうのこうのと云うことは出来ない。とにかくあの男もなかなか裏のある生活をして居るのだから……。夜道三氏[#徳岡道三、父精一郎の従弟]が来て種々はなしの末今度結婚するのに母がむずかしいと云う事を話した。どこでもある事だ。
結婚の幸福などと云うのもさめ、……。
六月十二日
(月曜)明晩小此木先生
六月十三日
(火曜)父上母上外出。タゴール氏は声だけでも人を動かすに足ると云うほど立派な声を持って居ると云うことであり又その容貌もすべて世のことを超越した様な輝きを持って居られるそうである。
六月十四日
(水曜)もう梅雨に入って居るそうで雨が夕方から降り出して少し涼しくなったが頭の工合はよくない。月見草とダリアが草畑に咲いた。
六月十五日
(木曜)石井が来て久米氏のことを母にたのんだと云うので夕方久米氏を呼ぶ。石井も男らしくない人だとつくづく思う様な節々がある。ああ云う顔の人はフランクな生活は出来ないものだ。久米氏はすべての要求を出来る丈は受け入れると云って居たそうだ。
とうとう卒業されるのはお目出度いがそんなにすぐやわらかものの着物をきないでもいいだろうのに。坪内先生から熱海にうつったと云う御葉書を下さった。
六月十六日
(金曜)一日中はれたり降ったりしていやな天気である。足駄の歯をなおさせて置く。夜、近所まで帯揚げのしんとピンを買いに行く。ほこりがたたなかったので強い風も割合に心持がよかった。
漢文の先生に例の事を一寸申しあげて置く。
六月十七日
(土曜)クープリンの「決闘」をよむ、主人公、ロマショーフ少尉は実に可愛らしい。彼のすぐ自分の事を三人称にして考えて見る癖は私の持って居るのと同じである、左様な心持になって、自分の事を「彼は……」と云うときの心持は私によく分る、先にもう三四年前に一寸読んだことがあったがまるではじめてのものの様な興味と感激を覚えた。
実に立派な作である、クープリンの主人公には……もとより沢山はよんで居ないけれ共「生活の河」の主人公のどれにも愛すべき泣かずに居られない様なところがある。ああ云う風に人を見なければならない。
又ああ云う心持がどこか心の隅になければ人間は情ないものになる。
六月十八日
(日曜)青雨らしい響で降って居る、心がしずまる様である。石川先生が貧児のことを書いたのを持って来て見せて下さる。非常に単純なのに
お雪が一寸ばかりのはこべを持って来た。心持が見えすいていやであった。道男のことを馬鹿にしたらしく種々云うのが気にさわった。
六月十九日
(月曜)出席
十一時から学校に行く。松が少しまるくしてあるのでよっぽど心持がよくなった。書棚に氷店のカーテンの様なレースのかけてあるのはいやである。あんな趣味がとはなさけなくなる。昼の時間に小寺と話をする。小倉末子さんの子供時代の事や人の批評はなかなか出来ないものだなどと云う事をいつもよりたしかな口調で話した。そして音楽などもどうせ弾く人にはなれないからせめてきける人になるのだと云って居た事は女として尊ぶべき心持である。
自分をきく人、見る人として完全なものに仕様とする心持には若い娘はなり難いものである。若しそれが本心だとすれば尊ぶべきことである。私にはそう云う気にはなり得ない。冨山房へ『沙翁傑作集』をよこす様に云ってやる。
六月二十日
(火曜)むしあつくて体中の血がにている様な気がする。帰りに吉原さんと久野先生に会う。久野先生はいつもの様に奇麗な顔をしていらしった。吉原さんはいかにも女学校を出たばかりの娘と云った風をして居た。
おっかさんと云う人は只娘を守って居る様な人に見える。
国男が妙にメランコリーになって神経質になって居た。私の先の様な又今でもときどきなる様に落着かない心持になって居るのを見るとかわいそうになった。
六月二十一日
(水曜)小此木先生から御断りの電話を下さる。今日の様にハッキリてりもせず又ザーザーきもちよく降りもしない天気だとすっかり頭にこたえる。
この頃少しずつ滋亜

六月二十二日
(木曜)足や手が熱っぽいのではかって見る。一寸もなかったのに少し安心する。七月の十八日がせまって来ると私はおととしの夏を情なく思い出す。夜中に、氷嚢を押えながら母様のこぼした涙が、自分の顔の上に降りかかったときの心持なんかも、はっきり思い出せる。
今年はどうぞ病気をせず、いやな事もなくてトントンと進んで行ってほしい。学校で思いがけず、『中央公論』の長田さんの「港の町」だったかを少しよむ。まだすっかりはよんでないから分らないけれ共、長田さんの捕えた材料としては、私には珍らしいものである。
六月二十六日
(月曜)非常に不愉快でたまらなかったけれ共しかたがない。明日なら八時頃に社に来ますと云う事なのでそれなら早速あした出かけ様と云うことにする。
たのむものの弱味と云おうか、落ち目と云おうか――とにかく妙な心持がしていやであった。
六月二十七日
(火曜)かえってから丸善に行って、『アンナ・カレニナ』、『生物学ト哲学ノ境』、『ペリアストメリサンダ』、『アラジィン、パロミダス』、『ベラミー』ヲ買ってくる。
六月二十八日
(水曜)どんな女でも女にかわりはないと云うことはたしかである。
「アンナ・カレニナ」はごくはじめで分らないけれ共、矢張り驚くべきところどころがあり、トルストイの特徴、メレジェコフスキーに云われてることも目立って見える。
六月二十九日
(木曜)もう、私の書いたものの出ることを知って居なさる。母様がおっしゃったのだそうだ。四十を越そうとして居る人の心持、とくに母親の心持は私に分らないところが沢山ある。安積へかえりたくないから東京附近に居ると云って居た。
石井親子で来る。石井が妙に神経的な高笑いをしたりして居るのが妙に響く。息子と云う人も頭はダークな人だ。あの位の年で、あんな口のきき様をするものに、ろくなものは居ない。けれ共とうとうあの脚本――「牛乳屋の兄弟」をすべて滅却して詫び証を書かされた事には同情する。けれ共それは何もあの人の価値を下げる事ではない。此の事件のために、私の両親に彼人の美点の多くが理解されたのはよろこぶべきことである。
六月三十日
(金曜)あの人の形を見ると、実際かわいそうになって来る。あんなにしょぼしょぼしてどうしたと云うのだろう。一つ発表したらゾクゾク出さなければいけないと云うので、古いものを又御目にかけることにする。
此の一年の真中の月は私の一生に大いなる意味を持って居る月であった。私の第一歩は漸々かたまろうとして居る。
今年の正月の一日に久米さん達と集ったとき、今年は何かありそうな年だと云い合って居たことが自分にとっては実現され様として居る。
私の一生の中最も記憶すべき月なのである。
これから先の自分の努力の如何によって自分の位置はどれほどにでもなって行くのである。
「あせらずになさい、きっと立派なものがかけます」
とまで云って下さったことはどれ程自分の進む道をたよりあるものに思わせるか?
どうぞ此の月の事を只に私の日記に――生涯の記録に意味のあると云うばかりでなく、世界の文学史上に記念すべき月とさせたいものである。
けれ共、そんなことは何でもない。
私は自分のする丈のことを一生懸命にしてさえ居ればよいのだ。此の一月は、種々な空想や期待やよろこびやに動かされて自分が何だか非常に動かされて居るのを感じる。
四日 「無題」三枚
六日 坪内先生より葉書母上参上批評を承って来る。
七日 自分母上行く。原稿を返していただき『中央公論』の秋季増大号に出せたら出し、そうでなかったら単行本とする事に決す。
十一日 終りの方をかきなおすのが出来て箱根葦の湯紀伊国屋へ御送りする。
十三日 小此木先生に坪内先生の事を御ききいただき、「追憶」を見ていただく。
十四日 坪内先生から「ゲンコーウケトツタツボウチ」と電報来る。
父上東北出張
十九日 冨山房へ『沙翁傑作集』を送る様に云ってやる。
二十日 熱海から原稿を送って下さる。
二十六、七日 坪内先生御紹介状を下さり瀧田氏に会い原稿を渡す。
三十日 坪内先生の所へ上って若し『婦人公論』がだめなら単行本にする事にきめ。
七月一日
(土曜)七月二日
(日曜)今日寿江子誕生祝
余り好い心持の日ではなかった。昼には寿江子のお祝で西川から御馳走をとる。とがしのはつ[#富樫はつ、中條家書生]、木村来る。はつがいつもの様に大きな体をしながら、くそ遠慮ばかりして居るのを見ると、腹が立たざるを得ない。夜錦輝館へ行く。名金会とか云うので、名金をした。いくら金になるからって、彼那土人みたいなものにかつがれたり、何かして居るのは実際いやになるだろうと思う。何でも商売になればつらいものだ。先に来て居たアメリカ人が来て居る。いつもあのあお目玉をギロギロさせてしきりに野心たっぷりな形をして居る。どうしても西洋人は日本人よりも肉感的である。女でも男でもそうだ。女はそれだもんでよけい Charming であるわけだ。うすい着物を透して四肢の見える姿で舞いさわぐ様子は同性でも妙な誘惑を受ける。七月三日
(月曜)中公からの返事を一日待ちぼうけをして仕舞った。
七月四日
(火曜)「天才は別である、けれ共どうも何か修養すべきことがありそうに思われる。けれ共それはどうすればいいかと云うことは分らない。」との御言葉は非常に私を考えさせたものである。夜母上御木本からブローチのいいのを買っていらっしゃった。dew drop の様でよかった。大変。
七月五日
(水曜)七月六日
(木曜)この二三日 passionate になって仕様がない。今日なども朝起きるとすぐ母様とふざけふざけて頭を痛くして仕舞った。
そしてそのあとでは重い陰気な感情が胸一杯に湧いて、何をするのもどうするのも痛みなしには出来ない様な心持になって居た。
七月七日
(金曜)七月八日
(土曜)成瀬正一氏が渡欧するそうだ。この頃、まるで変って来た自分の将来に対して、先んじられる人が一人でも多ければ多いほど、自分の力の乏しいことをなさけなく思わずには居られない。
私の英国行もたしかになって来た。
この上はただ自分の力がつき次第であると思うと、輝かしさに添うた不安や責任がきびしく自分をせめる。
七月九日
(日曜)七月十日
(月曜)七月十一日
(火曜)母上は、二百部なり百部なりのものを持ってやると云ってくれるのを待って居るのじゃあないかとおっしゃるがそんなこともあるまい。
そんなにして出してもらわずとあんな雑誌ならおしくはない。
夕方高橋夫人が来る。何だかやせて、おっかさんらしくなって来た。
一人の子供をそだてるために、母親がどれ丈苦労をするのか。
あんなに睡眠不足で、気苦労をして、それでろくに頭は育たないのだと思うと気の毒になり、女の天職も
七月十二日
(水曜)七月十四日
(金曜)十日ほどの間をもらう。
一度ことわって置いてどうしたのかよく分らないが先ずのるとすればうれしい。
けれどもまだ分らないのはいやである。
明日法事でいそがしい。
行くのはやめにする。十日で書かなければならないのは少しいそがしい。あまりこまかく書きすぎて居ると云うのが欠点で、終りの方にもう少し自己を表わし、始めに自分の説明を入れろと云うことである。
七月十五日
(土曜)七月二十四日
(月曜)午後になってからお茶水の卒業生だと云う『日日新聞』の記者が電話で話をききたいと云って来る。私には分らないので母上が夜に来いと云ておやりなさる。大抵話のすんだころ会って見る。なかなかどうしてしゃべれもするのをだまっておとなしそうに見せて居るらしい様子をして居るのがいやである。
こっちでも婦人記者と云う目で見るせいかもしれないがたしかに或る臭気を持って居る。中公の瀧田さんから聞いたと云って来た。監見満と云う人である。あの
七月二十五日
(火曜)御玄関に立って居ると、何か読んでいらっしゃる先生の御声が高く聞えて来る。夜九時頃かえる。二葉亭四迷が三年もかかって「浮雲」を書いたときの御話をなさる。それで自分は小説を書くのをやめてしまったとおっしゃる。若いうちは、馬鹿に書くのが早かったが、年をとって段々考えが深くなってくるとおそくなるとおっしゃった。もう立派な作はもうずっと立ってから出来ると思えとしきりにおっしゃった。
七月二十六日
(水曜)瀧田さん自身出て来られたと云う。二三日立ってから返事をする。八月九日が〆切だと云うことであった。もうどんなに苦しんでも九日までだからと思う。
新聞の予告でも見てから安積に行くことに仕よう。『日日』に自分の事が出て居る。別にうれしくもなかった。まして父上の学号なんかが違って居るのを見ると、自分のこととは遠いことのように思われる。この頃になって洋行の話がしきりに出て居る。それはもう確定したこととして話されて居る。とにかくもう二三年の間の様子を見てからと云うことになって、学校の方も選科にしなければならない。九月にならないうちに
七月二十七日
(木曜)古市氏より
蜷川、古市、高嶺氏へ
午前中漢文先生、最中に高嶺さんから電話でおまねき、午後から行く。肩上げを下ろしたりしてあるのですっかり大きく見える。久しぶりでピアノをきく。なかなか上手になって居る。けれどもあの部屋がものは好いのに何だか一致してすべてが互に fit して居ないのであまり好い感じがしない。故母君の御書きなすったと云う英語の手紙を見せてもらう。字も達者だしなかなか自由に書いてある。鹿鳴館時代の産物であろう。夜古市氏から御祝を云って下さる。すっかり学校時代と違った字を書いて居るのを見ると、私ばっかり折釘を並べて居るなあと思う。夜蜷川、高嶺、古市氏へ手紙を書き少しゴーリキーの「懺悔」をよむ。
友達の誰彼れを書きたい一句が浮んで居るがもう少し condense を要す。
七月二十八日
(金曜)夜客室の庭をながめた。雨にしずかにぬれた苔と、光る木の葉と、ザワめく風とが、よく調和されて美くしい感じを与えた。初代柿右衛門の香炉は私でもいいのが分る。今の一部の人の求めて居る、ある大きなものがふくまれてある縁であることを感じる。
七月二十九日
(土曜)蜷川氏より、成井氏より 成井先生、千葉先生へ
午後になってから中西屋と東京堂へ行く。Childhood, Boyhood and Youth by Lev Tolstoi と The House of the dead by Dostoevskii と『蒲団』を買って来る。「蒲団」は立派には相違ないけれども今の同氏の作品を見ると、少なからずおとって見えるのはあやまりか?「一兵卒」はもう少し深くかわるところであろう。ロシヤの作品は、これと同じ材料をとりあつかって居ても、もっと深い。馬車にのせられないところなども、私はもっと書きたいと思う。ひどい嵐の夜、外へ立って見る、種々な心持になってスケッチを一つかく。氏家氏来訪、あの位の年になって妻を失った人の心持を考える。七月三十日
(日曜)七月三十一日
(月曜)今日『中央公論』を買って来てかざる。最後のところに出て居る自分の名と作品の題とが、すべてよその人のものの様に思われる。さほどうれしくもない様な気がする。けれどもうれしくないのではない。或る一つの力が私のうれしさをどこかで押えつけて居る。
四月に学校を卒業したと云うことはたしかに一般的に女達――私共位の女にとって意味のある月だったのだろう。けれども私は送り出されるままに学校を出た。さほどのうれしさもよろこばしさも感じはしなかった。けれども今度私の処女作が『中央公論』に出るときまったと云うことは私の生涯のうちで最も意味のあることである。私のほんとの生活はこれから始まろうとして居る。私の光輝ある生活は、私をそしり、あなどり、或意味に於ては自分達の仲間として共にしなかった愚かな者共の前に始められようとして居のだ、私の戦は始まろうとして居る。私は勇気に満たされて居る。私の鼓動よ! たしかにつよくなれ! 私の頭よ! 強く勇ましく、かしこく働いてくれ。私はこの世界に、自分の誕生日が如何に誇るべきものであるかと云うことを示さなければならない。
一日 「一條の繩」十四枚
二日 「盗難」、十七枚
十二日 中公から原稿は雑誌向きでないからとことわって来る。
十四日 瀧田氏来訪中公へのせるかもしれないから百五十枚ほどにしてくれと云ってくる。
十五日 祖先の法事にて、午前坪内先生へ行く。中公からいよいよ秋のにのせると云って来る、うれしい。
二十四日 『日日新聞』の人が来て、記事をとって行く。
二十五日 書きあがったので夜坪内先生へお目にかけに行く。
二十六日 原稿を間宮にもたせてやる。
この日の『日日新聞』に出て居る。
二十七日 高嶺氏へ行き古市氏から祝をたくされる。
三十一日 『中央公論』八月号に、自分の名と題と紙数がのって居た。
八月一日
(火曜)大橋まで行って見る。大きないかりが下りて鳶のものや巡査が立ち、人も大勢行ったり来たりして場末の特殊などよめきを作って居る。
夜父上が雑誌が出来たらあげるところを紙にかきつけて
八月二日
(水曜)夕餐は皮膚科の医者と一緒に自笑軒でなさった。S家系統の人にはどうしても Flank に行かないところが多いと思わずには居られない。「戦争と平和」を沢山よむ。そして感服し感激し、驚ろかされた。ますますトルストイは偉く思われて来るばかりである。あれ丈にどうして書けたのだろう? 同じ人間とは云え、私のどこかにあれ丈の力がこもって居るだろうか? そう思うと、この間の日曜附録にあった武者小路さんの言葉、――一つかべにぶつかるとそれを通って又次の壁を見出す人間にほんとうに自分がなれるであろうか疑問が苦しく起る、若しそうでないかと思うと、こうやって生きて居る意味が分らなくなって来る。私の生の目標は失われる。故にどうしても私はそう努めてもあらせなければならない。
八月三日
(木曜)八月四日
(金曜)同じ古本屋でも、人の好さそうな主人が居ると、つい買いたい気がするが、買っても買わなくっても手前の勝手だと云う様な風をした主人が居ると、買いたいものがあってもつい買わないで通ってしまう。
小僧の中でも感じの好いのを使うと使わないとには大した違いがある。
八月五日
(土曜)八月六日
(日曜)八月七日
(月曜)八月八日
(火曜)八月十日
(木曜)夜かりて来た風呂敷に『リヤ王』と、『空知川の岸辺』をかえす。『リヤ王』は沙翁全集を買ったので二冊になったから送ってあげる。
あの先生の訳は矢張り或点に於て意に満たない所が多い。それかと云って、久米氏の訳もなんだかそぐわない気もするが。
八月十二日
(土曜)八月十三日
(日曜)八月十四日
(月曜)八月十五日
(火曜)八月十六日
(水曜)石川先生の所へは、どうしても通り一ぺんの時候見舞ほかかけない。手紙でも何でも、そのあげる人によって書けたりかけなかったりするものだ。祖母や高村の婆[#祖母運の家の隣人]が、『読売』の「天一坊」を一生懸命によんで、ほんとうに悪智恵たけた男だとか何とか真面目な顔で話し合って居る。
刺戟がなさすぎて、却って不安な様な心持になって来た。
八月十七日
(木曜)久米氏に対してもお互に静かな友愛で交って行きたいともつくづく思う。あれ丈の材のゆたかな人に、いくらかでもつきあえる機会はありながらつき合わないで居ると云うことも辛いけれども、こそっと会ったりしなくなった――出来なくなった自分の心に対して、ある安心も感じる。執拗なH[#本田道之]は、どこまで私について来るつもりなのか、あの人の「弱者の専横」(久米氏の言葉)はどこまで私を苦しめるつもりなのか、あの人の価値は段々下って来る。
八月十八日
(金曜)八月十九日
(土曜)八月二十日
(日曜)八月二十一日
(月曜)夜中に大地震があって喫驚した。宿の女房が裸体で
入日の景色と水浴する馬の群、渚で顔を洗った心持が非常によかった。
八月二十二日
(火曜)八月二十三日
(水曜)八月二十四日
(木曜)八月二十五日
(金曜)八月二十六日
(土曜)八月二十七日
(日曜)八月二十八日
(月曜)八月二十九日
(火曜)午後から何だか気分が悪くてたまらない。どうしたのかと思って床に居ると、急にはきけがついて、もどしてしまった。胸の底から出されるような涙にかすんだ目を透して、窓から青い木の葉が妙にキラキラして居る。コレラが盛なのですっかり気になって来る。でもまあ安積に居るときでなくてどの位よかったか分らない。夜細井氏に見てもらう。何でもないそうだが一寸寒気がしたりしたので、又一昨年のようになりはしまいかと思うと、たまらなく不安になる。しなければならないことはうんとある。
八月三十日
(水曜)八月三十一日
(木曜)私の第二の誕生日であり、命名の日である。
私の第二の誕生の月と私は呼びたい。
この月のいかに意味深く尊いことであろう。私の希望と、歓喜と、不安、責任の感が、のこりなく盛りあげられたのはこの月なのである。私が死ぬときは八月の中ではあるまいか。私はこの真に私の生活の始まった月が又全生活の幕の閉じられる月たらしめて、何の遺憾も感じないほどこの月は尊いものである。
太陽の栄ゆる八月。私の生命の燃え立った八月。
二日 千葉先生より大変長く立派なお手紙をいただいた。
六日 坪内先生へ行く。種々のお話を伺い、中央公論から電話で十日までに見て置いて、十一日に会いたいと云って来る。斉藤さんと云う人から電話がかかって来たそうだ。
八日 千葉先生へ行く。坂本氏から手紙。
十二日 瀧田氏から手紙が来る。来られない、明日午前八時から八時半までの間に社に電話をかけてもらい来てもらうかもしれないと云って来る。同じ日小寺氏から電話でお目出とうとひやかし。
十二日 『国民新聞』の吉田□ 子氏から電話、写真を送る。
十三日 あのまま、少し瀧田さんが手を入れてなおして、そのまま出すときまり、正午十五分すぎ安積へ出発。
二十一日 猪苗代行、二十四日帰京 二十五日―二日間宮、こう駆落ちす。
二十七日 「彼方に遠く」起稿、三十日夕刊に予告出、三十一日発行、諸々へ送る。
九月一日
(金曜)九月二日
(土曜)九月三日
(日曜)一日何も食べずに被居っしゃる。お雪も工合が悪いと云って来ないので大騒動になる。それでもどうやらこなして三度の御飯も止りなく食べさせたかわりにつかれてしまった。夜になっても日記一つ書けない。働くとどうしても気が落付かない。父上も一日家に被居しゃる。床のわきで退屈まぎれに百五十円の使道を考えて、直に決定した。下らない事だが来年になって見ると、興味あることになる。
50貯 15御馳走 7人 2, 下の者へ 6円千葉小此木先生 9. brothers 10予備 50本
九月四日
(月曜)夜、『新訳源氏』と、『三人』ゴーリキーを買って来る。英男へ一円五十銭の fountain pen をかい国男へ三円道男へ二円五十銭やる。
間宮から母上を悪人に仕ようとする手紙を父上によこした。読んで見ると怒るとか怒らないとかの程度をこえて、罪に混乱しそれを掩おうとする人間のあわれな、しどろもどろの姿ばかりを見出せた。人の心理は恐ろしいものである。カメレオンよりも変化し醜くなり得る。
中央公論から原稿を返して来る。上にケシのカットなどかいてあるのが面白く思われる。
九月五日
(火曜)九月六日
(水曜)九月七日
(木曜)九月八日
(金曜)九月九日
(土曜)九月十日
(日曜)
「鈍色の夢」はどうしてもツルゲネフの影響をうけるらしい。とくに潔の形が非常に頭に描かれて居る。どうにかして好いのが書きたいと思う。『美術週報』に好い批評が出て居た。
九月十一日
(月曜)神官は余り力がありすぎる。或る意味に於ては相場師の様な人だもんで、位置があやうくなって居る。神官は安積の宮本さんの様な人でなければ神官はつとまらない。あの眼鏡からして神官ではない。「我輩は猫」を読む。どうも今の夏目さんの作品から見るとまるで違う。迷亭の駄語にはあきも来るし、又あんまり皮相すぎるようでもある。すべてのことを皮肉に茶化して居るところにあきを感じさせられる。とにかくまだある拘泥したところがある。今ほど心持よくないものである。お雪は何と云ってもああ云う稼業をして来た丈あって異性に対すると、非常に passionate になって来る。
山尾がついそこで、間宮に会ったと云う。あれもつまりは馬鹿な男と云うのだ。
九月十二日
(火曜)九月十三日
(水曜)夜、清野暢一郎氏より来信、あんまり真率に親切に書いて下さったので、すまないような心持になった。ドストイェフスキーをよんで見ろとまで云ってある。千葉先生の経験的人生と、生物学
九月十四日
(木曜)明日より無名会
午後院展を見に行く。七夕は好い胚種を持って居るから一息の所、貧者の一燈は題名にまける。盆おどりは女性的、朝ぎり、砂丘、南島はよかった。樗牛会の賞を得た川端龍子の霊泉由来は分らなかったが西洋画で、今関啓司氏の風景には、日本画の影響をうけたらしい特色を見出せた。乳しぼる家は、うまくはないが、色調に共鳴を感じる。業火と寂光の都は私の心持にはうつらない。彫刻では泣く子の顔を一刀ぼりにして、筋肉の movement を想像させられ、鐘はあんまり技巧的すぎる。ああ云うのはこのまない。眼は非常によかった。あの姿が忘られない。春風九月十五日
(金曜)明日午後十二時半までに小此木先生
『日出新聞』の石井幸平と云う人が来たが、会わなかった。すりつけた眉をしきりに指でさわって居るそうだ。千葉、坪内両先生、古市氏より手紙、又雨が上ってあつくなったので何も出来ないような気がする。聖フランシスの「小さき花」を少しよむ。非常に心持のよいものである。その極度の謙譲は、私にはよく分らないけれどもあるなぐさめは得られる。夜は何と云っても涼しくなって来た。「鈍色の夢」に関して少し考える。千葉先生のところへ御返事をあげたいと思ったけれども、十七日午前に坪内先生のところへあがるのに、少しは考えもまとめて置きたいと思うので何だか落付けない、題も「鈍色の夢」は何だか虚無的でいけないから「彼方に遠く」としようかしらんとも思う。九月十六日
(土曜)明日午前坪内先生九月十七日
(日曜)一、非常にアンビシャスなもので、勇気をもってやって見れば立派に出来れば大したものだ。
二、庸の助を現在的に出すこと、浩の対照として、お咲を働かせ、おらくをいかせる。
三、孝の進の履歴をもっとよくして、浩に遺伝的好い気持のある様にすること。
四、浩の境遇よりうけたる精神上の変化並びに異性に対しての心持を出すこと。
五、主要人物事件以外をなるたけぼかすこと。
めずらしくHが来る。相変らず dull な顔をして、気力のないこと甚しい。何だか心持がどうしてもしっくりしなかった。あのまんま
九月十八日
(月曜)明日午後七時まで小此木先生
『死人の家』と、『死後は如何』を云いつけてやる。あついので買いに行くのも、おっくうである。 Cranford を少しよんで、主な人物をこまかく書いて見る。お咲の容貌がどうしても明かに目に浮んで来ぬので、気になって居る。どこかへ行って見よう。モデルの顔はあんまりみっともなさすぎて、遺伝的に好い家だなどとはどうしても思われないのである。夕方直行さんが来る。大変ふけて見える。体つきが松岡さんに似て居て、口の表情がFに似て居るので非常に不愉快だった。髪の毛は好い。頭もかなり好いらしいけれども、どこかに自我のはっきりしないところがありそうだ。どっしりしたところがないと思われる。夜芝居の話や何かが出る。無名会の「罪と罰」もコレラがこわくて行けそうにもない。又何んぼ芝居が見たくてもコレラ奴にとってころされるのも下九月十九日
(火曜)九月二十日
(水曜)九月二十一日
(木曜)九月二十二日
(金曜)九月二十三日
(土曜)九月二十四日
(日曜)○
九月二十五日
(月曜)聖マリア館へ行く。ミスボイドは学校で見るより、家で見た方がどれほど好いか分らない。白い着物に黒いリボンのバンドが美くしかった。別にこまりもしなかった。金曜の一時半から独りの会話をしてもらうことになった。ウーレーは、早口な幾分遠慮をして居るらしい可愛い人である。皆感じの好い人ばかりだ。The prisoner of Zenda を読むと云うので買いに行く――中西まで行ったがなくて、ストリンドベルイの『痴人の懺悔』を買って来た。さほど面白くもなかった。訳が悪いのだろう。夜千葉先生へ御手紙をかき文科会雑誌をのぞいたほかのを皆御返しする。御祖母上様が家へいらっしゃるとき門に車がぶつかってひっくり返ったと云うので、家中大さわぎをし、父様は門を早くなおさないから悪いのだと云うことで、母様から小言を云われて被居しゃった。Prisoner of Zenda を少しよむ。かなり面白いものだ。
九月二十六日
(火曜)明日小此木先生、四時より
十一時少し前に聖マリア館へ行き一時間して来る。又かなり暑くなった。タッドと云う人の顔の表情は大変千葉先生によく似て居て何となしうれしかった。どっちかと云えば、重苦しいような肉感的だとも云える顔立ちであったが、声と言葉は、ほかのどの人より、若い子供らしさのある調子であった。リネンのよく洗いたてた着物が、あんまりちゃんとしすぎて居るので体がぎこちなかろうと云うような感じを与えられた。電車で幸田さんに会った。かえりに白山のところで、未明さんの『底の社会へ』と、『硝子戸の中より』と、『お光壮吉』(小剣氏)を買って来る。上司氏の皮肉はお光壮吉時代にはまだ、さのみ遊んで居ると云う気を起させない。未明氏はいつよんでも同じ様な色調ではあるが、真率なところがある。「硝子戸の中より」はまだよまない。ほんとうに未明さんのをよむとロマンティック派の一種の気分もみなぎって居るところがわかる。上司氏よりたしかに正直に、あの方の顔の恰好のように世の中を見て行きなさる方だろう。九月二十七日
(水曜)九月二十八日
(木曜)明日一時半より会話
明日美音会
大変寒くなって私の頭はよほど工合がよくなった。『女の世界』から結婚号を出すについてと云って、いろんなことをきいて来る。千葉先生からお葉書、高嶺氏より手紙来。私が洋行したとてしなくたてあの人にはどうでもあるまいに、やんやと云われてはたまらないと云う感じがする。九月二十九日
(金曜)九月三十日
(土曜)種々な意味で私には尊い一月であった。外からの刺戟は勿論生れて始めてな位強い有様ではあったれど、心と体は、三月ほど前からたまって居た疲れを休めにいそがしかったのだ。
漸々秋らしくなって来たこのごろ残暑がきびしかったので長い暑さに幾分つかれきった心持が快くひきしめられて行く。それにつれて、こないだ中からかるく起って来て居た種々な疑問や何かが一層はっきり具体的になって来たような感じも得て居る。
正月のものの構想やなにかで、下旬はかなり頭をつかった。けれどもこれから三月の間のことを思うとたまらなくうれしくなる。
夜は長くなる。火は美くしくなり、頭は透明になって来る。少し寒い位の晩静かに考え、書くことの出来ることを思う。けれども、私の絶えざる恐れ、不安は、自分に真の芸術家たるべき態度心の準備が具わって居るかと云うことである。冷やかな夕風にふかれながら、そう云う種類の内省にふけると、自分は小さい可哀そうな自分を見出すばかりである。勿論失望はしない。努力をしようとする決心はどこまでもあり、相当にみとめられて居ることもよろこびはする。けれども、これがそうであればあるほど私は、自分の真率さの失われないことばかりのぞむ。
二日 中央公論より百五十円持って来た。
四日 時事新報からとして邦枝完二氏来訪写真をとって行く。
五日 今日の『時事』にのって居る。瀧田氏来訪自分のが大変に評判よきよし。
『中央公論』は、千部再版し、又三版になりそうだとのこと。
正月号への百―百五十枚をたのまれる。
六日 『趣味の友』の原稿をたのまれるが断ることにした。
十日 三越へ写真をとりに行き Japan magazine へ送る。
十三日 華子の三年祭を与 行す。
十七日 正月号への作品の準備に着手。
二十一日 オランダ書房より単行本にとの話ありことわる。
二十三日 読売の下妻つまと云う記者が来た。
二十五日 Miss Boyd のところへ行きはじめる。
二十九日 美音会
三十日 帝劇へ行き、「アンナ・カレニナ」を見て来る。
十月一日
(日曜)英作文宿題アリ。
徳岡の道っちゃんが来る。髪を長くしたりしてすっかり旦那ぶって居る。二十日に結婚するのだそうだ。どことはなし幸福らしく見えては居たけれども、あんなにつかれて弱って、結婚したら却って死期を早めるようなものだ。妻になる人は二十で体が丈夫で肥って居るそうだ、そうすれば、ある時期が来るとお互に或る不満を感じはじめて来るのは定である。それに前から恋仲であったらしいから、あとの失望は苦悶はかなり大きなものに違いない。私は又新らしい芝居の開場を待って居るような気がする。今日は一日気が沈んでどうにも出来なかった。月曜の英作文も出来上らず、たまらなくなってしまった。このごろHの来ない心持は私によく分る。気の毒でもあり、又私としては非常に楽な感じがする。私共は人間の弱点をのこりなく持って居ると同時に強味もすっかり持って居る。故に苦痛はいつも私の衷心から去りはしない。十月二日
(月曜)まつおかへ三十円かす
昨夜十一時ごろまで作文にかかって居たが一寸も思ったようには出来なかった。そして漸々床につこうとしたら赤坊が泣き出した。とうとう四時近くまで起きてしまったので、非常に気分が悪かった。鼻の先が赤くうるんで、眼のふちが黒くなって居る。陰気な心持になって一時間だけして来る。かえりに中西へより、和英とフレーズの辞書を買って来る。文房堂によりペンとゴムを買って来る。陰気に雨が降って居る。どうかして「彼方に遠く」を書き出したいが出が生れない。聖マリアへ来る人も皆大抵は大人になったように、一面から云えば、しきりに飾りたてたがって居る人達ばかりなので、私はここでも又異分子めいた感じを人もうけ、自分も与えられる。あんなに円く座って髪をなおしこをする心持になりたいものだと思う。このごろ着て居る紺無地のネルは大変落付いた感じを与えて好い着物だ。十月三日
(火曜)十月四日
(水曜)十月五日
(木曜)stage-coach について作文
赤子さんがいつまでもいつまでもねて居るので、又よるねないだろうと心配した。直行氏は、午後から野本氏を訪ねに行った。漸々雨は上ったけれどもまだ寒く陰気で、頭のためには大変悪い。客間の静かなところに座って居ると、ほんとうに私の年には合わない様々のことを考える。白秋氏の『読売』に出された散文は大変私には好いと思えた。八時すぎまでかかって明日の作文とこの前のをなおしてしまった。頭が大変重くなって不快な心持がする。十月八日
(日曜)明日 hay-maker
十月九日
(月曜)明日母上誕生日
formal invitation十月十日
(火曜)明日四時小此木先生
十月二十九日
(日曜)明日我ドストイェフスキーの誕生日
十日 母上誕生を生れて始めて自分で祝ってあげる。
十四日 「彼方に遠く」を書き出した。どうぞよく出来てくれますように!
十六日 英男大塚のところにて犬にかみつかれ大騒動をしたが、大した事ではなかった。
十七日 紫色のあの皮のがま口をすりにすられた。三円近く入って居たろう。
二十日 道三氏の結婚
十一月二十三日
(木曜)十一月二十四日
(金曜)十一月二十五日
(土曜)十一月二十六日
(日曜)
十一月二十七日
(月曜)十一月二十八日
(火曜)十一月二十九日
(水曜)十一月三十日
(木曜)明日十時半松岡氏□ 立鉱山に出発
十五日 正月号のを坪内先生に見ていただき、いよいよのせるときめる。
「日は輝けり」と云う題
十六日 瀧田氏に返事をする。
十七日 瀧田氏来る。ねて居て会わなかった。
二十五日 「日は輝けり」殆完成
二十六日 千葉先生のところへ行く。
二十七日 『町の兄弟』中島英之助氏(著者)より送り下さる。
十二月六日
(水曜)明日午後三時より作楽館へ
十二月九日
(土曜)十二月十日
(日曜)十二月十一日
(月曜)市次郎と、ふくが一生懸命にやって居る。見るよりやって居る当人が景気がよくて、面白いのだろう。夜市次郎に酒をのませてやる。下らないおしゃべりをして夜ふけてから帰って行った。ごみだらけの、むさい娘が一人ころがって居る中に、ボソボソともぐって行く、まだ若い男の心を思うと、可哀そうになって来る。また嫁を貰うのだそうだ。先にとった嫁は、餅を背負わせて、帰してやって仕舞った。そしてもし妊娠して居れば、当人にきいてその覚えがあれば、俺が引きとると云ってやったそうだ。当人にきいて、覚えがあればと云うのが面白い。
十二月十二日
(火曜)十二月十三日
(水曜)夜とまらせる。久し振りで一時過まで種々なことを話し合う。村役場の事件、「かさぶた」と云う村から提起した訴訟事件、それにともなう村の事件が大変面白いと思われた。大変御みよさんは美くしい、成熟した女になった。胸のあたりや膝を見て居ると、今にもムズムズに動き出して来るようにそう思われた。
十二月十四日
(木曜)夜高村の婆さんが仕事を持って来る。
十二月十五日
(金曜)十二月十六日
(土曜)十二月十七日
(日曜)十二月十八日
(月曜)いくと一緒に町を一廻りして来る。到るところにきれいな水が流れて、もうざっと十年程前にとまった和久屋は、今とまれない程きたなく見える。次第に町が栄えるにつれて淘汰が激しくなって来る。だんだん影をかくす宿屋も多かろうと思う。今まで居た部屋は寒いので、三階の日あたりのいいところへ引きこした。
十二月十九日
(火曜)十二月二十日
(水曜)十二月二十三日
(土曜)夜石井へ行く。有江のことや、何かをしきりに話す。徳馬鹿が色情狂になって、あの交番のわきに監禁してあるのだそうだ。一寸もしらなかったが気味がわるい。提灯の周囲丈ほか見えない灯で、ふけた夜道をあるくことがたまらない心持がした。徳馬鹿なども、時代の犠牲者だ。
十二月二十四日
(日曜)お湯のよくわいて居たのが大変うれしい。
すえ子は大そう大きくなって、いいお嬢ちゃんになって居る。
二日 百一枚丈瀧田氏に渡す。
七日 作楽会へ千葉先生を中心とした会がある、出席。
五日 百四十五枚まで渡す。
五日 全部脱稿、百七十二枚となる。
六日 坂本に持たせてやる。
七日 瀧田氏来訪、庸之助が心機一転のところと、最後をなおす。
八日 すっかり出来上り持たせてやる。
九日 安積へ来る。午後六時五十分夏目漱石先生死去せらる。
十一日 夏目漱石氏逝去、発表。
十五日 御祖母様と飯坂角屋へ来る。十九日安積へ帰って来る。
[#改ページ]〔単位厘〕
月日 摘要 収入 支出3 29 原稿紙四百枚 880
〃 万年筆インク一瓶 300
〃 半紙一帖 080
卒業祝 5 500
人及芸術家としての ┐
ト翁並ドストイェフスキー│
貧民心理研究 │ 5 450
後ニ来ルモノニ │
伯父ノ夢 ┘
受験料 1 500
入学金 2 000
Fine stories 300
徒然草 250
授業校費 12 000
The story of the world
note
pencil
grammer
150 000
兄弟へ 10 000
本 15 000
坪内先生 10 000
本 5 000
56 000
源氏新やく 210
9 8 春 60
〃 ドンキホーテ 2 500
〃 心霊学講話 380
〃 金剛草 1 000
〃 小さき泉 720
〃 聖フランシスの小さき花 1 000
〃 ベエトウベンとミレエ 1 080
9 10 我輩は猫である
1 200
9 16 Cranford 550
〃 行人 1 150
〃 罪と罰 1 330
9 19 ユーモア十篇 720
9 18 死人の家 1 100
11 11 死後は如何 1 000
9 25 痴人の懺悔 1 400
9 26 ガラス戸の内 300
9 26 お光壮吉 550
〃 底の社会へ 500
9 29 二葉亭四迷 600
〃 椿姫 400
〃 The prisoner of Zenda 350
9 000
to brother 国 3 000
道 2 500
英 1 500
7 000
道 300
坪内先生へ 10 000
おゆき 1 000
帝劇 3 000
10 2 和英字書 1 200
〃 フレーズ字書 680
〃 ペン ゴム 260
10 4 吸取紙、赤エンピツ 230
10 6 トルストイ研究(文世) 570