※[#「やまいだれ+句」、第4水準2-81-44]女抄録

矢田津世子




 先き頃、京阪方面の古刹めぐりから戻られた柳井先生の旅がたりのうちに、大和やまと中宮寺の「天寿国曼荼羅」のおはなしがあった。わたくしは不幸にして未だに中宮寺をおとなう折にはめぐまれぬけれども、その曼荼羅繍帳にふれては、これまでも幾たびか人にもきかされ書物でも読んだ憶えがあるので、先生のおはなしにはひとしお惹かれるものがあった。
 現存する繍帳は片々たる小断欠を接ぎあわせたわずか方三尺たらずの小裂ゆえ一見すぐさまこれをもって一丈六尺四方の原形を想像することは難いけれども、しずかにこれへ眸をおくと華麗善美をつくしたそのかみの大繍帳が不思議に目のあたりくりひろげられて、想いはいつしか推古の大観へ至ると言われる。
 繍帳はもと法隆寺の宝蔵の奥ふかく納まわれてあったが、のち、中宮寺にうつされ文永年間信如尼によって修補が行われた。当時すでに繍糸の落脱したところもあって亀甲にしるされた繍文の解読に苦心をはらうほどだったが、まだその原形をそこなうまでには至らなかった、併し、徳川中紀の頃には已に今日みるような小断欠になってしまっていた。繍帳原形は中央に浄土変相をあらわし、瑞雲、霊鳥、霊樹、雲形、花鳥、人物、鬼形、仏像などを、周りに大銭のような亀甲が一百ばかりつらなり、一甲に四字あて、すべてで四百字、この繍文によって繍帳製作の由来をあらわしたと言われる。なお、先生はその製作のゆえをこんなふうに釈かれる。推古天皇の三十年二月二十二日に聖徳太子が薨去こうきょあらせられたので、妃の橘大女郎哀傷追慕のおもいやるかたなく、勅を請うて太子が日ごろ説かれ給うた天寿国のもようを図がらにあらわしてそこに太子御往生の容子をみられんことを念じられた。天皇はその哀情を深く思召され勅諚をもって繍帳を二張つくらしめ給うた、その下絵には絵師の東漢末賢やまとのあやのまつけん高麗加世溢こまのかせい漢奴加己利あやのぬかこりを、尚椋部秦久麻くらべのはたのくまをその令者として諸采女たちに繍を命じ給うた。このことは、ずっと以前、知人宅で手にしたことのある天保十二年版の観古雑帖にもみえていたような記憶がある。ここに繍をなした采女たちとは、後宮に近習し上の寵を蒙った婦人たちをさしているのであろう。その下絵をかいた絵師はいずれも一世の逸材として伝わっているけれども、直接の工作者である采女たちは、その名すら遺っておらぬときく。
 わたくしは尚二三書物を繙いてみたが、どこにも采女たちの名は見出されなかった。
 先生は染織文様のみちに明くいられるので現存の繍帳断裂の生地や繍糸についての考察にはとりわけ詳しいお話があった。断裂の生地は仔細にこれをしらべると凡そ綾織、絹縮しじらふうの羅、平織、文羅などであって、このうち紫綾、絹縮ふうの羅の部分が最も多く、色めは濃淡多少の差はあるけれども紫地が大部をしめている。この絹縮ふうの羅について、先生は種々の方面から考証されていられたが、当時これが台ぎれに使用されたというよりは後世になって大破を修補したおり用いた生地だとみていられる。飛鳥天平のころには、このような生地の類例がなく、これが現存する断裂の大部をしめているとみるとき、飛鳥時代本来の分は余程縮少される。繍法は平ざし、まといつきざし、まといざし、からみ繍などで、色糸のとりあわせは巧妙をきわめ、紫の地に黄、紅、臙脂、紫、藍、緑を主調とする繍が施されて、その彩色の華麗は例えようもない。繍帳下部のほうに、法隆寺金堂や玉虫厨子を思わせる様式の鐘楼があって、この中に緑の衣に紅い袈裟をつけた僧侶がいる。両の手に撞木をもって、いまにも鐘をつかんとする姿態を繍した僅か三寸にみたぬ図ではあるけれども、凝っと眸をさだめると、この僧侶の生動しているさまが見える。――先生のこの言葉からわたくしは、さながらその場にある心地して、微妙に生動している僧侶の姿が目まえにありありと見えるようであった。わたくしの心はまた先生の眼を藉りて、いまは繍糸も落ちて黄褐変した台ぎれのみえているところや、下絵の墨絵の線がまざまざとみえているあたりの断裂を前にして、過ぎ来し方を偲び今さらのように飛鳥芸術の豪華をながめる。ふと、この繍帳の中から読経の声がつぶつぶときこえて、ただ、ひたむきに繍の針をはこんでいる采女たちの姿が浮んでくる。亡き太子の御遺徳をしのびまつり、ただ一途な思慕と信仰のその念いばかりが繍帳に籠っているとみえた。
 先生の語るところに深くこころ動かされてわたくしは、せめて上野の博物館へいって話しにきいていた「無量寿経」をなり見たいものと或る朝ふと思い立った。この経文一巻は文字を刺繍とし浄土のさまを口絵に描いて極彩色を施したものだときいている。「天寿国曼荼羅」に倣って後世仏像経巻等を繍することが行われ技のほうも次第に巧妙となったということは想像に難くないが、現存のものでは右の経文の他に山科勧修寺の繍仏、近江宝厳寺蔵の国宝「刺繍普賢十羅刹女図」の額、「弥陀三尊来迎図」の額など精巧のわざを示したものときいている。なお最近読んだ書物の中に「菅原直之助、独習をもって刺繍に長じたる人にして狩野芳崖の『悲母観音』の繍は原画の傑出せると共に有名なり」とあるけれども、これが何処に蔵されているかは明らかにされて居ない。
 省線をうぐいすだにで降りて、徳川御霊屋の塀に沿うて樹木の鬱蒼と覆いかぶさっている径を博物館へと取った。暦のうえではもう秋立つ日も疾うにすぎているけれども、暑さはいよいよ加わって木の間を洩れる陽射しにもせなをやかれるよう、人どおりのまったく絶えたこの径には蝉しぐれが降りしきって聾するばかりのかしましさのゆえか辺りの寂けさがひとしお澄んで感じとられる。蝉取りの子供たちに行き会うただけであった。
 博物館の門前に辿りついてわたくしは躊躇し訝った。砂利はこびの人夫たちの出入りがしげくて辺りの様子がなにかざわついている。門衛のはなしに、このほど新館が落成したので今は陳列品をそちらへ移しかえるため休館になっているということであった。
「十一月迄の御辛抱ですな。その代り今度は立派なところで御覧になれます。ほれ、あそこにみえるのが……」
 老門衛は番所を出てきて眼を皺めて、指先きに挟んだチビた莨で樹間の白い巨大な建物をさした。
「天寿国繍帳」の造製に与かった絵師たちは推古天皇の十二年帰化画師保護のため定められた黄書画師きぶみのえしならびに山背画師に属する人びととしてものの本にみえている。末賢は大和に住し東漢やまとのあやに属した帰化漢人であり、奴加己利も亦、そして加西溢は帰化高勾麗人であった。それゆえ我国最初のこの繍帳には支那高勾麗両系の絵があらわされているわけである。刺繍芸術には、その後、次第に日本人独特の趣が加えられて戦国時代には兵具にさえ繍をほどこすようになり、元禄の頃に至って最も洗練され、徳川時代にはこの繍の多少によって武家の格式の高下をはかるというまでに用いられた。
 西洋のほうでもまた旧約書にアーロンの帯が紅青紫の刺繍された美しい麻布であったとみえているから、ずいぶんと早くからその技に熟していたようである。のちにはアングロサクソン寺院の僧衣が見事に繍されたとも伝わっている。「マティルド女王の壁掛」とは、よく耳にするけれど、これはローマネスク時代の遺品中最も珍奇なものとして今日仏蘭西ノルマンディのバイユー・カテドラルに蔵されているときく。ノルマンディ公ウイリヤムの英吉利征服に材を取りマティルド女王の手工として、また十一世紀末の華麗な繍織として遺っていると聞いているが、「これ迄の織物や刺繍はすべて東方から供給されしものにしてこの時代に至って毛織に刺繍せる美しき工作ヨーロッパに於ても初められたり」と古い美術雑誌などにも記されてあるから、西方諸国の繍におけるその技の発達は疾くから東方に負うところがあったとみられる。
 わたくしは樹蔭を足にまかせて歩きながら急に背の汗をおぼえた。東照宮をすぎて樹枝の小暗いまでに繁りあった径をおりて、池の端に出た。見渡すかぎりの蓮であった。葉と葉が重なりあうほどに混んでいて繁茂しているというにふさわしく、白と淡紅の大輪の花がみえかくれしていた。縁に近く、ちょうど蓮の葉でかこいをされたぐあいの一坪ばかりの水のには、背に色彩りあざやかな紋のある水鳥が游いでいた。うちつれて赤い小さな水掻きをうごかしながらその狭いかこいの中を円を描くようなふうに游いでゆく。陽に煌めく水面にはささやかな波紋が立って放射型のゆるい水線が尾をひいて行く。なんともいえず和んだ心地がして、わたくしは、しばらくそれに見とれていた。
 加福の師匠は繍の名家としてまた「旋毛つむじ曲り」として業界から折り紙をつけられている。師匠という呼び名も、わたくしは弟子たちの口馴染みを真似ているわけだが、たとえば、師匠と呼ぶ代りにこの老人を先生とか加福さんとか呼んでみても、一向に馴染んでこない。やはり、この老人には加福の師匠がいっとう似つかわしかった。
 世間では、本卦返りのこの齢まで通してきた師匠の独りぐらしをあれこれと取り沙汰しているようであるが、師匠は或る信条からこの独りの身を戌り通しているともきいていた。わたくしにとっては亡父の郷友にあたるところから、池ノ端数寄屋町のそのすまいへは、亡父生前よく供をして訪ねたものであった。
 座業の人に猫背がに股というのをよく見かけるけれども、師匠にはその気すらみえない、痩せて小柄な体躯をいつも端然と持して、長い仕事中にもそれを崩すということがない。立居のおだやかな寡黙な質で、にこやかなおもだちは親しみ易いが、折おり妙に気詰りな思いがして座をはずしたくなる。何か念を凝らしていられる時には余計にこの思いがきて、その眼を見上げるさえ気後れなときがある。老齢とは言いじょう師匠の面にはその翳さえみえず、その眼に籠っているものが年どし青春わかさを加えているように見える。けれども、短く刈りこんだ頭髪つむりはもう大分霜に覆われていて、うしろから眺める背のあたりにふっと老いの佗しさを見かけるときがある。痩せて崩さぬその後ろ背に支えてきた気骨ともいうべきものが素直にみえているだけに、そのうしろ姿の老いは一そう胸に来る。
 加福の師匠は郷里に在る頃、山中の禅寺に籠ったことがあるときいていたが、朝毎、枠台を前に端座して黙然としていられるのは、そのころからの慣わしらしい。枠にとりかかると、誰れにも会わぬ仕来りであった。
 こんなことがあった。
 父の供をしていつかも師匠宅を訪ねると玄関の間には既に先客があって、急ぎの用事か頻りに取り次ぎ方を門弟に頼みこんでいた。永年のことで、わたくしたちは断りなしに、いつもの茶の間に通った。次の六畳ふた間が仕事部屋にあてられてある。師匠は、小庭に面したいつもの位置に少しばかり上体を俯向けて端座して、深廂のぬるい光線をうけて枠ばりの琥珀か何かに針をとおしていられた。玄関の間の先客は襖かげから顔をさし出しては急き立てる。枠にかかっている間、人に会わぬその慣わしを心得ているゆえ門弟たちはこのせわしない客をもてあましきっているふうだったが、またも急き立てられると渋りながらも、ひとりが告げに立った。師匠はしずかに針を通していられる。尚ふた言三言かけて、下りかけると師匠が呼び止めた。不足している分の色糸を持って来るようにとのためであった。
 こんなこともあった。
 師匠宅で帯安の番頭と行きあわせたことがある。京都に本店をもつこの大だなの帯安では余程以前から師匠を口説きおとすのに骨折っているようであった。この帯安のほかに袋物専門の鈴仙商店と京橋の老舗玉井屋あたりの番頭なども根気よく未だに通いつめているようである。併し、師匠は、いわゆる「おたな物」仕事をこれまで引き受けた例しがなかった。「お店物」で制限をつけられてしまうと針がまるで利かなくなってしまうと言われる。この時も、帯安の番頭のひっきりなしの京訛りに耳を藉しながら師匠は徐かに茶を啜って居られた。いつまでも茶碗を口から離さずにいるのは、この番頭の饒舌に相槌をうつことさえ避けていられるようにみえる。お喋りがちょっと途絶えたところで師匠は茶碗をおいて、
「折角ですが……」と言った。なお執拗に番頭は続けたが、師匠はこの言葉をくりかえしているだけであった。
 当節は刺繍する者も柄がおちて、自分からたなに出かけていって仕事を頼みこむという風だが、これでは好んで技を堕すというものだ、と師匠は折にふれてこう歎かれる。技を売ることにばかり切で、技を磨くことに念を凝らすひとが稀になった、と歎かれるのである。むかしは齢六十にして尚ひとの徒弟として技を練ることを道と教えられていたが、当今は年季もまだ明けないうちからもうたな出入りのことを考えている。世智辛い世のゆえとは言い条、このような人たちの世に送り出されるのは怖ろしいことだ、粗笨そほんな仕事と誰れの眼にも分っていながらも、これがこの節繍の域内を大手振って歩いているのは怖ろしいことだ、と歎かれるのである。
 師匠の口から賞め言葉をきくことは滅多になかった。ずっと以前、弘前から繍の道を修めに出京した相馬という人の仕事を稀らしく師匠は賞めたことがあった。この相馬氏も軈て立派に一家をなして業界に重きをなす人となったが、惜しいことに先年病歿されてしまった。業界では「賞めない人」として加福の師匠は通っているし、その烈しいまでの潔癖な眼識を「旋毛曲り」としてみていた。ひとつには、その潔癖さが己れの技へ向ける厳しさとなり、「お店物」を撥じき切る頑なさとなり、なおまた、独りの清貧を守り通してきたそのことにも通じているとみえる。その頑なさ、その片意地な程の潔癖さを世間の眼は「旋毛曲り」とみていた。
 師匠のその潔癖さは、そのまま徒弟をはぐくむうえでの鞭ともなり、ただひたむきにその道へと駆り立てる。鞭は徒弟の曲を矯めるためとも、また、師匠自らの惰を戒めるためともみられる。師匠は、徒弟を多くとることを好まず、子いから手がけて人と為す、という建前であった。師匠の許を巣立って、いまは名をなしている人もあるが、旧くからわたくしの眼に馴染んでいる門弟の顔は、ほんの二三にすぎない。このうち、銀三がいまだに師匠の許に残っているだけで、女弟子の寿女すめさんも疾うに出てしまったし、腕達者できこえていた連之助などは、もう一家をなして展覧会へも両三度通り、この程、刺繍組合の理事とやらに推薦されたときいている。先日、近所の書店で、葛岡連之助著「日本刺繍講話」という書物を見かけたが、若年にかかわらず、連之助の業界に於ける名声は目ざましいものだときいている。併し、師匠によると連之助の技は展覧会を目ざすようになってから堕してしまったと言われる。或る眼に拘泥わり或る眼に阿ねる心がしぜん技の上に現われたとの意をそれとなく洩らされたのであろう。曾て、組合というものに拠った例しなく、また、人の眼を通して作を展覧させることにも全く縁の無い師匠には、以前のこの門弟の今は処世の道に才長けているさまを眺めるのは、怖しくもまた哀しいことに違いなかった。無のうちに針を取り、無のうちに針をおく、ここにあるのは、ただ、針に通う心ばかりである、この針がたった一つの眼を気にしただけで、糸の乱れのくる怖ろしさを師匠は語られたことがあった。
 わたくしが初めて師匠の作にふれたのは、まだ尋常に通っている時のことで、刺繍というものを色彩華麗な装飾物として決めてかかっていた子供のわたくしの眼には、意外に詰らぬものを見る気がされた。それは、綴錦か何かの地にめんを二つ三つ縫取りしたもので、焦茶、茶、淡茶、白というような色どりが如何にも地味すぎて、味気無く見えた。また、面の配置がいかにもぶざまで、これも稚いわたくしの眼には興なく見えた。幾年かすぎて、父はこれを請うて持ちかえり額縁にいれて居間に掲げておくことになった。父の解釈に、この繍は不完全の調和をなしているという。同系統を用いた色糸の単調の美、ぶざまとみえていた面の置きかたの妙も、わたくしには少しずつ解けるようになった。父亡き今、自分の小室にこれを掲げ眺めて、いよいよ、この繍の妙趣に惹かれる。完全の調和として、装飾的色彩華麗さをその特徴としてきているこれまでの刺繍の道を、それゆえ、師匠の歩みは踏み破ったとみなければなるまい。繍のうえでは、写実を象徴に高めたところに至上のものが生まれる、とは師匠の言葉で、その象徴も極致に達すると気韻微妙な文様としての和をみせる、「天寿国繍帳」はこの極みに達していると語られる。
 また、師匠は、よく人が刺繍の出来ばえを評して「まるで絵のようだ」とか、「絵画にまさる」とか言うが、繍は絵と全くその性を異にするものであるし、これを比較対照してみるのは可笑しな話しである。「絵のようにみせる」とは、繍の上でもこれまで言われてきたところであるが、これは、繍そのものの質を弁えぬも甚だしい、繍は絵とちがって、一本一本の糸が微妙繊細な立体感をもって、これが緻密に綾なすところに妙味がある。――と、語られたことがあった。
 わたくしの足はいつしか池を半周して揚出あげだしの横にかかっていた。父が世に在った頃、よく加福の師匠に案内されてこの揚出しだの、山下の鶴のいる牛肉屋だので夕飯の馳走にあずかったものであつた。揚出しの名物で、生揚げ豆腐におろしをそえ、たっぷりとしたじのかかった「あげだし」は、師匠も父も大の好物であったから、これだけは幾皿も重ねて、一本の銚子をながいことかかって酌みかわすのであった。
 池に面した揚出しの古びた格子窓を眺めやりながら、ふっと、その内らから老人ふたりの徐かな話し声が洩れてくるような気がして耳をすましてみたが、聞えるのは客を送り迎える小女たちの嗄れて甲高い声ばかりであった。
 思いたって、池ノ端仲町の通りをすぎて数寄屋町の足馴染みのいつもの横丁へ折れた。先年、父を喪うてからは何とはなしに無沙汰がちになっている。師匠との久びさの面接を何がなし面映ゆく思い描いた。
 角が喫茶店に変っていた。去年の暮に来た時は、まだ婦人子供服のきれ屋で、門口二間ばかりの小店先きには飾窓なども設らえて、花模様の洋服布地をかけならべていたのであった。それが造作がえして、硝子窓だの硝子張りの扉をとりつけて、「高級喫茶ミューズ」などと出ている。きれ屋の以前は荒物屋で、所せまいまでに置き並べた中に寿女さんのおっ母さんが俯向きにお針の手をせっせと動かしていたものであった。そのおっ母さんの姿をふっと喫茶店の窓硝子に見る気がして足を停めかけたが、思いかえして、隣家の師匠宅を訪うた。
 銀三が出っ歯をむき出しにして迎えて、師匠は只今お写経でございますが、と言う。簾屏風ごしに、机を前に端然と坐していられる後ろ姿が見える。上り框に腰をおろして銀三のすすめる冷えた麦茶で喉を潤しながら一別以来の挨拶を小声で交わしあった。栃木在出身の銀三は、師匠を慕ってここの内弟子に住みこんでから、もう、十数年にもなるのであった。
「お師匠さんが、もういい加減に独り立ちしてみたらどうか、って仰言って下さいますが、なんせ、まだまだ心許なくて、こうやって玉子の殻をくっつけたまんまお傍にぬくもっている始末です」
 銀三は奥へ気を兼ね、声を低めて、なお重ねた。
「わたしは生れつき不器用なたちでして、連之助さんや寿女さんの足もとにも寄れないんですから、あの人たちの二倍は年季を入れなけあ駄目だと思っているのです。寿女さんといえば、あのひとも、まあ、折角の手をもちながら惜しいことになりまして……」
 妙に鼻づまった沈んだ声音にふと衝かれて、わたくしは「え」と問いかえした。この時、奥から声がかかったので、銀三は座をひき、招じ入れられてわたくしは上へ通った。
 加福の師匠は写経の筆をおいて机から離れたところであった。眼鏡のぐあいをなおしながら、
「この頃は、こんなものに頼らんと筆もつことも針もつことも出来んようになった」
 と、ひっそりと笑われた。眼性のよさを誇っていられただけに、その眼鏡に負けたおもは佗しく見えた。
 師匠の写経をみかけるのは初めてのことだったし、そのことから妙に心が急き立てられるまま尋ねた。
 師匠は、しばらく黙していられたが、
「寿女さんが亡くなられたのを御存じなかったかな」
 そして、また、しばらく黙された。
「あさってで七七忌になる、早いものだ……」
 自身へきかせる独り言のようである。銀三のはこんできた茶盆を引き寄せ、湯かげんをさしのぞいて、茶の支度にかかられた。
 わたくしは寿女さんの訃を信じかねて、そのことをもう一度たしかめてみたく師匠を見遣ったが、ものしずかなその姿には声をかけるさえ臆せられた。隣室の銀三を見ると、長い枠を前にして一心に針をとおしている。それと並んで年少の弟子が二人、ひとりのほうはわたくしには新顔であった。鼻の頭に汗のつぶつぶを光らせて、針の持ちようもまだぎごちなく両の肘を突っ張って顔を枠の上にのめりこませて通している。わたくしの眼は、一瞬、その位置に寿女さんを視て、はっと弾んだ。くるっとしたその眼射しで、こちらをみて、にっこりしながら癖の、あぶらのしみた髪に針をちょいちょいとなすりつける。いまにも立って来るかと待たれるその気振りは、しかし、つぶつぶの汗を光らせた新参の弟子がこちらを見て、針の手をおいて辞儀をしたのであった。
梅雨つゆ前から感冒にかかっていたようだが、抑えていたとみえて、とうとう肺炎でね」
 師匠はこう言うて湯ざましの湯を緩っくりと急須へ注ぎ入れた。
 机の上の写経へわたくしは眼をやった。その経文のくだりは般若心経のようでもある。先刻の銀三の沈んだ物言いを思い合わせて、わたくしにはだんだん寿女さんの訃が現実感をもって迫ってくる。写経に至るまでの師匠の心の裡も漸う汲まれて、筆差しにささった筆のまだ墨の乾き切らぬ穂先を眺めているうちに、不意に、哀感がそこから衝いてきた。
 隣りの喫茶店からレコードのブルース調の唄が鳴り出した。
「きょうはまたひどく照りつける……」
 師匠は顔をさしのべて空を覗いた。此方の低い板塀を越して隣家の亜鉛庇がはみ出している。その照りかえしが縁の青簾をとおしてきつく来る。師匠は茶を啜り了えると立って、勝手元から水の張ったバケツを下げてきて、湯帷子ゆかたの裾をからげて濡れ縁のところから庭へ水を打ちはじめた。
 庭というても四坪たらず、紅葉の木に桃葉珊瑚あおきが二本、手水鉢の水落ちのきわにも手入れの届いた葉蘭のひとむらがあって、水に打たれ染め上げたばかりの緑の色艶は眼にしみるよう、したたり落ちる雫のはずみをうけて葉が微かに揺れている。師匠は、軒のしのぶを取りはずして其処にしゃがんで、わずか残ったバケツの水で丹念に葉を洗い、葉のへりが黄色くすがれたようになっている分を眼鏡を寄せて検べ見ながら、指さきで丁寧に撮みとっていられる。
 おもて格子の開く気配がして、取り次ぎに出た銀三が、
「三昧堂さんがお誂えを届けに参りました」と、うこん色の大風呂敷にくるんだものを差し出した。
 師匠は、しのぶを軒に吊して雑巾で足を拭き了えると裾をおろして入って来られた。
「こんどはお叱り頂かないように材料のほうも充分に吟味致しましてございますが、へえ……黒檀もここいらへんになりますとじょうの上でございます」
 三昧堂は乗り出して簾屏風の蔭から中低の顔をのぞかせて金歯をチラチラ弁じたてた。
 師匠は額縁を取り出してコツコツと敲いて音を試したりしていたが、軈て立って、うしろの戸棚から金布かなきんをかむせた小枠をとりおろした。
「お手伝いいたしましょう」
 と言って、三昧堂は上りこんだが、師匠は人手をかりず枠糸をとりのけて、ながいことかかって額縁に嵌めこんだ。柱のところに立てかけておいて、すざって眺めていられる。
「寿女さんの形見だ。……どうです?」
 師匠は額に眺め入りながら徐かにこう問うた。
 それは横一尺に縦二尺ばかりの、糸錦の地に木居こいの若鷹を刺繍したもので、あしらった紐のいろは鮮やかな緋色であった。若鷹は茶褐色のに富み、頸から胸にかけての柔毛にこげは如何にも稚を含んでいて好もしいが、その眼、嘴、脚爪の鋭さが何んともいえず胸を衝く。わたくしは寸時眼を逸らしていたが、また、視入った。
 この若鷹はの彩色、誇張しているとさえみえる形の一種のそぐわなさからも、実際鷹狩につかう鷹とは凡そかけはなれている。よくよく眺めると、これは一つの図模様としての美しい鷹である。円く黄色い眼も曲がった嘴も、それだけ視ると何等現実的な気韻をもっては迫ってこない。むしろ、図模様の一部分としての微妙な糸の巧みさに打たれる。しかも尚よく眺めると、この美しい図模様としての鷹は、生きて、鋭い眼で観る者を射る。いまにも羽搏き飛ぶかとみえる気韻をはらんでいる。
 わたくしは作者のことを考えた。作者の魂の烈しい息づかいがここに織り込まれている。この鷹は、その作者の魂をうけて生きている。図模様の裡に生きている。
「お師匠さん……」
 銀三の眼にもこれは初めてらしかった。敷居のところから動かないで額に視入っている。思わずも、こう声が洩れたようであった。
 師匠は振りかえったが、そっと逸らして、また額へ眼を戻した。
 わたくしは、ふと、垂れ下った緋の房の先のほうが、糸が粗くなっていることに気が付いた。そこだけ、わずか糸の隙間が出来ている。房がわれているようにみせるために故意にそうしたものとも思われないので尋ねると、師匠は、
「ああ、この房かね……」
 それなり黙ってしまわれた。
 三昧堂がひとしきり世辞をのべたてて、手前褒めをして、間もなく帰ってしまうと、師匠はこう言われた。
「この房を仕かけて亡くなったのだが、……裏にまだ針がついている」
 師匠は額を引き寄せて、うしろの止め板をはずして見せて下さった。ちょうど仕かけた房のところから三寸ばかりの緋の糸が下っていて、その先に、針は銀紙に幾重にも包まれて、なおその上を糸で絡らんであった。
「折角のものを錆びさせるといかんからな」
 師匠は面映ゆげにこう言うて、銀紙の針をつまんだりしていられたが、わたくしの眼には、その針を手にしてひたむきに屈みこんでいる寿女さんの姿ばかりが迫るのであった。

 種村の寿女すめさんは佝僂せむしであった。母親のはなしに、寿女が十四の時、腰が痛い痛いと喧しく愬えるので、近くの灸点所へ連れていって、どうやら痛みをとめてもらったものの、それから間もなく腰が抜けるようだと喚き出されて、これはどうもしもの患いらしいと独り合点して、それからは人目を憚り、長い間漢方医がよいをさせていたという。脊髄のほうを冒されて手おくれになっていると分ったのは、もう余程のちのことだったという。専門の医者にも診せず姑息な手当をしていたのも、跡継夫婦への気兼ね心からで、後添えだった寿女の母親は、腹ちがいのこの息子夫婦へは何かと引け目さを感じていた。
 一家は尾久に住まっていて、塗料工場をもち相当手広く商売をしていたが、父親が亡くなると、やがて、親戚の者たちのはからいで、母娘おやこは、池ノ端数寄屋町の、ちょうど、造作が入ったばかりの小店を借り受けて、荒物屋をはじめた。寿女が十七の時であった。
 暮しのほうの足し前は、尾久の家から届けるようにと親戚の者たちのまえで話は決まったが、実行したのは初めの半年ばかりの間のことで、だんだん不景気を口実に途絶えがちになり、そのうちいつか歇んでしまった。
 荒物の売上げだけでは凌げなかったから、仕立物処と小さな看板を出して、母娘のものは賃仕事に精を出した。母親のお針上手は知れ渡って、湯島花街ゆしまあたりからの誂えなどもひっきりなしにあるようになった。
 母親の生き甲斐は寿女ひとりにかかっていた。不自由な姿の、いっ時も心から離れたことは無かった。母親は不具の子として寿女を扱ったことは無かった。決して、不具の子として劬わったり憫れんだりしたことは無かった。並の子供へ向けるのと同じように、使い走りをさせたり拭き掃除をさせたり、口喧ましく叱言をいったりした。また、連れだって歩いている時、母親は容赦なくさっさと歩いた。寿女は息切れがして決して早くは歩けなかったから、この母親の並足に追いつくため、真っ赤になってせいせい息をきらした。母親のこの苛酷さは、母親の慈愛であった。
 寿女は髪がよかったから、母親は口ぐせにその髪を自慢した。下町中の娘を寄せ集めてもこれくらいの髪をもっているもんはあれあしない、などと見惚れた。そして正月にはきっと桃われだの結綿だのに結わせて、つれ立って街通りへ出かけた。
 寿女は人前へ出ると、しぜん、髪へ手をやるのが仕癖になった。
 背を引け目にするどころか、てんで頓着しているふうも見えない。ここに、母親の纔かな安堵があった。いつも、おどけたことを言っては人を笑わせてばかりいるので、近所では「お寿女ちゃんは面白いだ」と評判になっていた。
 まったく寿女はおどけたところのある娘であった。
 顔馴染みの客の中には、笑わせられてひっきりがつかず、いつともなく、この小店先きに腰をおろして、お茶の馳走になることがよくある。長居を詫びて帰りがけに、つい気が引けてタワシだの目笊のような小物を余分に買いこんでしまうのであった。
 仕立物のことで出入りをしている内儀かみさんなども、こんなふうに言っていた。
あたりやさんへ行くのはいいが、どうも根が生えっちまうんでねえ」
 母親の眼からみると寿女は人懐っこい子で、誰れかれの別なく切りがなかった。おもてを近所の娘たちが通りかかったりすると、寿女は燥ゃぎたって店先きに呼びこんで、こんなことを言ったりする。
「あたしね、結婚の相手は異人さんに決めたのよ。背が高くなくっちゃ困るの。あたしがこんなにおチビでしょう、旦那さまがノッポで奥さまがおチビで、子供たちは、それで、中肉中背ってところよ」
 聞き手たちは怺え性なく吹き出して、異人さんもいいが、話しをするときお寿女ちゃんはどうするんだろう、と訝かる。
「それあ、梯子をかけるのよ」
 寿女は澄まして応える。どっと上った笑声の中から、このひとは赤ちゃんをどこへおんぶするつもりかしら、などと珍問も出る。
「背中はもう貸切りだから、それあ、前へおんぶするわ」
 円いきょとんとした眼つきが如何にもとり澄ましているので、それが可笑しいとて、また、どっと笑う。笑いながら娘たちは、
「お気の毒にねえ」
 と目顔でこっそり囁き合った。
「ねえ、神さまって、ずいぶん依怙贔屓があると思うわ」
 不意に寿女がむきになってこう言い出すので、帰りかけていたものまでが惹かれてまた腰をおろしてしまう。
「若しかしたら、あたし、神さまの継っ子かもしれなくってよ。大きな荷物をおんぶさせられた揚句、きょうからまたお祭りなんですもの。ねじり鉢巻に襷がけしたって間に合いあしないわ」
 女にだけ通じあう負い目の辛さがきて、聞いている娘たちはちょっと笑い出せない。
「荷物をおろして下さるか、お祭りを停めて下さるか、さあ、どっちですって、あたし、今朝っからこわ談判をしているところなのよ」
 娘たちは声を立てて笑う。その笑い声の歇まないうちに、寿女はかぶせて尚も続ける。それでも帰りかけるものがあると、うろたえて奥へいって茶を掩れてきたり、通りまで駈けて行って、せいせい言いながらパンケーキだの今川焼だのを奢ったりする。
 母親といるときでも、こうであった。母親が用達しに出かけようとするたびに、寿女は厭がって、やらせまいと纏わりつく。留守の間は、店に坐って針の手を動かしているかとおもうと客を引き止めて立話しをしてみたり、店さきに出て何度も通りのほうを覗いたり……凝っとしている時が無い。
 妙な子だと母親は笑いすごしていたが、出かけることがだんだん億劫になる。或る夜のこと、厠へ立った寿女が突然けたたましく声を立てて駈け戻って母親にしがみついた。壁にうつった自分の影に吃驚したということが分って、笑い話になったが、それからというもの母親は置いて出かけることを全くしなくなった。
 寿女が胸を叩いて燥ゃぎまわる日がある。近所の娘たちに誘われて、近くの映画館へ行くときであった。念入りに髪をゆうて顔を刷いて、母親に帯を結んでもらって、ひっきりなしにお喋りをしながら家を出る。娘たちと並んで行く姿を、母親は見送っていた例しがなかった。すぐとお針にとりかかる。夢中になって縫いはじめる。母親もまた独りの時は、凝っとしていることがなかった。手を遅らせまいとばかり、ただへ針に不具の娘へ行く思いを託して駆り立てようとする。こんなとき、よく縫い違いをした。
 往き来の人の中には、よく振りかえってじろじろと寿女を見る人があるので、つれの娘たちは顔を赧らめて、何気ないふうに自分たちだけで話をはずませたりして行く。
「あたし、とっても早足だかち先きへ行って待ってるわね。ごめんなさいね」
 寿女はきっとこんなことを言って、真っ赤になってせいせい息を切らして、先きへ行く。
 せっかく誘ってやったのに、置き去りにするなんて、ずいぶんね、と娘たちは不満を洩らしあったが、
「でも、ねえ、並んで歩くよりか、ねえ」
 と、ひとりが頸をすくめてちょろりと舌を出すと、みんなも頸をすくめてクスクス笑いあった。
 大通りの雑沓の中から寿女は伸び上るようにして、にこにこして、連れのほうをちょいちょいと振りかえってみる。そして、丸く盛りあがった背が弾んでみえるほどの急ぎ足で、間もなく小さな姿はまったく人混みに隠れてしまう。
 寿女がこの娘たちの前で自慢にしていることがたった一つあった。ソプラノ歌手の奥住龍子のことである。龍子の母と寿女の母親とは従姉妹どうしだったし、母親が最初の子を嬰児のままで喪うて間もない頃、乳不足の龍子を託せられたことがあった。四つのときに龍子は生家へ引きとられていったが、乳の母を慕って、矢張り、種村の家に寝泊りすることが多かった。やがて、寿女が生まれて母親の乳房にしがみつくようになると、稚い龍子はいきり立って、その乳房をがむしゃらにひったくった。
 眼鼻だちのぱらりとした笑窪の顔が愛嬌だったし、人見知りをするふうもなくて、よく遊戯をしたり、大きな声で唱歌をうたったりしてみせるので、誰れからも可愛がられた。賞められると稚い龍子は何度でもそれをしてみせた。
「奥住の嬢さん」と寿女の母親は言い慣わした。龍子の父が名の通っている弁護士だったから、何かそのことに手の届きかねる生活の高さを感じていたし、そこからの預り娘だということで母親は並々ならぬ面目を感じていた。寿女も耳馴染みで「奥住の嬢さん」と呼ぶ。この綺麗な人が自分の乳姉妹だということに胸一ぱいの誇りを感じていた。
 よく、新聞雑誌で龍子の写真を見付けると、いちいちそれを見せに近所の娘たちのところへ息をせいせい言わせて駈けつける。龍子が音楽学校を華やかに巣立ったころのことで、その写真や名前の切り抜きを、寿女は丁寧に堅紙で包んで針箱の底に納まっておいた。
 広小路の百貨店まで買い物にきたついでだからと、龍子が、この母娘の小店へ立寄ったことがある。その名が世に出て後、自分から足をはこんできたのは、たった一度この時だけであった。

 寿女が隣家の加福の師匠の許へ通いはじめたのは十九の時である。それまでも、母親の心遣いで事あるたびに赤飯だの煮〆だのを勝手口から届けに行くと、招じ入れられて、しぜん、繍をおぼえ、弟子たちの仕かけにいたずらの真似刺しなどして、よく笑われた。通ってみてはどうか、と勧めたのは師匠で、自身、母親を説きに訪ねてみえたりした。
 娘に刺繍をおぼえこませるということは、母親にとっても希んでいるところであった。仕立物の針はひと通り運ぶようになったし、このうえ、繍の手をおぼえこんでくれたなら、不自由の身が独り遺されても、どうやら凌いで行けるだろうから、と母親の思案は、自分亡きのちの寿女のことにばかり至りがちである。
 当時、加福の門弟は銀三と連之助の二人だけであった。十六の齢から七年間仕込まれて、未だに遅々としている銀三に較べて、連之助は、弟子入りしてからまだ二年にも満たなかったが、その技の進歩は人眼を瞠らせる。ただ、師匠だけが、いつになってもその技を良しとしない。糸ぐせまでが師匠そっくりだったから、帯安の番頭などは、これを見付けものにして、内証で、師匠の名を用いた仕事を頼み込んだりした。
 この連之助と銀三に挟まれた位置で、寿女は枠台にむかっていたが、憚からず冗談口のきけるのは銀三とばかりで、連之助へは声をかけることも稀れである。連之助のほうでも、寿女や銀三へは構いつけなかった。これは内気寡黙のゆえともみえる。けれども同じ連之助が、いかにも、うちやわらいだ愛想顔をみせる時がある。師匠や帯安の番頭の前に出たときだけであった。
 寿女は何がなし、この連之助へ挑みかかりたいような気持ちにさせられる。何がなし、その仕事を打負かしてやりたい気持ちにさせられる。そして心を凝らして、ひたむきに励んだ。
 寿女は糸を縒り合わせることが器用だったから、よく、銀三の分も手伝ってやった。それが仕癖になって、銀三は、
「お寿女さん、割り合せを頼むよ」とか、「こんどは二菅合せだ」とか、小声で頼み込む。
 枠孔へ目打ちを立ててそれに糸を引いて、一方を口に啣え一方を縒りながら合せていく機敏な動作は、立って為ることが慣わしとされているけれども、寿女はそうした例しがない。いつも、中腰になって上背をよじるようにして手早く縒り合わせていく。うしろ背を連之助の眼にふれさせまいとしている。連之助のいるところでは決して座を立ったことがなかったし、何かの用事で話しをしなければならないときには、きっと、髪へ手をやった。
 こうして座に居ついたままの寿女へ、糸箱から糸を取ってきてやったり、針の代えに心を配るのは銀三であった。銀三は、この家に住込んでからは、ずっと師匠の身のまわりの世話から客の取り次ぎ、勝手元いっさいまでも独りで取り仕切って、針に打ち込む間もない時がある。師匠と共にいるこの暮しを何よりの喜びとしているし、この律儀一途な性分を重宝がって連之助は、自分もまた師匠のように身のまわりのことをさせつけていた。
 或る時、師匠から「四君子」と題が出て、三人の弟子は競うてかかりつめたが、誰れよりも早く仕上り、師匠の糸ぐせも巧みに出して、色彩りも鮮やかに人眼を惹いたのは、連之助の仕事であった。併し、師匠は、寿女を採った。人の眼には粗にして取るに足らぬともみえるその技を採った。銀三は二人に十日余りも遅れていて、なお仕上らなかった。
「人の眼を気にして針をもつと邪に逸れる」
 と、師匠は弟子たちを前にして言った。
「怕ろしいことだ。堕して立ち直っても、こんどは針が言うことをきかなくなってしまう。ひとりでに邪に逸れて行く」
 とも言った。
 このことがあってから銀三の寿女へむける態度には、一種、畏敬に近いものが加わった。それを外して、寿女は相変らずおどけを言っては銀三を笑わせる。
「銀三さんがお内儀さんをもらったら、ずいぶん大切にするでしょうねえ。帯から着物、半襟、下着までもみんなごてごて刺繍してやってさ」
 連之助までが横をむいて、くすっと笑う。
「それに銀三さんのことだから、御飯ごしらえから子供の守りまで、ひとりで立ちまわってさ、割烹着なんかきて市場へ買い出しに行ったりしてさ。お内儀さんは上げ膳据え膳のおかいこぐるみで、年児ばかり生んで……」
「背中に一人、懐ろに一人、右と左に一人ずつか」
 と銀三も酬いて笑った。
「ほんとうに、そんなお内儀さんになれたら女冥利につきるけれど……ねえ、銀三さん、あちこち選り好みばかりしていないでさ、手近いところであたしなんかどうでしょう。小っちゃい可愛らしいお内儀さんが出来上ってよ。まるで、お人形みたいだって、御近所で評判になることよ」
 銀三は笑いながら聞いているが、こんなことを言われるたびに、いつも戸惑いしてしまう。そして、だんだん笑わないで、考え込むようになった。
 或る日、地震があって、電球が僅か揺れたぐらいでやんでしまったが、咄嗟に、寿女も銀三も座を立ちかけた。胡粉で下絵から布地に絵を写していた連之助だけは、素知らぬ顔で続けている。微かな揺れかえしがきた時、中腰になっていた寿女は大袈裟に蹣跚よろけて隣りの枠台に手をつき、胡粉皿がひっくりかえった。写しかけの綴れの布に白い絵具がべっとりと流れ、連之助は、呆然と顔を上げて、寿女を見た。
 また、或る日、銀三といつもの冗談口をききあっていた寿女が、大きな声を上げて笑い出すと、連之助が顔を上げて、
「少し静かにして下さい」
 と怒鳴った。
「こちらはこちら、そちらはそちらよ。おうるさかったら、どうぞ塀でもまわして下さいな、お隣りさん」
 寿女は取り澄まして、持ち針をちょいちょいと髪へなすりつけながら酬いた。
「何を言う」
 と、連之助はむっとして針を続けたが、不意に、「あっ!」と低く言って、手をひいた。左の人差指の先に血が玉になっている。刺しを酷くしたらしい。咄嗟に、寿女はその手をひったくって、指先の血を吸った。涙ぐんでいた。
 また、或る日、師匠の供をして連之助が外から戻って来ると、玄関まで出迎えた寿女がなかなか引きかえして来ない。銀三が行ってみると、寿女は三和土にしゃがんで履物を片付けている。びくっとして面を上げたが、袂で連之助の下駄の埃りをはらっていたところであった。
 寿女が加福の師匠の許へ通い出してから、三年あまり過ぎていた。今では師匠も眼をはなして、その技に委せている。寿女は念を凝らしてかかり詰めた。針にのった静かな心が、枠にむかうと自然に滑り出す。出しぬけに、烈しいものがこの針を衝き進め、寿女はまごつく時がある。烈しいものを綯い混ぜに針がすすんで、こんなとき、よく、師匠に窘められた。
 或る晩、男弟子たちが他出した折りに、師匠が寿女を呼んで言った。
「銀三があなたを家内にしたいと言うのだが、どうでしょう」
 師匠も時にはさりげのない顔で揶揄いをいうことがあるので、また、それかと寿女は笑いながら取り合おうともしなかったが、黙している師匠の、いつまでもしずかな容子を視ているうちに、不意にそわそわし出した。
「あなたの気持ちを訊いてみてから決めるのが本当だが、どうも、あれが気が急くとみえて、独り合点で、親元のほうへも、もう手紙を出したとか言っていますが」
 と、師匠は言った。
「自分としては良縁だと思っているし、それに何よりも、銀三だったら、あなたを大切にしてくれるだろうと思う。しかし、これを強いて、あなたに勧める気持ちは無い。あなたが真に倖せに生きる道をどこに求めたらいいか、わたしも考えてみたが……まだ、いまは銀三の心をお伝えする役目しかつとまりません」
 こう言って、師匠は膝に眼をおとした。
 急に寿女が座を立った。息をせいせい言わせて勝手口へ走って行った。
 師匠も続いて座を立ったが、敷居のところに立ちつくしたままでいた。
 暗い路地にしゃがみこんで、寿女はむせび泣いていた。

 寿女が加福の家から暇をもらったのは、それから間もなくであった。常から腎臓を患っていた母親が、この日頃、とかく勝れず牀に臥しがちである。そのことを申し訳の言い草にしていた。母親の看取りから頼まれた賃仕事、店の事一切までを寿女は小まめに取りしきった。じっと手を休めていることが無く、始終忙しく何かしていた。店に客の声がしても気の付くふうもなく、縫い物などに熱中しているとみえる後ろ背の、凝っと丸く俯向いている時がある。そんな折り、母親に呼ばれると、よく、とんちんかんな返辞をして笑われた。長い間の慣わしから、客に冗談を言いかけて笑わせることに変りはなかったが、なんとなくそれも上の空ではずまない。いつものように腰をおろすこともなく客は帰った。
 寿女は外へ出ることを億劫がるようになった。つい近所の八百屋へ行くのにも、せいせい息を切らして、駈けるようにして戻って来る。到来物があるたびに、以前は燥ゃぎ立って隣家の加福の家へ自分で裾分けを持って行ったものだったが、この頃は、母親に言われても、何かに仮託かずけて、つかいに行きたがらない。
 母親が起き出られるようになって、どうやら針の手がはこぶようになると、或る日、突然、寿女が二長町の従兄の家へ行くと言い出した。従兄の嫁がお産をして、手不足で困っているという話しが二三日前耳に入っていた。母親は、この唐突さに吃驚したが、寿女は着換えを風呂敷包みにすると、そそくさと家を出た。
 従兄は小僧を一人使って、小さな酒屋をいとなんでいたが、ここでも、寿女はせいせい息をきらして、始終立ち働いていた。お産の牀にある従兄の嫁の世話から嬰児の襁褓の洗濯、幼い子たちの面倒をみながらの食事ごしらえ、小僧に手伝って酒瓶を洗ったり、味噌をかったり、それでも手のすいているときは、炭の粉でせっせと炭団を丸めたりした。
 従兄には生まれたばかりの子をいれて、七つを頭に四人の子供があったが、上の二人は、寿女を呼ぶのに、「らくだ、らくだ」と囃したてて、よく、ふざけて、その背に飛びついたり、瘤を叩いたりしてキャッキャッと騒いだ。漸う、よちよち歩きはじめたばかりの三番目の子までが、まわらぬ口で、「ヤクダ、ヤクダ」と呼びたてて、寿女の背に乗りたがる。泣き出されると、寿女は困って、よく、この子の駱駝になって、狭い部屋の中をせいせい言って匍い歩いた。
 母親がまた牀に臥すようになって、寿女は家へ呼び戻された。加福の師匠のはからいで近くの医者にかかったが、浮腫はなかなか引かなかった。
 尾久の家から嫂が見舞いに来た。かえりしな、物欲しそうにして店の中を見まわしているので、寿女は、嫂が不自由しているという笊だのささらだのを風呂敷いっぱいに包んで持たせてやった。親戚の人たちが来ても矢張りこうであった。店の品を一つ二つ貰ってかえる。仕入れのことまでは思いが行かず、この人たちには、店にごたごた置き並べてある品物の、どれかをかい撮まないだけ損をする、とでもいうような気軽な風がみえた。
 尾久の嫂は、素直な優しいひとで、言葉なども控え目に丁寧だったけれども、なにか、その丁寧さ優しさの中に、近寄り難い冷めたさがあった。
 売上げだけでは到底過せなかったから、寿女はよく夜を徹して仕立物にかかりつめた。尾久の嫂の優しさに縋り付きたい気持ちで一、二度足をはこんだが、会うと、その丁寧な物腰言葉に妙に隔てられて、気詰りな思いばかりであった。
「折角、加福さんで手を覚えこんだのだから、何か刺繍の内職をしてみたらどうだろうねえ。お針のほうと違って、刺繍は値がいいそうだがねえ」
 寿女がやすまない夜は、母親もまた枕の上で起きていた。そして、黄っぽく浮腫むくんだ面を横にしたまま褄さきや裾ぐけを手伝ってやりながら、窺うようにそんなことを言うた。
 寿女は困ったようにちらと母親を見たが、それなり針を運ばせている。
 母親は遠慮がちに、また、言った。
「加福さんに頼んでみたら、どうにか仕事をお世話して下さるだろうと思うがねえ。なんだったら、母さんがお願いしてみて……」
「そんなこと、母さん」
 出しぬけの大声に、母親はびっくらした。
「それかって、お前……三年もの間かよいつめた甲斐がないじゃないかねえ。それに、加福さんだって、あんなに力を入れて下すったんだし、折角の手なんだからねえ」
「でも、そんなこと……」
 寿女は本当に困りきった顔で、寸時母親を見戌っていたが、直ぐまた針にかかって、夢中になって縫い続けた。
 仕立物を届けに湯島まで行った間に、母親の容態が急変して、医者が駈けつけた時には、もう、こと切れていた。
 前夜、久しぶりで晴ればれした顔で牀の上に起きなおって、
「もう、大ぶんに快いから、きょうは一枚縫い上げるよ」
 と、きかぬ気をみせて、絽縮緬の座敷着を手にとっていたが、片袖を縫いかけて、針をおいた。
「どうも、顔が重たくってねえ」
 そして、しきりに両手で撫でたりしていたが、
「あとは明日あすのことにしようかねえ。意気地のないがおったらありゃしない」
 と、弱く笑いながら寿女の手をかりて横になった。浮腫んで大きくなった顔のことを、母親は、こんなふうに呼び慣わしては、独りで可笑しがっていた。
 親戚の者たちが寄り集まって、思案の種にしているのは、寿女の身の振りかたに就いてであった。尾久の嫂は、いつもの優しい丁寧な口調で、子供や職人達に手がかかるので、せっかく寿女を引きとっても、よく面倒みられないから残念だと言った。併し、結局、親戚共に説きつけられて、尾久の家では寿女を引き取ることに話が決まった。
 尾久の家は、すぐ裏が塗料工場になっていて、目かくし塀に沿うた路地から職人たちは出入りするようになっていた。
 路地の向うはどぶになっていて、板が渡してあったし、その向うは十坪ばかりの空地で、亜鉛板トタンの錆びたのが積み重ねてあったり、瀬戸物のかけらだの、炭俵のぼろだのが捨ててあった。極く天気のよい日が続いても、この空地は乾いたことがなく、黒い土がグショグショしてみえた。時折り、この空地にゴム長をはいた人がきて、伸子しんし張りをはじめる。寿女は、二つになる末の子の守りをしながら、縁側からそれを眺めている。短い目かくし塀の下からは、ちょうど、ゴム長の人の伸子をはめこんで行く器用な手つきが見える。それは、面白いくらい速い。寿女は、また、土にめりこんだ瀬戸物の真っ白いかけらへ呆んやりと眼をうつした。溝のきわの、ひとむらの痩せた草へ眼をうつした。泥に染まり、それでも赤い米粒ほどの花をつけていた。
 溝には、いろいろな物が捨ててあって、真っ黒い泥が澱んでいた。泥のしみた古下駄だの空罐だので堰かれたところに、僅か水が溜っていて、そこに青空が遠々しく映っていた。寿女は呆んやりして、いつまでも、それを眺めていた。
 この尾久の家に来てから寿女はよく粗相をした。小皿をとり落したり、醤油を注ぎそこねて板の間へこぼしたり、使いに出て釣り銭を忘れてきたりした。
 嫂は、自分からは寿女へ用を吩咐いいつけたことがなかった。
「お寿女さんは並のからだと違いますもの」とか、「そんなに働いちゃあ、からだにさわりますよ」とか口癖に言って、寿女のしかけた用事までも、子供たちにさせる。
 寿女は大事にされながらも嫂の扱いから、自分の不具の身をいよいよ引け目に思う。嫂の口調は優しく劬わり深いけれども、その優しさ劬わり深さでいびられているような心地さえする。その優しさで、折角しかけた用事をひったくられる心持ちがする。そのような優しさ劬わり深さをみせられるよりは、寿女は、罵られながらこき使われたほうがましだと思った。
 この家の子供達は寿女へは寄りつかなかった。寿女の坐った場所には坐ろうともしなかったし、寿女が箸をつけた漬物へは決して箸を出さないという風であった。寿女は、みんなの済むのを待って食べることにしていた。食べ残しの菜を小皿にとり分けて、独りで食べた。
 下の女の子は、それでも寿女に懐いて、食べ倦きた飴玉などを分けてくれたり人形の着物を縫ってくれとせがんだりする時がある。或る日、通りまで使いに出た寿女が、学校がえりの子供たちの中に、この女の子を見付けたので、声をかけながらせいせい言って寄って行くと、真っ赤になってもじもじしていた女の子は不意に鞄をおさえて駈け出した。筆箱のカチャカチャと鳴る音がいつまでも耳に残り、こんなことがあってから寿女は、途上みちで女の子を見付けると周章てて道をそらしたりした。
 母親の一周忌が済んで、程なく、この家へ奥住龍子が訪ねて来た。葬いの折りに顔をみせただけで、それっきりになっていたから、夫婦は、この唐突な訪問の意味を先ず目顔で探りあった。
「突然でなんですけれど、お寿女さん、もし手すきでしたら暫らくの間貸して頂けないでしょうか。女中が郷里へ帰ってしまったものですからね、困っていますの」
 龍子はこんなふうに切り出した。そして、真っ赤に面を火照らせて、お茶の支度にうろうろしている寿女のほうへ、笑窪の顔をみせて言った。
「ねえ、お寿女さん、あたくしたち姉妹きょうだいなんですもの、これからは、せいせい、あたくし、お役に立ちますわ」
 嫂は、兄と目顔で相談しあっていたが、一応、親戚共に計ってからということに話をはこんだ。
 龍子は、お稽古のひとたちを待たせてあるからと早々に帰って行った。
 嫂は稀らしく燥ゃいで、寿女の肩をはたいて、
「寿女さんは果報者ねえ。あんなえらい方に目をかけて頂けるなんて」
 そして、真っ赤になってうろうろしている寿女の顔を、とんきょな眼つきで覗き込んだりした。
 翌日、寿女は嫂に附き添われて、青山の奥住の家へ行くことになった。加福の師匠から貰った檜の小枠だけは、自分で抱えて行った。

 わたくしの手元にある最近の婦人録に、声楽家奥住龍子女史の略伝がこんなふうにのっている。
 ソプラノ、明治音楽学園講師、昭英音楽学校講師、若艸会主宰。日本音楽学院本科声楽部卒業。一九三二年独逸留学、三四年帰朝、目下ステージを去って教授に専心。「南独紀行」「私の観た独逸楽壇」の著あり。
 わたくしは未だ奥住女史のステージの声に接したことがない。知人たちの噂によると、その歌いぶりは、やや堅実を欠いて奔放に流れがちだという。難曲といわれているものをも易々と歌いこなす度胸には愕かされるが、奥住龍子の一種の人気は、このステージ度胸で煙にまくところらしいともいう。
 わたくしはレコードを通してその歌を聴いた記憶があるけれど、もう、ずいぶんと前のことで、その歌いぶりも歌曲がなんだったやらも憶えていない。そういえば、奥住女史が何処かのレコード会社の専属だということもきいているから、吹き込んだものも多分にあるに違いない。
 せんだって、週刊雑誌のゴシップ欄に、写真入りで、奥住女史のことが出ていたけれど、若い燕と相携えて、再度の渡独、というような見出しがついていた。
 わたくしの知人の娘で、早くから奥住女史に師事しているひとがあって、よく噂をきかされるが、女史の門に入るのは非常に難しいと評判になっているようである。それは入門する際の素質ということよりも、家柄格式ということが第一条件におかれているからで、女史の説によると、折角の素質の芽が途中で萎えてしまうのは、それを育てる土が貧しいという場合が多い。音楽は他の芸術と違って、この土が豊かでありたいということを一つの条件としたいし、それゆえにまた、この芽が健やかに肥えふとっていくとも言われる。
 家柄格式というのも、つまりは産をさしての言葉であるし、弟子たちは、それを尤もな事として聞いた。そして、女史の弟子達は、どれも資産家の子女としてきこえていた。
 弟子を二十人あまりかかえているうえに、学校の講師をも兼ね、尚そのうえに若艸会では春秋の二季に音楽会を催すことが例となっているから、奥住女史の生活はずいぶんと多忙であった。
 この物語のずっと後に、わたくしは知人の娘にせがまれて、若艸会春季音楽会の切符を買わされた。音楽会のたびに、弟子達は、切符を一人宛二三十枚分も受もたされるということであった。わたくしは遅れて会場に入った。最後のコーラスがもう半ばをすぎて、派手やかに着飾った令嬢たちが舞台におし並び、楽器店や弟子たちの父兄達から奥住女史に贈られた花籠や花束がぎっしりと置き並べられて、折角のコーラスも、この色彩雑多な絢爛さに眩んでいるようであった。
 会が果てて、ざわつき帰る人びとに押されて、わたくしも廊下まで出ると、楽屋入口のところで知人の娘に声をかけられた。傍に立って誰れかれへ挨拶をしている笑窪のよった愛想のいい洋装の婦人は、写真で見かけたことのある奥住女史に相違なかった。知人の娘は、わたくしの手を引っ張って、奥住女史に紹介した。
「御一緒にお茶でも如何でしょうか」
 と、女史は、いかにも魅力に富んだにこやかな面をわたくしのほうへさしのべるようにして誘いかけた。
「あたくしたち、いま、銀座へくり出そうというところですのよ」
 知人の娘はわたくしの手にしがみついて離さない。促がされるまま女史たちと行を共にした。弟子たちは、知人の娘をいれて四人であった。
「このひとたち、みんな、あたくしの可愛いヒヨッコですのよ」
 車の中でも女史は弟子たちと巫山戯あった。両手を拡げて翼の中に抱え入れる仕草をすると、令嬢たちはキャッキャッと笑いこけた。
 弟子たちの間でも、また、学校の生徒たちの間でも、奥住女史は慕われ騒がれているということを、わたくしは知人の娘から聞かされていた。目前の、愛想のいい面立ち、いかにも優しい魅力にとんだ仕草などを、しみじみと眺めながら、娘たちが騒ぎ立てるのも無理がないと思った。
 喫茶店に寛いだ時、わたくしは、ふと、寿女さんのことを思い出して、話してみた。
「まあ、お知りあいでしたの」
 女史の面には、瞬時、硬い意外の表情が現われたが、すぐと、にこやかに令嬢たちを見まわして、
「このひとたち、みんな、お寿女さんのファンでしたのよ」と言った。
 女史は、寿女さんを引き取った時のことから話しはじめた。うっすらと涙ぐみさえしながら話した。令嬢たちも相槌をうちながら、刺繍の巧い人だったと頻りに故人を賞めあった。
 話しながら女史の眼は、素早い上眼づかいでわたくしを視る。わたくしが俯向いていたり、他に気をとられているような場合である。女史のこの素早い上眼づかいは、話しの効果を窺っているとも、また、わたくしを窃かに観察しているともみえる。女史の愛嬌たっぷりな如何にも魅力に富んだ面にもかかわらず、この偸み見は何か暗い気持ちにさせられる。この素早い眼づかいの裡に、わたくしは、妙に、打算の閃きと同時に、油断のなさとでもいうようなものを、見たような気がした。
 口うるさい楽壇雀どもは、女史のことをいろいろと噂して、独り暮しではかかりも尠かろうし、もう相当に貯ったろう、などとも蔭口をきいている。これは、当っていないことも無さそうだ。家作をもっているとか、預金帖を三通りも持っているとか、株にも手を出しているとか、噂は種々出ているけれども、このうち、株と家作の話は信じきれない。これは龍子の性分に合わない事だからである。
 龍子の弟子たちは、先生が遠縁の佝僂女を引き取ったということについて、まちまちの推量をしていたが、これは、先生が憐憫慈悲の心からしたことだと思い合わされてからは、いよいよ尊敬の念を深めた。親類の者たちは、どっちかというと、吻っとしながらも、龍子の物好きを訝かった。
 龍子は寿女へよく目をかけた。不様だけれども、この娘はよく働く。恩恵を感じて給金を辞退するばかりか、どこからか賃仕事を探してきては、暇さえあれば縫っている。勝手元の小物だの惣菜だのを買う時にはその縫い賃を足し前にしている。龍子は気の毒がりながらも、結局、それを重宝がった。
 この家へ、時折り、中尾通章という四十年配の男が訪ねて来る。生憎、龍子が稽古をつけているような時は、奥の茶の間に片手枕で寝ころんだり、勝手に茶を淹れて喫んだりしながら、寿女を相手に冗談口をきいたりする。また、時には、なぐさみにピアノも敲けば、コーラスに加わって興じたりする。龍子のことを、この男は「先生」と呼んでいるが、弟子たちの口真似をしているというよりも、これには揶揄の調子が含まれていた。
 中尾通章は音楽雑誌の記者くずれで、いまは「便利屋」のようなことをやっている。つまり、人の使い走りをしたり、ブローカーのようなことをしたり、音楽会の世話をやいたりしているうちに、いつしか「おっと、これは便利だ」型の男になり澄ましていた。
 人の私生活の鍵をまかされる場合が多いから、この男は、心得顔に土足で何処へでも入り込む。それを自身に与えられた当然の役得としているし、まかせた人々は「困った奴だ」と愚痴をいいながらも諦めて、それを大眼にみていた。
 さるピアニストが或るピアノ調律師へ金を融通したところが、期日をすぎても返さぬばかりか、日を重ねるにつれてだんだん埒があかなくなり、そのうち行方さえ晦ましてしまった。引きうけた中尾通章は、どう探し出したか、程なくその調律師から貸金の全部を取り立ててきたという。そのピアニストから龍子はきかされたことがあった。
 また、或る時、龍子にあらぬ噂が立って、それが三流新聞の娯楽面いっぱいに事々しく掲げられたことがあった。来合わせた中尾に、つい興奮して憤慨を洩らすと、翌日のその新聞に謝罪文が出た。中尾がねじ込んだことだと後で解った。
 龍子が中尾に金を委せるようになったのは、この二つの事であらまし中尾という人物の見透しがついたからであった。中尾のような男は、自分のことでは消極的だが、他人ひとのことでは奇妙に積極的になれるものである。粘りづよく強引に、時には居直るほどの強気を持ち合わせているのも、この種の男である。龍子は、そこを見込んだ。
 中尾に金を託して融通させるのであるが、おもては、中尾自身に貸し付けたことになっている。中尾の伯父に、京橋目抜き通りの地所持ちがいることを知っていたから、保証人は、この人にしてはどうかと勧めてみた。万一のことを龍子は慮ったからである。どう話し合いがついてか、中尾は直ぐに伯父の判をもらってきた。証文は二通、借用証書と手数料契約書が交わされた。
 この歌うたいは、算盤のみちに明るかったから、利子のことがなかなか細かく手堅かった。日歩六銭は欠かさず手取りということにして、それ以上は中尾の腕次第、九銭で貸付けた時は一銭五厘、拾銭のときは二銭という風に中尾に歩分けした。中尾が掠りを取ることを念に入れておいて、手数料は手取り利子の七分ということにした。
 中尾は龍子の金を信託された責任を負い、そして、龍子は、その委託金の融通権限をもっていた。
 この歌うたいは、笑窪のよったあどけない顔で、いろいろな指示をした。貸し金は小口を主として、返済は三ヵ月限度とし、貸付範囲はサラリーマンを主としていた。
 或る日も、中尾は訪ねてきて、こんなふうに切り出した。
「千三百円ばかりどうでしょう? 銀行員ですがね」
「担保は?」
「それがね、郷里に地所があるとか言ってるんですがね、どうも、あやしいんでね」
「調べに行くんなら調査旅費を出させなさいな。いつかの川越みたいに、持ち出しの徒労ただ帰りじゃあ……」
「いやあ、あれを言われちゃあ」
 と、中尾は大袈裟に頭をかいた。「当人はね、保証人を立てるようにしたいって言ってますが、どんなもんでしょう?」
「保証人なら少し割り高に貰わなくっちゃあ、ねえ」
「八銭というところでしょうかな」
「九銭九銭。中尾さんはお人が良いから駄目よ。きっと一杯奢られたのね」
「一杯は一杯でも、珈琲じゃあねえ」
 と、言いざま、中尾は眉をひらいてわっはっは、と笑った。
 ちょうど、茶をはこんできた寿女は、何事かと立ちつくしていたが、釣られて、つい貰い笑いをした。
 この奥住の家にきてから寿女は、だんだん燥ゃぎ出すようになった。数寄屋町時代の、おどけたことを言うては人を笑わせてばかりいた寿女に戻ったようであった。龍子の弟子たちが稽古をすませて寛いでいるところへ、菓子などをはこんで行って、よく、こんな冗談を言う。
「わたしなんか、生まれつきの、とってもいい声なんですけれどねえ。惜しくって、みんな、この袋の中に納まい込んでありますの」
 そして、盛り上った背を得意気にゆすぶってみせたりする。
 はじめのころは言葉もかけなかった令嬢たちも、次第にうち解けて、こんな冗談をきくたびにキャッキャッと笑って、「おもしろいせむしさん」だと評判し合った。
 寿女は刺繍にかかり詰めるようになった。夜ふけて、ふと眼ざめた龍子が、灯りのついている女中部屋を訝かって覗いてみると、枠におしかぶさって寿女が針を刺している。声をかけても気付くふうもなく、ただ、ひたむきに刺している。その容子のただならぬ一途さに、ふと、異様なものを見る気がして、龍子は怖気立つときがあった。
 繍の手をよくしているということは龍子も知っていたから、これを重宝がって、半襟だの帯だの袱紗だのクッションだのに、無暗と刺繍をさせた。そして、これを知人や弟子たちへの贈り物にもした。
「ねえ、お寿女さん、こんなきれがあまっているけど、花模様か何かの刺繍してスリッパでも拵さえたらどうかしら。可愛らしいのが出来るでしようねえ」
 小ぎれ箱をかきまわしていた龍子が、はずみ立って、こんなことを言うときがある。自分の思いつきに軽い興奮をおぽえて、小ぎれをいろいろに取り出して並べながら、
「お弟子さんたちへスリッパの贈り物をしようかしら。残りぎれのお手製スリッパなんて、ちょっと気がきいててよ」
 弟子たちからは何かにつけて高価な贈り物が届けられるので、龍子も時には返礼をする。そして寿女は吩咐けられてクリスマスまでの一と月足らずの間に精を出して、二十足あまりのスリッパのぶんに刺繍を仕上げなければならない。かかり詰めていて、電話のベルにも気が付かずにいて、よく龍子に小言をいわれた。
 龍子にかしずくこと、龍子に命じられ龍子に小言をいわれることさえ、寿女には歓びであった。龍子の傍近くに居られるということだけでも、寿女は無上の満足感動をおぼえていた。寿女にとって、龍子は、心魂を高め潤おす一つの魅力であった。寿女の眼には、その魅力しか映らなかった。
 龍子の前では背をみせることが、寿女には何か臆せられた。やむを得ない用事で立たなければならない時は、冗談口をきいたり髪へ頻りに手をやったりして、龍子がそれに気をとられているまに、壁や襖に添うて何気ない風に素早く去った。
 春の初めの凍てつくような寒さが続いて、寿女は感冒にかかり咳込むようになった。二三日早寝をすると、どうやら咳も止まったので気にもとめずに働いた。暇さえあれば、小枠の刺繍にかかり詰めた。これに打ち込みはじめたのは、二年ばかり前からであった。
 食事が進まず、五月に入ってから二日ほどまた早寝をした。医者に診てもらってはどうか、と龍子は口では勧めながらも、あり合せの感冒薬で間に合せるのだった。
 龍子のいるところでは、寿女はやすんでいたことが無かった。針をもつことも叶わず、横になっている時でも、気配をききつけると跳ね起きた。熱っぽく赤い顔が前のめりになることがあった。それでも龍子のいるところでは、覚束無いながらも縫い物の手を動かしていた。不意に、龍子が女中部屋へ入ってきたことがあった。客があって、茶の支度を吩咐けにきたのであったが、早く牀に臥していた寿女は、飛び起きて、前をかき合せざま壁に背を寄せた。促し立てられると背を壁に沿うたなり、勝手へ出て、ふらつく躯を踏みこたえながら茶の支度にかかった。
 それから数日すぎて、龍子が外から帰って来ると、いつも走り出迎える寿女の姿が見えない。声をかけてもなんの気配もない。女中部屋を覗いて見ると、枠台に屈み込んで、せいせい呼吸いきをはずませて針に熱中していた。
 梅雨に入ってから、寿女は、また一週間ばかり早寝をした。夜中、水を飲みに起き出るような気配も、呻き声も、うつつに聞いたようであったが、龍子は眠っていた。
 或る日、突然、寿女の姿がみえなくなった。龍子が弟子たちに稽古をつけていた間のことである。その夜は戻らず、尾久の家かと大して気にもとめなかった。
 一日おいて、中尾が来たので、龍子は話した。尾久からは、来ていないと簡単な返事があった。中尾は、女中部屋の押入れの中を調べた。龍子はすっかり落着きを失って、敷居のところにうろうろして、せっついて中尾に話しかけてばかりいた。
 小枠だけがみえなくなっていた。
せんせいこの頃少し逆上のぼせていたようだから、変になったんじゃないかな」
 茶の間に戻ってきて、中尾は立ったまま餅菓子をつまみ食いしながら言った。
 中尾に引き添うて喋りつづけていた龍子は、それで、ぎくっとした顔になったが、うろたえて、
「厭がらせを仰言らないでよ。ねえ、中尾さん、お願いよ、早くどうかして頂戴」
 と、せがんだ。
 中尾が探してみることになった。
 その夜、遅くなって、中尾から電話がかかってきた。寿女の居所が分ったと言う。施療院で危篤状態だということであった。
 翌朝、早く、中尾がやってきた。
「どうも、酷い目にあった。とうとうお通夜をさせられちゃってね。……そうそう、あんたの名前を二度も呼んだっけが。矢っ張り恩を感じていたんだね。可哀相に……。僕が駈けつけた時は、もう、訳の分らない譫言ばかり言ってたんだからね。肺炎だそうだ。だが、よく、あそこまで持ちこたえたもんだ。医者も感心してたがね」
「なんだって施療院なんかで……」
 と、龍子は独り言にいった。
「警察から廻わしたんだが、なんでも、錦糸堀の車庫の辺で行き倒れになっていたそうだ。尾久へでも行くつもりだったろうが。いや、尾久とは方角違いだしなあ。此処を出たのが五日で、七日の朝に病院へ運んだっていうんだから、まあ、まる二日外にうろうろしていたわけなんだなあ」
 中尾は自分で茶を淹れて、熱いのをふうふう吹きながら上眼で龍子を見て言った。
「どうです、先生、出かけますか? まだ、死亡室に置いてありますがね」
 龍子は不興気につむりを振った。
「これから、また、ひとっ走りして、運び出しに立会わなけあ」
 窓硝子ごしに覗いて見て、「よく、降りやがる」
 そして、濡れたレインコートをまたひっかけた。
「そうそう、妙な爺さんがいたっけが、あれあ尾久の家の人かい。こっちで、もの言っても黙りこくってるし、居眠りしてるかと思って覗くと、目玉をぎょろりと開けてるしさ、危く声出すとこだったよ。なんしろ、夜っぴて、爺さんと二人っきりでさ、火もないとこに無言の行だったからなあ」
 ゴム靴の釦をはめている中尾の背へ、龍子は気弱く、
「恩に着るわよ」と声をかけた。
 その夜、中尾がまた立寄った。
「万事済みましたよ、先生、尾久の兄さんという人がきて引き取って行きましたがね。……どうも、あのお寿女さんて妙なだったなあ。此処の家も、尾久の家も、ところを明かさずじまいだったらしいが。……そうそう、あの爺さんね、なんでも元いた家の隣りの……」
「ああ、加福さんでしょう。有名な刺繍屋さんよ」
「ああ、あの人が、ねえ」
 中尾は、感動をもって、寸時、黙した。
 加福の師匠は、この日の午過ぎ、奥住の家に立寄ったのであった。悔みをのべて後、師匠はこう言った。
「寿女さんの刺繍されたもので、何か遺っているものでもありましたら、ぜひにも拝見させて頂きたいと思って参上しましたが」
「なんですか、鷲だか鷹だかの刺繍にかかっていたようでしたが、あれは……」
「あれは遺言で、わたくしが頂戴しました」
 と、師匠はしずかに言った。「何か、他に遺っているものでもありましたらと思って……」
「ほかにと仰言いましても、別に……ああ、そう、このスリッパ、お寿女さんが刺繍してくれましたんですけれど」
 龍子は、爪さきかけたままのスリッパを、ちょっと、もちあげてみせた。
「あっ!」というような小さな声が、師匠の口を洩れた。
 それは、緑色の綸子の地に、白ひといろの蘭花を繍したものであった。
 師匠は眼を凝らして眺めた。龍子が脱いだスリッパを膝にとって視入った。ながい間視入っていた。白い花についている埃りを指のはらでそうっとはらった。そして、おもをそむけて、ながいこと、黙していた。
「これを、わたくしにお譲り下さらんでしょうか」
 不意に、師匠がこう切り出したので、龍子はびくっとした。声音は徐かだったが、真正面に向けたその眼は意外に烈しく、龍子は、射られる気がして、うろたえ、けれども何気ないふうに逸らした。この師匠の、これ程までの執心が、龍子には訝かられた。と、ふと、この師匠の執心が、龍子の心を衝いてきた。急に、龍子は、このスリッパに愛着をもち出した。いまは、師匠の所有となった小枠の刺繍に、はげしい執着をもった。
「お譲り下さらんでしょうか」
 師匠は重ねて言った。
「これだけは、お寿女さんの折角の心づくしなのですから……」
 龍子は、にこやかに、素早い偸み見をしながら言った。
「鳥の刺繍も、あたくし頂けるものとばかり思っていましたけれど、あれは、ほんとうによい記念になりましたのに……」
 暗に、自分の所有に帰したい心を言ったのだけれど、師匠はききつけぬ容子で、やがて、言葉尠なに辞し去った。
「お寿女さんは妙だね。あの爺さんにだけは会いたいと言って、せがんだそうだがね。はあ、あの人が、ねえ」
 と、中尾は、再び感じ入った。
「仲々、がっちりしてる爺さんよ」
 と言って、龍子は口惜しそうな顔をむき出しにみせた。
 好物の天麩羅蕎麦が届くと、中尾は、浮きうきして喋り続けた。
「お寿女さんも、なんだねえ、二十八やそこらで死ぬなんて可哀相なもんだが、これも寿命とあればねえ。そうそう、看護婦が言ってたっけが、病院に運び込まれた時は意識がまだ判っきりしててね、自分が死んだら直ぐ火葬やいて呉れ、誰れにも知らせないで、直ぐ火葬やいて呉れ、って、うるさく頼んだそうだが……そうそう、それからね、なんでも、髪を結って呉れ、って随分せがんだそうだがね。矢っ張り、女の子だねえ」
 龍子は横を向いて、涙ぐんでいた。
 丼をかたげて、ずるずると音をたてて汁を啜りきってしまうと中尾は、手の甲で口のはたを拭いながら言った。
「二口あるんですがね。百五十円と二百円ですが、どうも、二百円のほうは、三文役者のあてなしなんでねえ」
「それあ、駄目よ」
 と、龍子は撥ねた。
「それから、河合がまた百円都合してくれって言うんですがね。もっとも、前のきまりは持ってきました」
 中尾は、内かくしから状袋をとり出して、利子の勘定をはじめた。金の話し合いになると、この男は、言葉つきまで改たまる。
 二人は、算盤をはじいたりしながら、しばらく、貸金の話しをした。
 日がすぎて、龍子は、弟子たちの前で折りにふれ寿女の遺品のことを話した。自分に遺されたものの貧しさを話した。弟子たちは、あんなに目をかけていた先生のところに、遺品の無いのはお気の毒だと話しあった。そして、いつか贈られた刺繍のスリッパや半襟やクッションなどを、それぞれ龍子の手に返した。

 寿女さんの百ヶ日がきて、わたくしは、加福の師匠宅のささやかな法要の席につらなった。
 師匠のはからいで、この集りは、寿女さんの数寄屋町在住の折りの繍によって結ばれた縁故にたよって、葛岡連之助氏、それに、銀三、俊男、この少年は、寿女さんが師匠の許をひく数日前に弟子入りしたのだから、もう五年余りからになる。それと新顔の彦松という年少の内弟子と、わたくしの、都合六人の集りであった。
 読経が終わって、食事を済ませると、やがて、坊さんは帰って行った。座にはだんだん寛ぎが出て、お茶にうつる頃から、どうやら話もはずんできた。
「葛岡さん、この頃は学校のほうにも教えておいでのようですが、ずいぶんとお忙しいでしょうな」と、銀三が訊いた。
「いやあ、貧乏暇無しでして」
 と、葛岡氏は鷹揚に笑って、「学校の刺繍科なんてものは、いまのところ、ほんの附け足しで、設備といってもまだまだ貧弱極まるものですし、教えるのに大骨ですよ。遠藤さんの勧めもありましてね、こんど、教授所のようなものの設置を考慮中なんですが、刺繍道に何等か貢献出来るという意味から言っても、ひと奮発しようと思っています」
 葛岡氏の話し振りは、ゆったりと余裕をもたせて、いささか訓示的でもある。
 黒の紋服に袴をつけて端然と坐っている姿は、如何にも美術学院刺繍科講師、刺繍組合理事の肩書に似合わしいけれども、その生活は、このりゅうとした構えほどでもなく、噂にきくと、伝通院近くの、まだ路地奥住いで、帯安あたりのたな仕事に精を出しては、どうやら凌げるほどだということであった。その帯安の番頭の娘を娶っているときいているが、若年にかかわらずその処世の才は業界でも目ぼしいもので、この葛岡氏なら、刺繍塾の経営の才腕も相当であろうと、わたくしには肯けた。
 銀三は手まめに茶を注ぎまわり菓子を勧める。葛岡氏が厠へ立つのにも跟いて行って、手水をかけてやったりする。
 話しが、いつか、故人のことになった。
 今は額になって師匠のうしろにかかっている鷹の刺繍を、弟子たちは口々に賞め讃えた。師匠も振り返って、しみじみと眺められた。
「尾久へ行ってから葉書を寄越してくれたことがあったが、……どうも、段々出ぎらいになったらしい」
 師匠は、いつもの静かな声で、こう言われた。そして、眼鏡の具合をなおして、また、額に視入った。
「いつだったか、……そうそう、この春のお彼岸のお中日の日でしたよ。お宅で、おはぎを御馳走になったのを覚えていますから」
 と、俊男が葛岡氏へ遠慮深く斯う前おきをして話し出した。「お宅へ届け物がすんで、あそこの路地を出たところで寿女さんに会ったんです。あんまり偶然だったもんですから、僕はホウって大きな声を出してしまったんです。寿女さんは、せかせかしてすぐに逃げそうにしたんで、僕は、どうしたんですか、って追っかけたんですが、そこまで用達にきたとか何んとか言って、寿女さんはとっとと行ってしまいました。あんなに小っちゃくっても、歩くの随分疾いんですね。せむしの早足っていうけど……」
 と、言いかけて口を噤んだ。彦松が笑いかけて、併し、見廻わして直ぐに抑えた。
「わたしも、伝通院の前通りで見かけたことがありましたがね」
 と、葛岡氏が言った。「去年の暮でしたかね。家内が、どうもそうじゃないか、って言うもんですからね。いや、家内には聞かせてあったんです。それが、声をかけようにも、どうにも、隠れてしまったもんで……」
 葛岡氏はみを湛えた。「元々、人みしりをするようなたちでしたからねえ。それにしても、寿女さん、あの辺に知り合いでもあったんでしょうかねえ」
 師匠も銀三も黙している。
 いっ時、みんなは、黙していた。
 葛岡氏は、銀三があたらしく淹れた茶を啜りすすり、話をそらした。
「昨日、蓼川家の売り立てがありましてね。わたしも、いつもと違って早くから出かけてみましたが、流石は蓼川家で、それは豪華なものでしたよ。殊に、お師匠さんの『山茶図』はカタログに出ていただけで、わたし共はもう喉から手が出るくらいなんですからね。見物をみると、想像以上のものでしたよ。入札して開けてみたところが、みんな欲しかったとみえて七千円以下はありませんでしたよ。七千円から八千円位の間でしてね、結局、八千二百円の人に落ちました。あれを最後に廻わしたところなど、向うの人もなかなかれたもんですよ。あのカタログは唐雅堂で刷ったんだそうですが、調子が特によかったらしく、唐雅堂のおやじもにしていましたが、どうも、あのカタログにプレミアムがつきそうなんでしてね、今朝けさも、はしりの書画屋が二人も朝食前に来たんで、何かと思ったら、ぜひ、余分があったら実費で分けてもらいたいってね。大したもんですよ」
 蓼川家の売り立ての広告は、わたくしも先頃の新聞紙上で知っていた。この華族の売り立てカタログは数年前わたくしも見たことがあるけれど、仲々の豪華版だったと憶えている。このカタログでさえもが、好事家の手から手へ高値にさばかれるというようなことをきいて、わたくしは稀らしく思ったのであった。
 葛岡氏は続けた。売り立て品の数々を挙げ、師匠の「山茶図」が八千二百円ではやすすぎる、と頻りに言った。
 師匠は黙ってきいて居られた。稍うつむきのその面には哀しげな苦笑がみえていた。
 葛岡氏は茶を啜り、なおも、話しつづけた。

追記 「曼荼羅繍帳」については主として明石染人氏著「染織文様史の研究」を参考とした。
(昭和十四年七月)





底本:「神楽坂・茶粥の記 矢田津世子作品集」講談社文芸文庫、講談社
   2002(平成14)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「矢田津世子全集」小沢書店
   1989(平成元)年5月
初出:「改造」
   1939(昭和14)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2008年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について