福子は笑い
「まあ、福子さんたら、何がそんなに
つりこまれて一緒に笑い出した友だちが、しまいにはおなかを痛くして、わけもなしに
笑うまいと
「福子が笑うのは、一種の運動なんだね。」
「いやよ。研究資料みたい。」
福子は笑いながら、ぷいと顔をそむける。
「はあ、やっぱり、運動だね。顔面筋肉の活動。内臓の
良人は
と、こんどは福子を見て同情したり、
「
福子も負けてはいなかった。
良人はにやにやして、
「百年目だね。」
と、手軽に応酬した。「お名前どおりの福の神といっしょにいると思えば、男
福子は、友だちの間でも、親類の間でも、「福子さん、福子さん」で親しまれていた。座がはずまないようなとき、
「福子さんがいらっしったらね。」
と、かならず、その名が話題になるのだった。福子がいるだけで、もう、座の空気がやわらぐ。気づまりな雰囲気が、福子が入ってきただけで、なごやかに明るくはずんでくるのだった。
「高木の家では、いい嫁さんを当てたものだ。気だてはよし、働きものだし、
親類の者たちは、こう云って評判しあった。
「可愛い嫁さん!」
みんなが口にするこの言葉は、まったく、福子その人を云いあてていた。本家の隠居が自慢をするのも無理がない。
この隠居は、本家の先代の
「隠居さんが
親類の間では、当主はこんな冷やかし言葉で呼ばれていた。読書好きな人で、
本家は、大家族で、隠居を
本家の柱になっている隠居は、みんなから大事にされて、「おばあさま、おばあさま」と、なかなかの人気である。別暮しをしている孫嫁たちも入れかわり立ちかわり訪ねては、隠居に優しく、真心から
「おばあさま。きょうは、お好きな
こう言って隠居を喜ばせる嫁がいるかと思うと、隠居を茶室へ招じ入れてお茶を
「すまんことだね。隠居さんは日本中での
心からうれしそうに、隠居は満足
「おばあさまが喜んで下さることだったら、
二ばん目の孫嫁はお茶に熱心だった。時折り、年寄りを主客にして懐石料理を楽しませては、自分だけという取り入り方で、ほかの嫁たちに負けまいとつとめるのだった。
誰でもが隠居の
「隠居さんは、ほんとうに仕合せだねえ。」
人に会いさえすれば、隠居はこうわが身の幸福を語らずにはいられなかった。
「お
聞き手は、隠居のいかにも仕合せそうなにこやかな
福子は、そのような隠居を見ていると、何がなし
「福子さん。あなたって、笑っているばかりが能なのね。少しは、おばあさまのことをしてあげたらどうなの。」
福子は、びっくりして、丸い眼を見張って姑を見あげた。
「どんなことをしておあげしたらいいでしょう、お母さま。」
「そりゃ、あなた。お姉さまがたのなさることを見ていらっしったら、わかるでしょう。おばあさまの御機嫌をとらないで、あなたも
姑は親身な顔でこう言った。そのように暢気な福子を、いじらしく思っているふうだった。
「福子さんて、ほんとうにお嬢さんねえ。」
と、ほかの嫁たちは
「無邪気な可愛い方!」
と、みんなは福子を見ると、やはり、心がやわらぐのだった。
福子には、そうした
「ねえ、おばあさまって、何んだかお
福子は、つい、良人へこう言った。
「どうしてさ。」
良人は不意打ちにあって、ちょっとまごついた。
「おばあさまを見ていると、そんな気がするのよ。」
と、福子はしみじみ言った。
良人は浮かない顔で、福子を見ていた。
「分るよ。」
しばらくして、ただ、こう言っただけだった。
良人には自分の気持が分ってもらえるのだと、福子は心にしみて、仕合せを感じた。せめて、良人と二人は、おばあさまを純粋な眼で見守っていてあげたいと、福子は祈るような気持だった。
或る日、福子が本家へ行くと、めずらしく嫂たちが寄り合って、茶の間で何か相談事をしているところだった。
「あら、福子さんがいらっしった。」
みんな喜んで迎えてくれた。
「本気なお顔をして、なんの御相談?」
福子も、そこへ割りこんだ。嫂たちの何やら真剣な表情が
「近いうちね、おばあさまの
上の嫂が教えた。
「各自、持ち寄りの御馳走ではいかが? 時節柄、お
二ばん目の嫂は、自信ありげな口調だった。
「福子さんのお料理は、なあに?」
と、いつのまにか仲間入りしていた
「わたし? わたしは、おでんよ。」
福子がすましてこう言ったので、みんな、どっと笑った。
「わたくしね、
三ばん目の嫂が攻勢に出た。
二ばん目の嫂は、ちょっと
「あら、普茶なの? おばあさま、あまりお好きじゃないと思うけど……」
と、
「そう。お世話さま。おばあさまね、いつだったか、とてもお気に召しましてね。」
三ばん目の嫂は、にこやかな顔で応酬した。
「おばあさまも、この頃は、お好みが変りましてね。純粋のお懐石でないとお口にあいませんのよ。」
こう言っておいて、二ばん目の嫂は急に話題を変えた。
はぐらかされた三ばん目の嫂は、
福子は、さっきから可笑しくてならなかった。嫂たちの真剣な顔や、皮肉な応酬や、気持の
「福子さんたら、困った人ね。」
上の嫂も、つりこまれて笑っていた。
客の帰った気配がしたので、福子は奥へ行ってみた。
隠居は、たった一人でお茶を飲みながら何か思案をしていた。
「おばあさま。わたしもお茶いただきたいの。」
福子を見ると、隠居はどういうつもりか
「さあさあ、おあがり。」
そして、自分で
陽光がいつか
「あちらは、大分、賑やかなようだね。」
隠居は福子を相手にしていると、何んとなしほぐれて自然な気持だった。
福子もまた、このおばあさまの前に
隠居が福子に見るのは、
福子が隠居に求めるのは、祖母の愛情だけだった。
このほかに、何んの要求もないということで、二人は親密に結ばれているようだった。
「あした、お天気だったらな、お前さんの家へ行くつもりだからね。」
隠居は、そのことをよほど前から楽しみにしていたらしく、乗り出して言うのだった。
「ほんとうですの、おばあさま。わたしね、おでんこさえてお待ちしてますわ。」
「お前さんのおでんは、いっとう
「ついでに、かん
「かん酒?」
と、隠居は、
「おでん、かん酒って云うでしょう。」
「そうかい、そうかい。」
隠居と福子は、声をたてて笑いあった。
翌日、隠居は朝の中に出かけてきた。
ちょうど日曜日で、良人も早くから待ちかまえていた。
「春さん、春さん、その包みをこっちへ持っておいでなさい。」
隠居は、
「おばあさんは相変らずだな。」
良人は、包みをあける
隠居が自分の食べる分をしまっておいて、こうしてこっそりと
昼食は、福子の心をこめた手料理だった。
「こりゃ、うまい、うまい。」
隠居は、あちこちへ
「隠居さんには、これに限るよ、ゴテゴテ並べられたって、そうそう食べられたもんじゃあない。こういう野菜料理が一とうなんだよ。」
くりかえし、こう云うのだった。
良人は、会社の同僚が永年かかっている漢方医の話をきかせた。元来、病弱なその同僚も、近頃は
「なんでも、日本人の体質には、動物性の
「野菜に限るよお前。」
隠居は、満足そうにこう云って
食事がすんで、福子は年寄りに引き添うて庭に出た。小さな庭だったけれど、福子の
「ほう、この
隠居は、そこにしゃがんで、万年青の
福子も並んでしゃがんだ。
「この間ね、植えかえましたのよ。水はけが悪いと思ったら根が少し腐っていましたの。知らないでいたら、大変なことでしたわ。」
「
隠居は、こう
この万年青は、隠居が永年丹誠したもので「
隠居に手入れの仕方を教わった通り、福子は丹念にその万年青の面倒をみてきた。はじめ、白い星の出かかった葉も、茶汁を筆につけて毎朝洗ってやっているうちに、すっかりとれて、青黒い葉も、この頃は
「万年青の扱いかたで、その人柄がわかるってね。先代が
隠居は、こう優しい
福子はにこにこして、うれしそうに、ちょっと
「隠居さんに、万が一のことがあったら、お前さんは何が欲しいね。」
唐突だったので、福子は何んのことかと眼を大きくして見た。
隠居は笑って、
「まあさ、
と、福子を安心させておいて、そして附け加えた。
「この間ね、家の者や嫁さんたちが集まったところで、隠居さんが聞いてやった。隠居さんが死んだら、みんなは、何が欲しいね、気持を開けて話してごらん、ってね。みんな、言い出したよ。
隠居は、福子の涙の張った眼を見て、びっくりした。言葉もなく、しばらく福子を見ていた。隠居も
「いいよ、いいよ。」
隠居には、これしか言葉がないようだった。
「おばあさん、お湯が煮立ってますよ。」
縁側から良人が声をかけた。「久し振りに、おばあさんの淹れたお茶を飲もうじゃないか。」
促されて、隠居は立ちあがった。福子はその背を抱えるようにして、しずかに縁のほうへ歩きだした。