日記

一九二一年(大正十年)

宮本百合子




〔一月予記表〕

「黄銅時代」第一完成

一月一日

(土曜)晴 寒
 昨日夕方の六時頃漸々ようよう自分は此丈は間違わずにやってしまい度いと思って居た、「黄銅時代」の第一部の初稿を終った。
 百六十枚ほどに成り、厚くどっしりと机にのって居るのを見ると、心がよろこびで跳った。よい来年の首途。其から林町へお年越しに行き、夕飯を御馳走になってから十二時過に帰った。
 昨日の朝から降り積った雪が、夜が更けるにつれて凍り、如何にも江戸の情調をしのばせる除夜であった。家に帰っても、自分は亢奮して眠れなかった。疲れすぎたのか、よろこびで目がさえてしまったのか、眠ろう眠ろうとし乍ら、一睡もせずに床を離れた。よい元日! 自分達が一緒の家で二人限りで迎えた、最初の元日である。屋根屋根の雪を輝やかせ乍ら、次第に輝きの面積を拡げて漂って来る朝の日光は非常に美しかった。Aは、夜になってから、タイプライターを打ち、自分は不眠の疲れで、まとまったことは出来なかった。

一月二日

(日曜)寒
 何故日本人は正月を斯う幾日も遊び暮すのだろうか。外界の遊楽気分が自分迄を誘惑する。二人で丈居れば時を忘れ、行事を忘れて仕事に熱中する。然し林町へ行くと、もう危くなる。笹川春雄氏が兵営から来ると云うので、しきりに誘われる。自分も一寸気を引かれる……然し、仕事を思うと離れられない、もう二十三なのだ、二十三! 遊んでは居られない。自分は到頭心を決して遊びに行くことは止めにした。何でもない小さい事なのである。けれども、自分の心の持方に対しては大きな試みであった。小さい気の毒や調子の悪さを超越しなければ、大きな仕事は出来っこないだろう、
「黄銅時代」の第壱を書なおしに着手、
 島田清次郎氏より来賀、あの若さで、あれ丈俗なのは何故か、自分の広告並年賀は自分に非常にいやな印象を与えた。

一月三日

(月曜)晴 寒
 一、二日の『時事』、当選短篇、「脂粉の顔」、「秋の日?」(八木東作)此の二つの作品を通して選者が現れて居るから面白い。
 投書、当選ということは、真個ほんとの芸術家に成ろうとするものにとってよい事か? 或はよくないことか? 岡田三郎氏は、まだ投書家的臭味を持って居る。
 三十一日の夜まったく睡れなかって以来、どうも頭がよくない。昨夜もよく眠れず、工合が悪いので林町へ行った。大瀧の基ちゃん[#大瀧基、大瀧鷹子の長男、百合子の従弟]が来て居、彼が飛行家に成り度いということから、母と私と彼と三人の間に種々の話が出た。親は、自分の子並、自分の名声のために、或場合、種々の冒険的事業をさせる決心をし得る、然し、伯母とか何とかいう位地に成ると、自分の家族制度的の感情から「私の生きて居るうちはさせられない」等と云うのだ。母の老いたことを思う。彼女は、私を愛するが故に、Aの愛をいつも私の其よりも軽少だと思って居る。
〔欄外に〕昨夜自分は非常に亢奮してサムガアーし、眠れなくなり、今日疲れを感じる。

一月四日

(火曜)
 昨日有尾氏の借家を見た。間取りは悪からず。かえってAに相談したが、あまり近すぎて駄目だろうということ、つまり先の夏のように、いつも二人の間にさしはさまるものがあるのはいやだというのである。自分も、其点では同感である。然し、自分が傍へ来ると思ってよろこんだ母を思うと気の毒に成る。愛の強い母と良人とは娘、妻、に対して、同じような独専慾を持つ。其ために娘は苦しむ。
 雨催いのはっきりしない日である。Aは歯が痛むそうだし、自分は頭の工合が依然としてよろしくない、啓明会の本のキャタログの価を見ようとして、丸善へ行く、其はなく、自分が Gals-worthy:“Tatter Demalion”と Winston Churchill の“A Far Country”とを買って来る。帰りからずっと気分が悪く、夕食はすっかりAに仕ていただいた。自分には餅や何かが悪いのだろうか
〔欄外に〕日本人は、何故夫婦が「自分達」と云う感情で生きて居ないのだろう。私共が二人名前であげた年賀に対して、大抵の処は良人の名ほかない。

一月五日

(水曜)快晴
 久しぶりの快晴である。天気がよいと、心まではっきりと引立つ。今日は昨夜熟睡したためか、頭の工合が可成よい。
「黄銅時代」、(一)(一)終り、
 自分自身の表現を持つことの至難、

一月六日

(木曜)
 午後から林町へ行く。風呂へ入るつもりであった。行くと、国男と母上とが又衝突で、私を迎に寄来した処だと云う。ああ云う感情的な、母としての権利を何処迄も主張しようとする女性の怒りや悲しみと云うものは、愛が一旦拒絶されると、思慮を失った烈しさで狂うものらしい。自分は母上が、丁度来た下島と祖母とを前に置いて、貴方が居るなんかは知らずに此那家へ嫁に来たのから間違って居た、と云うような毒舌を振うのを、淋しい心で見て居た。激しい事を云い、はげしく泣き、そして機嫌はなおってしまうのだ。「此那家へ来なかったら」と云うようなことは、彼那に雑作なく或程度までは出まかせに云えるものなのか? と云うことの出来るのは、女性の不幸であり良人の不幸である。そうなっては泣く以上で嘲る以上だ。母は、子を熱愛される。然し、いつも子の報恩と感謝とのうちにつぐのいを見出すので自分のこころのためにするのではなく見える。其故彼女は、子供に生命の全部を支配され、支配しようとするのだ。

一月七日

(金曜)晴
 今日はAが Book list を啓明会へ持って行く日なり。彼が先に出かけ、自分はあとから行く。小一時間おくれて行ったのに、海上の前には彼の姿も見えない。暫く待って居てから、若しおそく来すぎたので、かえったのではないかと思って、下の爺に彼の出て来るのを見なかったかをきくと、彼は、ちっとも考えたり思い出そうとしたりする努力はしないで言下に分りませんねと云う。そして女の方ですかと云う。左様じゃあない、と云うと、それなら上ってきいて御覧なさい、何上りはしまい、と云う言意で云う。かまわず上って行くと、まだ笹森氏は来て居られないのだそうだ。事ムの人に書類を渡して、同じ戸口から出る。爺は始めて分ったような顔をした。人情の微妙さ。
 浅草へ行こうとして、中央ステーションの近く迄来ると、和服の、やせた、細長い鼻をした人に会う。其が笹森氏だった。又三人で引返し、二時間ほど話す。ああ云う補助金の支出などと云う場合、理事達が如何に功利主義、それも狭い日本の現代の生活と云うものに功利的であるかと(ママ)その事が驚かれる。私なら比較言語学は、言語学のために必要でありその結果は学のために重大である、と云うことで努力するつもりにもなり価値も認める。然しそう云う人達は、其が日本のためにどうなるかと云うことで解決されなければいやなのだ。
 浅草、七草だと云うことを忘れて行ったが大変な人だ。
 かえる頃には、六区の中は漸々歩く位、仲店から傍に切れた小路などには香具師や、妙な飲食店が並んで居る。すっかり四辺が暗く成って前方活動俳優の写真を売って居る店の傍に出来たサーカスの馬が幾匹もくいにつながれ、しょんぼりとして居たのが目についた。
 芸術のための芸術と云う人と、人生のための芸術と云う人。宇野浩二氏の若山牧水氏作品評、評の適不適より、宇野氏のヘラヘラの他の一面、其処では、一種の人間的な敬虔の現れて居る快さを味った。彼も芥川氏の評した淋しきピエロか。○今日は、頭がひどくよい。有難いことだ。
「黄銅時代」の第(一)をすっかり書なおし、(二)の半迄書く。

一月九日

(日曜)晴
 松野喜内氏来る。ひどく小心な、神経質な人だ。然し段々話して居るうちに、彼の真剣な人であることが分った。真剣なところのある人間は頼しい。石井孫一などは、まるで仕事が異って居ても尚人としての面白さがある。其が大切なのだ。
 英男が、夕方から一寸来、例によって早口で、沢山のことを喋って行った。あの時分の子供の頭は面白い、複雑さと単純さがひどくごちゃまぜになって居る。浜名湖の常盤館で出した菓子は飾が気取って居て奇麗だが真個に食べられるのは、たった羊かん一切なのさと云うようなことを云うかと思うと急に、光線は硝子を透す時屈曲するって云うやね、だけれど、姉ちゃん変じゃあない? と云って、厚い硝子と薄い硝子の場合はどうだなどと云い出す。面白い。生毛が小さい小さい柔かく、もみ上げから衿元、頬にかけてうずまきに生えて居る。

一月十日

(月曜)晴
 昨夜どうかして眠られず。不思議なこと、私共のような結婚をしたものは、友達に二人の仲のよいことを賞められ祝されると、一層新たな愛や亢奮を互に感じるものだと見える。
 自分は、まだ結婚しない時代に戻ったような、胸の緊められるようないとしさを感じた。彼もそうであるらしい。
 五時頃起きて、シューボツをのみ、少しものを食べて十二時頃迄睡ったので起きたら非常に爽快であった。
「黄銅時代」の(一)をよみなおし、どうも気に入らず、一気かせいに書いて、もううごかないものをこしらえた。段々に、よくなり、自分の感じる不満に信頼が置けるのはありがたい。よく見えるように、よくよく見えるように!
 夜林町で笹川氏の一家、瀬沼、金重さんを食事に、国男が呼ぶ。笹川の達所氏はいけない。ああ所謂米国通は臭い。
 今日林町へ行きに有尾氏に会い、家をことわる。感じがよい男性的な人だ。ちっとも、ヘラヘラと滑る処のないのを見るのは快い。
 ×裏の家へ老祖母が入らぬので、私共を入れてもよい、と云う意向があるらしい。然し便利と面倒な感情的のいきさつとを比較して自分は行くまいとした意志を説明して置いた。
 ×おばあさんは、青黄い小さい顔をして独りぼっちで淋しそうに見える。死のうとする前に遺された僅の人生は、彼女にとってあれでは余り気のどくに思える。一人一人の生活、死、……。
 ×浜田茂次郎氏から来信、東京に来ようかと云う。大いによろしいと思う。あの人は、素質に於て、何処か薄弱な処があるように思われる。旺んな生活慾を持った人は、ああ云う人生の見方では一日も安んじては居られないだろう。もっと大胆に、もっと強く、もっと切実に生活を見なければいけない。

一月十一日

(火曜)
「黄銅時代」(二)終り(三)の半迄。
 今日は思いがけない事のあった日だ。Aが明治からのかえりに電車に跳ねとばされたと云ってまるで泥鼠のように成って帰って来た。始め自分は何だか訳が分らなかった程驚いた。明治で誰かに会い、其人が面会したいと云うので日をきめ、其人のことを考えながら、あとで考えると、何を考えて居たのだか分らないが、ひどく熱中して考え乍ら、電車道を歩いて居た処を後からすくわれて夢中でころがりとび起きてから始めて、電車につきとばされたのを知ったのだそうだ。危い! アクシデントはそう云う妙な、アブセントマインドの時に起るのだ。何にしろ泥になり、あっちこっち少し痛い位ですんだのは大きな感謝である。そう云うアクシデントで即死をする場合、何も死についても意識はないと云うことが確になった。Aは「ペルシア文学近世史」浄書に着手(以下十一日分)

一月十二日

(水曜)
 松屋に行き原稿を買い、しゅうぼつも取って来る。今日は久しぶりでAが学校に行ったので、妙に落付かないいやな心持がした。きのうの今日でもあるからだろう。
 夜、「黄銅時代」の(三)を書いて居ると、どうしたのか急に「手紙」の構想が頭に浮んで来た。母上の手紙と唐沢氏の心持とを一幕物に配したのだ。今に書こう。

一月十三日

(木曜)寒
 今朝起きて見ると、千葉先生からお手紙が来て居るので、いそいで学校に行く。『女性日本人』の四月号に小説をのせるようにとの御話だ。この原因は、暫く途絶えて居、いろいろな人が(一字不明)うこともあるから書いたらいいだろうと云う親切からなのだ。然し今自分は、「黄銅時代」以外の何ににも手をつけたくはない。それで、それがよく出来れば、何にもまさるものであろうと思う。先生の米国行は、先方との意志の異から御やめになったのだそうだ。
 然し、何故先生は今日彼那に身をかわすような、気のない、私から見ると淋しい気分で居られるのだったろう。私は自分の云うことが用談以外一つも深く受入れられないような気がした。自分は少し淋しかった。
 Aのペルシア中世文学は着々と進捗。自分も「黄銅時代」の(三)を漸々幾度も幾度も書なおしてやっと終った。抽象的なことを、具体的な適切な言葉で現わすことのむずかしさ。非常なむずかしさ。只事実の記録はやさしい。しかし書くのは、芸術にするのは至難だ。

一月十六日

(日曜)
 坪内先生が非常に暖い手紙を下さった。うれしく思う。非常にうれしい心持がした。
 ゆっくり書けと云って下さった。
 ゆっくりと、よい、隅々まで念の入ったものを書こう。

一月十七日

(月曜)
 けさおきる時に夢を見た。私が人さえ見れば縊り殺さずには置かない一種の狂人に会って殺された夢なのだ。然し彼那にまざまざと気味の悪い夢を見たことはなかった。その男の、柔かい、脂肪的な手がジリジリと頸をしめる感覚を思い出すとたまらない。
 おびえて起きると、Aにその話をし、なぐさめてもらおうとした処が、どうしたのか、一向相手になって呉れない。自分は、今にもその気違いがやって来そうに思われる。妙な神経的な亢奮で、散々泣いた揚句林町へ逃げて行ってしまった。
 一人で家に居られない程、そう云う気違いが居そうで、今にも来そうに思われたのである。一日居た。そして夜、九時頃、Aに電話をかけて居るのをたしかめてからかえって来た。

一月十八日

(水曜)
 昼間「黄銅時代」のどうしても不満な二をなおした。大変よく成った。先にあったいやな、とげとげした気分はなくなってうれしいと思う。きのう林町に居た時、裏のうちに入れてやってもいいと云うようなことを云われたので、のり気に成り、夜、Aと、フランス語の教師のことで来た基ちゃんと三人で行って見た。ところが、おばあさんがもう引越し、大変満足して居るとのこと。だめになって少し失望した。がしかたがない。かえってから、Aの近代ペルシアをなおす。なおして居るうちに、私が、ふざけて、彼の誤字について横を向いて笑ったと云うので、彼が、自分を馬鹿にして居ると云って怒り出す。自分は非常に亢奮してしまった。前に「好意がなければ出来ないことだ」と云うのまでAは引出して、どうせそうなのだろうと云う。自分は彼のひがみを憤った。此那に愛して居ても、彼はひがんで居、ひがむ心を失い切れずに居るのかと思ったら、失望と恐ろしさで泣かずに居られなくなった。私が激しく泣き乍ら何か云うと、彼は、ヒステリー的な気分で何を云っても其は正当ではないのだと云う。私が泣かなくなったら恐ろしい、其は破滅の時なのだ。彼はどうして、時々ああ云う風に物の真実を見られなくなるか、自分は、すぐ、真個に愛して居るものは、斯うか、と思わずには居られなくなるのだ。そしてその疑は自分を食う。Aも仕舞いに涙をこぼしてしまった。涙をこぼすほど強く感情に訴えなければ、ああ云う時、彼は真個の心持になれないのだろう。床に入ってから、Aにしっかり抱かれて顔を見て居乍ら、自分には不思議な疑いが生じて来た。其は斯うだ。人間の一人の男に、一人の女が此程に執着する……小さい範囲……然し此の熱烈さ……何故? 其程人間は愛を得ずには生活されないのだ。然し、その愛とは何か決して見えるものではない。只信仰によってのみ感じられるものなのだ。貴方を愛す、お前を愛す、然しどうしてその強さと量とを表し得るか、心の恐ろしさ。形で人間が表し得るのには限りがある。愛し合い、たしかに愛し合って居ると信じるものが、時々、断崖に面したように、今まで確実だと思って居た愛を疑う、と……その恐ろしい危機は、一生に幾度来るか、其時何方が真実を欠いても、結合は破れる。その危機は人間の本質的なものなのか、又は単にムードなのか?
 自分が自ら愛の宣言をしたものほど此の恐愕は大きい。
「黄銅時代」を自分は、粒々辛苦で築き上げよう。今日は頭の工合がよろしくない。

一月二十一日

(金曜)
 私共のドイツ語の稽古が始る。
「黄銅時代」。

一月二十二日

(土曜)
 林町へお風呂を貰いに行く。英男が夕方来たので、私共が行く事をたのんで置いたのだ。私共が行ったら、丁度、英男の渋谷先生が来られ、彼はお風呂だと云うので、母上が会われる。
 お客がすんでから、二階で母上の絵を見、自分のを読んで戴き、お風呂と云うので、Aが先に入った。お父様が紅茶を出したいとおっしゃるので其をして居ると、入ってから、まだ十分経たないのに彼が出て来た。自分は、戸が開いて、彼を見た瞬間に「オヤ駄目?」と思った。工合が悪くでもなったのかと思った。がお風呂はぬるくて到底長く入って居られなかったのだそうだ。其時、自分が我乍ら驚いたことは、人が、自分の最も愛して居る者のことに就ては、誰よりも敏感であり、可感性を持って居ると云うことである。
 あの時、部屋に居た人々は誰も、私が「どうしたの? お入りにならなかったの?」ときくまで気がつかなかったのだ。愛の洞察力の恐ろしさ。自分は金田一さんの弟のことを思った。若し、人が一人でも其人を真実に愛して居るものを身辺に持って居れば、決して知られずに自殺などをすることは不可能なものなのだ。愛の力は大きい、何よりも大きい、生だ。
 愛のことについての一反省。
 ○国男のことについて、母上は非常に心配されて居る。痛わしい。然し、自分の心に考えの多くを遺した一つの言葉がある。それは、「若し国男が、万一何事かあった時、私が、あれもしてやらなかった、此もしてやらなかったとあとで後悔するのは苦しい。其だから、自分の心の満足のため、するだけのことはしたのだという安らかさを得るために、オートバイも苦しくても買ってやろうと決めた。」
 此はどう云うことに成るのだろう。自分には単なる利己とは勿論考えられない。自分が、アメリカから、母上の為に帰ろうと定めた時も、自分が思う丈の親切もせず、手助けすれば助かったかもしれないと思うと堪らないから、帰った方がいいときめたのだ。自分と云うものへの満足のためか、又は、愛するものを其那風にあつかったと云う、愛に対しての苦みを(ママ)ぐためか、又は人間はそう云う一種の自己満足のためにさえも他に対して愛を行うべき、愛の広汎な、微妙な要求を持って居るのか。
 義理、と云うこと、愛や、善の行為に対する、強制的受納と、感謝、
 千葉先生の名を署して、政教社から、『女性日本人』の寄書を申込んで来た。一寸した問題として取あつかえば、何でもないが、自分の「黄銅時代」に集中して居る心持は、其那些細なことのように思われるものにでも振向かない。先に小説を書くことをおことわりしたので、此もおことわりしてはひどくすまない心持がする。けれども、書きたくないのに、又書けないのに、如何うしたらいいのか?

一月二十五日

(火曜)
 ○今日病気。
「黄銅時代」の(四)完了
 ゆうべ、始めて I tried to wash myself.
 此は、心理的に或すがすがしさを感じさせる。
 ○先月の末に病気になったので、自分は今月はまだだと思って居た。ところが思いがけずなった。日記をくって見ると、やはり一週間位前から思うように行って居ない。
 自分は女性の種々な事ム員や、労働者の、此の期間の精神状態を考えずには居られない。苦しくはないのだろうか。

一月二十八日

(金曜)
 昨日小林さんが出来上った着物と一緒に母上からの手紙を持って来た。そのいつにない厚みを見ると、直ぐ自分は、お金が入って居ると思ってしまった。そうだった。自分は、何とも云えない感謝や、一種の自身に対するみじめさやを感じた。
 この間、林町へ行った時、経済上の話が出たので、きっと家賃丈でもと思って下さったのだろう。親の思い遣りに心を打たれた。
 其那に、金が少ないと云うことは母上たちにひどいことに思われるのだろうか、毎日が生活出来て、ひどくこまらなければ、自分は、まるで其那ことを忘れて居る。困りかたが忘れて居る程度なのだ。親というものは、実に、深い絶間ない愛を持って居るものだ。
 倉田氏の「布施太子の入山」を読む。動かされる。然し、太子が妃を自ら波羅門にくれてやる心持は、そして妃が、貴方のためにと云って行く心持は、自分の頭では承認される。然し、胸が驚く。心の何処かが、真個に? とつぶやく。真個に? 真個に其が唯一の道で愛だったのか?
 第一、私には、布施が子供や妻を伴って宮を出たと云うことが、彼の叡智から考えて不思議に思われる。もっとゆっくり読なおそう。

一月二十九日

(土曜)
「黄銅時代」(五)終り
『時事』の宇野氏の相馬泰三氏に対する評は、今日最も感激される。ああ云う批評をされて、相馬氏は、全くどんな心持がするだろう、自分は宇野氏の心を見られたと同時に自分迄はげまされよろこばしい心持がした。自分は涙組むのを禁じ得なかった。精進! 精進、人間に還ることだ。

一月三十日

(日曜)
『時事新報』の文芸欄に漂って居る、一種の才だのみにして浅薄な気分は自分がいやだと思わずには居られないものだ。
 倉田百三氏の「布施太子入山」を、一寸した、皮肉的な短評でかたづけて居る。
 ものの価値はああ云う風に断ずべきではない。
 淋しい、シャローな人間よ、物からは心を感じなければ何にもならないのではないか、何のために、何で生きて居るのか、何で愛して、生活を保って行くのか?

一月三十一日

(月曜)
 夜、食事をすませてから浅草へ活動を見に行く。
 さほどひどく面白いものではないが、ああやって三時間なりの間、じっと緊張した興味を保たせる処に大きな力があるものだと思う。
 その中で一つ気づいたことは、従来、日本の芝居では、侠気とか、恩とか、義理とか、そういう一種の概念的な筋をもって居るが、活動では、心持が如何にも Human である。
 例えば、明滅の燈台と云う中の、――弟や、弟の娘のためにいつもたすけてやる、老燈台守の兄の心持にしろ、日本人が芝居にしたらきっと、もっと異った、何か道徳的範疇をもって来なければ安心しまい。
「俺は一人ものだ。お前がたのために費わなければ費う時がありませんわい」と云う、楽な全心的な心持は、「其那目腐れ金でいざこざ云うなら、さあ、此で彼奴の面を叩いてやれ!」と云って投出す日本人の兄の心持とは異う。

二月一日

(火曜)
 午後から林町へ行き、夕方まで母上と種々話をする。
 結婚の幸福、信頼、浄化された愛と云うこと、
 母上が、年をとってから、父への愛を感じると云うのは、今まで多く日本の女性の味って来た経験だろう。
 母は、単純に同情から、と云われる。けれども自分はこれをもう一歩深く考える。
 つまり若いころは、始めから、疑と躊躇とを以て結婚した、所謂男に対して、性的な苦痛を与えさせられること、横暴? なこと等から反感があるのだ。互の過去や経験に共通な思い出がない。けれども、年を経て、永い間の思い出が、思い出せる始めから共通なものに成って来たのではないだろうか、そして心から純な共感を持つのではないか、有島氏が、芸術家に成ろうとした時に今迄の生活が皆入る、と云われたように、結婚以来の生活のうちに、皆、互の知らない部分が消えてしまうのではないか。

二月二日

(水曜)
 細田民樹氏の冷酷と無情、『新潮』をよむ。
 自分の心に対して、ああ云うものは一つの驚きである。
 ああ云う人間がある。――それはそうだろう、それはあるに異いない。けれども、ああ云う心持で其人なり、その事件なりを見られるのかと思うと自分は寒いような心持がする。
 ちっとも光りのない稟性ひんせい
 芸術が、若し字をスラスラと並べ、事を写す丈なら、写真以下のものだ。

二月三日

(木曜)
 朝起きて見ると、チラチラ雪が降り始めて居る。Aの予言が当った。
『黄銅時代』六を書き、ガルスオーシーのタッターデマリオンを少しよむ。
 夜、あまり頭よろしからず。『日日』や、五中の返事を書く。
 岡本かの子氏の詩を『時事』で見る。あの女性のよいところが出て居ると思う。
 今日、三宅恒方氏死去。
 自分は何とも云えない感に打たれた。たった四十二で、彼那あんなに才気に満ち、健康そうだった人が死ぬのか、
 安子夫人のことを思う。自分は『婦人公論』などに見えるいやに納った態度に対する反感を忘れて同情した。伯父上が、雪嶺氏だからよいだろうけれども、あの方自身の悲しさは、何も立派な伯父があることによってのみいやされるものではない。又下等な婦人雑誌がの人の生活を種にするのか、恥を知れ!

二月四日

(金曜)
『黄銅時代』六終り、雪が一尺近く積って居た。
 この寒に暖い。汽車が雪で音をこもらせると見えて二人ほど従業員が死んだ。
 情慾は、消費であることを痛感する。
 愛や正義は、余り、太陽のように大切なものなので、人があることや、無くなったときの大事を感じないのか?

二月六日

(日曜)
 林町から、かつぶしだの、おいなりさんだのを届けて下さる。
 午後、Aの膝に腰かけ乍ら、髪を弄って居て、切ろうと云うことになり、一人では、何だか心許ないので、Aにも一緒に来て下さいと云って巴里院に行こうとした。けれども夕方でおそかったので、電話をかけて見たら、案の定駄目だと云う。自分は失望と同時にひどくホッとし安心した心持になった。
 人が、あることについて、その有益だと云うことを強調する場合には、心で、却って、其に対する不安を抱いて居ることもある。
 私が、切ったら真個にさっぱりして手数を除けるから、いいでしょうね、真個によさそうじゃあないの、等と云ったのは心の何処かに、明かな不安、真個にいいかしら、と云う心持があったのだ。分らない、けれども、切ろうと云う決心に対して、よいことを肯定したいのだ。せずには居られない心持がするのである。

二月七日

(月曜)
「黄銅時代」(七)

二月八日

(火曜)
 今日倉知夫婦、私共林町の皆を呼ぶ。帝劇、
 池田大伍氏 瀧口時頼
 菊池寛氏 屋上狂人
 其他、
 時頼が、若し愛を信じないのなら、信じることが信じることの唯一の道であるのを知らないのなら、ああ云う疑から疑へ行くほかないだろう。科白のうちに、「浮世の女は恋しくない――然し、ああ此の物足らなさ、このかわきを何うしたらいいのか」と云うのがある。其を食事の時、いろいろにつかって、春江ちゃんが「洋食洋食」と云った「然しまだ洋食のうちはいいさ」、「かわきがすぐ止る! かハハハハ」等と云うように用われた。屋上狂人は感じが遺る、母は国男のことを思い当って泣いて居られた。父や倉知位の人がああ云う春江ちゃん位の処女を前に置て、もうお嫁、だとかまだ早いとか云うのをきくと、ひどくたまらない心持がした。けれども、此は結婚した女性だけの感じることだろうか?

二月九日

(水曜)
 生活がモノトナスだと云うことがひどく苦しく、頭を疲らせ、仕事の量が少ない。ので、昨日、母上に、助手のような人でもやとおうかと云った。かえってから、種々寝乍らAと話すうちに、Aは、自分の感じることを感じとしては分らないことが多くある。結婚する時、自分が決して自分中心でなく、私のために生活しようとしたように、あくまでもそうするのだから、私の仕たいようにしたらよいのだ、自分は最後迄辛棒する、と云った。此は、つまり、彼が私の性格全部を理解して、私が、ああしたいと云うのは、ああ云う原因により斯うすればよいのだ、と云うことは分らない、私が斯うしたいと云うから、其なら遣ったらよかろう、と云うことなのだ。此のような理解が充分でない時の女性の心に起るものは難しい。若し私が深い考と叡知がなければ、私は自分の我ままに食われAのよい心持を殺して、恐ろしい生活を現出させてしまうだろう。私の思うことは、私がもっともっと愛に於て大きくならなければならないと云うことだ。Aを包んでしまわなければならない、或場合には物質に於ても。

二月十日

(木曜)
 午後から、母上と一緒に、三越に行ったら、休日だったので、白木屋へ行く。
 彼女の傍若無人な態度に少なからず当てられる。――彼女の露骨な優越感の表示は、自分の物質的位置が、彼等より高いと云うこと、なのである。食堂に行ったら、花がなくて淋しい、クラッスが違うわ、と云われる。或程度の処へ来たら、その程度を見ればよいのだ。
 小僧が五十五銭です、と云ったら、ひどくむっとした我ままな声で、五十三銭だって云ったじゃあありませんか! と云った。何のために、其那声を出したのか、自分には分らないで恥た、いやな心持がした。物質的な優越感にならされた或程度の成金気分が彼女にもある。金に対して丁寧にする者に対して、尊大ぶる(ママ)しさ。夜紀元節が明日だからと思って、Aにお風呂を呼ぶ。今夜は駄目、明日近藤が来ると云う。そして、虎屋に気の毒だから急用でなければ呼ぶなと、勿論皆のきいて居る処で私をたしなめる。私の親切に対して、何と云う真実のない、てらいだか見栄だかなのだろう。何故そうなのか、何故? 何故?

二月十六日

(水曜)
『女性日本人』のために、「偶感一語」をまとめる。
 母上や父上には分らぬ。
 政教社に持って行き、千葉先生に見て戴く。
「偶感一語」

二月二十日

(日曜)
 待って居ると云うことは恐ろしい、自分は、机の上、自分の真前に時計を置いた。そして読みかけの本をよんだ。けれども、絶えず句と句との間に何かそれには書いてないものが挾るのを感じた。
 そしては時計を見る。時の経つのは恐ろしく長い、もう三十分も経ったろうと思って見ると、まだ、小さいふくらみのある蜂の剣のような針は、中央の6から五分ほか動いて居ない。
 次第に手がつめたくなった。息が鼻翼と唇とで震えた、耳は極度に敏感になり、やがて錯覚を生じる。
 戸外で、電車が通りすぎる音をきくと、それで来ると分かり切って居ながら胸がどきりとした。
 自分は手に力がなくなったような妙な感じに打たれた。

二月二十一日

(月曜)
 夜、Aは学習院の福岡よりの招で行く。七時半から、一時間もしたらかえるだろうと云って行って、今十一時半になるが戻らない。
 自分はじっとして居られない程不安を感じる。一度電車につきとばされたことがあってから、危険をすぐ思うのである。
 十二時になったら電話をかけて見ようと思って居ると急に半鐘が鳴り出した。自分の心は名状すべからざる不安と淋しさと、緊張を感じた。
 雨戸をあけて見る。戸外は柔かな月夜で、黒い青桐の枝の間から一つ星が輝いて居るのが見え、粉っぽい、こな白粉のように鼻を擽るなつかしいにおいが四辺一杯に漂って居た。沈丁花のかおりか。
 Aは未だ帰って来ない、不安この上なし、久野先生の傷された時を思わずに居られない、

二月二十二日

(火曜)
 愛らしき夜景
 夕方頃、チラチラ粉雪が降った。積るかと思って居ると、小一時間でやんだ。外へ出て見て、自分は空の美しさに心を奪われた。濃碧の空には見渡す限り一点の雲もない。光輝と薄い雪で新鮮な緑に見える木々の葉。あざやかな満月が輝き渡って、まだ薄すらとつんだ雪のとけない、家々の屋根が消えるように耀かがやき、電信柱、枯木の繊細な黒線はたとえようもない美に浮出して居る。星の色々な色の差や大小まではっきり見える。朗かな、澄み切った空を眺めながら歩いて居るうちに、自分の心には、何とも云えない憧れが湧き上った。斯うやってせっせと歩いて居るうちに、いつか、その溶けたはるばると限りない空に踏み込めそうな心持がするのである。
 小さいかまえのうちに、橙色の灯かげを漲し、平常よりずっと小さく、箱のように並んだ左右の町筋は、真個に、せまい、むっとする「うちのなか」の感を与えた。
 あの何か見えぬ悦びに透明な天、そこは「そと」で、あすここそは軽く、活々とし、新鮮だと云う印象を強く心に刻みつけるのである。
 思わぬ処に、思いがけない美しい樹立を見出したりする。字に表された場合のような概念を持ったのではないのだ。自らが溶け、透明、曇りなさが、自らが耀き、自らが得も云われぬ生に充ち溢れてその無限、愛、よろこびで人をインスパイアするのである。

二月二十四日

(木曜)
 春の雪、寒の雪のように、しんしんと淡く密に降り積むのではない。
 しとしとと柔かく、大まかに落ちて来るのだ。
 どんな平らなところに降っても、こまやかな凹凸があり、風の吹き廻しでさほどたまらなかった場所は、ほの白いかたまりが散って――雪の白さや冷たさより、却って春の芽ぐんだ大地の黒さと暖かさとを思わせる。
 寒中の雪は、厳く、生気が無い。けれども春の雪は、その到らぬところ、鹿の子まだらのところに寒中の雪の持たない醜さと同時に、人の心にうれしく触れる愛らしさがあるのである。

二月二十六日

(土曜)
 ものを書く場合、「黄銅時代」の始めのように余り、臆病に成っては駄目だと云うことに悟がついた。
 熱がある時、グングン書いて行って、一寸変だなと思った時にその処をなおせばよいのだ。
 勢をそいでこねると、只くさる。

二月二十七日

(日曜)
 和辻氏の「日本古代文化」と大日本歴史集成を並べよむと、所謂歴史が如何に解剖と人間的洞察、人性を見通さない記述であるかが驚かれる。
 歴史は只事件の発生と経過と結果の報告にすぎないものとして扱われて居る。和辻氏のをよむと、日本の歴史は、活々とし愛すべき人間の足跡と成る、驚ろくべき違い! 世界中の文化は斯う云う態度で扱わるべきものだろう。歴史に対する正当な態度を明示された大いなる賜物。
 石原さんの音楽会、(一字不明)村禎子氏のピアノ。
 ビクターでエルマンのアベマリアをきいて驚いた。心がぞっとするほど音の裡に強い肉感性――生――があった。暖く震えながら息をついてマリア讚歌を捧げて居るようななまなましさを感じた。
 寺田初代氏に会う、宮部氏の嫁の姉上、面白き人。

二月二十八日

(月曜)
 夜、けいおうの一生徒来る。Aに家庭のいざこざを相談すると云う。実は成績の悪いのを苦にして、それで同情を求めようというのらしい。分らないが。若しそうだとすれば、人間に其那窮策を思いつかせる学校制度は恐るべきものである。学校は人間を考えない。一面から云えば、入学試験の難しいのが程度の高いことだと思って誇って居る。つまらないことだ。寧ろ恐ろしい。
 ○野上彌生子氏に対する公開状を『婦公』にたのまれる。
 ○ゼエレン・キェルケゴールを読む。
 彼が父からさほどの陰鬱をゆずられながら精神の弾性が其に耐え、其を活かせたと云う文句がある。
 国男を思う。
 素質の恐ろしい力を痛感せずには居られない。

三月一日

(火曜)
 キェルケゴールの中から「私には父の死が、父の私に対する愛のための最後の犠牲だと云う心持がする云々」此は、私が、Aに対して思うことだ。
 が親に対しては思わない。Aは、私をデベロープするために生れた。幾十年もの共生、若し彼が先に死ぬよう(ママ)なことがあれば、其も、私の内容に何か新しい生命を吹込せるためになされたことなのだろうと、今から思う。どう云う内容が来るか? 此が「偶感一語」に表われたのだ。
 近頃自分は大抵、九時頃に起きる。平均八時間の睡眠、これで体は軽く頭の工合はよい。十時間睡り、じありんをのみ、不調をとなえて居た自分は如何したのだ? 懈怠のみだったと恥じる。

三月二日

(水曜)
 ○自分が制作に際して、絶望的になり自信を失い、煩悶する場合、其が如何云う原因によるかと云うことは研究反省に価する。
 思想が来ないことはない。
 表現に苦しむのだ。巧く書こうとして苦しむ。よりよき表現を得ようとして苦しむ。と云える。然し、此をよく考えて見ると、巧く、と云うのは、外内の関心では、ないのだろうか、よく、よりよき表現を持ちたい、と思うのは、本能である。巧く――と云うと、本道を踏はずしたが故に迷うのではないか。

三月三日

(木曜)
 皇太子、渡英の途につかる。

三月五日

(土曜)
 野上ヤエ子氏に対する公開状を終る、つくづく柄にないものを負うたと云う感、自分がよくない態度だったのだろう。

三月九日

(水曜)
 仕事につかれた時にスケッチを始める。
 此はものの線、影を正確に見るために必要。「ある」と云うことを、私共は何の不思議なく感じて生活して居る。けれども、一つの美しい壺なら壺がある、と云うことは容易なことではない。奇妙な感に打たれる。
 画家の驚異が分ったような心持す。

三月十日

(木曜)
 浅春、と云う感じが狭い庭に満つ。
 樫の木にいつの間にか、下枝の葉が殖え、沈丁花の蕾がふくらみ、紫陽花の巻芽が大きくあざやかな萌黄に成った。日にてる金褐色の幹と丸い、緑のぼっちとの対照は美しい。
 此の幹は夏緑色だ、どう変化して行くのか
 春!
 机の前の日よけの檜葉の根に、始めて一かぶの雑草を見つける。可愛く尊し、

三月十一日

(金曜)
 仕事にとん悟す。うまく進む、ありがたい。
 自分の生活が漸々ようよう真個になった。もうべたつかない。

三月十五日

(火曜)
 皇太子殿下、三日御渡欧、
 自分は結構なことだと単純に思ったら、元は、皇太子妃が島津家出なので、薩摩人の、宮相、元老が、その留守に、廃してしまおうとしたのだそうだ。
 其を杉浦重剛翁が、
「大義名分を明かにする」と云って、久邇宮の教育を辞して、世上にほのめかし、ついに失敗にきした。
 彼等の恐ろしい郷土的偏見、何か目的のために彼等は仮に大臣となり、痴愚な天皇を補う宮相となるのか。

三月十七日

(木曜)
 ○結婚生活に於ける一つの場合、
 自分が良人に支配されて居る、と云う反省、
 彼の笑顔に自分も笑顔に成る。
 彼の渋面に自分も渋面を作る。
 ◎自分の笑顔が相手の渋面に迎えられた時、笑顔はその力を持続し得ない。
 自分が此人を、此程愛して居ても、心はいつも一つでない。そのために苦しまされる。只一人の此の男に、拘泥して居る弱小さが、煩悶なのである。
 ◎然し、恋人の時代に何故其を感じなかったか。

三月十八日

(金曜)
 ○結婚生活に於て最も自分を苦しめるものは、情慾、或は愛慾的表現である。――此は肯定する。然しこれが若し相手を苦しませるものなら第二義に明にされるべきものではないのか。
 此に苦しむと、自分は、結婚迄に至った自分の動機に対しても深い疑を感じずには居られないような心持がする。彼に向って涙をこぼす。種々のことを云われる。言葉や考えかたは、彼に於て一種の道徳的概念から出た、やや常套的なものである。が、これを云う、一重彼方の彼の心を感じると、自分は救われる。要するに聞くのは、言葉ではない。

三月十九日

(土曜)
 結婚生活の危期
 始め、自分達が二人の愛を感じ、外界に対抗して居た時と、二人の生活がほんとうに二人ぎりのものに成った時では、異う。
 相互の愛を云々する必要がない丈、其点が確実なものに成って来ると、各自は、各自の弱点を対手に対して圧え、矯正することが終生の努力になって来る。「自己のみが真実」だと云う言葉は正しい。結婚生活の苦痛は、つまり、各自の「我」の争である。

三月二十日

(日曜)
 キェルケゴオルの中に、
「愛(結婚愛)にとって危険なのは、退屈単調などの内的困難である」とある。
 退屈? 単調? 自分の感じるのは其と反対だ。余り情熱の激しさに打まけ、打まけるのが苦々しいために良人に対して、それにレスポンスしないことを怒る――、
 此は如何に考えられるべきことか。
 昨日、勉強部屋を、此三畳に移す。非常にコージーでよろし。勉強に非常に心地よい。
 前には、二枚硝子戸がある。一方に小供が木炭で50+50+50=79 手書きの文字 等と書いた跡が残って居る。
 自分の光線に対する特癖。

三月二十一日

(月曜)
 一週間ほど以前より、
 憲政会対政友会の面白い――傍観的に見れば――問題が起って居る。
 山田濶二と云う元満鉄に居た男が、政友会の――政府が、満鉄に損害を与えて、前回の総選挙費を或鉱山から利得したことに就て、証拠を公表し、法律問題にしようとして居る。ために政友会の広岡が、加藤高明が内田(船成金)から五万の金を出させるについては、彼(内田)のきらいな尾崎、島田氏等を後援しないことを有償せしめたのである、と云う手紙を新聞に出して駁した。きたならしい争い! 驚くべき政界である。何のために、代議士となり、何のために政治家となるのか。一国の政事が、其等の愚人、劣悪な人格の持主に委任されて居ることは恐ろしい限りだ。

三月二十五日

(金曜)
 グランパ今日福井にお立ち、
 自分は林町へ来る。
 米国の国務卿
 ランシングがリーグ・オブ・ネーションに対してウィルソンの失敗原因を公表した。
 その態度には批評はまちまちらしい。がとにかく彼の手記をそのまま見、あるいは、その手記を公表するに至ったその人の心事を考えると、国際関係が、如何に代表的箇人の力によるものかと云うことが分る。

三月二十七日

(日曜)
 ラッセルが北京で客死した報道。
 ラッセルの思想なり、事業なりに、自分は深い理解は持って居ない。けれども、学者の淋しい一生を思う。
(此はあとで誤聞と分る。)

三月二十八日

(月曜)
「われらの家」まとめる、十枚ばかりの小品

三月二十九日

(火曜)
 三浦環氏がイタリーから米国へかえって以来、悪いロシアのテナー唱いに喰いつかれて居るので、すっかり評判を落してロンドンに逃たとある。
 気の毒な心持がした。三浦氏はこちらにかえって居られるのだそうだ。結局一人だ。彼女は自分の天才を守るも育てるも自分の力によるほかない、親も、良人も、此点に於ては他人である。及ぼすべき真の力は持たないものではないのか。
 母は、そのことを聞いて、「まあ、たまらない」と云われた。自分は、ああこれだ、と思わずに居られなかった。
「何故おかあさまは、此う云うことを、そう割合に侮蔑的な一声でかたづけなさるの?」
「一々、文学者のように考えては、自分の体が片づいてしまうよ。」

四月二日

(土曜)
 A、福井より帰京。
 野上彌生子氏より手紙。

四月三日

(日曜)
 斯様な反省や苦しみが起ったとき、先ず、彼に就て云々する自分の態度は如何う考えるべきものであろう。
 勿論自分の力が(ママ)しいに起因する。あらゆる宇宙は我より、である。
 けれども、彼を許して、赤坊に(れいこんの)出来ないのは、自分の卑少のせいか?
 自分自身で、自分の火を守って行けない燈台守! 今までのような、熱が自分に乏しく、燃え上ることの力弱く感じるのは何故だろう。
 只自分の錯覚か、或は事実か?
 事実としたら何処に原因がある?
 愛するなどと云うことの、いかに、いかに、難いことよ! その困難を痛感するものほど愛したい心が強いのだ。

四月四日

(月曜)
 自分には彼との、その大きな差をしっかり見乍ら、許し、包む丈の大きさがないのだ。
 それかと云って、それを知らない、見ない振をして居る、あいまい、ずるさ、いいかげんがない。
 自分の愛は真剣だ。彼のすみずみまでを自分の理想的なものに変身させずには居られない気がする。又そうして鞭撻して、緊張した生を送らなければ不安でたまらなくなる。
 彼に期待する自分は誤って居るのか? 然して愛は無限の期待と信任とではないか? 期待と信(ママ)とは決して、現状の承認のみに終りはしない。あらゆるよさを希願するのだ。そのよさの目安の異ったときは?

四月五日

(火曜)
 常に理想を彼方に置いて、それでことごとを批評して行く態度と、とにかく事実として今日やった丈のことを自分のつくしたベストとして承認し、理想へ、一時に人間が到達することは出来ないものだと云って安じられる心持とは大きな差を持って居ると思う。
 彼は、理想の存在を知って居る。が理想家ではない。彼の献身は、理想より情の脆さから来るものではないか?
 此の自分と彼との差を、自分は如何う調和、処理したらよいのか? 自分が包みきる丈大きくなるほかないだろう。

四月六日

(水曜)
 自分達の家庭生活には、理屈も何もないふざけや、うちとけや、仕合わせのうっとりとした楽しみほか共有出来ないのだ。
 自分は彼の親切は疑わない。恐らく愛も、けれども、高い、強い、鞭撻が欠けて居る。その力の無いことを承認する彼の心が淋しい、一生の淋しさか?
 一生の淋しさは、誰が選んで持ったのだ?
 次第になまぬるく、感激が(ママ)しくなって来るのではないかと云う恐怖が激しく自分の心を貫く。
 二人頬をくっつけ合って写した写真を見て、自分は、何とも云ない心持がした。天井を向いて憫笑びんしょうしようとしたら堪らなく成って泣き出した。

四月七日

(木曜)
(宵)(手紙改題)を下書だけする。

四月八日

(金曜)
「その海の上には」ヴェルレーヌの詩よりとった題。

四月九日

(土曜)
 今日野上やえ子氏より公開状に対する感謝や友誼を結ぶことについて懇な手紙を下さった。
 あれは、此ほどの好意に価したものか。
 自分はひどくよろこび乍ら、畏れ疑うような心持になった。

四月二十日

(水曜)
 今日、おばあさまと安積に来る

五月六日

(金曜)
 久米さんの母親が先日来訪
 自分がとくに愛嬌よく親切であったのを考えて驚く心持がした。

五月九日

(月曜)
 国男、徴兵検査にて来る。

五月十日

(火曜)
 今日国男学課試験、中学卒業したため、なにもしないでよかったのだそうだ。
 その時、外語卒業でウラジオに行き、ロシアの種々なことを知って居る人に会い、宿に行き話をしてきたと云う。
 大いに好奇心をそそられ、呼ぼうかとフト思った。が、何だか相手を信頼されない心持と、自分が自惚うぬぼれて――つまり自分が斯う云う仕事をして居ると知ったら、一層好意のみを以て亢奮して快く話して呉れるに違いないといい気に成った気がしそうで、やめにした。どうしようかどうしようかと思って庭を眺め、到頭決心してやめようと云い、云い切ると一層その決心がよいものだと云うことが感じられた。いい気になると恐ろしい。

五月十一日

(水曜)
 体格、これは、「僕は少しバネのかえりが悪いから」と云って置いてまぬかれるのだそうだ。
 夜、非常に淋しがり、笹川の露子氏と結婚したいことを告げた。
 女性は優しく弱い、其故男が女を想って居る時は、決して平常より強くしっかりなれないのではないか。自分はきっとそうだと思うと云う。
 自分に顧みて彼に真理があると思わざるを得ない。然し露子氏のことでは自分は何とも云われない心持がした。十六だと云う。
 何だか、あとで十六の娘はひのえうまだときいて、妙な心持がしてしかたがなかった。あの人が結婚したら死にそうに思われる心持が、どうぞ予言にならないように。

五月十二日

(木曜)
 昨夜、非常に亢奮して、「露ちゃん、露ちゃん、ああ僕苦しいな。苦しいな」と云ったのなどは何にも知らないらしい。
 私が、十六七の頃、ああ云う興奮のとき、誰かが傍に居たら、矢張り夢中だったと認めるだろうか。自分には記憶があったと思う。彼には全然ないらしい。只淋しかったと云うほか。
 露子氏とのこと、自分はどう云う方法をとるべきだか? 彼が、ああ云う不具になり精力のないのは、私を助ける為に雪漬りに母上がなられたためではないだろうか。
 益※(二の字点、1-2-22)どうにでもよいとは思えなくなる。

五月十四日

(土曜)
 此方に来て以来、自分の情慾に対する意識が影をひそめた。
 それに対する拘泥がなくなった。
 それ丈、精神的均斉がとれたことを意味する。
 良人と居る時何故そうでないか。
 自分の肉感性、敏感。
 男っ気のない生活で仕事が出来るのは、それ丈強い肉感性を意味する。

五月十七日

(火曜)
 もうセルの時候になる。Aのために、おかあさまがかって下さったのは、去年でもう滅茶滅茶なので、一枚二十円のを云いつけて買い、会田さんに縫って貰う。

五月十八日

(水曜)
 遊戯をする場合、相手が自分より下手だと詰らない、と云うことは斯うなのだ。
 第一、自分の優越感を味うため弱いものをだしに使って居ると云う自覚が起る不愉快
 第二、自分が手心をして、充分頭を苦しめられないこと、
 第三、明かに分る相手の下手だと云うことを、知らない振をしなければならないこと、
 此を感じない人はかえりの船の船長になるのだ。あのデッキゴルフのいやな感じ。
 親子の縁、兄弟の縁、

五月十九日

(木曜)
 Aが体の工合の悪いことを知らせて来る。気の毒に思い、かえろうとして居た処なので、早速決心をし、二十一日にかえることにきめた。

五月二十日

(金曜)
 朝になって葉書が来、今週の金土日とは、他出の用があるから来週にして呉れたらと云って来た。一目見て自分はおし気もなく其葉書をさきすててしまった。
 自分がかえることを楽しみ、明日こそと思って居る処へ来た其葉書は、やめにしては大変だと云う心持や、其を見て、其ならやめろと云われることのいやさから、一思いに破られてしまったのだ。不快な心持さえした。微妙な心持。
 会田さんや、おばあさまの前に、Aの不快を誇張せざるを得ない自分を見出して、憫笑した。

五月二十一日

(土曜)
 ステーションから、真直に林町へ行こうか、片町にかえろうかひどく汽車の途中でも迷った。
 林町へ先ずいけば、夜まで居なければならない。自分には其が辛棒出来そうもない。それかと云って、鍵を持ってないから、片町に誰も居なかったら入れない。が、とうとう思い切って片町に行った。戸がしまって居るのを見たら、眼が暗くなるような気がした。今日かえるかもしれないと云って置いたのだからと思って隣に、「若しか鍵をおたのみして行きませんでしたろうか」と云ったら、思いがけず、「ハロー、百合ちゃん?」とAが木戸の方から呼んだ。自分はそこそこにして表に廻る、高田さんの奥さんは滑稽に思ったろう、刹那の待ち切れない卒直さ。俥夫に払い、Aの顔を見たら、瞬間自分は、何だか其がAだと分り切って居ながら、妙に別人のような、妙な感に打れた。その感は別れて居た時間に比例するのではないか。
 とにかく、私共は互に会うことを待ちのぞんで居たのだ。
          ――○――
 武井大助氏が、坂本花世氏、自分達を如水館に呼ばれる。午後行けばよいので、朝林町へ行く。父上や御かあさまが歓んで迎えて下さってありがたく思った。
 坂本氏は、ひどくお喋りになった。
 一種淋しい感。

五月二十三日

(月曜)
 驚くべきことを発見した。
 夫婦の間の性交によって受ける肉体的の快感は、その性交が情慾が主で――結局に快感を得ることを目的と意識した場合と、久しぶりで会って、嬉しさと愛とでどこまでも互を抱き合いたいと云う激しい情熱で抱き合った時とは、少くとも自分はその快感が違う。快感を主にして云えば、微弱なのだ。或はそれを弁別しない程、亢奮するのか? 交接して、女性が、強い快感を感じる場合は、或程度までそのものを、胸の愛から切離して味う心持になった時のみらしい。らしいのだ、よくは分らない。が確かに何か違いがあること丈は事実だ。

五月三十日

(月曜)
 今日、あさかへかえる筈だったのが、お父様が、俵国一氏が外国へ行かれるので、送別に兄夫婦、吉野〃〃、彼等〃〃、自分達をお二人でお呼びになるから、私に、それまで居てはとおっしゃるのでのばした。
「お前五日頃まで此方に居て貰えないかね、勿論其日にかえって来てもいいことだが」
「何なの、おとうさま」
「いや、今度、俵さんが洋行するのでね、久しく兄さん夫婦を呼びたいと云って居たのだから、吉野さんと一緒に食事をしようと云うのさ、お前がたにも、会って置きたいと云われるから、どうかね、都合はつくかね」
 斯う云う云いかたは、母上とはまるで異う。彼女なら我知らず
「何、わずかだもの、延したっていいやね。つまりお前がたのためを思ってすることだもの」
 と云われるだろう
 その調子(父上の)ひどく自分の心に遺った。

〔六月予記表〕

『太陽』の九月号のために、

六月四日

(土曜)
 岡部氏(英男のアドバイザー)夫人、佐和子氏とお茶に来られる。
 夫人は、今年お茶の水を出られたのだそうだ。
 二人で居ても、ちっとも若い二十七八歳と十七八歳の夫婦とは感じられず、まるで兄妹のように感じられる。
 佐和子さんのおかあさんと二人とは、陶宮をやって居られるのだそうだ。一種の他にまかせ切った安らかな人格である。

六月五日

(日曜)
 如水会で、十人予定の如く集る。
 俵国一氏が如何にも純な、人間らしい心情を豊に持って居られるのを見て、床しく思った。

六月六日

(月曜)
 昨日のことで仕度が出来ないので、明日立とうときめる。
 今夜、国男さんが、私がバターをたのんだので、青木堂から八時頃持って来て呉れた。
 笹川さんに夕飯を呼ばれて行ったのに、そんなに早めに引あげて来て呉れたのを思うと、其バターを食べられないような気がした。
 あんなにすきな女の子が居るのに、自分なら頼んだ人が早く寝るだろうと思って、楽しみを早めに切あげて戻って来るだろうか
 男の子の心の深さを、まざまざと見せられたような心持がした。

六月七日

(火曜)
 すっかり仕度をし、Aにも左様ならをし、林町へ行った。が、どうにも行きたくない。真個に気が進まないのだ。仕かたがないから、明日にして夕方から又うちへまい戻り、
 Aはうれしそうに冷かした。
 夜、本屋へ行き、白山を歩いて居たら珍しく石原さんに会う。

六月八日

(水曜)
 今日たって来た。
 二週間の留守の間に、野山は一面の新緑に包まれ、蚕がもう繭をこしらえる頃になって居る。
 自然の発育を見ると、自分の進捗のまどろこしさを思わずには居られない。
 いちごかなり毎日おやつにとって居るとのこと。

六月九日

(土曜)
 種々にしてやって見て。「黄銅時代」はうまく行かない。もう秋まで放って置くことにした。何があの作を進めないのか。
 自分の経験の余り近さなのか?
 我ままな、ぜいたく心なのか?

六月十日

(金曜)
 三日月みかづきが立って出るから米が上ると、村中は活気づいて居る。
 皆が事実だと云う、何故だろう。
 旧の五月節句だと云って田舎は、かしわ餅をしたり何かする。皆と、茶の間で賑やかに話しふざける心理を考えて見ると、第一、自分の真剣な処を出したって、彼等には到底理解されず、自分も他人も居心地が悪くなる、と云う直覚からだ。級会に行った時の自分も左様だ。これはいいか悪いか、Colas Breugnon の中にある蚤(のみ)の話から(あの立場から)考えれば他人のために悪くない。然し、左様云う周囲を持つことは、自分にとってはよろしくないのではないか、父上が家でふざけられるのが分る心持がする。

六月十一日

(土曜)
 今日Aからの手紙の中に野上さんのお手紙を封入して来、中に巖本さんが結婚したことが事実として報じてあった。
 自分はひどく感動して、じっと坐って居られないような心持になった。
 いつか、Aが見たと云う新聞は事実か、
 あの人は、自分の運命に疲れを持ち始めたのではないか。丁度私が結婚の前に持った、淋しい、恐ろしい、放浪(恋愛生活の)を予感したのではないだろうか。どうぞあの人が幸福なように。此が唯一の希望だ。
 森田さんが死なれて間もない結婚を只薄情だと云い得ず思い得ない心持がする。
『女性同盟』、七月号のために感想の約束、
 今日、田舎では畑の仕事をすると、不作になると云う迷信、

六月十二日

(日曜)
 昨日から梅雨、
“Colas Breugnon”を読んで居る。
 流石さすがは「ジャン・クリストフ」の著者だ。文章はむずかしい。しかし、読者は、「ジャン・クリストフ」とはまるで異った方向に於て、矢張り偉大な、一人の男性を感じずには居られないだろう。まだ五十頁ほか読まないが、心に遺る言葉が点在して居る。
 有島武郎氏よりは、間違なく偉大だ。
 彼を尊敬しながらも、あきたらず感じる一点、一方から云うと其が彼たらしめて居る、道徳的なあまさがここでは、心持よく垢ぬけがして居る。
 全く Manly だ。Ye old Colas Breugnon!
 斯う云うなつかしい心から響く表現が日本語にあるか。

六月十三日

(月曜)
 昨夜、雨が夕方になってから上り、彼方の山ぎわが四辺が真暗になってまで、鋭い鉛色に輝いて居た。夜空が見え風が吹く。
 今朝はさわやかな晴天の朝が来た。風が涼しく、爽やかさを増し、葉にあたる日光に白熱的な輝がました。初夏の――春から夏に移った許りの、不定な、若々しく動揺した空合ではなく、確かりと自信を持ち、刻々と成熟して行く天気だ。
 午後五時頃になると、空気は温まる丈あたたまって重くよどみ、風は落ち、草の香がかんばしく四辺に満ちて、静かな夜と昼との境が来る。
 Colas Breugnon を読んで、一郎爺を恋しく思う。

六月十四日

(火曜)病気

六月十五日

(水曜)△
 久し振りの晴天で、昨夜はおそくまで用があったので、却って心持よく目覚めた。野上さんから御手紙、国男からの手紙、国男さんの手紙を見ると、いつも自分の心は暗くなる。私の、彼に頼られて居る私は、彼のために何をしてやることが出来るのだろう。体が不具だと云うこと、外見ではあれ位のものが、其那に心に暗いかげを投げるのだろうか。私の一生は悲劇です。自分の体を、その不具なのを許して自分を愛して呉れる人はないかと云う哀訴をきくと、堪らなく涙をこぼした、自分はしんから彼のためによい女性の出顕を待つ、やえ子さん(バチェラー)の心持が或程度までしみじみ同感される。
 野上さんは、お清さんが来月頃かえって来る(一人で)と云うことを知らせて下さった。種々な意味で、今日は、自分が些の不平をも云うべきでない、幸福者果報者であることを痛感している。

 指一本欠けずに生れたことは、如何な感謝に価することか。

 今日は体の工合で頭は不活発だし、おなかも痛いけれども、自分はこれを静に堪えずには居られない心持がして居る。

 野上さんが、自分の机もなく、部屋もなくてあれ丈仕事をして居られたのを知って、自分が全く、彼女の云われる通りおごった気持であるのを知った。
 Colas Breugnon をよみ終る。作として見れば、全体は、何処となくまとまりが悪いような感がないではない。けれども、其は所謂批評であって、読んでゆくうちに、真個の人間らしい率直さ、“Practical joke”love of living の快さ鼓舞を感じずには居られない。
 あれ程しんから人間を愛し、生活を愛し、それで、日本流の感傷主義に堕さない処が素晴らしい。真個に、あらゆる宇宙に向って、帽子を振って笑いかける雄々しさ。日本人は斯う云う生活のさかんな燃焼は感じ得ないのか、明るく、朗らかに、強く。

 Colas Breugnon を読んで、自分にはフランス人の、或はフランスの国民性が或程度まで分ったような心持がする。何故、彼等の生活の雰囲気が芸術的であるか、と云えばつまり、徹底して人生を愛するからだと云えるのではないか、laughing, woman, art, even fighting, they are all good. 男は斯うなのだ。
 そして女性は、Good wife, if you please it, but woman is a woman と云う心持で味い働き、愛して居るのではないか。
 島崎藤村氏だかが何かにフランスは流石に amoir の国だと云われたのを覚えて居るが、此は単に異性間の問題許りではなく they are all lovers of life なのではないか、若し右のような観察が正鵠を得たものだとすると、先から云われて居る、日本とフランスの国民性の類似は何処にあるのだろう。
 多血質な処――mob の共通か
 或は同じように曲線的な模様を好む点からか、――
 同じ自然を愛すにしても、日本人の普通は、或は真の日本人は、自然に向って其を静かに眺める、其心境を愛して居るので、真個にその草、その樹を、愛で愛すのではないのではないか、
 同じ all is good と云う心持も、何だか一方は、無常から一方は Hurrah! と云う心持からではないだろうか
 和辻さんによって紹介された我々の祖先の心境とフランスの祖先との間に既に明らかな「意識」の差があり、其が今日までどう変化して来たか、面白い考察が行われるべきことだと思う。(此等は皆十五日の分)
(十五日)
 六時過頃になると(近頃は其頃でも充分明るい)池ではいつの間にか蛙が鳴き始める。
 誰かが桑つみからかえる百姓が池の辺を歩くと、沢山の降るような声は一しきりやみ、又一つ二つ段々段々と沢山に戻る。つぐみがいきなり見えない彼方の空から小さい grain を撒くように浅黄色の空をよこぎってとびちる。
 非常に沢山が幾群かに別れて移住するのだ。中に一羽統そつ者が居、キーキーキーキーと呼ぶと、あとのものがこまかくきざむあいさつで其にこたえる。
 空 all over pink and transparlaus purple. 此に対し深い緑色は何と云う対照をなすか――次第に金色と薄い藤色になり、月が白く雲のさけめから浮上る。

六月十六日

(木曜)
 To-day (mean 16th.) I missed him so much that I could not even write line on my paper. I know I must send out my work to“woman's league”for July number at this time. But never my mind concentrated. It is a pitty to have to live separated from husband, whom I love so much, that if I am pined round him, could do nothing but complaining. (I wrote those lines not to remember this day, but to rid off from my annoying.)

七月四日

(月曜)
 クロポトキンの「革命家の思い出」より、
 ロシアがかつて農奴解放の輿論よろんが喧しくなったとき、その成就が、外国からの力なしでは(ナポレオン三世が平和条約の中で、農奴解放を皇帝に要求したと云うルーモア)不可能であると云う一般の考があった。其の考えは丁度、今度のヨーロッパ大戦に対してロシア人の持った希望と切れない縁がある。
 人間として生きたい希望の強いにもかかわらず、その国の伝統力があまりに強大な場合、人は、より大きな進展のために、国家などと云うものの、外交的名(ママ)を、すっかりボッ却してしまう。心が、形式をどうでもよくさせてしまうのだ。日本の真の目ざめは、外患がなければ起らないと云う人もある。

七月五日

(火曜)
 クロポトキンの、「革命家の思出」を読んで居る。面白い。ロシアの農奴の実際的状態を見たものこそ、農奴解放の熱意が内から湧いて来るのだ。彼の家に働いた農奴が、どう云う取扱いをうけたかと云うことを知ると、ロシアの知識階級の公憤がうなずかれる。日本の農民小作がいくら残酷にあつかわれて居ると云っても、決してあれほどではない。従って日本人の農民に対する愛などは、真実な形に於て温和的のものであるのが当然だ。
 彼のうけた教育の方法をみると、自分のうけた学問が、如何に実力とならないものであったかを思わずには居られない。

七月六日

(水曜)
 平塚らいてう氏の新婦人協会が瓦解したと云う報道が新聞にある。
 同性の微力を寂しく感じる。
 あまり根底があさいのに、外界に大きく働きすぎるからだったのか。市川房枝女史が実行家で、彼女は、自から鋭く熱がないのだとかかれて居る。短い期間に大きなことに成功して、わっと云わせたい心持の同志が多かったのではないか。
 現代の女性の欠かんは、自分から外へ外へと眼を向けることにある。何かしだす動機を深く反省する心の力は欠けて、知識の力が片手落ちなのだ。

七月七日

(木曜)
 クロポトキンの自伝は、実に仕事する人間はどうだと云うことを、あからさまに教える。
 仕事のやれる人間は、只云うのではない、想像するのでもない、全く、其手でやって行くのだ。
 此は自分に全くの啓発である。
 思うのではない。やって行くのだ。

七月九日

(土曜)
『女性同盟』のために「近頃思ったこと」を書く。
 ああ云うものに対する自分の意向は強いのだが、とても書きあらわすのに骨が折れる。

七月十一日

(月曜)
『女性日本人』に出す「宵」を一通りなおす。
 午後林町に行き、母上と話す。
 おばあさまと彼女との関係、その関係に対する彼女の態度が自分の心を暗くした。
 女らしいひねくれ、固執、暗闘で、二人の愛するものが心を悪くさせられて居るのを見るのは辛い。二人のためにも悪いし家中の空気に悪いから、いつかAが云った言葉を思い出して、おばあさまと一緒に棲んでもし万事が都合よくなればそうしてもよい、と云った。おかあさまは、私がやさしい心で云うと云うことは分っていらっしゃるのだ。
「私もこれで子供のうちから苦労したのさ、おばあさまの味方になるので、かあさまからはうんとにくまれたのだ」
「――私はどっちも味方するのではないのよ、只自分が一番害をうけることが少くて、皆がよくなるならその場所として代ろうと云う丈なのよ、どっちの味方でもないのよ」
「お前には血すじだから、そうかもしれないが、Aはやりはしないよ、お前に話したってしはしないよ、其ならさせて御覧」
 此の言葉で自分は母が、何だか非常にいやに感ぜられた。Aに対する反感。やれるならやって見ろと云う自分の苦痛のおい目の自負心。
「まあやれるかどうか一月も一緒に居て見るさ。却ってつらさが分って、別な考えも出るかもしれない」
 何と云う言葉だろう。
 誰のために私は考えたことだ? つい心が激した。私は、彼女のために計ることで、何も思い知らされ、彼女の誇りをまさせるようなことをしないでもよいのだ。我執と我執との角つき合、人の心はたよるにあまりかたすぎる。

七月十四日

(木曜)
 先週の土曜日、それと十一日、チャイコフスキーのレコードをきく。クロポトキンと彼との時代、人格が非常に感興を引いた。
 深い研究と理解との許に、彼等を主にあの時代を書いて見たい。
 とくに種々な女性のかた。無言実行の所謂せんみん。皇帝、高官等を。
 又一つの大きな希望。

七月十六日

(土曜)
 始めて、夕方から大森の高垣氏をたずねる。
 奥さんはみさをと云い、面白い人。
 かえりに三人でステーションまで歩き乍ら、いろいろ話し、『太陽』に書くものの題を思いつき、「我に叛く」とつく。

七月十七日

(日曜)
 千葉先生がお家にいらっしゃるかと思って行って見たら、お留守、おばさんが出て来られる。お小さいのはまだおありになりませんか? ときく。何故誰でも其那に其ことをききたがるのだろう、妙な心持がする。
 まだ結婚して、さほど間も立って居ないからよいようなものの、今に、五年も六年も立って、一人も居ないとすると、さぞうるさくて困ることだろう。
 養子をなさいと云うものはないだろうか?
 苦笑と、一種の寂しさを感ぜざるを得ない。自分ほど、子供に恐怖を持って居るものはないだろう。よしあしと思う。

七月十八日

(月曜)
 藤沢氏の処へ行く日。丸善で、クロポトキンのリアリーテーとアイジイアルス of ロシアン・リテラチューアと云うのその他を見たいので、ついでに近藤さんに会おうとアレンジする。
 十二時頃行って待って待って見ても来ず。仕方がないので三越に行き、半襟をかって、早めに藤沢に行く。吉原の近くでまったくの貧民窟、ひどい狭い曲角を、女房連の環視のうちに曲ろうとして、思わず恥しそうな間の悪い表情が顔に現れるのを感じた。女房の人は、Aの母の妹で子供の時世話になったと云うので、一種特殊のなつかしみを持って行ったのだ。然し、教養のない、わざとらしいなれなれしさ、一種のへだてを、わざとかっぽったなれなれしさが、やや心持悪く感じた。何だか相手がどの位まで純粋なのか分らないような気分になった。ああ云う処での生活は、未知の数々を私共に教える。ああ云うのを見て、誰の心にでも直ちに愛が起るか?

七月十九日

(火曜)
 水津氏の処を、目黒火薬庫前に訪ねる。
 今日、とり来る。
 水津氏は留守。林町へ行き、十二時近くかえる。

七月二十日

(水曜)
 午後、政教社に行き、千葉先生、その他にお会いし、一幕もの、「宵」をあげて来る。
 かえってから、とりをつれて林町へ行く。
 おさとさんが来て居、もう一年も東京に居るときめたとのこと。
 十時頃かえり、とりにぬいものをあてがい、その他種々のことをきめて床につく。
 なかなか眠られず。

七月二十一日

(木曜)
 朝、八時半の特急で、福井に立つ。
 前の側は全部、アメリカ辺の出稼がえりの人々にしめられて居る。前に、インディアンのように黒い、頬骨から顎にかけて、深い生活の労苦を刻みつけた女を母親にした、四人の子供づれの家族と、五人の子供をつれたのと、同胞らしい三人とが居た。
 髪ももさもさにし、塵だらけになった大勢の子供が、眠った母親の辺で、つかみ合たり、なぐり合ったりして居るのは、見てこの上もなく陰惨な感じを与えられる。子供を見て、まことに美しく、愛らしく見えるのは、大抵彼等が一人の時だ。
 十二時近く、福井に着く。月光の流れるような河の堤を、人の背たけより高くのびた、麻の香をかぎ乍ら、村へ来る。昨夜来の睡眠不足にて非常に疲れて居る。

七月二十二日

(金曜)
 朝比較的早く起きる。
 疲れがまだぬけ切らず、眠い。
 一日ぶらぶらとして過す。
 去年来た時より静に、馴れた心持にてよろしい。
 去年の六月頃に生れた敏子[#村田敏子、荒木茂の姪]と云うのが、白い顔をして非常に愛らしい。

七月二十三日

(土曜)
 多分窓の雨戸をしめずに眠ったせいか、風邪の気味で頭の工合悪し。「病気」の処を、激しく動いたせいもあるか。
 此那では、『太陽』のを書くのに仕方がないので、頭を引しめるために、ミーレー「森口多里訳」をよむ。
 ミーレーの祖母の宗教的感激が、如何に深甚なものであったかと思うと、我々の背後にそのような霊感的遺伝のないことを深く思わずには居られない。
 ロシアの農民に対する愛、農民が人生に持つ、深い抑制した内に深まった愛を真実に経験せず、英国人、あめりか人の、深い宗教的熱意、慧明にも関与しない我々日本人は、何を、人格的光明の背景として持って居るのか、只、美しき模様の如く? 頭と心とを抜き、情意で流れて行くのか? 文学者の中に、深く汎人間的な感激を蔵して居る人の少いのは私はいやでも其処まで考えさせる。
 人情、と云うものの価値が、日本では独特なものになって居るのではないか。
「我に叛く」の筋書をつくる。

七月二十五日

(月曜)
「我に叛く」を書き始める。

八月五日

(金曜)
 一夫さんが西津(県内の若狭よりの海岸)の小学校に行く辞令をもらって、天下我ことなれりと云った風で居るのを見ると、淋しい。
 たった二十歳の青年が、すっかり安じ、弱いあによめを顎使して居るのを見ると、いやだ。小さい人間には何と云うなり易いことか。

八月七日

(日曜)
 村から少し北に、次郎丸と云う村がある。姉さんの実家のある処だ。其処の、此方から入ると入口に、清水ショーズがある。大きなけやきや藤のからみついた古木のとりかこんだ一隅の地面から清水が湧き出して来る。其を広く石でかこった場所なのである。
 夕方から散歩がてら荒木山からぐるりと廻って出かける。丁度落日が、強い赤い斜光を投げて居た時なので、黒い、木立や其処にチラホラ見える白い着物、日にやけた者の赧い顔がコブコブの樹とともに、支那風景のように見えた。
 次郎丸へ行く途中、荒木山の下を流れて居る川が、二又になる処に、薄などにまじって傾き苔のついた石碑が、まめつしてある。又村の入口の小高い処にも、小さい地蔵様がある。昔何か出たと云ったのだそうだ。日本の古い時代がまざまざと浮んで来ると同時に、そのような気分が桑野辺と実に違うことを感じる。
 彼辺では、此方ほど天狗や狸、ばけものの話は少ない。一つは、山がかなり遠方にあるのと、新開なのと、空気が乾いて居て、周囲がからりとして居る故ではないか。
 此処で、老人から聞いた話の中、実際あったと云うのは(自分が)荒木山のはしの松の木に居る天狗の話だ。
 (一)夜、丁度其下にあった田圃を見廻りに行くと、天狗は、人がそばに居るのはうるさいので、ヒューヒューと身にはあたらない処へ石が落ちて来た。
 (二)やはり、同じ理由で来ると、丁度其辺に、大勢坊主が燃き火をしてがやがや話して居る。何事だろうと思って行って見ると、動いて彼方で又がやがや云って居る。あとには火をもした模様も何もない。
 (三)最も面白いの。
 子供で、草刈に仲間と出かけた。天気がよい。あの平の処から見ると、村々が平らに眺められる。子供達は、草刈はそっちのけで、すもうをとり始めた。
 すると、山の上から一人の坊さんが来た。普通の坊さんだ。相撲をとるのを見て、俺と相撲をとらんかと云う。が、何だか、思いがけない時に出て来たので、気味が悪い。おじおじして自分達が(一字不明)すのもやめになる。――彼方も黙って居る。此方も黙って居る。――と、坊さんが木の葉をとってなげ始めた。軽い木の葉、それがビュービュー鳴って飛んで行くのを見ると、子供等は思わず、はっと胸を打たれた。坊主の顔を見た。そして、いきなり、によも何も放り出して、いのちからがら逃げ出した。「ころぶもんもありゃあ、這くるものもあり、いやはや散々じゃったが、せどの仁助どんばっかりゃあ、胆のすわった子供だったと見えて、ちゃんと、によを拾って逃げたこっちゃ」

八月十一日

(木曜)
 寺が中心になって居ること驚べし。
 月に二回、おこう、と云うのがある。主人又は老人が、お膳を持って、朝寺に出かけ、そこで皆御飯をたべ、すんでから、お説教を聞いて来る。
 さほど深い感激でこれをするでもないだろうが、とにかくお祭りはよくする。

 何処でも相当な処では、一間から、二間の仏壇が、白い襖がたって、床の間の傍にある。中に大きな大きな金ぴかの、親鸞上人の一代記を小さい人形でかざりつけたような仏壇が入って居るのだ。

 或子供がよく一人で留守をさせられるので気味が悪くないかと云ったら、仏様がうらと一緒にいらっしゃると云った。

八月十二日

(金曜)
 村は、古風で、細い道が通り、太郎丸、新保、その他の字に分れ、一つを村々と云って居る。
 福井の方から来ると縦に、――東から西に小流れのある道が、二條か三條通り、南北に、もっと狭い道が、二つ三つ通って居る。村は、桑野のように┌な形ではなく、あんなに wild ではなく、全く京都風である。
 ああ云う風に北町、南町などと云うのもない。
 私は貧乏でも、きたなくても桑野の方が、通りのひろい、風景のよさ、open plane なところがすきだ。
 昼から一二時間のひるね。

八月十四日

(日曜)
 水田の多いせいか、おはぐろとんぼが多い、非常に沢山居る。午後二時頃のひかげ。
 柿の黄色い朽葉の上に、緑銀色の強い胴と、黒い、しょうしゃたる羽根を持ったおはぐろとんぼが、一つ一つ息をつく間を置いて羽根を拡げたりすぼめたりして居る。
 蘭の下生えの岩、せみの音、日本だ。
 こちらのせみは、オーシーツクツク ミーン、ミーンと変化多く、華になかずいつもいつもジージージュージューとなる。

八月十五日

(月曜)
 今日送り出す。
 昨夜殆ど徹夜をして書きあげる。時間の足りないうらみ。
 頭非常に疲れを感じる。お寺の中心になってること驚くべし。
 昨日から、田舎の盆なり。盆踊りと云うところを、およりと云う。
 今日は、太郎丸の寺に踊があるから行って見ろ、と云うので、出かける。此辺では夕飯後、お寺の説教に出かけ、それがすんでから、踊るのだ。まだ少し早く、説教が始らぬ。狭い境内に大勢男や女が居、花火や駄菓子の露店が通り切れないほど子供をよせて居る。はでな着物を着た若い男や、何処に此那のが居たろうかと思う若い娘が、はしゃぎ、待ってどよめいて居る。
 説教が始り、少し四辺が静になる。黒い衣をたくしあげ、白い着物に赧顔を光らせた四十五六の髪の薄い凡下な骨相の男が、一寸頭を左に曲げ、言葉と言葉との間をわざと区切らせ、唇を一寸とがらせ、坊主よりも講釈師と云う風体で何か喋って居る。忽ち、すむと、吊してあった二つの大提灯に火が入る。此方の隅で、お前から始めろ、いやお前からと、皮切りをためらって居る男達がある。と五六人が、声を合わせて、何かうたい乍ら、背を丸め、はげしく体をふり、小さい輪を始めた。段々人が殖える。踊が始る。――が、此方のは、太鼓も使わず、歌の歌いかたも、安積辺とはゆっくりして居る、つまり柔かいのだ。
 一例
「おどりおどるならいえー、しなよく願おう。御見物衆なら、静にーねがおう。(あ、あやあすけどっこい、どっこいな)がっちゃがっちゃかっちゃかっちゃ、何が何だか分らない(ああなんまいだ、なんまいだあ)」
 との如し。
 黒と小さいかの子四角の浴衣着、可愛い銀杏返しに白い羽根のかんざしをさした若い女が二人目に立った。
 月のかげになると、重く、黒く、もぞもぞと動き、月の光の中に浮ぶと、急に精がついたように、軽くぼんやりとすき透るように踊る。その変化。

八月十七日

(水曜)
 今日は盆踊りが中村と云う福井よりの村にあるとのこと。
 大きな提灯を三つも吊り下げ、拝殿にも、入口に何か絵を青や赤で書いたのを下げる。

 かけ声には、やーすけどっこいどっこいな。ああ、なんまいだあ、なんまいだあ、とか云うのがある。よく謡の調子は分らない。

八月十八日

(木曜)
 上にある句が、快い涼風を心に生ぜしめる。午後珍らしく夕立が来たかと思うと、もう晴れ、なかなかの暑気、東京に居る方、氷がある丈もましのようなものなり。村には氷もなく、水菓子もなし。親兄妹が居ればこそ来ると思う。
 夕飯に、渡辺に呼ばれる。いつも親切に云って呉れられ、気の毒に思う。非常にかたいさざえには思わず微笑し、美味いそうめんに驚く。
 夜、よし子さんとつれ立って三人、お宮の踊を見る。例の、紺の着物を着、大きい背を少しかがめたような豆腐屋の息子が居ないで弾まない。待ち心になる。やがて来、一とおりすみ、今度は、ほんとにすきなもの許りが三十人ほど、すぼまっては開き、開いてはぐるりと転ってすぼまって行く踊りかたで、彼一人の音頭で非常に面白かった。相撲甚句、山づくしとか、種々唱う。一つ奇妙に感じたことは、踊の花形として、彼を待つ心持だ。人気とは彼那心理か。彼が来ないうちは、何だか光彩なく思われる心持。調子はまだよく分らない。
 最後に見たのは、例えば、
 相撲甚句で申そうならば、ほい!(手を叩く)……(ほい!)と云う連続

八月十九日

(金曜)
 近頃自分とAとの間にはまるで衝突と云うものがなくなった。一面から見れば、私が、彼に対する理解を深めたのだと云え、一面から云えば彼に私の期待はかけない、と云うことになったのだ。此間中からの様子を見、彼の小ささを感じる。決して、大きい人間、或学究の第一人者には、天性、なれないことはないかもしれないが至難だ。野心で努力すればともかく、そうでなく湧起る力は乏しい人だ。自分の仕事でも何でも彼にはたよって居られず、彼とは、人間の横の深い、おだやかな縁で丈つながって居るほかないのだ。深い理解も、愛の及ぶまでの処だろう。
 仕事に本能的な直覚や牽引をどれ程感じて居るか? 天才ではない。其点から云っては nothing extra.
 love is earnest, but not alway right.

八月二十日

(土曜)
 文学史の使命は、その読者をして其国の文学に愛を起させる丈の力を持って居なければ何の力もないものではないか。
 此意味で、只さえ精神的連鎖の乏しい前代の文学のよい歴史を私共が持ってないのは不幸だ。つまり、和辻さんの日本古代文化と平(ヒラ)の歴史との異うごとく、文学史に生命を与える丈の大きな人格が、芸術家が、これにあたらなかったのだ。
 将来の仕事の一つに、たった一つでよいから、よい溌剌とした日本文学史を書きたい。此のためにはまだ自分の学識も実力も乏しいが。クロポトキンの「ロシア文学史」をよむと、此を痛感する。要点を捕えて深く暗示を与える。

八月二十一日

(日曜)
 若し最初私の理想が間違って居なかったら、結婚は、少くとも理想り(ママ)に行かない、多くの本質的要素を、持って居ることを発見した点で失敗だった。と云える。然し、此のために、自分の人格は深められた。柔い人間的な協調だけで行けるとしたら、自分はずい分甘い人生をのみ見たろう。
 自分が、今度得た理想主義的意力は、仮令、自分が愛して、信じ結婚したものでさえ決して、自分の想像、或は予測通りではないのだから、と云う、苦しい苦い失望から、甦って来たものなのだ。
 二つの面白い長篇の構想浮ぶ。
 一つは一八六〇年より七八十年に至るロシアの文化状態、
 一つは、一人の女性を中心とした現代の日本。
 クロポトキンの自叙伝を中心にして、前者の準備に着手、すばらしく面白し。

八月二十二日

(月曜)病気
 今日は著しく秋らしくなった。おはぐろとんぼが居なくなる。葉けいとう。秋らしい。
 クロポトキンの「ロシア文学史」を読むと、単に時代を追って、如何なる作家が著れ、どんな作品をあらわしたかと云うことを知るばかりでなく、批評の精神、読書と云うものの深さ、作者としての参考すべき諸点を知らされる。例えば Folk-novel の陥る弊、理想化、ロマンティシズムの過多等については、将来のよい指導になる。
 See throughly deep! 人生を観るには此ほかなし。
 クロポトキンは、彼の性格から、作品の reality をひどく重じ(勿論そうあるべきだ)て居、又その社会的内容に深い興味を持って居るのは面白い。日本のペテー・クリティックスのように、然しそれもよいだろうなどと云う妥協、或は心の不真面目さがない。おかげで随分自分の頭はしっかりした。

八月二十三日

(火曜)
 何心なく、下を見て、今日は、あの戦争に、少くとも日本が参加したらしくなった時だと知った。
 神棚に燈明を捧げた時の緊張を想起す。

八月二十四日

(水曜)
 きのう学習院から手紙で、どうしても来学期から来て呉れるようにと云って来る。急に帰ると云い出され、午後五時三分の汽車で立つことにする。余り急なので間誤付くより、皆の失望したいやな顔を見ると、憤ろしいような気分がした。まして、体の工合が悪い。帰りたくないものをかえす場合、かえりたくないのを帰ろうとする時、憤りに似た感情が湧く。
 停車場まで兄上[#村田安]、たけを[#村田家の長女]、父上[#村田弥三太郎、荒木茂の父]まで送って来て下さる。
 米原まで、すぐ前に東京の男が居、すき通る黒い着物に角帯、黒い紐で時計を懐に入れ、中途を、何かいきな茶黄色いくり物でとめ、黒地に金泥で書いた支那扇子を持って居る。円い小さい顎、重い大きな鼻、情熱的な瞳、強い印象を自分に与えた。米原で女に会い、その女は、待合室へ琴謡などをうたい乍ら人形の大きなのを抱いて、時々なかせて居るように、娘々した端はな女だった。米原からやっと寝台がとれた。

八月二十五日

(木曜)
 東京は涼しい。
 空気が軽く風が吹くので、頭がさっぱりするようだ。
 室の前に、日がさし込むので、緑色の布を張る。
 とりはよい女だ。が気が小さいのにはやや神経を触られる。
 大胆な大ざっぱな女なら、其で又いやなのだろう。然し、こまごました家庭の仕事をやって呉れる者があるのはどの位よいか分らない。少くとも気分がひどく違う。よいことをしたと思う。
 お金の勘定や種々のことは、Aと、二人でやって呉れればよいのだ。
 ゴーキー[#ゴーリキー]が Folk-novelist として最も注目にあたいする人であるのを知る。彼の描く漂浪者でも何でも、ロマン・ローランの Colas Breugnon の人生観に似た人生観をもって居る。

八月二十六日

(金曜)
 風の強い日。机の前から戸外を眺める。二つ三つの屋根を越した彼方に、清灰色の蔵の一部が木間がくれに見える。前に、何かひどく枝のしなやかな、葉の房々とついた樹木が立って居る。それが、風が一吹さっと吹いて来ると、まるで、気が狂ったように、女のように、軟く烈しく身を揉んで揺れる。頭を振り、震え、上ったり下ったりし。やがて一瞬が過ぎると、ひっそりと鎮り、此方の木は、ひどく動くのに、そよりともしない。不思議な面白い光景。
 下を、飴屋カンカラカンカンカンカン、カンカラカンカンカンと、かねを叩いて行くのを聞いて、風と、日光と、散れて大きく響く電車の音とで、妙に凄じく感じた。大観音の祭日の、澄んだ月夜と、太鼓鉦の音の激しい緊張。

八月二十七日

(土曜)
「文学史」より。ロシアの Folk novel の発達の初期にあって、作者が、Poor class に対するアイディアライズ、センティメンタリズムで、その真の姿を現し得なかったことを、明に、教訓深く示して居る。そのロマンティシズムを打破するために、極端なリアリストが現れ、その二つを統合した産物としてゴーキーが現れたと云って居る。
 此は、自分でもよく分ることだ。どんな気持でアイディアライズするか。自分は「貧しき人々の群」の中で其を経験した。
 現在、労働文学と云われて居るものは、それではないだろうか。第一、斯様な問題に触れて居るのは、多く労働者の左袒さたん者である。其ために、彼等の無智、彼等のたいだ、彼等の原始的生活状態にまで陶酔的価値をつけ、社会主義者の廉価な亢奮を示すのではないだろうか。

八月二十八日

(日曜)
 ロシア人の話しずきな傾向――特に知識階級の者の中にある此傾向は、ロシアの思想界がセンサーによって圧せられ、印刷物の上で自由な表現或は闘論が出来なかったからではないだろうか。
 十九世紀中葉からロシアに現れた“Western”“Slavophil”との対照は面白い。日本の目下の思想界はその通りではないだろうか。
 クロポトキンの「革命家の思い出」を読んだものは、彼が、ステプニャクとの友情の始りや人格について、どんなに暖い言葉で書いて居るかを知るだろう。が「文学史」を読むと、実に、彼の理智の明らかなこと――文学史上に置かるべき彼の位置並に、行為を、自分の友情や追想に溺れずに明にして居る処に驚く。若し自分だったら、若かった時の思い出や友情にまけて、おそらく、ヘルツエンに対してより多くの言葉を並べたかもしれない。斯う云う頭の明晰さは必要だ。事物の正当なバランスを見出す上に。

八月二十九日

(月曜)
 きのう、林町から父上が工合がお悪いと云って来たので、驚いて、二人で行って見た。急性リョーマチで、足が膨れたのだそうだ。大したことはなかったからよい。
 Aが、いかにも、自分の家らしく楽しく愛のある態度で居たのに心を動かされた。彼那にも違うものか。
 彼は母上が居られると彼那に自由に安らかには居られないのだ。
 夜十二時頃まで居た。

八月三十日

(火曜)
 おかあさま英男皆安積から帰る。
 国男さんのことを種々話し、あの人の結婚問題のことについて考える。

〔九月予記表〕

「午市」を書き
「南路」を書き。
「黄銅時代」に再び着手。

九月一日

(木曜)
 クロポトキンの「文学史」に対する考。
 ロシアの文芸批評家に関して読む。ロシアの文芸批評家を一貫して流れて居た傾向が是か非かと云う問題を論ずるに自分の芸術観は余り薄弱なものである。けれども、トルストイの芸術論に至るまで系統的な歴史と理想の発展とを持って来たロシアの文芸批評は、日本の現状とはまことに遠いものである。
 日本の文芸批評家が広く、客観的に日本の社会状態を視て、この社会の裡に生きて居る文学者の種々な傾向を批評するだけのなぜ大きさがないのだろう。あまり狭い専門的職業家になって居る。そのために云う言葉の範囲と深大さとが欠けてしまうのである。

九月二日

(金曜)
 何にしろ、日本はあまり苦しまなさすぎると思う。
 人道主義が日本で真実な発展を出来ないのは、深い鋭い人道主義が人間の心心に要求される程、生活が深刻でないからではないか。其故、この楽な、ほろり主義の文学上で(生活の中で)人道主義を強調する結果は滑稽になる。どろぼうに追銭と云う感じを与える。これを自覚したものは、シュール・リアリズムに陥り、日本式な、もことした描写芸術家となるのではないか。
 生活を徹すると云うことは大切だ。容易でない。芸術家ほど自己の内容に革命家を要求するものはない。日本のホロリズム、転化せられ柔められたヒューマニズム――お都合主義の深い根について考える。

九月三日

(土曜)
 三月三日に出立せられた皇太子が今朝十一時過東京ステーションにかえられる。
 自分は、まるでプレジュディスも何もない愛と歓とを彼のため、彼の周囲、並、日本のために感じずには居られない。
 きのう、『時事』の附録の岡田三郎助氏の描かれた御肖像の三色版が来たのを見て、自分は、自分の心持を反省せずには居られなくなった。
 若し、途中何か事があれば、少くとも五六人の人は死んだだろう。死ななければならなかっただろう。それを知るのも日本人だからだし、此、歓びを知るのも日本人だからだろう。
 此、特性は、自分が、過去の伝統を多分に持って居る故か? 又、人間が其民族的遺伝を失われない意味に於て肯定し得るか。
 十一時半頃しきりに寺の鐘がなるのを聞く。
〔欄外に〕きのうは午後から、ひどい雨が降ったが、明日はからりと明れ(ママ)、一層万物が新鮮に見える。

九月四日

(日曜)
 ロシアの文学者が各自の才能を充分に発揚出来ないのは、政治的社会的圧迫によったのだ。日本の文学者が大成しないのは何か。自分は余りに鼻持ちのならない文壇的雰囲気、どうにでもなる日常生活であると思う。

九月五日

(月曜)
 ○一寸したトルストイの寓話をよんで見ても、又其他の小説家の小さい作品をよんで見ても、ロシア人は、生れ乍らの理想主義者だ。江戸っ子が生れながらの、気分っ子である如く。
 日本に若し、煙草をおやめなさい、其那ものはつまらない、大切なことは霊魂のことを考えることですと云ったとしたら、其は、えん、大きなお世話だ、と云う返事か、お前さんヤソかね、と云う質問を受けるだろう。
 聖徳太子の時代の日本人もそんな――現状をそのまま溯らせたような人間――心の所持者だったのだろうか。

九月七日

(水曜)
 長い夏休みがすみ、急に生活が緊張したせいか、Aは、ひどく疲れ、いくら眠っても眠っても眠りたりないように思うと云う。
 心配し、キナ鉄の葡萄酒を買い、食後少しずつ飲むようにする。精力の薄弱な人なのか甘えるのか。
 健康な肉体、充実した精力がなければ、決して大きな仕事は出来ない。

九月九日

(金曜)
『新演芸』にたのまれた評をするために、帝劇を見る。はんぱなり。

九月十六日

(金曜)
 午後から国男さんが、のりさんをつれて来る。いろいろオペラの話をし、のりさんを送ってから一緒に切符を買いに行こうと云って仕度をして居ると、来、おかあさまがぜひ来るように、切符などはいつでもよいと云われると云う。「我に叛く」について、彼女は、私共が、自分達の生活の内幕を、好奇心をもって居る世間にあばき出し、自分をおとしめたと云って怒って居られる、と云うことを、国男から聞いて居たので。二人を呼んで云うと云って居らっしゃるそうだが、二人で行くとなお面倒になるので、却ってよいと思い一人で国男さんと行く。
 平気で落付いて居ようと思って行きはしても、母が、激し、誤解でどんどん迫って来ると、自分も熱しずには居られなくなってしまった。岡部さん[#英男の家庭教師]岡部さんと云われる。どうしてそんなにあの人の言に信を置くのか。あの人の評価に絶対価を置くのか、矢張り女の人だと思う。
 始め、彼から話を聞き、Aが、私にそそのかして書かせたと思ったのだそうだ。そう云う先入主で読み、又一つ一つのことを、自分にのみあてはめて考えようとされては、快く読める筈はなし、又私が生活の中で印象されたすべてのことが、どんな結果を与えるのか自ら分らない彼女には、普通の人と同様に、小説は小説、生活は生活と云う一つの溝があるべきだと思って居られるのだろうか。自分は、自分の生きる世界と、彼女の生きる生活との差、性格の差、評価の差等を涙をこぼし乍ら話し、六時頃帰る時には、彼女の気分もしずまって来た。やはり親子だと思う。何故相互の結局目的とする処に目をつけ信じて進んで行けないのだろう。
 子によって生きる親は気の毒だ。

九月十七日

(土曜)
 午前中、国男さんとオートバイで、帝劇に行き、オペラの(カルメン)切符を二つ買って来る。
 午後から、久し振りで電気館に活動を見る。朝新聞で、クロイツェルソナタとアテネ夜話とか云うのをすると云うのを見て、クロイツェルを見るのが主で行ったのだ。
 が、それは、原作をまるでもじり、随分通俗にしてある。
 失望した。
 アテネ夜話と云うのは、舞台面も美しく、大がかりだが、少しセンチメンタルすぎて、面白いと云う程迄には行かない。
 なかなか活動も見る人々の目が肥えて来るから、よき文芸的作品を作るのは容易ではないだろう。
 トルストイのクロイツェルソナタと云うてあんなのを見せるのではいけない。

九月十八日

(日曜)
 三越へ行き、サンドウィッチの材料、Aのボーラー、を買って来る。
 雨が降り、路が悪い。かえりに星へよろうかどうしようかと云って居たが、どうも天気がひどいので、真直に家へかえる。
 かえってから千枝子さんに手紙を書いた。
 あの人もおかあさんになったのか。
 普通の結婚をした男女が、相手の不満に対して、相互の責任を感ぜず、運命のまわり合わせが、自分達の意志に逆っても二人を結び合わせたと思うのは、一面無理ならぬことと思われる。
 その二人が、一人の子供を持つとすっかり甘く納る。――意味深いことだと思う。一方から云えば、次の人類に対して、人間は、それ程没我になる本然に生きて居ると云え、一方から云うと、箇人の人間としての悩みは、その位あさはかなものであるとも云えるのではないか。自分は、子供で納ることを心から恐ろしく思う。

九月十九日

(月曜)
 急にザーッと雨が降り込み、いつか晴れ、又、いきなりゴロゴロと雷の鳴るような日。
 ゴンクウルのジェルミニー・ラッセルトオを読む。ふと、先達って、手にふれ読み始め、気がのって読み終ってしまった。
 よく書いてある。訳本なために印象がにぶくされて居るうらみはあるが、よく書いてある。
 終りについて居る日記に、それを出版する時、本屋が「虱」を公衆のために「いやな虫」としなければいけないと云ったと云って憤慨して居るのを読み、感に打れた。或時代文人は貧乏と云う文字を公衆のために、しがない暮しと書きなおせと云われ、或時代、革命のことを衆愚の愚挙と書けと云われるだろう。時代によって対照と嗜好は異う。がいつも凡人は、それでは、と云う何物かを持って居るのだ。

九月二十日

(火曜)
 自分は不思議な心持がする。自分の仕事をする時、私は、自分の心の傍に、霊魂の居ることを感じて居なければ不安になる。
 自分が何かする時Aが、家に居ないと落付かない心持がする。先は、居ると落付けず又居ないと落付けない苦しい心の状態にあった。それが今、居た方が、言葉を交わさず、顔も見ないでも心が落付いてよい。
 ○机を八畳の方に移し、Aの机と並んで勉強する。午後四時頃、正面からさす光が、さほどひどく気にならなくなった。
 雨の降った揚句、空が雨雲と碧空と混りあってむらむらして居るような時などは、ゆれるひばの葉ごしに、林間にでも居るような爽やかな太陽のゆれを紙面に感じさえする。
 ○くもり硝子をあけると、小鳥の籠のこまかいあみ目を通して、濡れた黒塀とその前に植た青々した若木とが美しくさえずる小鳥とともに図案のように見える。かごは4尺×2尺天井は丸。

九月二十一日

(水曜)
「降誕祭の脚本」を書くことにした。正月号、『太陽』のため。
 その材料は、まだなかなかそろわない。何にしろ、精神病学ももう少し勉強しなければならず、アメリカの刑法も知らなければならないから。丸善へそのために行くと、思いがけず高垣さんに会い、カフェユーロップでコーヒーをのみ乍ら、その話――主人公、石田昇さんの話が出、いろいろ参考になることを教えて下さった。Aにはああ云うインテレクチュアルな、私を、より広く深くするような力はない。其がつくづくなさけなく思われて来た。
 自分で丈、広く求め、深くさぐって行くほか仕方がないとつくづく思われて来た。それを悦ばないほどのAではないだろう。
“Our Prison System”“The Prison & The Prisoner”を買って来る。

九月二十二日

(木曜)
 前述の書物をよみ、書きぬきを作る。
 アメリカの Sing Sing の自治的組織を見、如何程日本の組織と異うかを考える。
 神近市子氏は、頭もあるのに、あれ丈囚人の生活をしり何故それについては一言も云う折を見出されないのだろう。随分女囚などは苦痛と悲とを味うのではないだろうか、それにつれて思ったことは、市子氏位の人でも、憚る、一種のあわれな心持を与えられてしまったのではないかと云う事である。正々堂々と物を云えない、或は云わない心持。
 深い大きなことだと思う。

九月二十五日

(日曜)
 林町に独りで行く、雨。

九月二十六日

(月曜)
 お百合さんが朝十一時頃来、いろいろおそくまで話す。
 あの人のよい処が分り尊敬する心が湧きよい時をもったと思う。淋しい人なのだ。其故、あの賑やかさにも、何処か空虚な処がある。
 子供らしい熱心さや他意なさを持って居ることは、あの人のために悦ぶべきことだと共に可哀そうだ。

九月二十八日

(水曜)
 幾年振りかで、朝電気のついて居る時に起き、雨の降る中を横浜に行く。八時上陸がおくれ十時頃になる。ペルシャ丸は小さく淋しい船なので驚いた。始め西村さんが見つからない。漸々これと分ったが、髭がないため眼じるしを失ったと知る。
 七年振りの帰京に、長野の親類二人と私ほか迎えがない。来てよかったと思う。午後万世橋ぎわの旅館に来、Aを呼び夕飯をたべ、帝劇にミニヨンを見る。ボックスが如何に見られる場所で、見る場所でないかを痛感する。
 西村さんは相変らず西村さんだ。会って忽ち、他意ない悦びを感じた。あれ程、うちあけて、楽しく迎えられる人は彼と浜中氏と、岩本さん位のものではないだろうか。
 長く立って居、歩き、非常に疲れた。

九月二十九日

(木曜)
 昨日一日の仕事で疲れて居たが、林町で二人に来いと国男さんをよこされるので、夕食後に行った。母が、「我に叛く」について段々不快、不満をAの方に持って行き、今後、私共二人に会いもせず、来ても呉れるなと云われるのだ。総ての衝突、不快は、彼女がAを理解し得ないこと、理解し得ないことをAが知り過て、其を越えられないことによって起って来る。自分の考えから云えば、彼女の態度は浅薄で人間の深い心の連続を見ないように思えた。が、苦しかった。会う会わないなどと云う事実は兎も角そう云う不自然な、堪ゆべからざることを堪え得るものとさせたような感情が、自分には悲しく辛く、彼女のために情けなく思えたのだ。自分は泣くまいと思っても泣けて泣けて涙が押えようもなかった。自分は、そんならばと云っていこじになる気はない。けれども……理解が或程度まででその程度に自任し自足するのは恐ろしい。丁度例の病気の最中だったので、ひどく刺激され、夜、眠ろうとしても眠られず、ヒステリー的な発作を起した。
 私共母娘は恐ろしい因縁によって生れたのだ。
 彼女は自分を愛す。自分も彼女を愛す。しかし彼女は、Aと一緒にある自分は愛のままに愛されないのは、どうしてだろう。
 自分は、切実に、親の恐ろしさを覚えた。
 親になることは、恐ろしい。親になって、あれ丈自分も苦しみ、子を徒に苦しめるのは、恐ろしい。

九月三十日

(金曜)
 わびしい天気。眼が重くれ、心が淋しい。思うと涙が出る。
 一日、夕食まで床に居る。非常に体と心との疲れを覚えた。

十月一日

(土曜)
 国男さんが来、夕飯を一緒に食べ、トランプをし、散歩でもしようかと云って居る処へ高垣氏が来られた。十時過まで話し、かえりに停留所まで送って行く。
 今日、午後雨がはれたので、九段までべに雀と巣とを買いに行った。
 先に行ったときは、笑顔一つ見せず、しぼみ、冷やかだった老女が、愛素よく笑い話をするので快く思い、面白く、さながらなれない小鳥がすね、危み、敵視し合うのが、やがてなれて来たような気がした。
 母上が、昨日国男さんに来て見ろ見ろと云われたよし。
 何と云っても親、母は母だと思う。何故もう一つ深くなれないのだろう。辛く思う。

十月二日

(日曜)
 雨、一日家に居。

十月三日

(月曜)
 図書館。雨。

十月四日

(火曜)
 雨。朝早く、Aと一緒に家を出て、図書館に行き、呉秀三氏の「精神病学集要」を読み終る。五時頃帰宅
 かえって机の上を見たら、天皇御重態、快方に向わせられず、と云う号外が来て居た。自分は、思わず、「まあ!」と呼び、驚に胸を打れた。其瞬間、自分には、理屈を越えた国民的感動とも云うべきものを自覚した。平常の制度や習俗に対する批評外に立った純真な感情が、一般の不幸、不安、どうしたらよいか、と云う感じを味うのである。
 国民性の微妙さ。社会主義者はその独りな、静かな場合の感情に於て、どんな感じを味っただろう。只の好奇心からでなく自分は知りたく思った。

十月五日

(水曜)
 偶然手に触れた痴人のざんげ「ストリンドベルヒ」をよみ、いろいろの心持に打れた。結婚生活、女性と男性との性的本質の異い、これ等がはっきり分ったような心持がした。
 男性は情慾を持つ。女性は限りない肉感を持つ。情慾が制せられ、忘られて愛に高翔した時、男性は、明るく、強く、朗らかになるのではないか。女性の場合では肉感が精神を刺戟し、それを緊張させ放射させる情慾的発情に会わないと、弱く、泣きたく、センチメンタル不幸になるのではないだろうか。よくは分らないが、そうではあるまいかと思う。
 今日はひどくぐっすりと眠り、十時頃目を覚したので、図書館へ行くのはやめにし、家に居る。
 久し振りで天気になり、心持がよい。すがすがしく、木の間を散歩したいような心持になる。

十月六日

(木曜)
 又雨。此二三日、毎朝、早いうちに、心持のわるい夢を見る。今朝も妙に気味の悪い水に関する夢を見た。図書館に行く。
 三秀社の島信次氏の書いた「戦時米国概観」から、多くのことを得。The Prisoner at the bar と云うのを読み始め、有益らしい。
 かえってから、夕食後、火鉢を買いに出かけた。昨日野上彌生子さんから、「我に叛く」の読後感を送ってくれられた。返事をあげたく思う。が、どうも一日緊張した仕事をし、相当に疲れて来ると、気を張った仕事――手紙でも――したくなくなる。Aが、自分の仕事に落付けないわけだと思う。何にしろ歩く丈でも相当にあるのを困ったものに思う。もう一二日の辛棒。
 ○林町との間に、一つのはっきりした間隔が出来た。未だ日が浅いので、それ程の淋しさを感じないのみか、一方却ってさっぱりしたような心持さえする。つまり、もう行かなければ悪かろうとか、又今日あたり小林さんが迎に来るのではあるまいかと云う心配が、すっかりなくなり、一日がまとまって自分のものになる気持がするのである。
 母はどう思っていられるだろう。Aのためにも、母上のためにも、気の毒なことに思う。彼等にとっては悪縁であったと云える。
 母が、Aが世の中を都合よく行けるのは、偏に、父の紹介にのみよると思って居られる。愛すべき心持だ。それほど、彼女には自分の良人が万能に見え、有力に、成功者であると思えるのだ。それをとがめるような気分は、自分からは遠く去った。

十月八日

(土曜)
 今日は図書館行をやめ。昨日、音楽会へ行き、関さんのソローをきく。
 まだまだ。それをはっきりあの人に云い、もっともっと努力、ほんとうに自分のものを見出すだけの努力をさせないのは気の毒だと思う。
 まるでベツォールドの小さいひな型だ。
 頭の工合が妙に悪い。
 夜なかに目がさめ、頭じゅうが強直して、眠れず、アスピリンをのみ、睡る。
 疲れたのだろうか、あれ位でつかれては情けない。

十月九日

(日曜)雨
 もうずっと三十日も雨が降りつづいたのだそうだ。
 自分達は、道がわるいとか、散歩に出られないのと云う位のコンプレインニングだが、そのために、はたらきがなく、食うに食えなくなった細民が、幾百人とあると新聞に出た。人生の底に、コケのようにはかない生活がある。
 それが、見えないで居る。恐ろしい、深い深い生活。

 おそく床を出、一日のらくらとして過す。頭が(ママ)血したように変だ。

十月十日

(月曜)雨
 今日は頭の工合少々よろしい。もう普通位い。
 野上さんに手紙をかく。
『中公』の佐藤春夫氏のをよみ、深い心持で Dear my fellow! と呼びかけたくなった。純粋な人なのだな。
 何故女は、ああなれないのか。
 岸田劉生氏が帝展に入選。
 実力でかくのはよろしい。

十月十一日

(火曜)
 昨夜から晴れ、珍らしい月と星とが見えた。方々で崖がくずれ、家族が死ぬ。恐ろしい天災。自分などはほんとうに人生の楽な楽な一部を歩いて居るのだと思う。
 よく考えると恐ろしいほどの感謝が湧く。
 今日は急に暖く、おしろいを買いに行かなければならないのにあたたかすぎて出られなかった。
 降誕祭の脚本のためのXマスプレーの材料をしらべ。エステル書がどうかと思う。
 サムソンとデリラはもう誰でも書いたし、サロメもふるいし、珍らしいものと云ったら、門井も此位ほか思いつくまい。あとで彼が、その内容について種々思いめぐらすのにもよい材料と思う。

十月十五日

(土曜)
 快晴、すずしく寒い西南の風が吹き通る。桐の葉きばみ、深夜、枕に虫の声が通う。
 冬着入かえのためにトランクをあけ、紐育ニューヨーク時代の外套、ビロードの着物のかびたのを見、うたた思い出に堪えず。れんめんとして、あの頃が甦って来る。
 一枚の古着に誰が注意を牽かれよう。しかし自分にとっては、暫く手を止め、数分の忘我を誘う力をもって居る。又いつ此のようなものを着、あの空気の軽いブロードウェーを歩くか。
 茶色のラシャの地に、バンユートランドの夕暮が漂う。

十月十六日

(日曜)
 快晴、空を仰ぎ、考える。
 実に透明だ。先ず、日をすかして居る桐の梢を見あげると、其処には、まだ色づき切れない沢山の葉が、各々の不規則な曲線で空を画って居る。夏頃、或はうすい赤ちゃ色の可愛い若芽の生えた春頃、此梢を仰ぐと、其処には、はっきり、桐そのものの存在、その姿発育、地上的な美しさの力などが、自分の心を打った。けれども今日、注意して眺めると、それから受ける感じは、まるで異って居る。同じ空に聳る幹を見あげても房々とした葉を見つめても。
 私は、其処に、澄み澄んだ空気を先ず感じる。葉や幹などと云うものが、如何かにも軽く透明になり、仮令たとい幹の地味な緑色の不透明であっても、心の眼は、明かな肌の引しまったトランスペランシーを感じる。人間の体までそうなり、心が、四季の他の時のように地上の種々にこだわらず、直接、空気、空、にとけ入ってしまう。故に秋は人に物を思わせる。

十月十七日

(月曜)
 岩波から出た『思想』
 和辻さんの「原始基督教の文化史的意義」。
 アングロサクソン民族に対する反感的比較は、自分にそうかなと思わせたが、キリスト教発生前後に於けるユダヤの文化的圏境をよく見てあると思う。此で、自分が江原氏の小説で、何故ユダヤ人が此程民族的にメシア、しかもユダが希望したプラクティカル・メシアを要求し、(キリストが売られたか)疑問にしたのが分ったような心持がした。と同時に、若し江原さんに此だけの知があったら、あれももっとよかったろうと思う。心理□□(二字不明)が、如何に、深まらなければならないか、此は現代の小説家のもっとも深く考、反省しなければいけないことではないだろうか。
 男、おんなのいきさつでは仕様もない。

十月二十二日

(土曜)
 Aの「ペルシャ文学史考」まとまり、すっかり出来上る。嬉しく思い、二人がかりで綴じ、やっと一息ついた処へ思いがけなく水津氏が来られた。私共は久しぶりだったので、悦び、心から種々話したけれども、何となく感興がなく、疲れ、気がなく見えた。
 クレアモント時代の面影はまるでない。あの輝がない。
 どうされたのか。生活が幸福でないのかと案じる。
 伊藤白蓮氏が、宮崎滔天の息と恋愛関係に陥り、東京に止り、良人に絶縁状を送ったことが新聞に報道され、大さわぎとなった。
 種々の思いが胸に満ちる。

十月二十三日

(日曜)
 Aが、岩波氏に会おうとして電話をかけたが居ず、駄目。
 夕方、『読売』の記者が伊藤氏のことについての感想を聞に来、亢奮し、気がまとまらなそうにして居るので、話をするのが不安であった。
 本郷通に珍らしく出、ジャクソンの写真を入れるわくと great war に関する雑誌、本を買って来る。
 敏子ちゃんに赤いスウェーターを送る。

十月二十四日

(月曜)
 曇。午前中時々バラバラと雨が降り、午後からははれる。うすら寒く、空は西の方がほのかに卵色をし、あとは灰色に見ゆ。
『誠之』の「思い出すかずかず」を終る、十一枚。
 小鳥の生活、性格を見ると趣味がある。
 べに雀は、子供のような好奇心と、活気と、遊戯的気分を持ち、(一字不明)ひばりは、やや理智的で、淡白だ。巣を、只ねる場所として居る処、落付いて居る処、あまり雌雄でもいちゃつかない処。じゅうしまつは、全く人間的にドメスティックだ。巣を大切にし、その奥深く女が坐って、卵でもかえすらしくふくれ、弱って居ると、雄鳥は、それを守り、憂鬱に、傍について居る。

十月二十五日

(金曜)
『婦人倶楽部』に、「透き徹る秋」を送る。六枚と少々。
 杉村楚人冠の「戦に使して」をよみ終る。
 新聞記者をする人の文章には、達者なら達者で、一種のハッスリングな心持がある。
 真の文人は、新聞記事を書けないのか。
 或は真の文人たる素因がスポイルされるのか。

十月二十七日

(木曜)
『弘道』十月号に出た、「日本人の理想に吻合しない西洋人の家庭生活」と云うのに対し、読後感を書き始む。

十月二十八日

(金曜)夜雨
 村井知至氏の「無絃琴」をよみ同感。その故に今夜、青年会館にある「道」の会に行く。
 彼の人の話は、自分達のうちにある宗教観をよく表して居て面白かったが、石川半山と云うジンゴイストじみた男の話はいやになった。
 あんな男の話まで聞かせて全体のアトモスフィアをこわすのは、一種の政略の失敗に帰したものか。ああ云う公開のとき、もっと、ぐっと人を選ぶことは出来ないものか。
 明朝、Aは高尾の遠足と云うので亢奮し、よろこばしそうに見えた。が、夜半、激しい雨の音をきく。

十月二十九日

(土曜)晴―時々曇 発信不足
 今朝若し晴天ならAは出かけたのだが、五時頃降ったため学習院の遠足はおやめ。三越に買物に出かけようと床に来て云われたが断った。昼近くなり机に向って居ても、どうも落付かない。行くことに定め、念のため虎やから明治に電話をかけて置いた。そして一時までと云うので出かけ、早すぎたので丸善によってブラブラ駿河台のだらだら坂をのぼって行くと、彼方からAが笑い乍ら来た。電話は通じなかったのだそうだ。丸善で、ペルシャン・セルフトートを買い、帰る電車の窓から私を見つけたのだと云う。もし窓の彼方側を向いて居たらどんなだろう。行違ってしまう。機会、運は妙なものならずや。食料品を買い、かえり、午後、Aは文学史レクチュアの用意。自分は、本を読み、書かず。薪を干したり一寸したほどきものなどをする。Aが居ると書けない。

十月三十日

(日曜)
 今日は、我々の二年目の結婚記念日である。晴れて心持のよい朝である。自分は、今まで経た此日を思い出して、感慨に堪えない心持がした。
 一番始めの紐育で迎えた此日、クレアモントのあの日、そして、此処に引越してから二度目の此日。今日程平和な、時は、三年来、始めてであった。国男さんに来て貰って、写真をとろうとしたが、父上が小金井に行かれるので駄目だと云うこと、断って来たので英男さんにとらせ、夕方、駒込橋の岩崎邸の開放された処を、まるで田舎に行ったように静かな心持で散歩した。
 出来るだけAも自分も、せっかくの日をスポイルしまいと努力したけれども、夜、若し自分達が林町の父母か、又福井の兄たちであったら、仮令心ばかりでも、子や弟の結婚記念日を祝っただろうとAが云い出し、非常に淋しい心持に打れた。

十月三十一日

(月曜)晴
 只、彼等が私共に対して冷淡であると云うのではなく、結婚した日などと云うものは、日本の従来の方法では、毫も彼等自身、衣服を改めて悦ぶような気を起させないものであったのだろう。
 朝、思いがけず土田さんが一寸来た。
 夜、Aがおなかを悪くし、お風呂、ゆたんぷであたため、そのために散歩にも出なかった。
 もう冬枯れが近づき、庭に桐の葉、ひばの茶色にかさかさした粉のような葉等多く落ちる。

十一月一日

(火曜)
岩波氏より「ペルシア文学史」出版のため。
三日に会う(A)やくそく
 晴れて、爽やかなる日。読後感のつづきを書き、三日休んだので工合が悪いのを感じる。
「傾く日」を書く。林町のことを思い、心しずむ。
 夜散歩に出、例によって肴町まで一まわりして来る。
 近頃、自分は書籍の所有に対して一つ異った心持を持つようになった。芥川氏などとは違て、自分のよむ本は、大体図書館にでも行けば間に合うものだ。つまらない。一度よんでもう五年も手にふれないようなチープ・ノーベルスを沢山買い、並べ、火事の心配や、場所のせまさやをかこつのは、実に可笑しい。参考になり、なくてはならないもののほか、やたらには買うまい、と云う考なのである。
 風呂の火をたきつけ、なかなか燃えないのを、一寸薪をずらした丈で忽ち、ぼうっと勢よく焔が立った。人の心も薪の如きものか。

十一月二日

(水曜)
 晴、起きて朝飯を食べて居る処へ、大瀧の奥さんが来られ、かえってから、読後感を書き油がのって居ると、会田さんがすえ子をつれて来る。
 林町へ行かないのを心配し、涙をこぼす。感謝し気の毒に、しかし、仕方なく思う。
 Aが帰って来てから、本にまとめようと云う旧作の話が出、先に切って置いた切抜きの書挾みをさがす。が、見つからない。蓬莱町や肴町で古本をさがしたがない。
 国男さんにたのみ、雑誌でもよいと見て貰い、来たが、どれも、切ったあとのばかりで、気の毒で、自分も困ってしまった。

十一月三日

(木曜)
 夕方国男来、一緒に食事をする。
 A明日遠足だと云うので夜、せき、一寸駒込橋の方に散歩して床につく。
 岩波氏に会い、原稿を渡して来たとのこと。
 一ヵ月位返事にはかかるのだそうだ。
 国男さんが、到頭紙挾みを見出して呉れた。嬉しく思う。
 読後感を書きつづける。
 天気は北西の風晴とあるが、自分の家では妙に吹き廻すと見え、西の方は確かだが、樹を見ると、西南のように見える。

十一月四日

(金曜)晴 寒 風強く、青桐の茶色の葉、庭を埋む。
 朝五時頃、夜あけ前の、とけたような闇、傾いたように見える低い空に、星が素晴らしく大きくうるみ輝やいて居たのを見る。又ね、十時頃、おばあさまの声で起きる。十九日の八十のお祝のため、私に百円下さり、裾模様を作るようにと云って来て下さったのだ。然し自分は、失礼にならない丈の着物があるのに似合うかどうか分らないのを新に作るよりは椅子卓子が欲しい。いろいろ心配して云われ林町へ来い来いせがまれるので、行く気になり、空気の軽い心持よい吉祥寺の中をぬけて行く。母、台所で、開成山から来た柿を見て居られ、感に迫ったような表情をされた。親子は不思議なものだ。忽ち平常に近い親しみを感じる。さほど嬉しいとは表わされないが、心では一種の安心を得たように見え、自分も行って悪かったとは思わない。もう一歩とけ合えないものか。着物は、母のが間に合い、金の方ではファーニチュアを買うことにする。

十一月五日

(土曜)晴
 昨日、『婦人公論』の、妙にぞんざいな婦人記者が来、十日迄に昨今頻出する家出事件についてどう思うかと云う十枚内外のを是非、来年の二三月頃に短篇小説を一つとたのんで行った。
 昨夜、Aが大学の言語学会からかえって来、電車の中で原首相が刺されたと云って居たが、夕刊に出て居るかと云う。自分の見たのはない、噂の間違いでしょうと云って居ると号外が来、事実だと判明した。
 京都へ、タイムスの社主ノースリックスに会おうとして、七時半東京ステーションを出ようとして、十八九のかすりの着物、茶の鳥打帽の少年に、短刀で胸をさされ、十分で死んでしまったのだ。自分は激しいショックを感じ、机に向ったが、床に入ったが何も出来ないような心持がした。たった十分、たった一つの突剣で、大臣と云われ、怨府となってもとにかく政府を支えて居た原敬が、死に、無力になり、つまり土になってしまう。
 ああ! と思う。人間の命。命。感歎に堪えない。勿論彼のした仕事は大きく歴史的人物ではあろう。けれども、彼と云う人格は、十年の後幾人の胸に生きるだろう。五日の朝机に向っても驚が鎮らず、仕事の出来ない驚は、もう三日自分に止まらないことが分って居る。原さんが殺された、と云うことは自分にとって些も政治的の意味なく、総理大臣、天皇の次と云う地位は、人間の真に生きる生命に、何の権威をもって居るか、と云う、まのあたりの真実曝露である。自分が忽然として彼の消失を感じ、一層強く我うちに生き返る感を持たないのは、彼と自分との人格的共通点のないことを意味する。
 ○夜、岡山のつぼたと云う人来り、話し弾み、一時頃帰られる。面白い人が、思いがけない処に居る。Aの友人に、一種気魄の多い人がうれしく感ぜられる。
 読後感終了。新聞はアインシュタインが来朝する予定であることを報じ、そろそろ、原敬の死に関連する文化批評のようなものがのり始める。
 如何にも秋の末、冬近らしい夕景になって来た。風に吹きちらされもつれあってきこえるとうふやの喇叭らっぱの音。
 一昨日、新潮に出版のことを云ってやった。
 庭に出て見ると、沈丁の黒ずんだ葉のしんに、来年の春、新らしい葉となるべき芽が、まっさおに、しおらしく二三分芽ぐんで居る。これから霜にあい、雪にあいして発育するのだと思うと、云い難い心持がした。発育に対し(精神的)人間が此ほど底からの忍耐深い力を与えられて居るだろうか。多くはそうでないと思う。

十一月八日

(火曜)
 風ひどし。お話にならず。
 午前、『婦人公論』のを書こうとしたがおもうように行かず、「風の音」と云う小さいものをまとめる。
 自分の仕事が真個に自働的に出来るときは、自分の心にあるプログラムを遮って、外からの注文が如何にいやに思われるか、あまり心が充実せず、いやだとは云い乍ら、たのまれることが動機となるときとは、真実味に於て実に違う。
 国男さんが午後来、夕飯を共にすませて、後、柳町まで籐椅子を見に行く。白山下だと云うので行くうちに、到頭其処まで引ずられてしまったのだ。
 紅雀の子は、毛虫位のよし、藁を入れてやる。

十一月九日

(水曜)
 朝起きてから、『婦人公論』の小論文を書き終り、二時半までに山下でAを待ち合わせ、帝展に行った。相変らず。今年は、前に批評をよんだ故もないとは云えないが、作品をそれ自身として愛し、心をもって隅々まで描いた作品が少く、見せるため、パッスするためで、屏風でも一つとしてこれにまとまった味を持って居るのがない。
 中で、今記憶にあるのは、清姫、(玉葉)鯉。カンガルー。
 洋画では童女像、涼しきひま、童女像は、涼しきひまとは反対に、どちらかと云えばクラシカルな味がある。隅から隅まで心をひそめ、裡からにじみ出すように、心をこめて描かれて居る。涼しきひまはその生動して居る点、外光の巧さで、たしかに他を圧して居る。岸田氏の作品を見、白樺の装幀によって持たされた反感と醜の感じを失う。それを悦ぶ。中根駒十郎氏(新潮)より来、来春二三月頃出版のことに話す。深く考えて見ると、自分のようなものでも、本屋へ手紙一本で用が通じ、意を通せるのを不思議に、寧ろありがたいことと思う。

十一月十日

(木曜)晴 かなり暖し。
 昨夜の夕刊に、盛岡、会津方面に雪の降ったことを見る。
 赤坂溜池の錦水で Mr. & Mrs. Warden をまねく。参会者、父上、鶴見氏夫妻、藤原俊雄、新海竹太郎、自分等、黒沢墨山と云う席絵を書く人、長野宇平治。
 鶴見氏が、ひどく変って居たのに驚かされた。
 席画を書いたおじいさんは、七十九歳、三十五年撃剣をし、後画をかいたと云う。酒を三十五歳まで呑みぬけ、或夜、焼酎をさんざんのんで、黄色いたん汁を一升近くはいて、すっかり酒きらいになったよし。

十一月十一日

(金曜)
『婦人公論』に、読後感を送り、日当ぼっこをして居乍ら、小春日和を書く。
「行人」を手にし、ついつられてすっかりよみ進めた。自分の今まで知らなかった夏目氏が姿を現して来るような心持がせられる。
「猫」はうるさい。
「ロンドン塔」は、今日自身にはペダンテックなロマンスすぎる。「行人」で自分と云う青年の心が、落付き、要領よくかつ冷やかな一面を備えて居るのが、自分に漱石と云う人格の一面を感じさせたのだ。小憎らしいところ確にあり。失礼な申し分ながら。

十一月十二日

(土曜)晴
「南路」の仕度
 近頃は五時になるともう障子をしめて、スタンドをつけた部屋を愛す心持になる。黄色になり、しぼみ、空にばら撒いたように見える桐の葉が夕風につれて落ちる音が心をせわしくする。
 淋しい卵色に西の地平線が明るみ、灯かげのうつる家の家屋や細い松の梢が、くっきりと黒く、人の世を抱いたようにうき立って見える。

十一月十三日

(日曜)
 朝、「南路」の書き出しを少々。生理的関係から、脳が貧血して居ると見えて、忽ち頭がかたくなって疲れる。
 少し風はあるが外を見るとよい天気だ。家に居るのがつまらなく思われ国男さんを呼ぼうとして失敗。
 Aが、青山から帰って来ると直ぐ、コロンビアクラブに行くことになり、いそいで身なりを調え出かける。
 吉田さん、ウェルス、外三内氏夫人等に会い愉快だった。
 夜、食後どうかしてひどく貧血し、葡萄酒をわざわざ買って来ていただいた。

十一月十四日

(月曜)
 床の上少し外気の寒さを感じる。
 例によって昼まで執筆。
 何だか輝やいた光線が来ず薄ら寒い。四時頃電気をつけ、火鉢に火を入れ、「道草」よんで居る処へ、Aおかえり。
「道草」をよみ、自分にはいよいよ夏目さんと云う人が、感ぜられるような心持がした。
 元、自分は、単に彼の文才に引かれて居、又多くの人がそうなのではあるまいかと思う。彼の人格は、分った、動かない、ロシア小説に現れる所謂人間性には乏しいものであると思うのは間違いか。驚くべき日本人であると思う。「道草」の妻に対して、ああやって生活出来ることを認め得る心持!

十一月十五日

(火曜)
 あまり上天気の方にあらず。夕方が迫ってから柔かな間接の日光が差し、日にあたる顔が快く感ぜられた。
 心が落着きまとまり、仕事に中心を置いて居ると、如何に、時には人間が小品を書くことが自然であるのを感じる。
 時々書くものは面白い。沢山になったら「麻の実」として、まとめよう。短いものだから、まとめるには幾年かかかり、次第に時や心の変化も見えてよいだろう。
 夕方散歩に出、切角のろのろと心持よく歩いて居たら、いやなローファーに会い心持を悪くしてしまった。
 自分が特に神経質なのか。女と云う特性が斯様なものに会った時強く働くことを思う。男同志の心持とは非常に異うらしい。
 今日ワシントン会議のある日。日本がアメリカの提議に根本原理は賛同する意向であるらしいのを知り、まことにうれしく思った。

十一月十六日

(水曜)天気○
 自分は百年前の生活を、自ら経験しないと云う点で、知らないと云ってよい位だ。が、その時分と今と、何と云う違いだろう。自分が一九一五六年頃、人類の生活とか、愛とか云うことを盛に心に描いて居た時分、それが若い女の野心になり得た程、実際問題として我々の社会に発動しては居なかった。
 世界の大乱後、実に人類の良心は、急速に進歩したことを思わずには居られない。勿論、我々は、平常、人類の運命と、平和的建設のために意を注いで居ることは必要だが、当面に平和の渇望、愛の欲求に煩わされず、其等、人間として当然社会に持つべきものは持って、より以上の天職に励めることは、実に感謝すべきことでなければならないと思う。そして又、そうあるべきのが、まっとうであると思う。今迄、我々の意識は、あまり偏狭であったのだ。

十一月十七日

(木曜)
 三時頃になると、もう部屋にはちっとも暖みのない夕日、斜光が照り込むようになる。秋のくれ、冬の始め、早く午後の日がすがれ太陽はキラキラして居るのだけれども、何処となく、肌にしみる寒気が感ぜられるのは、特別である。
 きのう、三越、文房堂、その他で、クリスマスの買物を調える。二十円ばかり。沢山の人に、めいめいよろこびそうなものを買ってやりたく思う。なかなかそう出来ないから却って其那風に希うのだろう。来月の二十五日昼に皆を呼びそれをあけることにする。Aに、それまでに Persian リテラチューアを買いたい。何処からか早く金をよこさないかな。
「南路」(二)を書く。無理をし、疲れてはつまらないから、少しずつ。体がなおればもっと出来よう。女性が月経時に脳力を自然に弱らせられるのは、自分にとっては辛い。
 ゲーテ「イタリー紀行」。あんなに充分な心と智とをもって、ああ云う旅行がして見たい。一年の予定で種々な人に会い、社会問題の研究もしたいと云う現代人の心持よりは、如何程うまみがあるか。

十一月十八日

(金曜)曇
 作をする時、段々対照が自分のものになり、書きなれて来た頃、いやにならない程度で、一区切り一区切りと書き進め乍ら、それにやや関係のある種々なものを読みながら行くことは、実に愉快なことだ。丁度、畑を耕すものが、眼に美しい空や森や、きらめく地平線を眺めては又鋤を振う、健康な、建設的な悦びがある。此があると分りながら、又はありながら、期日を、自分から迫らせて筆をとるのは実に愚なことだ。此、日本人らしい間に合わせ主義をすてられなかったら、自分には、大損失となるだろう。
「南路」に対する心持は、ゲーテの「イタリー紀行」によって非常に深く広くされた。
 泣いたあとは、眼の周り、前額に充血したように感じ、顔を下に向けて書くと、重みで頭が疲れるように感じる。昨夜林町からかえりAの云った一言に刺される思いをして甚しく泣いた。近頃思う。人生と云うものの真実の姿は、只その瞬間瞬間の悲しみ、よろこびのみの姿にあるのではなく、これ等種々の律動、かげを浮ませつつ恒久的に或目的に向って進む変化、流転の姿である。が故に、自分が例えばH町のことにのみ拘泥し、Aの心持にのみ拘泥して、目的とすることに向って何の手を下すこともしなければ、結局、人生の末梢に生きて居ると云うことになるのではないだろうか。自分は、近頃、仕事だけが無上になって来た。仕事に興が入り、じっくりとそれに入って居るときの心持を何にたとえよう。仕事に於て、自分の淋しさも、苦しさも真個の生を与えられ、実在との関係をもつ。
 書きたい気持はあっても書けない場合、原因は多く生理的で、自分には脳の充血と感じられる。泣いたあと、(翌日でも同じ)性的亢奮、余り熾な食欲と、笑。夜、紅葉館で、おばあさまの八十のお祝、Aが居ないことが、自分をたまらない心持にさせた。
 紅葉館紅葉館と云うから、どんな処かと期待して行ったが、一向レファインした処でもない。午前、沢山「南路」がかけた。
          ――○――

十一月二十日

(日曜)
 晴、静かなよき日。朝飯後、例によって鳥かごの掃除。後、「小さき家の生活」を少しつづける。

十一月二十一日

(月曜)
 曇り、時雨れた空、夕暮から雨になる。久しぶりの雨の音わるくなし
「南路」を書く。
 Aが帰宅してから、米国へ送るクリスマスプレゼントを荷作りし、ところどころにカードを書く。

十一月二十二日

(火曜)
 晴、
「南路」を書く。なかなか寒くなり、手のかじかむのを覚える。

十一月二十三日

(水曜)
 晴、夕暮より寒くなること早し。
 A一日在宅、『教育者』に出す原稿を書いて居る。
 自分は、「小さき家の生活」を書く。(家)終り、(隣人)。
 夕方六時頃、岩波茂雄氏来訪。「ペルシア文学史考」出版のことに定る。非常によろこばし。
 彼の始めての仕事がまとまると云うこと。
 又自分の愛するものを、その者の仕事を、正当に理解された悦ばしさ。自分は二重にうれしいのだと思う。

十一月二十四日

(木曜)
 朝床の中から寒さを感じる。四十幾度とか云う話。
 雪もよいの空と云ってもよい程であった。
「南路」、到頭ニューオルレアンスにつく。
 考えて見ると、丁度二年前の今頃、ロスアンジェルスに居たのだ。実に変化きわまりないものであったと思う。
 夜、A、置炬燵を買って来られる。八畳の隅に作り quite at home を感じる。
「ペルシア文学史考」插画、原文選択のため、二人で十二時過までかかる。楽しい忙しさ。
 然し今日は昼間自分の仕事も可なりしたので、ひどく疲労を覚える。

十一月二十五日

(金曜)
 晴、暖き日。
 今朝早く、ひどく寒かったと思ったら、少々風邪の気。
 頭の工合悪く、「南路」を休み他に書く。
 文芸欄をよむと、いつも They speak too much. と云う心持がする。
 作品として偉大なものが書けず、書くだけのアムビションもなくても、それぞれ意見らしいことは云う。
 自分は、種々な論議にはあずからず、仕事でやって行くのだ。それほか道のないことを感じる。実際書かずに、よいものを書くのが真個だ。文壇の革新は必要だと云った処で仕方がない。不言実行などと云う言葉は古いが真の実力あるものにほか到れない境地だと思う。

十一月二十六日

(土曜)(南路)休
 林町で古田中を呼ぶから来いと云われる。
 行く。
 夜、渡辺氏夫妻。
 面白い夫妻だと思った。
 夫、教師、仲間からは、少し間抜けな変人、侮蔑をふくんだロンドリーさで対されるような種類、理由は、つねに新らしい意見、ものを追う進歩主義と、直ぐそれに参る純さ、下級民らしい狭いソシアリスティック・ラディカリシーつまり、新聞はいつも現在のままで、新らしい故に価値ある意見の発表を代表するものである、と云ったような風なのだ。
 妻、三十後、大阪辺の生れ、生れつきの経済家が現代の流行である生活改善の潮流にのれて、社会主義的理論をもった。人生はかくあるべきから発足したのでなくて、ある時代にはしわん棒と云われ得る天性のつつましさから発足した、実質主義者なのだ。

十一月二十七日

(日曜)(〃)
 午後から、さつまいもを買い、絵の具をかって、Xマスデーヴァーナーガリー文字と云うサンスクリットを彫る。(Aが)
 なかなか心持のよいものが出来た。去年より全体の感じがあたたかでよろし。
 夜、肴町まで行き、それぞれお歳暮のものを買ってしまう。
おねえさん 櫛、かんざし
たけを   手袋
六十五   鉛筆箱入り
会田    袋
はつ    襟
小林    しゃつ
 国男さんその他のものは、もうそろって居るから、此で相すみ。

十一月二十八日

(月曜)「南路」を書く。
 きゅうきゅうとして雑誌に原稿を書き、Just making rubbish に何の価値があるか?
 先、乱作をしないこと、多作をしないこと、又は制限を受けて創作をしないことを、自分の(半ば)無力、微弱な材料に対する庇護物、並に、外から注ぎ込まれた既成概念として知って、又云って居たのだろう。今自分はつくづくその態度がいい加減なものであったと同時に、真実に理解された時、此心の持ちようの正当であるのを知った。
 窮屈に考えて、書かないのはよろしくない。然し、書いたらそれに全力を傾倒し、完全を期し、永久を期待しなければうそだ。いつでも傑作を出来そうなどと思わず、書いて居るうちに傑作が出来るのだ、と或人は云う。然し、傑作を期待してかからないで、どうして、いつ、それ程大なものが出来るか。

十一月二十九日

(火曜)
 ○外を見、梧桐ごとうの葉が皆落ち切ったのに愕く。
 ○街路樹の銀杏まっきいろになり、大学の通り、赤い煉瓦の壁に沿って色美しい。
 ◎夜、こおろぎか何か壁に来て、ひっそりと止り、いつか見えなくなる。
 ○「南路」を書く。

十一月三十日

(水曜)晴 暖
「南路」
 川路柳虹氏来訪、五日まででよろしいとの話。

十二月一日

(木曜)
「南路」

十二月二日

(金曜)
「南路」

十二月三日

(土曜)
「南路」

十二月四日

(日曜)
 A午前中留守、ために少し仕事が出来る。

十二月五日

(月曜)
 非常に風強く寒い。
 朝早めに起き、「南路」を書いて仕舞い、二時頃、俥で駒込まで行きそれを出してから、(一字不明)原の土田さんの処へ行く。千谷さんに遭い、うれしい。けれども、何となく先のようにつっこんで来る処がなくなり、「そう?」とか「どうしてでしょう」などと云うあたらずさわらずの言葉を多く使う。一寸眼をつぶりしなをするように首と肩とをまげ、「そう、まあ、どうしてでしょう」と云う。五年だったかの時、二階堂先生――と云って、運動会の時とび出そうとした、激しい活々したところはなくなってしまった。安藤さんは、一寸芝居の子役のような切下げ髪の子を前に置き、「さようですか」と云う。何だか皆つっこんだ処なくて淋し。夜、白山の中途の家具家に行き卓子を二つ注文する。五十円以内で出来るよし。うれしい。二十二日頃には持って来るそうだ。

十二月六日

(火曜)
 昨日女子学習院では皇后陛下がおいでになり、Aは英語の組を御覧に入れたのだそうだ。どうにかすんだらしいが、やはりアップセットして居たと見えてあの書きよいファウンテンペンを失ってしまった。
 夜、高知堂に買いに行く。
 朝、川路氏が来られ、原稿をきかれる。きのう夕方までにつかなかったそうだ。風呂敷をかぶって掃除をして居たので失礼。
 一つ仕事がすみ、実にのびのびとした心持がする。

十二月七日

(水曜)
 十一時頃、白山の銀行へ行き、ずっと林町へ行く。久しぶりで皆よろこびゆっくりゆっくりと云うので四時頃かえると、案の定Aのいやないやな顔。
 皆のよろこびを自分も分け得ず、而も私にとっては、同胞、親同様一人ほか居ないものが斯那にして居るかと思ったら、実にいやな心持になってしまった。
 正月、勿論林町では呼びに来るだろう。それをいつも断るのも辛いし、行ったらあとに又此那心持がするのかと思うと、全く此ままではつづけられない。黙って居ると云うことは決してそれのみで他人に苦痛を与えないことにはならない。Aは、そう云う点になると実に分らず、考えが浅く、固い。夜、苦しい心で涙を流し、結局、我身一人と云うことをつくづく思った。母上にも自分の心持は通じまいし、Aにだって分っては居ない。

十二月八日

(木曜)
 夜九時半頃風呂に入りもう出ようかと思いながら爪の掃除をして居たら、いきなりドッドッドッドッと地響を立て乍ら、四方の硝子が鳴り地面がゆれた。途端に、おや何が通るのか、ひどい音だと思った。が、やまない、なおぐらぐらと左右に揺れる。自分は驚いて風呂から出、ぬれた体に着物をまとった丈で濡縁に来ると、Aが寝間着一つで起きて来、「大丈夫大丈夫」と云い乍ら、自分を抱いて呉れた。夜更けても時々家が揺れる。非常に不安で眠れない。寝て居ても体が棒のようになり、床の上に浮いたような心持。
 うとうとし乍ら、『婦公』には短篇二題でも書こうかと思いつく。

十二月九日

(金曜)
 新聞を見ると、二十八年以来の強震とある。
『家庭界』と云うのに送る小品を手入れ、発送してしまう。
 ふと心に浮んだこと。
 野上彌生さんは、人生に対するあらゆる考を二人で考えて居られるように見える。私はAによって材料を与えられ、一人だけの世界を持って居る。其処に性格として非常の差があるのではないか。
 夜、外を通る人の足音、下駄の音、堅く淋しくなった。

十二月十日

(土曜)雨
 夕方、ひどい雨の中を、とりに、かにを持って院長の処へやる。我々は新年の賀状を書く。
 昨夜、Aの話したことは深く自分の心に遺った。
 私が林町へ行くのを歓ばない理由を、私は、マミに対する彼の反感からだと思って居た。然しそれのみではなく、自分が林町の家族に持って居る暖い心を、他家のものだと云う先入意識によって認められず、愛を拒絶され、自分も我うちと思って居るのに行けない処へ私のみが、どうして楽しく自由に出入りされるかと云う心持だったのだ。珍しく、しんみりと話し、自分は涙の出るのを感じた。
 社会の習慣と云うものは恐ろしい。仮令彼が、自分の家より林町を愛して居たとしても、荒木と云う姓にこだわって、その心のみ真個に受け入れられないのだ。

十二月十一日

(日曜)晴
 断水と云うので、大東京中、大騒ぎであるらしい。幸、崖下の井戸を使えるので仕合わせである。
 午前中、二人ですっかり部屋の模様がえをし、工合よくなる。
 午後から坪内先生の御宅へ行く。三年振りで。一寸見て、いかにも頭髪がうすくほやほやになり老年らしく御なりになった。種々の話。全集を自分で出す気がしないこと、七八年は一つ仕事にたずさわり、「桐一葉」が初めて上場されたのは十年目、「新浦島」を書かれてから十七年経ったのだそうだ。「ページェント」もうまく行かないと云うこと。大阪の方が新しい仕事の芽を育てるに都合よいと云うことなど。
 先生は、私に苦労するがよいと仰云る。死ぬか生きるかの目に会わなければいけない。自分は一度もそんな目には会わないで来たから、浅薄なのがなお浅薄になった、などと云われた。先生は分って居られるのだけれども、性格的にどこか其処まで行けないものがあるのではないだろうか。淋しい方だと思う。「我ページェント劇」を頂いて来る。
 夜、肴町へ行き、玄関に置く壺を買う。何か、ふたのある梅干にでも使うらしいのだけれども、置けば、なまじっかのより却ってうまみがある。
「我ページェント」作品のみを読み、興深し。
 あれが、一般に行われないのは、一つは日本人の共力の乏しい点、表情、音楽的素養が一般に少い点にあるのではないか。所々、先生の旧劇的伝習の匂って居る処はあるが、なかなか愛すべきものがあると思う。
 ○午後、小寺氏を訪ね。留守。千谷さんの処で暫く話して来る。
〔欄外に〕「文化と云うような実質的の事実が問題として、只一時の流行で終るのはよくない」
「大阪は新らしいものの芽を育てやすい処、東京はあまり批評的。文芸協会も大阪でやればあんなことはなかったろう。」

十二月十三日

(火曜)
 風邪の気味。鼻ズコズコで困る。
 カアライルの「仏蘭西革命史」を読み始める。面白い。前に読んだエマアソンの文と比較して見ると、明に二人の性格の差が感ぜられる。エマアソンは、何と云うか、真昼の太陽の正しさと、熱と、暖みと平静とを持つトランスペランシーがある。快活だ、然しカアライルの方は、彼の横顔のように、やや陰になり、凹凸が多く、性格的に(ママ)世家の面影があるのではないか。
 午後、A、壺にさす花を沢山買って来る。美しい。花と云うものがまして此から、如何程人間の住居に暖みとうるおいとを加えるか。

十二月十四日

(水曜)
 小雨。庭の土、小さいちゃぼひば美しくうるおう。
 近頃は、いつも、かたかたした朝の雰囲気に目を覚すので今朝のように、やさしくしめった空気は変化である。
 風邪まだよろしからず。
 先達うちのように書きつづけて居たら、「南路」がすんで何となく物足らない心持がある。然し一種の調子が出来、文字がそれに乗って出て来るようだと大変だから、やめ。
 少しやすみ、よいものを読むのだ。
 加能作次郎氏の「幸福へ」『時事』に出、「赤光」のあとを受けて、独特の面白みあり、年の違い、性格の違いが興深く感ぜられる。『朝日』の吉屋信子氏のはどうしたのか。

十二月十五日

(木曜)
 昼過より工合悪く、到頭床につく。風邪なのだが、先日中、井戸の水をのんだので、それがどうかしたのではあるまいかと思っていやであった。
 夜、熱は七度二三分なのに、頭ぼんやりし、胸を冷しよほどよろし。
 A、虫が出たと云って驚く。気味が悪い。

 或夢、久しぶりでKに会い、どうかした拍子に自分が感情的になって唇を出す。「其那ことをしてもいいんですか、かまわないですか」まるでその人のような声と顔つきとで云う。自分は怒り、つんと後を向き、さっさと其処を出てしまう。

十二月十六日

(金曜)晴
 今朝熱七度一分、気分余程よろしい。頭を下げ寝て居ると、とてもぼんやりしてしまう。
 床の上にテーブルをのせ、此を書く。うつらうつら考え、「火のついた踵」に興を湧かす、書くべし。
 又、先にしらべたロシアの一八六〇―七〇年代の女性の運動と日本の、昨今の運動とを比べると非常に面白い。つまり、二つの独立した小説となり、前後して発表されれば、いやでも読む者は比較せずには居られないだろう。
 民衆の――女性なら女性の衷心に入って行こうとする傾向と、自分だけとび抜けたものになりたいと云う野心とは又、広さが違う。
 坪内先生の御話でも思うことだが、女性は女のことほか書けないものなのか? では何故男には女のことが書けて、女には男のことが書けないのであろうか。自分にはまだはっきり分らない。

十二月十七日

(土曜)床の中
 結婚して居る人が永年の同棲にかかわらず、又相当に仲がよいのにもかかわらず、恋人を新に作る一瞬の心持が、自分に此頃想像されて来た。つまり、永年親とともに生活した娘が、不図恋人を見出す時とやや似ては居まいか。
 すっかりなれ、あるときまった者になり、特別の刺戟も、深い愛の感激もなくて、幾年がすぎると、それが、実に、天下唯一人の良人であると云う緊張を失い、一寸恋心を誘われて、これにまけ、終には親に自分の恋を包むように、良人にも自分の恋を秘するのではないだろうか。結婚したて、永年共棲した人がどうして其那ことが出来るかと思うだろうが、永年棲んで見ると、却って何故そうなるか分るのではないだろうか。又一つ、自分には女性を支配する或運命の鍵が見出せたような気がする。

十二月十八日

(日曜)
 お百合さんの 否、慎一さんから云って、彼女との結婚を望んだのだそうだ。
 関さん曰く「男の人で相当な年になって居るのに独りなのは、きっと何かあるのよ。」

 熱が低いのに落ちない。心持わるし。

十二月十九日

(月曜)晴 寒
 顔を洗って居ると誰か話声がする。来て見ると、おばあさまがいらっしゃる。あまり長く工合が悪いと云うので、見舞に来て下さったのだそうだ。柿を二つ出しなさる。愛らし。
 種々昼餐を一緒に食べながらお話しなさる。
 会田さんがもう国にかえりたいと云うこと、
 初が忘れん棒だと云うこと、
 母が何かで怒ったと云うこと、こと、こと。
 先達、隠居所に行き、スエ子にやる赤い布を出すのに戸棚をあけたら、小さいボウル箱を立てて中に小川さんのらしい写真をかざってあるのを見、自分は何んとも云えない心持がした。種々虚栄心もあり、方針もあいまいで、母の云われるような競争心もないことはないのだろうが、そう云う内心は誰からも包んで、彼女の生活を他人の同情によってのみつないで居るかと思うと気の毒に堪えない。

十二月二十日

(火曜)晴
 今朝よほど頭の工合がよいので、午後近くAに手伝って貰い、着物を着換え、ブランケットに包まって起きた。久しぶりで心持甚だよろし。Aは、女、学の英語をなおし、自分はカーライルの「仏国革命史」を読む。実に面白く三巻まで進んだ。カーライルは、仏国の革命を、歴史的の所謂時代的英雄の力とは認めず、つまり帰着するところは民衆の本能に置いて居る。彼等の実験的過去、体験の苦、楽が、テムペラメントと結合して、或瞬間或動作を起したと見る。ルイ王の人格、マリーアントワネットの性格、宮臣が、アリストクラットらしい無智で大勢を認めず、只管ひたすら、自己の栄誉を保とうとする計策が、実に目に見える。
 徒に亢奮しないで書いてある。この態度も学せられるが、日本の民族性、社会と云う、そのもののうちに於ける人間のテムペラメント又はロシアの其等などが自分に深い興を湧かせる。ルイが、只「反徒」を平らげ、自己の権威を獲得しようとして欧州軍を招致しようとした時分ロシアはカザリンの治世であった。それから百年経たないうち一八六三年、ロシアは、あの変動をもってサーフの解放を行った。

十二月二十一日

(水曜)晴
 昼頃起きる。可成暖くなって居るのだが起きるときに足がだるくおっくうに感じた。
 風のないおだやかな日、もう暮の二十一日だから、外へ出て見たら、さぞ町は色めき立って居るのだろう。相変らず不景気だと云う。我々のような生活をして居るものは、景気のよい時迷惑する代り、不景気と云って自分等の気分まで支配されることはない。
 野上氏が『改造』の外、『中公』に書かれた「或女の話」の広告を見、期待する。綾鼓は、あまりよい作と思わなかった。如何にもまとまりあの人らしい主題だが、新鮮でなく、綾の鼓にうっすりと塵がかかったような心持がした。読んだのが工合の悪かったせいか。
 人として学問はなくても、小寺さんは人生を異った方面から見て来たのに、何故よい作を書かれないのだろう。あまり気がなくなったのか? 昨夜眠り眠り飯田さんのことを考え、彼女の心が自分に泣きよるように感じられた。
 皆、各自の家に入り、皆各自の笑顔を持って暮しては居るが何と云う種々な生活、苦があることだろう。
 女性が一度彼女等の自由な心でその苦を訴えたら、少くとも日本はその怨言で埋まってしまうだろう。只それを皆、忍従して居るのだ。忍従、忍従、それは婦人雑誌の書き立てるほど絶対のものか。
「人間の運命はどうせ自分の手で支配出来ない。これをすててどうして必ず次にはよりよいものが来ると定って居よう」と云ってする辛棒。
「どうせ、自分の手で絶対を支配されないとしても、その絶対は自己が選んだと云うだけの快哉を叫びたい。」と思って生活を絶えず進展させて行く者の破壊力。

十二月二十三日

(金曜)曇
 非常に寒い日、さほど風はないのだけれども、空はすっかり雪もよいで、どんどん火鉢に火をたいても指の先がしんしんとつめたくかじかむ。
 音楽と花の夕と云うのに出かけることになって居るが、始めて出るのに寒くってやりきれず。
 単行本にするのをなおし「渋谷家」にかかる、とうてい真赤でしようがないので書きなおすことにした。一月はおくれ四月になるのだろう。
 関さん、実によく謡った。あの人には未だ地味なリードは駄目で華に、声量でこなすオペラのアリアなどがよい。内面的発育の面白き経路。故岩野氏未亡人、どうしてああレディーライクでないのか。そばで不快を感じた。
 岡本かの子の慎重な、真剣なしかし一寸焦点の狂ったような感じ。

十二月二十四日

(土曜)○
『太陽』からの為替をとりに東片町に行く。誠之の手前かと思ったら、高等学校の角で、あすこまで、参ってしまった。金をうけとったのはよいが、自分の財布は小さく入らない。コートのカクシに入れ、金を持つ不安を感じた。
 Aのと合わせ三百円福井に返すことにする。そして、午後から丸善にAと自分のXマスプレゼントを買いに行く。それから星で一寸お茶をのみ、明治屋で、チョコレートとフルートキャンデーを母上のために買う。丸善、又此処で関さんに会う。可愛ゆし、Aが彼女に罪のない good will を持って居るので自分まで幸福なり。かえると、思いがけず西村さんが満州へ行くと云って来て居る。吉祥寺で子供と球なげをして居るのをつれて来る。ステーションまで送り、かえって来る。あの人は、いつも私が例の病気の時来る人だ。可笑しい。

十二月二十五日

(日曜)
 朝いそいで二人で高楠先生の処へ行く。今日京都へ立たれると云うので。
 丁度出かけに会い、高田馬場まで一緒に来る。Aのケイメイカイの方も出来、大学の方も出来、あのペルシアさえ本になればよいと云うことだ。彼のためによろしい。昼、国、英、寿江子さん達を御飯に呼ぶ。何にも殊別(ママ)なものはなく、いつもの、ハンバーグステーキにマッシュドポテトウ、アニオン、おつゆ、おひたしでよろこんで居る。プレゼントは思いがけないらしく大よろこび、夕方日のかげるまで居る。

十二月二十六日

(月曜)
 林町で隣人や関さんを呼ぶと云う。来いと云われるのが、自分には実につらい心持がした。それが、母上の風邪でおやめ、とにかく行かなければならないので、皆に品物をもって出かける。母上の成金的なのが自分をひどく淋しくした。父上にカラーを持って行けば、カラーは百本もあると云われる。真個に不自由はないんだからね、と繰返し繰返し。どうぞそれを前に置かないで、お志はありがたいと云って下さい。どんなにうれしいだろう。各自程度があるものだとか云われるのは実に純粋でないと思う。会田さんを使い彼女が情なく感じるのは無理なく見える。十一時になってかえろうとしてから父上と炬燵に向い合い、Aの都合よい話から、今度のことになり、自分は涙をこぼして種々話した。父上は感情の純な人だし苦労して居られるから我々の心持を同感されるが、同時に時代の異う社会感を持って居られ人生感を持って居られるのだ。母と我々と両方に対して苦しい心持を持たれるのだ。無理もなくお気の毒に思う。確に父上のような態度で生活したら誰とでも調和し和合して行けるだろう。程度の低いものにも分るだけの方法や、苦しめまい心配をする丈、愛を広くしろと云われる、然し、これも至難なことだ。そのプリンシプルで生活したら父上とまるで異わない一生を見出すに過ぎなかろう。
 日常の幸福さ、たのしさ、陽気。父母をすてる、と云うようなことは云うべくして行われ難いこと、それ丈、一方から云うと、その苦に堪える必要があるのではないか。父母から見ると、Aのために自分達をネグレクトされると思い、Aの方から見ると、自分を完愛するために彼等を拒けると云う自惚を起させるかと思うと苦しくなる。
 自分は、どちらのためでもないのだ。

十二月三十日

(金曜)
 到頭待ちに待って居た机が出来て来る。案外によくうれしい心持がした。只、部屋が一つほかないので――客間も勉強部屋も一つなので、ひとがすぐ我々の新しく殖える家具を認めることだ。何となくこそばゆいような心持がする。
 夜国男さんが来、紅茶などをのむ。

十二月三十一日

(土曜)晴
 朝早めに起き、二人で三越に行き正月の菓子や吉田さんの処へ持って行くものを買う。まだ十時頃だとあの広い、いつも人でもんもとして居る建物も妙に淋しくすいて居、食料品辺では、店内の他の売場のものが小さい買物をしに来て居、却って客にアッテンドがよくない。倉知[#倉知誠夫、倉知貞の夫]が鼻眼鏡でキッと眉間を引つめて入って来る。かえってすっかり掃除をし、七時頃から青山に行く。矢野、二平氏が来て居、おそくなってから飯島氏夫妻来、田村さん、福岡さん、ミスウェルス、吉田さんなどとにぎやかに三時近くまで遊ぶ。四人の他に女中が二人居、皆二人ずつ食事も何も別にして居るのだそうだ。寂しいだろうと思わずには居られない。丁度二回目のカードをして居ると、静かに鐘の音をきいた。去年は丁度林町から家へかえる処で、雪の積った途上できいたのだ。皆が平気で笑いさわいで居る中に、一人心でしんみりと、寒夜に響く百八の鐘をきいた。日本人に違いない。





底本:「宮本百合子全集 第二十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年5月20日初版
   1986(昭和61)年3月20日第5刷
入力:柴田卓治
校正:青空文庫(校正支援)
2014年1月18日作成
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