日記

一九五〇年(昭和二十五年)

宮本百合子




 

一月一日

 日
 ことしは、1229日のおかしな会以来、一つの転期に入っている。元旦早々いろいろの話をきかされる、機関のセンダンぶりについて。

一月三日

 火
 くら、しげ、正、つ、などがあつまる、29日の印象について。

一月四日

 水
 お客なし。いくらかくつろぐ。
 夜T来る。

一月五日

 木
 新日本文学会の編集会議、夜十一時まで。
 基本的人権擁護について。

一月六日

 金
 長島、来。くれのことがあってゆっくり。いろいろの話。こういう部面にも問題が山積。
 宮、きのう、きょう、『前衛』の論文をちぢめる仕事。

一月七日

 土
 大森さんの口述でやっと「文学と生活」を一応まとめる。

一月八日

 日
 非常につかれが出ている。宮、きょうは、きのう統制委員会・政治局合同会議がきまって日曜でも出席、コミンフォルムの野坂批判新聞に公表。いろいろに考えられる。

一月十八日

 水
 拡大中央委員会

一月十九日

 木
 拡中 第二日目

一月二十日

 金
 三日目、地方ブロック会議、宮九州へふっとばされるらしい。

一月二十一日

 土
 宮九州行きについて、いろいろの意見がある。
 一般報告は、いろいろ疑問をもたれる、所感に対する態度および、文化問題の部分。しかし、関東はやっきになって、本質的討論をさせない。

一月二十二日

 日
 細胞の集会で、疑問を出しても、それは反党的であったと自己批判させ、松川事件の被告が、所感の前半は正しく後半はあやまりであるというのはほめるべき態度である、というようなことを律、本部集会で話す。

一月二十三日

 月
 所感が生きているかのように、それについての検討をさせない方策ではりつめている。
 政治局決定で宮九州にきまる、人事一任、わきからの報告では何もしないこと、など、を条件とする。

一月二十四日

 火
 天皇の威信失つい急速である。アメリカは、日本のKPはチトー化しつつあるとよろこんでいる由。

一月二十五日

 水
 労働組合をこわしておいて、こんどは一般の統一戦線で、という式。右へ右へじりじり行く可能がある。そうさせているもの徳田の無理論性、志田のあいまい性、律のキツネ性、西沢のムコ根性と食わせられている党官僚の卑屈さ。

一月二十六日

 木
 宮、風邪ひきとなる、ノドかぜ。つまり疲労である。自分のつかれもひどい。こんどのことでは(コミンフォルム)実に日本の党の質の低さ、わるさがはっきりした。日本の悲劇のふかさ。学生はなかなか鋭い。ポツダム宣言を受諾した東クニ内閣と云う。

〔二〕月二日

 宮のふとんが九州でいる、木綿の地を見る、それとうら。云いつける。

〔二〕月三日

 宮の夜着を母のおふるの大島でつくる。裏地をはかっていたら平田氏来る。小説十五日までにのびる。たちまちがいをして、ミシンではいで貰う。

〔二〕月四日

 夜、哲学者夫人同伴、美代子の良人。あとからつる。台所でやっていたらY子のところへ電報ハハキトク、スクカヘレ。十時ので立たす、汽車賃 500、見マイ 2000、何だかほんとという心もちがしない。かえって来なくてもいい。彼女のつめたさ。

〔二〕月五日

 編輯会議、久保田、岡本、間宮、徳永、あと欠席。間宮、大日本が新日本をことわって来た。アカツキにまわすという、自分反対。徳永反対。またもう一遍押すことにきまる、もしだめというならば、自分がゆこうと思う。五月号のプラン決定。間宮のやりかたのヒートロスチ〔狡猾さ〕よくわかった。

〔二〕月六日

 きょう宮、はじめて朝食堂へ下りた、床をしいて。しかしまだ食ヨクなし、やっと仕事にとりつける。大森寿恵子手つだいに泊る、そして、年よりの女、下働きに来ることにきまる。宮十日に出発は無理だ。(以上、二月の分を間違う)

二月四日

 土
 林米子、きょうから水のさんのところの治療に通うことにする、一回 200 円費用をもつ。Yちゃん、ハハキトクスグカヘレで夜十時に立つ、お客四人に食事、咲とわたし大童、古、松(夫人)、クボ

二月五日

 日
 編輯会議。
 文学サークル協ギ会のことについて岡本潤、青山が指導していると云うと「フーム、そういうことがあるならいい、この間の話は放っておけないね」青山に関東地方の□□□(三字不明)にたのまれたことを云い出す。グループの反青山、増山熱にのって、その反面、御用をつとめようとするところ。それからヴェトナムについて(知識そのものをしっているんだから、利用できると思う)云々
 大日本がダメということ。

二月七日

 火
 きょうからやっと仕事にとりかかる。「道標」第三部第四章
 朝ふと目がさめたら、となりで人の声がする岡田文吉の声“十三日の芸術家会議には書記長と野坂が出ると云ってる”“紺野がつるし上げられたそうだ”

二月八日

 水
 仕事。
 政治局で、まだ青山の論文をまわしよみしている由。

二月十五日

 水
 雪。宮はじめて政治局。
『婦人公論』未亡人の手記の選者座談会、もちろん欠席。
 やっと『前衛』の論文出るにきまる、“これを出すのは君のためにならない”と云った由。

二月十六日

 木
 徳の“われわれは落付いてやっている”コミンフォルムののちの第一声がこれで通ると思っているとは世間しらずも甚しい。共産党書記長というものは幹事長ではない。

二月十七日

 金
 開成山の小池歯科医の未亡人、上京、国のところに泊っている。必死に生きている人と咲枝との対照。

二月十八日

 土
 寒い
 仕事、もうすこしで終るが、伸子のボーッとしたところがうまく描き出されない。吉田をめぐる文士のおたいこ言葉(ニュアンス)天皇、宮様、首相、それぞれ段があって、うまいものだ、そして小説は益※(二の字点、1-2-22)、無くなる、荷風(放談)(エッセイ)これだけいうものもいない。

二月十九日

 日
 小説54枚わたす。
 税が八十万で、四十万ぐらい払うことになりそうだ。うちにそんな金はない。宮の出発木曜日にきまる。Yちゃんの帰りのびる。アジアの地図を眺める、そして、九州はこんなに近いのに、と思う。わたしが、一つ太陽の下、どこにいても、と思うのが自然にならなければならないのが、しみじみわかる。1950 年の一月は、わたしたち夫婦の一生に一つの大きいマイル・ストーンとなった。

二月二十二日

 水
 夜、風呂から出て、宮、墨をすり、たのまれた色紙に字をかいた。実にいい字、“すでに十億の民衆が平和のために立った”それを見たらからりとしたいいこころもちになって、苦しい気持が忘られた。

二月二十三日

 木
 宮、福岡へ出発。

三月六日

 月
 やっと、日評の辞典の原稿をかき終った。大疲れ、二度直したから。

三月七日

 火
 小説の下ごしらえ。

三月九日

 木
 仕事。

三月十日

 金
 仕事。

三月十一日

 土
 仕事。
 アサから奥さん来。判断にやっぱりちがうところがある。
 宮から帰りをしらせる電報。

三月十二日

 日
 小説
 m夫婦。わたしの生活にない女、男、一家。現実の一つの面。風俗小説の生れ出る原因。分析のできない人のごたごた、とりみだし、それで風俗小説にならざるを得ない。

三月十三日

 月
 宮、夜七時何分かで帰って来た、土からほり出した何かのキノコのように、もっくりとして帰って来た、気持よさそうに。
 仕事

三月十四日

 火
 仕事、27枚まで。アサ夫人の話、どこまでどうか、宮出勤。

三月二十日

 月
 宮九州へ、午後一時で立ったが、まだ書きもの終らず(積極的意義)沼津までついて行って、夜八時ごろ、グロッキーで送ったものかえる。

四月三日

 月
 世界評論へやっと「十二年の手紙」第一巻分十三年までわたす。

四月八日

 土
 宮、帰宅。

〔MEMO〕
第十八拡中以後の言論抑圧と討論の禁止、研究会禁止、はなはだしかった。

四月十日

 月
 二つにわれた感じだ。

四月十一日

 火
 たった二十日の間に、これだけのことをやっているんだから。

四月二十日

 木
 20日ごろの中委がのびた、病気だからというわけで。

四月二十一日

 金
 282930と中央委員会をもつなんて、国際記録にもないことだ。きっと、インターフェアがおこる、あるいはそれをカウントして、こういう日どりかもしれず、大したことはない、そうじゃあない、やめさせて五月へ入ってあとにするべきだ。“もうかえられない。”

四月二十六日

 水
 編集会議。徳永来ズ、菊池来る、八月号の内容をきめる。

四月二十八日

 金
 第十九回拡中委、第一日。

四月二十九日

 土
 同、第二日。分派問題が一応ケリがついた、夜九時半ごろ、宮の官僚主義批判がはじまりかけていたとき、国際情勢を語るといってタスも出したあと、立ち上ってテーブルを叩いて罵倒して、そこへ、スルスルと出て来て野坂によませる、吉田首相のコンセイによって共産党を禁止する許可を与える、という意味の“緊急情勢”。さーっと局面一転。一ヵ月先に中委もつがそれはポドだろう、ここに今いる全員を召集するかどうか分らぬ云々。五月三日重大声明!

四月三十日

 日
 第三日はかくの如くしてボシャル、一般報告草案も討ギ採択セヌママ。志賀政治局追放せず
 ○宮、全体の動き、自分のたたかいぶりについて、深く考えている、いくらかボッとして見えるほど。

五月一日

 月
 メーデー、60万人。五年来の盛況。夜、風のおとにもおどろかれぬる人々、宮、報告に対する意見をかきに出かける、
 夜の部屋の様子。ねると、体の向いた方へ、胸の中の悲しさがかたよる、あの感じ。

五月二日

 火
 宮、仕事。

五月三日

 水
 宮、仕事。声明はもってまわって日本人民が処理するだろうと云い、決して懇請により云々は云っていない、云えない。中委、ペテンをくう。歴史的ペテンである。

五月四日

 木
 このペテンをきっかけにして別のお手もり党をつくること明白となった。参院選挙、本日より一ヵ月、この終盤にもう一芝居があるだろうと思う。そして、労働者だか何だか党として、自分らはかげで李あたりにあやつられて。一月からわずか四ヵ月で、これだけのぺてんを組織した。うでがいい。そして、これには、大きい Back がある、組織的指導部がある。

五月六日

 土
 午後一時、宮九州へ行く。

 世界評論がつぶれた。青木来、彼の生活についての話もきいて、おどろいた。「十二年の手紙」かえしてもらうことにする。

〔MEMO〕
 宮の秘密主義は(私に対する)甚しすぎる。それで、わたしは小説もどうやら書けているのだけれども。

五月七日

 日
 宮の政治論文集を早く出しておこうと思う。

五月八日

 月
 光っちゃん、帰ることにして、岩上夫婦、土屋夫婦、永見母子をよぶ、仕事下ごしらえ。

五月九日

 火
 ちくまに、十二年の手紙を出すことにきめる。
 仕事やっと着手。

五月十日

 水
 宮から島田へよった七日のハガキ来る、サカサにかいてある。『伸子・二つの庭』2,000 増刷の由、はじめ 4,000

五月十一日

 木
 72°、むし暑いことお話の外、寿、夕方六時、開成山から来る。午後地検から電話、去年十月『文芸春秋』に顕の書いた「網走の覚書」中、山県が名ヨキソンで告訴しているから、その説明をキキタイと。

五月十二日

 金
 72°、あつい。仕事前、宮へ手紙かく。

六月一日

 木
 都は、中ののビラもはらせない。街頭をさせない。
 新日本文学会カンカン。

六月三日

 土
 居住、ビラ、選挙イハンだと云って八時半ごろから十二時までとめられた由。大亢奮。
 青木、(クラ)早くかえった。

六月四日

 日
 参議員センキョ、首都建設委員会住民投票。中のだけかく。反対。原さんに電話、声をからしている。“あとにわたしの責任がのこります”

六月五日

 月
 晴、S、実際上の結婚した。
『新日本文学』の原稿、『十二年の手紙』の“はしがき”ちくまもこちらもいそぐ。
 きょうの新聞、吉田、非合法化を考慮と声明。団体キセイ令でやるらしい。宮、八日ごろかえる由、東京にいるようになるかもしれぬ由。

六月六日

 火
 朝十時半ごろmmから電話、共産党中央委員の追放がマックから発表された由、十二時ニュース。新聞。パージとはうまいことを考えた。21日後有効。

六月八日

 木
 宮九州から帰京。

七月三日

 月
 午後一時ごろ、特審局より三人団体等規正令関係でキキタイことありと、m、午後四時かえる。
 徳田ら、キヌ川温泉で会議した由。

七月四日

 火
 アメリカ陸上部隊、北朝鮮軍とぶつかる、大したことなし。日本は行政的に協力する、郵便その他をたすけて。これを国連加入の条件とする。宮、特審局へ午後二時に。

七月五日

 水
 ラジオニュース、“軍隊と物資とは依然として日本からケイゾク的に送られている”“空軍は 953 回出撃した”
 m在宅。

七月七日

 金
 北京日報の放送、日本の現状について。多くの示唆がある、永続的なやりかたについての。

七月十二日

 水
 右翼多数派分派に対して、少数分派をつくるようになってはならないということ、やっと徹底した由。“どうもこの頃わたしの文学は源氏物語になって来た”
 夕立模様

七月十三日

 木
 軒先から見えるところは曇っているが青桐の葉の間から見える東に青空がある。雨の音、宮、きょうは、雑誌片づけ。みっともないよ、と戸棚まで。自分仕事している。宮のそのこころを感じつつ。1932 に本を売ったことを思い出しつつ。
 夕立模様。

十二月八日

 金
 上富士の土地がやっとうれた、24のうちから五分出した、K 10,000、寿 5,000、20,000 をいろいろに小わけ。30,000 を借金かえし(mの)

十二月二十七日

 水
 咲が帰って来て間もなく内玄関から上って来た人、インバネス、私服“マア”膝をついてしまった。あんちゃん、下宿であき巣にはいられトランクぬすまれた由、あとから寿も来る。

十二月二十八日

 木
 久しぶりでみんなでおそい朝食、コタツで話し、m外出。夕飯にかかる。

〔十二月の―MEMO―の欄に〕

 宮九州行きのためにつくった夜具木綿しき二枚、木綿かけ一枚、めいせんかけ一枚(きれこちら綿だけ)夜着(裏、わた買)総二〇、八五〇円也、びっくり敗亡。

〔手帳の終わりに〕

 一月七日 出席、統制委員会で、元旦のことについて。明日、統制委員会と政治局合同会議をやるときめる、そのとき、統制委員会としての意見をまとめて答えなかった。ワンと云われてそのままもつことにした。それについて宮自分でいや。

 一月八日 野坂に対する「コミンフォルムの批判」各紙に出る、「徳田との勢力争いにピリオド。徳田はストライキやその他の事件に責任あるとみとめられている者だ」というのが、連合国の意見の由。いろいろ微妙重大である。

 一月十八日、十九日、二十日 中委
 二月┐ 宮九州
 三月├ この間二十日ばかり宮九州に行っていたうちにいわゆる「分派」
 四月┘ 二十八、二十九、三十、拡中二十九日で「分派」問題をまとめただけで「重大声明」でビュロクラティズム封サ。

 五月四日 宮九州。
 五月中旬以降アカハタの編輯(!)

 六月四日 参議院センキョ。

 六月五日 吉田の非合法化声明、オーストラリアの反 K. P. 法をまねする由、まず団体キセイ令をつかうらしい。(五月三〇日の人民ひろばの人民大会でプロボケーション八名つかまり軍事サイバン最高十年GHQで再ケントーして決定の由)

 五日 СССР代表43名一どきに交たいした ワシントン「当惑の一語」のよし

 六月三日 トルーマン、このさき五年は戦争ナシ、と。

 六月六日 党中央委員政治局員公職追放発表

 同 八日 宮、九州からかえる、アカハタ編輯部員追放、そのリストの中にはアカハタに関係のない人まで加っている、情報の性質がわかる。日本へ来るとすぐ行っていた。

 六月二十七日まで、パージユーヨ期間。

 六月二十五日 北鮮軍が38°線を越して南下(二十三日に南から入っている)

 六月二十七日号の『指針』、N執筆。めちゃめちゃ。逆効果

 六月二十七日 期限だが、徳田その他居所不明。

 七月七、八、九日 北京日報の日本の現状放送。
 北鮮軍は共産軍とよばれはじめて、ますます南下

 七月十五日ごろ、いろいろ
 花火があっちこっちであがっている、新聞に納涼踊の写真。徳田その他へタイホ状が出ることにきまった。

 七月二十日「潜行(一字不明)九氏」のマン画、左で暴力革命の発射準備。右で国際派弾圧、徳、眺望鏡の図の眺望鏡を出して見ている、オマワリのくつ、その前でまわれ右まわれ左している、

 ○七月二十五日『活動指針』九州地方委員会の「宮本、志賀、春日庄次郎の政治的責任を追究する」という文章をのせ、宮本は「分派の精神的支柱から今や分派そのものになった」由。
 ○中国地方委員会決定として、多数派分派の策動をバクロし、党の統一のために中央委員会の確立を要求している。
 東京都委、区委。各地区細胞に宮本、志賀除名決定をおしつけて、賛成しない党員は除名、それを反対した細胞は解散とおどしつけている、中央区では決定した。
 ×本部細胞で、下からの決定を出させることに成功したから普及する。自己批判せよ、自己批判とは、特高的自白要求。意見はうけつけない。

 七月二十八日 夕立、おいてある氷から湯気の立つのが見えている、せみの声、青桐の葉をうつ雨。「そんなところへ行くなんて! 何のしかけがあるかわからない」
 スエ子が傘をとりに行った七階の気味わるさ、

〔原稿用紙に〕

七月五日

「軍隊と物資とは依然としてケイゾク的に日本から送られつつある」
「空軍は、九百五十三回出撃した」
 各国の軍隊の統一的指揮をするためにマック国際連合軍総司令官一両日中「国際連合軍の旗の下に行動することができるようになるわけです」

七月六日

あつい日、きょうから氷をおきはじめる。
 宮、出かける前のガタガタさわぎ。
 一息入れて仕事しようとしてお茶の湯をわかして食堂のガスの前にいる。健、食堂で、
「おまわりさん、敵のヅンツっていうよ、『敵のヅンツを攻撃して』って」
「健ちゃん、このごろおまわりさんよくあそんでくれる」
「ウン」
「そして宮本のおじちゃん何しているってきくね、この間九州へ行っていたとき九州へ行っているんですかってきいたね」
「ウン」

 ◎本日中に徳田居どころをはっきりしなければタイホ命令。
 ◎昨日文連と『新文化』ガサ、封印、責任者鈴木ケンキョ
 ○何をなすべきかについて考えた、そしてわかったところあり、科学的自己批判とその発展。
「世界の子供」の運命について考える、アメリカに smash hit Toy $250 が出て模型住宅をこわす。

七月七日

北朝鮮軍南下
 米軍包囲された。十一日十日間に20機失った。
 靴は泥沼にくわれる。

七月七日

韓国宛電報とり扱停止
 国内朝鮮五十余万人平静
 ○吉川トク審長
   国外に脱出したものがあるかどうかは不明である。
 刑事部長会議
   金ユーキカン
  通信鉄道妨害行為とりしまり

七月初旬

 ○「積極的意義」を、ブルジョア革命の時期として理解しようとするもの多数であるという話。過去のあやまった党の反封建主義がしんとうしている。哲学でさえも。当面の課題を回避しようとする人々の理論づけ。
 ○金をつくる人が一家の中で一つのかたまりの中でえばるという現象のブルジョア性について。
 ○党内闘争にだけ目をとられて、日本の解放運動全般についての着目を失っている人々の「動き」

〔卓上日記に〕

二月二十三日

 木曜
 宮本出発

四月七日

 金曜
 日本地質学会総会
 全世界に平和声明

四月八日

 土曜
 かえる

四月二十八日

 金曜
 中央委員会第一日

五月一日

 月曜
 60万人の統一メーデー

五月三日

 水曜
 党内闘争を論ず、“劉少奇”
 これをのせて、ボルシェビキ的〔二、三字分空白〕の中から官僚主義批判をのぞく。

五月六日

 土曜
 九州へ出発

七月六日

 木曜
 アメリカ軍司令(ママ)発表
 戦車が四十台が七月五日の朝早く
 損失を蒙らせた
 三七度線南西へ進出、
 プラーグのジャーナリスト連盟、
 mアカハタ発禁を基本人権蹂リンという、

七月七日

 金曜
 北京人民日報「日本人民闘争の実情」
 ストラスナーヤーの発 100 回以上
 十日間の「総合戦果」22米キおちた
 北天安に出た、
 33.5°

七月八日

 土曜
 33.7、熱射病がおこる。
 午後一時リン時ニュース
 マック、吉田に国家地方ケイサツ七万五千のどこへでも動かせる政府直属よび隊、海上保安隊八千増強要請、勝手に「政令」でできる。
 ○きょうは34°ぐらいになるそうですよ
  34°て何度、マア九十五度よ

七月九日

 日曜
 北鮮軍と云われていたが、きょうから共産軍と放送されはじめた。
 天安でぶつかって、アメリカ精鋭部隊が動いている、トルーマンは、朝鮮が永びくもの、というきっかけで徴兵法
 ○マックアーサーが連合軍指揮に当っているから日本人が朝鮮の戦(ママ)に参加するのは国連のケイカクにさしつかえない。

七月二十六日

 水曜
 久保田さんのカット、新日本文学

七月二十八日

 金曜
 二十九日、カットの約束

八月一日

 火曜
 お見舞

八月二十九日

 火曜
 早起きしてまた眠る。

八月三十日

 水曜
 全労連、突然解散、土橋はじめ十二名パージ
 岩崎に『平和をわれらに』原稿わたす。

八月三十一日

 木曜
『読売』、新日本文学会グループの声明を発表した。(一部分)

九月一日

 金曜
『毎日新聞』
 二百十日平穏
 板垣正(26)転向声明を発表、自由労働者の生活をしていた。もつものに非ず
 郵逓、農村三千人の赤パージ(予定)
 区委員会から新日本文学について詰問。

九月三日

 日曜
 ゆうべからきょう夕方前までは日曜日
 のこちゃん来訪

九月四日

 月曜
 区委員会から返事大いに立腹する、そして

 何年ぶりかで本棚を整理する

九月九日

 土曜
 区委長の御来訪、二時すぎから七時まで。かたくて小さいネジの典型。

九月十四日

 木曜
 窓のすき間におぼろ月
 のぞいていいじいさんの面でもなし

九月十六日

 土曜
 かあちゃんのくさむしり、一本二本

九月十七日

 日曜
 おやじ草むしり
 アサかけこみ びっくり敗亡

九月十八日

 月曜
 窓の右角 なぜ竹うった
 ○魚やのつけをもって御用きき
 二階へ

九月二十一日

 木曜
「道標」おしまいから一つ半前まで。

九月二十四日

 日曜
 婦公、「傷だらけの足」19
 すっかり仕事がすんで、本当に休めるときはなんとたのしいでしょう。

九月二十五日

 月曜
 アサとぶボールをおっかけて、“外野”“ネットバック”なかなか活躍。“ナイスボール!”
 ホーラ、アサ! こういうときはお前がいいんだ、一度ごとのホメことば。夜十時、虫の声、アナトール・フランスの「赤い百合」、テレーズは優美かもしれないが下らない。アナトールの婦人カン

九月二十六日

 火曜
 少しゆうべから怪しかったところ、すっかりこわばってしまった。
 ガノ公と話していたら目の前にドラやきがあるのにそれどころでなし
 夜痛んで首をふりふりひとり治療

九月二十七日

 水曜
『新女苑』、急なことを云ってかけるかどうか。
 五郎やん、
 夜、床が体をはじき出すように苦しく、おきたりねたりかがんだりさまざま

九月二十八日

 木曜
 思ったより早くよくならない。牛乳、トースト、おかゆにさしみ、よる飯一杯、あんかけのつゆ、あじのやいたの
 大しかられ。一言もなし、落雷ひとまわりして。
 84°あった。キヨ子さん体温はかった由、あつくて変だ、と。

十月一日

 日曜
 たか子クラブの会
 岩崎、原稿のこと。

十月二日

 月曜
 雨の夜、これだから傘が二本いるね

十月三日

 火曜
 午後哲学の話
 男ものの単帯、角帯は似合う
 夕飯急にたか子たち来て、九時に立つ、べん当もつくれず。
 一日のうちのことと思えず

十月四日

 水曜
 チクマに手紙

十月五日

 木曜
 池島のところへ手紙をかいた。こういうことを思いつかなかったというのはバカだった。
 Yちゃん帰る。実に重荷がおりた。

十月六日

 金曜
 寿のところへ宮下―矢野の娘、音楽の譜のことについてお目にかかりたい、と。
文秋、田川
 それで伴からのぞく、細面の男というのの見当がついた。旧特高全部イキている。

十月七日

 土曜
 春日正一名古屋でつかまった。大阪からつけられて。
 午後四時ごろ号外のベルの音。何だろうかと思いつつ仕事。





底本:「宮本百合子全集 第二十五巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年7月30日初版
   1986(昭和61)年3月20日第4刷
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
※「参議員センキョ」と「参議院センキョ」の混在は、底本通りです。
入力:柴田卓治
校正:富田晶子
2020年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード