巴里より

與謝野寛、與謝野晶子




巴里パリイより」の初めに


 予等は日夜欧羅巴ヨウロツパあこがれて居る。こと巴里パリイが忘れられない。滞留期が短くて、すべて表面ばかりを一瞥いつべつして来たに過ぎない予等ですらうであるから、久しく欧洲の内景ないけいしたしんだ人人は幾倍かこの感が深いことであらう。
 近日、友人徳永柳洲りうしう君はを、予等夫妻は詩歌しいかもつて滞欧中の所感を写した「欧羅巴ヨウロツパ」一冊を合作がつさくしようと計画して居る。其れは同期に欧洲に遊んだ画家と詩人の記念であるのみならず、たがひに「海のあなた」の恋しさを紛らさうとする手ずさびである。
 しかし、この巴里パリイより」一冊はその様な意味から世にだすのではない。
 予は明治四十四しじうよ年十一月八日やうかに横浜から郵船会社の熱田丸あつたまるに乗つて海路を取り、予の妻は翌年五月五日いつかに東京を立つてシベリヤ鉄道にり、共に前後して欧洲にむかつた。
 予等は旅中りよちうの見聞記を毎月幾回か東京朝日新聞に寄せねばならぬ義務があつた。なほ晶子は雑誌婦人画報などに寄稿する前約ぜんやくがあつた。そして新聞雑誌の性質上、予等の通信はあらかじめ「通俗的に」と云ふ制限を受けて居た。
 予の欧洲に赴いた目的は、日本の空気から遊離して、気楽に、真面目まじめに、しばらくでも文明人の生活にしたしむことの外に何もなかつた。実に筆を執つて皮相の観察を書くことなどはすくなからぬ苦痛なのである。自然予等は通信の義務をおこたることが多かつた。
 今ここに、書肆しよしから望まれるにそれ等の見聞記を集めて読み返して見ると、すべて卒爾そつじに書いた杜撰づざん無用の文字のみであるのに赤面する。初めから一冊の書とする予期があつたのなら、少しは読者の興味を刺激するに足る経験や観察を書きもらさずに置いたものを。
 いづれの地の記事も蕪雑であるが、伊太利イタリイの紀行中、羅馬ロオマついては数回にわたる記事を一括して新聞社へ送つたはずであつたのに、その郵便が日本へ着かずに仕舞しまつた。ナポリ、ポンペイ等の記事も同様である。それ等の郵便を予自身に郵便局へおもむいてさし立てなかつたのが過失であつた。人気にんきるいナポリの宿の下部ギヤルソンに托しために故意に紛失ふんじつされた[#「された」は底本では「さされた」]のであつた。さりとて今更記憶を辿たどつて書き足す気にもならない。この書の為に益々不備をうらむばかりである。
 予と船を同じうして欧洲に遊び、予より一年遅れて帰つた徳永柳洲りうしう君が、在欧中の画稿から諸種の面白い材題を撰んでこの書の挿画さふぐわと装幀とに割愛せられたのはかたじけない。柳洲りうしう君の才筆を添へ得て初めてこの書を世にだす意義を生じたやうに思ふ。
 予等は主として巴里パリイとゞまつて居た。従つてこの書にも巴里パリイの記事が多い。「巴里パリイより」と題した所以ゆえんである。
   大正三年五月
よさの・ひろし
[#改丁]


上海シヤンハイ



 ※田丸あつたまる[#「執/れんが」、U+24360、1-5]から上陸した十余人の旅客りよかくは三井物産支店長の厚意で五台の馬車に分乗し、小崎をざき用度課長の案内で見物して廻つた。上海へ来て初めてガタ馬車以外の馬車に乗つた人もすくなくない。勿論僕もその一人だ。南京路ナンキンロ四馬路スマロなどの繁華雑沓ざつたふは銀座日本橋の大通おほどほりを眺めて居た心持こゝろもち大分だいぶんに違ふ。コンクリイトで堅めた大通おほどほりやはらかに走る馬車の乗心地が第一にい。護謨輪ごむわは少しも音を立てず、聴く物はたゞ馬の蹄音つまおとばかりである。自動車、馬車、力車りきしや、一輪車、電車、あらゆる種類の車と、あらゆる人種を交へた通行人とが絡繹らくえきとしながらの衝突も生じないのを見ると、神田の須田町や駿河台下でうろうろして電車にきもひやすのはまだ余程よほど呑気のんきだと思ふ。
 十字路ごとに巡査が立つて電車の旗振はたふりの代りと通行人の警戒とに当つて居る。旗を振るのでなく、赤い鉢巻をした、背の高い、目の光つた印度インド人の巡査が直立して無言のまゝ静かに片手をあげばかりだ。日本の巡査も交番を撤廃してう云ふ具合に使用したいものである。支那商店の軒頭けんとうからは色色いろいろの革命街上がいじやうへ長い竿をよこたへて掲げて居る。間に合せに出した白旗はくきもあるが、二つどもゑに五しきで九曜の星をとり巻かせたり、「我漢復振わがかんまたふるふ」などと大書たいしよしたりしたものもある。申報しんぱうの号外を子供が売つて歩く。しかし自然に中立地帯をなして居る土地だけに格別革命軍の影響はすくない。東京での騒ぎの方が余程よほど大きい様である。
 南京路ナンキンロから静安寺路せいあんじろへ出て張園ちやうゑん愚園ぐゑんとを観た。評判程の名園でも何でも無く、ほとんど荒廃に属して居て、つくね芋の様な入為的の庭石が目障りになるばかりだ。愚園ぐゑんの方は小さな浅草の花屋敷で、動物の外に一寸法師や象皮ざうひ病で片手が五十封度ポンドの重量のある男の見世物などがあり、勧工場くわんこうばや「随意小酌せうしやく」とはり出した酒亭しゆていもある。滿谷みつたに君外三人の画家が象鼻ざうびを上げた様な奇態な形の瓦楼ぐわろうの一かくを写生し終るのを待つて一緒に郊外に出たが、何処どこまでもみち幅のひろい、そして黄ばんだ白楊はくやうの並木の続いて居るのが愉快であつた。
 あちこちのはたの中に死人のくわんをむき出しにして幾個いくつも捨ててある。聞けば死者があると占者うらなひしやがどの方角のどの地へうづめよと命ずるまゝに、たれの所有地であらうと構はずくわんを持つて来て据ゑて置く。そして三年ののちに土をせる。土地の所有者は其れを拒む事が出来ない習慣であると云ふ。道理で見渡す限り点点てんてんとして、どのはたにも草におほはれた土饅頭どまんぢうが並んで居る。この分では天下の田はこと/″\く墓となりさうであるが、いづれも無名卑民の墓であるから十年二十年ののちには大抵畑主はたぬしくはに掛けて崩して仕舞しまつて格別苦情も出ないのだと云ふ。其れにしても不経済と不衛生とを兼ねた野蛮な埋葬法である。
 李鴻章の廟を観ようと思つて郊外へ出たが、廟は南洋大学堂の学生から成る革命軍の健児の屯営に使用せられ、武装した学生が門を守つて居てる事を謝絶した。車上から伸上のびあがつてのぞくとクルツプ会社から寄贈したと云ふ李鴻章の銅像の手に白い革命旗を握らせ、その前に祭壇の様な物が設けてあつた。自分には其れが児戯じぎの如くに見えて何の感動も起らず冷然として一べつし去る外は無かつた。一体今度の革命軍と云ふものは内外人の心が北京ペキンの政治に厭きはてたと云ふ都合のよい機運に会したので意外の勢力となりつつある様であるが、実力を云へば西南戦争に於ける鹿児島の私学校の生徒の如き者が各地に騒ぎ立つて居るのに過ぎないと想はれる。漢口かんこうの松村領事が居留民を引上させたのは大早計たいさつけいであつたと云ふ批難が上海シヤンハイでは行はれて居る。松村君が自分の夫人だけをとゞめて置くについての岡焼をかやきばかりでは無いらしい。
 馬車を四馬路スマロに返して杏花楼きやうくわらう上海シヤンハイ一の支那料理の饗応を受けたが、五十ぴんからの珍味は余りにおほきに過ぎて太半たいはん以上のどを通らず、健啖家けんたんか某某ぼうぼう二君も避易へきえきの様子であつた。自分は※[#「執/れんが」、U+24360、5-13]い二杯の老酒ラオチウに酔つて更に諸友と馬車を駆り、日本人の多く住む米租界の呉淞路ウウソンロを過ぎ、北四川路きたしせんろ新公園ニウガアデン白石しらいし六三郎氏の別墅べつしよ六三園に小憩した。白石氏は長崎の人で上海シヤンハイ第一の日本酒楼六三亭の主人であるが、居留邦民中の任侠家として名高い。六三園は純粋の日本式庭園で、諏訪明神のほこらがあり、地蔵の石像があり、茶亭さていが設けられ、温室には各種の花が培養せられて居た。
 帰途日本ホテル豊陽館の前で馬車を捨て、此処ここで一行は二隊に別れて随意行動を取ることにしたが、もう日が暮れて居た。自分と徳永外三君とは領事館に西田書記生をうたが不在であつた。南京路ナンキンロへ出て徳永君のうた某歯科医も不在であつた。十時に物産会社から特に出してれるランチに乗る迄には四時間以上もあるので、四馬路スマロの方へ掛けて雑沓ざつたふの中をぶらぶらと彷徨うろつき廻つたが容易に時間は経たない。今一度日本人の住んで居る方へ行かうと決したが、其れが失策の第一であつた。反対の方角へ引返したけれど、けどもけども昼間歩いた街へは出ない。みちを問はうにも燐寸マツチ自来火スレフオオと呼ぶことを知つた以外に支那語を心得た者は無かつた。やつと英語のわかる巡査に出会つた頃は二十ちやうばかりも違つた方何へき過ぎて居た。あと戻りをしてなにがしと云ふ怪しげな日本料理屋を見つけて漬物で茶漬を喫し終つた時は九時であつた。埠頭へ来てランチに乗つた頃雨が降り出した。十時を打つても滿谷君の一行は帰つて来ない。猩猩しやう/″\党は何処どこかで飲み倒れて仕舞しまつたのであらう。※[#「執/れんが」、U+24360、7-4]田丸の濡れた舷梯げんていのぼつて空虚な室に一人寝巻に着更へた時はぐつたりとつかれて居た。枕頭ちんとうに武田工学士からの招待せうだい状が届いて居た。武田木兄もくけい君が此処ここの領事館に在職して居たのは意外である。(十一月十五日)


香港ホンコン



 欧洲航路の船に横浜神戸から乗合せた者は大抵香港ホンコンへ着く前に話題が尽きて仕舞しまふ。碁や将棋は嗜好が無い者には興味を惹かないし、トランプは日本人に取つてさまで面白い物で無い。甲板球戯デツキビリヤアド我我われわれに最も好く時間を費させつ運動にもなるが、昼間ひるまに限られた遊戯であつて其れもき易い日本人には二時間以上続け得ない様である。我我われわれは何がな夜間の就寝じゆしんまでの時間を費す娯楽を欲して居る。ある晩近江医学士が偶然専門である婦人科の話を諧謔おどけ交りに述べ出すと奇怪な質問が続出してたがひおとがひを解いた。支那、馬来マレイ瓜哇ジヤワあたりの売春婦のつうを話した人もあつた。蓄音機が持出されて僕に初めて呂昇ろしようを聴かせてれたよるもあつた。航海中は笑はされるのが何よりい。真面目まじめな話は禁物きんもつである。これは日本人の体質にも習慣にもるのであらうが、読書などにるとあと船暈せんうんを感ずる原因に成り易い。
 香港ホンコンに着く前夜に、「第一回※[#「執/れんが」、U+24360、9-1]田演芸会」が一二等客と船員とによつて船尾甲板かんぱんで催された。一等室のをんな給仕が三味線をつて引き、端唄はうた手踊てをどり、茶番、仮色こはいろ、剣舞、手品などの続出した中で、徳永の鼻糞まろめ、長谷川の歌沢うたざわ、三好のハモニカ、近江の追分おひわけなどが我我われわれ二等客の選手のいうなるものであつた。徳永と長谷川はウイスキイで元気を附けたらしく意外に平気な様子で遣つたが、近江の処女然と顔を赤くして居たのは愛嬌あいけうであつた。滿谷みつたに、小林、三浦、僕等の如き隠し芸を持たない者はかへつ観客くわんかくとなるさいはひを得た。牧野事務員が富樫に扮して滑稽勧進帳を演じて居る頃わが※[#「執/れんが」、U+24360、9-7]田丸は香港ホンコン港口かうこうに着いて居た。港内に於ける一日の碇泊料六百円を節約するめ今夜は港外に仮泊かはくするのである。
 翌てう六時に船は港口かうこうり、暹羅シヤムの戴冠式に列せられる伏見若宮わかみや殿下の一行を載せて伊吹、淀の二艦と広東カントンから来た警備艦宇治の碇泊して居るあいだを過ぎ、維新ぜん馬関ばかん砲撃に参加した英艦テイマア号が武装を解いて白く塗られ記念品として繋留してあるのを左弦に見つつ港内の中央に碇着ていちやくした。三井物産のランチに乗つて上陸しようとする時僕は香港ホンコン電信局からの通知を受取つた。日本から上海シヤンハイを経て転送された電報が届いて居るから、墨国メキシコ銀三ドル十五銭を持参して受取れと云ふのである。僕は神戸や門司で五六通の電報を接手せつしゆしたが此処ここまで追送してくれるのはそれ等の祝電では無ささうだ。家庭に病人でも出来たか、子供が大怪我おほけがでもしたか、婦人と子供ばかりを残して来た家庭に何か不吉ふきちな危難でも生じたかと、平生から余り呑気のんきでない神経質の男はにはかに心配で[#「心配で」は底本では「心配こころばいで」]ならなかつた。多分此処ここから帰国せねばならない運命が来たのだらうと人知れず決心してかくも電報受領かたを永島事務長に依頼し、すぐひらいて見て至急を要する事なら電話を三井物産の支店へ掛けてくれと云ひ残して諸君と一緒にランチに乗つた。
 ※[#濁点付き井、11-4]クトリヤ・ピンクは湾に臨んで屹立きつりつし、その山脈は左右に伸びて山腹と山下さんかとに横長い市街を擁して居る。うしろに南支那大陸の九竜きうりよう半島を控へて居る所は馬関海峡の観があるが、ピンクの屹立きつりつして居る光景は島原の温泉うんぜんだけを聯想するのであつた。埠頭は五階が同じ格好かくかうの屋根を揃へて一線にならんだのを遠望すると、大きな灰色の下駄はこを並べた様に醜かつたが、近づいて見ると其れ程不快な色でも無かつた。桟橋へあがつて東洋汽船会社の前あたりへ来ると、一本線の電車や二頭の牛を附けた撒水さんすゐ車や、赤い真鍮粉しんちうこ梨地なしぢをした力車りきしやなどがづ目を引いた。チエスタア・ロオドの三井物産の支店をはうとして横の小路こうぢはひつた時、白いもしくは水色の五階建がやゝ斜めに両側をしきつた間から浅い藤紫の色をした朝のピンクの一へんが見えたのは快かつた。
 三井物産の支店長が附けてれた社員に案内せられて山の手の街を二町程行つてケエブルカアに乗つた。三十度から四十五度の大傾斜六千尺を一条の鉄索に引かれて我我われわれの車は疾走しつつ昇る。両がいには幹の白い枝から数尺すうしやくひげを垂れた榕樹ようじゆや、紅蜀葵こうしよくきに似た花を一年ぢゆうつけて居ると云ふや、紫色ししよくをした昼顔の一種五瓜竜ごくわりようなどが目にる。崖腹がいふくにある二箇所の停車場ステエシヨンには赤布せきふを頭に巻いた印度インド巡査が黙つて白い眼を光らせながらつゝ立つて居る。山じやうの幾しよに建てられた洋人の家屋のとりどりに塗料のちがふのが車体の移ると共に見えなくなるのは活動写真の様である。七分間で最終の停車場ステエシヨンに下車し、香港ホンコンホテルの門前に出て支那人のく長い竹のしなこし椅子に乗つた。轎夫けうふは皆跣足すあしである。山じやうみちすべてコンクリイトで固められて居る。石を敷いた所もある。例へば[#「例へば」は底本では「れいへば」]箱根の新だうをコンクリイトで固めた様なものだ。
 七十余年ぜんこの地が英領となる迄は禿山であつたのを、東洋と※[#「執/れんが」、U+24360、13-2]帯地方とのらゆる植物を移して現に見渡す様な蒼蒼さうさうたる秀麗な山地とし、一方には上海シヤンハイに次ぐ繁華な都会を建設したのである。東区イースト・ポイントの山の如きはあたかも岡山の操山みさをやまを見る様な風に翠色すゐしよくを呈して居るが、其れが皆二十年ぜんに移植した松だと云ふ。対岸の支那領に属する地は赭色しやしよくをした自然じぜんまゝの禿山であるのに香港側はまつたく人為で飾られた山だ。人間が自然を改造し得た偉観を見ると肩身の広くなる心地がする。
 測候所そくこうしよを過ぎて絶頂の信号所に達した。其処そこにはナポレオン帽をかぶつてカアキイ色の服を着けた英国の陸兵が五六人望遠鏡を手にして立番たちばんをして居る。郵便船がはひる度に号砲を打つのである。湾内の水は草色くさいろかもを敷き詰めた如く、大小幾百の船は玩具おもちやの様に可愛かはいい。概して鳥瞰的に見る都会や港湾は美でないが、此処ここのは反対に美しい。足下あしもとには層をなして市街の屋根が斜めに重なり、対岸には珠江しゆかう河口かこういだいた半島が弓形きゆうけいに展開し、其間そのあひだひさごいた様な形で香港ホンコン湾があゐを湛へて居る。振返ると背面の入江は幾百の支那ジヤンクをうかべて浅黄色に曇つたのが前面のせはしげな光景とちがつて文人画の様な平静を感ぜしめる。画家達が要塞地だからいては悪からうと問ふと、番兵はくのは構はないが草木の花を摘むなと答へた。自然を愛すると云ふ日本人にかへつて是丈これだけの植物を保護する心掛こゝろがけは無い様である。
 再びケエブルカアに乗つて山をくだり、香港ホンコン公園で椰子やし其他そのたの珍奇な※[#「執/れんが」、U+24360、14-5]帯植物を日本にほん倶楽部で午餐を喫してから車に乗つて東区イースト・ポイント福谿ハツピー・バレイの方を観て廻つた。回回フイフイ教の寺院で白衣びやくいの尼の列を珍しがり、共同墓地にはひつて大理石の墓の多いのに驚き、其処そこでバクレツと云ふくちなしの様な花のにほひの高いのを嗅ぎ、愉園ゆゑんはひつて蒸す様なまぶしい※[#「執/れんが」、U+24360、14-9]帯花卉の鉢植の間のたくり、二本ふたもとのライチじゆの蔭の籐椅子を占領して居る支那婦人の一団を眺めながら、珈琲カフエエを取つて案内者某君の香港ホンコン談を聞いた。
 香港ホンコン今日けふの温度は六十四度である。人はなほ夏服を着て居る。歩けば汗が出る。海から吹く風の涼しいのがうれしい。この地に住んで居る支那人は平素は四十万であるが、本国の革命騒ぎ以来広東カントンや遠く蘇州そしう杭州かうしうあたりから来た避難民を合せて今は五十四五万に達して居るさうだ。広東カントンが独立して以来にはかに断髪者が殖えたので剪髪せんぱつ店が大繁昌である。その店頭の旗に「漢興剪髪かんおこるはつをきれ」などと大書たいしよして居る。日本人の在住者は醜業婦を加へてわづかに一千足らずである。広東カントンへは対岸の九竜停車場きうりようステイシヨンから汽車に乗れば四時間で達せられ、澳門マカオへは汽船で二時間の航程だから、有名な賭場見物にかないかと勧める人もあつたが、自分は少し腸を痛めて居るので辞した。
 更に力車りきしやに乗つて引返し、西区ウヱスト・ポイントの支那まちを一周して買物をしながら埠頭へ出たが途中で画家の柚木ゆのき君の車が衝突して菓子屋のかついで居た荷を滅茶滅茶にし、車夫しやふと菓子屋との大立廻おほだちまはりが初まり、荷揚苦力クリイや弥次馬に取巻かれて車上の柚木君が青くなつたのは早速さつそく船内で発行する「※[#「執/れんが」、U+24360、16-2]田パツク」第二集の好材料となるであらうが、一は自分等も驚いて車をりた程であつた。つて船の上から観る香港ホンコンの灯火は、全山を水晶きゆうとし其れに五彩の珠玉を綴つたともふべき壮観であつた。また両岸の灯台からは終夜探海灯で海上を照して居た。碇泊中の船舶では二万トンのマンチユリアの灯火がもつとも光彩を放つて居た。サンパンに乗つた支那娼婦いはゆる「水妹すゐまい」が薄暗い灯火あかりけて湾内を徘徊して居た。夜更けて帰つて来た某君の話にると日本の公娼を抱へたいへは二十戸以上もあると云ふ。
 今日けふ牧野事務員に託してマルセイユ迄く仲間だけ甲板デツキ用のたうの寝椅子を買つて貰つたが、一個一円五十銭づつとはやすい事である。気掛りであつた電報はかへつて「スベテアンシンセヨ、アキ」と妻から寄越よこした物であつた。こんな事で安心料三円十五銭を香港ホンコンの電信局へ支払つた人間は永久僕一人ひとりであらう。(十一月二十日)


新嘉坡シンガポオル



 快い北東の季節風ムンスウンに吹かれ、御納戸おなんど色の絹をべた様な静平な海面を過ぎながら、十一月二十五日の朝蘭領のアノムバ島を左舷に見た。香港ホンコンを発して以来毎日一二回の驟雨しううがあるので想像して居たよりも涼しい。人人は食堂や喫煙室にはひつて明朝新嘉坡シンガポオルから出す手紙をしたゝめるのにせはしく、何時いつにか細君さいくんの名をたがひに知つて仕舞しまつて居るので三浦工学士のペンを走らせて居るうしろから「たま子さんによろしく」などと声をかける者もある。昨日きのふ美味うま最中もなかが出来たが今日けふの茶の時間には温かい饅頭まんぢうが作られた。晩餐には事務長から一同浴衣掛ゆかたがけよろしいと云ふ許しが出る。食卓について見ると今夜は日本食が特に調理せられ、はもの味噌汁、鮪の刺身、鯛の煮附、蛸と瓜の酢の物、沢庵たくあんと奈良漬、いづれも冷蔵庫から出された故国の珍味である。日本酒のさかづきを挙げて明朝上陸する三吉みよし、吉田外三氏とたがひに健康を祝し合ふ。道づれに別れるのは何となく淋しい。※[#「執/れんが」、U+24360、18-3]田丸記念会を数年後東京に開かうと云ふので会員簿にたがひに自署し、其れが蒟蒻こんにやく版に刷られてすぐに配附せられた。原籍を知つて話し合ふと土居中尉の夫人が僕の妻の縁者えんじやである事がわかつて奇遇に驚いた。夫人は一歳の赤ん坊をれて馬来マレイ護謨ごむ栽培をやつて居る良人をつともと健気けなげにも初めて旅行するのである。船はもう宵の内に新嘉坡シンガポオルへ着いて居た。
 翌てうほとんど赤道直下である程あつて早天から酷暑の感がする。僕一人ひとりづ目覚めて船甲板ボウトデツキを徘徊して居ると、水平線上の曙紅しよこうは乾いた朱色しゆしよくを染め、の三ぱうには薄墨うすずみ色を重ねた幾層の横雲よこぐもの上に早くも橙色オランジユいろ白金色プラチナいろの雲の峰が肩を張り、あけの明星は強い金色こんじきマストの横に放つて居る。渺茫べうばうたる海面にふかが列を為してあらはれたかと思つたのは三マイル先の埠頭から二挺を一人で前向まへむきに押して漕ぐ馬来マレイ人の小舟サンパンの縦列で、彼等は見るうちにわが船を取囲んで仕舞しまつた。小舟サンパンにも赤い帽と赤い腰巻サロン及び白い目と白い歯が光つて居る。中に一ぺんの丸木船に杓子しやくしの様な短い櫂を取つて乗つて居る丸裸の黒奴くろんぼ趺坐あぐらをかきながら縦横に舟を乗廻してしきりに手真似でぜにを海中に投げよと云ふ。起きて来た連中れんぢゆうが一銭銅貨を投げるふりをすると彼はかぶりを振つて応じない。五銭はく銅以上を要求するのである。はく銅の持合もちあはせが無いので一人が十銭銀貨をなげ入れると、彼は黒い大きなたいなゝめに海中に跳らせて銀貨がだ波の間を舞つて居る瞬間に其れを捉へてあがつて来る。ベツクリンの絵の中の怪物の心地がした。土地柄として沼にも川にも沿岸の海にもわにが棲んで居て、一寸ちよつと端艇はしけが顛覆しても乗組人は一人ひとりも揚つて来ないのが普通なのに、このぜに拾ひだけわにふかの害に遇はないのは一つの不思議となつて居ると云ふことだ。
 海上から望んだ新嘉坡シンガポオル香港ホンコン上海シヤンハイに比してはるかに風致に富んで居る。ゴシツクの層楼の多いのは早く出来た市街だけに保守的な英国風が余計に保存されて居るのかも知れない。一般に馬来マレイ全島が非常な低地であつて最高の山がわづかに海抜五百十九尺しか無いのだから、山と云つてもすべて丘陵の様なものであるが、其れにはうきを立てた様な椰子やし類の植物が繁茂して居るのは遠くから観ても山の形が日本とはまつたちがふ。市街にむかつて右のタンジヨン・カトンの岬に伸びた一帯の大椰子林だいやしりん[#ルビの「だいやしりん」は底本では「たいやしりん」]は新来の旅客りよかくの目をづ驚かすものである。又対岸の蘭領のリオ島ほか諸島が遠近につて明るい緑とこいあゐとを際立たせながら屏風の如くひらいて居るのも蛮土とは想はれない。湾内の小波さゞなみは大魚のうろこの様に日光を反射して白くきらきらと光つて居る。
 市街はおほむね二階建である。人口は支那人が二十五万、馬来マレイ人が七万、ヒンヅ種の印度インド人がこれに次ぐ。何処どこへ行つても支那人の普及と彼等の商業上の実力の豊富なのとには感歎せざるを得ない。経済上の実権は支那人の外になほアルメニヤ人とアラビヤ人とが握つて居て英独人もそれ等には敵し難い。市内の目ぼしい家屋の過半はこの二人種の所有である。この地には一切営業上の課税が無く、だ家屋税を家主いへぬしより徴収せられるだけである割に家賃はやすい。間口七げん奥行十五けんの二階が一箇月八九十円である。三井物産会社の支店などはなり大きい立派な建物であるが百五十円の家賃ださうである。
 僕等は馬車を駆つて見物して廻つたが、途上の所見を少し並べて云ふと、土の色が概して印度黄インヂアンエロウもしくは輝紅ライトレツドを呈し、其れが雨水うすゐに溶解すれば美しい橙黄色オレンジいろ水溜みづたまりが出来る。驟雨しううが来れば涼しいが、大抵三四十分でれて仕舞しまふとくわつと真昼の日光が直射する。海上から来た我等は二三ちやうみちすら歩く勇気が無いのに、馬来マレイ人や支那人は平気で傘もささずに跣足はだしまゝ歩いて居る。一体に土地に住んで居る者は西洋人でも雨の外は傘をささない。家造りが大抵歩廊ほらうを備へて居るから其下そのしたを歩めば日光や驟雨しううが避けられる。馬来マレイ人やヒンヅ人が黒光くろびかりのするからだ黄巾赤帽くわうきんせきばういたゞき、赤味の勝つた腰巻サロンまとつて居る風采ふうさいは、極※ごくねつ[#「執/れんが」、U+24360、21-13]の気候と、朱の色をした土と、常に新緑と嫩紅どんこうとを絶たない※[#「執/れんが」、U+24360、21-13]帯植物とに調和して中中なかなか悪くない。
 此処ここの人力車は大抵二人乗にんのりで、それが日本出来できの金ぴか模様のある物である。馬車も多いが自動車の多数な事は上海シヤンハイに倍して居る。電車は香港ホンコンと同じく一本電線を用ひて居る。荷車は二頭の牛にかせる物ときまつて居るらしいが、牛はヒンヅ教でシ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)しん権化ごんげである所から絶対に使役しない。牛をも大切にする風があつて、その角を絵具で染め又は金属でおほうて居るのを見受けた。又牛のふんを幸福のまじなひに額へ塗つて居るヒンヅ人にも沢山たくさん出会つた。ヒンヅ教の一寺院をうて見たが、屋上にも堂ぜんにも牛の像をまつることあたか天神てんじん様の前の如く、牛糞ぎうふんを塗つた四五人の僧は牛皮ぎうひの靴を穿いて居る僕等を拒んで堂内に入れ無かつた。
 海上から見えて居たタンジヨン・カトンの大椰子林だいやしりんへ馬車を駆つて行つた。これは天然林でなく幾区画にも分れて所有主を異にする植林である。すべて壮年期の椰子やしばかりで、其間そのあひだに近年護謨ゴム栽培※[#「執/れんが」、U+24360、12-12]の流行する影響から若木わかぎ護謨樹ゴムじゆを植ゑた所もある。亭亭ていてい大毛槍だいけやりを立てた如くに直立し又はなゝめに交錯して十丈以上の高さに達して居る椰子やし林を颯爽さつさうたる驟雨しううに車窓を打たれながら、五台の馬車が赤い土の水けむりを馬蹄の音高く蹴立てて縦断するのは、覚えず「い気持だ」と叫ばざるを得なかつた。がらに無い聞書きゝがきをするが、椰子やしが成長して実を結ぶまでには七八年を要し、の※[#「執/れんが」、U+24360、23-3]帯植物と同じく常に開花し常に結実するので、一じゆが一年に平均八十個の実を産し、一個の卸値段を三銭として毎年二円四十銭の収入が一本の榔子から揚がるはずである。椰子油やしゆ椰子水やしすゐ椰子酒やししゆの採収を初め、其他そのた椰子やしの用途はすこぶる多いらしい。
 椰子林やしりんの中の観海旅館シイ・※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)イ・ホテルに少憩して海に近い廻廊ベランダ珈琲カフエエを喫しながら涼を入れた。ホテルの淡紅色の建物が周囲と好く調和して居た。頭上の屋根裏につて居る名物の守宮やもりがクク、ククと日本の雨蛙の様に鳴くのはクラリネツトを聞くおもむきがあつた。日本の守宮やもりと違つて人をむ恐れは無いが、飲料が好きなので飲みさした牛乳や珈琲カフエエを天井から落ちて来て吸ふ事が常にあるさうだ。守宮やもりの場末の家にも沢山たくさんつて居る。今夜三井物産の社宅にとまつて前年日本の貴賓の寝られたと云ふ二つの寝台ねだいへ得意になつて横たわつた小林と三浦は、終夜この守宮やもりに鳴かれてい気持がしなかつたとあとで話して[#「話して」は底本では「話し」]居た。牛鳴ぎうめいをすると云ふ痛快な蛙も沢山たくさんに居るさうだが僕等は聞かなかつた。
 新嘉坡シンガポオルすぎ旅客りよかくが必ず行つて観る価値のあるのは博物館と大植物園とだ。博物館の規模は東京のに比べて小さいが、馬来マレイ印度インド、南洋諸島等の動植物、古噐物こきぶつ、風俗資料の類はなりに豊富で、陳列法も親切に出来て居る。南洋の家屋に日本の神社の氷木ひぎ鰹木かつをぎと同一の物を附し、水害を避けるめに床下を高くしたのなどを初め、祭具、武噐、食噐しよくき等に我国の上古と吻合ふんがふする所のすくなくないのを観て僕の考古学的嗜好はしきりに刺戟せられた。※[#「執/れんが」、U+24360、24-7]帯の蝶や蛾が日本の其れとまつたちがつて多種多様の絢爛な色彩に富んで居るのは目が覚める様である。其他そのた全身が美しい翡翠かはせみ色をして細やかに甚だしく長い青蛇、支那人が二人掛りで容易に撲殺うちころし好んでその肉を喰ふと云ふ馬来マレイの大蛇バイソン、蝨斯ばつた科の虫で身長二寸五分ばかり、※[#濁点付き井、24-10]オロンの形と色とをしたカラビデエ、同じく群青色ぐんじやういろをして柏の葉をたてに二枚重ねた如き擬態を有し、葉茎、葉脈等をあきらかに示せるピリイムシセ、又緑赤色りよくせきしよくをして南天の葉を枚横に並べた様な擬態を現して居るクロマリイとうこの通信を書く時の記憶に鮮かに残つて居る。
 植物園は如何いかにも大規模に※[#「執/れんが」、U+24360、25-1]帯植物の有らゆる種類を集めて居て、東京の植物園などはこれに比べると不親切極まると云つてよい。少しは日本の温室で見うける物もある様だが概して初対面の物が多く、同じ蘭科でも種類が無数なのである。花卉も面白いけれど、一体に※[#「執/れんが」、U+24360、25-4]帯植物は幹と葉の姿勢や色彩が奇抜に出来て居る。葉も花も多肉性と鞏靱きようじん性に富み、色彩が濃厚鮮明である。四季の区別が無くて不断に開花、結実、発芽、落葉を続けて居る。季候のせいで発育の旺盛である胡瓜きうりとか朝顔とかは、五六日で発芽し半月で花と実を持つさうである。日本では尺に満たない金星草ひとつばが幅二尺高さ一丈に達して居る。五六丈の幹の上に芭蕉に似た葉を扇形あふぎがたに三十五六えふも並べて直立して居る扇椰子あふぎやし、滴る様な血紅色けつこうしよくをした椰子竹やしちくの一種、紅蜀葵こうしよくきの様な花を榎の様な大木に一ぱい附けて、芝生の上へ円形にその花を落すサンバじゆなどの蔭を踏むと、極楽鳥と云ふるゐの美しい鳥が※[#「執/れんが」、U+24360、25-11]帯に棲んで居るのも不思議でない気がする。ついでに云ふが博物館も植物園も観覧料を取らない。
 其れから植物園附近のエコノミツク・ガアデンにはひつて護謨林ごむりんを見た。此処ここの栽培法や採収法は以前模範的と称せられたさうだが今は既に旧式に属して居る。新式のは馬来マレイ半島のジヨホオルへけば観られると云ふ事だ。樹幹にはどれにも左右から矢の羽形はがたに斜めに小刀ナイフで欠刻を附け、更に中央に溝として一線が引いてある。左右の欠刻から沁み出る護謨ごむ液が中央に集つて落ちるのを採収夫が硝子ガラス小杯コツプに受けて廻るのである。採収は未明から午前六時迄に終らねばならないと云ふ事だ。僕等も試みに小刀ナイフを取つて欠刻を附けて見るとすぐに牛乳の様な液が滴り、其れが端から凝結する。手に取つて両指りやうしで引いて見ると、既に弾力性を持つて居て伸縮する。
 近年護謨林ごむりん[#「執/れんが」、U+24360、26-8]の昂騰した頂上には当地の雑貨商中川某が百七十エエカアの林を三十六万円に売つたのを第一として二三万乃至ないし六七万円の奇利を博した者があつて、護謨ごむあたひも一ポンド十四五円まで暴騰したが、現今ではその反動で二円に下落して居るさうだ。しかし着実な其道そのみちの人の批判ではたとひ一円にさがつても会社経営では四五割、個人経営では六七割の利益は確かだと云つて居る。現にジヨホオルで護謨林ごむりんを経営して居る日本人は三井の二万五千エエカア、三五公司こうし阿久澤あくざわ)の二千町歩をしゆとし、二三百エエカアの小経営者は数十人にのぼり、一便船びんせんごと護謨ごむ業関係者の日本から来る者が三四人をくだらない有様だ。栽培後六年で採収期に達するのであるからこれ等経営者の成否はなほ前途を待たねば断じ難い。
 ジヨホオルでの護謨ゴム栽培は一年の借地料が一エエカア五十銭だ。づ山地の密林をり開いて無数の大木を焼棄するのに費用がる。この焼棄が容易で無い。其れから地ならしをして植附うゑつけをはるまでの人夫其他そのた費用一切が百エエカアについて千円乃至ないし二千円を要し、監督者の家屋の建築に千円乃至ないし二千円を要する。以上は創業費だ。次いで三年間の草取くさとりに使用する人夫の賃金が一万五千円乃至ないし二万円、これは継続費だ。其れで二万円乃至ないし二万五千円の資本が無くては百エエカアの植林は出来ないと云ふ事に現在は相場が[#「相場が」は底本では「相場さうぢやうが」]きまつて居る。
 護謨ゴムの苗木は十八尺四方の中に一本を植ゑる。採収は六年からだが草取くさとりは三年間でよい。肥料は少しも要しないでよく発育するさうだ。採収は六箇月すれば六箇月休止せねばならない。一本のから一日におよそ一ポンドの採収が出来ると云ふのが真実ほんとうなら大した利益のあるはずである。人夫には馬来マレイ人と支那人を使用して居る。彼等は甚だ勤勉で一日の賃金(食事は自弁)が六十銭である。護謨林ゴムりん経営者のひそかに憂ひて居る事は近き将来に人夫の不足する事であるが、ある人は一年後に濠洲の真珠業が廃滅するに際し日本へ帰るがい地の人夫一万人をこの地で喰ひ止める事が出来ると云つて楽観して居る。
 新嘉坡シンガポオルへ輸入する石炭の総額は一年に六千万とんだが、この半額は日本炭と撫順炭で占め、の半額は濠洲炭、英国のカアジフ、ボルネオ炭とうである、近頃蘭領の某島で新嘉坡シンガポオルと競争して石炭の集合地をかれに奪はうとする計画がある。当地では石炭の出入しゆつにふに桟橋費一とんにつき三十五銭取られる如き費用を要するのをかれおいては一切省略しようとするのださうである。
 護謨林ゴムりんを出て馬車に乗り、案内者となつてれた三井物産の支店員から、故長谷川二葉亭君の遺骸をこの地で荼毘だびして追悼会を開いた時の話を聞きながら、前年護謨林ゴムりんに従事して居た長田秋濤をさだしうたう氏夫妻が住んで居たと云ふ林間の瀟洒せうしやたる一をくよぎり、高地にある三井物産支店長の社宅の楼上で日本食の饗応を受けた。刺身皿のまぐろこの海で取れたのだと云ふ。卓上に印度インド式の旋風布フアンカつるし、その綱の一端を隣室から少年の黒奴こくどが断えず引いて涼を起すのは贅沢ぜいたくな仕掛である。市街の夜景を見て歩きたいと思つたが、最終の蒸汽が午後四時に出る外、そののちは一切出さないと云ふ窮屈な規定を憤慨しつつ本船に帰つた。もつとも夜間に小舟サンパンを傭へない事も無いが、土人どじんの船頭には脅迫的な行為があつて危険だと忠告せられて断念した。
 翌二十八日は午前十時に諸友と再び上陸し、数隊に分れて案内者無しに歩いた。滿谷みつたに、長谷川、徳永、近江、柚木ゆのき志貴しぎ酢屋すや、僕の八人は何の目的も無く電車の終点まで乗つて下車し、引返して偶然博物館の前に出て、滿谷等はその附近を写生し、徳永、志貴、近江、酢屋と僕とは加特力カトリツク教会の経営に成る当地の模範小学を参観した。生徒は男子ばかりだが、小学科を七年、その上に二年の商科を通じておよそ一千人を教育して居る。教師は英人と印度インド人、生徒は洋人を除いて雑多の人種を交へて居る。生徒は大抵跣足はだしだ。しかし感服した事には教授の用語に一切英語を用ひ、小学の一年生がナシヨナル読本どくほん第二の程度の物を習つて居る。商科の生徒に長崎生れの木田と云ふ日本少年が一人居て三年ぜんに教会から此処ここへ送られたと云つて居たが、寄宿舎にばかり居るので日本語を忘れたらしく会話に困つては英語で答へるのであつた。
 神戸から同船して来た津田の店をうてはからず馬来街マレイ・ストリイト[#ルビの「マレイ・ストリイト」は底本では「マレイス・トリイト」]遊女街いうぢよまちに出た。同じ様な公娼の街は四箇所あるがこれが第一にさかんだと津田が語つた。すべて同じ形に建てられた間口二けんの二階造りで青く塗つた鉄の格子のはひつた階下に一個のたくを据ゑ、籐椅子につた独逸ドイツ露西亜ロシアの娼婦が疲労と暑さとで死んだ者の如く青ざめて沈黙して居る。日本にほん娼婦は浴衣ゆかたに細帯、又は半襦袢じゆばん一枚の下に馬来マレイ人のする印度更紗インドさらさの赤い腰巻サロンをして、同じ卓につて花牌はなふだもてあそんで居る者、編物をして居る者、大阪版の一休諸国物語を読んで居る者、いづれを見ても天草産の唐茄子面たうなすづらをした獰猛だうまうな怪物ばかりである。洋娼等はしきりに僕等の一行を呼掛けたが、日本娼婦は流石さすがに同国人に対して羞恥しうちを感じるらしくいづれも伏目になつて居るのが物憐れで、これが夜にれば猿芝居の猿の如く、友禅縮緬ちりめん真赤まつかな襦袢一枚にこてこてとした厚化粧と花簪はなかんざしに奇怪至極の装飾をこらし、洋人、馬来マレイ人、印度インド人に対して辣腕らつわんふるふものとは思はれなかつた。
 日本娼婦のすう坡港はかうばかりで現に六百四五十人(この外に洋妾やうせふとなつて居る女は百人もあるさうだ。)あると云ふから、印度インド、濠洲、南洋諸島へ掛けては六七千人にものぼるのである。彼等は坡港はかうを「みやこ」と称し、其他そのたを「田舎ゐなか」と称してあたかも東京から千葉や埼玉へ出掛ける位の心持で便船びんせんごとそれ等の遠国ゑんごくへ往復する。昔の倭寇の意気は彼等につて継承されて居ると云つて好からう。
 内地に居る日本人は海外の醜業婦と云へば一概に憂目を見、又堕落して居る者の様に考へるがれはまつたく反対の観察である。彼等の生活の贅沢ぜいたくな事は到底内地の芸娼妓げいしやうぎの想像も及ばない所だ。彼等の装飾品を供給する為に日本の雑貨店の多数がれ位海外で富を造つて居るか。彼等の三度の食事がれ位美味に飽いて居るか。又彼等の愛国、愛郷、孝悌の情操がだけ根強くて年年ねんねん祖国を富ませて居る事が如何いかに大きいか。上海シヤンハイ香港ホンコン新嘉坡シンガポオルいづれの日本居留民中にあつても公共的の事業に物質上の基礎となつて居る者は常に彼等では無いか。識者にしてこれ等の実情に通じたならば、貧乏な日本の現状で実生活と懸け離れた骨董道徳を楯にけちけちする事の非を悟り、内地において売れ口の無い女をどしどし輸出むきとして海外にだす事の国益である事を主張するであらう。
 日本娼婦の稼ぎ高はまつた抱主かゝへぬしと折半で、衣類を除いた外食物其他そのた一切の雑費は抱主かゝへぬしの負担であり、この外内地とちがつて纒頭てんとうの所得が多いと云ふ事だ。一人について一箇月の所得をすくなくも五十円と見積り、その半額を衣服に費すとしても二十五円の貯金をする事は容易である。横浜や神戸、大阪あたりから渡来した女は情夫の為に浮ぶ瀬の無い境遇にちる者が多いが、長崎県の女は意志が堅くて、情夫はあつても物質上の損害を被る事がすくなく、四五年もれば大抵二三千円の貯金を郷里に送るさうである。(十一月廿八日)


彼南ペナン



 臙脂ゑんじの中にこい橄欖オリイブを鮮かに交へた珍しい曙光しよくわうを浴びた我船わがふね徐徐じよじよとマラツカ海峡の西の出口ペナン島の港にはひつた。名物男のガイドでシイ・※[#濁点付き井、33-5]イ・ホテルの客引を兼ねた馬来マレイ人メラメデインが鈴木鼓村こそんに酷似した風采ふうさいをして見物を勧めに来る。「この男忠実にして信用すべき案内者なり」と云ふ様な証明や「ただし見掛によらぬ辣腕らつわんありと見え彼が妻は西洋人なり」とひやかしたものや、山内愚仙やまのうちぐせんいて与へた彼の顔の写生スケツチや、文部省の留学生某の彼を推讃したまづい歌やで一ぱいに成つた厚い手帳を出して見せ、莞爾にこ/\として得意さうである。
 彼に託して馬車数台を傭ひ市外一里の官山ガバアメント・ヒルにある極楽寺ごくらくじに遊んだ。途中は一面の大椰子林やしりんで、その奥へ折折をりをり消えてく電車や、床下の高い椰子やしの葉を葺いた素樸そぼく田舎ゐなかやしろがぽつんと林の中に立つて居るのなどが気に入つた。何処どこへ行つても道路は好いが、鉄の響くのと石灰質の白い土から反射する日光の強いのに閉口する。極楽寺ごくがくじ光緒くわうしよ十二年に建てた支那の寺院で、山層を利用して幾段にも堂舎をき上げ、巨額の建築費を要したものだけに規模は大きいが、中に安置した釈迦、観音くわんおん、四天は布袋ほていの巨像と共に美術的の価値は乏しい。だ一体に清潔なのと観望に富んで居るのとが遊客いうかくを喜ばせる。永代えいたい供養を捧げる富家ふかの信者が在住支那人中に多いと見えていづれの堂にも朱蝋燭らふそくあかりと香煙とを絶たない。茶の接待、水浴室の設備なども鄭重である。茶亭さていには花卉の鉢をならべ乃木東郷両大将の記念自署などが扁額としてかゝつて居た。ある堂で見た緬甸ビルマ風の弥陀三尊の半裸像は一見して横山大観の「灯籠流し」の女の粉本モデルと成つたものらしかつた。最高楼から先刻通つて来た大椰子林やしりんを越えて市街、港内、対岸の島を眼下に収め、左右両翼をひらいた山の樹間このまに洋人のホテルや住宅の隠見いんけんするのを眺めながら、卓を囲んで涼をれた。
 案内者ガイドのメラデイインおやぢが望むまゝに滿谷等は彼を写生し、三浦工学士と僕とは彼の手帳へ証明を与へてやつた。しきりにかつを覚えたが危険を恐れて一切飲料を取らず、寺僧が施本せほんとしてれた羅状元らじやうげんの「醒世歌せいせいか」を手にして山を下つた。四人の画家連は写生の為に林中にとゞまり、小林近江等は瀑布と植物園とへ廻り、僕と三浦等は市内を一週して先に帰船した。馬車料は一台三円案内者へは一人二十銭づゝを与へた。この港では釣が出来ると云ふので甲板デツキの上から牛肉を餌にして糸を垂れる連中れんぢゆうがある。三浦は黒鯛に似た形の、暗紫色あんししよくに黄味を帯びた二尺ばかりの無名ぎよや「小判かぶり」を釣つて大得意である。
 翌てう早く起きてふなばたつて居ると、数艘の小船サンパンに分乗して昨夜ゆうべ出掛けた下級船員の大部分が日本娼婦に見送られなが続続ぞくぞく帰つて来る。須臾しゆゆにして異様な莫斯綸もすりん友染と天草言葉とがわが船に満ちた。正午に碇を抜く迄彼等はわかれをしむのである。(十二月一日)


コロムボ



 ペナンから印度インド人の甲板旅客デツキ・パツセンヂヤアが殖えた。稼ぎめて帰る労働者だが、細君や娘は耳、鼻、首、腕、手足の指まで黄金きんづくめ宝石づくめの装飾で燦燦きらきらして居る。大した金目かねめだ。彼等回回教徒マホメダンの習慣として人種の煮炊にたきした物は食はない、炭薪すみまき携帯でだ水の給与を船から受けるだけさうして自炊した食物を大皿に盛つて右の手でつかんで食ふ。一切箸を用ひない。食指しよくしおほいに動くと云ふことばは彼等に適切である。食ひ終つた指は洗ふ代りに綺麗にめて仕舞しまふ。贅沢ぜいたく連中れんぢゆうは食後に青い椰子やしの実をなたいて核の中の水を吸ふ。レモンの様な味で一個ひとつの実に三四合はひつて居る。彼等は左の手を不潔な場合の手と定め、食事用の右の手を尊重して居る。
 僕はペナンを出帆してから郵船会社の厚意で一等室へ移して貰つたが、幸ひ相客あいきやくが無いので広い涼しい部屋を一人ひとりで占領する事となつた。一等船客せんかくには千頭ちかみ、宮坂などと云ふ海軍大尉が乗つて居る。気の置けさうにない連中れんぢゆうだが、まだ馴染なじみが浅いので食堂で顔を合すばかり、僕は相かはらず二等室へ出掛けて日をくらして居る。スマトラを左舷のはるか彼方あなたに望んで印度インド洋に掛つたが、予期して居た程の暑さも無く、浪らしい浪にも遇はない。夜などは室内に毛布を掛けて寝て少し涼し過ぎる位である。雨季で夕立の多い加減もあらうが、此様こんな好都合づくめの航海は珍らしいと船員が驚いて居る。
 新嘉坡シンガポオルから乗つた印度インドの労働者が名のわからない急病にかかつた。言語が通じないので船医が見計らひで薬を飲ませたが、黒い顔に白い目を据ゑ白い歯を出して黙つて苦痛を忍んだまゝ死んで仕舞しまつた。同国人に遺言に頼む気色けしきも無かつた。制規の時間を置いて翌てう暗い内に水葬に附した。臨終に計つた※[#「執/れんが」、U+24360、39-5]が三十九度あつたと云ふので肺ペストでは無かつたかとにはかに気に仕出す連中れんぢゆうがある外、死者に対して格別同情する者も無かつた。
 コロムボに入港する晩僕は船長の許しを得て船橋ブリツヂに立つて居た。十マイルさきから見えたコロムボ市街の灯火は美しかつた。月が照りながら涼しい雨が降つて居た。世界一と云はれる大きな防波堤が左右に伸びて、灯台の回光機くわいくわうきは五秒ごとに明るくなる。港外で一寸ちよつと停船すると蒸汽で遣つて来た英人の水先案内があがつて来て、軽い挨拶を交換するや否や船長に代つて号令し初めた。航海日誌を書く船員が端からその号令を書きめる。偉大な体格の、腹の突き出た諾威ノルヱエ人の船長は両手を組んだまゝ前方を見て動かない。麦藁帽をかぶつた優形やさがたの水先案内は軽快に船橋ブリツヂを左右へ断えず歩んで下瞰かかんながひびきのよい声で号令する。船は狭い港口かうこう徐徐じよじよはひつて港内に碇泊して居る多くの汽船の間を縫つて行く。この二三十分間に僕は初めて高級船員の威厳と興味とを感じた。
 その晩の八時から二等室で日本人の酢屋すやと英人のカアタアと両人の為に僕等の仲間で心ばかりの送別会を開いた。酢屋すやは横浜の貿易商で孟買ボンベイとカルカツタとに十年ぜんから店を持つて居る。孟買ボンベイと聞くと僕等の門外漢には大分だいぶんに日本商人の勢力が及んでさうに想はれるが、三井物産と郵船会社との支店を除いて個人の経営する商店と云へば酢屋すやだけさうである。それ酢屋すやは憤慨して居る。一己いつこの利益から云へば競争者の無い方がい様な物の、印度インドの本土一般にわたつて日本シルクの販路は無限である。日本商人の為に同業の競争者の多数におこる事を望むと言つて居る。その方面の事情をくはしく聞きたい人は横浜市元浜町もとはまちやう三丁目の酢屋定七すやさだしち君の本店に問合されるが好い。氏は三箇月ごとに日本へ往復して居る。「スヤ」と云ふ姓は印度インド人の最も嫌ふ「豚」の印度インド語と似て居るので、印度インドの店は別所と云ふ従弟いとこの姓を用ひて居るさうである。
 カアタアは一二等客の西洋人を通じて最も教育ある最も品格の高い老人である。本国ではエスペラント語の会の副会頭をして居るさうだ。日本贔屓びいきの男で、十七年まへに一度日本へ来たが、今度も六十歳を越えた老人の身を気遣つて娘が見合せよと云つたにかゝはらず出掛けたと云つて居る。林檎りんごの様に赤い顔をして大きな煙管パイプくはへて離さず、よく食ひ、よく語り、よく運動する元気のいい爺さんである。近年細君に死なれてからは各国で職に就いて居る子供のところへ遊んで廻るのをたのしみとして居る。此処ここから船を乗替へて南阿のトランスバアルに居る末子ばつしもとふのださうだ。して到るところでエスペラントの普及を計るのだと言つてその方の印刷物を沢山たくさん荷物として携へて居る。世界を家とし老いてます/\さかんなカアタア君は僕等の理想的老人だと告げたら、彼はエエス、エエスと云つて喜んで居た。彼は日本酒に酔ひながら卓上演説をなし、又明快な声で長篇の詩を朗詠した。
 一等室に怪しい外国婦人が二三人乗つて居る。一人の英国婦人は全体が余りに大作おほづくりで妖怪的フワントマテイツクな感を禁じ難いが、顔だけ見れば一寸ちよつと美人である。この[#「執/れんが」、U+24360、43-1]田丸がこの前日本へ帰る時にペナンで同行の情夫を棄ててひそかに上陸し去つた女ださうであるが、今度は一人で香港から乗りペナン迄の間に早くも某外人を捕獲して仕舞しまつたとの評判である。はげしいヒステリイ症の女で前の航海には船医が大分だいぶ悩まされたと話して居る。その女が今夜突然また此処ここから上海シヤンハイへ引返すと言出いひだした。事務長が理由を問ふと、先に棄てた情夫がにはかに恋しくなつて矢も楯もまらないのだと言ふ。
 コロムボの防波堤の大規模にも驚くが、其れにかつて一千万円を投じた英人の遠大な経営に更に驚く。防波堤が無かつたら直ちに印度インド洋の荒海あらうみに面したコロムボは決して今日こんにちの如く多数の大船たいせんを引寄せる良港とは成らなかつたであらう。其れにいづれの英領へ行つても感じる事であるが、陸上の道路の立派な事も驚かれる。英人がづ運輸通商の便を計つて新領土の民心を収めようとする遣口やりくち兎角とかく武断の荒事あらごとに偏する日本の新領土経営と比べて大変な相違である。
 錫崙セイロンの土も新嘉坡シンガポオルと同じく赤く、雨水あまみづたまれば朱の色となるのは美しい。驟雨しうういて力車りきしやに乗り市内を見物して廻つたが、椰子やしは勿論、大きな榕樹ようじゆ、菩提樹、パパイヤじゆ爪哇竹ヂヤワちくなどの多いのが眼に附く。柏に似た葉のボオビイス・アウスが到るところに明るい緑の若葉を着けて居るのも快い。赤い粗末な瓦屋根も天然と調和して見える。其れに支那人の勢力がペナンかぎり此処ここまで及んで居ない所から不潔と悪臭とに満ちた支那人まちまつたく見ないのが好い。流石さすが黒奴くろんぼの本国だけ黒奴くろんぼが威張つて居る。又黒奴くろんぼにサアやナイトの爵位、立法議会の選挙権などを与へてある程度まで威張らせて置く英人の度量が大きいと言はねば成らない。
 しかし英国政府も印度インド人の教育を高め過ぎた事を近頃少し後悔して、徒弟学校、工業学校の様な方面の教育に人心を向けようとして居るが既に時機が遅いらしい。元来瞑想的な事にけた印度インド人だから哲学や法律の理解が好く、自由思想は日本の学生よりも概して徹底して居るので段段だんだん英政府の施設が面倒に成つて来たさうだ。革命的の思想もこの地は然程さほどで無いが印度インド本土にはなりさかんだと云ふ事で、新聞は支那の革命戦争の記事を小さくわづか二三行で済ませて居る。昨今さくこんは英帝が印度インド皇帝としての戴冠式を挙げる為に孟買ボンベイに行幸してられるが、革命党が何か仕出かしはしまいかと半年前としまへから非常な警戒ださうである。しかし頭ばかりで手のうとい国民である上に英政府が多年の巧妙な経営に馴致じゆんちされて居るのだから、支那の革命党の様な実行の危険は永久におこるまいと想はれる。
 印度インド人と一口に云つてもヒンヅ、タメル、マホメダン、波斯ペルシヤ人、錫崙セイロン土人其他そのた種種いろいろわかれて居る。彼等の間で富んだ者と云へばすぐに一億円以上の財産をつた者を意味する程富豪が多い。三浦工学士の友人の弟の臼井清三せいざうと云ふ青年が、柔術の教師として招聘されて居るサラムと云ふ一家などはコロムボで第二流の富豪だと云ふが、椰子やし林の収入だけでも毎月一万円を越えるさうだ。三浦と僕は臼井が船へれて来たサラムの一人息子と語つたが、家が古い基督キリスト教徒で英国の教育を施して居るだけに流暢な英語で元気よく政治や文学を話すのは十七歳ばかりの少年の思想及び態度とは思はれなかつた。一般に南国人は早熟なのであらう。
 サラムの息子は一箇月も僕等に滞留する暇があるなら田舎ゐなかへ象狩とわに狩とに同行したいと云つて居た。本年の象狩には一百頭の象を柵内に追込む事が出来た程の大猟であつたさうだ。象一頭の価格は六千円して居るからたいした獲物である。
 一二等客の日本人は船の永島事務長を加へてクツクの案内で仏牙寺ぶつがじのあると云ふキヤンデイへ汽車旅行をした。四人の画家と三浦と僕とは加はらなかつた。キヤンデイは昔の錫崙セイロン王の都で、峨峨ががたる石山いしやまに取囲まれた要害の地だけに最後迄英軍に反抗した古戦場だ。英軍が気長に洞道トンネルを切り開いたのでやうやく陥落したのである。昔罪人ざいにん石山いしやまの絶頂から生きながら棄てた断崖も名所としてのこつて居るさうだ。釈迦の歯の真物ほんものは異教徒に焼かれて今のは象牙で偽作した物だと聞いた。先年暹羅シヤムから日本へ贈つて来た仏牙も大方此類このるいであらう。
 コロムボで名高い釈迦仏陀寺ぶだじふたが、近年スマンガラ僧正の歿後は僧堂の清規せいきふるはないらしく、大勢の黄袈裟きげさを着けた修行僧は集まつて居るが、寺内じないの不潔に呆れる外は無かつた。聞けば僧正の歿後悪僧によつてわづ[#ルビの「わづ」は底本では 「わづか」]か二百金で一俗人の手に売渡されたのだと云ふ。釈迦堂其他そのたを開してれたが美術的の価値の無い俗悪ぞくあくを極めた物ばかりであつた。僧正の遺品だと云はれる経巻が鼠糞そふんせられて居た。僕の長兄も律宗の僧であると告げたら寺僧は無造作にその経巻の貝多羅葉ばいたらえふ数枚を引きちぎつてれた。庭内ていないの老菩提樹には神聖のとして香花かうげを捧げ、又日本の奉納手拭の如き小切こぎれを枝に結び附けて冥福を祈る信者が断えない。参籠おこもり堂とも言ふべき所には緬甸ビルマから来て印度インドの仏跡を巡拝する中流以上の老若男女の大連だいれんが逗留して居て、中に日本の処女かと想はれる美人が多く混つて居た。大樹の蔭に淡黄色たんくわうしよくの僧堂と鬱金うこん袈裟けさを巻きつけた跣足はだしの僧、この緑と黄との諧調は同行の画家のカンバスに収められた。(十二月八日)


地中海



 コロムボを立つてから数日の間海水はなほ九十度のおんを持つて居た。十日とをか目にアラビヤと亜弗利加アフリカやゝ近く見え初める様に成つて夜間は毛布を重ねて寝る必要があつた。午前四時頃シナイざんらしい山を右舷に望んだその日の夕暮に蘇西スエズの運河へ這入はひつた。見渡す限りセピヤ色の砂丘しやきうが連続し、蘇西スエズの市街や運河の其処此処そこここにある信号所の附近を除いてはまつたく一草一木もえて居ない。埃及エヂプトの空に落ちる日の色は紫褐色しかつしよくみなぎらして居た。隅田川の半分も無い運河の幅は、しば/\八千トンの※[#「執/れんが」、U+24360、49-12]田丸を擱砂かくしやさせ、その度に御納戸色おなんどいろの水が濁つた。河底かはぞこ饂飩粉うどんこの様に柔かいし船の速力も三分の一に減ぜられて居るので擱砂かくしやしても故障は無い。き合ふ船がある場合に信号しよの命ずるまゝいづれかが一方の岸へ繋留させられその度に四五十分を費す。運のい時にはの船ばかりを避けさせてずんずん通過する事が出来るさうである。き合ふ時双方の船客せんきやくが帽やハンカチイフを振りたがひに健康を祝つて叫びかはす。又信号所の附近にある人家の楼上から女子供が「ボン、ヴオアイヤアヂユ」などと仏蘭西フランス語で呼びかける。夜が更けるに従つて秋めいた星月夜づきよとなつたが、河筋を伝つて北から吹く風が今日けふにはかに取出した冬服をとほして寒い。寥廓れうくわくたる万古ばんこ沙漠しやばくを左右にして寝て居るのかと思ふと、この沙漠しやばくの中から予言者がおこつたり、き暮れた旅客りよかくに謎を投げると云ふスフインクスの伝説が生じたりするのも自然らしい事の様に感ぜられた。
 翌てうはポオト・サイドに着き、出帆までにわづかに余された二時間を利用して港にあがつた。コロムボ以来十三日目に土を踏むのである。蘇西スエズ河口かこうの上に建てられたこの市街は狭いながらも欧洲の入口だけ余程よほど東洋の諸港とちがつた感がした。どの酒舗バアにも茶店カフエエにも早天から客が詰め掛けて居る。髪を長くした伊太利イタリイ人の楽師がマンドリンとギタルを合奏するのを聴きながら、店頭みせさきの卓につて麦わらでレモン・カアツシユを呑気のんきに吸ふ客があるかと思ふと、酒舗バアの奥の一隅では目を赤くして麦酒ビイルを傾けながら前夜から博奕ばくちを引続き闘はして居る一団がある。官衙くわんがの掲示も商店の看板も英仏埃及エジプトの三語で書かれて居る。清国の革命騒ぎも此処ここでは最早もはや問題に成らない代りに伊土の戦争が適切な問題に成つて居る。土耳其トルコ人に聞けば伊太利イタリイが結局はまけると云ひ、伊太利イタリイ人に聞けば其れと反対な事を云つて居る。カイロまでいとまの無い旅客りよかくの為に埃及エヂプト土産を売る商店が幾軒もある。僕等は埃及エヂプト模様の粗樸そぼくおもむきのあるきれを数枚買つた。絵葉書屋へはひると奥まつた薄暗い一室ひとまへ客を連れ込んで極端な怪しい写真を売附けようとするので驚いて逃げ出した。此処ここのアラビヤ族の黒奴くろんぼ馬来マレイ印度インドのに比して一層毒毒どくどくしい紫黒色しこくしよくをして居て、肉も血も骨までも茄子なすびの色を持つて居さうに想はれる。わが船が着くや否や集まつて来た石炭ぶねから幾百の黒奴くろんぼが歯まで黒く成つてあらはれ、曇つた空のもとに列を作つて入交いりかはり石炭を積み初めた時は鬼の世界へ来たかと恐ろしく感ぜられた。地中海から吹く北風に石炭のほこりが煙の様に渦を巻いて少時しばらくあひだに美しい白ぬりの※[#「執/れんが」、U+24360、54-1]田丸も真黒まつくろに成つて居た。出帆時間が来た。地中海に面した港の口に運河の設計者レセツプスが地図を手にしてつゝ立つて居る銅像を左舷に見ながらいよ/\欧洲に一歩踏み旅客りよかくとなつた。(十二月廿三日)


マルセエユ



 地中海にはひつて初めて逆風に遇い、浪の為に一時間五マイルの速力を損失する日が二日ふつか程つづいた。ともの方の友人は大抵僕の室へ来て船暈せんうんを逃れて居た。伊太利イタリイのメシナ海峡を夜半よなかに通過する事に成つたのでエトナざんもブルカノたうも遠望が出来なかつたが、夜明よあけにストロンボリイ島の噴火だけを近く眺めた。糢糊もこたる暁色げうしよくの中に藍鼠あゐねずみ色をした円錐けいの小さい島の姿が美しかつた。山麓に点点てんてんたる白い物は雪であらうと云つて居たが、望遠鏡で望むと人家じんかであつた。噴煙は噴き出る端から雲と成つて薄いオレンヂ色に染まつて居た。
 船が一日遅れたのでマルセエユの聖誕祭クリスマスを観ることの出来ないのを洋人の乗客じようかくは残念がつた。船中のクリスマスは相応に立派な飾りつけが出来たが、二等室は動揺がひどいので日本人の大部分は食卓に就かなかつた。一等室の食卓では西洋人も予等もたがひ三鞭シヤンペンさかづきを挙げていはひ合つた。この日の午後一時にサルヂニアとコルシカの海峡を通つた。コルシカ島の禿げた石山いしやま汐煙しほけむりの中に白く隠見いんけんして居たのはいい感じであつた。米国の一宣教師は十二歳の息子に奈破侖ナポレオンの話を聞かせて居た。翌日の朝マルセエユに着いた。砲台のある湾口わんこうの島に並んで有名なシヤトウ・ド・デイツフの牢獄の島が白く曇つて居た。市街のむかつて右の石山いしやまの上にはノオトル・ダムの尖塔と黄金の女神ぢよしん像とがそびえて居る。大洋にむかつて石垣の一横線わうせんを築いた新港しんみなとの規模の偉大な事はコロムボの築港などの及ぶ所で無いと想はれる。港内の左右には幾十の荷揚つらなり、ことに陸に沿うた左の方には天井を硝子ガラス張にした堅牢な倉庫が無数に並んで居る。閘門かふもんが数箇所に設けられてその上に架した鉄橋は汽船の通過する度に縦に開く仕掛に成つて居る。しかこの新港しんみなとう新しくは無い。※[#「執/れんが」、U+24360、56-6]田丸以上の大きな船を自由に繋ぐ事の困難なのを想ふと旧式に属するらしい。船の進行にれて可愛かあいい十三四の二人の娘が緋の色のを円く揚げながら、母親らしい女の弾くマンドリンに合せてマルセイユウズの曲を舞つて甲板デツキの上の旅客りよかくに銭を乞うて居る。其れを観て初めて仏蘭西フランスへ来た気がした。
 お寺や博物館を見物する為にマルセイユに二日ふつか滞在する事にして、夜は永島事務長と牧野会計とをジユネエブ・ホテルに招待せうだいし、一二等船客の日本人相寄つて心ばかりの別宴を催した。一人三分間の卓上演説に何も話す事の無い僕は三度お辞儀をした。此処ここからなほ英国まで続航ぞくかうする日本人は五人である。三井の小林君はビスケエ湾が荒れると聞いて僕等と一緒に汽車でく事に改めた。
 その晩は葡萄酒に酔つて船へ帰つて寝た。翌てう春雨はるさめの様な小雨こさめが降つて居る。此様こんなに温かいのは異例だとこの地に七八年案内者ガイドをして居る杉山と云ふ日本人が話して居た。マルセイユは港としてさかんではあるが、市街は甚だしくきたない。道路の悪い上に大通おほどほりから少し横町へはひれば糞便が溝を成して居る。博物館は休日であつたけれど、守衛に特に乞うたらぐにれてれた。シヤ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンヌのマルセイユをいた二枚の壁画、古い所でペルヂノやリユウバンスの作品が目を惹いた。巴里パリイのペエル・ラシエエズの墓地にあるバルトロメの「死」の塑像の模作うつしもあつた。植物園の黄昏たそがれに松やすゝきを眺めてバンクにいこうた時は日本の晩秋のうら寒い淋しさを誰も感ぜずに居られなかつた。
 今日けふの午前に近江は一人でミユンヘンへ立つた。僕等の巴里パリイへ行く五人に倫敦ロンドンへ行く小林を加へて午後八時にマルセエユを立つ時、今夜遅く伯林ベルリンに赴く三浦財部たからべの二学士を始め久しく船中の生活を共にした永島事務長や牧野会計が停車場ステイシヨンへ見送りに来てれた。日本語ばかりを使つて居た世界から愈々いよ/\別れるのであると思ふと横浜を離れる時よりも淋しかつた。発車の間際まぎはに牧野の音頭で「しやん、しやん、しやん」と三度手打てうちをしてプラツト・フォオムの群衆を驚かせた。車中には正月の用にと云つて※[#「執/れんが」、U+24360、58-2]田丸から大きな「数の子」の樽を積んでれた。(十二月二十八日)


巴里パリイの除夜



 巴里パリイへ着いてから四日よつか目の朝だ。オテル・スフロウの二階で近いスルボン大学の鐘を聞きながら病院に居る様な気持で白い寝台ねだいの上から窓を眺めた。陰鬱な冬曇りが続く。巴里パリイ全市は並木も家も薄墨うすずみ色の情調に満ちて居る。正午ひる前に石井柏亭はくていが来た。此間このあひだ停車場ステイシヨンへ小林萬吾まんごと一緒に迎へに来てれた時も既に感じた事であつたが、揉上もみあげをよい程にみじかく剃り上げて見違へる程色の白い美しい男に成つて居る。小脇に挟んだ英国の一雑誌には頼まれて寄稿した柏亭自身の論文や絵が巻頭に載つて居る。その論文は最近日本の芸術につい大分だいぶんに気焔を吐いたものであつた。相応のたしかな研究と一種の突つ込んだ直覚ちよくかくとから得た断案だんあんを率直に語るこの人の芸術批評は面白い。相変らず話のちゆう折折をりをりどもるのも有り余る感想が一時に出口に集まつて戸惑ひする様でかへつて頓挫の快感を与へる。
 リユウ・デ・ゼコルの通りへ出て大学前の伊太利亜イタリア料理で午餐ひるめしを済ませたのち、地下電車に乗つてユウゴオの旧宅をプラス・デ・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)スチル街にうた。旧宅は十八世紀の建築だと云ふ一廓の中に在つて、屋上に三しよく旗が飜つて居る。故文豪が一八三三年から一八四八年まで住んだ家だ。ユウゴオを記念する小博物館として大抵の遺作、遺品、故人の著作にはさんだ絵の下絵、著作の広告に用ひた絵、其他そのた故人に関係ある雑多の物が陳列されて居る。故人の大理石像の前に「シエキスピアの家より」としてユウゴオの今年の誕生日に英国から贈つて来た花環はなわが青れたまゝ捧げられて居た。文豪の旧宅がたがひに贈答をする習慣も奥ゆかしい。ユウゴオの手沢しゆたくの存する一卓の上に故人の用ひた鵞筆がひつと銅のインキ壺を始め、友人であつたラマルチン、アレキサンダア・ヂユウマ、ヂヨウヂ・サン三人の筆や墨壺が載せてあつた。
 ユウゴオのいた絵の多いのに驚いた。ロマンチツクな物ばかりではあるが、たしかな写実が根柢こんていと成つて居る。故人の狂※[#「執/れんが」、U+24360、60-11]と沈毅としやうとがそれ等にも窺はれた。東洋趣味オリエンタリズムの珍らしがられた時代に故人も支那の漆噐の色や模様などから暗示ヒントを得て自身の意匠で作らせた一室がある。サル・ジヤポネエ(日本室)と名づけられて居るが、実は少しの日本趣味も無く、まつたく支那趣味ばかりである。その室の鏡の枠の模様には一けいの蔓にまつたく故人の空想から出来た奇抜な雑多の花と葉と実とが生じて居た。壁には大きな向日葵ひまはりの花の中から黒牛くろうしが頭を出して居る絵もあつた。それ等のユウゴオの「夢のはな」ががうも不自然でばかりか、空想の天地に自適して如何いかにも楽しさうである偉人の心境が流露して居る様に思はれた。柏亭と僕とは番人の婆さんから絵葉書を買つてその家を出た。
 夜は柏亭、滿谷、徳永外二人とギニヨル座の芝居を観に行つた。除夜とは云へ巴里パリイ人にはこの月からう正月の芝居である。芝居のはねるのは元日の午前一時まへになるので、十二時を越すと観客くわんかくたがひに「おめでたう」を交換して居た。よい席は予約があつて僕等はうしろの方に分れて坐らざるを得なかつた。この座の出し物には凄い物が多いと聞いて居たが、材料を支那に取つた「紅雀べにすゞめふた幕と「鬼を見て来た男」ひと幕は不気味な物である代りに「妖惑えうわくする女」や「隅の部屋」の様な大甘おほあまな喜劇を取合せて気分の平衡を計つてあつた。すべてが新作である。中にも「紅雀」は青いおほひを着せた紅雀の籠が何事かの象徴サンボルであるらしく終始観客くわんかくの心を引附け、支那の貴人の家の静かな男女なんによの挙止応対がまつた沈鬱メランコリツクな気分を舞台にみなぎらせた。何時いつにか前の幕で紅雀の紛失ふんじつして居たのは隣人の盗んだのである事を主人みづかのちの幕で静かに問ひ詰め、突然その隣人の喉に蛇の如く弁髪を巻き附けて締めながら、隣人が「それは自分だ」と二声ふたこゑ自白する間に両方の※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみを悠然と一刀づつ刺す。主人の妻が「あツ、あツ」と夜天に鳴く五位鷺ごゐさぎの様な声をして驚き倒れる機会はづみに鳥籠が顛倒ひつくりかへると、籠の中から隣人りんにんと不義をしためかけなま首があらはれて幕に成つた。支那人の残忍な気持が我我われわれ日本人の解して居るよりも徹底して表現されて居るやうに想はれた。婦人の観客くわんかく上衣うはきを脱いで肉色にくいろの勝つた胴衣コルサアジユの美しいのを誇りかに見せるのは大阪風に似て居る。外へ出ると酒場バア珈琲店キヤツフエ徹宵てつせうして除夜を送る客で満ちて居た。(一月四日)


パンテオンのそばから


(一)


 此頃このごろ巴里パリイはよく深い霧が降る。倫敦ロンドンの霧は陰鬱だと聞くが、冬曇ふゆぐもりの続く巴里パリイではかへつてこの霧が変化を添へて好い。ゴシツクの塔が中断せられて意外な所でさきを見せたり、高い屋根の並ぶ大路おほぢが地下鉄道のほらの様に見えたりするのも霧のせいだ。たま/\太陽を仰ぐ日があつても終日霧の中でモネの絵にある様な力の弱い血紅色けつこうしよくをした小さい太陽を仰ぐばかり、東京の様なからりと晴れてえた冬空を僕はだ見ない。しかしながら風が少しも吹かず、一体に空気が湿つぽく落着いて居て、夕方からのち、街にあかりくと、霧をとほす温かい脂色やにいろの光がすべての物に陽気なしか奥深おくぶかい陰影を与へ、華奢きやしや男女だんぢよせはしない車馬も一切が潮染うしほぞめの様な濡色ぬれいろをしてその中に動く。何となく「海の底にあるにぎやかな都」と云つた風の感がする。
 グラン・ブル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)アルを初め、目ぼしい大通おほどほりを歩いて人道じんだうから人道じんだうへ越すときの危険あぶなさ。地方から東京へ初めて出た人が須田町の踏切でうろうろするのは巴里パリイに比べると余程よほど呑気のんきである。前後左右から引きも切らずに来る雑多な車の刹那せつなの隙を狙つて全身の血を注意に緊張させ、悠揚いうやうとしたはや足になかばこえて中間にある電灯の立つた石畳を一先ひとま足溜あしだまりとしてほつと一息つき、更に隙を縫うてむかひの人道じんだうへ駆けのぼり又ほつと一息つく気持はは云へ痛快だ。だが又セエヌ河へ出て見ると、一週間まへから洪水おほみづ通船つうせんとまつた騒ぎであるにかゝはらず、水にひたつた繋船河岸かし其処彼処そこかしこで黒い山高帽のむれが朝早くから長い竿を取つて釣をして居る。近づいて見ると女も幾人か混つて釣つて居る。石垣の上にはても無く本箱を載せた、僕が其処そこを通る度に何時いつも馬場孤蝶こてふ君と一緒にのぞき込まないのを遺憾に思ふ名物の古本屋の前にはうぞろぞろと人だかりがして居る。一所ひとところの本屋の主人あるじである、こえ太つた体へこてこてと着込んだ婆さんが僕をつかまへて「新しいロスタンの脚本なんかよりユウゴオ物をお読みなさい」などと勧めるのを観ると、身内のすぢこと/″\ゆるんですつと胸が開く様な暢達ちやうたつな気持を覚える。う云ふ緩急二面の生活を同時に味はつて居るのが巴里人パリイじんなのであらう。
 一週間ほど前の、僕がう寝巻に着へて居るとをこつこつ遣る人がある。誰かと思つたら大谷繞石おほたにぜうせき君だ。「倫敦ロンドン今朝けさ立つて来た。巴里パリイに二泊してマルセエユから船で日本へ帰るつもりだ」と云ふ。繞石ぜうせき君に逢はうとは思ひけなかつたので、を開けて這入はひつて来たのも、少時しばらく話したあとくねつた梯子段を寒い夜更よふけに降りてつたのも芝居の人物の出入りの様な気がしてならなかつた。呆気あつけない別れがその時は当然の事の様に想はれて格別何の感じも無かつたが、あとになつて考へると何だか淋しい。二人ふたりで何を話したかも覚えず、たゞ繞石ぜうせき君のしばらく散髪をしないらしい頭と莞爾にこ/\して居た顔とが目に残つて居るばかりである。
 昨夜は柏亭とゲエテまちのカジノ・ド・モンパルナスと云ふ寄席よせへ行つた。巴里パリイ東部の場末に近い所だからこの街の附近には労働者が沢山たくさん住んで居る。どの横町も灰色の夜陰やいんに閉ぢられて灯影ほかげすくなく、ゴルキイの「よる宿やど」の様な物凄さを感じないでもない。その中で活動写真、寄席よせ酒場バア喫茶店カフエエなどの軒を並べて居るゲエテまちだけが地獄の色の様な火明ひあかりに赤くけぶつて居た。従つて寄席よせの客の大半は労働者で帽や白襯衣シユミイズを着ない連中れんぢゆうが多く、大向おほむかうから舞台の歌に合せて口笛を吹いたり足踏あしぶみをしたりする仲間もあつた。演じた物には道化たをどり流行唄はやりうたや曲芸などが多かつた。若い女の犬使ひが三匹の黒犬を寝室に入れ、終始無言で犬と一緒に夜食の卓に就いたり、あかりを消して裸に成つて寝たりしたのは一寸ちよつと凄い気持を与へたが、盗人ぬすびとが忍んで来て犬に吠えられ短銃ピストルを乱発して防ぎながらつひかみ殺されて仕舞しまふのは、其れが見せ場であるだけ俗悪ぞくあくな結果であつた。寄席よせねて少時しばらくは街いつぱいになつて歩く汚れた服の労働者のむれに混つて帰つた。(一月十五日)

(二)


 今はその季節で無いにかゝはらず、いろんな絵の展覧会が各所に催されるのはうれしい。新しいそれ等の会を毎日一箇所づつ観て廻つても不足しない様である。此間このあひだ美術商として名高いドユラン・リユイル氏がその蔵幅ざうふくを毎火曜日の午後に公開するのをその私宅へ観に行つた。客室サロンを初め多くの室を食堂から寝室までその日に限り開放して陳列室に供し、各室にフロツクコオトを着た係員を置くと云ふき届いた設備がしてある。幾百と云ふ蔵幅ざうふくは大抵モネ、ピサロオ、セザンヌ、シスレエ、ドガア、ルノワアル等近代名家の作家の作品で満ちて居る。いづれもそれ等印象派の画家がまだ名を成さない時代に買ひ集めたものが多いらしく、リユイル氏が愛蔵して売品としない物許ばかりである。
 一昨日をとゝひ巴里パリイ好事家かうずかが大勢寄つて二月の中頃までルウヴル博物館のそばで公開する装飾美術展覧会をうたが、二百五十室もあるので到底一箇月掛かつても観つくせるもので無かつた。中にモロオ氏が一人で出品した十余室の絵画はすべて前に挙げた印象派名家の初期の作ばかりでリユイル氏の蔵幅と併せてこの派の発達した経過を研究するのに甚だ有益を感じた。シスレエが珍らしく屋内の人物をいた「鍛冶屋」や、マネが最初に物議を惹き起した「草の上の昼飯ひるめし」などもあつた。又幾室かにわたつて歌麿の版画が陳列せられて居るのを観て、んなに多数の歌麿が巴里パリイに愛蔵せられて居るかとづ驚かされた。おまけに日本に居ては僕達に観る機会の無い逸品が多かつた。聞けば去年は清長の展覧会があつて沢山たくさんな出品であつたさうだが、この秋あたりには広重の展覧会が催されるだらうと云ふ事だ。一体に巴里パリイ人の趣味が一方に雷同して傾く事なく思ひ思ひに自分の素性そせいの同感する所をえらんで自由に其れを研究したのしんで行く風のさかんなのが面白い。例へばこの装飾美術展覧会へ来て観てもうだ。伊太利イタリイ西班牙スペイン印度インド埃及エヂプト、支那、日本のどの室にも縦覧客が満ちて居る。自国を過重くわぢゆうして異邦を毛嫌ひしたり、新しい作品にばかはしつて前代を蔑視すると云ふ風が無い。歌麿の室で一一いちいち絵の線を虫眼鏡で観て廻る※[#「執/れんが」、U+24360、70-8]心家があるかと思へば、工人をれて来てルネツサンスぜん伊太利イタリイの古い寝台ねだいの寸法を取らせて自家用に模造させようとする紳士があるのを見受ける。劇でも同じ事、国立劇場で政府が保護して常に前代の傑作を演じさせて居るのは勿論、外の劇場でも旧い物と新作とを断えず交替に演じて居る。新作物が大入おほいりを占めるからと云つて余り続けて打つと、見識ある劇評家や識者から抗議が出て一般人に反省を促すと云ふ風だ。これでこそ深沈な研究とあまねき同情との上に立脚して動揺ゆるぎの無い確かな最新の芸術が沸き出るのだとうなづかれる。
 浮世絵の鑑賞ばかりで無く、いろんな方面に日本贔屓びいき好事家かうずかが多いらしい。ある未亡人びばうじんなどは日本の物事と云へばなにでも愛着して、同じ仲間の婦人と竹刀しなへを執つて撃剣をしたり経を読んだりなんかするさうだ。又日本の粗末な器物や米醤油しやういうの様な食料品を売る家も巴里パリイに幾軒かあるのを見うける。しかそれ等の好事家かうずか何処どこまで深く日本を領解して居るかと想像すると甚だ怪しい。此間このあひだガウチエと云ふ人が新しく書いた「ル・ジヤポン」と云ふ薄片うすつぺらな本を、アカデミイの一員ジヤン・エカアルの推称した序文にほだされて読んで見たが、「支那の始皇帝の侍医であつた徐福が童なんによ六百人をれてつて日本の文明を開いた」とう云ふ調子ですべてが書かれて居たのでがつかりした。
 滿谷と柚木ゆのきが当分ロウランスのアトリエへ通ふ事になつて昨日きのふその同学生との顔繋ぎの式があつた。新入生が一にん三十フランづゝ酒代さかだいを出して饗応するのである。「カフエエへ」と云ふ塾監の声を聞いて今迄絵を稽古して居た五十余人の同学生が「オオ、ラ、ラ」と一斉にわめき立ち、おの/\自分の椅子を片足に掛けてアトリエの前のリユウ・ド・ドラゴンのとほりひきずり出し、裸で立つて居た三人のモデル女が服を着るいとまも無く、外套をひき掛けたまゝで学生に胴上をせられ、通りの真中まんなかに据ゑた椅子の上におろされると、たちまち五十の椅子が其れを円形に囲んで歌ひ初めた。むかひ側がすぐき附けのカフエエに成つて居る。これが為に幾台かの自動車が少時しばらく交通をさへぎられる騒ぎであつた。一同がカフエエの二階へ繰込むと新入生に対する道化まじりの祝辞を述べる者、踊る者、歌ふ者、芝居の真似をする者、すべて無邪気な遊戯のかぎりつくしてさかづきを挙げたが、二時間には大風おほかぜの過ぎた如く静まり返つて再び皆アトリエの中に絵筆を執つて居た。(一月十六日)

(三)


 パンテオンのそばのオテル・スフロウにとまつてから一箇月近く経つた。この宿は最初和田英作えいさく君などの洋画界の先輩が泊つて居た縁故えんこ巴里パリイへ来る日本人は今でも大抵一先ひとま此処ここへ落ち着く。それ頃のスフロウは随分きたない宿だつたと聞くが、今は電灯やスチイムの設備も出来て居る。しかし持主が二度も変つたので宿の者に以前諸君の遺した記念になる話を知つて居る者も無い。一緒にとまり込んだ滿谷君等の四人はもう既に画室や下宿を見附けてひき越して仕舞しまつた。僕も梅原君の世話でモンマルトルの方に下宿は見附かつて居るが、会話の稽古にくミツセル夫人の下宿が近いのと、喫茶店キヤツフエに気に入つた家があるのとでまだ越さずに居る。
 ミツセル夫人と云へば其れがオテル・スフロオの初代の主人の細君だ。割合に教育のある、品のい、親切な婆さんで、二十年間に世話をした日本人の写真を出して見せては自分の育てた子供の話をする様に得意さうである。和田英作君の留学時代の若若わかわかしい写真と近頃のとを比べて「んなに変つたか」と問ふ。肥満ふとつた赤顔あかづらの主人は御人好おひとよしで、にこにこしながら僕がく度に外套を脱がせたり着せたりする。「うちの細君は英語も出来るし、日本人に教へつけても居るから語学には便利だ」とか「兵隊に成つて居る長男を見てれ」とか云つて自慢する。才ばしつた人づきあひのい細君は「しかし日本から詩人として巴里パリイへ来たのはお前さんが初めてだ」などとお世辞を言ふ。日本人がいろんな物をのこしてつたり、わざわざ日本から送つてれたりするので日本品の小さな陳列場コレクシヨンが出来ると云つて夫婦は喜んで居る。
 僕が毎日の様にくのはリユクサンブル公園と、其処そこの美術館とだ。一えふをも着けない冬がれの、黒ずんだ幹の行儀よく並んだ橡樹マロニエの蔭を朝踏む気持は身がしまる様だ。帽も上衣うはきジユツプも黒つぽい所へ、何処どこか緋や純白や草色くさいろ一寸ちよつと取合せて強い調色てうしよくを見せた冬服の巴里パリイ婦人が樹蔭こかげふのも面白い。子供が池に帆のある船を浮かべたり、独楽こまや輪を廻して遊んだりするのはナシヨナル読本とくほんの中の景色だ。子供の服装は近頃ル・マタン紙の婦人欄の記者が批難した通り「何等なんららの熟慮を経ない、華美はでに過ぎた複雑な装飾」に流れて、見た目に一応美しくはあるが、其れが衛生的でも教育的でも無いのは、日本の中流以上の娘の子の晴着とやゝおもむきが似て居る。子供が軽快に遊戯するめの服装で無く、母親が子供を自分の玩具おもちやにしたり他人に見せ附けたりする為にこてこてと着飾らせるのである。娘の子のジユツプも円く踊子の様にひらいたので無くて、大人をとなの女の服装と同じく日本の衣物きものの様に細く狭く直立したのが流行はやつて居る。日本の七八歳なゝやつ迄の娘がかぶる円く張金はりがねはひつて上にはすにリボンの掛つた帽は、巴里パリイへ来て見るとかへつて大学生の正帽であつて、子供には見掛けない。なほ何かの儀式の外そんな正帽なんか平生ふだんかぶる大学生は居ない様である。(一月二十一日)

(四)


 土曜の午後から日曜へかけてはことにどの公園にも人出が多い。飛行機の本国だけに自製の飛行機の模型を試験的に飛ばせに来る研究家もすくなくない。二三人は必ず男女なんによの画家が写生に来て居る。ベンチに凭掛よりかゝつて昼日中ひなか居眠をして居る立派な服装の細君もある。れて来た五六匹の犬が裾の所で戯れて居るなどは呑気のんきだ。犬を婦人が可愛かあいがることは子供を可愛かあいがる以上とも云ひたい位だ。犬には寒さを防ぐ為に大抵物が着せてある。腰から以下を二がりにし上半身の毛を長く伸ばして獅子の形にした犬などは憎さげだ。夫婦づれで乳母車を押して来るのもある。乳母車は大抵長い外套を着て頭から裾迄大幅のリボンを二筋垂れた一定の服装の褓母ほぼが押して居る。車の中の赤ん坊は水色か何かの毛布にうづまつてまつたく人形の様だ。この寒空さむぞらに外へ出してよく病気に成らない物だと思ふが、東京の様に乾風からかぜが吹かないせいもあらう。又巴里パリイの様に日当りの悪い構造の建築では室内に子供を置く事がかへつて病気を惹起ひきおこし易からう。しかし一体に巴里パリイ人は十五歳以下の子供を屋外に出さない。夜間は勿論昼間でも巴里パリイの市中に子供を見る事は至つてすくない。見掛るのは小学校の往復の時間位なものである。其れで土曜から日曜の両親ふたおやや監督者の暇な日に一時に公園へれて出る。と云つて幾つかの大公園に遊んで居る子供は巴里パリイ市内の子供の総数から云へば千分の一にも当るまい。ル・マタンの記者が口を極めて子供を公園へ出し屋外の空気に触れさせよと勧告して居るのは道理もつともである。巴里パリイの母親はあまりに自分の遊楽にふけつて子供の自由を顧みないと記者は言つて居る。
 パンテオンは羅馬ロオマの其れに擬して仏蘭西フランスの偉人を国葬する寺だ。ロダンの作で有名な「思想家」が入口の正面の空地あきちに円い屋根、円い柱の大伽藍を背負ふ様に少しかゞんで、膝の上の片肱に思慮と意志との堅実さうな顔を載せて居る。堂内の数数かずかずの壁画の中で何時いつ見ても飽かないのはシヤ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンヌの作だ。僧が斧で斬られた自分の首をつかんで居るボンナアの壁画は思ひ切つて寒い色が目を引く不気味な物である。案内者に導かれて地下の墓洞カバウりてくと、がんごとに学者政治家達の石棺が花に飾られてをさまつて居る。案内者が名と小伝せうでんとを高らかに云つてれる中で、僕の耳にはルツソオ、ヴオルテエル、ユウゴオなどの文学者の名が強く響く。三四年前反対派の大騒ぎがあつて改葬されたゾラのくわんはユウゴオと同じがんの中にむかひ合せに据ゑられて居る。
 僕は夕飯ゆふめし後によく有名な「リラの庭」と云ふラタン区のキヤツフエエへく。僕より一月ひとつき早く来て巴里パリイ珈琲店キヤツフエエつうに成つて仕舞しまつた九里くり四郎が初めれて行つてれたのだ。其処そこは以前から詩人や画家がよくあつまる所で、いはゆる「自由な女」などはほとんど来ない。ひんい変り者ばかりが集つてさかづきを前に据ゑながら原稿を書いたり、坐談をしたりすご六や骨牌かるたを静かにもてあそんだりする。大学生も田舎ゐなか臭くない気の利いた連中れんぢゆうが同窓のをんな大学生とれ立つて遣つて来る。若い詩人仲間の保護者パトロンもつて任じ、たまには詩の一つも作ると云つた風の貴婦人もその若い仲間に取巻かれなが長閑のどかに話して居る。(一月二十三日)

(五)


 石井柏亭が一月二十三日に西班牙スペインから北部伊太利イタリイへの旅行に出掛けた。その二三日まへ七八人寄つて送別の積りで夕飯ゆふめしを一緒にした帰りに、徳永、九里、川島、僕の四人でチユイルリイ公園に沿うた氷宮パレエ・ド・グラスへ氷滑りを観に行つた。設備は巴里パリイに幾つもある舞踏場パルと似て居るが、人造の氷で踊場をどりばを池の様に張詰めてその上で入場者が自由に踊り狂ふ所がちがふ。これ巴里パリイに一箇所しか無いから昼夜ちうやともにぎはつて居る。場内には教師が幾人も居て滑り慣れない者に手を執つて教へる。僕等が行つた時はふとつた一人の貴婦人と浅黒い顔の猶太人ヂユウとが危なつかしい腰附で徐徐そろ/\と人込の中を教師の手にすがつて歩いて居た。しかし見渡した所大抵熟練した連中れんぢゆうばかりでう見苦しい素人しろうとは居ないやうだ。舞踏場パルで踊る事が既に贅沢ぜいたくな遊びであるのに、危険の伴ふ氷の上で自在に踊るのは二重の愉快であらう。その上に婦人は流行の新装を見せびらかすたのしみもある。十分間の休憩を置いて管絃楽オルケストラが始まる度に下手へた連中れんぢゆうひき込んで、四方の観棚ロオジユの卓を離れて出る一双づゝの人間がいり乱れながら素晴しい速度で目もあやに踊つて廻るのは、美しい※(「頭のへん+支」、第3水準1-92-22)みづすましの大群を虫眼鏡で眺めて居るかと思ふ程の奇観だ。踊る事の出来ない国から来た僕等はのろい動物が人間を観る様に二階から黙つて珈琲キヤフエエんで見おろして居た。入場者は男より女の方が多い。女同志で幾組も踊つて居る。おつかさんと娘とで踊つてる組もある。一人紫紺しこん薄手うすで盛衣ロオヴを着て白い胸飾むねかざりをした、ほつそりと瀟洒せうしやなひどく姿のい女が折折をりをり踊場をどりばに出ては相手を求めずに単独で踊のむれを縫ひながら縦横にけ廻る。その女が現れると妙に場内が引緊ひきしまり、ひき込むと流星の過ぎ去つたあとの様に物足らなかつた。余り僕等が注視するのでその女も気が附いたらしく、のちには僕等の下を通る度にわざわざ見上げて微笑ほゝゑんで居た。此処ここで木曜日には特別に舞踏のうま連中れんぢゆうばかりが踊る。其れで平生の入場料は三フラン(一円二十銭)だが、その晩に限つて六フラン取る事につて居る。帰途かへりに大陸ホテルの前を過ぎると丁度ちやうど今の季節に流行はやる大夜会の退散ひけらしく、盛装した貴婦人のむれ続続ぞくぞくと自動車や馬車に乗る所であつた。ホテルの門前を警衛する騎兵の銀の冑が霜夜しもよ大通おほどほりに輝き、馬の気息いきが白くつて居た。(一月二十五日)


モンマルトルの宿やど



 僕はパンテオンのそばから河を越して反対に巴里パリイの北に当るモンマルトルへひき越して来た。パンテオン附近とちがつて学者や学生風の人間は少しも見当らず、画家(ことに漫画家)や俳優やくしやや諸種の芸人が多く住んで居る。名高い遊楽の街だけにタバランとかムウラン・ルウジユとか云ふ有名な踊場をどりばを初め、贅沢ぜいたく飲食店レスタウラン酒場キヤバレエ喫茶店キヤツフエが多い。派手はでな遊楽の女いはゆるモンマルトワアルの本場であるのは言ふまでもない。昼日中ひなかまたてつしてあかつきまで僕の下宿の附近には音楽と歌がきこえると云ふ風である。初めて越して来た日に重いトランクを女中のマリイと二人で三階へ引上げる時は泣き出したくなつた。日本の十畳敷ばかりの所に赤い絨氈じうたんを敷き詰めて、淡紅うすあかい羽蒲団の掛つた二人寝の大きな寝台ねだいを据ゑ、幾つかの額と二つの大きな鏡の懸つたなり立派な部屋だが、半月程暖炉シユミネかなかつたので寒さが僕をがたがたとふるはせた。石炭をべてもべても容易に温まらない部屋の中で僕はしみじみと東京の家を恋しいと思つて居た。しかし夜になつて初めて家族と一緒に食卓に就いた時は、何だか僕の好きな大阪の家庭で食事をする様な親しさを感じて少し心が落着いた。下宿人は多勢おほぜい居るが家族と一緒に食事をするのは僕の外に四人の美しい娘だけだ。この家の細君が余程よほど変つて居てがあればピアノにむかふか、でなくばをどりの真似をして高い声で歌つて居る。食事のあひだにも肉刀クトウで食卓を叩きながら歌つたり、年下の亭主の首を抱へて頬擦りをしたり、目をいて怒る真似をしたりするので、家の内は常にわらひを断たない。其れに下宿人の娘の一人も剽軽者へうきんもので細君に調子を合せて歌ひ、何かと冗談を言合ひなが其末そのすゑぐ二人共歌の調子に成る。美男の亭主は何時いつでも「アアウイアアウイ」と言つて莞爾にこ/\して居る。フツフウ、ユウユウと云ふ流行唄はやりうたの二つの間投詞を取つて名づけた二匹の小犬が居て食卓の下で我我われわれの足に突当りながらうろうろする。膝へ駆上かけあがつても来る。その度にきやつきやと笑ふので小犬等もまた食卓をにぎはす一つに成つて居る。楽天的な滑稽おどけた家庭だ。これが純巴里パリイ人の性格の一種を示して居るのであらう。ある友人から巴里パリイ人は倹素しまつだから家庭へはひるのは不愉快だと聞かされて居たが、一概にうでも無ささうである。食事なども並の料理店レスタウランで食ふよりうまく、又何時いつも「充分セエタツセ」と断らねば成らぬ程潤沢だ。驚くのは巴里パリイの女は概してうなんであらうが、細君や例の下宿人の娘等がよく酒を飲む事である。シトロンでもあふる調子で食事ごとに葡萄酒や茴香酒アブサントを飲む。そしてぶかしをするので、大抵午後一時頃に起きる。僕はこの女連中をんなれんぢゆうの化粧する所を興味をもつて観て居るが、いろんな白粉おしろいを顔から胸や背中へ掛けて塗り、目の上下うへしたにはパステルの絵具のやうな形をした紫、黒、群青ぐんじやうさまざまの顔料を塗るのは、随分思ひ切つた厚化粧だが、仕上を見ると大分だいぶん容色きりやうを上げて居る。男らしい洒落しやらくな性格の細君のの一面にはおそろしく優しい所があつて、越して来て五目にかぜを引いて僕が寝て居ると、毎午前二時頃にだい/″\を入れたアメリンカンと云ふ※[#「執/れんが」、U+24360、84-3]い酒や玉子焼などをこしらへて見舞に来てれたりする。僕は伊太利イタリイへ旅行するまでこの家庭に居ようと思ふ。宿は 21. Bis, Rue Victor Mass※(アキュートアクセント付きE小文字) にあるが、宿の主人の名はLouis Pirolleyである。(二月二日)


画室アトリエと墓



 二月の最初の土曜日だ。ロオランスの教へに来る画室アトリエを参観にかうと徳永に約束がしてあつたので珍らしく早起はやおきをした。その晩には薄い初雪が降つた程朝から寒い日であつた。暖炉シユミネの火が灰がちな下に昨夜ゆうべ名残なごり紅玉リユビイの様なあかりを美しく保つては居るが、少しもあたゝか[#ルビの「あたゝか」は底本では「あたゝ」]く無いので寝巻のまゝ楊枝やうじつかつて居た手を休めて火箸で掻廻すと、昨夜ゆうべまゝ盛高もりだかな形をして居た火は夢を見て居た塚の中の骨の様にもろく崩れて刹那せつなに皆薄白うすじろい灰に成つて仕舞しまつた。生中なまなかいぢくらずに置けば美しい火の色だけでも見られたものを、下手へたに詩にばかりもとの面白い感情が失はれたのと同じ様な失望を感じた。女中のマリイの汲んで置いてれた水が顔や手先を針の様に刺す。今朝けさは急ぐので剃刀かみそりを当てることを止めて服を着ようとすると新しいコルへ前のブトンが容易にはひらない。窓からす薄暗いあかりの中で厭な姿が二つの大きな鏡へ映る。「大将、だいぶ弱つて居るぢや無いか」と僕の心の中の道化役の一つがひよつこりと現れて一言ひとことせりふを投げたきり引込ひつこんで仕舞しまふ。「フム、フム」と黒幕の中で鷹揚おうやうに鼻の先の軽い一笑を演じる一つの心が其れに次ぐ。あとは気の乗らない沈黙。其間そのあひだ※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいて居た首と手とはやつとのことでブトンを入れ終つた。洋服を着て仕舞しまへば、時計、手帳、蟇口がまぐち手巾ムシヨワアル、地図、辞書、万年筆まんねんふでと、平生持歩く七つ道具はの棚とこの卓とに一定して置かれてあるので、二分と掛らないで上衣うはぎ下袴パンタロン、外套の衣嚢かくしおの/\所を得て収められて仕舞しまつた。部屋に錠をおろして置いて暗い階段を三つくだる。入口いりくちを出て台所の硝子戸がらすどをコツコツ遣つて見たがだマリイは起きて居ない。※[#「執/れんが」、U+24360、86-3]珈琲キヤツフエ牛乳ちゝとをすゝつてく事は出来なかつた。口を堅く閉ぢて鼻で深呼吸をしながら門を出た。南北地下電車ノオル・シユツドでは往復八銭の切符をれた。車中は男女なんによの労働者で一杯に成つて居る。女は大抵帽をかぶつて居ない。だ東京で三年前に買つたまゝのをかぶつて居る僕の帽もこの連中れんぢゆうあかみた鳥打帽やひゞれた山高帽やまだかばうに比べれば謙遜する必要は無かつた。ついでに日本人は平気で鳥打帽をかぶるが、巴里パリイではもつぱら労働者のかぶるものである。シテエ・フワルギエエルの十四番地へ来ると徳永はう起きて居た。「早く遣つて来ましたね、君。」「でも七時半だよ。」「ゆうべ長谷川君と遅く迄話し込んだので僕は朝寝をして仕舞しまつた。衣替きがへをする間待つて居てれ給へ。」「滿谷は起きてるから。彼処あすこで待つて居よう。むかうには煖炉ストオブも消えてないだらうから。」「ではうしてれ給へ。ゆうべ隣のKがうしたのか帰つて来ない。知つてる独逸ドイツ人の紹介で俳優やくしやなんかの来る宴会へ出掛けたのだが。もつと昨日きのふ銭が届いたからね。」「しかしあの男は堅相かたさうぢやないか。」僕は三階をりて近所の滿谷の画室アトリエを叩いた。僕の声を聞いてすぐに右隣の画室アトリエから柚木ゆのきが顔を出した。「寒いぢや無いか。」「寒いね。滿谷さんは寝てるかも知れん。まあ僕ン所へはひり給へ。君の病気はいかね。」「難有ありがたう。※[#「執/れんが」、U+24360、87-3]は高かつたが一寸ちよつとした風邪だつたんだね。ゆうべから起きたよ。大きな物をき出したね、此方こつちは長谷川かい。随分凄さうなモデルだね。」「長谷川君と二人でつかつてるんだが、実際その通り目の下のどすぐろい女でね、よくしやべるんだ。」滿谷が起きた様だから行つて見ると小豆あづき色の寝巻のまゝで黒い土耳其トルコ帽をかぶつた滿谷は「ゆうべ汲んで置くのを忘れたら、今朝けさ水道が凍つて水が出ない」と云つて水瓶みづがめを手にしたまゝ煖炉ストオブの前に立つて居た。「病気はうだい。」「四五日でなほつて仕舞しまつた。」「さう早起はやおきなんかしてもり返しはしないかい。」「大丈夫だ、今日けふは徳永が君達の行つてる画室アトリエを観せると云つたから六時に起きたよ。」「そいつはけなかつたね、徳永が知らないんだ。先生が来て批評する日は参観は許さないんだ。しか一寸ちよつと行つて先生の来る迄に帰り給へ。」「うかね。うしよう。」此間このあひだ滿谷が和田三ざうの所へくと来合せて居たモデルに和田が「イレエ、モンペエル」と言つたさうだが、滿谷の今朝けさ寝起ねおき姿を見ると僕も「この人はおれの父親おやぢだ」と一寸ちよつと言つて見たく成つた。
 滿谷、徳永、柚木、長谷川の四人と一緒に出掛けた。長谷川だけはマチスの弟子分だと云つてよい※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン・ドンゲンの画室アトリエへ通ふのである。ドンゲンの事は去年サロン・ドオトンヌの批評の中で柏亭君が日本へ紹介したらうと想ふ。近頃巴里パリイではう云ふ新しい[#「新しい」は底本では「新しいふ」]画家の画室アトリエへ通ふ青年画家が月ごとえてさうだ。もつとも長谷川はう言つて居る。「ドンゲンが新しいから通ふのぢや無い、又ドンゲンに心酔する程ドンゲンの絵がわかつて居るのでもない。東京から巴里パリイへ来るかきが皆同じ老大家の所ばかりあつまるのも気がかないと思つて少し変つた人の所へ出掛ける迄だ。」と言つて居る。南北地下電車ノオルシユツドに乗つた。ロオランスの出るジユリヤンの画室アトリエの前にある珈琲店カフエエで皆※[#「執/れんが」、U+24360、89-13]珈琲カフエエ麺麭パンとを取つてやす朝飯あさめしを腰も掛けずにすませた。
 画室アトリエの入口のを押すと月謝を納める所がある。狭い、きたない、薄暗い冷たい所だ。以前東京の神田あたりにあつた英漢数に国語簿記んでも教へる随意科の私立学校を聯想せずには居られなかつた。も一つくと階下したは外の先生の出る画室アトリエで、朝の生徒が三十人程一人の男のモデルの裸を囲んで画架を立てて居る。引返して二階へあがつた。其処そこがロオランスの画室アトリエだ。同じく朝の組の生徒が二十四五人痩せた裸のモデル女を囲んで黙つて一所懸命に木炭をきしらせて居る。滿谷等が入学の日に大騒ぎをした呑気のんき連中れんぢゆうだとはまつたく思はれない。早速さつそく一緒に行つた諸君も画架にむかひ始めた。四方の壁には天井に沿うて競技に一等賞を得た生徒の絵が掛つて居る。日本人では古い所で中林不折ふせつ鹿子木孟郎かのこぎまうらう諸君のが一枚づつ、近頃で安井の絵が三枚いづれも目に着く。ロオランス翁の来ると云ふ十時にならぬ前にジユリアンを出て、オデオン座の廊で書物や雑誌を買ひ、リユクサンブル公園をぶらぶら横断して小林萬吾まんご君の画室アトリエへ来た。叩くと、主人はを細目にけて、
「やあ、今モデルが裸になつてる所だ。」
「仕事をしてるんですね。用は無いんだ。帰らう。」
「帰らなくてもいい。遊んでき給へな。僕は勝手に少時しばらく仕事をするから、日本の新聞も来て居るよ。」
「それぢやあモデルには僕もかきだと云つて置いてれ給へ。」と云つて僕は内へはひつた。小林は裸をながら話した。
「ルンプが急に独逸ドイツへ帰つたよ。君によろしくと云つて、其れから写真代の取替とりかへとか割前わりまへとかを君に渡してれつて預けて行つたよ。」
「帰るとは云つて居たがにはかに立つたんだね。れて居たロオゼンベルグと云ふ女はうしたかしら。情婦いろをんなの様でも情婦いろをんなで無い様でも思はれたね。」
「僕はその女をよく知らなかつた。」
「ルンプは伯林ベルリンでエミイル・オオリツクの所で一緒に絵を習つた相弟子だと云つて居たが、いた絵は見なかつたけれど、なんでも伯林ベルリンの女子美術学校を卒業したと云ふので、絹物のぬひの図案のオリヂナルに富んで居た。下図は作らずにあたまから布へ打附ぶつつけぬひを遣つて居たよ。巴里パリイでもその意匠を仕立屋タイユールへ売つて喰つてたらしい。しきりに日本に[#「日本に」は底本では「日本」]きたがつて居た。一寸ちよつと見識もある変つた女らしかつた。」
「ふん、そんな女だつたかね。ルンプも君この秋はまた日本へ往くと云つてたよ。」
「僕にもう云つた。何でもルンプの考へではこの秋に仏蘭西フランス独逸ドイツとがたしかに戦争すると云ふんだ。先生、兵隊だから召集を逃げる為に東洋へ往くと云つてた。親父の銭ばかつかつても居られないから、丁度ちやうど此頃このごろ巴里パリイの美術商が二三人組合つて革命騒動のどさくさ紛れに北京ペキンへ行つて支那の古い美術品をやすく買ひたい、その顧問に成つてれと頼んで居るのを機会に、一万円の旅費を出させてかうと今相談して居る、と話してた。急に立つたのはそれでもまとまつたのかも知れない。」んな話をして居る内に小林は絵をき休めてモデルを帰した。其れから近所で麺麭パン塩豚ジヤンポンとを買つて来て午飯ひるめしを食ひ初めた。
今日けふは日本めしで無いね。」
「うん、僕が麺麭パンを食ふと言ふのは実際珍らしい。この画室アトリエへ来て今日けふが初めてだ。夜分には例の土曜日に遣る日本めしの会が僕ン所であるんで和田、町田、大住おほすみなんて連中れんぢゆうが集まる。晩に馳走があるから昼は淡泊あつさり済まして置くんだ。」
 僕は買物を小林君に預けて置いて、以前から一度はひつて見ようと思つてた、通りを一つ隔てたぐ前のモンパルナスの大墓地の門へはひつた。バウドレエルの墓が最初にわかつた。墓碑には詩人の半身像を、墓の上には詩人の臨終のぐわ像を刻し、ぐわ像の台石に小さく詩人の名と生歿の年月としつきとを記しただけで、外には何も書いて無い。墓地の大きなみちの一つの突当つきあたりにあるのでよく人の目に着く墓だ。墓碑には青いかづら[#ルビの「かづら」は底本では「かつら」]這上はひのぼつて居た。マウパツサンの墓が見附からないので広い墓地を彷徨うろついて探して居ると、瑠璃紺るりこんの皺だらけのマントウをはふつた老人としよりの墓番が一人通つたので呼留よびとめて問うた。墓番は思つたよりも老人としよりで、酒のにほひをさせて居る。
「あなたは支那人かね、日本人かね。」
「僕は日本人。」
「日本はいい美しい国だ。わたしは以前歩兵ソルダアでね、横浜、それから江戸へ行つた。ふた月滞在して居た。」
「それは珍らしい。幾年まへ。」
「四十年前。いや、もつと前。あなたは日本の大使の墓をもひますかね。」
 僕は老人らうじんに導かれて千八百八十八年に巴里パリイ歿くなつた全権大使ナホノブ、サメジマ君の墓をはからずも一ぱいした。マウパツサンの墓の上には桃葉衛矛まゆみ狗骨ひいらぎとを植ゑ、うしろの碑には名のみを太く書き、碑の前には開いた書物の形をした鋳銅ちうどうの上に生歿のとしだけを記したものが据ゑてあつた。狗骨ひいらぎ珊瑚珠さんごじゆの様な赤い実を着けて居た。僕は手帳の上へ老人らうじんに記念として名を書かせた。「エス・ブリゲデイエ」と署名して僕に幾度いくたびも声を出して読ませた。少し酔ぱらつて居る老墓守は「一九一二年三月三」と書くべき所を「一月三」と書いて平気で居た。
「お前さん、もう一人ひとりよい詩人の墓をはうと思はないかね。」
「誰だね。」
「ル・コント・ド・リイル。名高い詩人。」
「おお、ル・コント・ド・リイル。僕はその墓が此処ここにあることを忘れて居た。シル、ヴウ、プレエ。」
 老人は得意になつて案内してれた。其れはマウパツサンの墓から遠くは無かつた。墓の上にはリラを植ゑ、うしろの円い蝋石らふせきの碑の上には詩人の半身像が据ゑてあつた。また像をおほうて今は落葉おちばして居る一じゆ長春藤ちやうしゆんとうが枝を垂れて居た。ブリゲデイエ君に礼を云つて酒手さかてを遣らうとしたが中中なかなかかぶりを振つて受けない。西洋人としては珍らしい男である。ひて老人の衣嚢かくしへ押込んで置いて早足に墓を出た。門を出る時一度振返つて見たら、よろよろして墓の奥へはひ[#ルビの「はひ」は底本では「はい」]つて行く後姿うしろすがたが石碑の間へ影の如く消えた。古い仏蘭西フランスの歩兵よ、老いた墓守よ、僕に取つてお前は今から墓へはひつたも同じだ。もう再び会ふ日は無いであらう。(二月五日)


サン・ゼルマン



 二ぐわつに成つたら一層寒くなるはず巴里パリイが今年はうした調子外れか好い天気が続いて僕の部屋などは煖炉シユミネかなくつてもいい様に成つた。少し街を歩けば外套が脱ぎたくなる程の温かさだ。うなると何処どこか郊外へ出掛て思ふ存分日光に浴し新しい空気を吸つて、一月ひとつき以上陰気な巴里パリイの冬空と薄暗い下宿の部屋とにおさへられて居た気持を忘れたい。約束をして置いたら寝坊の九が遠方のカンパン・プルミエのアトリエから朝早く遺つて来た。案内をしてれる梅原は朝飯を食つて居るのか、お化粧に暇が居るのか容易に近所の家の七階に[#「七階に」は底本では「七階」]ある頂辺てつぺん画室アトリエから降りて来ない。サン・ラザアルの停車場ギヤアルから汽車に乗つたのは十時であつた。セエヌの下流は蛇が曲線を描いて走る形に紆廻うねつて居るので、汽車が真直まつすぐその曲線をつき切つて三度河を渡るとサン・ゼルマンの街に着いた。巴里パリイから此処ここへは四十分で達せられる。土地の感じは京都から伏見へくのと似て居る。昔の城や王政時代の離宮の跡などがある。ふるい街だけ何処どこか落着いて光沢つや消しをした様なおもむきが漂うてる。
 停車場ギヤアルの前には御者ぎよしや台に鞭をてて御者ぎよしや帽をかぶつた御者ぎよしや手綱たづなを控へて居るひんの好い客まちの箱馬車が十五六台静かに並んで居た。ぐ左手に昔の城を少し手入して其れに用ひた博物館がある。これ仏蘭西フランス唯一の考古学的遺物の多い博物館として名高いものださうだが、其れを観るのは再遊の時に譲つて僕等は街の中を何と云ふあても無く縦横に歩いて廻つた。割合に多い骨董商の店をのぞいて立止りもした。小学校の土塀の崩れから田舎ゐなかの小娘の遊んで居るむれを眺めもした。この街の人は我我われわれ外国人に対して少しも不思議さうな顔をせず、格別振返つて見る者も無い。巴里パリイの場末の人間が妙な目附でのぞき込んだり「あれは支那人か」なんてうしろで噂したりするのに比べて大変に気持がよい。一方の街外れへ来たら次第に坂路さかみちに成つた。セエヌが其処そこにも流れて居るのだらうと云つて降りて行つたが、河は無くてはて知らぬ丘陵の間に野菜畑が続き、散らばつた百姓の庭でにはとりが鳴いて居た。仏蘭西フランスの野は大体に霜がすくないから草が何処どこにも青んで居る。白楊はくやうやマロニエの冬木立こだちに交つて芽立めだちの用意に梢の赤ばんで居る木もあつた。とあるひくい石垣の上に腰を掛けた九は大きな煙管パイプくはへてこゝろよさう燐寸マツチを擦つた。
 腹が減つたのでちがつたみちを登つて街へ引返したが、黒塗の大きな木靴をひきずつて敷石の上に音をさせなが悠然のつそりと歩くふとつた老人が土地で一流の料理屋レスタウラン「アンリイ四世楼」を教へてれた。このサン・ゼルマンは一体に高い丘陵の上にある街だが、僕達が昼の食事をしたそのレスタウランは街外れにある名高い「サン・ゼルマンの森」を背にし、十七世紀にル・ノオル王が切りならさせたと云ふ横長い岡の上の一隅に建てられて、すぐ下に浅黄あさぎ色のセエヌを瞰下みおろし、ペツク其他そのたの小さい田舎ゐなかの村を隔てて巴里パリイの大市街を二里の彼方あなたに見渡して居る。食堂ではとまり客の英国人の大家族と、馬に乗つて来たらしい山高帽やまだかばうかぶつた四人の仏蘭西フランス婦人と僕等との組が食事をした。飲んだ葡萄酒は千八百八十幾年かの物であつた。
 巴里パリイやセエヌや平原を眺めながら二十町もある例の横長い岡の上を気永きながに歩き切つて、其れから名高い森の中へはひつて行つた。黒ずんだマロニエの木立こだちに白樺がまじつて居て落葉おちばの中に所所ところどころ水溜みづたまりが木の影を映して居る。縦横に交叉して居る大きなみち時時ときどき馬車の地響ぢひゞきを挙げながら、その先は深い自然林の中に消えて仕舞しまふ。折折をりをり木靴を穿いた田舎人ゐなかびとが通る。細君と娘とをれて散歩して居る陸軍士官にも遇つた。九里くりと僕とは梅原から巴里パリイの芝居の話を聞きながら歩いた。又何か冗談を言合つては晴やかに笑ふ事が出来た。先に横長い岡を歩いてる時うつかり僕が「気持のいい海岸へ来たね」と言つて笑はれ、森の木がどれも青い粉の様なこけを附けて居るのを「鶯餠うぐひすもちの木だ」と言つて又笑はれた。九里は又マロニエの幹を長い棒麺麭ぼうパン[#「棒麺麭」は底本では「棒麭麺」]、梢の枝振えだぶりを箒、白樺を「砂糖漬の木」などと言つた。さうして三人が歩きながら、
 森の、の上の、海岸の、
 巴里パリイとセエヌを見おろすサン・ゼルマン、
 鶯餠うぐひすもちの、長い長棒麺麭ながぼうパン[#「長棒麺麭」は底本では「長棒麭麭」]の幹の、
 さうして箒のマロニエ、其れに交つた砂糖漬の白樺の棒縞ぼうじま
 んな物を綴り合せて笑つた。あとから思へばたわいも無いが、これが、郊外を歩くのんびりした僕達の気分をその刹那せつなによく現して居た。(二月八日)


文人ぶんじんの決闘



 若手の戯曲作者として近年巴里パリイの俗衆に人気のあるガストン・アルマン・カイア※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)エ君と、巴里パリイ唯一の芸術新聞コメデイアの記者で常に直截鋭利な議論を書く有名な若手の劇評家エミイル・マス君との間に決闘沙汰ざた持上もちあがつて、その決闘が二月十六日の午前十一時からプランス公園の自転車稽古の庭で行はれた。事件の原因は略して言ふと、カイア※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)エ君の作つた「プリム・ロオズ」と云ふ平凡な脚本が俗衆の人気に投じたので、去年の冬以来引続き国立劇場のコメデイ・フランセエズ座で毎週に三四回も演じてそのごと大入おほいりを占めて居る。マス君は其れを十数回にわたつて攻撃した。マス君の論旨は、政府の保護のもとに設けられて居るコメデイ・フランセエズ座は普通の劇場とちがひ、の美術品を博物館ミユウゼで国家が保存する如く昔の天才の作つた芝居を保存する国立の博物館ミユウゼである。勿論新しい作者の戯曲を選択して世間せげんに紹介する事も国立劇場の目的の一部であるが、其れはの劇場の多数が争うて新作を紹介する今日こんにちに国立劇場が積極的に力を用ふべき所で無い。新作の価値の定まるのは時を要する。急いで博物館ミユウゼをさめるにはあたらないと云ふのである。「プリム・ロオズ」の様な循俗じゆんぞく的な脚本が毎の様に演ぜられて比較的第二流の俳優が登場し、名優ムネ・シユリイやル・バルヂイなどの[#「ル・バルヂイなどの」は底本では「ルバルヂイなどの」]得意とするコルネエユ、ラシイヌ、モリエエルなどのきよ匠の作を演ずる日が削減されるのは遺憾なことであるから、マス君の議論はしんに発言の時を得たものであつた。単に「プリム・ロオズ」の作者にむかつてばかりで無く、芸術以外の情実に制せられる国立劇場の諸役員と芸術上の鑑識を堕落せしめつつある多数の巴里パリイ人とにむかつて反省を促したのがマス君の諭旨であつた。カイア※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)エ君もマス君も人気のある文人でありかつ問題の関係する所が大きいだけに、マス君の議論が巴里パリイ人の視聴を惹いて何事かおこらねば止まない気勢が予知せられた。果然二月十三日の晩フランセエズ座の見物席に腰を掛けて居たマス君のうしろから肩を軽く叩いた一にんの男がある。その男と共に廊へ出たマス君は数語を交換した後で非紳士的な腕力の一撃を受けた。その男はカイア※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)エ君であつた。
 両君が決闘するに到る迄の経過は以上の如くであるが、決闘沙汰ざたの伝はるに従つて周囲の騒ぎが大きくなり、れに対する名士の批評が多く新聞紙上に発表された。識者の同情は概してマス君に傾いて居てマス君の議論に正面から反対する様な批評は一つもない。巴里パリイの批評家の団体はマス君の議論を正理の擁護だと非公式に認め、フランセエズ座の名優某は匿名のもとに「カイア※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)エ氏の十三日のの行為は神聖なるモリエエルの家(国立劇場)をけがしたものだ」と述べ、また芸術専門の大新聞紙コメデイアの社長デス・グランヂユ氏は「マス君の議論は批評家としての権威のもとになされたものだ。この位の道理は肉屋の番頭にもわかることだ」と云つてカイア※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)エ君を揶揄やゆした。カイア※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)エ君は又仲介者を立ててこの社長の文章を詰問して取消を請求したが、社長は応ぜざるのみかかへつて仲介者を説服せつぷくした。仲介者はカイア※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)エ君に手紙を送り「貴下が不名誉なりとせらるる所は我等の最早もはや立入るべからざる所にそろ」と云つてその任を辞した。カ君は更に社長へ直接手紙を与へて取消を求めたが社長はその手紙に添へて「貴意には応じ難い。この上は如何様いかやう相手をも辞するもので無い」と言ひ切つた。カ君は社長とも決闘沙汰ざたに訴へざるを得ない形勢になつた。其処そこへマス君との決闘の日が来た。
 決闘の模様を少し書かう。相手がたがひ巴里パリイツ子同士、流行はやり同士であり、其れが右様みぎやうの事情のもとに行ふ決闘であり、その上当日の決闘ぶりが非常に壮烈であつたので、翌てうの新聞はれも決闘ぢやうの写真をはさんで種種いろ/\と激賞のことばを並べて居る。
 大抵決闘ぢやうは関係者以外へ秘密にして置くものだが、巴里パリイ人の注目して居る決闘だけその場所をかぎ附けて二十三人の新聞記者、二十七人の写真師、五人の活動写真師が押寄せた。この通り多数の見物人を集めた決闘は近頃稀有けうな事ださうである。決闘ぢやうに立入る事を拒絶せられた写真師等はうしてむなしく引取るものか、早速さつそく近所の喫茶店キヤツフエから長い梯子はしごを奪ふ様に持出して自転車稽古亜鉛とたん屋根へ沢山たくさんの写真機を据ゑて仕舞しまつた。
 戦士はおの/\二人の立会人と一人の外科医と五六の親友とを従へて到着した。武器としては双方長い剣をえらんだ。立会人等は協議の上二回迄の対戦を承認した。決闘の土地の検案が済まされ、両者の剣が砥がれた。戦士はむかひ合つた。カイア※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)エ君は偉大な体格をして態度の沈着な男、これに反してマス君は日本で言へば正宗白鳥はくてう君の様に優形やさがた小作こづくりの男で、一見神経質な、動作の軽捷けいせふな文人である。ただ白鳥はくてう君には髭が無いけれどマス君にはうしろねた頤髭あごひげがある。見物人には一撃のもとにマス君がやぶられさうあやぶまれたが、しかしマス君は見掛に寄らず最後まで勇敢に戦つて立派に名誉を恢復くわいふくした。
け、両君」と叫ぶ第一回の指揮者ランナウ君の声が沈黙を破つた。剣と剣とはなかば曇つた二月の空にしば/\相触れて鳴つた。間隙すきの無い見事な対戦に観る人の心は胸苦むなぐるしい迄緊張した。マス君はしば/\真直まつすぐな鋭い剣を送つたが、たま/\其れを避け外したカ君の右腕うわんから血が流れた。なり深い負傷であるにかゝはらずカ君は戦闘を続けた。うした機会はずみかカ君の剣が中程から折れて敵手てきしゆの上に飛んだ。その刹那せつな人人は鋒尖きつさき必定ひつぢやうマス君の腹部を突通つきとほしたと信じた。中止の号令がくだつた。しか[#底本では「併し」は「併人」]折れて電光の如くおどつた鋒尖きつさきはマス君のパンタロンはげしくいたに過ぎなかつた。人人は奇蹟の様に感じてホツと気息いきをついた。
 カ君は新しい剣を執つた。今度はドルシエエル君の指揮のもとに第二回の決戦が開かれ、たがひに巧妙な突撃と迅速な回避とを交換して第一回にも優る猛烈な戦闘を続けて居るうち、マス君は右腕うわんに二回迄敵じんを受けた。「まれ」の声と共に決闘は終つた。医師は急いで両君に繃帯を施し、立会人等は官衙くわんがへ差出す始末書をしたゝめて署名した。しかしカイア※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)エ君とマス君とはこの決闘につて満足するをがへんじない。其れで和睦の握手を交換する事なく武装を解くに到らずしておの/\自動車に乗つて別れて仕舞しまつた。
 これに続いてカ君とコメデイアの社長との決闘が行はれ、すべてにカ君が抑遜よくそんの態度を示さず、フランセエズ座がこの問題の騒ぎの中にもなほ「プリム・ロオズ」を演じて居る如き執拗を改めないなら、批評家対戯曲作者及び国立劇場役員の葛藤はます/\渦巻が大きくなるであらう。マス君は決闘のあつた翌てうの新聞にも国立劇場に与ふる論文をおほやけにして「新作の劇はスフインクスである。永久の傑作であるかうかを容易たやすく決しがたい物に一週三四回も国立劇場を使用する事は無法だ。又国立劇場は私利を営む性質の芝居で無い。役員及び俳優が純正な戯曲に対する尊敬を忘れる場合に其れと抗論する為に政府は劇場監督を置いて居るはずだ」と云つて正面から攻撃の鉾を劇場の監督デイレクトユウルに向けて居る。(二月十八日)


謝肉祭キヤルナ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)



 待ちこがれて居た二月二十日はつか謝肉祭キヤルナ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)、その前後五日いつかわたつて面白かつた巴里パリイの無礼講の節会せちゑも済んで仕舞しまつた。なり謹厳な東洋の家庭に育つて青白い生真面目きまじめと寂しい渋面じふめんとの外に桃色の「わらひ」のある世界を知らなかつた僕が、毎グラン・ブル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)アルの大通おほどほりの人浪に交つて若い巴里パリイの女から「愛らしい日本人」んな掛声かけごゑとコンフエツチの花の雪とを断えず浴びせられて、はじめの程こそ専ら受身で居たが、段段だんだん攻勢に転ぜざるを得ない気分に成つて大きなコンフエツチの赤い袋を小腋こわきに抱へながら相応に巴里パリイの美人へ敬意を表して歩いたのは、若返つたと云ふより生れ変つたと云はうか、満三十九年間(一寸ちよつと欧羅巴ヨウロツパ風に数へて)まつたく経験しなかつた無邪気な遊びであつた。女装をした男や男装の女の多いのは勿論、すこぶふるつた仮装行列や道化ピエロオ沢山たくさんに出た。男女なんによの大学生が東洋諸国の風俗に扮して歩いて居るのも見受けた。その中に日本の陣羽織を着て日本刀を吊した若いをんな大学生と話して歩いてしきりに笑つて居たのは和田垣博士であつた。全身をアラビヤ人風に塗つて大きな作り鼻の中へ電灯をけた二人ふたりの男が相いだいて舞踏しながたくみに人込の中を縫つて早足にき過ぐるのは喝采を博して居た。天下晴れての無礼講だけに見知らぬ女を抱きかかへて厭がるのも構はず頬摺ほゝずりをして歩く男も多い。若い男かと見るとシルクハツトをかぶつた生真面目きまじめな顔附の白髪の紳士も混つて居る。又孫の一人も有らうと想はれる老夫人が済ました顔をしながら若い男と見ればコンフエツチを振撒ふりまいてく。僕にもある婆さんが振撒ふりまいたから追掛けて行つて襟元へどつさり入れて遣ると「メルシイ」と礼を言はれた。巴里パリイ人の事だから無論多少の酒を飲んで居るにかゝはらず日本の花見に見受ける様な乱酔者ゑつぱらひまつたく無い。従つて執拗しつこ悪巫戯わるふざけをする者が無く、警察事故も生じない。巡査や憲兵までがコンフエツチの攻撃に遇つて莞爾にこ/\して居る。僕は梅原、九里の二人ふたり伴立つれだつて歩いたが、きちがひざまに僕のつぺたへすこぶる野蛮なコンフエツチの投げ方をする者があるから、振返つて応戦しようと思ふと其れは滿谷、徳永、柚木などの日本人であつた。毎珈琲店キヤツフエに夜かしをして帰つて寝巻に着へようとする度、襯衣しやつの下から迄コンフエツチがほろほろとこぼれて部屋中に五しきの花を降らせた。しか巴里パリイで第一にさかんな祭は三月のミカレエムだと云ふ。その頃は女の服装が一変するから色彩の点からも華やかな節会せちゑであらう。(二月二十七日)


芝居ののち



 ユウゴオの百十回の誕生日(二月廿六日)の晩、文豪の遺作「たのしめる王」がコメデイ・フランセエズで演ぜられ、ムネ・シユリイのサン・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)リエ、女優ゼニアのブランシユ、シル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンの茶坊主ツリブレ、フヌウのフランソア一世と云ふ、仏蘭西フランス現代の劇壇でまつた申分まをしぶんの無い役割であつた。今夜の観客くわんかくには学者、芸術家、政治家が多数を占め、中にはその若盛わかざかりの日からユウゴオの讃美者であつたらしい白髪の貴婦人れんも交つて居た。幕間まくあひにサロンや廊を逍遥する群衆の中に平生とちがつて時代遅れの服装や帽が際立つて多く目に着くのは、う云ふ点に案外無頓着な学者芸術家の気質を自然に現して居た。
 最後に文豪に対する荘厳な礼讃式クロヌマンが行はれた。ユウゴオの誕生日に国立劇場でこれを行ふのは千九百二年以来の事ださうだが、今年のクロヌマンには舞台の中央に据ゑたユウゴオの彫像のむかつて右に女優ヱベエル、パウル・ムネ、シル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン、女優ドユツサン、女優ゼニア、左には女優ララ、フワルコニエ、フヌウ、ムネ・シユリイと云ふ順で並び、背後には今夜の芝居の五幕を通じて登場した俳優のすべてが控へて居た。式長はムネ・シユリイである。ヱベエル、ララの二女優が文豪を讃歎する二篇の詩を交代に歌つて満場総立そうだちの拍手の中に式が終つた。
 廊へ出て預けた外套を受取つて居ると、同じく見物に来て居たドリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ル君が梅原の肩を叩いて「一寸ちよつとムネ・シユリイに会つてかないか」と云ふ。ドリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ル君はポルト・サン・マルタン座に居る知名な壮年俳優で、ムネ・シユリイの弟子分だけに悲劇を得意とし、近日この国立劇場へ選ばれてはひると云ふ評判のある男だ。梅原と僕とはドリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ル君のあといて楽屋へはひつて行つた。
 悲劇役者としてタルマ以後の天才と称せられる老優の楽屋が案外狭くして質素なのにづ驚いた。わづかに六畳と二畳とに過ぎない部屋は三面の鏡、二脚の椅子、芝居の衣裳、かつら、小道具、それから青れた沢山たくさん花環はなわとでうづまつて居る。ムネ・シユリイはドリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルの細君と若いをんな弟子のジヤンヌ・ルミイとに世話せられて着替をして居る所であつた。ドリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルが紹介すると、老優は上着を着終るのも待たず白襯衣ブランシユシユミイズの上へパンタロン穿いたまゝ、ロダンの彫像が動き出した様な悠然のつそりした老躯を進めて、嵐の海の様に白い大きな二つのひがら目で見おろしながら、赤い大理石のやうな頬と白い頤髯あごひげとの間に温かい高雅な微笑を湛へて僕等と握手をした。老優の大きな手は僕の手よりも※[#「執/れんが」、U+24360、112-12]かつた。
 ドリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルは梅原がいうの※[#「執/れんが」、U+24360、113-2]心な崇拝者であることを告げて、いうふんする「エジプ王」の如きは三十回以上も見物して居ると語つた。ムネ・シユリイはそばに立て掛けてあるエジプ王の持つ黄金の杖やエルナニの剣などを手づから取つて僕等に見せ、日本でユウゴオ物を演じるかと問うた。梅原が近頃エジプ王を訳したが其れにいうの型をかき加へて日本へ紹介するつも[#「つもり」は底本では「つも」]だと言ふと、ムネ・シユリイは喜んで「型のわからない所があつたら自分に聴いてれ」と言つた。又名優タルマの持物であつた外套用の大きなぼたんを見せて「これは自分に気持がよいからエジプ王に扮する場合に何時いつも用ひて居る」と語り、其れから「今日けふ一つタルマの遺物を買つたが」と云つてムネ・シユリイ自身も、ドリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ル夫婦も、女優も、今一人楽屋に来て居た若いをんな画家も一緒に成つて少時しばらく探して居たが、其れは置所おきどころを忘れて見附からなかつた。
 ムネ・シユリイは「何か淡白あつさりした夜食を一緒に取らう」と言出した。出口の階段をくだる時以前は此処ここにタルマの彫像を据ゑてあつたが、ムネ・シユリイが昔国立劇場へはひる事になつて初めて宣誓式の為に此処ここへ遣つて来た時うした機会はづみかタルマの像が動いた。其れが感激に満ちたムネ・シユリイの若若わかわかしい心にはナポレオン一世時代の名優が自分に挨拶をした様に思はれた。これきゝ伝へた世人せじんはタルマ自身に匹敵する悲劇役者が国立劇場へ加はつたのを故人の霊が喜んだのであらうと評判した。この有名な話をドンリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルが僕等に語ると、ムネ・シユリイは微笑ほゝゑんで「うだ、まつたくタルマがボン、ジユウルと言つてうなづいた様に感ぜられた」と云つた。
 芝居まへのキヤツフエ・ド・ラ・レジヤンスは俳優やくしやと芝居がへりの客とで一ぱいであつた。ムネ・シユリイはその左に梅原を右に僕を坐らせた。前には三人の女、僕の隣にはドリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルが坐つた。女優のルミイ嬢が隣の部屋に見える大理石の卓に赤い紐を巻いたのを僕等に示して「あれがタルマの用ひた食卓です。」と云ふと、ドリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルが「今にムネ・シユリイのこの食卓もあの様に飾られるのだ」と云ふ。この家はナポレオンが最も好んで食事をしに来た家だと云ふ様な話も出た。其処そこへシル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンが細君とはひつて来た。又女優のゼニアが良人をつとの伯爵に手を執られてはひつて来た。皆ムネ・シユリイに挨拶をして通つてく。ドリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルがシル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンに声を掛けて「あなたの今夜の出来は結構でした」と言ふと、シル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンは「馬鹿を云つてはいかん。そんな世辞を言つてれるな。舞台で稽古をするひまが無かつたので自分の宅でほんの型だけの稽古をした。其れでまつたく今晩は物に成つて居なかつた」と云つた。
 ムネ・シユリイの選んだ夕食スウペの種類が一寸ちよつと変つて居た。「アツセ・アングレエズ」、「サラド・ルツス」其れからサンドヰツチを油で揚げた様な物で名がわからないからかりに梅原が名を附けた「サンドヰツチ・ムネ・シユリイ」に「タルト」と云ふ菓子。酒は麦酒ビエエルの外に「シヤルト・リユウズ」、「コアント・ロオ」、「チユリツプ・セリ」の三種。ムネ・シユリイは孫にでも対する様に皆のさかづき一一いちいち楽しさうに手づから酒をいだ。
 話しがに移つてムネ・シユリイは梅原に「自分の肖像をいてはうだ」と云つた。ドリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルが「先年瑞西スヰスのベルンの旅先で偶然マネの絵の掘出物ほりだしものをしてわづか四十フランで買つて来たが、ある手筋の人に望まれて三万四千フランで手放した」と云ふ様な事を話す。ムネ・シユリイは「自分にもそんなのを見附けてれ」と云つて笑つた。ドリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルは又「仏蘭西フランスの南部の例へばツウルウズへんくと現代の老大家の絵を掘出す事が多い。ルノワアルの絵を八千フランで買つた事もある。ロオランなどの作も多い」などと話した。
 話が服装の上に移つた。ムネ・シユリイは「女はだ好いが、欧羅巴ヨウロツパの男の今日こんにちの服装は実にきたない。日本の男でも欧洲の服を真似て着るのは賛成が出来ない」と言つた。その時あちらの隅の方に居た紳士で象皮ざうひ病か何かでおとがひと喉とがこぶで繋がつた男が僕等の横を通つて帰つて行つた。女達は目を下に伏せてをのゝく様な身振をした。「今の病人の見ぐるしいのを覧に成りましたか」とドリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルの細君が問ふと、ムネ・シユリイは「いや蔭で見なかつた。自分はそんなきたない物は大嫌ひだ。」
 ムネ・シユリイは又ユウゴオについていろいろ話した。文豪の大食たいしよく家であつた事などをも話した。ある晩ユウゴオの宅へ芝居の関係者が招かれ、故人になつた名優モオ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンが主人の右に、ムネ・シユリイが左に坐つて居た。ある劇場監督デイレクツウルの事について議論のある晩でムネ・シユリイは黙つて聴いて居たが、食事のしまひ際にユウゴオが「君はデイレクツウルと云ふ職を何と考へるか」とたづねたので、「自分は非常に厄介やくかいな職業だと思ふ」と答へた。すると、ユウゴオは「君の厭味いやみもつともだ」と言ひながら前の大きなトマトを取つて一口に頬張り二三度もごもごさせたまゝ嚥下のみおろして仕舞しまつたのは今でも目に見える様だと云ふ。夜が更けたので次第に客は帰つて行つた。ムネ・シユリイを囲む僕等の一卓だけます/\話がしめやかに進んだ。ムネ・シユリイは幾たび煙草たばこを取つて皆に勧めた。巴里パリイに着いて以来煙草たばこを吸はなく成つた僕は燐寸マツチを擦る役をしてムネ・シユリイや女達にけて遣つて居た。
 ムネ・シユリイは「おお今夜は好い記念を持つて来て居た」と云つて、有名な皺だらけのフロツクコオトの内衣嚢うちがくしから一通の手紙を取出した。ユウゴオが王党の一人として流謫りうてきせられて居た英仏海峡の島からムネ・シユリイに寄せた物である。其れをドリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルが朗読した。文豪の作「マリオン・ド・ロルム」を巴里パリイで舞台にのぼすについて作者の注文を述べ、又口を極めてムネ・シユリイの技倆を賞讃し、配所に在る身は巴里パリイに帰つて親しくその劇を観る事の出来ないのを悲しむと言つてある。その日附は千八百七十三年一月十で、ムネ・シユリイの三十三歳の春に受取つた手紙であつた。
 ユウゴオの「リユイ・ブラス」をムネ・シユリイが[#「ムネ・シユリイが」は底本では「ムネシユリイが」]演じる相談の時に文豪は自分の前で朗読して見てれと云つた。ムネ・シユリイの朗読を最初のうちまつたく沈黙して聴いて居たが、三幕目の中程、皇后ドナが「なぜ君は神様の様にそんなに偉大に、そんなにおそろしく見えるのでせう」と云ふと、リユイ・ブラスが「其れは自分が君を恋慕ふからだ。それは自分がすべての嫉妬を感じてるからだ」云云うん/\と云ふ長台詞ながぜりふ[#ルビの「ながぜりふ」は底本では「ながせりふ」]の段に成つて、ユウゴオは[#「ユウゴオは」は底本では「ユオゴオは」]初め「其れは自分が君を恋慕ふからだ」を「もつと高く言へ」と言ふ。三四回読み直したがだ気に入らないで「もつと、もつと高く」と云ふ。ムネ・シユリイは「う初めのばかりを弥囂やかましく言はないで、しばらく待つて、次の句を皆言はせて下さい。うしたら何か貴下あなたが発見なさるでせう」と云つて読み続けた所が、果してユウゴオが[#「ユウゴオが」は底本では「ユオゴオが」]感服してれた。以前フレデリツク・ルメエトルが演じた時其処そこの調子がひややかに低くて作者の※[#「執/れんが」、U+24360、120-1]烈な気持ちが出なかつたのをユウゴオは記憶して居て、その段を自分にうまく遣らせやうと思つてその様に気にしたらしいとムネ・シユリイは話した。「しかしルメトルは立派な俳優アクツウルであつた」と云ひ、その死んだ時に、今のアカデミシヤンである詩人ジヤン・リシユパンがその頃は人の目に立つ若若わかわかしい美男で、自作の挽詩ばんし棺前くわんぜんで読んだが、会葬者の中に居たユウゴオがその詩をめたので、自分はその場でリシユパンを文豪に紹介したなどとも語つた。
 広いキヤツフエの中に僕等の組しか話して居ない事に気が付いて帰り支度じたくをした時は翌日の午前四時前であつた。戸口を出掛でがけに「うつかり話が面白かつたので遅くなつて済まない」と謙遜なムネ・シユリイは送つて出た主人に挨拶した。主人は外套を着せ掛けながら「貴下あなたにはんな事があつても苦情は申しません」と言つて居た。老優はルミイ嬢と自動車に乗つた。あとの僕等と女画家ぢよぐわかとはドリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ル夫婦の自動車に相のりしてモンマルトルへ帰つた。文豪の誕生日の一を想ひけなく斯様かやうに面白く過ごしたのは栄誉である。うしてこの日は僕の誕生日でもあつた。(二月二十八日)


巴里パリイのいろいろ


(一)


 昨日きのふ巴里パリイの郊外で十九歳の女流飛行家シユザンヌ・ベルナァル嬢が飛行機から落ちて死んだ。飛行機※[#「執/れんが」、U+24360、121-4]の最もさかんこの国では平均して毎月二人の男の飛行家が横死を遂げる比例になつて居るが、をんな飛行家の死んだのは去年六月のドニイ夫人を始めとしてこれが二度目である。嬢は飛行機に対する非常な※[#「執/れんが」、U+24360、121-6]心家で専らその方の研究の為にトロイと言ふ田舎ゐなかからのぼつて来て、丁度ちやうどドニイ夫人の亡くなつた月から飛行機に乗り初めたのであつた。岩石の上に落ちたので顔や額が滅茶滅茶に裂けた。ついでに女の飛行家は巴里パリイに十人程しか無い。ただし飛行機に同乗して遊ぶ女は無数である。
 此間このあひだ某新聞が男のひげに対する女の感想を知名な女優から聞いて発表したが、大抵無用な物だと云ふ意見に一致して居た。その理由は接吻に不便だと云ふのがしゆで、装飾としても野蛮時代の遺風であり、又むしこれあるが為に男を醜くして居ると云ふのである。中には保存して置いてもいが、も少し香料でも余計に附けて手入れを好くしてしい。一般に仏蘭西フランスの男のひげは悪いにほひがすると云ふ答もあつた。
 春になつたので女の装飾が大分だいぶ変り出した。ふちの狭い頭巾帽トツカやまつてふちの広い円帽シヤポウに移つてく。日本の兜を模した帽の形もう流行遅れとなつて、横に高価な極楽鳥の羽を附けた物や、鳩の羽を色色いろいろに染めたのを附けた物などがさかんに行はれる。しかこれ等は従来から有つた型で今年の新流行と云ふ物はだ出ない様だ。しか明日あすにも屹度きつと帽子屋が新がたこしらへて知名な女優に贈りそれかぶつた姿を写真にとらせて貰つて一般に流行はやらせる事であらう。
 マタン紙上で今年ことしの流行服の予想を各女優から聞いておほやけにして居る。日本の「キモノ」から影響せられて細くなつたジユツプかただ当分広くなるまい。其れでジユツプには改良の余地が一寸ちよつと見付からないが、盛装ロオヴの裾に幾段もひだを附けたり、又その裾にちがつた切目きれめを附けたりするので一生面せいめんを開くであらう。して白又は金茶が流行の色となるのであらう。これが多数の予想である。いづれ四月の各雑誌に流行服の写真が幾種もおほやけにせられ、其れを見て米国の贅沢ぜいたく女が電報で註文し、仮縫を身に合せかた/″\巴里パリイ見物に続続ぞくぞく遣つて来ると云ふ段取だんどりである。
 僕は折折をりをりスルボン大学をのぞきにくが、東京の帝国大学の講師をして居た事のある、して神道しんだうに関する書物を去年巴里パリイで著したルボンと云ふ博士はかせが日本の神話と文学史とを講じて居る。平凡な講座だから男の聴衆はまつたく無いが、五六人のをんな大学生が何時いつでも※[#「執/れんが」、U+24360、123-9]心に筆記をして居るのを見受ける。
 此間このあひだ一年に幾度か催す日本人の会合のパンテオン会が和田三造の幹事で行はれた。僕はコメデイ・フランセエズ座へユウゴオの「エルナニ」を観に行つたので欠席したが、和田垣博士初め三十幾人の出席者があつて色色いろいろの隠し芸が出たと云ふ事だ。現に巴里パリイに在留する日本人は百名ぢかくあつて、その内大使館で何か催す場合に招待せうだいを受ける資格のある者が六十人位ある。その外の四十人には日英博覧会に遣つて来て帰りはぐれた芸妓げいしやや相撲なども混じつて居ると云ふ事だが、その連中れんぢゆう何処どこに何をして居るのかとんと僕らの目には触れない。この二月まで巴里パリイから汽車で五時間かかるツウルに居た和田垣博士の話に、ツウルへ日本の芸妓げいしやが来て居るとある人が云ふので、潯陽江上じんやうかうじやうの女では無いが異国へ流れ渡つて居る女に逢ふのも奇遇だと考へて、一寸ちよつと朝の時間に会ひたいと云はせると、女は待つて居るから来てれよと云ふ返事だ。物好きに出掛けて見ると其れは此律賓フイリツピンの女であつたさうだ。日本人だと云はないと景気がよくないので日本人で通して居るのであらう。現にモンマルトルのある寄席よせに出て居る支那人の曲芸師の一座なども日本人だと称して居る。
 僕はこの前の日曜に倫敦ロンドンから来た二人の友人と一緒に、一時間で往復のできる※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルサイユへ見物に行つた。瀟洒せうしやとした仏蘭西フランスルネツサンス式の、大理石づくめの宮殿の立派さと、自然林の中に池と噴水を満たした庭園の大規模とに、ルイ十四世時代の栄華を驚歎せずに居られ無かつた。宮殿は博物館ミユウゼになつて居て各時代の戦争画を多くをさめて居る。ただぐわとしてはほとんど価値のない物だ。最上層の明るい一室では美しい女王ぢよわう達の肖像画に並んでバウドレエル、シヤトウブリヤンなどの文人の肖像画もあつた。池のほとりを逍遥して古い石像の欠けたのなどを木立こだちの中に仰ぎ、又林の中に分入わけいつて淡紅たんこうの大理石を畳んだ仏蘭西フランス建築の最も醇化されたトリアノンの柱廊にり掛り、皇后ジヨセフインに別れた奈破翁ナポレオン一世や、前の夫人にしに別れたモリエエルが常に此処ここへ来てたのしまぬ心を慰めたと云ふ話をしながら、少時しばらく柔かい春の初めの入日いりひてらされて居た。(三月十一日)

(二)


 マロニエの木立こだちが一斉にやはらかい若葉を着けたので、巴里パリイの空の瑠璃るり色のすみ渡つたのに対し全市の空気が明るい緑に一変した。これが欧洲の春なのであらうが僕等には冬からぐに初夏はつなつが来た気がする。どの公園へ行つても木蔭にチユウリツプが咲いて居る。立木たちきの花は甚だすくない、純白の八重桜に連翹れんげうと梨ぐらゐのものである。東洋の様なうぐひすかないが、メルルと云ふ鳩の形をしたうぐひすの一種がふし廻しでく。一にち、ペエエル・ラセエズの大墓地へはひつてつたら、文豪ミユツセの墓に一株の柳が青んで文豪の彫像をおほうたその枝にメルルがいて居た。たち寄つて碑面を読むと「わが死なば墓には植ゑよ、ひともとのしだれ柳を。わが為にそのふ影の、軽やかに優しからまし」といふ文豪の遺作が刻してあつた。モリエエルとラ・フオンテエヌの墓が並んで居る。聞けば最初にこの墓へ葬られたのがモリエエルであつたと云ふ。画家のコロオやフルギエエルの墓なども目に附いた。
 好い天気が続くので下宿の窓から眺めて居ると、彼方此方あちらこちらの家で大掃除がはじま色色いろいろの洗濯物が干される。寝台ねだいの藁蒲団までが日に当てられる。一体に巴里パリイの女の掃除きな事は京都の女と似て居る。ある日僕がつて帰つて見ると僕の乱雑にして置いた部屋が見違へる程整理せられて居た。留守中に主婦のブランシユが女中を指揮して大掃除をしてれたのであつた。僕は日本に居て自分で手をくだす外誰にも書斎の物の位置を替へさせ無かつた程の疳性かんしやうだのに、この主婦の大掃除の仕方は全然僕の気につて仕舞しまつた。僕みづから整理に取掛つてもこれ以上には出来ないと思はれた。しかし困る事には不潔と云ふ事の感じが大分だいぶに日本人とちがつた点がある。仏蘭西フランス人の多数が便所へ行つて手を洗はないのは何よりも驚かれる。もつとも手洗所の設備が次第に普及してくやうだから衛生的に新しい習慣が生じつつあることは十分に想像せられる。其れから主婦や女中が洗濯するのを見ると食器を洗ふ流しの石で汚れ物をんで居る。其れから大きな瓦斯竈ガスがまの上へ綱を渡してその洗濯物が干される。下では色色いろいろの煮物の鍋が口をいて湯気を立てて居る。上の綱から女の襯衣シユミイズ猿股キヤルソンの雫が滴らないとは誰が保証しやう。
 僕の隣の部屋へ一月前から移つて来たピエルと云ふ青年は地方官の息子だが、女の為に巴里パリイの大学を中途でして親父おやぢ仕送しおくりで遊んで居る男だ。ぐ近所にある有名なモニコと云ふ酒場キヤバレエの若い踊子を落籍ひかせて[#「落籍せて」は底本では「落藉せて」]細君にして居る。僕は近頃この若夫婦と一緒に食卓に就くが、文学ずきなピエルはいろんな文学者の逸話などを聞かせてれる。又春に成つたので瑞西スイスのジユネエブ湖畔に隠居して居る下宿の主婦の老母が娘の家へ遊びに来て滞在して居る。亡くなつた良人をつとが辞書などを著した学者であつただけに婆さんも中中なか/\文学ずきで、僕の為にいろんな古い田舎ゐなかの俗謡などを聞かせてくれる。この婆さんが滞在中寝て居る部屋を見せて貰つたが、下宿の一番頂辺てつぺんにあるいはゆる屋根裏で、二畳敷程の所に寝台ねだいも据ゑてあれば洗面の道具も揃つて居る。ひくい天井に只一つ小さな硝子がらす窓があつて寝ながら手をのばせば開閉あけたてが出来る。昼はその窓から日光が直射し、雨の晩などはぐ顔の上へ音を立てて降りかゝる様で眠られないさうである。主婦に聞くと一箇月の部屋代が僅か一フランだと云ふ。四十銭でかく巴里パリイに一箇月寝とまりが出来る部屋があるかと想へば僕等の貧乏な旅客りよかくには難有ありがたい気がした。
 この婆さんを下宿の主人夫婦が大切にする事は日本の美しいと云はれる家庭でも余り見受けない程である。三度の食事が婆さんが来た為に一度増して午後五時頃に簡単な淡泊あつさりした食事が婆さんに出る。其れに招伴せうばんをする者は主婦と、特別に下宿人の中から僕一人が選ばれる。主婦は毎日早起はやおきをして天気さへ好ければ婆さんを馬車や自動車に乗せて散歩にれてく。芝居へも度度たびたび一緒にく。※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルサイユなどの郊外の遊覧地へ巴里パリイから写真師をれて行つて婆さんと二人で好きな場所で写真を撮らせて来たりなんかする。平生から快濶な主婦が母親が来たので一層はしやいで居る。婆さんの前では小娘の様にうれさう顔附かほつきをして物言ものいひも甘えたやうな調子である。そして一日に幾となく額や手に接吻を交換して居る。欧洲に孝道が無いなどと云つた日本の学者を笑はずに居られない。(四月十二日)

(三)


 四月につてにはかに雪が降つた程寒い変調な朝があつた。僕はそれから喉をはらして発※[#「執/れんが」、U+24360、130-3]して居たのを押してアンデパンダンの絵の展覧会を観に行つたりなんかした。春の人出を見にブロオニユの森へ自動車をりもした。幾つかの大きな雑貨店マガザンはひつて女が春着はるぎの買物をする雑沓ざつたふをも観た。其れでとうとう四日よつか目の晩から寝込んで仕舞しまつた。※[#「執/れんが」、U+24360、130-6]が高い。女中のマリイに町医者をばせたが、余り信用の置けない医者で、喉を焼く代りに臀部へ皮下注射をして帰つて行つた。その医者の処方で幾種かの薬を買はせて飲んで居たが※[#「執/れんが」、U+24360、130-9]くだらない。医学士大久保さかえ君が一昨年此処ここの病院で腸窒扶斯チブスで亡くなつたことや、此処ここで亡くなつた日本人の遺骨が数日ぜんペエル・ラセエズの墓の棚の上に置かれてあつたのを見たことやを聯想れんさうして、一人ひとり卑怯未練な顔附かほつきをして居ると、梅原君が尋ねて来て驚いて色色いろいろと世話をしてれる。早速さつそく医者を取換へようと云ふので同君の親しくして居るル・ゴフさんを迎へに行つてれた。日本大使館へも十五年来出入しゆつにふし、日本赤十字社の特別社員にも推薦されて居る医者である。ル・ゴフさんは[#「ル・ゴフさんは」は底本では「ル・ゴフさんば」]度度たびたび来てれた。「ツウジガアリマスカ」などと少しの日本語が出来る。此人このひとは梅毒とリウマチスとの治療が得意なのでその家へは男女の梅毒患者が多くくと聞いて、神経のたかぶつて居る僕は喉を焼いて貰ふ度にその器械が無気味でならなかつた。其れから日本で喉を焼けば含嗽うがひをするのだが、この医者はぐつと嚥下のみおろして仕舞しまへ、うすると薬が喉の奥へ善くしみ込むからと云ふ。随分悪辣あくらつな治療法である。
 ル・ゴフさんの処方で病気がなほつたので再びアンデパンダンの絵を観に行つた。セエヌ河の下流の左岸の空地くうちに細長い粗末な仮屋かりやを建てて千七百点からの出品がならべてある。会の名の示す如く飽く迄放縦な展覧会で、三十フランさへ添へて出せば何人なんびとでも三点の出品が出来、三点を超過するごとに三十フランを増して出品すれば幾点でも採用される。選択も無ければ審査も授賞も無い。黒人くらうと素人しろうとも玉石混淆こんかうである。絵がしゆであるけれど、彫塑や其他そのたの工芸美術品も対等の取扱を受けてがうも会自身に価値を定めようとする所が無く、まつたく観衆の批評に一任して居る。絵の取材に概して東洋(日本をも含む)諸国や南洋の風俗自然が多いのはこの会ばかりで無く、立体派、後期印象派、未来派は勿論、一般にこの国の絵に共通した近頃の一特色であらう。アンデパンダンと云へば怪物おばけの様な奇体な絵が多い様に想はれるが、実際は純正な絵が多く、純正なおとなしい絵が土台に成つて奇抜な新画を作らうとして居る。まづい画家も上手な画家も皆自分の心の赴くまゝに筆を動かして真面目まじめに自分の世界を作り上げることをたのしんで居る。自分達の生生いきいきした生活を発揮する事が如何いかにも著しく楽しさうである。恐らく彼等の間に所謂いはゆる天才はすくないであらう。しかし彼等は僕等と同じ呼吸をして居る生生なまなましい現代人である。その自由を通り越して悪平等に流れた陳列法も甚だ痛快で、何と云ふことも無く僕等を昂奮させてれる。其れから二度目に来て観たら売約済の札が沢山たくさんさがつて居た。其れが必ずしも場中ぢやううち何人なんびとにも気に入る佳作と云ふでも無い。巴里パリイ人が絵を鑑賞するにも一概に人の意見に雷同することなく独自の鑑識を信ずる事の厚いのに感服した。
 日本でも何とか云ふ男が文部省の去年の展覧会の絵に墨を塗つたが、巴里パリイでも此間このあひだある二三の画家の催して居る小展覧会へ夜間に忍入しのびいつてある婦人の肖像を抹殺した者がある。これは審査員に対する遺恨と云ふ様な事で無く、その画がよくよく気にらなかつた為だと云ふ。悪戯いたづらぬしつかまらない。(四月十四日)


日本にほんほまれ



 オデオン座で新しく演じて居るパウル・アンテルムの新作劇「日本にほんほまれ」はその芸術的価値はかく、目先がかはつて居るので大入おほいりを続けて居る。筋は忠臣蔵を大分だいぶん穿き違へて、いなわざわざ曲解して仕組んだものだ。鹽谷判官えんやはんぐわんが「大阪侯」高師直かうのもろなほが「仙台侯」由良之助が「彌五郎」とつくり替へられ、仙台侯が大阪侯に託して「頼信よりのぶ」と云ふ一流の画家にみかどへ献上する扇の絵をかせると、大阪侯の家来の吉良(九太夫だいふ)がその画家への礼金を着服ちやくぶくして偽筆の扇を主君に差出す。大阪侯はその扇を宮廷で仙台侯に渡す。その場へ頼信よりのぶが来合せてこれは自分のふでで無いと云ふ。両侯が争ふ。大阪侯がげき[#ルビの「げき」は底本では「はげ」]して仙台侯に斬り附けると云ふのが序幕で、次には大阪侯の切腹、其れから仇打かたきうちの相談が済むと力彌りきやに当る彌五郎の息子が敵の仙台侯に仕へて居て仇打かたきうちを父に思ひまれと忠告したり、彌五郎の娘と恋をして居る大阪侯がたある武士が仇打かたきうちくははらうか結婚しようかと煩悶したり、又彌五郎の茶屋遊びの場などがあつて、最後に仙台侯のやしきに打入り武人ぶじんの面目を保たせて侯に切腹をさせる。其処そこみかどが白い高張たかはり提灯を二つけた衛士ゑいじ前駆ぜんくにして行幸になり、四十七士の国法を犯した罪をゆるおの/\の忠義を御褒おほめに成ると云ふ筋である。(四月十五日)


「モリエエルの家庭」



 国立劇場コメデイ・フランセエズの舞台へ近頃初めてのぼされ現に一週三度も演じて居る韻文劇「モリエエルの家庭」は文芸院学士アカデミシヤンマウリス・ドンネエ氏が文豪の伝記から脚色した五幕六ぢやうの新作で、モリエエルと第二の夫人アルマンとの恋を具体化し、アルマンの乱行らんぎやうに対する文豪の煩悶を主としてゑがかうとした為、かへつて偉大なモリエエルのの雑多な性格、例へばその冷静な哲学者的な方面、その剛愎執拗な方面とうを没了し、必ずしもモリエエルと限らずの芸術家をきたつて主人公としても差支さしつかへの無い様な憾みはあるが、第一の夫人マドレエヌの聡明貞淑な性格が善く活躍して居るのと、部分部分に作者の才気の見えるデリカアな所が多いのと、舞台面が一寸ちよつとかわつて居るのとで、昨冬来俗衆の間に評判のよいプリム・ロオズの様な単調モノトオンな感を与へず、相応に芸術上の効果を備へて居る。諸新聞の批評も概して悪くない。甘い物にはちがひないが、これなら日本に移しても「不如帰ほとゝぎす」で廉価な涙を流させるより功徳の多い事だと思ふから一寸ちよつと簡単に僕の観た所を紹介しよう。
 はじめの幕は文豪の書斎である。モリエエルは机にむかつて脚本「良人学校りやうじんがくかう」に筆を着けて居る。其処そこへ小娘のアルマンがはひつて来る。四十歳を越した文豪の心はかねて愛くるしいこの小娘に動かされて居て二人の間にデリカアな話が交換される。其処そこへ第一の夫人である女優マドレエヌが現れてアルマンを叱りとばしてその部屋へおひ遣る。マドレエヌは良人をつとの原稿を読みながら「貴方あなたの心は近頃大変に若やいで来た。それわかつて居る。年寄つた自分にあきが来て、あのアルマンに移つてくのでせう。あんな年の違つた女と結婚するのは決して貴方あなたの幸ひでない。屹度きつと貴方あなたくるしめる日がある。其れから、あのアルマンを今日けふまで自分の妹だと言つて居たが、実は自分の伴子つれこです。義理の間にせよ父子おやこで結婚は許されないでせう」と云ふと、モリエエルは苦悶しながら「是非ぜひ結婚する事を許してれ」と云ふ。次の幕は※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルサイユの宮廷の大節会だいぜちゑで仮装した幾多の諸侯と貴婦人が華麗な園内の其処彼処そこかしこに舞踏の団を作つて遊び狂つて居る。このまぶしい様な豪奢な光景の中へ盛装したモリエエルの第二の夫人アルマンも加はつて居て、そのブリヤントな容姿が水際つて衆目を惹き附ける。モリエエルと結婚して既に十余年を経たのちなのである。美しい一人の青年の諸侯に口説くどかれて木陰で接吻をする。それを偶然来掛つたモリエエルが瞥見べつけんした。恋に落ちた若い男女なんによは林の奥へ逃げた。
 次の場は同じく、※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルサイユの宮庭内にある劇場の楽屋で、王室づき俳優の部屋が左右に設けられ、右手にモリエエル夫婦の部屋と先妻マドレエヌの部屋とが並び、扉には各俳優の名が白墨チヨオクで記されて居る。夜更よふけである。宮庭の宴会から細君の手を執つて帰つて来たモリエエルの顔は蒼醒あをざめて居る。薄暗い楽屋の板間で突然アルマンの手にすがる男がある。アルマンが「此処ここに居るのはわたしの良人をつとです」と云ふ一語に驚いてその男は逃げ去つた。又の若い諸侯がアルマンに懸想けさうして忍び寄つたのである。モリエエルは年若な妻に対する誘惑の多い事を感じて人知れず煩悶する。細君にむかつて其れとなく「自重せよ、良人をつとの愛を反省せよ」と云ふ。歓楽を追ふ若い細君の心は良人をつとの忠告もうはの空にきき流し、はては「何事もわたしの自由だ」などと云ふ。モリエエルはまり兼ねて「今日けふの園遊会での密会は何のざまだ」と云ふ。二人は言ひ争ふ。細君は怒つて先に部屋へはひつて仕舞しまふ。隣の部屋からさきの夫人のマドレエヌが手燭てしよくを執つてあらはれ一人残つたモリエエルを慰める。
 三幕目は又モリエエルの家である。文豪は久しい間病気に悩んで居る。細君のアルマンは病床をはうともせず常に外出がちで、一人下廻りの女優カトリヌが親切に介抱して居る。モリエエルはれやこれやで気を腐らし脚本「厭世家」に渋渋しぶしぶ筆を着けて居る。医者が来て牛乳を飲めと勧める。牛乳嫌ひのモリエエルは飲まうとしない。さきの細君のマドレエヌが自分の部屋から出て来て「モリエエルよ、貴方あなたの天才を等閑なほざりにして下さるな。貴方あなたの詩才はわらひの神だ。世界は其れにたのしまされる。貴方あなたの天職を沮喪させては成らない」と云ふ。これはげまされて強ひて牛乳を口にする。マドレエヌが退くと部下の女優の一人ブリイが訪ねて来て病気見舞を言ふ。ブリイの世辞がうまいのでモリエエルは何時いつにない機嫌を善くして「お前を見るのはうれしい。其処そこへお掛け。おたがひに芝居を打つて歩いて面白いよるもあつた。しかし今の自分は非常に煩悶はんもんを持つて居る。何事も大目に見て居なければ成らない」と云ふ。少時しばらくして、ブリイは今度の芝居の役不足を述べる。実は其れが為に訪ねて来たのであつた。モリエエルが毅然としてその希望を容れないので初めの世辞に似ず悪体をいて帰つてく。モリエエルは机上の稿本をつかんで足下あしもとなげう長大息ちやうたいそくして長椅子デイ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)に倒れる。
 四幕目は又前の※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルサイユ宮廷の劇場の楽屋で、右手に舞台をなかば据ゑ、開閉あけたてに今演じて居るモリエエルの作の「詐偽さぎ漢」の舞台の人物が見える仕掛に成つて居る。幕がくと登場時間を待つ俳優がモリエエル夫人を取巻いて居る。いろんな諸侯が楽屋へ来て美しい夫人にこびを呈してく。七十近い老文豪コルネエユ迄が出て来る。舞台から青年俳優のバロンがりて来ると、入れ替りにの俳優が登場し、楽屋は夫人とバロン二人きりに成る。かねてバロンに意を寄せて居る夫人はバロンを口説くどいて「お前は確かな接吻をわたしから受取つたか」などと云ふ。二人は相いだく。その時舞台からりて来たモリエエルは愕然がくぜんとしてこれを眺めた。其処そこへ引続いての俳優が多勢舞台からりて来た。二人の男女は急いでの室へ隠れて仕舞しまつた。幕間まくあひに成つたので老文豪コルネエユが再び楽屋へはひつて来たが、モリエエルが何時いつになく不興な顔附かほつきをして冷淡な応答をするので、コルネエユは自分がモリエエル夫人に懸想けさうして居る事についてモリエエルが煩問して居るのだと解釈してモリエエルの前に懺悔をする。モリエエルに取つては其れもまた悲痛の種である。さうして「いやその為では無い」と云つたが、バロンとわが妻との関係を言ふには忍び無かつた。
 最後の幕もまたモリエエルの家であるが、舞台は先妻マドレエヌの病室に成つて居る。寝台ねだいの上のマドレエヌは肺患で死に瀕して居る。モリエエルが見舞に来て話のついでに細君の乱行らんぎやうついて歎息する。モリエエルが部屋へ退くと、女中がはりの女優カトリヌとアルマンが生んだ十歳になるモリエエルの娘マダウとがはひつて来る。マドレエヌは「マダウさん、よい物を祖母おばあさんが上げよう」と云つて人形を与へる。マダウは「とうさんに見せる」と云つて出てく。其処そこへアルマンが外から帰つて来て自分の部屋の方へき過ぎようとするのを、マドレエヌがよび止めて「あゝ好い夕日が窓からす。少し今日けふは気分も好いから話も出来る。お前そこへお掛け」と云ふ。アルマンが「何か本でも読みませうか」と云ふと「いや、書物はよしませう。其れよりカトリヌにひつけて、あの幾つかの箱からわたしの衣類きるゐを出して其処そこ等へならべて御呉おくれ」と云ふ。寝台ねだいタアブル、椅子の上へ掛けて沢山たくさんの古い舞台が並べられ、其れを明るい夕日がてらす。マドレエヌは一一いちいちうれしさうに眺めて追懐に耽つてゐる。アルマンが「可笑をかしなかあさんだこと。こんな物を眺めて、流行遅れの襤褸ぼろばかしぢやありませんか」と云ふと、マドレエヌは目に涙をうかべて「何を云ふ、アルマン。わたしはこれ等の衣裳を眺めると、わたしの若い時、またモリエエルの若い時、そのモリエエルの傑作を幾百と無くモリエエルと一しよに舞台の上で演じた楽しい日が憶ひ出される。モリエエルは一作ごとに世界の人を喜ばせ、うして世界の偉大なる詩人と成つた。アルマン、お前さんは何だ、その偉大なる天才の妻であると云ふ光栄を忘れはしまいね。お前さんはモリエエルを領解して居るかい。お前さんの近頃の行為おこなひは、あれでモリエエル夫人としてはづかしくは無いかね」と畳みかけてなじる。こゝにアルマンは飜然ほんぜんとして夢から覚めた。この時モリエエルが入つて来た。アルマンは良人をつとの胸に泣き倒れて今日けふ迄の不貞を懺悔した。モリエエルは感激して左の手に妻を抱へ、右の手にマドエレヌの手を執つて泣いた。娘のマダウが元気よく駆けて「パパア、ママン、晩飯が出来ました」と云ふので幕がりる。この最後の幕で泣かされる観客くわんかくが多い。実際僕なども目の潤んだ一人である。ある評家は胡麻塩頭のアカデミシヤンが是丈これだけ涙つぽい戯曲を書いた事は近頃の成功だとなかば冷笑的ではあるがめて居る。惜しいことにはジオルジユ・グランと云ふ俳優が世話物に掛けてこそ一流だが、今度始めてう云ふ時代物に手を着けたので、そのモリエエルは未成品だと云ふ外は無い。一体に伊井蓉峰ようぼうの様に軽く動く人でモリエエルの様な大人物に扮するには不向ふむきである、マドレエヌに扮したベルテセルニイ夫人、アルマンに扮したルコント夫人、コルネエユに扮したパウル・ムネは申分まをしぶんの無い出来である。(四月十五日)


魔術街マジツクシテエ



 巴里パリイにも随分田舎ゐなからしい方面がすくなくない。リユナ・パアクや魔術街マジツク・シテエが其れだ。リユナ・パアクはブロオニユの森のそばにある見世物小屋だが、前を通るだけでまだはひつて見ない。
 魔術街マジツク・シテエと云へば、セエヌの左岸のアルマの橋を渡つた街角にある大規模な見世物小屋だ。冬の間は休んで居たが四月から開場したのである。夜毎よごとに盛んな電灯装飾イルミナシヨンを施して客を呼ぶので、だ川風が薄ら寒いにかゝはらず物見だかい巴里パリイの中流以下の市民が押掛けての遊技館も大繁昌である、中に一寸ちよつと痛快に感じるのは、棚に沢山たくさんの皿や鉢を立て並べて其れを客に重いまりを投げさせて思ふ存分壊させる趣向の店だ。看板に「沢山たくさん道具をお壊しなさい、それ貴君あなたのお幸福しあはせ」と書いてある。如何いかにも破壊を好む気ばや仏蘭西フランス人の気に入りさう遊戯あそびだ。店には壊れた陶器せとものが山をし、壊される端から店の女が莞爾にこ/\して新しい皿や鉢を棚に並べて居る。ある晩和田垣博士と僕とで取替へ取替へ片端かたつぱしから一ぴんも余さず壊して見たが、僕の様な癇癪持かんしやくもちにはまことに便利なそして安価で胸の透く遊戯あそびだと思つた。一回分のまりを六個盆に載せたのが日本貨の弐拾銭である。
 この魔術街マジツク・シテエの一部に新しく日本まちが出来た。永年欧米を廻つて居る櫛曵くしびきと云ふ日本人の興行師が経営してるさうだ。春日かすが風の朱塗門をはひると、日本画に漢詩や狂歌のさんのある万灯まんどうが客を中央の池へ導く。池をめぐるのは粗末な幾軒かの日本建築の喫茶店、芸妓げいしやの手をどり、越後獅子を初め、錦絵、小間物、日光細工、楽焼、饅頭屋、易者などの店である。四方の書割かきはりには富士山や日本の田舎ゐなかを現し、松や桜の間に大仏やおやしろなども出来て居る。白昼に観ては殺風景だがよるあかりで観る景色は一寸ちよつと日本らしい幻覚イリユウジヨンおこさせる。関係して居る日本人は四十人ぢかい。中には女が十人程居る。大抵日英博覧会から引続き欧洲に居残つてる連中れんぢゆうだが、この春日本から巴里パリイへ直接出掛けて来た女などもまじつて居る。ある一人の女は東京の実践女学校に居た者で先生の講演を聴いた事があると和田垣博士に話して居た。又一人馬場吉野よしのと云ふ愛くるしい十二歳の娘が居る。倫敦ロンドンで生れて英国の小学校で育つただけに達者に英語を話す。この日本まちに加はつて日本画をいたり日本陶器たうきを売つたりして居る真面目まじめ両親ふたおやの愛嬢である。日本語は英語程に話せないらしく、東京を「トオ、キ、ヨ」と発音するのがかへつて僕達にはうれしく感ぜられた。日本に居て想像すると欧洲三がいんな風にして出稼ぎして居る男女だんぢよは大抵自堕落な人間の様だが、実際は反対に極めて真面目まじめな量見を持て働いて居る者が多い。すくなくともこの日本まちの日本人について僕はう断言する事が出来る。
 この連中れんちゆうは雑多な人間の寄合よりあひで純粋の興行師は案外にすくなく、やむを得ずこの仲間に身を寄せて居るものの、なにがな一芸を修めて日本へ帰りたいと心掛けて居る者が多いさうである。女優の見習ひをしたいと云つて居る女などもある。しかし一時の腰掛にう云ふ興行をして居る連中れんちゆうとしては、たゞ通りすがりにんな事をしてなりとも金儲けさへすれば好いと云ふ様な薄情な態度が無いのは感心だ。彼等は自分の力の可能をつくしてかくも祖国の趣味を欧洲人に紹介しようと勉めて居る。試みにこの日本まちはひつて見るなら、彼等の微力でもつて善く是丈これだけの日本品を取寄せ、不自由な材料をもつたくみに日本風の設備を為し得た事だと誰も感じるであらう。これに附けても僕は日本大使館の風流を歎かざるを得ない。大使代理の安達君は甚だ精勤家で会ふ度にせはさうであるが、祖国の芸術学問を欧洲人に紹介すると云ふ様な精神的方面に対しては余りに等閑に附せられて居る。大使館の応接室をのぞいた者は誰もその書架に飾られた内外書籍の貧弱に驚くであらう。こと何時いつも冷汗をかくのは大小の客間サロンの日本的装飾が内地の田舎ゐなか芝居の書割かきわりにも見る事の出来ない程乱雑と俗悪ぞくわるとを極めて居る事である。場所もあらうに巴里パリイ真中まんなかへ東洋の一等国を代表して様な非美術的装飾を見せびらかすのは国辱も甚だしい。勿論これは安達君の所為せゐではがうも無い、日本の外務省の心掛が悪いのである。僕は十五万円も費したと云ふ大使館の客間サロンまつたく失望して居るが、かへつて微力な中から是丈これだけある種の調和的な日本趣味を具体し得た日本まちを感心だと思ふ。惜しい事には女達の衣裳いしやうまづい。そのひんの悪いメリンス友染を取巻いて珍らしげに仏蘭西フランス婦人が眺めて居るのを見ると冷汗ひやあせの出る気がする。(四月十八日)


五月一にち



 欧洲人の喜ぶ五月第一日プルミエエル・メエを僕も面白くくらしたいと思つて居たら、独逸ドイツの留学を終つて日本へ帰る長野軍医正が立寄つたので、昼間は一緒に医科大学をふやら、パスツウルの研究所を観るやら、眼科医学の泰斗として名高いランドルト教授父子の私宅を驚かすやら、大分だいぶん見当ちがひの案内にせはしかつたが、よるは梅原の所へオデオン座から寄越よこした招待せうだい状で梅原、ロオド・ピサロオ、マウリス・アスランの三人の画家と忠臣蔵を飜案ほんあんした新劇「日本にほんほまれ」を観につた。このロオド・ピサロオ君は有名な風景画家故ピサロオ氏の息子で温厚な青年画家である。芝居は噂の如く今夜も大入おほいりであつた。僕等とむかひ合つた観棚ロオジユに小林萬吾まんご、和田三造外二人の日本人も来て居た。僕が勧めて置いたので長野軍医正の顔も土間の方に見えて居た。
 僕は前にこの日本にほんほまれ」を変な物だと報じて置いたが、其れは忠臣蔵の飜案ほんあんだと思へばこそ僕等日本人にその支離滅裂な点が目障めざはりになる物の、まつたく忠臣蔵の原作を知らない仏蘭西フランス人が観れば非常に珍らしいエキゾテイツクの味に富んだ物にちがひない。又忠臣蔵に関係の無い別個の新作だとして考へれば筋もなり通つて居る。ことに舞台面の装置、背景、光線の使用とううまく出来て居るし、役者の扮装きつけも、はじめの幕から義士が討入の晩の装束をして居たり、左袵ひだりまへに着て居たりする間違まちがひは多いにしても、大体に配色がたくみであるから見た眼の感じが快い。東京で演じる飜訳ほんやく劇と云ふ物も西洋人が観たら定めて可笑をかしな物であらうから、日本の習慣に通じない仏蘭西フランス人の演じる物として是丈これだけに調つて居ればめて置かずば成るまい。中にも茶屋の彌五郎(実は由良之助)は好い出来であつた。日本では九太夫だいふが縁の下に居るのを、この芝居では反対に彌五郎の乱酔らんすゐを吉良(実は九太夫だいふ)が二階から観て居るのである。
 何が最も好くないかと云ふと音楽に東京で広目屋ひろめやが遣るブカブカ調に似た物を用ひた事だ。先年貞奴さだやつこ巴里パリイへ来た時に用ひた楽譜から採つたと云ふ事だが、大阪侯(実は判官はんぐわん)切腹の場でその陽気な調子を奏するのだから僕等日本人にはたまらない。其れに切腹の場に立会ふ立烏帽子たてゑぼしを着た二人の勅使が「勅使」を前にてさせて臨場し、草鞋穿わらぢばきまゝ上段の趺坐あぐらを掻き、背後に二人の小姓がおの/\二本の刀を両手につかんで捧げた形には思はず梅原と二人で吹出して仕舞しまつた。稽古の時に和田垣博士が切腹の場で笛を用ひる様に注意せられたのであつたが、舞台監督のアントワンが笛のを聞くと縮みあがる程嫌ひだと云ふので見合せに成つたのださうだ。
 腹切はらきりの形も最初は真中まんなか棒差ぼうざしつゝ込んでうしろへ倒れるのであつたが、最後の稽古の日に徳永柳洲が教へて遣つたのでうにか見られる様に成つた。しか俯伏うつぶすのは形が悪いと云つて前へズツと乗出して腹這はらばひに成つて仕舞しまふのであるが、其れが又新しい味のある形になつて居て、決して変でなかつた。其外そのほか最敬礼の場合に皆が度度たびたび腹這はらばひに成る。勅使に対しても大阪侯の夫人侍女家臣等が腹這はらばひに成るのを始め、大詰の仇討あだうちの場へ日の丸の提灯ちやうちんを先に立てながみかどの行幸がある時にも舞台の人間は一切寝るのである。舞台監督の意向は日本の習慣などはうでもい、たゞ欧洲に無い野蛮趣味と新しい形とを出して観せたいのらしい。
 観客くわんかくは幕ごとに大喝采をする。切腹の場ではをんな客の目に手巾ムシヨワアルが当てられるのもすくなく無かつた。四幕目にキニゼイと云ふ妙な名の若侍が彌五郎の娘である許嫁いひなづけの愛情にほだされて、今宵こよひに迫る仇打かたきうち首途かどでに随分思ひ切つて非武人的に未練な所を見せる。其処そこ多勢おほぜいの義士が誘ひに来て散散さんざんに辱めた上飽迄あくまでも躊躇して居るキニゼイに告別して行つて仕舞しまふと、キニゼイ先生もつひに決心して許嫁いひなづけ突除つきのけ同志のあとを追つてく。其れから大詰に仇方かたきがたに仕へて居る彌五郎の息子野助のすけ(実は力彌りきや)が主人の為に父と戦ひ一刀に斬られる所がある。これ等も変つて居るので観客くわんかく大受おほうけである。想ふに英国で書かれた「ムスメ」この国で既に演じて居る「バツタアフライ」と並んで当分欧洲の俗衆に歓迎せられる日本劇はこの「日本のほまれ」であらう。しかし僕のもつとも感服する事は巴里パリイの一流の劇評家がこれに対して大袈裟な批評を試みない事である。
 芝居のあとはピサロオ君の発議でモンマルトルに引返し、あるにぎやかな酒場キヤバレエで朝の三時ぢかくまで話して居た。キヤバレエには伊太利イタリイ人の音楽や踊子のをどりがあり、又気取つた風をした即興詩人が二三人も居て当意即妙の新作を歌ふ。其れから客と美しい女連をんなれんとのダンス暁方あけがたまで続くのである。(五月二日)


巴里パリイのいろいろ



 ル・バルヂイ氏は仏蘭西フランス一の喜劇役者だが、硬骨な氏は去年の春舞台監督と衝突して即座に辞職を申出まをしいで、多勢の名士の仲裁もその効なく、昔女優サラ・ベルナアルが[#「サラ・ベルナアルが」は底本では「サラベル・ナアルが」]奮然辞職した以来の大悶着を惹起ひきおこして居た。いよ/\辞職と決したのでこの十七日に氏の御名残おなごり狂言がコメデイ・フランセエズ座で催され、氏の得意おはこの物を一幕ひとまくづゝ出し、ムネ・シユリイ其他そのたの名優が一座するはずである。三週間前から切符を売出したが、平生の十倍に当る価格の切符が僕が五日目に出掛けた時大抵売切れて居たのでそのさかんな人気がわかる。当日の総収入は一切ル氏に贈る定めなので、の俳優はまつたく無報酬で一座し、すべての費用は劇場の負担である。
 ル氏はだ五十四五歳だから此後こののちうするかと云ふ事は巴里パリイ人の間に興味ある問題となつた。氏に対してコメデイ・フランセエズ座からかねて捧げて居る劇場株は十八万円ある。氏が辞職と共に俳優をめて仕舞しまへば永久この恩給に浴する事が出来るが、の劇場へ出れば十八万円は一切没収される規定なのである。然るに氏は飽迄あくまでも芸術の人として進みたいのであるから、それ等には頓着せず、ポルト・サン・マルタン座へ首席俳優としてはひる事に決めて仕舞しまつた。国立劇場の方でも氏の多年の功労に対しまつたく従来の持株を取上げる具合にもかないから、結局は幾分をの名義で贈呈する事になるであらう。其れからしばらく適当な役者を欠いて居たので上場せずに居たロスタンの「シラノ・ド・ベルジユラツク」を、ル・バルヂイ氏のシラノで演ずるであらう、其れが大変なはまり役であらうと評判されて居る。(五月四日)
 サロンが新旧とも開かれて居る。だ二度しか行つて見ないし、其れに点数が両方で一万に近い事であり、加之おまけ仏蘭西フランスばかりで無く春の見物に来た世界のお客様がうようよしてゐる中でせはしく一べつして歩くのだからたしかな評判も出来ないが、う量が多ければ概して普通なみ作物さくぶつばかりになるのは勿論だ。其れに巴里パリイへ来てから僕の目も贅沢ぜいたくに成つて居るだらうから、自然これはと特に感服する絵はすくない様だ。その中でアマン・ジヤン氏の「地水火風」セカリエ・ベリユウス氏の「踊子」などが目を惹くのを思ふと矢張やはり群を抜いて居るのであらう。
 同時に個人の絵が幾つも初まつて居るので中中なかなかせはしい。※[#濁点付き井、156-8]ヤアル氏は若手の中の流行子はやりつこで一作ごとに技巧の変化を見せ過ぎる嫌ひはあるが、うは調子で無く、全体に内から燃える豊かな同情にとけ合つた強い色調で葡萄酒のくらはひつて居る様な甘い温かな感を人に与へる。人間をゑが巴里パリイの青年画家の中で僕の今日こんにち迄に最も感服したのはこの人である。又新しく印度インド内地の旅行から帰つて来たベナアル氏の印度土産インドみやげの絵が目下もくか大変な人気を集めて居る。異国の風情ふぜいを好む近年の流行心理に投じた為もあるが、欧洲人にしてこの画家程印度インド人を領解した人は無いと云ふ諸新聞の推讃も決して諛辞ゆじで無い。氏は多く河辺にり立つて聖水に浴する印度インド婦人に興味を持ち、其れに就いて幾多の面白い作を成就して居る。開会以来半月も経たぬに七まで売約済に成つて仕舞しまつた。
 又この月は仕合しあはせな事に二人の老大家だいかの新作に接することが出来る。ルノワアル翁は既にその新作ばかりをジユラン・リユイルの店の数室にならべて居るが、何よりもづ老いてます/\精力のさかんなのに驚く。僕にはだ翁の近年の作の妙味が十分得せられないが飽迄あくまで若若わかわかしいこの翁の心境は例の真夏の花を嗅ぐ様な豊艶多肉な女をむ色もなく描いて居る。しばらを廃して庭作りをたのしんで居ると云ふ噂のあつたモネ翁がこの二十七日からその新作を見せてれる事になつたのはうれしい。又多年眼を病んで居るドガ翁も近頃は折折をりをり絵筆を取るさうである。まだマチスの絵を見る機会がない。
 欧洲へ来てだ日の浅い僕の観察に大した自信も無い事ながら、従来日本に居て新帰朝者の報告で聞いて居たのと実際と大分だいぶん相違のあるらしいのに事に触れて気が附く。例へば避姙がさかんだと云つても其れは仏蘭西フランス全体の事では無く、巴里パリイ其他そのたの都会に主として行はれる事実である。如何いかにも一生涯子を産まない女が巴里パリイに多い。産むにしても大抵一人の子に限られ二人の子を育てて居るのは甚だ稀である。しかし少し田舎ゐなかけば三人以上の子供のある家は決して珍らしく無い。僕の知つて居るある田舎ゐなかの婆さんなどは十七人の子を産んで十人だけ育つて居る。これ等は特例であらうが、かく避姙は都会生活の複雑な事情から由来するので簡素な地方生活にはその必要が無い。ればこれもつたゞちに人口の減少を論じ仏蘭西フランス衰頽すゐたいを唱へるのは杞憂であつて、たとひ都会人の出産数は減少しても常に地方人がこれを補充するから都会の人口はむしろ加はるとも減る事は無い訳である。又仏蘭西フランス全体に一時人口の減少する事実があるにしても其れが永久に続くとは断ぜられず、ことに人口の減少がやがて国家の萎靡ゐびを招く原因だとは思はれ無い。現に仏蘭西フランスの富は年毎としごとに増してくし、学問芸術に就いてはロダンの彫刻、マスネエの音楽、ポアンカレエの科学、ルノワアル、モネ、セザンヌ、ゴツホ、ゴオガン、マチス等の絵画、※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルハアレンの詩、ベルグソンの哲学、キユウリイ夫妻のラジウム発見に至るまで常に世界文明の先頭に立つて居る。衣食つて深沈大勇たいゆうな思索研究にふけつため、あるひは表面的な士気にいさゝか弛緩の姿を示したかも知らぬが、其れは一の事であつて、光栄あるラテン文明の歴史に根ざした国民の実質は衰へるよしも無く、独逸ドイツ近年の外圧に奮起して尚武の気風はとみに揚がつて居る。今春の議会に海軍拡張案を提出した政府がしきりに日本を例に引いて反対党の気勢をくじいたのは目覚めざましい現象であつた。
 日本では近年何事にも官営が流行し、其れが必ずしも国庫の収入を増す結果に成つて居ないらしいが、民衆の利益を主として万事を経営する仏蘭西フランス政府の遣り口を見ると、民業として利益あり官営として損失のある性質の物は勿論民営に任す方針を取つて居る。う云ふ事についても従来欧洲を視察して帰る日本の官人くわんじんの報告が粗漏だと思ふ。例へば日本の逓信省は去年あたりから東京市内の小包制度に繁雑な拡張を実施し、米俵から洋傘かうもりがさ弁当に到る迄迅速に配達する事に成つたが、これが為にだけ市内労働者の仕事を奪つたか知れない。その割に逓信省の収入が殖えたかと云ふと、其れには係員や配達夫を増したであらうし、一にせよそれ等の品物を受入れる場所の設備も要したであらう、して配達料はと云へば麻布の奥から本郷の奥まで米一俵を配達するにも一人の配達夫と一輛の車とを要しながわづかに四銭か六銭である以上、決して大した実益は無いにちがひない。巴里パリイの市内小包はうかと云ふと東京の様に迅速な配達制度は無くたゞ一日に三回配達する普通小包だけである。その外に至急を要する物は各自の家の使用人に持たせて遣るか、使ひ歩きを業とする者に託する。郵便局で受入れる普通小包は直接に郵便局が配達するので無く、逓信省はこれある会社へ一手に委託して配達させて居る。会社は逓信省へ一年わづかに七千六百フラン(三百十四円)の請負料を納めるだけ其他そのたの小包料は一切会社の所得である。巴里パリイの小包は一日平均七千個だと云ふから、これし郵便局で配達するとすれば係員の多くを要し事務の繁雑な割に利する所はすくないが、会社の方ではたゞ一人の社長が機敏に差図し市内二十幾箇所の出張所に百五十人の係員、八十人の配達夫、十人の補助配達夫を使用するだけで事が捗取はかどつてくから民業として立派な収益を得て居る。僕は日本と比較してこの国の逓信省の賢さを歎称せずに居られない。
 日本の役所は一体に無用な記録が好きで、郵便局のの口をのぞいても大きな幾冊かの帳簿の番人が控へて居るが、巴里パリイで為替を組んでも小包を出しても、小さく三枚に切れる用紙で事が済み、一枚は受取証、一枚は為替券もしくは小包に貼附ける物、あとに郵便局に残る小さな一枚が正本の大帳簿に相当する物である。う云ふ事に簡潔なのがだけ便利でつ経済的だか知れない。僕は学校の卒業証書と云つても好ささうな立派な大きい為替用紙をおもひ出して日本人の無用な贅沢ぜいたくに呆れる。(五月十日)


飛行機



 東京の音楽学校を卒業した音楽家で併せて近年欧洲の飛行機界に名を知られた飛行機家である「男爵※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ロンシゲノ」が、その創意に成つた滋野しげの式飛行機若鳥わかとり号を携へ遠からず巴里パリイを立つて日本へ帰るはずだ。氏は去年の今頃飛行機から[#「飛行機から」は底本では「飛行機かち」]落ちて軽傷を負うたが、その一週年とでも云ふ訳か近頃少しはい部が痛むと云つて居る。其れで飛行は試みないが矢張やはり毎日イツシイ・レ・ムリアウにある飛行場へ出掛けてく。和田垣博士と僕とが氏の出立前しゆつたつぜんその飛行場へ一度案内して貰ふ約束をして置いたので一昨日をとゝひの午後風の無ささうな空を見込んで氏の下宿を尋ねると、下宿の主人が氏はパンテオンの横町の自動車を預ける会社へ行つたと云ふ。二町足らずの近いところにある会社へぐ跡を追つてくと、滋野君は半月前はんげつぜんに買つた新しい自動車を会社の入口いりくちに引出してしきりに掃除して居た。華族様に似合はない器用な男で、何時いつにか自動車の練習所を卒業して巴里パリイ市庁からの免状をも取つて居る。
 二人でリユクサンブル公園の裏の下宿へ和田垣博士を誘ひに寄ると、博士はフレデリツク・ノエル・ヌエ君と云ふ巴里パリイの青年詩人を相手に仏蘭西フランス語の稽古をしてられるところであつた。僕はヌエ君の新しい処女詩集についてヌエ君と語つた。詩はまだ感得主義サンチマンタリズムを脱して居ないが、ひどく純粋な所がある。甚だ孝心ぶかい男で、巴里パリイの下宿の屋根裏に住んで語学教師やその外の内職で自活しながら毎週二度田舎ゐなかの母親をふのをたのしみにして居る。ヌエ君と下宿のかどで別れて三人は自動車に乗つた。有名な髑髏洞カタコンブの前まで来てそのむかひの珈琲店キヤツフエ一寸ちよつとやすまうと滋野君が云つた。同じく飛行場を観たいと云ふあるお嬢さんを其処そこで待合す約束に成つて居た。麦酒ビエエルを飲んで居ると約束の午後四時にそのお嬢さんが遣つて来た。しか今日けふにはか差支さしつかへが起つてかれない、只その断りに来たのだと言ふ。目附の憂鬱メランコリツクな、首筋のほつそりとした、小柄な女である。その帰つて行つたあとで「お嬢さんと云ふ言葉は勿体なからう」と云ふと、滋野は笑つて「もとは帽子に附ける造花を内職にして居た物堅いうちのお嬢さんだが、近頃は少し怪しいお嬢さんに成掛けて居る。しかし何となく雨に打たれた様な女であるのがいぢやないか」と云ふ。博士いはく、「油絵にく女だね。」
 東京のみちの様で無く、目まぐるしい程自動車や其他そのた雑多な車の行交ゆきか巴里パリイ大道だいだうたくみに縫つて自動車を駆る滋野君の手腕は感服すべき物であつた。巴里パリイの城門を出るのに税関吏が尺度ものさしもつて自動車の貯へて居る揮発油エツサンスの分量を調べた。これは市内と田舎ゐなかとで揮発油エツサンスの価格が違つて居るから、し帰途に其れ以上の分量を持つてれば課税するのである。飛行場は東京の青山練兵場に少し広い位の場処で、大小二十幾所の格納庫が其れを取巻いて居る。なほこれと同じ飛行練習場が巴里パリイの近郊だけに十箇所から有ると聞いて如何いかに飛行機の研究がさかんであるかが想はれる。飛行場は一切陸軍省に属して居るから出入しゆつにふの人を騎馬の憲兵が誰何すゐかする。
 どの格納庫にも幾つかの飛行機が納められて居て一一いちいち様式がちがつて居る。墜落して壊れたのもある。不備な所を修繕して居るのもある。飛行場は陸軍省に属して居ても、官営万能まんのう[#「執/れんが」、U+24360、166-3]かゝつて居る日本と違つて格納庫も其れに納めてある飛行機もすべて私人の所有である。此処ここは一番古い飛行練習場だけの格納庫も飛行機史上に逸し難い最初の面白い記録を持つて居る。滋野君はそれ等を語りなが一一いちいち飛行機の特色を説明してれた。ナ※[#濁点付き井、166-6]ガツシヨン・アリエンヌに属する格納庫に両三日前発動機モツウルの装置の改善を終つた滋野君の若鳥号が納められて居る。全部鋼鉄で出来て居る事が一見してちがつて居る。その外細部にわたつた特色は数月すうげつのちこれが日本へ持帰られた時明瞭となるであらう。重量は三百キロ、馬力は六十である。ナ※[#濁点付き井、166-9]ガツシヨン・アリエンヌの飛行家長セエフ・ピロツトルシヤン・ドユマアゼル君が僕等より先に来て、風さへいだならば今日けふこの若鳥の修繕後第一回の飛行を試みやうとして居た。このドユマアゼル君は十四歳ぐらゐの時から毎日飛行機に乗つて居るので巴里パリイ屈指の飛行家ピロツトであるが、年齢が足らなかつたので政府から免状を得て以来だ二箇月にしか成らない。やうやく十八歳二箇月なのである。
 午後五時前にとをばかりの飛行機が引出されたが、風が強いので皆地をつて発動機モツウルの具合を試したり、滑走試験を続けたりして居る。それ砂煙すなけむりを蹴立てるので広い場内が真白まつしろに曇つて仕舞しまつた。ドユマアゼル君は断念して帰つて行つた。僕達は場外へ出て少時しばらく珈琲店キヤツフエやすんだ。和田垣博士の駄洒落が沢山たくさんに出た。「巴里パリイに多い物はづくし」を並べて種種いろいろの頭韻をかぶつた句などが出来る。その内に二隻の飛行機が風を侵して飛び初めたので僕達は場内に引返した。僕は巴里パリイへ来て頭の上を飛ぶ飛行機は度度たびたび見て居るが、地を離れたり着陸したりする光景を観るのは今日けふ初めてである。其れが飄然ふはりとして如何いかにも容易たやすい。どの飛行機にも飛行家ピロツト以外に物好ものずき男女なんによの見物が乗つて居る。和田垣博士も僕も自然と気があがつて乗つて見たく成つた。飛行機から落ちると云ふ事は最早もはやまん一の不幸に属して居る。ばん一の不幸を気にして居たら土の上も踏めないわけだ。自動車にかれて死ぬる事もあるのである。乗るなら頼んで見ようと滋野が云つたけれど今日けふ其外そのほかに飛ぶ飛行機が無かつた。其処そこへ飛行機を専門に写す写真師が自転車で遣つて来たのをよび止めて、記念の為に若鳥号を引出させてその前で三人が撮影した。
 滋野の話にると、修繕前の若鳥号にしば/\乗つて飛行を試験して居た飛行家ピロツトにナルヂニイと云ふ伊太利イタリイ人が居た。その男は仏蘭西フランス政府の飛行免状を取つて居る巧者かうしやな飛行家であるが、伊太利イタリイ人でありなが土耳其トルコ軍へ数隻の飛行機を取次いで売つたと云ふので本国政府から仏蘭西フランス政府へ取押へ方を請求して来た。其れで仏蘭西フランス政府は本人に退去命令をくだすと、ナルヂニイは「よろしい」と云つて、即日ドユペル・ドユツサンと云ふ単葉式五十馬力の飛行機に乗つて、巴里パリイの郊外※[#濁点付き井、169-3]ロン・グブレエから英国のロンドンへ「雲を霞」とお手の物で飛んで仕舞しまつたのは人人を一寸ちよち痛快がらせた。だ十日ぜんの事ださうである。
 今日こんにちあたりから倫敦ロンドンのデリイ・メエル新聞社が三十万円を提供して英国の各州へ数隻の飛行機を飛ばせ、最早もはや飛行の可能は議論の余地が無い、たゞ実際の飛行を示して国民の飛行機※[#「執/れんが」、U+24360、169-11]を盛んにしようと企てて居るが、その飛行家ピロツトすべて仏国から招聘した。斯様こんな話を自動車の上でしながら帰途はセエヌ河の右岸に沿ふて夜のの美しい巴里パリイの街へはひつた。オペラの前の通りのレスタウラン・ユニ※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルセルで美味うま夕飯ゆふめしを済ませて両君と別れたのは十時前であつた。(五月十七日)


巴里パリイまで(晶子)



 浦潮斯徳ウラジホストツクを出た水曜日の列車は一つの貨車と食堂と三つの客車かくしやとで成立つて居た。私の乗つたのは最後の車で、二人詰の端の室であるから幅は五尺足らずであつた。乗合の客はない。硝子ガラス窓が二つ附いて居る。浦潮斯徳ウラジホストツクに駐在して居る東京朝日新聞社の通信員八十島やそじま氏から贈られた果物の籠、リモナアデのびん、寿司の箱、こんな物が室の一ぐうに置いてあつた。手荷物は高い高い上の金網の上に皆載せられてあつた。浦潮斯徳ウラジホストツク勧工場くわんこうばで買つて来た桃色の箱にはひつた百本いりの巻煙草たばこと、西伯利亜シベリアの木で造られた煙草入たばこいれとが机の上に置いてある。これ等が黄色なてらされて居るのを私は云ひ知れない不安と恐怖の目で見て居るのであつた。しまひには両手で顔を覆ふてしまつた。ふと目が覚めて時計を見ると八時すぎであつたから私は戸をけて廊下へ出た。四つ目の室に斎藤氏が居る。その前へくと氏が見附けてぐ出て来た。食事がだ済まないと云ふと、食べないで居ると身体からだが余計に疲れるからと云つて、よろよろと歩く私をれて氏は一度すまして帰つた食堂へまた行つた。機関車に近いので此処ここ[#ルビの「ここ」は底本では「こしよ」]は一層揺れがはげしいやうである。スウプとシチウとに一寸ちよつと口を附けただけで私は逃げるやうにして帰つて来た。其間そのあひだ寝台ねだいがもう出来て居た。十二時頃にとまつた駅で錠をおろしてあつた戸が外から長い鍵でけられたひゞきを耳元で聞いて私は驚いて起き上つた。支那の国境へ来たのであるらしい[#「あるらしい」は底本では「あるあしい」]はひつて来たのは列車に乗込んだ役人と、支那に雇はれて居る英人の税関吏とである。荷物はれとれかと云つて、見たまゝ手を附けないで行つた。三時半頃から明るくなり掛けて四時にはまつたが明けてしまつた。五時すぎに顔を洗ひにくと、白いまばひげのある英人が一人廊下に腰を掛けて居た。ずつとむかうの方には朝鮮人も起きて来て外を見て居るやうであつた。斎藤氏は朝寝坊をしたと云つて、八時すぎに食堂へくのを誘ひに来た。パンと珈琲コオヒイだけの朝飯あさはん一人前ひとりまへに払ふのが五十銭である。午後の二時に哈爾賓ハルピンへ着いた。ブラツト・フオオムに立つて居た日本人は私の為に出て居てくれた軍司ぐんじ氏であつた。電報が来たと云つて斎藤氏が持つて来た。「西伯利亜シベリアの景色お気に入りしと思ふ」と云ふ大連たいれん平野万里ひらのまりさんから寄越よこしたものであつた。伊藤公の狙撃されたと云ふ場処ばしよに立つて、その眼前がんぜんに見た話を軍司ぐんじ氏の語るのを聞いた。「この汽車は私のために香木かうぼくいてく」こんな返電を大連たいれんへ打つた。石炭を使はないで薪を用ひるのは次の国境迄ださうである。どの駅でもこはい顔の蒙古犬もうこいぬいかめしいコサツク兵や疲れた風の支那人やが皆私の姿をいぶかさうに見て居た。夕方に広い沼の枯蘆が金の様に光つた中に、数も知れない程水鳥の居るところを通つた。白樺のちさい林などを時時ときどき見るやうになつた。三日みつか目の朝にまた国境の駅で旅行券や手荷物を調べられた。午後に私の室へ一人の相客がはひつて来た。服の上に粗い格子縞の大きい四角な肩掛をした純露西亜ロシア風の醜い女である。良人をつとほかところに乗つて居るらしい。大抵廊下へ出て其処そこで夫婦が話をして居るやうであつた。晩餐後に私が少し眠くなつてうとうとして居るあひだその婦人は降りてしまつた。十ときすぎ寝台ねだいを作らせてはひるとそとから戸をけられて相客が来たやうであつた。私は見ないで顔を覆ふたまゝで居た。小さい子供の泣声や咳をする声などが夜中に度度たびたびしたので、上の寝台ねだいへ来たのは子持の婦人らしいと思つて居た。
 二人になると昨日きのふ迄のやうに早く起きて寝台ねだい仕舞しまはせたりする勝手も今朝けさは出来ないなどと思つて、目が覚めてからとこの中でぢつとして居ると、前の鏡へ上の客が映つた。寝て居ると思つて居た人が坐つて居る。白い切れを髪の上に掛けて、色の白いを抱いて居る気高けだかい美しい女である。マリヤがふとあらはれた様な思ひもしないではない。化粧室へ行つて顔を洗つて来て髪を結つて着物を着へても、二度をした上の客はまだ起きさうにない。私は書物を持つて廊下へ出た。汽車は渓川たにがはに添つて走つて居るのであつた。箱根の山を西へ出たところのやうな気がする。雪が降つて来た。食堂から帰つてもまだ私の室の戸は閉められてあつた。九時すぎ[#ルビの「すぎ」は底本では「す」]にそつと寄つて戸からのぞくと桃色の寝衣ねまきを着た二十四五の婦人が腰を掛けて金髪を梳いて居た。夜明よあけの光で見た通りの美しい人である。長春ちやうしゆんから来て哈爾賓ハルピンうしろへ二つ繋がれた客車かくしやの人をも交ぜて三十人余りの女の中でこの婦人が出色の人である。昼前にはもうどの男の室でもその噂がされて居たらしい。この若い露西亜ロシア婦人は令嬢が百日咳のやうな気味であるめ冷たい空気のはひらないやうにと部屋の戸にも廊下の端の戸にも気を配つて居た。晩餐の卓に就いて居た時、動き出さうとする汽車を目懸めがけて四羽のがんの足を両手で持つて走つて来る男があつた。再び汽車が止まると食堂のボオイが降りてそのがんを買つた。珍らしさうに左の窓際の客が皆立つて見るのを、「何ですか」と日本語で問ふた貴婦人があつた。斎藤氏は英語でその人と話をして居た。それは私を女優かと聞いたと云ふ紳士の令嬢である。私の同室の人は夜になると母も子もはげしく咳をする。四目にはバイカル湖が見えるはずであると云つて誰も外の景色の変るのを楽しみにして居るやうであつたが、やつと二時頃に白い湖の半面が見え出した。みぎはに近いところだ皆氷つて居る。少し遠い青味を帯びたところは氷の解けて居るところであるらしい。また白いところがあつてそのむかふに水色の山が見える。幅の広くないところと見えて山際の家の形が見様みやうつて見えない事もない。一けん程の波が立つたまゝで氷つて居るのも二三里の間続いた景色であつた。鏡の様に氷が解けて光つたところにはうをが居るらしく、船に乗つて釣をして居る人もあつた。此様こんな風ななぎさも長く見て居るうちにはもう珍らしく無くなつて東海道の興津へんを通る様な心持になつて居た。六時に着くはずのイルクウツクで一時間停車して乗替を済ませたのは十一時過ぎであつた。前の晩には金碧きんぺきまばゆい汽車だと思つたが朝になつて見ると昨日きのふ迄のよりは余程よほど古い。窓も真中まんなかに一つあるだけである。莫斯科モスコオまであとがもう五晩いつばんあると思つて溜息をいたり、昨日きのふ一昨日をとゝひも出したのに又子供達に出す葉書を書いたりして居た。六日むいか目に同室の婦人は後方うしろ尼様あまさんの様な女の居る室に空席が出来たと云つて移つて行つた。汽車はたまの様な色をした白樺の林の間ばかりを走つて居る。稀には牛や馬の多く放たれた草原くさはらも少しはある。牛乳とか玉子とか草花の束ねたのとかを停車場ステエシヨンごとに女が売りに来る。私の机の上にも古いくわんに水を入れて差された鈴蘭の花があつた。乗客じようかく係が来て莫斯科モスコオから連絡する巴里パリイ迄の二等車の寝台しんだいが売切れたから一等ばかりのノオルド・エキスプレスに乗つてはうかと云つた。八十円増して出せばいと云ふのである。露貨は其様そんなに持たない、仏貨をぜたら有るかも知れぬと、云ふとそれでもいと云ふ。かく八十円を出して仕舞しまふと、後は途中の食費と小遣が十円も残るや残らずになるのである。心細い話だと思つて私は考へたが、二等の寝台しんだい車を待つために幾日いくか莫斯科モスコオに滞在せねば成らぬか知れない様な事も堪へられないと思つて、結局仏貨で三十九円六十銭出してノオルドの寝台しんだい券を買つた。あと四十円は莫斯科モスコオで一等の切符とかへる時に出すのだと云ふ事である。男の席はあると云ふので斎藤氏は二等車の寝台券を買つた。
 川は二三ちやうの幅のあるのも一けんけん流れも皆氷つて居る。つもつた雪も其処そこだけ解けずにあるから、盛上つて痩せた人の静脈せいみやくの様である。七日なぬか目にまた一人の露西亜ロシア女が私の室の客になつた。快活な風でよく話を仕懸ける人である。ウラルを越えていよいよ欧羅巴ヨウロツパはひつた。山の色も草木の色も目に見えてこいい色彩を帯びて来た。此辺このへんでは停車するごとにプラツト・フオオムの売店へ宝石を買ひに降りる女が大勢ある。私もその店へ一度行つて見た。紫水晶の指の触れ心地ごゝちい程の大きさのを幾何いくらかと聞くと五十円だと云つた。ロオズ・トツパアス、エメラルドなどが皮の袋の中からざらざらと音を立てて出されるのは、穀類の様な気持がする。夜の駅駅えきえきともる黄なの色をしたトツパアスもあつた。某駅から巴里パリイ良人をつと莫斯科モスコオの石田氏とへ電報を出した。動揺ゆれはげしい汽車も馴れてはこの以外に自身の世界が無い様な気がして、朝は森にいて居る小鳥の声も長閑のどかに聞くのである。ボオル大河だいがの上で初めて飛んで居る燕を見た。に湖が見えてその廻りを囲んだ村などがの様である。露西亜ロシア字で書いた駅の名はもとより私に読まれない。曇色くもりいろの建物の中に寺の屋根が金に輝いて居るのが悲しい心持をおこさせる。十六日のになつた。翌てう待遠まちどほでならない。何時におこさうかとボオイが聞くので、六時に着くなら五時でいと云つた。おこされる迄もない事であると心では可笑をかしく思つて居た。同室の人はこれも頼んであつたボオイにおこされて夜明よあけの四時頃に降りて行つた。莫斯科モスコオのグルクスの停車場ステエシヨンには朝鮮人のぼく氏が来て居てれた。電報で頼んで置いたから領事館に来て居た私宛の手紙を持つて居た。此処ここからビレスト停車場ステエシヨンへ行つて其処そこで乗替をするのである。切符の増金ましきんは二十五円五十五銭でいと云ふ事である。聞いたのよりも十五円程すくないのを気にしながら朴氏と馬車に乗つて街へ出た。道路は東京より悪い様なところもある。浦潮斯徳ウラジホストツク程ではないが馬車から落ちさうな気がしないでもない。ブラゴウエスチエンスキイ寺院の暗い中にかすかともつた石の廊下を踏んで、本堂の鉄の扉の間から遠いところの血の色で隈取られた様な壁画を透かして眺めた。モスコオ河の上に脅かす様に建てられた冬宮とうきゆうも旅の女の心にはたゞあはれを誘ふ一つの物として見るに過ぎない。白い宮殿の三層目の左から二つ目の窓掛が人気ひとげのあるらしく動いて居た。宗教画にいろどられた高い門をくゞつてにぎやかな街へ出た。朴氏は勧工場くわんこうばへ私をれて行つたが、私は汽車賃がいづれ又追加される様な気がして莫斯科モスコオの記念の品も買ふ気にはなれなかつた。領事館は十時でないと人が来て居ないと云ふので、私は花岡、石田二氏への言伝ことづて[#ルビの「ことづて」は底本では「ことづで」]を朴氏に頼んでまた汽車に乗つた。椅子が一つあつて室ごとに化粧室が備はつて居るだけで、欧羅巴ヨウロツパで最も贅沢ぜいたくだと云はれるノオルドの汽車も其程それほど有難い物とも思はれない。十一時ぜんに発車した。ボオイが来て明日あすアレキサンドロ※(濁点付き片仮名ヲ、1-7-85)ウでもう三円三十五銭払へと云つた。だ追加をあとから多くされるのではないかと云つたが、巴里パリイ迄それでいのだと云ふのであつた。食堂のボオイが各室へ注文を聞きに廻るのが私にだけは何とも云はない。食べたくもなく思ひながら時間に食堂へ出て見ると、席が無くてやつと田舎ゐなか女らしいけばけばしい首飾りをした厭な黒い服の婦人の隣で椅子を与へられた。ボオイの顔附かほつきが不愉快である。私は昨日きのふ迄の汽車をなつかしく思はずには居られなかつた。
 晩餐の時ははじめに私を女優かと問うた英国の老紳士の隣へ坐つた。日本語をよく話す人である。明治六年から三十八年間横浜に居る人ださうである。汽車賃はもう十円位追加されるだらうとその人が云つた。今夜初めて私は上の寝台ねだいで寝た。日本に居る頃から心配して居たワルシヤワの乗替は十八日の午前十一時頃に無事に済んだのであるが、ボオイが来てもう二十八円出さなければ成らないと云はれた時私は胸をとゞろかした。三円三十五銭はもうワルシヤワの手前で払つたのである。莫斯科モスコオで朴氏にした礼と馬車代とを使つたあとで、仏貨や独逸ドイツぜにを交ぜても二十五円足らずより持合せがない。間違ではないかと云つて見たがうしても二十八円要ると云ふ。不愉快な思ひをして食堂へ出る事はしないでもいから其れは食べない事にするとしても、うも巴里パリイ迄はけさうにない。かうなると何処どこで降ろされるかも知れないと思ふので少しでも遠い距離にれてかれたい心で汽車の走るのがうれしい。考へ抜いた揚句あげく今夜私は伯林ベルリンで降りるとボオイに云つたが不可いけないと云ふ。うしても伯林ベルリンで降りるのだと云つても頑として不可いけないと云ふ。荷物の関税の関係などの事でさう云ふのである。私は伯林ベルリンの松下旅館で一晩とまつて翌日普通の二等車にさへ乗れば楽に巴里パリイへ着かれると思ふのであるが、其れが出来ない事ならうすればいかと、むかふ任せの気にもなれないで胸を痛めて居た。もうアレキサンドロ※(濁点付き片仮名ヲ、1-7-85)ウに来て居るのである。ふと目を上げると窓の外のプラツト・フオオムを横浜の英人が運動に歩いて居る。倫敦ロンドン行の汽車は別のかと思つて居たのであるが、前とうしろになつて居るだけだ両方繋がつて居る事にこの時初めて気が附いた。私はその人のそばりて行つて伯林ベルリンで降りる事をもう一度交渉して見て下さいと頼んだ。紳士はぐ来てれてボオイにさう云つてれたが矢張やはり駄目だと云ふ。一日ぐらゐいではないかと云つても好くないと云ふ。私が途方に暮れて居るのを見て紳士は私に、あなたが金の事で心配するのなら何程でも私が出してあげると云つてれた。二十円もあればいでせうと云つて私を自身の室へれて行つて二人の令嬢に紹介した。私は思ひ掛けない事に遇つて感極まつて涙がこぼれた。用意に三十円もお持ちなさいと云つて露貨で出してれた。この人の名はマウリス・レツセル氏である。露西亜ロシアの役人が旅行券を返しに来たが、令嬢が「ヨサノ」と云つて私のも受取つてれた。私は今日けふは昼も夜も何も食べなかつた。独逸ドイツの国境でボオイは私をれて行つて十五円程のまし切符を買はせた。マウリス氏はこの時もその影を見て又何か事がおこつたかと降りて来てれた。税関吏は鞄の中は見なかつた。私が心配しながら通つた波蘭ポオランドから掛けて独逸ドイツの野は赤い八重やへ桜の盛りであつた。一重ひとへのはもう皆散つたあとである。藤の花蔭に長い籐椅子につて居る白衣の独逸ドイツ婦人などを美しく思つて過ぎた。伯林ベルリンへ着く前に私は寝台しんだいを作らせて寝た。十九日の朝仏蘭西フランスの国境で汽車賃を十円追加された。ボオイの独逸ドイツ人が物柔かな仏人に代つて初めて私はゆるやかな気分になつた。茶とパンを室へ運ばして食べた。昨日きのふから余程よほど神経衰弱が甚だしくなつて居るので、少し大きな街、大きな停車場ステエシヨンを見ると何とも知れない圧迫を感じるので、私は成るべく外を見ない様にして居た。窓掛の間から野生の雛芥子ひなげしの燃える様な緋の色が見える。四時と云ふのに一分の違ひも無しに巴里パリイの北の停車場ギヤアルに着いた。プラツト・フオオムには良人をつとの外に二人の日本画家と二人の巴里パリイ人とが私を待つて居てれた。(五月十九日)


ツウルの二夜ふたよ



 麦と葡萄ぶだう青白あおじらんだ平野の面に赤と紫の美しい線をいろどるのは、野生の雛罌粟コクリコと矢車草とがすべての畦路あぜみちと路傍とをうづめて咲いて居るのである。其間そのあひだに褐色の屋根や白い壁をもたげて田舎家ゐなかやが散らばり、雨上りの濁つた沼のほとりには白まだら黄牛あめうしが仔牛をれて草をみ、遠方の村村むらむらの上にそびえた古い寺院の繊細きやしやな尖塔が、白楊はくやうのひよろ長い、マロニエ円形まるがた木立こだちと一緒に次第にひくく地平の彼方あなたへ沈んでく。う云ふ仏蘭西フランス田園の景色を急行列車の窓で好い天気の日に眺めながら、巴里パリイより二時間半でジヤン・ダルクの生地として名高いオルレアンまちに達し、更に三十分ののちロアルとセエルの両に挟まれたツウル市に着いた。旅館オテルまでは遠くないから歩かうと、案内役である元気のい和田垣博士が鞄をげて先に停車場ギヤアルを出られる。晶子と二人ふたり前の旅支度じたくを収めた大きな信玄袋を携へた僕は、すくなからず閉口しながら五ちやう程汗に成つて歩いて来た。日本服の上に花の附いた帽を面紗おもぎぬおほふた晶子の異様な姿に路路みちみち人だかりがする、西班女エスパニヨルだなどと評して居る者もある。旅館オテルの主婦のナイエル夫人が出迎へてう会ふ事の出来ないと想つて居た博士の再来に驚喜の声を放つた。博士は「日本人は約束を守る誠実な国民だ。も一度来ると云へば屹度きつとこの通りに来る。加之おまけに二人の詩人をれて来た。ことに日本婦人がツウルへ来た事はこれが始めであらう」と言はれる。
 博士も僕等も部屋を定めて置いてから夕飯ゆふめし迄の時間を利用して見物に出掛けた。歴史上幾多の事蹟をとゞめた旧い街だけあつて一体に嫻雅かんがおもむきに満ちた物静ものしづかな土地である。葡萄酒と絹物との産地だから富裕な事は勿論であるが、商業地としてよりも沈着おちついた遊覧地としての感の方が深い。女の服装なども巴里パリイの流行に影響せられて居なが何処どことなく昔からの趣味の正しい伝統を保存して、けばけばしくなまな所が無いのにぐ気が附く。何よりもこの地の代表的な物は山城の宇治に於ける宇治川と鳳鳳堂との如く、ロアル河の明媚な景勝と市街の上に崛起くつきして居るカテドラルの物寂びた十三世紀の古塔とである。ロアル河の沿岸には数里にわたつて幾多の古城があつて、一城の探勝にも半日を費すけの価値は十分だと聞いたが、僕等は別荘地に成つて居る対岸の山の手を望んで架せられたツウルの大石橋せきけうが水に落した倒影を眺めただけでもしばらくは目を転ずる事が出来なかつた。橋の上に立つて緑野の中へはて知らず白くけぶつてく下流を見渡した時、※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルサイユきう運河キヤナルなどは児戯だと思つた。上流の方には京都の下加茂の森に好く似た中島なかじまがあつて木立こだちの中に質素な別荘が赤い屋根を幾つも見せて居る。両がんには二階づくりに成つた洗濯ぶねが幾艘か繋がれて白い洗濯物がひるがへつて居た。渚にしやがんで洗ひ物をして居る女もあつた。むかひの岸へ渡つて並木みちづたひに上流へ歩みながら市街の方を眺めた時、薄黒うすぐらくなつた古塔の険しい二つのさきに桃色の温かい夕日があたつて居た。吹く風も無いのに白楊はくやうの花が数知らず綿わたの様に何処どこからか降つて来るのも長閑のどかであつた。
 中島なかじまの鉄の吊橋を渡つて再びツウルの街の方へ引返すと、みちやがてカテドラルの古塔の前へ出た。塔から折折をりをり石が欠けて落ちる危険があるので、下の方に頑丈な桟敷を設けて落ちる石を受ける様にしてある。堂内はゴシツク式建築の大寺院の例に漏れず薄暗い中に現世げんせかけ離れた幽静いうせいを感ぜしめ、幾つかの窓の瑠璃るりに五しきいろどつた色硝子ガラスが天国をのぞく様に気高けだかく美しい。巴里パリイのノオトル・ダムを観る暇の無かつた晶子はこれ見恍みとれて居る。周囲の礼拝らいはい室に静かに黙祷もくたうに耽つて居る五六人の女が居た。響くものは僕等の靴と草履ざうりの音だけである。一室にルイ十一世の夭折した二人の子を合葬した大理石のくわんが据ゑてあつた。くわんの上に刻まれたその小さな王子と王女との寝像ねざうの痛いけなのに晶子は東京に残して来た子供等を思ひうかべて目を潤ませて居るらしい。以前この寺の僧院であつた隣の建築物はツウル市の博物館に成つて居る。博物館の前は小さな広場で、文豪がしば/\この地に遊んだ縁故えんこから「エミル・ゾラの広場」と云ふ名を負うて居る。又この地に生れた文人で今も非常な尊敬を郷人きやうじんから受けて居るバルザツクはその少年の日にこの古塔の下や広場の木立こだちの中で常に遊んで居たと云ふ事である。ナイエル婦人の旅館オテルこの広場の外れにあつて、僕の部屋にあてられた二階の窓を其処そこ木立こだちの明るい緑がてらして居た。
 和田垣博士は去年の夏から今年の三月までこの地で読書して居たので旧知の家が多い。近日巴里パリイを去られる博士はそれ等の人人へ告別の為にせはしい中から特にこの再遊を企てられたのであつた。僕等は博士のお供をして彼方此方あちらこちらを訪問した。詩人ベランゼが住んで居た縁故えんこで記念の名を負うた「ベランゼの並木路アブニウ」に臨んだ煙草たばこ屋は博士が七箇月間煙草たばこを買はれた店で快濶な主人夫婦が面白いと云ふので今度も態態わざわざ立寄つて煙草たばこを買はれた。主人夫婦と博士との立話たちばなしが尽きない内に午後七時の夕飯ゆふめしの時が来た。急いで旅館オテルへ帰ると、二人の英国婦人に二人の加奈陀カナダ青年、二人の子供をれた一人の英国婦人、其れに主婦と、ヴウヴレエ市の学校で独逸ドイツ語の教師をして居て春の休暇で帰つて来た一人息子とが既に食卓に就いて居た。瀟洒あつさりとして美味うま夕飯ゆふめしであつた。ツウルの野菜料理と云へば土地の人が酒の味と共に誇る所ださうである。すべての外国人に対して日本人に好感情を持たしめようとつとめられる博士は、相変らず食卓の談話に英独仏の三ごく語を使ひ分けて有らゆる愛嬌あいけう振撤ふりまかれた。食後ナイエル夫人は亡夫の肖像を掛けた一室へ僕等三人をいてカンキナしゆの小さなさかづきを勧め、自身はピヤノにいて二三の小歌こうたい声で歌つた。顔に小じわは寄つて居るが、色の白い、目の晴やかに大きい、伯爵夫人と言つても好い程のひんのある女である。博士も何か謡曲の一せつうたはれた。
よるの街を見ませう」と僕が云つたら、「多い珈琲店キヤツフエの中で気に入つたのが五軒ばかしある。家毎いへごとに特色が著しい。其れを片端かたはしから短時間づゝ訪ねようぢや無いか」と博士の言はれるまゝ旅館オテルを出たのは九時であつた。初めに入つたキヤツフエ・ド・※[#濁点付き井、189-8]ルは音楽がすぐれて居ると云ふ事だが僕等には其程それほどよくわからない。たゞ老人の楽長がれて居る一人娘の大琴おほことを弾く姿のほつそりとして水を眺めたニムフのやうなのを美しいと思つた。肩章も肋骨も赤い青年士官が土曜日の晩だけ沢山たくさん来て静かに骨牌かるたたゝかはして居た。此処ここでも博士と再会の握手をする土地の紳士が二三人あつた。次に遊んだキヤツフエ・ド・コンメルスの隅の一卓を囲んで居ると、僕等より遅れてはひつて来た一人の女が彼方此方あちこちしばらく見廻して居たが、ついと寄つて来て僕等に会釈をしながら立つて晶子の日本服を眺めて居る。衣裳いしやうの好みや身体からだこなしこの種類の女としては水際だつてひんの好い物優しい所がある。今度欧洲へ来られてからだ一度もう云ふ場所で女に応対せられた事は無いと自称せられる博士が珍しく口を切つて「其処そこへ掛け給へ、君」と言はれた。女に「何を飲むか」と僕が問ふと「茶を」と云つた。女は普通なみの女で無くて近頃この街の寄席よせ折折をりをり踊る踊子であつた。無邪気な若い女で僕等の問ふまゝ色色いろいろの事を話した。思はずこの女と語り更かしたので三番目のグラン・キヤツフエをうた時は十二時近くであつた。この珈琲店キヤツフエの建築は最も古雅に出来て居た。主人夫婦は朴訥ぼくとつな老人で去年和田垣博士と知つて以来大の日本贔屓びいきに成つて居る。主人はしきりに僕にむかつてツウルの言葉の美しい事を話した。昔の貴人きじんの用ひた正しいやはらいだ仏蘭西フランス語は独りこの地にだけ行はれて居て、農夫も馬丁も俚語アルゴを用ひないのが特色ださうである。博士が巴里パリイへ寄らずに日本からこの土地へ来られたのも語学に関するその理由からであつた。話込んで居る内に客は皆帰つて僕等と主人夫婦とだけが残り、どの給仕人ギヤルソンも先に寝て仕舞しまつた。あと二軒を見残して旅館オテルへ帰つたのは午前二時であつた。僕は飲み慣れない強い酒を色色いろいろ飲んだのでかへつて頭が冴えて容易に寝附かれなかつた。少し昏昏うとうとしたかと思ふとカテドラルの古塔の日曜の朝の鐘が枕の上へ響き渡つた。
 翌てうは馬車を駆つて市の南門なんもんで、セエル河を渡つて郊外のサンタ・※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルタン村に遊んだ。柔かに打霞うちかすんだ新緑の木立こだちは到るところにコロオやピサロオの風景画を展開した。木蔭には野生の雛罌粟ひなげし其他そのたの草花がたけ高くさき乱れて、山鳩のむれが馬蹄の音にも驚かずにりて居る。フツクと云ふ家は何となく東京の王子の扇屋あふぎや聯想れんさうさせる田舎の料理屋レスタウランである。僕等は朝からヴウヴレエ酒を一びんたふして仕舞しまつた。巴里パリイで飲むなら一びん八フランも取られる三鞭シヤンペン質の美味うまい酒だが、此処ここでは産地が近くて税が軽いからわづかに二フラン五十の散財でい気持に酔ひながら、更に村外れまで徒歩を試みた。晶子は葡萄畑のあぜめぐつて色色いろいろの草花を摘んで歩いた。百姓の庭は薔薇ばらの花と桜実さくらんぼとの真盛まざかりである。日曜の鐘を聞いて白いレエスの帽をかぶつた田舎ゐなか娘が幾人も聖書を手にしなが坂路さかみちを伏目がち寺へ急ぐ姿も野趣に富んで居た。帰りには十分間に一度通る単線の電車に乗つて市内へ引返ひつかへして来た。終点でりると其処そこ並木路アブニウの端に文人バルザツクの銅像が立つて居た。
 午後は美術商を営んで居るピニヨレ夫人の一人娘エジツが植物園や公園へ僕等を案内してれた。勿論ピニヨレ夫人も和田垣博士の旧識であるが、エジツはかつて博士の滞在中英語を教へて貰つた弟子である。十四歳だと云ふが背丈は十七八にも見える。おつかさんのピニヨレは何時いつも白いしやで髪から首筋を包んで居てラフワエルのいた聖母像を想はしめる優しい面立おもだちの女だが、娘はおかあさん程美しくは無いけれど気立きだては更に一層素直であるらしい。帰途かへりに芝居の前のその家へ寄ると、ピニヨレ夫人は僕等にカンキナ酒をいで出しながら「今夜お差支さしつかへが無いなら山荘の方へ馬車で案内したい」と云ふ。一度山荘へ遊んだことのある博士は、其れが山腹の自然せきを切り開いた大巌窟がんくつである事を僕等に語つて是非ぜひ見て置けと言はれる。其れで馬車代だけは僕等三人で負担する事に決めて同行を約した。
 晩餐を旅館オテルで済ましたのちピニヨレ夫人の門から馬車に乗つたのは夜の八時半であつた。ツウルの大石橋せきけうを渡つて岸に沿ふてやゝ久しく上流の方へ駆けさせた。川風の寒い晩で薄着をして来た僕と晶子とは身をふるはせずに居られなかつた。宵闇の木蔭を縫つて山路やまみちへ差掛つた。夫人は絶えず「左へれ、左へ」と馭者に命じた。何だか「即興詩人」の中の賊の山塞へ伴はれる様な気がした。山荘の扉の前は一面にひよろ長い草がひ茂つて星明りにすかせばそれが皆花を着けて居る。夫人は草花を分けて扉の錠を放ちながら「今年に成つて一度しか来ないものだから」と云つた。
 早速さつそく幾本かの蝋燭が各室にけられて大洞窟の闇を破つた。客室サロンも寝室も倉も炊事すべて自然の巌石がんせきくり抜き、それしきつた壁も附属した暖炉や棚などもまつた据附すゑつけ巌石がんせきで出来て居る。二百年ぜんに作つたと云ふがの室もすゝびずに白くのみあとが光つて居る。何より寒い今夜の馳走は火が先だとエジツが倉から小柴を抱へて出て炉をきつける。その上へ博士が長い丸太をひきずり出して載せられる。僕は蕪形かぶらなりの大きな鞴子ふいごそれあふいで居た。その内に夫人は石卓せきたくへ持参の料理を並べて夜食スウベの用意をする。夫人が水を汲みに行くエジツに附いて行つてれと云ふので、僕は蝋燭を執つて一段下の洞窟の奥へ降りて行つた。エジツが薄気味悪がるのも道理、昼さへ光のさぬ闇の底に更に深い泉が湧いて居る。其れを轆轤仕掛ろくろじかけ釣瓶つるべで汲むのである。エジツが縄をゆるながら耳をぢつとすまして「それ、釣瓶つるべが今水に着きました」としづかに言ふ時、底の底でかすかに紙の触れる様な音がした。釣瓶つるべが重いので僕も手を添へて巻上げた。
 食卓の上へエジツが洞窟の前の雛罌粟ひなげしを摘んで来て皿にうかべた。其れを囲んで軽い冷肉ひやにくと菓子とをさかなにボルドオとヴウヴレエとのさかづきを挙げながら、話は仏蘭西フランスの風俗から東洋の美術に及んだ。博士は興に乗つて「大江山」をうたはれた。女学校へく外に音楽教師のもとへ通つてるエジツは数篇の詩を歌ひ、又尼寺で習つたと云ふ宗教的なお伽噺を一つ述べた。最後に夫人も僕等も思ひ思ひに立つて踊り廻つた。洞窟の石壁せきへきに映るその影を面白がつて椅子につて居たのは晶子であつた。十二時に迎への馬車が来た。夫人が跡片附をして居る間洞窟の前に出て見渡すと、何時いつの間にか月がさして、練絹ねりぎぬを延べた様なロアル河はぐ前に白く、其れを隔てたツウルの街はたゞ停車場ステエシヨン灯火あかりを一段きはやかに残しただけで、外は墨を塗つた様に黒くしづかに眠つて居る。博士は山の何処どこかで、糸を引く様な虫がくと云はれたが僕にはきこえなかつた。(六月六日)


「暗殺のキヤバレエ」



 僕等の下宿して居るモンマルトル附近には「死んだ鼠」だの「黒猫」だのと云ふ不気味な名や、「虚無の酒場キヤバレエ」だの「地獄の酒場キヤバレエ」だの、「暗殺の酒場キヤバレエ」だのと云ふ不穏な酒場キヤバレエが多い中に「暗殺の酒場キヤバレエ」は最も平民的な文学者とこの界隈に沢山たくさん住んで居る漫画家連中れんちゆうとが風采なりも構はずに毎集つて無礼講で夜あかしをするところとして有名である。モンマルトルの中心と云はれる大通おほどほりは十二時を越えて不夜城の明るさを増すと云ふ巴里パリイ唯一の遊楽街いふらくまちだが、この酒場キヤバレエのあるのは大通おほどほりから四ちやういり込んだ高地で、昼間さへ余り人通ひとどほりが無いのだから、だ宵の口だのにう深夜の感がする程灯火あかり人気ひとけすくない。こと巴里パリイで名高い古い街の一つに数へられて居るだけ昔のすゝびた建物が多いので一層どすぐらく、その酒場キヤバレエまで登つてく間の曲りくねつた石畳の坂みちの不気味さと云つたらない。うかすると夜間にこの界隈へ大通おほどほりから一歩迷ひ込んだ旅客りよかくの一人や二人が其儘そのまゝ生死しやうじ不明になつて仕舞しまふ例もあると云ふ。しかし其れは昔のことに違ひない。今の巴里パリイ何処どこへ行つてもまつたくそんな危険は無い。
「暗殺の酒場キヤバレエ」へ初めて来た人は事毎ことごとに驚く。第一前に述べた来るみちの淋しさと物凄さとに驚かされて居るところへ、四百年以上経て居ると云ふ古い建物の酒場キヤバレエが、石と土とを混ぜて築き上げた粗末な壁の二室ふたましかない平家で、老主人夫婦と一人の給仕女との三人の家族の住む方は土地の傾斜のまゝに建てられて薄暗ぐらあなぐらの様に成つて居るし、客の席に当てた一室ひとまわづか十畳敷程の広さで、冬になれば頑固な石の暖炉シユミネへ今でも荒木あらきを投げ込むので何処どこを眺めても煤光すゝびかりきたなく光つてゐる中へ、正面に両手と両足を縛られた男の大きな塑像がこれすゝと塵とに汚れてかなさうに痩せこけた顔を垂れながら天井からぶらさがる。四方の壁には昔から此処ここで飲んだ幾多の漫画家の奇怪千ばんな席がきが縦横に貼られ、傷だらけの薄ぎたな荒木あらきの卓の幾つと粗末な麦藁の台の椅子の二十ばかりとが土間に散らばつて居る。
 其処そこはひつて来る客はうかすると労働者と間違へる様な服装の連中れんぢゆうが多い。其れは大抵画家である。文学者のがはには髪や髭に手入をして居る者もあるが、画家はおほむそれ等のことに無頓着な風をして居る。名物男の老主人フレデリツクは断えず酒臭い気息いきをして客ごとに話して居る。言葉が極めて横柄で客に向いて「あなた」とは云はずに「おめいたち」と云ふ。白髪しろが頭にふちの垂れた黒い帽をて紅い毛糸のぶくぶくした襯衣しやつに汚れた青黒い天鵞絨ビロウド洋袴パンタロン穿き、大きな木靴をひきずつて、又してもギタルを弾乍ひきながら「聴きなさい、おまへたち、南仏蘭西フランス田舎ゐなかの麦刈唄を一つ。」と云ふ様な事を命令的に云つて、老嗄おいがれた好い声で楽しさうに歌ふ。その少し藪にらみな白い大きな目が赤い紙で包んだ電灯のもとで光るのは不気味だが、その好い声を聴き、垂下たれさがつた胡麻塩髭の素直なのを見れば、此処ここへ来る者のすべてが「我父モンペエル」と云つて我まゝ老爺おやぢなつくのも無理は無い。
 一昨日をとゝひの晩晶子をれて画家の江内えうちと一緒に僕が行つた時は、土曜の夜だけあつて九時過ぎにう客が一ぱいに成つて居た。あとから来た客は皆立つて居る。画家連中れんぢゆうと来て居るモデル女の幾人は席が無いので若い画家の膝をえらんで腰を掛ける程の大入おほいりである。夫婦づれの画家や姉妹をれた詩人達も居た。此処ここの定めは注文した酒のさかづきと引換に銭を払ふので、洋袴パンタロン衣嚢かくしから取出す銅銭の音が断えず狭い室の話声はなしごゑに混つて響くのもほかちがつて居る。老爺おやぢは日本服を着けた晶子の来たのを喜んで、早速さつそくギタルの調子を合せて※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルレエヌの短詩を三つ続けざまに歌つた。其れから僕の万年ふでをひつたくる様にして、晶子の小さな手帳へ自画像と酒場キヤバレエの別名と自分の名とを書いた。又「わたしは日本の人が好き。わたしは又酒が好き。飲みなさい、飲みなさい。でも、わたしは酒を飲まない者はみんな好かない」と出たらめの短い詩を書いた。酒場キヤバレエの別名は「兎の酒場キヤバレエ」と云ふので入口の壁の上に一匹の兎が描かれて居る。去年老爺おやぢの一人息子がこの客室サロンで風来の労働者の客に勘定の間違まちがひから拳銃ピストルで殺されて以来、気丈な老爺おやぢも「暗殺」と云ふことばんで別名の方ばかりを用ゐようとして居るのだが、昔から知られた「暗殺の酒場キヤバレエ」の方が矢張やはり通りが好いらしい。
 夜が更けるに従つて沢山たくさんの人が続続ぞくぞく歌つた。自作の新しい詩を歌つた詩人が二人、対話風の文章で何処どこかの芝居の批評をした物を朗読した文人が一人あつた。その度に老爺おやぢが満室の客に注意を与へて演じる人を紹介する。と、今迄思ひ思ひに談笑して居た客が老人も若い者もたちまち静粛になつて傾聴し、其れが終る度に日本の手打てうちの様に一二三の掛声で拍手する。う云ふ場合に一人も酔つぱらひらしい者の出ないのは敬服である。夜明よあけがたまでんな風で遊びあか習慣ならひだが、晶子が室内に濛濛もうもうとして出場でばを失つて居る煙草たばこの煙に頭痛を感じると云ふので十二時少し過ぎに帰つて来た。(六月十七日)


巴里パリイにて(晶子)



 巴里パリイ良人をつともとへ着いて、何と云ふ事なしに一ヶ月程を送つて仕舞しまつた。東京に居た自分、こと出立前しゆつたつまへ三月みつき程の間のせはしかつた自分に比べると、今の自分は余りに暇があるので夢の様な気がする。自分の手に一日でも筆の持たれない日があらうとは想像もしなかつたのに、此処ここへ来てからはまつたく生活の有様が急変した。其れが気楽かと云ふと反対に何だか心細い様な不安な感が姶終附いて廻る。好きなにほひの高い煙草たばこも仕事の間に飲んだ時と、外出そとでの帰りに買つて来て、する事のないひまさに飲むのとは味が違ふ。新しい習慣に従ふことを久しい間の惰性がしばらく拒むらしい。其れに自分が日本を立つたのは、良人をつとと別れて居ることの堪へ難いめであつた。良人をつとが欧洲へ来たのとは大分だいぶに心持がちがふ。欧洲の土を踏んだからと云つて、自分には胸を躍らす余裕がない。ひたすら良人をつとに逢ひたいと云ふのぞみはり詰めた心が自分を巴里パリイもたらした。さうして自分は妻としての愛情を満足させたと同時に母として悲哀をいよいよ痛切に感じる身と成つた。日本に残した七人の子供が又しても気に掛る。自分が良人をつとあとを追うて欧洲へ旅行するに就いては幾多の気苦労きぐらうを重ねた。子供を残してくと云ふ事は勿論その気苦労きぐらうの一つであつた。其れがめ特に良人をつとの妹を地方から来て貰つて留守を任せた。子供等は叔母さんに馴染なじんで仕舞しまつた。叔母さんからの手紙は断えず子供等の無事な様子を報じて来る。手紙を読む度にほつと胸を安めながら矢張やはり忘れることの出来ないのは子供のうへである。
 巴里パリイの街を歩いて居ると、よく帽に金筋きんすぢはひつた小学生に出会ふ。其れが上の二人の男の子の行つて居る暁星小学の制帽とまつたく同じなのでぐ自分の子供等を思ふたねになる。ルウヴルの美術館でリユブラン夫人のいた自画像の前に立つてもその抱いて居る娘が、自分の六歳むつつになる娘の七瀬なゝせに似て居るので思はず目がうるむ。自分はなぜう気弱く成つたのかと、日本を立つ前の気の張つて居たのに比べて我ながら別人の心地がする。
 四月のなかばであつた。里に預けて置いた三番目の娘が少し病気して帰つて来た。附いてる里親の愛に溺れ易いのを制するめに看護婦を迎へたりして其児そのこ家内中かないぢゆうが大騒ぎをして居る中へ、四歳よつになる三男のりんが又突然発※[#「執/れんが」、U+24360、204-3]した。叔母さんも女中達も手がふさがつて居るので書斎の自分の机のそばりんを寝かせて自分が物を書きながら看護して居た。温厚おとなしい性質きだてりん一歳ひとつ違ひのその妹よりも※[#「執/れんが」、U+24360、204-5]の高い病人で居ながら、のぞく度に自分に笑顔を作つて見せるのであつた。さうして無口な子が時時ときどきこと交りに一つより知らぬ讃美歌の「夕日は隠れてみちは遥けし。我主わがしゆよ、今宵こよいも共にいまして、寂しきこの身をはぐくみ給へ。」と云ふのを歌ふのが物哀れでならなかつた。自分はそんな事を思ひ出しながら歩くので、巴里パリイの文明に就いては良人をつとが面白がつて居る半分の感興もだ惹かない。過去半年はんねん良人をつとおもふ為に痩せ細つた自分は、欧洲へ来て更に母として衰へるのであらうとさへ想はれる。
 日本服を着て巴里パリイの街を歩くと何処どこへ行つても見世物の様に人の目が自分にあつまる。日本服を少しく変へて作つたロオヴは、グラン・ブル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)アルの「サダヤツコ」と云ふ名の店や、巴里パリイの三越と云つてよい大きなマガザンのルウヴルの三階などにならべられて居るので、まで珍しくも無いであらうが、白足袋たび穿いて草履ざうりで歩く足附あしつきが野蛮に見えるらしい。自分は芝居へくか、特別な人を訪問する時かの外は成るべく洋服を着るやうにして居る。しかだコルセに慣れないので、洋服を着る事が一つの苦痛である。でも大きな帽を着ることの出来るのは自分が久しい間の望みが達した様にうれしい気がする。髪を何時いつでもき出しにする習慣がどれだけ日本の女をみすぼらしくして居るか知れない。大津絵の藤娘がて居る市女いちめ笠の様な物でも大分だいぶに女の姿を引立たして居ると自分は思ふのである。丸まげや島田に結つて帽の代りに髪の形を美しく見せる様になつて居る場合に帽はかへつて不調和であるけれども、束髪そくはつ姿にはうも帽の様な上からおほふ物が必要であるらしい。自分は今帽を着るたのしみが七分しちぶで窮屈なコルセをして洋服を着て居ると云つて好い。
 モルマントルと云ふのは、山の様に高くなつた巴里パリイの北の方にある一部の街で、踊場をどりば珈琲店キヤツフエ酒場キヤバレエなどの多い、巴里パリイ人の夜あかし遊びをしに来る所と成つて居るのである。十二時にならないと店をけない贅沢ぜいたくな料理屋も其処此処そこここにある。芝居帰りの正装で上中流の男女なんによが夜食を食べに来るのださうである。が更けるにしたがつて坂をのぼつて来る自動車や馬車の数が多くなつてく。そんなところに近い※[#濁点付き井、206-9]クトル・マツセまちの下宿住居ずまゐが、東京にも見られない程静かな清清せいせいしたところだとは自分も来る迄は想像しなかつたのである。通りに大きな鉄の門があつて、一直線に広い石の路次ろじがある。夜はその片側にが一つともる。路次ろじの上には何階建てかのおもての家があることは云ふ迄もない。突当つきあたりは奥の家の門で横に薄青く塗つた木製の低い四角な戸のあるのが自分達の下宿の入口いりくちである。同じ青色を塗つた金網が花壇にめぐらされて居る。横が石の道で、左手の窓際にも木や草花がうわつて居る。欄干てすりの附いた石段が二つある。この二つのあがり口のあひだが半円形に突き出て居て、右と左の曲り目に二つの窓が一階ごとに附けられてある。自分の居るのはこの半円のの三層目に当るのである。内方うちらからは左になる窓のむかうには庭のアカシヤが枝をのばして居る。木の先はだ一丈ばかりも上にそびえて居るのである。下を眺めると雛罌粟ひなげし撫子なでしこや野菊や矢車草の花の中には青い腰掛バンクが二つ置かれて居る。けれども自分を京都の下加茂あたりに住んで居る気分にさせるのは、それは隣の木深こぶかい庭で、二十本に余るマロニエの木の梢の高低たかひくが底の知れない深い海の様にも見える。一番向むかうにある大きいマロニエはその背景になつて居る窓のすくな倉庫くらの様な七階の家よりもすぐれて高い。木の下は青い芝生で、中に砂の白い道が一筋ある。薔薇ばらつた門や陶器せとものの大きい植木鉢に植ゑられた一丈ぐらゐ柘榴ざくろや桜の木の並べられてあるのも見える。その家の前は裏のとほりなのであるが、夜更よふけにでもならなければ車の音などは聞えて来ない。この隣と自分の居る家との間には平家になつた此処ここの食堂があるのであるが、高いところからは目障りにもならない。右の窓から青い木が見える。そしてむかふの方につたの附いたおもむきのある壁が見える。メルルと云つて日本の杜鵑ほとゝぎすうぐひすの間の様な声をする小鳥が夜明よあけには来てくが、五時になると最早もう雀のき声と代つて仕舞しまふ。白いレエスの掛つた窓を開けると、何時いつ何処どこにあるのか知らないが白楊はくやうの花の綿わたが飛んで来る六月十日


ノオトル・ダム(晶子)



ああ巴里パリイの大寺院ノオトル・ダム。
とししカテドラルの姿は
いとおごそかに、古けれど、
その鐘楼しようろうの鐘こそは
万代ばんだいに腐らぬ金銅こんどうしつちて、
混沌のつる最先いやさきにわななく
青き神秘の花として開き、
チン、カン、チン、カンと鳴る音は
さはやかにめる、
はげしき、力強き、
併せて新しき匂ひを
「時」の動脈にしながら、
「時」の血を火の如くはずませ、
洪水おほみづの如くをどらせ、
常に朝の如く若返らせ、
はた、休むなく進ましむ。
そのひゞきにつれて
塔の上よりくだる鳥のむれあり、
人は恐らく、そを
森のこずゑより風に散る
秋のの葉と見ん。
我は馬車、自動車、オムニブスのこみ合ふ
サン・ミツセルの橋に立ちつつ、
はしなく我胸に砕け入る
黄金きんの太陽のへんと見てをののけり。
その刹那せつな、わが目に映る巴里パリイの明るさ、
いな、全宇宙の明るさ。
そは目眩めくるめく光明遍照くわうみやうへんぜう大海おほうみにして、
微塵みぢんもまたたまの如く光りながら波打ち、
われひと
皆輝くうをとして泳ぎきぬ。


ロダンをう

[#ルビの「をう」は底本では「おう」]


 巴里パリイ停車場ギヤアルアン※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)リイドから汽車に乗つて三十分程でムウドン駅に下車かしやした。郊外のベル・※[#濁点付き井、212-3]ユウ村にあるアウギユスト・ロダン先生の家をはうと松岡曙村しよそんと晶子と三人で出掛けたのである。日本の七八月と思ふ程変調に暑い日の午後、だらだらざかに成つて居る赤土の焼けたその村のみちは、アカシヤの若葉の並木が続いて居るにかゝはらず歩きぐるしかつた。引返して馬車を雇はうと思つたがこの停車場ステエシヨンには馬車が居ないと曙村が云ふ。路普請みちぶしんをして居る土方に聞くと、このみち真直まつすぐけ。鉄道の上に架した橋を渡つて程なく左手に建つた第一の家がロダン先生の家である。木立こだちの上に風車かざぐるまの舞ふのが見えると教へてれた。十四五ちやう歩いた。
 牧場まきばにある様な粗末な木戸を押してはひると中門ちゆうもんの前まで真直まつすぐに一ちやう程細いみちの両側に繁つたマロニエの木立こだちが続く。その木蔭の涼しいので生き返つた心地がした。中門ちゆうもん突当つきあたつて右に簡略な亜鉛葺とたんぶきの木造の小屋があつて、のぞくと中央に作り掛けた大きなさく像が据ゑられて居る。あとで聞けば倫敦ロンドンから依頼された画家ウイツスラアの記念モニウマンさうだ。卓や棚の上にも大小の製作がとおばかり載つて居る。十五畳敷程の広さだ。そのおも製作室アトリエ巴里パリイにあるとしても、これがロダン翁程の大家の製作室アトリエかと驚く外は無い。中にを少しはらした若い弟子が一人仕事をして居たので、その弟子に来意を告げると、翁は今朝けさ巴里パリイかれたと云ふ。あらかじめ訪問日を照会しないで突然出掛けたのだから面会の出来ない事のあるのは覚悟して来た。無駄足をしてもい、だ大芸術家の家の木立こだちを眺めただけでも満足だと思つて居るのであつた。
 弟子が「お待ち下さい、ロダン夫人には面会が出来るかも知れません。又先生が巴里パリイから今日けふ何時に帰られるかをも夫人に伺つて見ませう」と云つて、赤い煉瓦母屋おもやの方へ行つてれた。弟子はぐ出て来て「夫人が取乱とりみだした風をして居て失礼ですけれど一寸ちよつとぜん挨拶をすると申されますから待ち下さい」と云つた。銀髪のロダン夫人が白茶しらちや色にダンテルをあしらつたゆたかな一種のロオブを着て玄関の石階いしばしを降りて来られた。何時いつか写真版で見た事のあるロダン翁の製作の夫人の像其儘そのまゝびんふくらませやうだと思つた。背丈の細りと高い肉附にくづきの彫刻的に締つた中高なかだかな顔の老婦人である。ロダン夫人は晶子と手を握りながら、調子の低いんだ声で、「よくまあ遠方のあなた方が来て下さいました。しか生憎あいにく主人が留守で、又主人から命令も無いものですから内へ通し致して話する事の出来ないのを残念に思ひます」と云はれた。晶子は三越で買つて来た白地しろぢかうの図と菊とを染めた友禅と、京都の茅野蕭蕭ちのせうせう君に託して買つて貰つた舞扇まひあふぎの一対とを夫人に捧げた。僕が「今から巴里パリイへ引返したら先生に目に掛る事が出来ませうか」と云つたら、「其れなら五時迄にオテル・ド・※[#濁点付き井、215-4]ロンへおきなさい、今日けふは夜会に招かれて居るから宅への帰りは遅くなるでせう」と夫人は云つて、弟子を呼んで「巴里パリイの地図でロダンの製作室アトリエのある街をよくお教へするがよい」と云はれた。「停車場ステエシヨンまでのみち今日けふは暑いので日本のキモノを着たマダム・ヨサノの徒歩は苦しからう」と夫人が云はれる。僕が「帰途かへりみちはセエヌの岸へ出て蒸気でのぼらうと思ひます」と云つたら、夫人は「岸までは猶更なほさら遠い。少し待ちなさい、ロダンの馬車に馬を附けさせて送らせませう」と云つて馭者ぎよしやを呼んで命ぜられた。辞退したが聞かれないので恐縮して待つて居ると、夫人は庭からべにと薄黄との薔薇ばらを摘んで来て「二三日前の風と雨で花が皆いたんで仕舞しまひました。これでも庭ぢゆうでの一番立派な花を切つたつもりですがんなに見所みどころがありません」と云つて晶子の手に取らせ、そして「ロダンの承諾を得て其内そのうち御招待ごせうたいを致しますから必ず今一度らつしやい」と云はれた。
 馬車の上は涼しかつた。ロダン先生の馬車に乗るのは名誉だと云つて皆の心はおどつた。しかし馬車は随分質素な一頭だてで、張つた羅紗の処処ところどころ擦れ切れたのが目に附く。平気でこれに朝晩乗つて停車場ステエシヨンまで往復する老芸術家の曠達くわうたつを面白いと思つた。セエヌ河を渡つてムウドンの繋船場けいせんばまでくには二十四五ちやうあつた。偉人と云ふ者は親の偉大な様な者である。僕達はにはかに子供らしくなつてロダン翁の庭の薔薇ばらを馬車の上で嗅ぎ合ふのであつた。
 馬車をりると折好く蒸汽が来た。初夏はつなつのセエヌ河の明るい水の上を青嵐あをあらしに吹かれて巴里パリイはひつた。アレキサンダア三世けうの側から陸にあがつて橋詰で自動車に乗つた。オテル・ド・※[#濁点付き井、216-10]ロンの鉄門を押してはひると、石を敷き詰めた広い中庭が高い鉄柵で七分三分にしきられ、柵をとほして見える古い層楼の正面の石廊せきらうへ夕日の斜めにした光景が物寂びて居た。右へ延びた方の廊の端に門番の女が住んで居て翁の製作室アトリエが右手の階下にあることを教へてれた。僕達は薔薇ばらの花の絡んで居る鉄柵の小門こもんくゞつて中庭を経て階下の室の鈴を押した。出て来た下部ギヤルソンが僕達の顔を見て「ロダン先生に面会を求めるのは東洋の骨董品でも売りに来たのか」と云つた。失敬な事を云ふ奴だと思つたが、翁に会ひたいと云ふねがひはずんで居る心には腹も立たなかつた。晶子は東京の有島生馬いくま君から貰つて来た紹介状に皆の名刺を添へて下部ギヤルソンに渡した。
 このオテル・ド・※[#濁点付き井、217-10]ロンの古い歴史的建築物を保存する為に、政府はこの春議会の協賛を経てこれを買取つて仕舞しまひ、同時にこの層楼に借宅しやくたくして居た人人をすべ立退たちのかせたが、ロダン翁だけは多年此処ここで製作し慣れて気に合つた家であり、又何かと老芸術家の心に思ひ出も深い家であるから立退たちのく事をがへんぜずに今日けふまで住んで居る。其れが為め翁と政府との間に紛紜ごた/″\が起つて居るのを某某ぼうぼうの名士等が調停にはひつたと云ふ新聞記事が十日ばかり前に出た。結局うなる事か知らないが、如何いかにも僧院に似た様なこの古い物寂びた建築から出てく事を翁の厭がるのは無理も無いなどと小声で話して待つて居ると、下部ギヤルソンが「はひれ」と云つて次の一室のを開けた。其処そこに肥大な体の、髪もひげも銀を染めたロダン翁がたち迎へて、鼻眼鏡を掛けた目と色艶いろつやのよい盛高もりだかな二つのとに物皆を赤子せきしの様に愛する偉人の微笑を湛へながら、最初に晶子の手を握つて「おお夫人マダム」と言はれた。翁と僕等とを取巻くのは翁の偉大な芸術が生んだ大理石像の一ぐんであつた。
 翁は更に次の室のを手づから開けて僕達を導かれた。其処そこは翁の書斎と客室サロンとを兼ねた室で、翁の机の前には同じく翁の製作が沢山たくさん並んで居た。机につて何か書いて居た婦人が立つて挨拶をしながら幾つかの椅子を配置した。翁は晶子を強ひて第一の椅子に着かせ、自身は書棚を背にしてその次の大きな肱掛椅子に着かれた。僕と曙村しよそんとが最後の二つの椅子に掛けたので、翁と僕との間の空いた椅子へ翁はその婦人を坐らせた。その時翁が「公爵夫人コンテツス」とばれたので貴婦人だと気附いたが、胴衣コルサアジユジユツプも質素な物を着けて居た。しかひんの好い一寸見ちよいとみには三十二三と想はれるが、ぢつむかへば小じわの寄つた、若作りの婦人である。仏蘭西フランス語の調子アクサンの変な所を思ふと英国の貴婦人で、ロダン翁の弟子として翁の身の廻りの世話をして居るのだらうとあとで曙村が云つた。
 主客しゆかく五人は翁の机に対し半円形を作つて語つた。翁は鼠色のアルパカの軽い背広の上衣うはぎに黒いパンタロン穿き、レジヨン・ドノオル(勲一等)の赤い略章を襟に附けて居た。太い曲つた煙管きせるを左の手に持ち、少し耳が遠いらしく、顔を前に出して物を言つたり聞いたりせられる度に、右のに垂れた眼鏡の紐がゆるやかに揺れた。翁は終始しゆし偉大な微笑ほゝゑみもつて語られた。
 翁は晶子が有島君から託されて持つて来た雑誌「白樺」を公爵夫人と一緒に繰拡くりひろげて「おお、此処ここに」と言ひながら、白樺社へ寄せられた翁の製作の写真を見て有島君の健康を問はれ、又その社の催した翁の製作其他そのたの展覧会の模様を問はれた。僕等は新聞雑誌の記事で知つて居るだけの事を述べて、先生の製作が初めて東方へ贈られた事について日本の青年の感激が尋常でなかつたことを告げた。
 翁は「自分の弟子で若くて歿した日本人を知つて居るか」と問はれたので、僕等は生前に交際しなかつたがその遺作をしば/\観た事を告げると、翁は「彼は自分のもと度度たびたび来たのでは無かつたが、彼は善く自分の製作を観て自分の芸術の精神を領解した。仏蘭西フランス人よりもより善く領解した。そして、自分の芸術を模倣せずに彼みづからの芸術を発見した。彼の死は彼の不幸のみで無い」と云つて惜まれた。しかし翁はその弟子の名が日本語である為に思ひ出される事が困難であつたと見えて「彼の名を書いて置いてしい」と望まれたから、曙村は「モリエ・ヲギハラ」と書いた。僕等は故荻原守衛もりゑ君に対する翁の激賞を聞いて僕等日本人全体の光栄の如く感じた。
 其処そこに幾人かの工人が鋳上いあがつた翁の製作の何かの銅像を運んで来たので、翁は一寸ちよつと立つて扉口とぐちの方へかれた。その暇に僕は公爵夫人に「ロダン先生が此家から追立てられて居る事件はう成りましたか」と問ふと、夫人は「先生は結局お出に成らねばなりますまい。しかその代りに政府は先生の製作を買つてこの家をロダンの博物館ミユウゼと致すつもりでせう」と云つた。
 再び椅子に着かれた翁は「あなた方は今日こんにちを選んでよく訪ねて来た。明日あすから自分は旅行する所であつた」と云はれ、晶子が捧げた「新訳源氏物語」や僕の捧げた古版こはんの浮世絵と自著の詩集などを開きながら、日本の文学美術について何くれと問はれた。「日本人に仏蘭西フランス語を解してる人の多い様に遠からず日本語を解する仏蘭西フランス人が沢山たくさんに出来て、自分の知りたいと思つて居る日本の芸術を紹介してれる事を望んで居る」と云ひ、歌麿の絵を眺めて「彫塑の行方ゆきかたと似た行方ゆきかたをして居る」と評し、又荻原君に対する批評を繰返して「彼の製作には運動ムウブマンがあつた。生生いきいきして居た」と云はれた。
「あなた方にはかるが」と云つて、翁は更に「自分のデツサンの多くを送つて日本で展覧会を開きたいと思ふが、う云ふ人達が日本で斡旋の労を取つてれるか。う云ふ場所で陳列されるか。陳列の場所の広さにつては製作をも少しは送りたい。其れから東京以外にも開くべき都会があるか」と問ひ、「この里昂リオンで自分のデツサンの会を開いたが効果が面白くなかつた。仏蘭西フランス人には自分のデツサンが解り兼ねたのであつた。しかし自分の信ずる所では、日本人は自分のデツサンの趣味を最も善く解してれる国民であらうと思ふ」と云はれた。
 僕は其れに答へて「日本人が先生のデツサンを最も善く解するか否かは疑問ですが、先生のデツサンを※[#「執/れんが」、U+24360、222-5]心に歓迎する[#「歓迎する」は底本では「歓迎す」]事は保証してよろしい。又たゞたしかには申しにくいが、日本に於て位地ある美術家は勿論、白樺、三田文学、早稲田文学と云ふ様な文学雑誌社や、僕等の通信して居る朝日新聞の如き大新聞社が必ず喜んで斡旋の労を取りませう。東京以外では京都大阪の両都会で開くでせう。場所も適当な宮殿パレエえらばれるでせう」と云つた。翁は「本野もとの大使と自分とは友人であつた」と云つて「日本政府も世話をしてれるだらうか」と問はれるから、僕は「勿論でせう」と答へた。翁の厚意と※[#「執/れんが」、U+24360、223-3]心とに対して感激し、又話の中にうつかり日本人を代表して居る気にも成つたので、僕等はつとめて威勢のい応答をして仕舞しまつた。
 翁は翁自身が旅行から帰られ、又僕等夫婦が英国から帰るのを待つて、日を期して僕等をベル・※[#濁点付き井、223-6]ユウのしやう招待せうだいし、翁の製作を観せるついでなほデツサンの展覧会について細かな協議をしようと云はれ、其れから話は日本の芸術に移つた。僕が森鴎外先生がかつて翁を主人公とした小説を書かれた事を告げたら、翁は鴎外先生の経歴を問ひ、うして先生の筆にのぼつた事を喜んでその一本を見たいと云はれたので、僕は日本からとり寄せて捧呈ほうていすることを約した。公爵夫人は翁の製作にのぼつた日本女優花子の噂をした。翁は僕等の帰るに臨んで三葉の自身の写真に署名して贈られ、さうして扉口とぐちに立つて一一いちいち僕等の手を握られた。(六月十九日)


レニエ先生



 僕は雑誌「メルキユル・ド・フランス」の主筆をして居るアルフレツド・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)レツト君からくにモオリス・メテルランクとエミル・※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルアレンとアンリイ・ド・レニエの三詩宗しそうへの紹介状を貰つて置きながら事に紛れて訪問を怠つて居るうちに、新聞を見ると※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルアレン氏は旅に出て仕舞しまつた。メテルランク氏は今年になつて巴里パリイに来ない。レニエ氏も何時なんどき夏季の旅行に出掛けるか知れないし、其処そこへ僕達夫婦が小林萬吾石井柏亭両君と一緒に英国へ遊ぶ日も三四日さんよつかのちに迫つたので、にはかおもひ立つて昨日きのふ晶子と松岡曙村しよそんを誘つてボアツシエエルまち二十四番地にレニエ氏をうた。トロカデロとアルマとの間にあるひんの好い山の手ではあるが、随分車馬の往来のはげしい、一寸ちよつと東京で言へば内幸町と言つた風の感じのする街で、詩人の住みさうに思はれないところである。
 門番の教へてれたまゝ第二階へ昇つてぐ左の突当りののある鈴を押すと、髪を綺麗にすき分けた白い夏服の下部ギヤルソンが出て来た。あらかじめ訪問日を問合さず突然に来た事を謝して取次を頼んで居ると、ほそやかな姿の少し白髪しらがのある四十五六歳の婦人が、薄鼠色の服を着て黄金きんふささがつた小さな手提革包てさげかばんを持ちながら、何処どこか病身らしい歩みぶりをして昇つて来たが、僕達に軽い会釈を無言でして物静かにとびらの奥へはひつて行つた。一見してそれほかから帰つて来たレニエ夫人であると想像された。下部ギヤルソンは二三度書斎らしい室のとびらを叩く様であつたが、引返して来て、主人は何か仕事を成さつてるらしいから、一応手紙で面会日を照会に成つてはうかと言ふ。三四日倫敦ロンドンへ立つので遺憾ながそのひまが無い。では秋に成つて再び訪問する事にしようと僕等が云つて辞さうとしたら、下部ギヤルソン一寸ちよつとお待ちなさいと云つて、奥へはひつて前よりも強くとびらを叩いた。今度は出て来て明日みやうにちの午前十一時半に主人が面会すると申しますと言つた。
 それで今日けふ約束の時間に訪ねてくと大通おほどほりへ面した客室サロンへ案内せられた。室内の飾附かざりつけこの家の外見のけばけばしいのに似ず、高雅な中に淡い沈鬱な所のある調和を示して居た。美術品の数多い中に、日本の古い金蒔絵の雛道具や、歌がるたの昔の箱入はこいりや、じゆの字を中に書いた堆朱つゐしゆさかづきなどがあつた。大通おほどほりから光を受ける三つの大きな窓には、淡紅とき色を上下うへしたに附けた薄緑の※(「窗/心」、第3水準1-89-54)リドウを皆まで引絞らずに好い形に垂らし、硝子がらすすべ大形おほがたな花模様のレエスでおほはれて居るので、薄い陰影で刷られたあらはで無いあかりが繁つたアカシヤの蔭にでも居る様な幽静いうせいの感を与へた。詩人はこの室で創作の筆を執ると見えて古風な黒塗のきやしやな机が一つ窓近く据ゑられてあつた。
 しばらく待つて居ると、髪もひげも灰色をした、細面ほそおもてな、血色けつしよくの好いレニエ氏が入つて来た。「支那流の髭」と評判される程あつて垂れた髭である。その髭がよく氏の温厚を示して居る。氏は五十歳を幾つも越えないであらう。肉づきの締つた、ほそやかな、背丈の高い体に瀟洒せうしやとした紺の背広を着て、調子の低いさうして脆相もろさうな程美しい言葉で愛想あいそよく語つた。かねて写真で見たやうな片眼鏡は掛けて居ない。コイヅミヤクモやロテイの書いた物を読まない前から自分も東洋に憧憬あこがれて居た。十年前米国に遊んで桑港サンフランシスコまで行つた時、もすこしで太平洋の汽船に乗る所であつたが果さなかつた。しかしシベリヤ鉄道につて何時いつか一度遊びたいと思つて居ると語つた。氏は又日本の詩壇が数年ぜんから仏蘭西フランスの象徴派と接触した事を聞いて、其れは必ず経過すべき自然の推移だと云つた。僕は日本誌壇の近状を簡短てみじかに告げて、氏の作物さくぶつを読む者のすくなからぬ事を述べ、最近に森鴎外氏が氏の小説を紹介せられた事などを話した。
 氏は近年、※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルアレン氏が戯曲に筆を着け出した如くしきりに小説をおほやけにして居る。氏は最近の著述を揃へて僕に贈る事を約し、僕達が仏蘭西フランスに滞在する間出来るだけの便宜を計らうと云はれた。晶子はレエニ夫人に日本の扇や友禅いうぜんを捧げた。夫人もまた有名な詩人である。氏は夫人が近年病気がちである事を話して、日晶子を招待せうだいして夫人に引合ひきあはさうと云はれた。僕達は再会をたのしんで氏の家を辞した。さうして今夜この稿を書いて居ると、氏の手紙が届いて、早速さつそく僕等夫婦の為に書かれたぢよ詩人ノアイユ公爵夫人其他そのたへの紹介状が同封せられてあつた。(六月十八日)


巴里パリイの旅窓より(晶子)



  ×
 汽車で露西亜ロシア独逸ドイツを過ぎて巴里パリイへ来ると、づ目に着くのは仏蘭西フランスの男も女もきやしやな体をしてその姿の意気な事である。勿論一人一人を仔細しさいに観るならおの/\の身分や趣味がちがまゝに優劣はあらうが、概して瀟洒あつさり都雅みやびであることは国人の及ぶ所で無からう。仏蘭西フランスの女と云へば、其れが余りに容易たやすく目に附くので、どの珈琲店キヤツフエにも、どの酒場キヤバレエにも、どの路上にも徘徊する多数の遊女が代表して居る様に一寸ちよつと思はれるけれど、自分は矢張やはりコメデイ・フランセエズの様な一流の劇場の客間サロンに夜会服の裾を引いて歩く貴婦人を標準として、其れに中流の生活をして居る素人しろうとの婦人の大多数を合せて仏蘭西フランスの女の趣味を考へたい。目の周囲まはりにいろんな隈を取つたりする遊女の厚化粧は決してこの国の誇る趣味ではない。自分は劇場やの展覧会の中、森を散歩する自動車や馬車の上に、睡蓮の精とも云ひたい様な、ほつそりとした肉附にくづきの豊かな、肌に光があつて、物ごしの生生いきいきとした、気韻の高い美人を沢山たくさん見る度に、ほれぼれと我を忘れて見送つて居る。うして、それ等の貴婦人の趣味が中流婦人乃至ないしそれ以下の一般の婦人の間にまで影響して居ると見えて、随分粗末な材料の服装をして居ながらその姿に貴婦人のおもかげのある女が沢山たくさんに見受けられる。自分は[#「自分は」は底本では「自分ば」]これ等の趣味の根柢こんていになつて居る物が何であるかを早く知りたい。
 今しばらく自分の欧洲に於ける浅はかな智識で推し量ると、仏蘭西フランスの女の姿の意気で美しいのは、希臘ギリシヤ伊太利イタリイから普及した古い美術の品のよい瀟洒せうしや[#ルビの「せうしや」は底本では「しやうしや」]な所が久しい間にほかから影響したのでは無いか。ルウヴルの博物館にある伊太利イタリイの絵と彫刻とを見ただけでも自分はう云ふ事が想像される。それ等古代の美術にある表情と線とが現に巴里パリイの芝居の俳優の形に著しく出て来る様に、同じく自分は其れを仏蘭西フランスの女の日常の形に見いだす気がして成らない。其れが全部で無くても、大部分は古代芸術の自然の影響と、又意識して採択した結果とであらうと想はれる。ことに女優の形と云ふものは希臘ギリシヤ伊太利イタリイの古美術にあらはれた人体の美しい形を細密にわたつて研究して居るらしいから、その女優の形が上中流の婦人社会に影響するのは当然であらう。
  ×
 自分が仏蘭西フランスの婦人の姿に感服する一つは、流行を追ひながらしかも流行の中から自分の趣味を標準にして、自分の容色に調和した色彩や形を選んで用ひ、一概に盲従して居ない事である。自分は三四さんし着の洋服を作らす参考にと思つて目に触れる女の服装に注意して見たが、色の配合からブトンの附け方までまつたく同じだと云ふ物を一度も見たことが無い。仕立屋タイユウルけば流行の形の見本を幾つも見せる。あつらへる女は決してその見本に盲従する事なく、其れを参考として更に自分の創意に成るある物を加へて自分に適した服を作らせるのである。
 又感服した一つは、身に過ぎた華奢くわしやを欲しない倹素な性質の仏蘭西フランス婦人は、概して費用のかゝらぬ材料を用ひて、見た目に美しい結果を収めようとする用意が著しい。この点は京都の女と似かよつた所がある。富んだ女が絹を用ひる所を麻で済ませ、麻も日本などに比べて非常に高価であるから、麻の所を更に木綿で済ませて居ると云ふのが普通である。模造品の製造がたくみであるから木綿でも麻や絹に見える上に、着る人の配色が調和を得て居るので、絹を着たのと同じ美しさを示して居る場合が多い。
  ×
 欧洲の女はうしても活動的であり、東洋の女は静止的である。静止的の美も結構であるけれど、うも現代の時勢には適しない美である。自分は日本の女の多くを急いで活動的にしたい。うして、其れは決して不可能で無いばかりか、自分は欧洲へ来て見て、初めて日本の女の美が世界に出して優勝の位地を占めることの有望な事を知つた。たゞ其れには内心の自動を要することは勿論、従来の様な優柔不断な心掛では駄目であるが、其れは教育が普及してく結果現に穏当な覚醒が初まつて居るから憂ふべき事ではない。たゞし女の容貌は一代や二代で改まる物で無いと云ふ人があるかも知れないが、自分は日本の女の容貌をことごとく西洋婦人の様にしようとは願はない。今のまゝの顔だちでよいから、表情と肉附にくづき生生いきいきとした活動の美を備へた女がえてしい。髪も黒く目も黒い日本式の女は巴里パリイにも沢山たくさんにある。外観に於て巴里パリイの女と似かよつた所のある日本の女が何が巴里パリイの女に及び難いかと云へば、内心が依頼主義であつて、みづから進んで生活し、その生活を富ましたのしまうとする心掛を欠いて居る所から、作りばなの様に生気を失つて居る事と、もう一つは、美に対する趣味の低いために化粧の下手へたなのとに原因して居るのでは無いか。日本の男の姿は仏蘭西フランスの男に比べて随分粗末であるが、まだ其れはいとして、日本の女の装飾はもつと思ひ切つてひん好く派手にする必要があると感じた。
  ×
 松岡氏と良人をつとと自分がアン※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)リイドの停車場ステエシヨンからロダン先生をふ為にムウドンゆきの汽車に乗つたのは、初めて詩人レニエ先生をうた日の午後であつた。この汽車は甲武線の電車の様に、街の中を行きながら家並やなみよりは一段低く道を造つた所を走るのである。短距離にある市内の停車場ステエシヨンを七つばかり過ぎて郊外へ出ると、涼しい風がにはかに窓から吹き込んで来るのであつた。暗がりから明るみへ出た様な気味で自分は右と左を見廻して居た。近い所も遠い所も[#「遠い所も」は底本では「遠い所は」]家は皆低くてそして代赭たいしや色の瓦で皆葺いてある。わざとらしく思はれる程その小家こいへの散在した間間あひだあひだに木の群立むらだちがある。雛罌粟コクリコの花が少しあくどく感じる程一面に地の上に咲いて居る。矢車の花はこの国では野生の物であるから日本で見るよりも背が低く、すみれかと思はれる程地をつて咲いて居る。自分が下車かしやすると、例の様に、
「ジヤポネエズ、ジヤポネエズ。」[#「「ジヤポネエズ、ジヤポネエズ。」」は底本では「『ジヤポネエズ、ジヤポネエズ。』」]
 と云つて、ひと汽車の客が皆左の窓際へつて眺めるのであつた。自分は秋草あきぐさを染めたお納戸なんどの着物に、同じ模様の薄青磁色うすせいじいろの帯を結んで居た。停車場ステエシヨンの駅夫にロダン先生の家へく道を聞くと、彼処あすこをずつとけばいと云つて岡の下の一筋道を教へてれた。馬車などは一台もない停車場ステエシヨンである。真直まつすぐ突当つきあたつてと云はれた道が何処どこ迄も果ての無い様に続いて居る様なので、自分は男達におくれない様にして歩きながら時時ときどき立留たちとまつて汗を拭いては吐息といきさへもつかれるのであつた。松岡氏と良人をつととは逢ふ人ごとに目的の家を尋ねて居る。逢ふ人ごとと云つても一ちやうに一人、三ちやうに二人位のものであることは云ふ迄もない。粉挽小屋こなひきごやの職人までが世界の偉人を知つて居て、
「ムシユウ・メエトル・ロダン。」
 と問ひ返して、その返事を与へる事に幸福と誇りとを感じて居るらしいのを見ると、自分は涙ぐましいやうな気分にもなるのであつた。

真赤まつかな土がほろほろと……
だらだら坂の二側ふたかは
アカシヤののつづくみち

あれ、あの森の右のはう
飴色あめいろをした屋根と屋根、
あの間から群青ぐんじやう
ちらとなすつたセエヌ川。

涼しい風が吹いて来る、
マロニエのと水のと。

これが日本の畑なら
青い「ぎいす」が鳴くであろ。
黄ばんだ麦と雛罌粟コクリコと、
黄金きんにまぜたる朱の赤さ。

き捨てた荷車か、
眠い目をしてみちばたに
じつと立つたる驢馬ろばの影。

「ロダン先生の別荘は。」
問ふ二人よりそばに立つ
キモノ姿のわたしをば
不思議と見野良のら男。

「ロダン先生の別荘は
ただ真直まつすぐきなさい。
木のあひだからその庭の
風見車かざみぐるまが見えませう。」

巴里パリイから来た三にん
胸はにはかにときめいた。
アカシヤののつづくみち

 やつとその道の尽きるところまで来た。其処そこは自分達の今乗つて来たのとはちがふ別の汽車みちの踏切である。そして一層人気ひとげのない寂しい道へ自分達は出た。二ちやう程来た時前をく人を呼んで松岡氏が尋ねると、ロダン先生のやしき此処ここの左で、其処そこに門がある、そしてずつと奥に家があると云ふのであつた。見ると牧場まきばの柵の様な低い木の門が其処そこにある。マロニエの木が隙間もなく青青あをあをと両側に立つて居た。しかし人の通ふ道の上には草が多く生へて居る。右のかゝりに鼠色のペンキで塗つたいつぐらゐ平家ひらやがある。硝子がらす窓が広くけられて入口に石膏の白い粉がちらばつて居るので、一けん製作室アトリエである事を自分達は知つた。けれどこれは弟子達のそれであらう、ゆかも天井も低い、テレビンで汚れた黒いきれ沢山たくさん落ちて居るこの狭い室が世界の帝王さへも神の様に思つて居るロダン先生の製作室だとははひつてしばらくの間自分には思はれなかつた。白い仕事着を着たあご鬚のある、年若としわかな、面長おもながな顔の弟子らしい人と男達の話して居る間に、自分は真中まんなかに置かれた出来上らない大きい女の石膏せきかう像を見て居た。矢張やつぱりロダン先生が此処ここで仕事をされるのであると思つた時自分の胸はとゞろいた。なかばから腕の切り放されてある裸体の女は云ひ様もない清い面貌おもわをして今や白※[#「執/れんが」、U+24360、239-4]の様な生命いのちを与へられやうとして居る。先生は巴里パリイの家の方においでになつて夕方でないと帰られない、こと今日けふ他家よそへ廻られるはずであるから、それを待つより巴里パリイかれる方がいであらうと弟子は云ふのであつた。自分は良人をつとと相談をして夫人への土産みやげだけを出し、その弟子に托して名残なごり惜しい製作室アトリエを出て引き返さうとした。
一寸ちよつとお待ち下さい。」
 と云ひながらその人は又自分達を中門ちゆうもんの中まで案内して置いて母家おもやの窓の下へ寄つて夫人に声を掛けた。自分はこんな事をも面白くもゆかしくも思つた。大芸術家の夫人が窓越しに弟子の話すのを許すと云ふさばけた所作しよさをさう思ふのであつた。此処ここからはずつとむかうが見渡される。起伏した丘にあるムウドンの家並やなみや形の陸橋をかばしなども見える。この村は美観ベル・※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ユウ村と云ふのださうである。
「奥さんがお目に掛りますからお待ち下さい。」
 と弟子は云つて、又自分達をもとの製作室アトリエへ伴つた。そして前よりは一層打解けた調子で男達と弟子は話すのであつた。自分はまた男達と一緒に先生の未成品を眺めて居る事が出来るのであつた。まだ外に男の半身像や様様さま/″\の石膏像がとをばかりも彼方此方あちらこちらに置かれてあつた。帰りみちを聞くと、
「船にお乗りになるのがいでせう。奥さんがお許し下すつたら私がその船乗場ふなのりばまでお送りしませう。」
 と弟子は云つた。その言葉の中にも夫人をどんなに尊敬して居るかと云ふ事が見えてゆかしい。ロダン夫人は無雑作に一方口いつぱうぐち入口いりくちからはひつて来られた。背の低い婦人である。白茶しらちやに白いレイスをあしらつた上被タブリエ風のひろい物を着てられる。自分の手を最初に執つて、
「よくいらつしつた。」
 と云はれた。松岡氏が自分に代つて面会を許された喜びを述べた。夫人の頭髪は白金はくきんの様に白い。両鬢びんたぼを大きく縮らせたまま別別べつべつに放して置いて、真中まんなかの毛を高く巻いてある。自分がロダン先生のかつて製作された夫人の肖像に寸分ちがひのないかただと思つたのは、一つは髪の結様ゆひやう其儘そのままの形だつたからかも知れない。夫人のうして居られるのは自身の姿が不朽の芸術品として良人をつとに作られたその喜びを何時いつ迄もあらはして居られる様にも思はれるのであつた。そんな感じのするせいか、これ程の老夫人が母らしい人とは思はれないで、生生いきいきとした人妻らしい婦人であると自分には思はれるのであつた。「良人をつとの許しを得ませんから今日けふは何のおもてなしを致す事も出来ませんが、この次は御招待ごせうだいをしてゆるりとして頂きます」などと夫人は懐しい調子で云はれるのであつた。
一寸ちよつとお待ちなさい。」
 と云つて、夫人は母家おもやの方へかれた。しばらくすると露のしたゝ紅薔薇べにばらの花を沢山たくさん持つて来られた。
二三日にさんにち雨が多かつたものですから、わたしの庭の一番好い花を切つたのですけれど、このとほりなんですよ。」
 と云つて、夫人は花を自分に渡された。自分は心のときめくのを覚えた。夫人は自分達を船乗場ふなのりばまで馬車で送らせると云つてその用意を命ぜられるのであつた。其間そのあひだに椅子へお坐りなさいなどと自分の為に色色いろいろと心を遣はれた。製作ぢやうむかう側にはギリシヤあたりの古い美術品かと思はれる彫刻を施した円い石やかくな石が転がつて居るのであつた。馬車の用意が出来た頃弟子がもう一人帰つて来た。夫人はかへがへす再会を約して手を握られた。自分達三人は馬車の上でどんなに今日けふ幸福さひはひを祝ひ合つたか知れない。世界の偉人がこの馬車に乗つて毎日停車場ステエシヨン船乗場ふなのりばかれるのであると思ふ時、右の肱掛の薄茶色のきれがほつれかかつたのもたつとく思はれた。この帰りに更にロダン先生に逢つた事のうれしさを今この旅先で匆匆そうそうと書いてしまふのは惜しい気がする。しばらく一人で喜んで居よう。(六月廿日)


アミアン市



 アカデミイの絵の開会中に一寸ちよつと倫敦ロンドン見物に出掛けようと思つて居ると、日本へ帰る石井柏亭君が小林萬吾君と一緒に再び英国へくと云ふので、其れを幸ひに僕等夫婦も倫敦ロンドンまで同行する事にした。途中巴里パリイから三時間で着くアミアン市に一泊して、博物館のシヤ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンヌの壁画や十三世紀のゴシツク式建築の寺などを見物した。壁画は随分沢山たくさんあつて其れがシヤ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンヌの前期の作と後期の作に分れて居る。僕の歎服たんぷくする所は勿論巴里パリイのパンテオンや市庁や、マルセエユの博物館やの壁画と同じ手法に成る後期の作にあるが、まだ旧套を脱し切らぬ前期の作に於てもこの画家の色彩の特調とくてう下図デツサンの確実な事とを示して居る。館内のの新しい絵には巴里パリイのサロンに出品して政府に買上られた物が多かつた。仏蘭西フランス政府は年ごとに買上げたサロンの絵を如此かくのごとくして各地の博物館に分配するらしい。なほ館内にはロダンの作つたシヤ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンヌの大理石像があつた。寺は巴里パリイのノオトル・ダムや[#「ノオトル・ダムや」は底本では「ノオトルダムや」]ツウルのカテドラルと同期に建てられたゴシツクではあるが少し様子がことなつて居た。窓が多い所為せゐで堂内の明るいのは難有ありがたさを減じる様に思はれた。塔の正面のたんを塗つた三ヶ所の汚れた扉は薄ぐろく時代の附いた全体の石づくりと調和して沈静の感を与へた。その前の広場の石畳が反対の側へ幾段かに高まつて居て、其処そこ大通おほどほりから少し離れて裏町である為に車馬の往来しないのが好かつた。寺の直前すぐまへに立つたのでは容易に大きな塔の全体が眼にらないので僕等四人はその広場の上を後退あとしざりしながら眺めるのであつた。老人の乞食が附近の物寂びた家の階段に腰を据ゑて帽をしづかに差出すのもうるさくなかつた。二人の画家は翌日再び来てこの塔の正面を描いた。
 幅の狭いアミアン川が市街にはひつて更に幾つとなく枝流しりうを作つて居るので石の小橋こばしが縦横に掛つて居る。る裏町にある小橋こばしの四方を雑多な形の旧いすゝばんだ家が囲んで、橋の欄干の上に十人ばかり腰を掛けて長い釣竿を差出した光景が面白かつた。つては音楽祭だと云ふので辻辻つじ/\焚火たきびが行はれ、男の等は爆丸はぜだまを投げて人を驚かし、又大通おほどほりには音楽隊を先に立てた騎馬の市民の提灯ちやうちん行列があつた。
 僕等はよるの十一時に眠たい目をして汽車に乗り、カレエの港から汽船に乗つたのは翌日の午前一時であつた。英国の海峡は珍らしいなぎの中に渡つたが、海の夜風が寒いので三等客の僕等は甲板の上でふるへて居た。一時間ののちドオ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)アに着いて海峡の夜明よあけの雲の赤くそまつたもとで更に倫敦ロンドン行の汽車に乗移つた。(六月二十四日)


海峡の船(晶子)



 よく荒れるところだと聞いて居た英仏海峡をよるの一仏蘭西フランスのカレエ港からドオバアの港へ渡る事に成つた。月は無かつたが朧月夜おぼろづきよと云つた風に薄く曇つて居る星明りの中に汽車からりてぐ前の桟橋に繋がれた汽船へ乗移つた。三等客は皆甲板かふばんに載せられるのでたれも手荷物をわきに置いて海を眺めながら腰を掛けた。船員や乗客じようかくの間に英語が交換されるので、外国語を知らぬ自分にもにはかに言葉の調子が耳つ。六月の二十三日と云ふのに海峡の夜風はこほる様に寒い。生憎あひにく良人をつとも自分も外套を巴里パリイに残して来たので思はず身をふるはすのであつた。仕合しあは[#「仕合せ」は底本では「仕合」]な事に浪はまつたく無い。一緒に来た小林萬吾さんと石井柏亭さんは外套の襟を立てて煙草たばこを吸附けながら食堂の蔭に成る腰掛で話して居る。良人をつとは自分だけを二等の寝室へ移すと云つて船員へ交渉しに下へ降りて行つたが、二等の婦人室は誰も相客あひきやくがないから切符を買ひ更へずとも自由に休憩してよいと船員が云ふので、自分はその婦人室へ良人をつとれられて行つて横に成つた。部屋を世話する英国婦人の給仕が自分の帽を天鵞絨ビロウドを張つたぐ上の壁へ針で留めて掛けてれた。今夜の十一時に仏蘭西フランスのアミアン市から立つて来たので眠たくはあるが、さてずつと一人横に成つて見るといろんな事が頭にうかんで来て眠られさうにも無い。敦賀から一人乗つた露西亜ロシアの汽船の中の様な心細さは無いが、矢張やはり気にかゝるのは東京に残して来た子供等のうへである。
 旅人の愁ひも此処ここに尽きよかし仏蘭西フランスの岸けて海見ゆ
 海峡の灯台の明滅めいめつすわがおちつかぬ旅の心に
 汽車をり船にのぼるもけしは影の国踏むここちするかな
 海峡に灰をきたる星ぐもり我を載せたる船流れ
 海峡の夜風に聞けば旅人のざれたる声もかなしきものを
 ひんがしのはなれ小島をじまに子をおきておんなゆゑ寒き船かな
 ゆゆしかる身のはてとしも思はねど大海おはうみに寝て泣くとなりぬ
 いづれぞやわがかたはらに子の無きと子のかたはらに母のあらぬと
 こらしめははげしき恋の中にぬ子等に別れて海にさまよふ
 歌うたひ旅より旅にく事もわが生涯のめでたさながら
 こんな事を歌つて気を紛らさうとするのであるが何時いつの間にかびんまでが涙に濡れて居た。良人をつと甲板かふばんから降りて来てドオバアへ着いたと知らせてれた。わづか一時間で海峡を渡つたのである。
 星あまた旅の女をとりかこみ寒き息しぬ船をくだれば
 午前三時と云ふのに東の空はもう赤紫を染めて、船から倫敦行ロンドンゆきの汽車に乗移る旅客りよかく昨夜ゆうべろくろく眠らなかつた顔があらはに見える。自分は白い面紗おもぎぬを取出して顔をおほうた。この港にも山の上と海岸の二箇所に灯台があつてしきりに灯火を廻転させて居た。


倫敦ロンドンより(晶子)


(一)


 自分達の汽車は午前六時にチヤアリング・クロスの停車場ステイシヨンへ着いた。折しく日曜の朝なので倫敦ロンドンの街は皆戸を締めて死んだ様に寝て居る。停車場ステイシヨンに居た老人のボオイが親切に案内してれたので、ぐ横町にだ一軒起きて居た喫茶店カツフエはひつて顔を洗ふ事が出来た。小林さんと石井さんとの宿は自分達の宿と余り離れては居ないが別に成つて居る。今頃どの宿へ行つても容易に起きてはれまいと思つて悠悠いういうと話しながら朝の紅茶と麺麭パンとをその喫茶店カフエエで取つた。自分達の汽車で同じく着いたらしい三人の西班牙スペイン人がはひつて来て喫茶店カフエエ老爺おやぢ西班牙スペイン語で話して居た。自分達が自動車に乗つてフインボロオグ・ロオド二十八番のフイルプス夫人の家へ来た時はだ七時半であつた。幾等いくらベルを鳴らしても戸が明かないので、仕方なしに門の石段の上へ革包かばんを据ゑて其れに腰を掛けて二人で書物を読んで居た。しかし牛乳配達と掃除馬車の男とが自分達を珍らしさうに見て過ぎる外に街を通る人も無かつた。あらかじめ通知して置いた日から四五日も遅れて着いた自分達を宿の方で待設けて居ないのは無理もない。主婦のフイルプス夫人が戸を明けてれたのは九時であつた。通りに臨んだ三階の明るい窓硝子がらす日蔽ひおひおろして、自分達は昨夜ゆうべの不眠を補ふ為に倫敦ロンドンへ着いた第一日を昼過ぎまで寝て居ねば成らなかつた。
 その午後乗合自動車オムニブスに乗つて東京の銀座と浅草とを一緒にした様ににぎやかな、ピカデリイの大通りへ出て食事を済まし、ゼエムス公園を抜けてウエスト・ミンスタア寺をひ、丁度ちやうど日曜の勤行ごんぎやうに参り合せたのを初めに、今この筆を執る日まで丸八日やうか経つ間に倫敦ロンドン寺と博物館と名所とを一通り見物して仕舞しまつた。巴里パリイを立つ時倫敦ロンドンを短い日数ひかずで観て歩くには住み慣れた日本人に案内して貰ふ必要があらうと思つて居たが、自分達は地図とベデカアを頼りにしただけで格別まごつく事も無かつた。其れには一ヶ月前に倫敦ロンドンへ遊んだ二人の画家の徳永さんと川島さんから色色いろ/\倫敦ロンドンの様子を聞いて居たのと、オムニブスの通るみち筋を示した倫敦ロンドンの図を二人から貰つて、あらかじ巴里パリイで読んで置いたのとで非常に便宜を得た。自分が此処ここへ着いて三目に倫敦ロンドン市内を縦横に縫ふオムニブスの番号とみち筋をまつたく暗記して仕舞しまつたのは何の珍らしい事でも無い、案内者なしに自分達で見物して廻つた為であつた。
 倫敦ロンドンの博物館はいづれも立派な建築で明りの取方とりかた申分まをしぶんなく、其上そのうえ配列が善く整頓して居る。巴里パリイのルウヴル博物館はふるい王宮だけに壮麗であるが、始めから倫敦ロンドンの様に博物館として建てられたので無い為に不充分な所が多い様である。自分はナシヨナル博物館で伊太利イタリイ西班牙スペインの昔の諸大家の絵を、テエト博物館で英国近代の名家の絵を観た事に幸ひを感じた。巴里パリイで観られなかつたミケランゼロもナシヨナル博物館で観る事が出来た。ロセツチ初めラフアエル前派の逸品や、数室にわたるタアナアの大作などは到底テエト博物館ならでは観難い物である。ロセツチの絵は想像して居たよりも鮮かな色が面白かつた。ワツツは写真版で観て居た時の方が好かつたかも知れない。サウスケンシントン博物館にある毛氈まうせんの下図をいたラフアエルの大きな諸作は恐らく伊太利イタリイにもすくない傑作であらう。又其処そこに附属した印度インドの博物館を観ては、一面に欧洲美術と交渉し、一面に日本支那の美術と連絡を保つ印度インド美術の大概たいがいを窺ふ事が出来るやうに想はれるのであつた(六月三十日)

(二)


 倫教ロンドン巴里パリイに比べて北へ寄つて居る所為せゐか、七月になつても薄寒うすさむを覚える様な気候である。巴里パリイの様に上衣うはぎを脱いでコルサアジユだけで歩く女をだ一人も見受けない。一日に幾度も日本で云ふ「狐の嫁入雨よめいりあめ」が降るので、自分は水色の日傘を濡らしながら、その雨の中にセント・パウル寺へも詣り、倫敦ロンドン塔へものぼつた。倫敦ロンドン塔の中は古代武器の展覧ぢやうに成つて居る。又その一部に※[#濁点付き井、254-7]クトリヤ女皇ぢよくわうと先帝との戴冠式に用ひられた宝冠や、宝石と貴金属で華麗を尽した沢山たくさん花環はなわやが陳列されてゐる。昔の牢獄の中へ帝王の大典のめでたい記念を飾ると云ふ事は東洋人の為相しさうにない事である。薄暗くて狭い、曲つた石の階段の泥靴で汚れたのを踏んで、混合ふ見物人に交りながら裾をからげて登る厭な気持のあとで、幾多の囚人の深い怨みを千古にとゞめた題壁だいへきの文字や絵を頂上の室に眺めた時は、今もなほどこかの隅で嗚咽をえつの声がきこえる感がして自分の雨に濡れた冷たい裾にも血のしたゝるのかとをののかれるのであつた。
 倫敦ロンドンへ来て気の附く事は、街の上でも公園でも肉附にくづき生生いき/\とした顔附かほつき供を沢山たくさんに見受ける事と、若い娘の多くが活発な姿勢で自由に外出して居る事とである。巴里パリイでは概して家の中に閉ぢ込めて置く所から、一般に娘供が生白なまじろい顔をして如何いかにも弱弱よわ/\さうである為め、自然仏蘭西フランス人の前途まで心細く思はれぬでも無いが、英国の娘供の伸伸のび/\おひ立つて行くのを見ると、その家庭教育の開放的なのが想像せられると共に著しく心強い感がする。其れに倫敦ロンドンでは上野公園に幾倍する大きな公園が幾つも街の中に有つて、例へば日本人が自分の庭で遊ぶ様に出入でいりの心易いのが娘ばかりで無く一般人の散歩に都合が好い。同じく街の中にあつても東京の公園は倫敦ロンドンの程街に密接して居ないから市民に親しみが乏しく、日比谷公園や上野公園へとくと云へば何だか特別な事に成るが、大通おほどほりと並んで居る倫敦ロンドンの公園は非常に出入でいりが気軽い。巴里パリイの市内にある公園はれん押韻あふゐんの正しい詩を読む気がして整然とした所に特色を認めるだけ窮屈な感を免れないが、英国の市内公園の散文的に出来て居るのは自然の森を歩む様に胸の開く心地がする。
 表面うはべの観察ではあるが巴里パリイを観て来た目で評すると概して英国の女は肉附にくづきの堅い、骨の形の透いて見える様な顔をして居て、男と同じ様な印象を受ける赤味がかつた顔が多い。世界の都を代表する顔で無く幾分田舎ゐなからしい顔で、目附は勿論一体の表情が何処どことなく真面目まじめ怜悧れいりとを示して居る。巴里パリイの女の様ないきな美には乏しいが愛と智慧とには富んで居さうである。巴里パリイの女は軽佻けいてうで無智で執着に乏しさうであるが、英国の女はその反対の素質を余計に持つて居るのではないか。女子参政権問題の生じた事などに種種しゆ/″\の複雑した原因はあるにしても、その主たる原因は外面の化粧に浮身をやつ巴里パリイ婦人とちがつて、女子教育の普及した結果内面的に思索する女が多数に成つたからであらう。あるひは男に近い教育を受け、男とひとしい資産を持つて独立の生活をして居る為に、自然その容姿までが一層男に近く成つて来たとも云はれるであらう。参政権問題については急進派の婦人が男子も最早もはや現代にあへてしない様な暴動を相変らず実行して識者を顰蹙ひんしゆくさせて居る。しかある階級の婦人が男子と対等の資格を要求するのには拒み難い真理がある。其れがたま/\参政権問題となつて鉾先を示して居るのだと思ふ。従つて又※[#「執/れんが」、U+24360、257-11]中の余りに急進派の暴動を生ずるのも[#「生ずるのも」は底本では「生ずるもの」]の過程であらう。時期が熟したら温健な主張の婦人の手につて一切婦人問題に識者を満足さす解決が附けられるに違ひない。自分は堅実な英国人の間に起つた婦人運動が決して空騒ぎで終らない事を信じる。だ英国の現代の婦人は日本の婦人よりも更に切迫した過渡期に遭遇して居る。其れが為に容姿の美をおろそかにする迄に賢くならうとして居るのが悲惨である。(七月二日)

(三)


 帽も服装も英国の女のは日本の上方かみがた言葉の「もつさりして居る」と云ふ一語でおほはれる。ジヤケツの上衣うはぎの長いのやの大きくひろがつたのなどは、昔長崎へ来た和蘭船オランダぶねの絵の女を見る様に古風であるだけ今日こんにちの目には田舎ゐなか臭い。倹約な巴里パリイの女が外見は派手でありながら粗末なしつの物をたくみに仕立てるのとちがつて、倫敦ロンドンの女は表面質素じみな様で実は金目かなめかゝつた物を身に着けて居る。だ惜しい事に趣味が意気でない。しかこれは一般の観察であつて、芝居などで観る美しい貴婦人の中には巴里パリイの流行をたくみに取入れてひんい盛装をした女のすくなくないのに目が附く。女の大学生がまげを包んだリボンと同じ色の長い薄手の外套を着て、瀟洒せうしやとした所に素直な気取きどりを見せたのは一寸ちよつと心憎い様に思はれる。一体に白、水色、淡紅とき色などのかるい色のロオヴを着た女が多く、それ等を公園の木立こだちの下の人込の中で見るのは罌粟けしの花を散らした様である。
 自分達はある日の午後、もとヒス・マゼステイ座の俳優で今は興行者マネエジヤアと成つて居るフレデリツク・ヱレン氏夫婦から茶の時に招かれたので、石井柏亭さんを誘つてレゼント公園のそばその家へ出掛けた。夫婦は三越の松居松葉しようえふさんの[#「松居松葉さんの」は底本では「松井松葉さんの」]さんの旧い知合しりあひで、自分達も松葉しようえふさんの紹介で面会を求めて置いたのであつた。客室には広重や其他そのた日本の版画が飾られてあつた。夫婦は松葉しようえふさんの噂をしてその若い姿の写真を取出して見せた。席に音楽家のヤング氏も自分達に逢ひたいと云ふので先に来て待つて居た。ヤング氏はかつて日本の音楽と俗謡とを研究する為に東京や薩摩に半年程とゞまつて居た人で、驚くばかり日本語が達者である。在来の如何いかゞはしい日本通とちがつて大分だいぶに精細な所まで研究がゆき届いてるらしく、貞奴さだやつこの語がヱレン氏の口から出ると「彼女あのをんなは俳優でない、芸者である」と打消した。氏は沢山たくさんの日本の謡曲や俗曲を飜訳して其れに自分で譜を附けて居る。氏は又オスカア・ワイルドの親友の一人であつたと云つて、ワイルドの話を聞かせてれ、日本にワイルドの「サロメ」その外の訳があると聞いて非常に喜んで居た。ヱレン氏は自分達の観たいと思つて居た沙翁しやをう劇の季節が既に過ぎた事を語つて、ツリイの今演じて居るジツケンス物へ案内しようかと云つた。自分達が成るべくバアナアド・シヨウの劇を観たいと云つたら、それ丁度ちやうど今キングス・ヱエ座で演じて居るから来週の火曜日の晩に席を取つて置かうと云つてれた。帰る時にヱレン夫人は自動車に乗つた自分の手へ百合の花を取らせた。
 その晩十時を過ぎてからヱレン氏夫婦とヤング氏とに紹介せられて、ピカデリイの大通おほどほりからレゼント・ストリイトを少しのぼつて左へはひつた地下室にあるキヤバレエ・テアアトル・キユルブへ行つた。倫敦ロンドンに居る芸術家のある一部が英国の習慣を破り徹宵てつせうして隠し芸を出しながら遊ぶ為に新しく会員組織で設けた巴里パリイ風の酒場キヤバレエである。まだ先週から開いたばかしなので広くは知られて居ない。もと倉庫か何かであつたむさい地下室を、すつかり白とたんと緑の配色で美しく塗直し、舞台の電灯の装置から卓や椅子までがすべて新しく出来て居る。ことに三面の壁を立体派キユビストの図案で装飾したのは好く調和して居た。この奇抜な画風を室内の装飾に応用する事はだ本元の巴里パリイでもあへてしない事で、それい効果を収めて居るのは奇だと柏亭さんと良人をつととが評して居た。来会者の中から舞台に出て色色いろいろの歌やをどりが演ぜられた。会員には英国人以外に仏蘭西フランス諾威ノウルエエ丁抹デンマルク西班牙スペインなどの人人も加はつて居るので世界的の隠し芸が演ぜられるのであつた。その国の野蛮に派手な服装をした印度インド人の一ぐんと、青い服を着けた波斯ジプシイの男の踊子とだけは特に雇はれて居るらしい。会員の中には名を知られた女優なども居ると、一一ヤング氏が自分の耳に口を寄せてその人達の身分と演じる物とを話してれた。ヤング氏もしば/\ビアノにむかつて伴奏をした。氏が訳した日本の短い二首の俗謡がある夫人につて歌はれもした。その時の紹介にヤング氏は舞台に立つて「これからわたくしの訳した日本の歌を、わたくしの作曲で歌ひます」と明晰な日本語で述べた。自分達にヤング氏が「これを見て下さい」と云ふので青く塗つた大きな柱を仰ぐと、平仮名で太く「ぬしとねるときはまくらはいらぬ、たがひちがひのおてまくら」と氏の手で書かれてあつた。氏は又印度インド人の歌を評して「夷狄いてきがくです」とも日本語で云ふのであつた。自分達は次のも柏亭さんと小林萬吾さんとを誘つてこの酒場キヤバレエへ行つた。(七月四日)


倫敦ロンドンを立たうとして



 僕達は大略倫敦ロンドンの見物を済ましたから今日けふの午後の汽車でカレエ迄乗り、其処そこから汽船で白耳義ベルジツクのオスタンドへ渡るつもりだ。短時日の滞在の割に英国から受けた利益の多大なのを僕は喜ぶ。ナシヨナル、テエト、サウスケンシントンの三大博物館を観たことは就中なかんづく感謝せざるを得ない。これに加へて巴里パリイのルウヴル及びリユクサンブルの二大博物館を観れば欧洲の絵画の古今にわた精粋せいすゐを概観し得たと云つて好いであらう。芝居の季節に来なかつた事が遺憾だからこの冬を期してそれが為に今一度倫敦ロンドンに遊びたいと思ふ。
 巴里パリイしばらく慣れて居た者が倫敦ロンドンに来て不便を感じるのは、悠悠いういう店前テラスの卓に構へる事の出来る珈琲店キヤツフエまつたく無いのと、食物しよくもつ不味まづいのとである。一般の英国人はそれ等の点に仏蘭西フランス人程の興味を持つて居ないらしく、一嗜欲しよくみたせばると云つた風に食事の時間迄が何となくせはしげだ。僕達はピカデリイのオランピヤと云ふ仏蘭西フランス料理屋へ度度たび/\行つて食事をした。小林萬吾君も英国料理に困つて滞在中は探花楼たんくわろうと云ふ支那料理へく事にめて居る様である。
 僕達は在留の日本人に逢ふ機会が無かつた。長谷川天溪てんけい君の住所を大使館で聞いたが不明であつた。同君は既に日本へ出発したと云ふ噂を日本人倶楽部で聞いたがそれたしかでない。大阪の骨董商山中氏の店を一寸ちよつと訪ねて見たが今は日本品よりも支那の骨董品を主として売つて居る。日本の如何いかゞはしい美術品が売行うれゆかなくなつたのは自ごふ自得であらう。正金銀行支店の諸君から日本料理の生稲いくいねへ招かれて一を語りふかした。小島烏水うすゐ永井荷風二君の旧知ぞろひで二君の噂がしきりに出た。紐育ニユウヨオクの支店で以前荷風君を銀行の客分として部下に使つて居た某某ぼう/\二氏は、同君の在米当時を話して、何時いつも銀行へ風の如く来て風の如く去つて仕舞しまふのは同君であつた。あとで思へば「亜米利加アメリカ物語」の材料を人知れず作つて居ながら、たゞ僕等の前では温厚おとなしい貴公子で、文学のぶの字もまつたく言はなかつたのは一人僕等を俗物だと思つて居たのであらう。今考へて気の毒なのは美しく額へ垂らして長くして居た髪を無理に刈らせて仕舞しまつた事だなどと語るのであつた。
 テエムス河に大きな汽船が繋がれ、対岸に沢山たくさんな煙突がけむりを吐いて居る景色を見ると、巴里パリイのセエヌが優美な芸術国の女性的河流であるなら、これは活動的な商工業国の男性的河流だと云ふ感がする。[#「。」は底本では「、」]セエヌは常にあゐを湛へて溶溶よう/\と流れて居るが、テエムスは何時いつも甚だしく濁つてせはさうである。かれが優麗なルウヴル宮やトロカデロの劇場を映すのに対して、これは堅実な国会パリヤマンの大建築を伴つて居る。僕は巴里パリイに居て常にセエヌの河岸かしを逍遥した如く、しば/\テエムス河の岸と倫敦橋ロンドンけうの上とを散歩して英仏両国民の性情の相ことなる特色を此処ここに読む気がした。僕達は又午後五時から二時間程の間倫敦ロンドン市の中心から吐出はきだされて、テエムスに架せられた幾多の大鉄橋を対岸へ渡つてく幾万の労働者の帰路きろに混じつて歩きながら、故国をく如き一種の気安さを感じると共に、みづからもまたこれ等の大群と運命をひとしくする弱者である事に想ひ到つてにがい悲哀にたれざるを得なかつた。ことに注意すべき事だと感じたのはこれ等労働者の大半を若い女子が占めて居る事である。(七月四日)


倫敦ロンドンの宿(晶子)



 自分が倫敦ロンドンで泊つたフインボロオグ・ロオド二十八番地のフイルプス夫人の家は、主人が有名な建築家で、夫人の連子つれこであるせん良人をつとの令息も同じく建築家として父の工場こうぢやうへ通つて居る。家族がこの三人きりなので淋しくないめにと大学生や師を三人程下宿させて居るが、裕福な家だから宿料しゆくれうなどはうでもいと云つた風である上に、下宿人に対する待遇が賓客ひんかくを待つ様に鄭重である。親切な夫人は朝だけ其処そこで取る自分達の食卓を離れずに給仕して下さる。仏蘭西フランスと違つて英国では朝の食事に麺麭パン[#「麺麭と」は底本では「麭包と」]紅茶又は珈琲カツフエの外に二品ふたしなばかりのうをと肉との料理が附く。夜更よぶかしをして帰つて来る自分達は兎角とかく遅く起きる朝が多いのに、夫人は何時いつでも温かい料理を出す様にと気を附けてられる。初めに辞退しなかつたので毎朝その通りの料理が出て加之おまけその量が多い。自分達は日本に居ても朝は大抵牛乳位ですまして居る習慣が附いて居るので大分だいぶこれには難有ありがた迷惑を感じたが、皿に手を附けずに居ると料理が不味まづいからだらうと云つて夫人の心配せられるのが気の毒なので、我慢がまんして少しでも頂くことにして居た。実際英国の料理加減は巴里パリイの料理を経験して来た者に取つて著しく不味まづいのである。勿論自分達がビカデリイ附近で毎日昼と晩との食事を取つたのはれもやす料理屋であつた所為せゐもあらう。何でもビフテキ専門の有名な美味おいしい料理屋のあると云ふ事を聞いて居たが案内して貰ふ人が無いので行かずに仕舞しまつた。下宿の夫人は外にも色色いろ/\の事に注意を与へて下さるのであるが、良人をつとの英語が不充分なので遺憾に思ふ場合が多かつた。令息は仏語が出来るのであるけれど毎日早くから工場こうぢやうへ出てくので話す機会が無かつた。自分は夫人の親切と共にこの家の清潔なのと湯槽ゆぶねがあつて入浴の自由なのとをうれしいと思つた。
 食堂には各国の美術品が飾られて居た。中に日本や支那の骨董品も多くまじつて居た。夫人のせん良人をつとも建築家であつたが、東洋の美術を愛した人で従つて日本人贔屓びいきの人であつたから、日本人を見れば懐しいと夫人は語られた。せん良人をつと温厚おとなしい学者肌の人であつたが、ある旅先で悪友に誘惑そゝのかされてうつかり勝負事に関係しため、すくなからずあつたその財産がすべて失はれて居た事を良人をつとの死後に発見して途方に暮れた夫人は、令息をれて良人をつとの友人である倫敦ロンドンの今の良人をつともとに頼つて来た。親切な今の良人をつとこの若い未亡人びばうじん幼児をさなごとを助けたいめに進んで結婚を求めたのであつたと夫人が語られた。同じく食堂には薄桃色をした鸚鵡あうむの籠が吊されて居た。鸚鵡あうむは自分達が朝の食事を取る度にけたたましい声を立てて食物しよくもつの催促をするので、夫人は何時いつも「静かになさい」と云ひなが麺包パンを与へられた。夫人は早く起きて割烹をし、広い四階屋かいやの各室の掃除から水の用意までを一人ですまして置いて、暇があればこの鸚鵡あうむの籠のもとで編物や読書に耽られるのであつた。
 夫人は四十五六であらうか、色の白い細面ほそおもての、目の大きくぱつちりとした、小皺こじはが寄りながらも肉附にくづきの豊かなほゝなどの様子は四十歳ばかりとしか見えない。途上のきずりに聞く英国婦人の言葉遣ひと違つて、英語もこの様に物優しい国語かと思ふ程美しくひんい発音をする人である。物を言はれると温かい表情が顔にのぼるけれど、黙つて居られると何処どことなく心の上に苦労を経験した人に免れない一種の淋しさを覚えるのであつた。自分達の出立しゆつたつする時夫人は涙を目にいつぱいためて自動車の窓ごしに手を執られた。自分は此後こののち英国をおもひ出す度にこの夫人の顔が目に浮ぶであらう。


ブリユツセル



 ドオバアからオスタンド迄の海上三時間は少しばかり波の立つのを感じた。晶子を酒場バアそば寝台ねだいへ休息させて置いて、自分は甲板かんぱんの上の船客せんきやくに交つて涼しい汐風に吹かれて居た。白耳義ベルジツク仏蘭西フランスと同じ貨幤を用ひて居るが、たゞ十文銭や二十五文銭のあないて居るのがことなつて居る。自分は酒場バアの釣銭にそのあないた白銅を受取つて欧洲の銭で無い気がした。汽船とぐ接続するオスタンド発の汽車に乗つたが途中ガン市に住んで居る画家の児島君をふ約束をして置いたにかゝはらず、その所書アドレツス巴里パリイへ忘れて来た事に気が附いたので下車げしやを見合せ、ずつと直行ちよくかうしての十時三十分にブリユツセル市へ着いた。停車場ステエシヨンを出ると大きな珈琲店キヤツフエが幾つも並んで店先テラスの椅子に男女なんによの客が満ちて居る。耳に聞く言葉はすべ仏蘭西フランス語である。小巴里せうパリイはれる首府だけあつて自分は巴里パリイに帰つた様な気安さを感じた。旅館ホテルの食堂で夜食を済ませたあとで自分達は明るい街の人通りを眺めながら遅く迄ある珈琲店キヤツフエに涼んで居た。
 ブリユツセルは京都程の大きさに過ぎない都で、其れが麹町区の様な高台と神田日本橋両区程の低地とに際立きはだつて区分され、高台の方に王宮初め諸官や諸学校や美術館やがすべあつまつて居る。高台と低地との間の傾斜地に属する街が最も旧い街なのでサン・ギユドユルだの、ノオトルダム・ド・サブロンだのと云ふ十三四世紀のお寺や、奇体な窓を幾つも屋上に建て出した古風な老をくなどが其処そこに多く見出いだされる。して一般の低地は商人街あきんどまちである。王宮は立派な近年の建築であるが、さびの附いて居ない白い石造いしづくりには難有ありがた味が乏しい。美術館では和蘭ヲランダの古画と併せてリユウバンスと※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン・ダイクの[#「※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン・ダイクの」は底本では「※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンダイクの」]作品に注意すべき物が少しつた。近代博物館の方ではレエスの人物画を好いと思つた外白耳義ベルジツクの十九世紀の画家に取立てて感服すべき絵が無い様に思はれた。此処ここで感謝すべきことはロダンに対抗すべき大彫刻家ムニエの芸術に接し得ることである。の東にある先王せんわうの金婚式記念の博物館をもうたが、其処そこの日本部にはおよそ十室にわたつて歌麿、春信、広重、豊国其他そのたの浮世絵が蒐集せられて居た。随分如何いかゞはしい飜刻物ほんこくものまじつて居るが、是丈これだけ多数に蒐集せられたところは英仏は勿論本国の日本にも無い事である。白耳義ベルジツク政府がその購入に定めて巨額を支出したのであらうし、又その保存に年年ねん/\すくなからぬ財力を費しもするだらうと想像して感謝の念にたれざるを得なかつた。
 一体にブリユツセル市民は日本人に対し好感情を持つて居て、何かと自分達に便宜を与へてれる事が多かつた。辻馬車の馭者ぎよしや迄が特に親切であるのを感じた。又市民は前の浮世絵の博物館ミユウゼと市外のロオヤル公園の中に前年の博覧会の記念として保存されて居る日本の五重塔ぢゆうたふとを有する事をブリユツセルのほこりとして居る様である。自分達が浮世絵の博物館をふた時は曇つた日の午後三時頃であつたが、各室の監視人は自分達の為におほひのとばりてつして浮世絵の一一いち/\を実は内内ない/\迷惑を感じるまで仕細に観せてれ、閉館の時間を余程よほど過ぎても出よとは云はなかつた。中に一枚歌磨の自画像だと称して特に金紙きんしの装幀を施した絵をわざと高いところから降ろして観せてれたのが有触ありふれた遊冶郎いうやらうの絵であつたのは驚いた。い加減な事を日本人の誰かが説明して聞かせたのであらう。かく欧洲の旅客りよかくがブリユツセルを過ぎて是非ぜひふべきものはこの浮世絵の博物館ミユウゼである。
 ブリユツセルの街を歩いて居てある辻角に出た時鉄柵の中に珍らしい噴水のあるのに気が附いた。愛くるしい三歳ぐらゐ小児せうにの裸の石像が無邪気な姿勢をして立ちながら手で軽く支へた前の物から、細い噴水が勢ひよく円を描いて流れて落ちるのである。これと同じ姿勢をした木彫の小児せうに巴里パリイのクルニイの博物館ミユウゼで観た事をおもひ出したが、この奇抜な放尿の噴水に如何いかなる由来があるかは早速さつそく繰返して見た案内書※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ヂカアにも見当ら無い。僕は欧洲の公園を巡つて初めて噴水の美を知つた。しか木立こだちの間などからやゝ遠く離れて見渡す大噴水こそ美であるが、近く寄つて女体ぢよたいの人魚や海馬かいばなどの口から吐き出す形を見るのは決して懐かしい物で無いと想つて居る。僕にこの放尿の噴水が不快の感を与へないのみかかへつて自然の天地に帰つて胸を開く様な快さを覚えしめるのは童貞の無邪気と純潔とを人間の作法に拘泥せずして具体化した芸術家の力であらう、これがわざわざ広場プラスや公園の真中まんなかに設けられずに、古ぼけた街裏まちうらの狭い辻角に建つて居るのも附近の民家の幼児をさなご一寸ちよつと横町の塀下へいしたで立小便をして居るのと同じ感じであるのを面白いと思つた。あとある絵葉書屋をあさつて居ると、此処ここの王立博物館にあるリユウバンスの諸作中で僕の好きな「火神バチカンの工場をへる※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ヌス」の絵葉書と並んでこの童子の噴水の絵葉書もあつたので早速さつそく併せて買収かひをさめた。絵葉書に迄成つて居るのだから何か由来があるだらうと思つて絵葉書屋のかみさんに聞くと、この可愛かあいい童子はマヌケン・ピスと云ふ名の昔の幼王である。戦争中父の王が亡くなつたので将士の心を繋ぐ為にこの頑是ない幼王を陣中へ伴つて来たが、ある日幼王がこの石像の如く一人で無邪気に放尿して居るところへ我軍大勝利の快報が達した。その歴史上のめでたい記念に建てられたのがこの石像の由来である。後世奈破翁ナポレオン始め幾多の君主がこの噴水をうて裸の幼王に捧げた衣裳が日本で云へば長持ながもちに一杯と云ふ程今も保存されて居るさうである。僕は由来を聞かないで独り合点がつてんをして居た方が一層興味が深かつたと思つた。


アントワアプ



 少し曇つた日の涼しい朝ブリユツセルから四十分間汽車に乗つてアントワアプに着いた二人は、中央停車場ステエシヨンの横の建築家ケエセエの名を負うたとほり旅館オテルに鞄をおろした。日が永いからこの港街の見物は一日で済まされるのだが、倫敦ロンドン以来晶子が慣れない徒歩を余り続けて少し疲労して居るので一晩此処ここに泊つて明日巴里パリイへ帰る事にした。
 巴里パリイ倫敦ロンドンを経て来た旅客りよかくに取つて狭いの郡市の見物は地図一枚を便りにするだけで案内者を頼む必要も無くさながふくろの中を探る様に自在である。づ手近なリユウバンスまちへ曲つて画家が晩年を其処そこに送つて終焉を遂げた旧宅をうたが、今は其れが私人の有に帰して二戸に分れ、一戸の方は住む人も無く常に門を閉ぢて居るが、右の方の一戸は商会に成つて居て門をはひつたない玄関の上にリユウバンスの石膏せきかう像が据ゑられて居た。親切なその家の主人は中門ちゆうもんを開いて内庭うちにはへ導き、画家の昔のやしきも改築せられて仕舞しまつた今日こんにちたゞ残つて居るのはだけだと云つて、塀越へいごしに隣の家の内庭にある二階を指さして説明してれた。縦覧を許されないからその内部は知らないが、薄桃うすもも色の塗料の雨風にせた、外観の平凡な画室であつた。其処そこを辞して電車の通つて居るメエルちやう真直まつすぐくと、三角に成つた街の人家に打附ぶつつかつてみちにはかに細く左右に分れ、間口の狭い雑貨店がごたごたと並んで人通りの多い様子が大阪の御霊ごりやう神社の境内へはひ横町よこちやうの感じと似て居るのに興を覚えながら電車の通らない右の方のみちを廻つて※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルトの広場に出た。珈琲店キヤツフエやす料理屋が四方を囲んで居るきたなつ狭い広場プラスである。まばらなマロニエの樹立こだちの中央に例の寛衣くわんいを着けてけんを帯びひさしの広い帽を少し逸反そりかへらしてかぶつた風姿の颯爽さつさうとしたリユウバンスの銅像が立つて、その前にバナナや桜実さくらんぼうづたかく盛つた果物屋の車が其れをかせて来た頸に綱を附けた三匹の犬と一人の老婆とにつて店を出して居た。さうして京都の八坂神社の塔を意外なたて込んだ街中まちなかに発見する如く、広場の一方の人家の上に有名なノオトル・ダムのカテドラルが古色を帯びて屹立きつりつする雄姿を仰ぐのであつた。僕等は細い小路こうぢを曲つて吸はれる如くカテドラルの二重扉の中へはひつて行つた。薄暗い穹窿きゆうりゆうもとに蝋燭の火と薫香の煙と白と黄金きんの僧衣の光とが神秘な色を呈して入交いりまじり、静かな読経どくきやうの声が洞窟の奥にこだまする微風そよかぜの様に吹いて居る。僕等は数列の椅子について居る敬虔けいけんな信者の黙祷もくたうを驚かさない様にと心掛けて靴音を潜めながら壁画の中にリユウバンスの諸作を探して歩いた。
 カテドラルの直下すぐしたの家の三階に金字で画家※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン・ダイクの生れた家だと書いてあるのを見附けて、その家の一部にある煙草たばこ屋で記念の絵葉書を買つた。僕等がカテドラルにはひつたのは横の入口で、表の入口へ廻ると其処そこはグランド広場へ面し、露店の並んだ広場を隔てて市庁と対して居た。
 半ちやう程行つてエスカウト河へ出たが、大小の汽船が煙を吐いて荷揚人足や荷車の行交ゆきかせはしい港街の光景に久しぶりに接する心地も悪くない。画家の名を負うた※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン・ダイクの河岸かし凹凸あうとつの多い石畳を踏み、石炭、干魚ほしうを、酒などの匂ひの入交いりまじるのを嗅ぎながら色んな店をのぞいて歩いた。郵船会社の寄港地だけに日本の雑貨を店頭に見いだす事のすくなく無いのも勿論粗末な廉物やすものばかりであるがうれしかつた。
 足を痛めて居る晶子の為に馬車を探しながらナシヨナルどほりを歩いてうちに目的のロオヤル博物館へ来て仕舞しまつた。富んで居る国民の設計けあつて、ブリユツセルの博物館も此処ここのも立派な建築である。こと此処ここのは四方の庭園が広いので見栄みばえがして居る。土地に縁のあるけリユウバンスと※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン・ダイクの作を多くをさめて居るが、巴里パリイ倫敦ロンドンで見受ける様な二の傑作は見当らない。寺院から頼まれていた物に大作は多いがれもその構図から僕等の気に入らない。むし小幅せうふくの肖像画に捨て難い物を発見する。実際云ふと※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン・ダイクはかく、リユウバンスには余り多くを白耳義ベルジツクで観せつけられた所為せいか少し厭倦あきが来た様である。近代の作品にも目を惹く物は無かつた。十六世紀の和蘭ヲランダ古画の中にあるケンタン・マツシスの「サロメ」の濃厚な色彩の調子が、英国近代のバアン・ジヨオンスやロセツチの作と似かよふ所のあるのを珍らしいと思つて出口でその絵葉書を買つた。
 午後二時近く成つたのでひどく空腹を感じた。博物館前の料理屋レスタウランでゆつくり午餐ひるめしを済ませた上疲労して居る晶子を馬車に載せて市の中央にある公園の池のほとりを一周し、旅館ホテルへ一旦引返して晶子を休養させ、更に僕一人で午後の見物に出掛けた。後に残した晶子が気に成るので時間を節約する為に自動車を命じたが、その運転手の独逸ドイツ人はだ土地慣れないのか、サン・ジヤツクもサン・パウル寺もサン・シヤル寺も知らなかつた。地図を目の先へ突附けて教へて遣つてもちがつた街へはひつてまごまごするので、短気な僕は途中から狭い運転手台へ一緒に乗つて地図と街とを見比べながら、右へ行け、左へ曲れと命ずるのであつた、サン・パウル寺は夕方の一時間しか観せないと門番が云ふのでリユウバンスの壁画を観ずに仕舞しまつたが、どの寺もその外観の荒廃し掛けて黒くすゝびて居るのを仰いで過ぎる方が通りすがりの旅客りよかくの心におもむきが深い様に思はれた。再び※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン・ダイクの河岸かしへ出て自動車を捨て、河に臨んだ旧屋にあるスチインの小博物館ミユウゼうたが午前中で無くては観られないのであつた。赤く入日いりひを受けた雲の水に映るのを眺めて高く突き出た桟橋の上に立つて居た時は何だか漂泊者らしい感がした。かたはらに来合せた巡査に日本の汽船が碇泊して居るかと聞いたら、一昨日をととひ常陸丸が出て仕舞しまつたと語つて、本国へ帰る為めに船待ちをして居る日本人だとでも思つたらしくその巡査から気の毒さうに顔を眺められたのも淋しかつた。
 午前観たカテドラルのもとを今一度徘徊して※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン・ダイクの宅の前の店でエスカウト河の帆掛ぶねの景色をいた小さな陶器を買つて居ると、汚れた労働服を着た一人の風来者ふうらいものそばから口を出してれにせよこれにせよなどと云ふ。うるさくも感じなかつたのでい加減な応答をして居たら、買物を済ませたのちも先に立つて一緒に歩きながらプランタスの博物館ミユウゼを観たかと問ふので、まだ観ないが今日けふは時間が遅からうと言ふと、自分と一緒に来なさい、必ず特別に観られる様にすると云つて僕の断るのも聞かずにその方の街へ曲つて行く。少し酒気を帯びては居るが人の悪い案内者風の男でも無いから僕も附いて行つた。この老人としよりたちばうと話しながく日本人を珍らしがつて附近の子供の一ぐんもぞろぞろと附いて来た。博物館の門はたちばうの指先で押したベルつてあけられ、僕は中庭へはひつたが、番人の妻は縦覧時間が過ぎたと云つて謝絶した。たちばう君がしきりにおし問答をするので番人の妻は三度迄階上へ昇つて館員にはかつてれた。僕に取つては観たくも無い博物館ミユウゼなんだが、見ず知らずの風来者にれられて来てその厚意と※[#「執/れんが」、U+24360、284-12]心を目撃すると、つい其れにほだされて、番人の妻が三度目に階上へ昇らうとする時は僕も進んで口を出し、明日あすの滞留を許さない身の上だから出来る事なら是非ぜひ今日けふ観て[#「観て」は底本では「 て」]きたいと云ふ様な事を可成かなり[#「執/れんが」、U+24360、285-1]心に主張した。しかし館員はつひに其れを許さなかつた。其れで僕は無駄に時を費した上になにがしかの銅貨をその風来者に与へて礼を述べざるを得なかつた。
 コンメルスの大通おほどほりに出て土地に過ぎた程立派な二つの大劇場を眺め、美術学校前の広場プラスを横ぎつて※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン・ダイクの新しい石像を一べつして旅館オテルへ帰つた。夜は晶子と公園の木陰を散歩し、引返して旅館オテルの近所の珈琲店キヤツフエで遅く迄音楽の中に居た。
 今朝けさに成つて出立しゆつたつ迄時間の余つて居るのを利用して停車場ステイシヨンうしろの動物園を観た。有名なだけに完備して居るが、倫敦ロンドンの大動物園を観た目には驚く事も無い。たゞ象や駱駝らくだを入れた室の内外の装飾を鮮かな埃及エヂプト模様で描いてあるのを面白いと思ふのである。東京の動物園でも熊の室をアイヌ模様で装飾する位の趣味を加へるが好からう。動物園内の珈琲店キヤツフエの一卓で僕は今この筆をいた。早く巴里パリイへ帰らう。(七月十日)


巴里パリイの独立祭(晶子)



 七月十三日の晩、自分は独立祭の宵祭の街のにぎはひを見て帰つて、子供の時、お祭の前のうれしかつたのとほとんど同じほどの思ひで、明日着て出る服や帽を長椅子の上に揃へて寝た。夜中に二三度雨が降つて居ないかと聞耳きゝみゝを立てもした。けれど、それは日本の習慣が自分にあるからで、高いところに寝て居る身には、雨が地を打つ音などはきこえやうが無い。マロニエの梢を渡る風がそれかと思はれるやうな事がままあるくらゐである。そんなに思つて居ながら、夜更よぶかしをしたあとなので、矢張やはり朝が起きにくい。それに、此処ここは四時前にすつかり空が明るくなつてしまふ。神経質の自分には、到底安眠が続けられないので、眠い思ひをしながら何時いつも起き上るのである。顔を洗つて髪を結つた時、女中のマリイがパンとシヨコラアを運んで来た。まだ八時前で、平生ふだんよりも一時間ほど朝の食事には早いのである。
「お祭を見に出るか。」
 と良人をつとが云ふと、
「ウイ、ウイ。」
 と点頭うなづきながら答へるマリイの目はうれしさに輝いて居た。
「祭は午後でないと見に行つても面白くないのだよ。」
 と良人をつとに云はれた時、自分はまた子供らしい失望をしないでは居られなかつた。読書をして居ると十時前にマリイが廻つて来た。何時いつもは午後四時過ぎでないと来てくれないのである。良人をつとが市街の地図を出して、何処どこが一番にぎやかなのかと聞くと、プラス・ペピユブリツクだと云ふ。其処そこ巴里パリイ市内の東に当つて革命の記念像が立つて居る広場である。マリイは十一時頃に晴着のロオヴを着て出掛けて行つた。自分はトランクの上の台所で昼飯の仕度にかかつて、有合せの野菜や鶏卵たまご冷肉れいにくでおかずを作つた。お祭だと云ふ特別な心持で居ながら、やはり二人ぎりで箸を取る食事は寂しかつた。一時半頃に服をへて家を出た。
「まあペピユブリツクへ行つて見るんだね。」
 と良人をつとは云つて、ピガルの広場から地下電車に乗ることにした。人が込むだらうからと云つて一等の切符を買つたが、車は平生ふだんよりも乗客のりてすくなかつた。同室の四五人の婦人客は皆ペピユブリツクで降りた。この停留ぢやう余程よほど地の上へ遠いのでエレベエタアで客をおろしもするのである。音楽のはやしを耳にしながら何方どちらかうかとしばら良人をつとと自分は広場の端を迷つて居た。聞いた程の人出はだないが、ルナパアク式の興行物の多いのに目がくらむ様である。高く低くあがりしながら廻る自動車台の女七の客の中に、一人薄絹のロオヴの上に恐ろしい様な黒の毛皮の長い襟巻をして、片手で緋の大きな花の一輪附いた広い帽をちらすまいと押へた、水際だつて美しい女が一人居た。子供客は作りものの馬や豚に乗せて回転する興行物に多く集まつて居る。聞けばミカレエムさいや謝肉祭のやうに人が皆仮装をして歩いたり、コンフエツチと云ふ色紙いろがみの細かく切つた物を投げ合つたりする事はこの日の祭にはないのである。自分等はそれからルウヴルゆきの市街電車に乗つた。初めて自分は二階の席へ乗つたのである。細い曲つた梯子段に足を掛けるや否や動き出すので、その危ないことは云ひ様もない。たゞこのむし暑い日に其処そこではどんなに涼しさが得られるか知れないと云ふ気がしたのと、ルウヴルが終点であるから降りるのに心配がないと思ふからでもあつた。この祭は労働者を喜ばす祭と云はれて居るだけあつて、高い席から見て街街まち/\料理店レスタウランには酒を飲んで歌ふ男の労働者、うれしさうに食事をして居るマリイの様な女の組が数知れず居た。悪い気持のしない事である。自分等は電車から降りてルウヴル宮に沿うたセエヌの河岸かしのマロニエの樹下道こしたみちを歩いてトユイルリイ公園へはひつた。上野の動物園前の様な林の中の出茶屋でぢややで休んで居ると、そばで鬼ごつこを一家族寄つてする人たちも居た。コンコルドの広場へ出ると各州を代表した沢山たくさんの彫像の立つて居る中に、普仏戦争の結果、独逸ドイツ領になつたアルサス、ロオレン二州の代表像には喪章が附けられ、うづだかく花輪が捧げられてあるのを見て、外国人の自分さへもうら悲しい気がした。花を手向たむけたい様な気もした。けれどその廻りを取巻いた人達は何も皆悄然として居るのではない。未来に燃える様な希望を持つ人らしい面持おももちが多いのであつた。それから自分等はシテエ・フワルギエエルの滿谷氏の画室ぢかくまで、また地下電車に乗つて行つたが、滿谷氏等はもう祭見物に出掛けたあとであつた。それから、カンパン・プルミエの徳永さんの画室まで歩いて行つた。氏とは昨夜ゆうべ宵祭を見て歩いたのである。日本の話をしたあとで近日から自分がこの画室へ油画あぶらゑの稽古に通はして貰ふ約束などをして、氏と別れてリユクサンブル公園へはひつた。そして、その近くのレスタウランで夕食ゆふげすまして、また公園へ帰つて来た。一人一人に変化のある、そして気のいた点の共通である巴里パリイ婦人の服装を樹蔭こかげの椅子で眺めながら、セエヌ河に煙花はなびあがる時の近づくのを待つて居た。七時半頃になつて街へ出たが、まだ飾瓦斯かざりがす飾提灯かざりぢやうちんもちらほらよりついて居ない。サン・ミツセルのとほりに並んだ露店が皆ぶん廻し風の賭物かけもの遊びの店であるのに自分は少しなさけない気がした。河岸かしへ出るともう煙花はなびの見物人が続続ぞく/\と立て込んで居る。警固の兵士が下士かしれられて二けんおきぐらゐに配置されて立つて居た。河下かはしもへ向いて自分等は歩いて居るのである。昼間歩いた向河岸むかうがしに当るへんは見物するのにい場所と見えて、人が多い。今夜は橋の上を通る人に立留たちどまることを許されない。また遊覧船を除いた外の船は皆岸に繋がれて居た。振返つて見ると高台にはもうが多くついて瞬間に火の都となつた様に思はれる。自分等はルウヴル宮の横の橋を渡つて北ぎしで見物する事にしたが、待つて居るのに丁度ちやうど程よい場所がない。ふと橋の下から掛けて左右に荷揚の石だたみが広く河に突き出て造られてあるのに気が附いて、良人をつと其処そこへ降りやうと言つた。降り口の石段が二処ふたどころに附いて居る。降りて見ると下にはまだ見物人が四五人より来て居ない。しか此処ここにも兵士が三人ばかり警固に置かれてあつた。何故なぜだか橋を境にして左の方へはくことを許されない。水際の石崖いしがけに腰をおろすと、涼しくて、そして悲しい様な河風がを吹く。十分二十分と経つうち河岸かしの上の人数が次第に殖え、自分達の場所を目掛けて降りて来る人も多くなつてく。積んだ材木の上に初めは腰を掛けて居たのが、何時いつにかその上にあがつて坐る人の出来る事なども、東京の夏の河岸かし風情ふぜいと同じ様である。両国の川開きであるなどと、自分は興じて良人をつとに言つて居た。九時半頃に、それはく小さい煙花はなびの一つがノオトル・ダムのお寺の上かと思ふ空にあがつた。風でも引いては成らないからもう帰らうと良人をつとが言つて、十時頃に三四発続いてあがるのを見てから河岸かしの上へあがつた。丁度ちやうどさうした頃から華美はでな大きい煙花はなびが少しの休みもなしに三ヶ所程からあがるやうになつたのである。自分等はまたルウヴル宮の橋のたもとの人込に交つて空を仰いで居た。四種か五種の変化より無くて、日本のに比べては技巧のつたないことを思はせるのであるが、満一時間少時しばらくも休む無しに打上げられる壮観は、煙花はなびは消えるもの、楽しさとはかなさとを続いて思はせるものだなどとは、夢にも思はれない華美はでな珍らしい感を与へられるのであつた。二十分程のうちにそのうしろの空に火の色の雲が出来た。最終のはことに大きく長く続いてセエヌ河もまた火の河になるかと思はれる程であつた。今夜は辻待つじまちの自動車や馬車が大方おほかた休んで居てたまにあつても平生ふだんの四倍ぐらゐのを云ふので、自分等は其処そこからゆるゆると※[#濁点付き井、293-4]クトル・マツセの下宿まで歩いて帰つた。途中の街々まち/\のイルミナシヨンの中ではオペラの前の王冠が一番好いと思つた。寝台ねだいへ疲れた身体からだを横たへながら、街街まち/\の広場の俄拵にはかごしらへのはやで奏して居る音楽にれて多数の男女なんによが一対の団を作りながら楽しさうに踊つて居た事などを思つて、微笑ほゝゑんで居た。かど涼みをして居る人達までもじつとしては居られない気持になつて、暗がりで手を拡げて踊るふりをして居た事なども思ひ出された。女中のマリイは暁方あけがたの四時に帰つたと、次の日に話して居た。(七月十五日)


欧洲婦人の髪(晶子)

[#「欧洲婦人の髪(晶子)」は底本では「欧洲婦人の髪」]


 自分は外国へ来て初めて日本婦人の頭髪の押並おしなべて美しい事を思ふ者である。あの房やかな長い髪を本国の人は其程それほど誇りとも思つて居ないのであらう。勿論自分もさう思つて居た。写真で見る外国婦人の曲線をして額を覆うた前髪や大きく結ばれた束髪を見ては、天賦の美を羨まずには居られなかつた一人ひとりだつたのである。さうして巴里パリイへ来た当座も自動車の上の少女をとめ、劇場で見る貴婦人、街を歩く巴里女パリイジエンヌをやつぱりそんな気分で眺めて居た。生憎あいにく其内そのうちに隠れた方の事が自分の目に見え出して来た。巴里パリイの街は大通おほどほりでも横町よこちやうでもまたどんな辺鄙なところでも一ちやうの片側だけにも三軒四軒の女の髪結所かみゆひどころがある。其れは別段驚くべき事でもないが、その床屋の店飾棚※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)トランことごとかつら附髷つけまげ、前髪の添毛そへげで満たされて居るのを見ると、それ等の需要の多い事がわかる。さうして巴里パリイの女の十中の七八迄はそれ等で髪を美しく繕はれて居るのであると知つた時は少しあさましく思はれた。けれど髪を結ふ上に其れが最も簡便な法であると感心もされた。自分のとまつて居る家には主婦の外に三四人も若い女が居るが、お天気のい日の朝などは皆庭へ出て附髷つけまげを膝に載せて結ひ替へて居る事なども目に附いて来た。巴里パリイで毛の多い女と云はれるのは前髪やびん、つまり髪の外輪ぐわいりんだけが地毛ぢげで出来る人で、まげ大方おほかた附髷つけまげをして居るのである。その外輪ぐわいりんさへも完全にかない人は前髪にも添毛そへげをする。つまり前だけのかつらを附ける。さう云ふ場合には地毛ぢげは短く縮らせて添毛そへげの下から出してあるのもあるが、真中まんなかへ其れを置いて両びん地毛ぢげで上へ上げて居るのが多い様である。もう一層進むと地毛ぢげひき詰めにして総体のかつらを着ける。其れがく軽くやはらかく出来て居て、切地きれぢでふうわりと毛を巻いた位にしか感ぜられないと云ふ事である。自分の知つて居る日本婦人が物好きに一つ買つたのは毛が三処みところに附けられて居て、前のを左右に下へ梳いてうしろへ廻し、其れと一緒にうしろの毛を真中まんなかへ持つて行つて大きい櫛で止めるともう髪が出来上るのださうである。旅行して居る際などは早く髪が出来るので便利であつたとその人が云つて居た。ついでその人の払つたあたひをも書いて置く。其れは日本貨にして八十円だつたさうである。い毛になると二百円位のもあると聞いた。もつとも三四十円のもあるのであらうがかくも高価なしなとされて居る。其れだからこの附髷つけまげや帽の流行品などに浮身うきみをやつして食べる物も食べずに若じにをする独身ものもあると云ふことである。大昔の支那の王様が細い身体からだを好んだ為に餓死をした女官ぢよくわん達に似寄つた事をする女が二十世紀にもあるとは恐ろしい事である。
 一体に西洋の女が何故なぜさう毛がすくないかと云ふと、其れは毛を自然に任せず、ひどくいぢめすぎるからである事は云ふ迄もあるまい。こい珈琲カツフエを飲むからだと云ふ人のあるのは点頭うなづき難い事である。生れてから十五六迄の女の子の髪は皆房房ふさ/\として居る。其れが焼鏝やきごてを当てる様になり、乃至ないし「ヌマ」と云ふ曲つたピンに巻いてちゞらす様になると、癖を附けぬ毛の三倍程も毛はふくれるが、その右に曲り合つた髪が真直まつすぐな歯のくしに梳かれる時に切れ落ちるのは是非ぜひもない。すくなくなれば一層多くちゞらさなければならなくなつて、結局はみじめな髪になつて仕舞しまふのである。髪を自然にたらして置く日本のある島の女が驚くべき美事な毛を持つて居るのはこれと反比例である。
  ×
 ついで此頃このごろ巴里パリイの髪の形を紹介して置く。今多く結つて居るまげは毛をちひさく分けて指の先でふうわりと一寸程の高さの輪に巻いてピンを横に差して押さへた、はたを織るの中の管糸巻くだいとまきの様なのを、多いのは二十程、すくなくとも十四五を円く並べた物である。それからその輪を大きくして横に三つ日本の三つ輪と同じ様な形をこしらへた者もある。後ろに大きく一つ巻き上げたものもある。三つぐみのくるくる巻も少しはある。又丸まげ[#「丸まげ」は底本では「丸髭まるひげ」]の型と同じ様な物を中に入れて結つた種種いろ/\な形もある。附髷つけまげをした時地毛ぢげの相当に残つた人は其れをうしろで二つに分けてまげふちを巻くのである。さうでない人はリボンなどでも巻く。金属で巻く飾りも出来て居る。前髪を前で分けたり七三で分けたりしてあるのが若い女の頭で、四十以上の人は日本のひさし髪と同じ形を好んでして居る。添毛そへげをするのに一層勝手が好いからであるらしい。前に云ふのを忘れたが、髪結かみゆひの店には白髪まじりの附髷つけまげかつらまつたく白いのなどもおびたゞしくあるのである。それから前で分ける形の中に此間このあひだコメデイ・フランセエズ座の女優で三つに分けた人があつた。真中まんなか[#ルビの「まんなか」は底本では「まつなか」]が立ててあるから丁度ちやうど日本髪の様であつた。
 西洋婦人の様に真中まんなかで毛を分けてその毛で額を作つた形は日本の王朝の貴婦人も同じであつた事が想はれる。今の日本人の様に額をむき出しにして居るのは王朝の尼額あまびたひと一緒である。若い尼が男と話して居るうちにうしろへ撫で附けた髪を前へ引いて、そつと額をつくるなどと云ふ事も何かで見た様である。今の日本婦人は額を作る事を忘れて居る。生際はへぎはの好い人は其れでも好いが、さうでない人は何とか工夫を施したいものである。日本の様にむき出しにしなければならない事になつたら、巴里パリイの美人の数は日本と同じ位にも減る事であらう。ちゞらせたりしない以上は髪が損はれる気遣ひも無いのであるから、出来るだけ工夫してしいと日本婦人の為に自分は痛切に思ふのである。
 自分も巴里パリイ時時とき/″\[#ルビの「とき/″\」は底本では「とき/\」]その床屋へ行く。其れは髪の毛が一本でもちらばつて居ないのをらいとする此処ここでは自分で手際よく髪を持ち扱ひにくいからである。髪結かみゆひは多く男である。瓦斯ガスの火で※[#「執/れんが」、U+24360、299-1]くされた二ちやうこてかはがはる当てられる。こてをちよんちよんと音させたり、焼け過ぎたのをさます時にそのこての片脚を持つてきりきりと廻したりするのが面白さうである。そしてくしの目を髪に立てやうとは思はないのであるから、こてを当てるとぐ手で上へ差櫛さしぐしで止めて、やがて護謨ごむの紐で其れが結ばれ、自分の髪は三つに組まれて投げる様に輪にされる。其れが極めてやはらかに組んであるのと、横に立ててうはすぼみの輪にされるのとでピンで止めた時はある一種面白い形の物が[#「物が」は底本では「ぶつが」]寄集よりあつまつて居る様になるのである。それから頭全体が目に見えない様な極繊ごくほそい毛網で包まれる。毛が一筋もこぼれないのも道理である。種種いろ/\まげが自分の居るそばで結はれるのであるが、しんに入れる毛(此処ここでは云はないが、それを英国あたりではその形から聯想して「死んだ鼠」と仇名あだなを呼んで居るさうである。あなたのそばへ寄ると鼠のにほひがしますよなどと男が戯談じやうだんを云ふと云ふ事である。)だの、かもじだの、髷形まげがたなどを皆持つて来る。かもじは初めから三つに組んで置いて地毛ぢげの束髪のそとを巻く様である。かもじのあたいも日本の十倍位するのである。首筋のあたりで髪を切つて、そしてたゞちゞらせて垂らした人もあるが、さう云ふ人も床屋へ来て網を掛けさせて居る。髪を洗はせて瓦斯ガスの火力であふられて乾かし、そしてぐ髪を結はせる人もある。自分は此頃このごろマガザンで毛網を買つて来て独りで結ふ事が多くなつた。然しながおくがあつてもとがめる事のない気楽な日本へ早く帰りたいと思つて居る。(八月十八日巴里にて)


日記の一節(晶子)



 私等は五時頃にリユクサンブル公園を出ました。私が油絵をよそきに出るやうになつてこれが三度目です。
「絵の具が身体からだ中に附いて居るやうな気がして気持が悪いんですよ。」
 私は五六歩先に歩いて居る良人をつとおひ附いてう云ひました。
「さうかい。」
 と云つて、良人をつとは私の方を向きました。
きたないのねえ。」
 私はテレピンいたあとのグリインの浸染にじんだてのひらを開いて良人をつとに見せました、
「リラへ行つて洗ふさ。」
 と良人をつとは云ひました。
「さうしませうね。」
 と云ひながら私も一緒に足早あしはやに歩いてきました。
「それからあのへん夕飯ゆふめしを食べて徳永君のところへでもかうか。」
「ええ。」
 と私は云つて居ました。海馬かいばの噴水の横から道をはすくともう白に赤の細いふちを取つたリラの店前テラスの張出した日覆ひおほひが、目の前でぱたぱた風に動いて居ました。
 良人をつとは張出しの下の一つの大理石の卓を選んで水色の椅子に腰を掛けました。私は絵具箱を良人をつとの横の椅子に置いて家の中へ手を洗ひにきました。
 人が物を云ひ掛けますと私はいい加減に、「セツサ」とか「メルシイ」とか「ウイ、ウイ」とか云ひながら良人をつとそばへ出て来ました。何時いつの間にか画家のSさんが来て良人をつとむかひの椅子に居ました。
奥様おくさん、お暑いですね。」
「お暑う座いますねえ。」
 私はSさんにかう云ひながら絵具箱を下へ降して其の椅子へ腰を掛けました。Sさんの白い顔が今日けふは目に立つて青味を帯びて居るんです。私は直覚的にSさんは今日けふ何か不愉快なことに逢つたに違ひないと思ひました。先に良人をつとに云ひ附けられました珈琲カツフエを二つ卓の上へ運んで来ましたギヤルソンに、Sさんは、
「ウヰスキイ」
 と云つて、持つて来ることを命じました。こんなことも何時いつもとは違つたことなんです。Sさんは良人をつとと同じ京都の人で、評判の柔順おとなしい人交際ひとづきあひい人なんです。米国のある家庭へやとはれて其処そこ仏蘭西フランスに三年間居るだけの学資を作つて巴里パリイへ来た人なんです。親孝行な人で毎月学資の中から日本へ逆に送金して居ると云ふ噂もありました。
 Sさんはウヰスキイを半分程飲んだ時、
「奥さん、西洋人の親と子は接吻をしますね、西洋人の親子はさうして肉体が触れるのですね、僕等は日本へ帰つたらゆきなり親父おやぢにぶんなぐられるんです、さうしてそれが親子の肉体が触れる時なんです。」
 と云ひました。


杜鵑とけん亭(晶子)



 杜鵑とけん亭(レスタウラン・ド・クツクウ)は巴里パリイにある一つの伊太利亜イタリア料理店である。モンマルトルの高い所に白いすさまじい大きい姿を見せて居るサクレエ・クウルの近くにあるのである。
 プツティイ・パリジヤンの記者のフアロウさんの家のお茶に呼ばれた日の夕方、其処そこを出た自分等夫婦は杜鵑とけん亭を存じでないやうに伺つた松岡曙村しよそんさんに晩餐をそのうちげることに同意して頂いた。
 巴里パリイの道ももう此辺このへんはアスフワルトでもなければ切石きりいしを敷いた道でもない。清水の三年ざか程の勾配をのぼる靴はかなり迷惑な土ぼこりを身体からだに上げる。八月の中頃であるからだ暑さも一通ひととほりではない。左側に続いた赤い煉瓦塀の家の中でづピヤノの音がする。主人達が避暑に行つたあとを預かつた用人ようにんの娘か小間使こまづかひの手すさびの音とも聞かれる。右手は千駄が谷へんで貸地と云ふ札などのよく立てられてあるところのやうな広いたゞの土のでこぼこである。正面の崖の上はこもつた木立こだちになつて居る。曙村さんは優しいかたで、
「お苦しいでせう、奥さん。」
 とばかり云ひ続けておいでになつた。[#「なつた。」は底本では「なつた、」]かかとあがつた靴も穿かない草履穿ざうりばき今日けふも出たなら疲れはもつとひどかつたかも知れないと、あがり切つたところで立ちどまつて息を突きながら思つた。人通りなどのほとんどない心安さに、扇を出して使はうとすると、
「もう其処そこぢやないか。」
 と良人をつとにがい顔をしてき立てた。もう此処ここはサクレエ・クウル域なのである。絵葉書とか、この寺の絵を模様に附けた陶器とか、十字架とか、キリストの像とかを売る露店が四五軒出されてあつて客を待つて居る前を通つてく。陶器の中の品は何であるかこいい紫地に金でいろどつたものが甚しく頭を刺激した。本堂を半円に廻つてうしろへ出た。まだ実は普請の出来上つてないところなどが気附かれる、寺院らしい[#「らしい」は底本では「らして」]威厳の少しも見出されない建築はその色とともに不愉快なものの象徴のやうである。誰も名所巡りの客でないから振向いても見ずに街の方へ足を早めた。
 場末まちらしい小さい床屋に黄色くなつた莢隠元アリコ・※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)エルしなびた胡瓜コンコンブルの淋しく残つた八百屋、やすい櫛や髪針ピンの紙につけたのから箒、茶碗、石鹸などまでを並べた荒物屋、洗濯屋などがみじめに並んだ前の道では、さうした家家いへ/\の女房子供が出て居る。皆きたな姿なりをした中にも男の子は目立つた襤褸ぼろで身を包んで居る。自分等がこの道の方からあがつて来たのは今日けふが初めであつたから、少し道が違はないかなどとも危ぶまれたのであつたが、其処そこを横切つて南北の中位ちゆうくらゐの幅の道に出るとぐ見知りの空地あきちがあつた。今日けふもテニスをする女学生の姿が見られた。七八けん歩くともう杜鵑とけん亭の前の空地あきちへ出た。その南北の通りは空地あきちの前まで続いて居るだけで尽きて居る。道はあるがそれは石段になつて居るのである。愛宕山あたごさん程の石段が段程も附いて居て、此処ここを降りれば帰りは息かそこらの間にクリツシイのとほりへ出られるのである。石段の口からは巴里パリイなかばが絵のやうに見える。ルウヴル宮の大きいのとオペラの図抜けた屋根とが何時いつながら磁石の役をして自分などにも彼処此処かしこここなんの所在と云ふ事が点頭うなづかれるのである。ふらふらと風に散つて居る雲もある。だ土の上にはまだらに日影が残つて居て午後六時頃かと自分は一人で思はれるのであつた。杜鵑とけん亭の食堂の一つの卓を自分等は選んで席に着いた。杜鵑とけん亭の食堂はすなはち道のり込んだ空地あきちなのであるから十四五分して小さい料理店の家の中から客を見附けた給仕女が布巾ふきんを持つて出て来て卓を拭く。酒だけを飲んでくのか、食事をするのかを聞いたあとで、食事がしたいのだと分ると白い卓覆ひを持つて掛けに来る。卓の数は五六十あるがまだ外に相客あひきやくはない。今に家の中からふるふる椅子を運び出さないと席が不足する迄に到らうとは一寸ちよつと想像が出来ないやうである。
 空地あきちの正面の突当つきあたりは大きい家の塀で、其処そこの入口は料理店のぐ左にあるのである。塀にはつたが心地よくひまつはつて居る。左の家並やならびが三げん程に分れて居るがどれも低さの同じ程の二階建の間口の余りない小さい家である。一番奥になつた最も小さいのが料理店である。田舎ゐなかめいた赤地に白の格子縞のある窓掛をして、硝子がらす戸のそとあふひの花が鉢づつ程並べられた窓が二つあるが、人があれで立つて居ることが出来やうかと思はれる程の低い二階である。下の入口から中は暗くて見かされないが、やはり小さい卓のいつつは土間に置かれてあるやうである。それから門口かどぐちに藤棚のやうにして藪からしが沢山たくさんはせてある。こんな曲りかけた家などに配合すると藪からしの太い蔓も忍草しのぶぐさよりもはかない風情ふぜいが見えないでもない。道のむかひの塀の隣りで、此処こことは筋むかうの鼠色の家の一番上ほとんど家根とすれすれのところに一つきりある窓から十六七の少女をとめが顔を出して先刻さつきから曙村さんを手真似てまねなどでからかつて居るのてあつた。空地あきちの左の大きい高い家は思ひ切つて酒落しやれて建てられた家で、家の壁にはいろんなモザイク模様がある。石段のぐ脇になつて居る門の二つの柱には鬼のやうなこはい顔がかれてゐる。顔は茶色でそれを囲つたかつらの葉は萌黄もえぎの塗りは灰色がかつたお納戸なんどである。塀はわざとらしく庭の中から伸び余つた蔓ぐさであつさりと緑の房を掛けさせてあるのである。これは絵師の家であると云ふことは前に聞いたことがあるので自分は知つて居た。そしてその絵師が独身ひとりみの変り者であると云ふことも何故なぜだか知つて居た。
 自分は少し寒くなつて来た。暑いと云ふ心地の忘られたのは此処ここへ着いた時からなのであらうか、市中を見おろして居た時の涼風すゞかぜからか、よく意識しない。自分は前に来た時寒いであらうと云つて夜が更けてからであつたが給仕をんなが貸してれた白い毛糸の肩掛のことを思ひ出した。気味悪さに着るにもよう着ないで居た自分の姿が可笑をかしく目に浮ぶのであつたから寒いなどとはたれにも告げやうとはしなかつた。自動車が出て来たから此処ここの客かと思ふと、さうではなくて石段に尽きた道に失望して引返すのであつた。三人れが一組来た。男ばかりである。やうやく最初のメロンが運び出された。メロンは唐茄子なすのやうな形も中味の色もつた真桑瓜まくはうりに似た味の瓜で氷でひやしてあるのを皮を離して砂糖を附けて食べるのである。五しきの藁のつとなかば包まれた伊太利亜イタリアの赤い酒も来た。鼠色の家の子供が道に出て来て曙村さんを指差して笑ふ。二階に居た娘の妹などであるらしい。絵師の家の門がいて黒い服の女が出て来た。あとから出て来て門の前に更にある低い柵の木戸の錠をけて握手して客と別れて居たのが画伯であるらしい。三十余りの姿のい女は何か独笑ひとりゑみをして石段から隠れて行つた。帽に附けてあつた桜実さくらんぼの赤さが何故なぜかいつまでも頭に残つた。夕雲と思つた美しい空の色が次第に藍気あゐけを帯びて来て鼠色の家の上の窓なども定かに見えなくなつて来た。小さい揮発油のかんてらが七八なゝや組になつた客の卓にそれぞれ置かれた。風にあふられて青い火を出す時、肌の寒さと共ににがい心細さが胸の底から首をするのを覚えた。
 一尺程の大きさの伊勢海老が持ち出され、薄黄の色のソオスが白いうつはに入れられて来たので貧乏ぶるひをするやうであつた卓もいささかの花やかさが加はつた。馬車で来た一組の中に、白い羽の帽子をた二十四五の飛び離れた美人があつた。巴里パリイ人であることは云ふ迄もないが、れの男達は皆英人であつた。ぐ自分等の隣で絵師の家の塀際の卓に着いた。うしろの方ではしきりに独逸ドイツ語の話がかはされて居た。かんてらの数が多くなる程ますます食堂は暗くなつてく。何時いつの間にかもう客の数は百に多く余る程のものになつて居る。この間白い肩掛を借りて着て居る女客をんなきやくを自分は暗い中にすかし見て知つて苦笑した。
 絵師の家の主人が出て木戸の錠をおろして出掛けて行つた。先刻さき女客をんなきやくの行つたと同じやうにまた石段からぐ隠れてしまつた。
「早く家根のしたはひりたい。」
 赤い酒に少しお酔ひになつた曙村さんは頸をすくめながらかうお云ひになつた。
「なかなか此処ここ連中れんぢゆうは気が長いから溜らないね。」
 と良人をつとも自分に云つて居た。マカロニが湯気ゆげを立てて来た。星が踊場をどりばのやうに上に白く数多く輝いて居る。そしてそれの余り遠いのを笑止に思つた。自分の足元の見えないやうな所に居ることは巴里パリイであるだけ心細くも覚えるのであらう。
 自分は沢山たくさんの石段を降りる快さなどを思つて見た。急に明るいクリツシイどほりに出てきつけの珈琲店キヤツフエはひつてくことも思つて見た。其処そこの演奏者の中の大きいハアプの琴を真中まんなかに居て弾いて居る女を伊太利亜イタリア美人だと云つて、毎あちこちの柱の陰から男の目がのぞくその人気者の顔を心にいても見た。ハアプ弾きの持つて居る美は丁度ちやうど今夜の空のやうなえとしたものであるなどと批判して思つたりなどもして居た。
 家の中のは藪からしの繁りを美しくして見せた。二階からはぼんやりした明りよりさして居ない。真実ほんとうつめたくなつて来た。白い卓覆ひに指が触れると少し身ぶるひのおこるのを覚えられる。自分の背にして居る方の塀越しに大きいマロニエが自分の臆病しんをおびやかして居る。巴里パリイの一番高い土地の杜鵑とけん亭へ食事をしに来ることももう終りのたびになるかも知れない。秋になるから。(八月十日)


髑髏洞カタコンブ(晶子)



 巴里パリイは七月の中頃から曇天と微雨とが続いて秋の末方すゑがたの様な冷気にたれも冬を着けて居る。この陰鬱な天候に加へて諒闇りやうあんの中に居る自分達は一層気が滅入めいばかりである。大葬の済む迄は遠慮したいと思ふので芝居へもかない。独逸ドイツから和蘭ヲランダへかけて旅行しようと思ふが雨天の為に其れも延びちである。
 和田三造さんから切符を貰つたので巴里パリイ髑髏洞カタコンブ一昨日をとゝひの土曜日に観に行つた。あらかじめ市庁へ願つて置くと毎げつじつと土曜日とだけに観ることが許されるのである。自分は一体さう云ふ不気味なところを見たくない。平生へいぜいから骨董がかつた物に余り興味を持つてない自分は、して自分の生活とまつたく交渉の無い地下の髑髏どくろなどは猶更なほさら観たくないが、好奇心の多い、何物でもかはつた物は見逃すまいとする良人をつとから「自動車をおごるから」などとそゝのかされて下宿を出た。零時半の開門の時間まで横町よこちやうの角の店前テラス午飯ひるはんを取つて待つて居ると、見物人が自動車や馬車で次第に髑髏洞カタコンブの門前にあつまつて来た。中に厚紙の台に木のを附けて蝋燭を立てた手燭てしよくを売る老爺おやぢが一人まじつて居る。見物人は皆其れを争つて買ふのである。其内そのうちに和田三造さんと大隅さんとが平岡氏夫婦を案内して馬車をりるのが見えた。自分達もレスタウランを出て皆さんと一緒に成つた。
 群集は門衛に切符を渡し、一列に成つて電灯のいて居る狭い螺旋がた石階いしだん徐徐じよ/\と地下へ降り始めた。戯れに御経おきやうを唱へ出す男のむれがあつて皆を笑はせた。日本ならば念仏と云ふ所であらう。およそ三百段も降りた時いよいよ闇穴道あんけつだうの入口に差掛さしかゝつて、其処そこには鬼ならぬ一人の巡査がカンテラを持つて立つて居る。人人はそのカンテラの前に立留たちどまつて蝋燭の火をけた。
 ほらは三縦列に成つて歩く事の出来る広さで、上は普通の家の天井よりも高く、其れが一面御影みかげ質の巌石がんせきおほはれて居るのを見ると巴里パリイの地盤の堅牢な事が想はれる。下は白い砂を敷いた様な清潔な道が両へきいはから自然にしみ出る水があるのか少し湿つて居る。ほらの左右には処処ところ/″\に暗い大きながんが掘られて居て、人人は蝋燭をその中へ差入れてのぞいたが何物も見えなかつた。石壁せきへきの上に地上の街の名が書かれて其れが度度たび/\変るのでおよそ三ちやうも屈折して歩いて居る事がわかつた。死の世界にも人間界の街の名が及んで居るのを可笑をかしいと思つた。
 あるがんの中へ身を片寄せて二三げんあとに成つて居る和田さんと良人をつととを待ち合せた時、幼い時に聞いた三途さんづの河の道連みちづれの話を思ひ出すのであつた。又半ちやう程行つて二十畳敷ばかりの円い広場へ出たと思ふと、正面に大きないかめしい石門せきもんが立つて居る。石門せきもんの中もまた広場になつて居て、更に第二の石門せきもんやみの口を開くのに出逢ふ。これからが髑髏洞カタコンブの奥の院である。門をはひつて右に折れるとほらの屈曲は蠑螺さざえ貝の底の様に急に成り、初めて髑髏どくろの祭壇が見られる。飴色あめいろ暗紫色あんししよくをした肋骨ろくこつと手足の骨とが左右に一けん程の高さでぎつしりと積まれ、その横へ幾列にか目鼻のうつろに成つた髑髏どくろが掛けられて、中には一つの髑髏どくろを中心として周囲に手足の骨で種種いろ/\の形に模様づけられたのもある。千九百幾年に何処どこの墓地で掘出したと云ふ様な事が一区域ごとに記されて居るのは、巴里パリイの市区改正や地下電車の土工どこうの際などに各墓地から無縁の骸骨を集めたからである。多少知名な人人の遺骨で改葬すべき子孫の無い物は特に墓標が設けられて居る。これおよそ五ちやう程も続くのであるが案外に不気味で無い。ある人は手際よく積まれた手足の骨を見て日本のまき屋の前を通る様だと云つた。如何いかにもその様な感じがするに過ぎない。死に対する厳粛げんしゆく感念かんねんなどは勿論おこりさうに無かつた。和田垣博士がかつこれを評して「巴里パリイ人は髑髏どくろを見世物あつかひにして居る」と批難せられたといふのはもつともである。
 先に立つた見物人が足をとゞめてもとの墓地の名やたま/\ある墓標のぬしの姓氏を読んだり、又英米の旅客りよかくが自身の名を石壁せきへきの上にとゞめたりするので生きた亡者まうじやの線は幾度か低徊ていくわいする。自分は手燭てしよくの火で前の女の帽のふちうしろを焼きはしないかと案じる外に何の思ふ所も無かつた。不気味と云へば倫敦ロンドンの博物館の数室で見た埃及エヂプト木乃伊みいらの幾十体の方が何程どれほど不気味であつたか知れない。髑髏洞どくろどうの尽きた所にある二つの石門せきもんくゞつて更に一ちやう程の闇穴道あんけつだうを過ぎ、再び螺旋の石階いしばしを昇ると、初めの入口いりくちから七八ちやうも遠ざかつた街に出口が開かれて居た。買つた蝋燭はほとんど燃え尽きて居る。皆出口に置いた箱の中に手燭てしよくまゝ捨てて出るのであつた。曇つた大空を馬車の上で仰いでほつと新しく呼吸した時、自分は地上ならぬ世界の暗黒などん底を一時間余りも歩んだ経験を愉快に思つた。(八月二十日)


ミユンヘン(晶子)



 自分の思郷病しきやうびやうます/\人目に附く迄はげしく成つた。其れで土地がかはれば少しは気の紛れる事もあらうと良人をつとに勧められて不順な天候の中に強ひて独墺及び和蘭陀ヲランダの旅を思ひ立つのであつた。ナンシイ市を過ぎて仏蘭西フランスの国境を離れた汽車の中で二人は初秋はつあき夜寒よさむを詫びた。自分は三等室の冷たい板の腰掛の上で良人をつとの膝を枕に足をかゞめてからうじて横に成つて居た。心にのぼる物のすべてが灰色を隔てつつ眺められるのは今夜に限らず近頃の病的な心のくせである。
 海底みなぞこの砂に横たふうをごと身の衰へて旅寝するかな
 眠ること無くてわが見るしき夢うとましき夢数まさり行く
 とりすが等の諸手もろでのまぼろしは無残と呼びて母を追ひ来る
 欧羅巴ユウロプの光の中をきながら飽くこと知らで泣く女われ
 青白きあまつ日一つわが上を照して寒しほかに物無し
 子を捨てて君にきたりしその日より物狂ものぐるほしくなりにけるかな
 わが心よし狂ふとも恋人よ君が口より教へ給ふな
 朝着いたミユンヘン市には小雨こさめが降つて居た。モツワルトまちのヒルレンブラント夫人の家をうて二階の扉の鈴を押した時、在留の日本学生から「日本ばあさん」とはれて居る物優しい老夫人がみづから出迎へてれた。良人をつと仏蘭西フランス語でドクトル近江あふみの住所は何処どこかと尋ねて居ると、その時偶然隣の扉をけて黄八丈の日本寝巻ねまきまゝ石鹸シヤボンの箱と手拭とをながら現れた人は近江さんであつた。去年良人をつとの出発した時自分は横浜から同じ船で神戸迄見送つたが、その時初めて自分達は近江さんにお目に掛つた。文学ずきこの青年医学士は特に良人をつとの乗る船をえらび、部屋迄も同じ部屋を択んで渡欧するのであると語られた。若い美しいその夫人が横浜での別れに泣崩れてられたのは今も目にうかぶ様である。近江さんが近頃下宿を此処ここに変へられた事を知らぬ自分達はその奇遇に驚いたが、氏のお世話ですぐこの家の一室へ落附く事が出来た。
 ミユンヘンは第一衛生上の設備がゆき届いて市街の清潔な事の著しい都である。下水工事の完備して居る点などについて近江さんから色色いろ/\と説明を聞いた。四十年ぜん窒扶斯ちぶす巣窟さうくつと云はれたこの地が、今では医科大学での臨床材料として毎年一二の窒扶斯ちぶす患者をる事すら甚だ困難なさうである。建築を初め何事にもどつしりとしたおもむきに富んで居るのは、これ独逸ドイツ流なのであらう。珈琲店カツフエの椅子一つでも頑丈な木に革を張つて真鍮の太い鋲で留めてあると云ふ風である。重苦しい趣味が幾分支那に似て居ると自分は感じた。大通おほどほりから少し横へ這入はひればの家も四方を庭園でめぐらし、つたなどを窓や壁にはせた家もすくなく無いのは仏蘭西フランスことなつて居る。花壇の花迄が仏蘭西フランスの様に繊巧きやしやで無く「意志のはな」とでも言ひたい様に底力のある鮮かな色をして居る。古い都だけに建築が寂びて居て清潔な割になまな感を与へないのも好い。独逸ドイツは南北によつて風土にも人情にも差があると聞いて居たが、南独逸ドイツ精粋せいすゐであるミユンヘンは自然の景勝も人づきあひもおのづから仏蘭西フランスに似た所が多い様である。
 学問に於て伯林ベルリン維納ヰインに対峙して居ると云はれるこの都は、更に芸術に於て独墺両国中に卓出して居ると云ふ事である。音楽は聞く機会が無かつた。たとひ機会があつたとしても、知らない事の多い自分の最も知らない物は欧洲の音楽であるから一辞をも着け得べきで無いのは勿論である。自分達は幾つかの美術館をうて、ラフワエル、チチアン、ベラスケツ、ムリリヨオ、リユウバンス、※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン・ダイク等外国の傑作の多く集められて居るのに益を受けたばかりか、レンバツハ、シユインド、フオオエバツハ、ベツクリン等独逸ドイツ近代の大家の名品に初めて接する事の出来たのをうれしいと思つた。自分はムリリヨオの果物を食べて居る少年の図の枚ある前からしばらく立去る事が出来なかつた。又ベツクリン其他そのた独逸ドイツ近代の大家の作品はその理想主義と云ひその手法と云ひ自分には李太白の詩を読む心地で遠い世界へ引入れられる感がした。五月から十月迄開かれて居ると云ふ新しい絵の展覧会をも観た。よく選抜されて居るので駄作は無い様であるが特に目を引く物は無かつた。多く近世独逸ドイツ派の踏襲で無ければ仏蘭西フランス印象派の模倣であると良人をつとは評して居た。
 近江さんに案内して頂いて自分達はイザル川を横ぎり森の中を雨に濡れながら歩いた。川は石灰いしばひとかした様に真白まつしろな流れがげきして居た。森には種種いろ/\が鮮かに黄ばんで居る。真赤まかんだのも稀にまじつて居て其度そのたびに日本の秋を想はせた。
 目の白くひたるむれの争ひて走るが如きイザル川かな
 イザル川白き濁りに渡したる長き橋より仰ぐ夕ぐれ
 うら寒くすゞのやうなる雨降りぬイザルの川の秋の切崖きりぎし
 如何いかばかり物思ふらん君が手にわが手はあれど倒れんとしぬ
 青き枝こがねのぬひをおける枝しゆを盛れる枝雨の流るる
 其処此処そこここ紅葉もみぢの旗を隠したる木深こぶかき森の秋のたはぶれ
 事無ことなさにイザルの森をさまよふか雲居くもゐそとに子等は待たぬか
 何事に附けても東京に残した子供の思ひされるのが自分の思郷病しきやうびやうの主な現象であり又基礎となる物である。このミユンヘンの宿で湯にはひつて居て、ふと洗つて遣る子供等がそばに居ない事を思うて覚えず自分は泣くのであつた。我ながら随分辛抱強いと考へて居た自分が今では次第にこらぢからが無くなつてく。子供の名を一一声に出してぶ事なども近頃は珍らしく無い。勿論其れはたゞ一人居る時の事であるが、時には良人をつとの前でも思はず口を開くのである。其度そのたびに気が附いて自分は次第に発狂するのでは無いかと思ふとおそろしさに身をふるはさずには居られない。良人をつとあるひは叱つたりあるひすかしたりして自分の気鬱症きうつしやうを紛らさせやうとつとめて居る。自分は様な妻をれて欧洲を旅行する良人をつとが気の毒でならない。其れで度度たび/\一人で先に日本に帰らうとも思ふのである。
 かなしみは遠き窓より我によるを催す黒雲くろくもごと
 恋人と世界を歩む旅に居てなどわれ一人さびしかるらん
 わが脊子せこよ君も物憂しかること言放いひはなつまで狂ほしきかな
 宿の近くにババリヤ公園があつて、其処そこにバイエルン国の精神を表示した女神ぢよしん像が立つて居るが、いたづらに巨大なばかりで少しも崇高な感のおこらない物である。自分は絵にしても彫像にしても余りに大きな物はかへつて空虚な心地がするので好まない。大作と云ふ物が物質的の容積と比例すると思ふ様な迷信を早く世界の上から無くしたい物である。一年一度のにぎはひであると云ふ十月さいの用意に、東京の青山練兵場を半分にした程の公園が見世物小屋の普請で一杯に成つて居る。靖国神社のお祭の見世物小屋が一週間ぜんから用意せられるのに比べて、一箇月も前から永久の建築物かと思はれる位頑丈な普請を念入ねんいりにして居るのは矢張やはり独逸ドイツ流の遣方やりかたであると思つた。公園のうしろの高台に工業博覧会が五月以来開かれて居た。自分は宿のバルコンをおほうた蔦紅葉つたもみぢを写生する気に成つて絵の具いぢりをして居たので観にかなかつたが、観て来た良人をつとその博覧会の実質に富んだ事をめて居た。自動車に乗つてニンフンブルグに在る離宮を観に行つたが、これ仏蘭西フランス※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルサイユ宮の庭園を模して及ばざる物であつた。それよりも自分の面白いと思つたのは王立醸造場ホウフブロイよるの光景である。ミユンヘン麦酒ビイルの産地だけに大きな醸造ぢやうが幾つも有つての醸造ぢやうでも大きな樽からすぐ生麦酒なまビイルさかづきいで客に飲ませるのであるが、中にもバイエルン王のみづから営んでられる大醸造ぢやうは外観の宏壮な事が劇場の如く、うちは階上階下の二室に別れて併せて五千人の客を入れる装置が出来て居る。階下は労働者の室であり、階上はの階級の客の室である。昼の間は稀にしか客を見受けないが、日が暮れ初めると次第に各階級の人人が加はつて十時頃にははや座席が無くなり立ちながさかづきを手にする人もすくなく無い。そのさかづきは頑丈な陶器で出来て居て側面に王冠の模様を焼附け、同じく頑丈な把手とつてと蓋とが附いて居る。階上の室には音楽の壇があつて独逸ドイツの名家の曲を初め各国の音楽がいり替はり奏せられる。波波なみ/\いださかづきを前にし、それ等の音楽を聞きながら皆呑気のんきに夜を徹する。一種の特色ある菓子麺麭ぱんや軽い幾ひんかの夜食を取る事も出来るのである。良人をつとは毎此処ここに遊んでことに階下の室の労働者で一杯に成つて居る光景を喜んで居た。自分が近江さんに伴はれて階上の室へ行つた晩は四五人の日本学生の人人の外に、日本学生の語学教師であるエエドル嬢も一緒であつた。麦酒ビイルたゞにがい物だと思つて居た自分にもこの王立醸造場ホウフブロイ麦酒ビイルは好い味の物に感ぜられた。此処ここへ来る事は恥で無いので立派な風采ふうさいの客も相応に多い。若い令嬢をれた親達も見受けられた。王立の酒舗と云ふのは如何いかにもミユンヘンに限つて有る世界唯一の名物であらう。(九月一日)


維納ヰイン(晶子)



 汽車で渡つたドナウ河は濁つて居た。加特力カトリツク教のユウカリストの大会があつて六十万人の信者が諸国からいり込んで居る維納ヰインへ、其れとは知らずに着いた風来の自分達は宿の無いのに困つた。ミユンヘン大学のドクトル試験に及第してなほ此処ここの病院で研究を続けて居る深瀬さんのお世話で日本人に縁の深いパンシヨン・バトリヤの一室ひとまやつとまる事が出来た。自分達と前後して土耳其トルコから着いた外務省の留学生のなにがしさんは自分達が出立しゆつたつしたあとの部屋へとまられるつもりで、それ迄は隣の杉村医学士の部屋の長椅子で寝て居られた。この下宿の主婦も日本アさんと呼ばれて居るが、ミユンヘンのヒルレンブラント婦人に比べられる様な親切な人柄では無かつた。
 来た折が生憎あひにくなのか墺地利オオストリヤの首都として予想して居たのに反し優雅なおもむきに乏しい都である。何となく田舎ゐなからしく又何となく東洋じみた都である。勿論これは二三日の滞在に外観を一べつしたけの感じであつて、その学問芸術の方面に伯林ベルリンを圧する力を持つて居ると云ふ最近の維納ヰインの内景に到つては容易にうかゞべくも無かつた。
 どの街も屋根と云ふ屋根から黄色の長い旗がお祭の為になびいて居る。黄色ばかりでなく黄色に赤や黒や緑を配した旗である。その下の人道じんだうを胸のあたりに真鍮の徽章を附けた善男善女の団体が坊さんにれられて幾組も練つて歩き、電車も皆その団体で一杯に成つて居る。どのお寺も黄色の旗と常緑樹ときはぎの門とで、外部を飾り、その内部の壮厳さうごんは有らゆる美をつくして、いろんな法衣はふえの坊さんと参拝者と香煙と灯明とうみやうとで満ちて居る。黄色の旗と巡拝者とで埋まつたこの都は何となく西蔵チベツトとか印度インドとか云ふ国へ来た感をおこさせるのであつた。
 羅馬ロオマ法王からこの大会に寄越よこした使節僧の一行を皇帝自身に迎へられる儀式があると云ふので、その日の見物の桟敷が王宮の前にも内庭うちにはにも黄いろい布を張つて設けられてあつた。自分は西班牙スペインの闘牛場の絵を観る様な気持で、其れ等を眺めて通つた。どの街も雑沓ざつたふして居たが王宮の内庭うちにはを横断してステフワンへ抜けるあひだことに甚だしかつた。皇帝の居間の直下すぐしたに当ると云ふ広場などは人間のかたまりで身動きの成らぬ程であつたが、自分達は自動車に乗つて居たお蔭でからうじて通り抜ける事が出来た。
 道路はミユンヘンと反対に不潔である。市の中央を円く囲んだリンクと云ふ大通おほどほりは建築も立派でことに王宮、議事堂、大学、オペラ、新古の両博物館などの集つて居るあたり小巴里せうパリイの称にそむかないとも想はれた。しかし博物館は観るべき物に乏しかつた。市の外れにある離宮センブルンは仏蘭西フランス※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルサイユを真似まねたものであるが、芝草の青青あを/\とした三笠山の様な丘の上にある層楼そうらうの石の色を夕暮に見上げた感じは好かつた。此処ここでは流石さすがに欧洲の覇者であつた昔が追憶しのばれた。
 自分達はこの地で明治天皇陛下の大葬の当日をすごした。折あしく風を帯びた寒い雨の降る朝であつた。二人は徒歩で博物館へ行つて人込ひとごみの中を分けつつ絵を観たが、定められた十一時少し前に馬車を急がせて日本大使館へ行つた。大野書記官の部屋でお話をして居ると、階上の室で最後のおん別れに聖影を拝し奉る時間が来た。あつまつた者は秋月大使始め十七八人であつた。自分は聖影のおん前に何か祭壇が設けられて居るであらう、白絹しらぎぬや榊でいはひ清められて居るであらうと想つて居たが少しも其辺そのへんの用意が見え無かつたので、一方に満都の加特力カトリツク教徒が荘厳な宗教的儀式に※[#「執/れんが」、U+24360、330-11]狂して居るのに比べて甚だ物足らなかつた。そして又斯かる場合になほ官位につて礼拝らいはいの順序を譲り合ひ、其れが為に自分達に迄すくなからぬ時間を空費せしめた官人くわんじんの風習を忌忌いま/\しく思つた。


伯林ベルリン停車ぢやう(晶子)



ああ重苦しく、赤ぐろく、
高く、ひろく、奥深い穹窿きゆうりゆうの、
神秘な人工の威圧と、
沸沸ふつふつほとばしる銀ぱくの蒸気と、
濛濛もうもうと渦巻く煤煙ばいえんと、
ぜる火と、える鉄と、
人間の動悸どうき、汗の
および靴音くつおととに、
絶えず窒息いきづまり、
絶えず戦慄する
伯林ベルリンおごそかなる大停車ぢやう
ああ此処ここなんだ、世界の人類が、
善のかはりに力を、
静止のかはりに活動を、
弛緩ちくわんかはりに緊張を、
平和のかはりに戦闘を、
涙のかはりに生血いきちを、
信仰のかはりに実行を、
みづから探し求めて出入でいりする、
現代の偉大な、新しい
人性じんせいを主とする寺院エグリイズは。
此処ここに大きなプラツト・フォオムが
地中海の沿岸のやうによこたはり、
そのもとに波打つ幾線の鉄のなは
世界の隅隅すみ/″\までをつなぎ合せ、
それに断えず手繰たぐり寄せられて、
汽車は此処ここに三分間ごとに東西南北よりちやくし、
また三分間ごとに東西南北へ此処ここを出てく。
此処ここに世界のあらゆる[#「あらゆる」は底本では「あらゆを」]目覚めた人人は
髪の黒いのも、赤いのも、
目のあをいのも、黄いろいのも、
みんな乗りはづすまい、
降りはぐれまいと気を配り、
もとより発車をらせるベルも無ければ、
みんな自分でしらべて大切な自分の「時」を知つて居る。
どんな危険も、どんな冐険も此処ここにある、
どんな鋭音えいおんも、どんな騒音も此処ここにある、
どんな期待も、どんな興奮も、どんな痙攣けいれんも、
どんな接吻も、どんな告別アデイユ此処ここにある。
どんな異国の珍しい酒、果物、煙草たばこ、香料、
麻、絹布けんぷ、毛織物、
また書物、新聞、美術品、郵便物も[#「郵便物も」は底本では「郵便物ゆうびんもつも」]此処ここにある。
此処ここでは何もかも全身の気息いきのつまるやうな、
全身のすぢのはちきれるやうな、
全身の血の蒸発するやうな、
鋭い、せはしい、白※[#「執/れんが」、U+24360、334-13]の肉感の歓びに満ちて居る。
どうして少しのすきや猶予があらう、
あつけらかんと眺めて居る休息があらう、
乗り遅れたからつて誰が気の毒がらう。
此処ここでは皆の人がだ自分の行先ゆくさきばかりを考へる。
此処ここ出入でいりする人人は、
男も女も皆選ばれて来た優者いうしやの風があり、
ひたひがほんのりと汗ばんで、
光をにらみ返す様な目附をして、
口は歌ふ前の様にきゆつとしまり、
肩と胸が張つて、
腰から足の先までは
きやしやな、しかも堅固な植物の幹が歩いてる様である、
みんなの神経は苛苛いら/\として居るけれど、
みんなの意志は悠揚いうやうとして
鉄の軸の様に正しく動いて居る。
みんながどの刹那せつなをもむなしくせずに、
ほんとに生きてる人達だ、ほんとに動いてる人達だ、
みんながほんとの今日けふの人達だ、ほんとの明日あすの人達だ。
あれ、巨象マンモスの様な大機関車をきにして、
どの汽車よりも大きな地響ぢひゞきを立てて、
ウラジホストツクから倫敦ロンドンまでを
十二日間で突破する
ノオル・エキスプレスの最大急行列車がはひつて来た、
おそろしい威風を持つた機関車は
いま世界のすべての機関車を圧倒する様にしてとまつた。
ああわたしもれに乗つて来たんだ、
またわたしもれに乗つてくんだ。
                      (一九一二年、九月十四日)


伯林ベルリン一瞥いつべつ(晶子)



 自分達は伯林ベルリン五日いつか滞在した。何となく支那風に重苦しい、そして田舎ゐなか者が成りあがつたやうに生生なま/\しいすべての感じは、其れ以上滞在して居られない様な気がした。しかしこんな気がしたのは伯林ベルリンの皮相ばかりをせはしく一瞥いつべつした為であることは云ふ迄もない。独逸ドイツ語が少しでもわかつて、そしてせめて三月みつきでも此処こことゞまることが出来たら北独逸ドイツの生活の面白さが少しは内部的にわかつたであらう。かく五日いつか位の短い滞留の間に伯林ベルリンから受けた表面の印象はミユンヘンやヰインに比べて反対に面白くないものであることを正直に述べて置く外はない。
 市街の家屋が五階建に制限せられて居るのは、規則づくめな日本にあきたらない自分達に取つて第一に窮屈で、また単調で、目の疲労を覚えた。
 北独逸ドイツの人は男も女も牛の様に大きくふとつて一般に赤面あかづらをして居る。巴里パリイ倫敦ロンドンでは自分達と同じ背丈の、小作こづくりな、きやしやな人間の方が多いのに、此処ここではどの男もどの女も仰いで見ねばならない。断えず出会ふ人間から威圧を受ける気がする。
 其れから、どの建築も、どの道路も、どの家具も、皆堂堂だうだうとしてだいと堅牢と器械的の調整とを誇つて、其れが又自分達を不愉快に威圧する。仏蘭西フランス風の軽快と洗錬との美をまつたく欠いた点がやがて独逸ドイツ文明の世界に重きをなす所以ゆゑんであらうが、自分達の様な体質や気質を持つた者には容易にしたしみにくい文明である。建築の外観の宏壮なのも、実は近寄つて見ると巨石を用ひた英仏の古い奥ゆかしい建築とちがつて、おほむね人造石で堅めてあるのでがつかりする。どの博物館も新式の建築術を用ひて間取まどりや明り取りの設備には敬服させられるが、陳列品に自国の美術としてはほとんど何物をもつて居ないのは気の毒な程である。しか仏蘭西フランスの印象派や最も新しい後期印象派の絵までがをさめられて居るのには感服した。
 伯林ベルリンの女は肥満した形が既に美でないのに、服装も姿態も仏蘭西フランスの女を見た目には随分田舎ゐなか臭いものである。
 女の帽子針のさきさやめて居るのは、仏蘭西フランスの女が長い針のさき危険あぶなくむき出しにして居るのとちがふ。衛生思想が何事なにごとにも行亘ゆきわたつて居るのはさすがに独逸ドイツである。
 ウンデル・リンデンの並木みちを美しいと聞いて居たが、其れは巴里パリイのシヤンゼリゼエを知らない人の言ふことであつた。
 自分達は澤木せうさんとその友人の西村さんとにれられて度度たび/″\ポツダム・プラアツのかどにあるロステイと云ふ珈琲店カツフエへ行つた。一つは其処そこへよく遊びに来ると聞いて居た画家のルンプさんに逢ひたかつたのであるが、折わるく一度も逢はなかつた。あるその隣の何とか云ふレスタウランで澤木さん達と晩餐を一緒にしたが、其処そこの建築は珍しく一切木造で出来て居て、用材は各館共何と名を云ふのか、黒檀こくたん質の立派な木である。その一室の如きは二抱ふたかゝへもある四角な黒檀こくたん質の柱が参拾本じつぽん以上並び、其れに電灯の映つたもとで幾十の食事の客が大理石の卓を囲んで居る光景はに見られない壮観であつた。
 物価は巴里パリイに比べて概して二三割方やすい様である。自分達は巴里パリイのボン・マルセに似た大きな店で羽蒲団はねぶとんを二つ買つた。羽と蒲団とを別別べつべつに買つて詰めさせるのである。羽には日本の綿わたの様にいろいろの種類があるが、自分達の買つた羽は中位ちゆうぐらゐの品で、その価は一枚分が四十八マアク(弐拾四円)であつた。(九月十五日)


和蘭陀ヲランダへ着いた(晶子)



 わたしは先刻さきから眠くてならない。
「もう二時間でアムステルダムですつて。」
「さうさ。眠いかい。」
 と云ふ良人をつとも眠さうである。この人は昨夜ゆうべ鼻加太児びかたるから発※[#「執/れんが」、U+24360、342-3]して苦しがつて夜通よどほし寝なかつたのである。私も心細くて起きたままで居た。伯林ベルリンは昼の十二時半に立つて来た。今は夜の九時過ぎである。
「あの国境でね、あなたが取られていらしつたはらひ増しが余り高いのね、二等の切符を別に買はせたのぢやないかしら。」
 眠気ねむけざましに私はこんな話を持ち出した。
「さうかも知れないね。何方どちら仏蘭西フランス語が悪いのか知らないが、よく通じないままで金を払つて来たのだから。」
「でもいわ。旅つてそんなものでせう。実際ね、彼方此方あちこちはらひ増しをして二等に乗り替へるのに三等の廻遊切符なんか初めから買ふのがもういけないんだわ。」
 わたしはう云つて笑つて、一人づつの仕切になつて居る肱掛に頭をかがめて載せて居た。
余程よほど眠いと見えるね。」
「眠くつてね。真実ほんとうに。」
 わたしはもう余程よほど意識が朦朧もうろうとなつて来た。
和蘭陀ヲランダと云ふ国は可愛かあいさうな位小さい国だね。素通りしてしまはうと思へば七時間位で通つてしまへるのだからね。」
 こんなことを良人をつとは云つて居たやうである。かぜを引くから外套を掛けてやらうかとも聞いたやうである。わたしは首を振つたかどうしたか知らないが、外套は身体からだかゝつて来ないやうである。ややねむりが浅いさかひへ帰つて来た頃、良人をつとたれかとしきりに話して居た。目をいても見たが、良人をつとと並んでむかふ側に黒い人が一人居るのを知つて居た。汽車が徐行しかかつたと思つた時、
「ムツシユウ、もう此処ここがアムステルダムですか。」
 と良人をつとの云つたのに対して、
「ウイ、ウイ。」
 と相手の答へたのがわたしの耳にはひると、わたしはふらふらとして立つた。
「アムステルダムだよ。」
「さう。」
「綺麗ぢやないか、見て覧。」
 良人をつとは窓から外を見て居るらしい。よくは分らない。私も何とか云つて居るらしい。黒い空と黄色いが並んでるのと、それと同じが下でふるへながら同じところまで長く長く伸びて居るのと、近い所に大きい粗末な建物の続いて立つて居るのとが意識されたやうであつた。それよりもむかふは海だと直覚で感じた方が鋭かつた。それで居てもうわたしは棚の上の帽子を取つて、それから髪を包んで居た切れを外してそれをて、外套の前を胸で合せて居た。しまひに極めて落着いた黒地の中の停車場ステエシヨンへわたし等二人は降りた。ばらばらと二三十人ぐらゐが歩いて居るだけである。切符を調べさせて、ぎらぎらとした硝子がらすの反射の作る光線の中を通つて広場へ出た。自動車と馬車と交ぜて七八なゝやつあつたかも知れない。無いやうな気もする。※[#濁点付き井、345-5]クトリヤ・ホテルは一町いつちやうとないところと云ふので、赤帽に鞄を持たせて、その跡を私等二入は歩いて行つた。わたしは目がめた。見えない暗い中も見とほせる程頭がはつきりとして来た。初秋はつあきの風が心地よく醒めた私を吹いた。広い水の堀割が前にある。松葉がたで、右手になる方は一つで、丁度ちやうどわたし等の渡つてく橋からはふた筋に分れて居る水が地面とすれすれに静かに流れて居るのである。柳と同じやはらを持つた、夜目には見きの附かない大木が岸の並木になつて居る。あちこちに捨石すていしがいくつも置かれてあつた。黄色い、黒ずんだ紅玉かうぎよくの色の、花やかな桃色の、青い白いが水に泳いで居る。窓から引いた光と船から引いた光とがまじつて縦横たてよこに縞を作つて居る。家は皆それ程高くなくて、それの上半分は霧の中にぼやけてしまつて居る。帆柱が際立つた黒い木立こだちのやうに見えて両ぎしにそれぞれ寄りかたまつて居た。ひらひらと横長い旗が動いて居るのも見えた。
「大阪の川口かはぐちのやうなところだね。」
 早足で歩いて居る良人をつとうしろを見返つて云つた。
「静かでところね。」
 良人をつとは聞いたか聞かぬか知らない。わたしは身にむ程アムステルダムが好きになつてしまつた。赤帽は橋詰の右角の、夜目よめに鼠色に見える家へはひつて行つた。※[#濁点付き井、346-7]クトリヤ・ホテルなのであらう。ちゆふ老人の帳場番頭の居ること、制服のギヤルソンが二三人うやうやしさうに立つて居ること、これ等はどの国の旅館ホテルも少しの違ひがない。客が三四人帰つて来てエレベイタアで上へあがつてくのなどもさうである。二つ部屋があると云ふので、見せて貰ふことにして二階へあがつた。廊下を二角ふたかどまがつてギヤルソンのけたのは白い冷たい感じのする部屋であつた。かちかちと云はせてあちこちのねぢをねぢると、あるだけのが皆いた。黄色いに見えるやうになつた。そしてギヤルソンは隣の化粧部屋へ通ふ戸、談話室との間に垂れたとばりなどを皆開けた。バルコンもある。棕櫚竹しゆろちくの大きい鉢が二つ置いてあつた。わたしはバルコンへ出た。目の下が水である。丘のやうな堤のやうな遠い先の方にが無数に見える。むか河岸がしの並木の間からは馬車のゆききなどが見えた。近いところを置いたやうな火光くわかうを見せたのは停車場ステイシヨンである。
「あまり立派過ぎるぢやないか。」
「ええ、さうですわ。」
 と答へたが、私はバルコンを離れての室へくのが残り惜しく思はれた。良人をつとがその事を通じるとギヤルソンは点頭うなづきながらまたわたし等を一階上へ導ひた。の広さは前のよりは広い位に思はれたが副室は一つもない。良人をつと此処ここに決めた。五分間もしないうちに荷物が運ばれて、それぞれの所へ配置された。部屋づきの女も来た。
「温かい珈琲キヤツフエでも貰はうね。」
 と云つて、良人をつとが命じると女は出て行つた。
「わたしは葡萄酒でも貰はうかしら。」
「外国を歩いて居る間は葡萄酒は実際贅沢ぜいたくなんだからね、巴里パリイへ帰つたらいくらでも飲ませてあげるよ。」
「厭なこと、そんなことを云はれると酒飲さけのみのやうよ。たゞね、脳貧血がおこるやうな気がしたからさう思つたのですよ。」
「ぢやあお貰ひよ。」
珈琲キヤツフエでもければいいでせうよ。」
「菓子も頼んだから。」
「さう、うれしいわ。」
 わたしは帽子を取つたり、着て居たものを上から一つ一ついだりした。身軽になつて窓のところへ走り寄つたわたしは、
「あら、小林萬吾さんのおきになつた橋がある。」
 と大きい声を出した。(九月十六日)


和蘭陀ヲランダ二日ふつか



 和蘭陀ヲランダはアムステルダムと海牙ハアグとの両都をわづ二日ふつかで観て通つたに過ぎない。海面より低いこの国は、何処どこへ行つても狭い運河カナルが縦横に通じて、小橋こばし色色いろいろに塗つた美しい船との多いのがに見られない景色である。建築は一体にひくい家ばかりで三がい以上の物はすくない。古い文明国だけにすべてが寂びて居る。市街も人間も何だか疲れて居て活気に乏しい。男は皆水夫上りの様な田舎ゐなかびた印象を与へるし、女は皆尼さんの様なつゝましやかさと寂しさとを持つて居る。秋の季節に来たせいもあらうが、まことに秋の国とも云ふべき、調子の弱い、色のやはらかい、人間の欲望を滅入めいらせる様な国である。どの運河カナルの水も鏡のやうに明るくてゐどのやうに深く、その上に黄いろくんだ並木や、淡紅うすあかく塗つた家の壁や、いろいろにいろどつた荷船にぶねやが静かに映つて居るのを見ると、平和会議がこの国で開かれるのもその所を得て居る気がした。どの博物館ミユウゼにもレンブランを除けば格別記憶にとゞめたいもない。レンブランとても海牙ハアグにある有名な「解剖図」ぐらゐなもので、その傑作はかへつ白耳義ベルジツクそのの国に散在して居る。僕は何処どここの国の田舎ゐなかはひつて一週間もとゞまりたいと思つたが、東京に残して来た子供等をひどく気にする晶子がこの月の二十一日にマルセエユを出る平野丸で急に先に帰りたいと云ふので、海牙ハアグ夜半よなかに発する汽車に乗つて巴里パリイへ直行して帰つて来た。(九月十八日)


巴里パリイに於ける第一印象(晶子)



 (これは自分が巴里パリイの文芸雑誌「レザンナアル」の記者の望みに応じて書いた所感の一部である。)
 自分は仏蘭西フランスへ来てだ数箇月を経たに過ぎません。又自分は仏蘭西フランスの中流以上の家庭をうかゞふ機会のすくない為に、自分の知りたいと思ふ仏蘭西フランス婦人の最も優れた性格とその最近の生活状態とについて何等の資料を得てりません。
 自分は偶然の機会によつてモンマルトルに下宿して居る。其れが遊楽の街である事を知つたのは巴里パリイに着いてのち数日の事であつた。自分はこれよつ艶冶えんやてらある階級の巴里パリイ婦人を観察する事が出来ました。しかれ等の仮装の天使が真の仏蘭西フランス婦人の代表者で無い事は勿論である。これ等の賤劣せんれつなる婦人と交際する男子を仏蘭西フランスの道徳が排斥するのは日本の其れと同じであらう。さうして自分の驚く事はそれ等の娼婦の需用者がおほむね英米其他そのたの諸外国よりきたれる旅客りよきやくである事である。常に婦人を堕落させる者は婦人みづからで無くて、男子の不道徳に原因すると信じて居る自分は、同じく巴里パリイの遊里を盛大ならしめる者は、その富と不良な好奇心とをもつて異邦の若き女子を飜弄ほんろうする事を恥ぢない英米の偽善的男子であると想像する。
 しかし又自分は、なぜにこれ等娼婦の増加を防止する運動が教育ある仏蘭西フランスの紳士貴婦人の間からおこらないかと怪しんで居る。まさか仏蘭西フランス人はこれ等の放逸な歓楽をもつて外国の旅客りよきやく巴里パリイに招致しようとするのでもありますまい。仏蘭西フランスには誇るべき芸術、哲学、科学、及び卓絶した天然の景勝を沢山たくさんに持つて居るではありませんか。ある人はこれもつ仏蘭西フランスの自由を称揚する様ですが、しかし自由とは決して悪徳の異名いみやうで無いと思ひます。
 又自分はこれ等娼婦の公開――モンマルトルに限らず巴里パリイ全市にわたつて――が子女の教育を妨害する事の多大であるのを想像してひそかに戦慄致します。聞く所にれば仏蘭西フランスの中流以上の家庭はおほむね今なほ数世紀前の禁欲主義的な教育をもつて若い女子を家庭にとぢ込め、社会の悪風に感染しない様に警戒して居ると云ふ事ですが、その様な消極的な教育が子女に害を及ぼす事の多大な事は最早もはや論ずる迄も無い事だと思ひます。又如何いかに家庭にとぢ込めて置けばとてそれ等の悪風がまつたく若い女子の耳目じもくに触れないとは定められないでせう。
 世の人は少年少女を目して日の社会の一員だと考へる様ですが、自分は彼等をもつ矢張やはり現在の社会の若き一員だと考へる所から、賢くて慈愛な父母の保護のもとに常に彼等を解放して有らゆる社会の活動を目撃させ、其れによつて彼等子女の智識と情操とを養はせたいと云ふ思想を持つて居ります。時代遅れの宗教に教育を託する事の有害なのは云ふ迄も無く、家庭と書籍とだけで今後の子女を教育しようと云ふ事も不可能だと思ふのです。其れでし彼等子女の目に触れて有害な物があれば其等を社会から滅絶させるか、社会の一都にとぢ込めて隔離するかの手段を取るのがよろしいと思ふ。
 自分は前に述べた通り仏蘭西フランスの中流以上の家庭をくはしく観察する機会を得ないのを遺憾に思つてります。しかし中流以上の家庭にある婦人のみが仏蘭西フランス婦人の優秀なる性格を専有して居るでせうか。恐らくはいなと云ひたい。自分はなほの婦人に於て[#「於て」は底本では「於の」]仏蘭西フランス婦人固有の元始的な根強い優れた本性ほんしやうを認められると信じます。其れは何かと云へば巴里パリイに於る下級な一般商家、一般工場の婦人等及ぴ仏蘭西フランス田舎ゐなかに於る一般の婦人等である。自分が多少この方面に費した観察にれば、概して如何いかに彼等が貞淑で、正直で、おのが職業に勤勉で、おのが父母にむかつて敬虔けいけんで、おの良人をつとむかつて調和的であるかは予想外に感服すべきことであります。勿論彼等は現代の文明について、よりすくなく教育せられてりますからその愚直は軽率なる罪悪をかもす原因となる場合もあるでせう。しかし彼等は概して野生の草花さうくわの如く物優しく、その草花さうくわの根の風霜に耐へる如く根気強くおのが義務に忠実であるのです。(自分は日本の下級婦人の多数についても同じ感を持つて居る。)
 自分は如此かくのごとく信じます。これ等の固有の美質を堅く貯へて持続する婦人の多数を有して居る以上、仏蘭西フランス婦人の将来、いな仏蘭西フランス人全体の将来はます/\光栄と幸福とに富んで居ると。なぜなれば真の貴女きぢよこれ等多数の低級なる[#ルビの「さ」は底本では「さう」]うして美質に満ちた婦人の間から将来ます/\発生する事を期待するからである。貴女きぢよとは今日及ぴ将来に於て最早もはや爵位や物質的の富によつて定まるもので無く、家庭及び社会に貢献する実蹟じつせきよつて決するものである以上、又優秀なる教育の必要がます/\一般婦人に自覚せられてく以上、必ず真の貴女きぢよは本来の美質に富むこれ等多数の婦人からおこつて来る事を疑ひません。これを日本に於ける最近十二年間の事実に見ても、新しい教育を受けて社会の各事莱に貢献しつつある優秀な婦人は概して平民より出てります。其れで自分は日本婦人の将来を楽観する如く仏蘭西フランス婦人の将来を楽観したいのです。
 しかし将来の事はかく今日こんにち自分の想像する所では、仏蘭西フランスの婦人は自己の権利を主張する事につき英国の新しい婦人に比して少し遜色がないでせうか。今のジヨウジ・サン女史はたれですか。あるひは自己の権利を主張する事を要しない程仏蘭西フランスの中流以上の家庭は既に自由と幸福とに満ちて居るのでせうか。
 自分は日本に於て様な事をしば/\論じました。柔順をもつて女子が最良唯一の美徳とせられる間は、人間の道徳はいまだ低く、世界の文明はいまだ高度に達して居ない。何故なにゆゑに男子と女子とは対等の生活をたのしむことが出来ないのであらうか。其れは男子が女子を従属物だと思ふ野蛮な気習を改めず、女子も遅疑ちぎしてその気習から脱する勇気が無いからであると。自分の直覚をもつて間違なしとすれば、どうやら仏蘭西フランスの男子諸君もまた東洋の男子と同じくその内心の奥には女子を従属物視し、あるひは玩具視し、あるひ厄介物やくかいもの視して居る様である。うであるならば、如何いかに女子が富と位地と四季折折をりをりの遊楽とに飽くとも、依然数世紀前の貴婦人たるに過ぎないであらうと想はれる。自分は敢て問ふ、仏蘭西フランスの婦人は何故なにゆゑみづから奮ひ立つておのおの自己の教育を男子とひとしくすることを謀らないのか。我等女子が現代文明の幸福に均霑きんてんせんめ――我等みづからの幸福のめとのみ云はず、我等の良人をつと及び子女の幸福のめ――要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。自分は仏蘭西フランスに於ける[#「於ける」は底本では「於け」]婦人運動が過去三十年前に比して甚だ手温てぬるいのを不思議に感じます。と申して英国の婦人の様な過激な運動を望まないのは勿論です。伶俐な仏蘭西フランスの婦人達は必ずこれに対する立派な意見がありませう。自分は其れを聞きたい。
 この点について日本に於ける妙齢の女子は最近三四年間に非常な内心の覚醒をみづからしてります。しかし日本婦人の美質として過激な運動にでやうとはせず、表面には隠忍しつつ実際に於ては有らゆる刻苦をつくして自己の教育を高める事に努力し、又経済上の独立をる事に著眼して、いづれかの職業に従事しておの/\自活の計を営まうとして居ります。温健にして※[#「執/れんが」、U+24360、357-6]烈なこれ等の新運動は今や非常な速度で日本の到るところの青年女子の間に伝播でんぱしてります。日本政府及ぴ日本の父母は表面保守主義な様ですが、事実に於て世界の思潮を見越みこす事に鋭敏ですから、時にはかぢを取る為に馬鹿げた干渉もする様ですが、概して温健な推移ならば寛大に見て居る風がありますので、我我われわれは二三十年ぜんの日本婦人に比べて雲泥の差と云ふべき思想上の自由を得てります。
 自分は想像する。仏蘭西フランスの男子もまた女子を家庭にとぢ込め、日常の雑用と台所むきの仕事とのみに犠牲たらしめようとするのでは無からうか。うであるなら、其れは昔の社会が男子のみで成立つて居ると思ふ迷信の致す所である。世に婦人のたいより生れない偉人があらうか。何人なんびとも大半は婦人によつて教育せられるのであると云ふ一を見ても、婦人は男子と対等の生活を営みる権利をつて居るのはあきらかである。し前に述べたやうな大多数の婦人の正直と労力とが仏国今日こんにちの富を助長して居る事のおほいなのを想ふならば、台所にばか閉籠とぢこもつて居る婦人のまで役立たないことがわかるであらう。
 自分は女子のみを男子の助成者だと云ふことを好みません。女子が男子の助成者となるには古来既に女子の可能を傾けて捧げて居る。女子の助成者としての男子は従来余りに不親切では無かつたでせうか。女子の自立的運動は男子も進んでこれを助けてしいと思ふ。
 男女がたがひに助成して社会を円満に形造かたちづくるのは二十世紀以後の文明に賦与された幸福である。男女は対等に教育せよ。併せて対等に社会に立つて活動せよ。うして対等に社会上の権利をるに到れよとは自分のねがひである。ただし自分は常に「対等」と云つて「同等」とは云はない。人は男子同志でも体質と性情をことにして居て「同等」なる者は有り得ない。ことに男子と女子とはたがひに体質と性情の差によつその能力に長短があり、同等たることを得ないのは勿論であるが、要するにその適した所におもむいて可能をつくし、対等の義務を負ふて対等の幸福のもとに生活をたのしみたいのである。もつとも従来男子の専有であつた職業に女子が参加して、男子と同じけ又は其れ以上の効果を挙げるかも知れないから、男子は従来の独占を捨てて有らゆる職業を女子に開放する時機が早晩来ることを自分は期待する。
 自分は家庭を尊重する。家庭は社会の奮闘の中に置かれた自分及び自分の子弟の大本営であり、兵站へいたん部であり、練兵場である。従来は余りに家庭が社会と隔絶して居た。家庭で聞いた教訓が社会へでて役に立たない事が多かつた。自分は家庭をもつて社会の縮図たらしめ、家庭教育をもつて子女が社会を知る基礎たらしめたいと思つて居る。其れで父母は社会に立つて対等であると共に、家庭に於ても対等に正直と賢明と勤勉と慈愛とを示してその子女の模範とならねばならぬ。子女をしてその母を軽蔑せしめる様な事があつては成らぬ。
 自分は日本に在つて「台所を縮少せよ」と論じた。台所に時間を費すのは人生を空費する者である。自分が東京に居て台所に働く事をあたかも書斎に働くと等しく楽しい事にして居たのは、これ分外ぶんぐわいの時間を費さず、適当な時間をもつて簡潔に処理する習慣を養つたからであつた。自分等の母の為した如く終日台所に齷齪あくせくとして居る事は自分等に取つて苦痛であるけれども、ある程度にこれに時間を費すのは読書に費すのと等しく快楽である。従つて自分は台所を女中にのみ放任する主婦を憎らしく思ふ。彼等は如何いかなる労働にも相応の快楽のあることを知らない怠惰な婦人である。それに附けても自分は仏国の貴婦人の台所ぶりを観たいと思ふ。
 自分は仏蘭西フランスの女の姿態の醇化せられて気の利いたのと、仏蘭西フランスの風物の明るくして幽静なのとを愛します。しかだ自分は仏蘭西フランス景物けいぶつついて製作を持ちません。だ目を見開いて驚くばかりです。詩もまた牝鶏めんどりが卵を抱く様に孵化ふくわの時日を要するものなんでせう。


妻を送りて



 僕は九月二十日の夜汽車よぎしやで日本へ帰る晶子をマルセエユまで送つて行つた。倫敦ロンドンから着いた平野丸は乗客じようかくが満員になつて居て、一二等を通じて空いた部屋が無かつた。わづか一人いちにん専用の特別一等室だけがふさがらずにあると聞いて、六百円の一等乗船券に更に一割の増金ましきんを払つてからうじて其れに載せることが出来た。その日は積荷の都合で出帆しないと云ふので、その晩は僕も平野丸の客室サロンに蚊に食はれながらめて貰つた。晶子は思郷病しきやうびやうに罹つてひどくヒステリツクになつて居る。其れに少し体の加減も損じて居る。気づよく思ひ立つて巴里パリイを立つて来たものの、今マルセエユを離れやうとすると心細くもあるらしい。れは黙つて涙ぐんで居た。慣れない途中の航海と晶子の不安な健康状態とを想像して、僕も何だかこれが再びと会はれない別れの様な悲哀を覚えるのであつた。此処ここから偶然同船して帰朝する安達大使館[#「大使館」は底本では「大使官」]参事官と、その夫人と、船の加藤事務長とにかれの事を頼んで置いて、僕は翌てう六時に平野丸を見捨てた。
 マルセエユから巴里パリイへ帰る途中にリオンへ寄つて其処そこの博物館を観た。シヤ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンヌのすぐれた壁画の外にロダンの彫像の逸品が三つばかり心に遺つて居る。シヤ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンヌはこの地に生れたのである。仏蘭西フランスの河は何処どこへ行つても美しいが、リオンもまた市内を屈折して流れる河によつて明媚な風致に富んで居る。折あしく日曜日であつた為に三井物産会社の支店へ尋ねた某氏に会ふことが出来なかつた。其れで観たいと思ふ織物工場こうぢやうを案内して貰はずに仕舞しまつた。
 リオンから夜更けて乗つた巴里行パリイゆきの汽車の三等室は途中で降りる労働者を満載して居たが、労働者同志で座席の事から喧嘩を初めて、酒気を帯びた一人がピストルを取出して輪のやうに振廻した。其れが僕と背中合せの席での事である。田舎ゐなか廻りの汽車でボギイ車でないからにげ出すべき廊も附いて居ない。「おお」と云つて片隅へ女客をんなきやくと一緒に避けるもなく発射せられた一発は窓硝子がらすいてそとれて仕舞しまつた。その時仲間の労働者がピストルをもぎ取つて、大勢でその暴漢あばれものおさへてれたので、ほつと誰れも安心した。こんな狼藉を見たのは欧洲へ来てこれが初めてである。(九月二十三日)


MADAMEマダム KIKIキキイ



 おれがこのモンマルトルの[#「モンマルトルの」は底本では「モンンマルトルの」]下宿へ移つて来たのは一月の末であつた。もう十ヶ月経つ。此間このあひだにいろんな種類の下宿人が出たりはひつたりした。今ではおれとKIKIキキイと云ふ女とが古参になつて仕舞しまつた。
 キキイは田舎ゐなかから出た女であらう、その言葉の調子が純粋の巴里パリイつ子では無ささうだ。ある時キキイ自身がおれにむかつて二十二歳だと云つたけれど、下宿の細君が二十五歳だと話したのが真実ほんとうであらう。
 おれがこの下宿へ来た始めの頃のキキイは第一階に住んで居た。壁を桃色に塗つた、大きなピヤノを据ゑた、派出はでな部屋であつた。今ではその部屋に踊場パルタバランへ出る西班牙スペインの姉妹の踊子が住んで居る。其れからキキイはいろんな部屋へ移つて廻つた。おれの部屋の下にあたる二階の、今ムウラン・ルウヂユの踊場をどりばへ出る音楽しや夫婦が住んで居る部屋などにも二ヶ月居た。次第に落魄らくはくして[#「落魄して」は底本では「落魂して」]近頃はおれの部屋からまだ二階上にある屋根裏に移つて居る。おれはキキイの住んでる部屋をのぞいて見たことはないが、下宿の細君が参考に見て置けと云ふので、ある日屋根裏へ昇つて行つてキキイの隣の明間あきまを見たことかある。亜鉛トタンで作つた一人寝の寝台ねだいを一つ据ゑた前に一脚の椅子と鏡とが備へてある。窓はだ一つ寝台ねだいの上のひくい天井に附けられたばかりで、寝ながらその窓をけて空気を入れられるやうになつて居る。雨の降るよるなどは窓硝子がらすを打つ音で寝附かれないと云ふことである。
 おれは会話を覚える必要から、初めの四月よつき程は主人夫婦の食卓で飯を食つて居た。飯を一緒に食ふ下宿人はおれの外に四人の女が居た。下宿人は大勢居るのだが、大抵各自めい/\の部屋で自炊するか、さもなくば現在のおれのやうにそとへ出て食ふのである。
 初めてこの下宿の食卓に就いた日から、おれはなぜだか正座しやうざへ据ゑられた。そして下宿の主人夫婦がおれを四人の女に紹介した。その中にキキイも居た。巴里パリイへ著いてまだ一ヶ月にしかならないおれは、突然多勢おほぜいの若い女の間へまじつたのですくなからずどぎまぎした。主人の紹介した所にると、どの女の名の上にもマダムが附いて居る。それで、おれは敬意を表して「皆さんと交際致すのはわたくしに取つて非常な光栄に存じます」と云ふ様な改まつた文句を用ひて挨拶したもんだ。それが今から考へると可笑をかしくてならない。
 食事の終りに、隣に坐つて居たキキイは美しい手で胡桃くるみの割りやうをおれに教へてれた。快濶な主人夫婦はじめ四人の女は皆親切に話しかけて、仏蘭西フランスの風俗と言語とに慣れないおれを気拙きまづく思はさないやうに努めてれた。女達は皆おれの職業を聞いてお世辞を並べた。しかしおれは礼を失すると思つて彼等の職業を問ひ返すことをしなかつた。
 この下宿の食事は始まるのも終るのも珍しく遅い。昼飯は午後一時半に始まつて三時に終る。晩飯は八時に始まつて十時に終る。雑談を交換しながら呑気のんきに飲みつ食ふのである。ほかの在留して居る日本人が下宿の飯はけち臭いと云つてよくこぼすが、おれの下宿は反対に潤沢なのに驚く。元来少食なおれは兎角とかく辞退ばかりしなければならないのに弱る程である。食事が済んでもまだ雑談は尽きない、時には歌留多かるたを取ることもある。十二時頃になるとキキイを除いた三人の女は、派手はで身装みなりをして大きな帽の蔭に白粉おしろいを濃くいた顔を面紗※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)エルに包み、見違へるやうな美しい女になつて各自めい/\何処どこへか散歩に出てく。主人夫婦もおめかしをして寄席よせ珈琲店キヤツフエへ出掛ける。おれも初めの頃はよく主人夫婦と夜明よあけ近くまで遊び歩いたもんだ。
 おれは最初この女どもを皆財産があつて気楽に遊んでくらしてる連中れんちゆうだと想つて居た。オネエと云ふ一人の女などは、「昨日きのふも競馬で儲かりましたから今夜酒場キヤバレエモニコへ一緒に参りませう」なんて、よくおれの部屋を叩いて云ふことがあつた。おれは辞退してその女と一緒に歩いたことは無かつたが、おれはその女のたくみに素早く化粧する所をれの部屋で見せて貰つたことなどもあつた。目の四方に青いくましたり、一方のに黒い頬黒ほくろこしらへたりする女であつた。おれは又この女どもを人の情婦いろをんなになつて囲はれて居るのかとも思つた。しかし格別男らしい者がどの女の部屋へも尋ねて来る様子はなかつた。
 キキイはその頃から蒼ざめた顔をして居た。灰色を帯びたとび色の髪を無造作につかねて、多分其れ一枚しか無いのだらうと思はれるやうな古びたオリイヴ色の外套を襯衣シユミイズの上から着て居た。古びたジユツプも同じくオリイヴ色である。襯衣シユミイズだけは三日ぐらゐに取換へるので白く目立つて居た。おれはキキイがなぜこんな服装みなりをして居るのか、夜毎よごとに盛装して散歩に出る三人の女とキキイとの間にどんな身分の懸隔けんかくがあるのかわからなかつた。
 おれは初めの間語学に※[#「執/れんが」、U+24360、368-11]中して居たので、よく主人夫婦をつかまへてわからない所を質問した。又外出せずに居るキキイが中庭へりて来て、大きなアカシヤの木の蔭の青く塗つた長椅子バンクで新聞を読んだり小犬をあやしたりして居るのを見附けて質問する事もあつたが、主人夫婦に比べてキキイが非常に無教育な女だと云ふことはおれにも想像された。
 おれは大分だいぶキキイと親しくなつたので、ある日例の中庭でこんな話をした。
「キキイ、おまへの希望のぞみなんだね、毎日うして何を待つて居るんだね。」
「わたしには何もないの。だ早くこのアカシヤが葉をつけて、美しい日光のさす時節が来ればいいと思ふばかり。」
 おれは詩の一節を読んだ気がして、あとは黙つて勝手な聯想にふけつて仕舞しまつた。キキイもあとの言葉を次がなかつた。
 四月にはひつておれは初めて明るい欧洲の春に接した。庭のアカシヤに夜が白み初めた頃からメルルが来てくやうになつた。下宿ではキキイの外の三人の女が何処どこかへ引越して仕舞しまつて、そのあとにはモニコの踊子を落籍ひかせて[#「落籍せて」は底本では「落藉せて」]情婦いろをんなにして居る大学生のピエルと画家のコツトとが食卓へ就くことになつたが、陽気がよくなつて以来主人夫婦がよくそとへ出掛けて飯を食ふので、下宿人ばかりが女中のマリイの給仕で食卓に就くのは何だか淋しい気がする。其れで二人減り一人減りして、十日とをか程ののちにはおれとキキイがむかひ合つて不景気な飯を食ふ日が多くなつた。キキイは前月あたりから食事を多く取らない。初めのうちはいろいろと話してれたのにうしたのか口をくのも太儀相たいぎさうである。例の外套の襟を合せて腹部を片手で押すやうにしながら、食卓越しにおれの名を呼んで握手する手が非常に冷たい。姿も一層淋しく細つてくやうである。おれはもう大分だいぶ巴里パリイの事情に通じた気がするので、四月の末日限りこの陰気な食卓から逃れて仕舞しまつた。
 おれはその頃になつて、引越して行つた三人の女の職業をやうやく想像することが出来た。ある日下宿の細君に、
「あれは皆よるの天使だつたんですね。」
 とさゝやいた。細君は笑つてうなづきながら、
「モンマルトルのああ云ふ種類の女の中ではどれも第二流スコンデエルですよ。」
 と教へてれた。それでよく夜明よあけがたに階段エタアジユ[#「階段を」は底本では「階級を」]昇つて帰つて来る靴音を聞いたことも合点がてんが行つた。この下宿の食事の時間が遅いのも、あの女どもが正午ひる過ぎまで寝込んで居るからであつた。おれは同じ時、
「なぜキキイだけはああして内にばかし居るんです。」
 と細君に聞くと、
「キキイもやつぱり売る女ですよ。しかし冬から姙娠して居ます。もう六月むつき目ですの。」
 と細君は云つて、
「日本では女が幾日目に赤さんを生みますか。」
 と問うた。おれは笑ひながら、
「それはどの国の女でも同じです。十月とつきで生むのが。」
 と、うつかりんな事を云つたら、細君は目を円くして、
十月とつきですつて。」と驚いた調子で云つて「仏蘭西フランスの女はそんなに長くはかゝりません。」
 と云つて、大抵二百三十幾日目とかで生むと云ふことを教へてれた。細かい日数の計算をするものだとおれは感心して聞いて居た。それから、おれが、
「キキイはうして生活して居るんですか。色男から送つてでも来るのか、貯金でもあるんですか。」
 と聞くと、

まつたく貧乏なんですよ。市外の会社に勤めて居る弟――折折をりをり昼中なかに尋ねて来て、正午ひるの食卓に就くことがあるでせう――あの弟が姉思ひで、月給のうちからみついで居るんですよ。」
仏蘭西フランスの女は素人しらうとでさへはらむことが無いのに、なぜキキイがはらんだんだらう。」
 と笑ひながら聞くと、細君も笑つて、
「其れは過失あやまちです。」
 と云つた。五月の中頃過ぎに日本から妻が巴里パリイへ来たので、おれはにはかに妻をれて欧洲の各地へ旅行することになつた。九月の中頃に和蘭陀ヲランダから巴里パリイへ帰つて来ると、下宿の細君が十日とをか程前の晩キキイが女のを産んだと云ふ話をした。次の朝偶然おれの部屋の窓から下を見ると、食堂の入口に見なれない婆さんと二十二三の女とが立つて下宿の細君と何か話して居る。二人とも帽を着ないで、田舎ゐなからしい拡がつたジユツプを着けて居た。午後女中のマリイが部屋を掃除に着た時、
「キキイの赤ん坊は今朝けさ田舎ゐなかの人が迎ひに来てれて行つて仕舞しまひましたよ。」
 と云つた。
「僕はそのれに来た女づれを窓から見たよ。キキイは赤ん坊を預けたのかね。」
「いいえ。」
 とマリイはかぶり[#ルビの「かぶり」は底本では「かばり」]を振りながら云つて、さげすむやうな目附と身振をした。おれは重ねて問はなかつたが、金を添へて永久にれて仕舞しまつたのだと云ふことがマリイの様子で想像された。その金もやつぱり人の好ささうなあの弟が算段したのだらうと想つた。
 其れから五日いつかほど経つて、おれは妻と芝居を出て夜の十二時過ぎに自動車で下宿の前まで帰つて来ると、丁度ちやうどその時門の戸を押して外へ出た女が、おれ達を見附けて、
「今晩は、ヨサノさん、ヨサノの奥さん。」
 と云つた。おれが
「おお、マダム・キキイ、今晩は。おまへの体はすつかりいいのかい。」
 と云ふと、
有難ありがたう、もう、すつかりよろしいのよ。」
 う云つて、クリツシイまちの方へ金糸きんしの光る手提サツクを手にしながら行つて仕舞しまつた。月明りで見たのだが、こんなに盛装した、またこんなに美しく化粧した、こんなに得意さうなキキイを見たのはその晩が初めであつた。
 附け足して置く。夏の初めであつた。食事のあとで名の話が出て、キキイが
「ヨサノは伊太利イタリイ人のやうな名ですね。」
 とおれの名を云つた。おれは無邪気な冗戯じやうだんつもりで、
「キキイは猿のき声だ、日本では。」
 と云つたら、キキイは何時いつになく気色けしきを変へて、
「わたしの真実ほんとうの名はCHESANNEシユザンヌです。」
 と云つたことがある。其れが真実ほんとうで、キキイはシユルノムかも知れない。


未来派フユチユリストの芸術



 欧洲の芸術界に最も新しい傾向を何かと言へば未来派フユチユリスト勃興ぼつこうである。これは三四年ぜん伊太利イタリイの詩人画家の一団が未来主義フユチユリズムを唱へ出して以来の新運動である。その宣言書の一条に「予等は狂人と呼ばるることを最上の光栄とす」と云つて居る位であるから、万事を昨日きのふの標準で眺めようとする習癖を脱しかねて居る我我われわれに取つて、彼等未来派の宣言やその芸術が一見奇怪と錯誤とに満ち、正気しやうき沙汰さたと思はれないのも道理であるが、さりとて僕の如きはこの春ベルンハイムで[#「ベルンハイムで」は底本では「ベルン・ハイムで」]開かれた伊太利イタリイの画会を観て以来、この秋のサロンに数室を占めることの寛大を許された仏蘭西フランス未来派の絵画に到るまで、奇怪至極とは思ひながらも、其れに背を向けること難く、ぐつと襟元をつかんで引寄せられるやうな強い魅力を感じると共に、はては我れを忘れて其中そのなかへ突きつて共に顛倒てんだうし共に混迷したいやうな気持になるのはう云ふわけであらう。言ひかへれば前印象派乃至ないしこう印象派の芸術には僕等と共鳴する世界の多いにかゝはらず、なほ越えがたい距離のあるのを覚えて、ロダンの彫刻にしても、セザンヌ、ゴツホ、マチス諸家の絵にしても、僕等の容易に接近し難い天才の世界であるが、未来派の芸術、と言ふよりも未来派の芸術家の生きて居る世界は、やがて又僕等の生きて居る世界であるのを感じるまで、ひたと全人的に共鳴しる様である。
 未来派の人人自身も、の芸術家も、未来派をもつて芸術界の無政府主義者だと考へ、芸術界の猛烈な破壊者であると思惟するやうであるが[#「あるが」は底本では「あるるが」]、僕が見る所では矢張やはり芸術界の当然な推移であり、現代思想の大河だいがに波を揚げる一脈のながれに外ならないと思ふ。
 立体派キユビストの絵がセザンヌの芸術に負ふ所多くして、従つて印象派の芸術が立体派キユビストいつ分科したものだと見るのが至当である如く、未来派の絵もまた印象を張大ちやうだいする点に於てもとより印象派の別運動であり、其れに立体派キユビスト[#「立体派の」は底本では「主体派の」]手法テクニツクを大胆に採用して居るし、また動的の材題のみを極端に描くことを特色とするのは、ロダンの彫刻や、※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルハアレンの詩の動的芸術を徹底させたものと見るべきである。ことに近頃の未来派は流動を力説りよくせつするベルグソンの哲学に刺激せられた所が多いと云はれて居る。
 未来派の絵の特色は種種しゆ/″\あるが、一刹那いつせつなに幾多の印象が「併存」し、「連続」し、「混融」し、「反撥」し、つ「乱迷」して流動しつつあることを画布の上に再現しようとするのが其一そのいつである。従つてその絵は万花鏡ばんくわきやうのぞく如く、活動写真を観たあとの心象の如く、大顕微鏡下に水中の有機体をけみする如く、雑多な印象が剪綵せんさいせられずに其儘そのまゝ並べられて居るが、印象にはおのづから強弱と明暗があるから、画家が故意に求めずして一幀いつてうの上に核心となる印象と縁暈えんくんとなる印象とが出来て居る。しかその核心となるものが決して在来の絵で云ふ中心でも、主題でもなく、其れが全体の調和を引緊ひきしめて居るのでもない。要するに、在来の意味で云ふ調和を度外視して、雑然と混乱し分裂して居る動的生命の印象を誇示しようとするのが今日けふまでの未来派の絵である。
 其れは未来派の音楽につて最もよくこの派の思想を味解することが出来ると云ふことである。僕はこの派の音楽を聴く機会をまだ得ないが、評判にると、不協音をもつて新音楽を建設しようとするのがこの派の主張であつて、その音楽はあらゆる猛獣と鷙鳥してう[#ルビの「してう」は底本では「しゆてう」]類と、飛行機を初めあらゆる近世の科学が生んだ器械や発動機とを、同時に鳴かせ、えさせ、うならせ、きしらせた如きものであると云ふ。これ等の騒音の大集団が現在及び未来にわたる我等の生活を象徴し、鼓舞し、創造する音楽であり、我等の生活の伴奏となる音楽であると主張するのである。なほこの派のをどりも奇抜ださうである。
 僕等は古今の天才の芸術にあこがれる。希臘ギリシヤ羅馬ロオマの昔から、アンゼロ、ラフワエル、チチアノ、ダ・※[#濁点付き井、379-1]ンチ等の[#「ダ・※[#濁点付き井、379-1]ンチ等の」は底本では「ダ※[#濁点付き井、379-1]ンチ等の」]伊太利イタリイルネツサンスの芸術、グレコ、ベラスケス等の西班牙スペイン派、レンブラン、リユウバンス、ダイク等の[#「ダイク等の」はママ]和蘭陀ヲランダ派及びフラマン派、マネ以下の仏蘭西フランス近代の印象派、それ等天才の芸術が地上にあるのは、常に僕等の生活に新しい元気エツサンスもたらすものである。その意味に於て我も人も古今の天才に帰依する。しかし僕等を最も力ける芸術は、僕等と同じ時代に、僕等と共にくるしみ、共に※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36) もがいて、最もよく現代を領解し、最もよく未来を見越した芸術家に期待せねばならぬ。不協音の芸術、混乱妄動まうどうの芸術、僕が刻下こくかの生活はより多くこの末来派の思想に傾倒せざるを得ない。なぜなら僕の生活は分裂して居る。中心もない、調和はもとよりない、右往左往に妄動まうどうを続けて居る。盲目めくらではなく、眼はいて居ながら周囲と混融し、あるひは反発し合つて妄動まうどうして居る。未来派の絵はやがて僕の世界なのである。
 けれど又、未来派の絵をこの様に解釈するのは僕の得手勝手かも知れない。末来派の絵は僕の生活のやうにみすぼらしくない、弱くない、疲れて居ない。その絵は力に満ちて居る。猛烈な鮮新フレツシユな力の妄動まうどうである。其れに対すると僕までが血をわかし、肉が引緊ひきしまる程に力強さを覚える。果して僕にも其れだけ活力※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)タリテ[#「ルビの「※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)タリテ」は底本では「※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)リリテ」]があるか、うか。矢張やはり未来派も僕と一緒にされない新しい天才の芸術か。
 末来派の詩について少し書かう。その主領とも云ふべきは伊太利イタリイミラノの詩人マリネツティイ氏で、その同派の詩人にはアルトマレ、ベテュダ、ビツッティ、カバックシオリ、ダルバ、フォルゴレ、ゴ※(濁点付き片仮名ヲ、1-7-85)ンニイ、フロンティニイ、バラッチェッシイ等の伊太利イタリイ詩人があつて、既に多くの詩集が出て居る。マリネッティイ氏はミラノで機関雑誌「ポエジア」を出して居るが、巴里パリイへ来ては仏蘭西フランス語で詩を作り、ポオル・フォオル氏の雑誌「詩と散文」などに稿を寄せる。氏の崇拝者は欧洲の諸国にわたつて漸次ぜんじ増加してく様である。巴里パリイでは※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ランティイヌ・ド・サンポワン女史が氏の高弟と称すべきぢよ詩人である。
 この派の詩の根調こんてうとなるものは新英雄主義ヌウボウ・ヒロイズムである[#「新英雄主義ヌウボウ・ヒロイズムである」は底本では「新英・雄主義ヌウボウヒロイズムである」]。また活動主義である。いつはニイチエなどの感化、いつ※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルハアレンなどの影響であらう。その題材に飛行機、自動車、砲兵工廠、戦争などを喜んで用ひ、推進機の音、発動機の爆発、砲丸の炸裂、自動車の躍進などを歌つて活動的生活を讃美するのはベルグソンとき方が似て居る。その女性を攻撃するのも弱者を蹂躙じうりんするニイチエズムに外ならない。またその詩中に雑多な印象の並存と混乱とを許するのは従来の自由詩を徹底させたものであつて、この派の絵や音楽と同じき方である。そしてなほその詩中に砲丸や、飛行機や、あらゆる器械の音、工場の騒音などが聞かれるのは、※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルハアレンの詩が近世の鋼鉄で出来た器械の壮大なおとに富んで居るのを更に押し進めたものだとも見られる。
 マリネツティイ氏等はいはゆる新理想主義者の急先鋒なのであらう。しかし同じ未来派でも、僕は絵に於る如き親しみをもつて氏等の詩に同感することは出来ない。まだ氏等の詩を多く読んだのでも無いから僕の判断が間違つて居るかも知れないが、[#「、」は底本では「、、」]今日けふまでの所では、読む時にはなり引入れられるやうであるけれど、読み終つたあとでは何だか縁どほい世界の消息の気がするし、多少の反感さへ残るやうである。マリネッティイ氏等は余りに英雄主義者である、余りに天才気取きどりである。
 マリネッティイ氏は近頃更に新しい詩体を案出して発表した。其れは、従来の詩は甚だ其の叙し方が冗漫だ、一刻を争ひ寸陰ををしむ現代人にその様な手ぬるい形式をつて居る事は作者も読者も堪へ得ない事だ、今日こんにちなほ従来の[#「従来の」は底本では「従来しようらいの」]文法を守つて居るのは馬鹿の骨頂こつちあうだと云ふ主張から、氏の詩は文典を一切排斥するのみならず、氏の語彙の中には一切の冠詞、前置詞は愚かな事、一切の副詞、感嘆詞、動詞、代名詞、形容詞を採用しない、たゞ名詞と熟語及び数字だけが保留される。其れから一切の句読くどく其他そのたの記号をも排斥するかはりに代数学の符号があらたに採用され、ぎやうれんわかつのも不経済だとあつてれんの場合だけに約一すんばかり字間をけ、其他そのたは散文の如くに続けて書く。又きまつた綴音シラブルも脚韻も顧慮しないかはりにしきりに頭韻法を繰返す。氏はみづか未来派フユチユリストの天才であると公言し、古臭い詩風の破壊を敢てした事を光栄とすると言つて居る。僕は氏がみづから傑作なりとして世に出した「戦争」と題する長篇の中の一れんを見本として紹介する。
前衛:300メエトル 附け剣 前へ 大道だいだう 散兵 熱心 激励 群馬ぐんば わき うなじ 褐色 銅色どうしよく 気息いきづかひ プラス 背嚢はいなう 30キロ 警戒=大秤量機ひやうりやうき 鉄屑 貯金づつ 怯儒きよだ:3戦慄 号令 石 熱狂 敵 誘導物 敏捷 名誉
 このれんは敵の接近したのを見て司令官がわが隊を激励する光景を叙した物だと云ふが、数学者に判断して貰つても一寸ちよつとわかりさうにない。以前電報体と云ふ詩体を考へ出した詩人のあつた事を聞いたが、名詞を並べる所から見るとマリネツティイ氏の発明もその電報体から暗示を得たものであらうか。絵具を画板パレツトで練らずになまな色のまま並べようとする画家の技巧テクニツクにも似て居るやうであるが、これは無理な試みであらう。(十月三日)


オテル・スフロオから



 十月一じつからモンマルトルの下宿を引払つて再びパンテオンに近いオテル・スフロオに移つた。間もなく伊太利イタリイへ出掛けるつもりだから、荷物の預け場所にと思つて四階の狭い部屋をえらんだが、下の部屋よりも明るいのは儲け物である。三がいの一室に土屋工学士が居る。その下の僕が巴里パリイへ着いた初めに居た一室に槇田まきた中尉が居る。近頃は近所のリユウ・デ・ゼコルに住んで居る内藤理学士とすつかり気の合ふ友人になつて仕舞しまつた。内藤とよく街をぶらつく。一緒によく仏蘭西フランス人を訪問する。よくレスタウランへも珈琲店キヤツフエへも一緒にく。
 モンマルトルのピオレエの家へ洗濯料を払はずに来たことに気が附いて持つて行つたら、細君のブランシユが寝台ねだいの下からこれが見附かつたと云つて晶子のつかつてた絵具箱を渡してれた。馬車の中に置き忘れたのだらうと思つてた物が出たので、僕もふと絵具いじりがして見たくなつて、この頃はホテルの窓でがあると林檎りんご撫子なでしこいて居る。山本かなへがホテルの湯にはひりに[#「入りに」は底本では「入り」]来ては真面目まじめ手解てほどきをしてれる。
 秋のサロンがグラン・パレエに開かれて居る。菊の花の競進会も同じ画堂ぐわだうの一室を占めて居る。これを観ると日本の菊作りは最早もはや顔色がんしよくが無い気がする。欧洲の園芸家は科学的知識と美的趣味とを応用して、我等日本人の夢にも想ひ及ばない形と色とを備へた見事な花を咲かせて居る。形はおほむ手毬てまりの様に円く大きく盛上り、色はかはつた種種しゆ/″\複色ふくしよくを出して、中にはえた緑青ろくしやう色をした物さへある。すべて鉢植でなく切花きりばな硝子罎がらすびんに挿して陳列して居る。菊と一緒に果物の競進会も開かれて居るが、すもゝより大きい葡萄ぶだうのあるのは日本の子供に見せたい。
 秋のサロンでづ僕の注意を惹くのは、展覧会むきの大きな絵よりも建築と室内装飾との見本の幾つかである。コバルトと赤と薄黄うすきの三しよくで濃厚な中に沈静なおもむきを出した「菊と薔薇ばら」が最も気に入つた。其間そのまに属した小さな控室に一鵬斎ほうさいの美人絵が薄あかりてらされて二枚かゝつて居るのも好い取合とりあはせである。一体にの建築にも多少支那及び日本の匂ひがする。庭園の隅の休憩所に擬した物に壁へ鍵の手に狐格子きつねがうしめぐらしその上に刷硝子すりがらす角行灯かくあんどうを掛けて中に電灯をけ、その前に一脚の長椅子を据ゑて周囲にあかい小菊を植ゑたのなどが其れだ。すべてをキユビズムでつた書斎も悪くない。この画風が装飾的にのみ意義と効果のある事がます/\うなづかれる。その次には織物や刺繍の図案が目を引く。いづれも派手はでと濃厚とを極めた奇抜なおほ模様で我国の桃山式を聯想れんさうせしめる物ばかりである。それ等の図案のもとそれ等を応用した織物や刺繍が併せて陳列されて居るのは効果を鮮明にして居て好い。絵の部は余りに無鑑別に沢山たくさん並べてある為か、又は僕の目が巴里パリイの絵に慣れて仕舞しまつた為か、かく感服すべき物に乏しい。展覧会むきかれた大幅たいふくの前には日本のそれ等と同じく人だかりがする。僕にはマチスの婦人肖像一枚が水際つて光を放つてる気がする外、※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン・ドンゲンの「鳩」と「海」との二ていが奇抜な装飾画として興味を惹く。其れから仏蘭西フランスの未来派が数室を占めて居るのは、大分だいぶん世間の批難があるらしいけれど、僕はその奇怪を極めた画面に苦しめられながらも、なほ何となくその新しい力に引附けられるのを感じる。ただいづれかと云ふと僕はこの春の伊太利イタリイの未来派の絵の方に余計に同感せられる。仏蘭西フランスの其れは画家の詩でも音楽でもなく、画家の印象をさまして装飾画化してく嫌ひのあるのを不満に思ふ。余りに立体派キユビスト技巧テクニツクを採用し過ぎたせいかも知れない。近代の諸大家だいかの人物画を集めた参考室の中に一八八〇年代のルノワアルの婦人像が一枚目に附く。しかその近作に新しい興味を覚え出した僕に取つて其れは物足りない。
 僕は大分だいぶん巴里パリイに慣れて仕舞しまつた気がするが、何時いつも飽くことを知らないのはジユラン・リユイル氏の本邸へ印象派諸大家たいけの絵を観にくのと、芝居と、サン・クルウの森の散歩とだ。サン・クルウは森その物が四季折折をりをりに面白いばかりで無く、ゆきに機関車づきの旧式な乗合車の二階に乗つて、モネがしば/\いたサン・クルウけうを渡り、帰りに八銭均一の蒸気でセエヌをさかのぼるのも面白い。
 この夏徳永、澤木、晶子と四人で無駄話に気を取られて居ておそろしい雷雨に遇つたのもその森だし、僕が新しく買つた絵具箱を画家然とげて行つたのは好いが、絵を初めた第一日に出来上つた物をアンデパンダンだと同行の小林萬吾に笑はれたのもその森だ。其れから詩人※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルアレン翁が住んで居ると云ふ事もサン・クルウの好きな一つの理由である。翁の新しい詩集「そよぐ麦」には以前の詩集「触手しよくしゆある都会」と反対に作者自身の郊外生活からち得た題目が多い。
 一にち、セエヌ河の秋雨あきさめを観がてら翁をはうと思つて降る中を雨染あまじみのする気持の悪い靴を穿いてサン・クルウへ出掛けたが、落葉おちばし尽した木立こだちの間から石と泥とを混ぜた家家いへいへ白茶しらちやけた壁に真赤まつか蔦紅葉つたもみぢつて居るのはつゞれにしきとでも月並ながら云ひたい景色であつた。雨が降つて居ても快く明るい感じを受けるのは東京の郊外の灰がかつたのとちがふ。ムンツルツウまちの五番地も矢張やはり石と泥とを混ぜた壁の家だ。正面には四階しがいとも御納戸おなんど色と白とで瀟洒あつさりとした模様が施してある。
 裏庭の雑木林が少しの黄色を残して居るのが横手の空地くうちから見えて居た。これが東洋に迄も名を知られた大詩人の寓居であらうとは思はれぬ程、粗末な田舎家ゐなかやである。下の室の窓から季節外れの淡紅とき色の穿いた十七八の娘が首を出して居たので「詩人はられるか」と問ふと「知りません、門番コンシエルジユにお聞きなさい」と甚だ素気すげない返事をする。我が大詩人を知らないとはしからんと同行の内藤理学士にさゝやながら、内にはひつて門番コンシエルジユの婆さんに尋ねると、愛嬌あいけうの好い田舎気質ゐなかかたぎを保つて居る婆さんは、夏の旅行から引続いてだ詩人の帰つて来ない事を告げた。「何時いつお帰りだらう」と問ふと「こんなに曇りがちな寒い季候には何処どこられても面白く無いでせうから二週間以内には屹度きつと帰られるにちがひ無い、うぢやありませんか」と笑ひながら云つた答が面白いので、僕等は詩人についていろんな事を尋ねた。写真で知つて居る詩人の垂下たれさがつた長いひげう白く成つて居るかと云ふ様な事を聞いた。詩人は故郷の白耳義ベルジツクを旅行して居るのである。婆さんは日本のオト大将と島川しまかは少将とを一度めた事があると話したが「オト」はおく間違まちがひかも知れない。この婆さんは「そよぐ麦」の中の「小作女こさくをんな」と云ふ詩に歌はれた人ずきのする快濶くわいくわつな婆さんである。(十月二十日)


火曜日の



 夕方ノエル・ヌエ君が訪ねて来た。貧乏な若い詩人に似合はず何時いつも服の畳目の乱れて居ないのは感心だ。僕が薄暗い部屋の中に居たので、「何かよい瞑想に耽つて居たのを妨げはしなかつたか」と問うたのも謙遜なこの詩人の問ひさうな事だ。「いや、絵具箱を掃除して居たのだ」と僕は云つて電灯をけた。壁に掛けて置いたキユビストの絵を見附けて「あなたは這麼こんな物を好くか」と云ふから、「好きでは無いが、僕は何でも新しく発生した物には多少の同情を持つて居る。つとめて其れに新しい価値を見いださうとする。奇異をもつて人を刺激する所があれば其れも新しい価値の一種でないか」と僕が答へたら、ヌエは苦痛を額のしわに現して「わたしにはわからない絵だ」と云つた。ヌエは内衣嚢うちがくしから白耳義ベルジツクの雑誌に載つた自分の詩の六ペイジをりの抄本を出してこれを読んでれと云つた。日本とちがつて作物さくぶつが印刷されると云ふ事は欧洲の若い文人に取つて容易で無い。して其れで若干なにがしかの報酬をると云ふ事はほとんど不可能である。発行者の厚意からその掲載された雑誌を幾冊か貰ふのが普通で、その雑誌の中の自分の詩の部分の抄本を幾十部か恵まれるのが最も好くむくいられた物だとヌエは語つた。僕は其れを読んだ。わからない文字に出くわす度にヌエはそばから日本の辞書を引いて説明してれた。七篇のうちで「新しい建物に」と云ふ詩は近頃の君の象徴だらうと云つたら、ヌエは淋しさう微笑ほゝゑんでうなづいた。君が前年出した詩集の伊太利イタリイに遊んだ時の諸作に比べると近頃の詩は苦味にがみが加はつて来た。其丈それだけ世間の圧迫を君が感ずる様に成つたのだらうと僕は云つた。
 午後七時に内藤理学士が来た。今夜三人で食事をしようと約束して置いたのであつた。外へ出ると朝から曇つてた空は寒いはげしい吹降ふきぶりに成つて居る。リユクサンブル公園の前まで歩いて馬車に乗つた。途中でヌエはユウゴオやサント・ブウブの[#「サント・ブウブの」は底本では「サントブウブの」]住んで居た家家いへいへをしへてれた。ヌエが厳格な菜食主義者なので巴里パリイ唯一の菜食料理屋レスタウラン・※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ジタリヤンへ行つた。同主義者の男女なんによが大勢食ひに来て居る。独逸ドイツ菜食主義者※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ジタリヤンには肉を食つては成らない病人が多く混じつて居ると聞いて居たが、今夜の此処ここの客に病人らしい者は見当らなかつた。菜食料理と云つてもバタや牛乳を用ひるのだから日本の精進料理と同様には云へないが、黒麦のでたのに牛乳を掛けた物などは内藤も僕もすくなからず閉口した。だ何かの野菜の太い根を日本の風呂ふきの様にした物だけが気につた。酒も酒精アルコホル[#ルビの「アルコホル」は底本では「アルコネル」]を抜いた変な味の麦酒ビイルが出た。這麼こんな物を食つて一人前にんまへ五フラン以上払はされたのを見ると菜食料理は倹約になる訳で無い。この家の入口いりくちの右手は本屋に成つて居て諸国の菜食主義※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ジタリズムの出版物ばかりを並べて居た。
 食後、僕等はこれからクロツスリイ・ド・リラの火曜会へつもりだと云つたら、ヌエが詩人等の集まるのは九時だから其れ迄の時をわたしの下宿で費してはうだと云ふのでその言葉に従つた。度度たびたび傘を紛失ふんじつして買ふのもしやくだと云つて居る内藤は僕の傘の中へはひつて歩いた。自動車にでも乗らうと云つたが、謙遜なヌエは近い所だと云つて聞かなかつた。ラスパイユの通りへ出た。Aの字形じがたに間口を引込ひつこめて建てた大きな家をヌエは指さして、あの妙な恰好かつかふの家の理由を知つて居るかと問ふた。何時いつも変な建物だと思つて見て通るばかりだと内藤が云ふと、以前まだ此辺このへん[#ルビの「このへん」は底本では「これへん」]が森であつた時分にユウゴオが此処ここに住んで居た。あの家の前にくねつて立つて居る木はユウゴオが手づから植ゑたのだ。あの一本の木をもとの位置のまゝ保存する為に這麼形こんなかたちの家を建てたのだとヌエが云つた。髑髏洞カタコンブの手前の獅子の銅像のあるところまで来た時、あの獅子の体が雨に濡れて居るのは油を掛けた様だとヌエが云つたので、流石さすがに詩人の観察だと数学者の内藤が感心して居た。其処そこから左へ折れて巴里パリイ天文台のそばのヌエの下宿の三階へのぼつた。
 若い詩人はその粗末な小さな部屋を小綺麗こぎれいに片けて居た。一つしか無い窓を開けると小路こうぢを隔てて塀の高い監獄の構内をぐ見おろすのである。妙なところに住んでるね。朝夕に囚人を見おろすのは残酷だと云つたら、皆自分の影だ、成るべくその窓の方へ寄らない様にして居る。しかし今時分あの監獄の黒い窓やまばらな灯火ともしびを見るのは好い。其処そこ沢山たくさんの人の慰安と平和がある。かへつて自分には彼等の様な穏かなねむりが無い、夜も生活の資をる為に働かねば成らないからとヌエは云つた。
 ヌエは三ぱうの壁に書棚を掛けて、其れをクラシツクと現代大家たいかの作と自分と同じ程の青年作家の物とに区別して居る。寝台ねだいの外に一つの卓と三脚の椅子とを除けばこれ等の書棚がヌエのたつとい家財のすべてである。僕がほとんど若い作家の詩のみに留意して居る事を知つて居るヌエは、一方の書棚の前に立つて洋灯ランプを左の手でてらながら、それ等の若い詩人の詩集をいて一一の作者の特長や詩の題目及び傾向を簡潔に聞かせてれた。中にもレオ・ラルゲエやエル・メルシイやジユル・ロオマン等をめた。ロオマンの「群集年活ラ・※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)イ・ウナニムは世人に顧みられないで絶滅に成つて居るが[#「居るが」は底本では「居るか」]この若い詩人は劇場、珈琲店キヤツフエ、競馬場、寄席よせ、音楽堂、市場いちばと云つた風の題目を好み、多数人の群居した心理を歌ふ。「壁をてつした生活」と云ふ詩には巴里パリイの夜の街のどの家の壁も作者の前に無くなつて各人の心持が大音楽の様にきこえる光景を歌つて居る。其れから與謝野夫人に見せたかつたのはエレンヌ・リセルとエミル・アルネルとこの二人のぢよ詩人の詩集だなどとヌエは云つた。これ等青年詩人の詩で多数の若い詩人の間に愛誦せられる物も稀にあるが、大抵は世に知られずに古本屋のくらの隅に葬られて仕舞しまふ運命をつて居る。しかし黄金は砂中しやちゆうに在つて人間の手に触れない方が黄金の質をけがさないで好い。詩は詩人の心に生きてさへ居れば満足であらうとヌエはつけ足した。僕は心の中で詩のさかんで無い国に生れた日本の詩人を幸福だと思つた。仏蘭西フランスなどに在つては何かの機会で世にあらはれた詩人の下積したづみに成つて、おいも若きも多数の作家はまつたうかぶ瀬を失ひ、勢ひヌエの様に諦めを附けてひとりを楽しむ外は無いのである。
 僕等は今夜うして夜どほしでも話して居たい気持に成つた。しかしヌエが何か夜業やげふをする妨げをしては好くないと思ひ、又火曜会も一寸ちよつとのぞいて見たかつたのでこの下宿を辞さうとしたが、平生いつもから淋しさうなヌエがことに今夜は一層淋しさうに見えたから、僕は一人残して置かれない気に成つて、君も僕等と一緒にリラへかないかと云つた。う云ふ会合に加はることをヌエがかないことを知つて居る僕等はヌエが多分当惑するだらうと思つたら、わたしは多くの時をたないが一寸ちよつとなら行つても好いと云つた。雨の中を又歩いてリラへ来た。
 其処そこにはもう大分だいぶん詩人が集まつて居た。ポォル・フォォルの夫人が令嬢をれて奥の方に来て居た。
 夫人の左には詩の評をする某夫人、右には二十はたち前後のぢよ詩人が三四人並んで居た。僕のあとから日本でなら小山内おさない兄妹きやうだいと云つた様な若い詩人が妹の手を取つてはひつて来た。どの文人も皆最初にフォォル夫人に挨拶して握手した。幸ひ夫人に近い場所に一卓が空いて居たので僕等三人は其れを囲んだ。詩人に交際のすくない、いなむしろ交際を避けて居るヌエはたれとも握手をしなかつた。皆思ひ思ひに好む飲料のさかづきを前に据ゑて雑談にふけつて居る。しばらくして気が附いたがやゝ離れたあとの卓に滿谷、徳永、小柴こしば、柚木、などの画家が食後の珈琲キヤツフエを取りに来て居たので僕が挨拶に行つたらう立上つて帰る所であつた。一人の若い詩人がはひつて来て僕の隣へ坐つた。その男をヌエは知つて居てたがひに手を握つた。その男と内田庵氏の様な風采ふうさいちゆう老人とがしきりに稿料の話をして、ちゆう老人は誰が何を書いて幾百フラン儲けたと云ふ様な事を細細こま/″\と話して居たが、あとで聞けばそのちゆう老人は文学雑誌フワランジユの主筆であつた。
 ポォル・フォォル氏が遅れて遺つて来た。僕はこの人の詩を読まないが散文詩ばかりを書いて近年巴里パリイの若い詩人の人気を一身に集めて居る大家たいかだ。この夏詩人王に選挙せられたが、真面目まじめな選挙で無いと云ふ批難を少数の識者から受けて居る。今夜の会にあつまつた若い詩人は大抵この人の崇拝者である。四十五六歳のはずだが三十五六にしか見えない若い男だ。黒い髪を長く垂れてそり身に成つて気取つた物言ものいひをする。場内を卓から卓へ軽卒あわたゞしく歩き廻つて何人なにびとにも愛嬌あいけう振撤ふりまくのを見ると其れが人気者たる所以ゆゑんであらう。僕がこの人と物を言ふのは今夜が初めで多分又同時に最後であらう。僕が持合せた紹介状を出すと「おおれは※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)レツト君の手跡しゆせきだ、中を見ないでもわかつて居る」とフォォル氏が云つた。彼と握手をする時うした機会はずみか僕の足が老人と話して居た若い詩人の卓の下に引掛ひきかゝつて[#「引掛ひきかゝつて」は底本では「引掛ひきかゝて」]その上のさかづきが高い音を立ててひつくりかへつた。その音に場内の視線は皆僕にあつまつたが、たれ一人顔や声に出して笑ふ者の無かつたのは感心だ。過失を僕も若い男に謝したがヌエも僕の為に謝してれた。フォォル氏はいろんな文人を僕に引合せた。其中そのなかにバルザツクの旧宅を保管して居ると云ふ老人は内藤鳴雪めいせつ翁そつくりの顔をして居た。フォォル氏は僕に名刺をれると云つて夫人と一緒に探して居たが、やつと一枚服の衣嚢かくし何処どこからか見附みつけ出してしわを直しながれたのは黄色く成つたふる名刺であつた。僕はこの名刺の古茶けたのを受取つて、矢張やはり詩人らしい無頓着な所があると思つた。十二時を過ぎると例の自作の朗読などが始まるのだが、僕は風邪かぜの気味を覚えたのと、ヌエが不愉快を忍んでつき合つて居てれるのが気の毒なのとで内藤を促して帰つて来た。(十月二十八日)


平野丸より良人をつとに(晶子)

[#「平野丸より良人に(晶子)」は底本では「平野丸より良人に」]

(一)


 みづか穿うがちてりし白き墓穴はかあなよりふみまゐらせさふらふおん別れ致してみづからを忘れりしに船は動きめしにさふらふわたくしの気附きさふらひしもまこと一二時間ののちさふらひけん。されば必ず見よと云ひ給ひし狭き港口かうこうづる大船おほふねの運転士の手際も知らず過ごしさふらふ。南仏蘭西フランス海辺うみべに立てる木のすくなき山を船室の窓より見ながら、私はいかなる思ひをか致しさふらひし。そは今書かずさふらふ。千きんおもりこの日より我胸を押すとたゞ知り給へ。昼前ベツカ夫人に誘はれ私は甲板かふばんに出でてとう椅子の上の一人ひとりとなり申しさふらふ。安達様夫婦もかたはらにて書見しよけんなど遊ばしられさふらふ。十二時に近き頃より波の起伏おきふしのせはしくおどろしくなり申しさふらひしか、食事に参るとて安達夫人私の手をとりて甲板かふばんをおおろし下されさふらふ。食堂にさふらひしに我卓の長者三重みへ機関長の君、奥様のお強きことよ、されどこはいまだ少しの暴風しけなりと申されさふらふ。実は私は返事申し上ぐるさへ能はぬばかりに船暈せんうんを覚えりしにさふらへば、その時前に運ばれし[#「運ばれし」は底本では「運はれし」]キヤベツの料理を少し戴きしまま、失礼致すべしとて船室に帰り申しさふらふ。眠りしと覚えて目覚めさふらふ頃、船は二丈に近くたてに揺れり申しさふらひき。なほ一つの上の甲板かふばんを越ゆる浪の音、荷を棄つる用に立働く水夫の声も聞き馴れぬものにて、いかに心細くさふらひけん。三時の喫茶きつさの時にはもとより、ゆふべの卓にも私はで得ずさふらひき。船のドクトル佐藤の君、いかにとて訪ね給ひ、我が室の前の廊など海水のりて流るる事一尺に余り、帰りも得ずなど云ひ給ひ、今日けふの食堂の淋しかりしことよ、女にてはカトリツク派の尼君あまぎみ三人みたりの中の一人ひとりが居給ふを見しのみなどとも語られさふらふ。先の程波浪はらうの中に投げられしはかかる際に危険なりとせらるる硫酸のたぐひなりと云ふ事もこの時に知り申しさふらふ赤塚あかつかドクトルも見舞に見え給ひしかどおん顔をわづかに見参らせしのみ、御身体おんからだはセルロイドの上かろく足重く作られし人形のさまして戸口より帰らせ給ふを気の毒に見申せしにさふらふ。私はこの氷を頂きていささかの眠りを求めさふらひき。またのあかつきより波風なみかぜややぎしを覚え申しさふらふ。この日も終日私は船室をでず、夕飯ゆふはんの時からうじて食堂に参りさふらひしが、何ばかりの物も取らず人目醜きことと恥しく思ひ申しさふらひき。たゞ明日あす夜明よあけにシシリイ島、エトナの火の山などの見えんと云ふ話を得て船室へ帰り申しさふらひしに、赤塚氏おでになりしかば、いろいろ昨日きのふよりの事を問ひ問はれ致しさふらふ。ミユンヘン、ヰインの話をなほのち長き事として糸口いとぐちばかり語りりしも此夜このよさふらふ巴里パリイ此処ここださばかり時の掛け隔つまじと思ひさふらものからいとど悲しく、居給ふの中を心はいくたび歩みさふらひけん。足音などあるひ[#ルビの「あるひ」は底本では「ある」]は聞き給ひけん。もすがら眠らず、前の甲板かふばんの朝掃除の音をそれと聞きしのち、私は火の山見るべく甲板かふばんのぼさふらふたれにも逢はず、雨しきりに降り、風にしぶきて目もくまじく散りきたさふらへば、縮緬ちりめんの上着の袖またたくにみにくく縮み申してさふらふ。島も山もほのかなる青をするのみ。けむりかと思ひなしに思ふべきものもなきに失望致し申しさふらふ。帰りてまたとこの中にり申しさふらひしが、うつらうつらと致しりて給仕が運び参りし時、悩ましきつむりを上げ申しさふらふ。ささふらへど紅茶ならで番茶に梅干を添へたる給仕の心入れはうれしと思はれさふらふ。なほ聞けば、この梅干は給仕が自身の母の持たせししななるよしさふらふ。この少女をとめ鈴木と云ふ名なるよしにさふらふ厨夫長ちうふちやう見舞に見え、かゆを召し給はばいかになど云はれしかば、今日の昼より鶏卵たまごとそれをもらふ事に致しさふらふ。ささふらへど私の取り得べき量を十倍もしたるばかりのかゆを白き平たき皿に盛りて鈴木の参りし時はあきれ申しさふらふ。午後赤塚氏の診察を受け申しさふらふ。脈の昂進こうしんれる外にさばかり憂ふべき所もなしと語られさふらひしかば心やすくなり申しさふらふ。君もうれしとし給はんなど、昨日きのふ一昨日をととひわがさま知り給ふならねど思はれ申しさふらふゆふべかゆを乞ひ申しさふらふ四日よつか目は朝より甲板かふばんさふらひき。伊太利亜イタリアの山の色の美しきを見つつ、かの国を君と見歩くゆかりの無くやはありける。魔にみいられたる人よ、生命いのちはるかなるあたりに置き、故郷ふるさとへ急ぐ船にあるよなど思ひ、りやうの袖を胸の上に合せて、そこはかとなく歩みさふらふに、寒色かんしよくの波におもてはとどまる知らぬ涙を私に流さしめ申しさふらふゆふべまでたゞく思ひ、りて赤塚氏の来給ひし時、船の余りに苦しければポオト・サイドの港にる日我や下船すべきなど浅はかなる訴へを致しさふらひき。私の心は其処そこに君を呼びまゐらせて再び巴里パリイの家に伴はれんと思へるにてさふらひけん。初めてこの入浴致しさふらふ身内みうち拭ひる時、前の窓より外なる波に月光のひたひたと宿れるさまを見さふらふては、さすがに今あるさかひの面白からざるにもあらず、絵の中のおのれかなど月並なる事をも思ふ程にてさふらひき。君が眠り得ぬ夜のために飲むべく云ひ置き給へりしベルモツトはさすがに舌なれぬ心地、だ知らぬゑひの案ぜられも致され、赤の葡萄酒をべに色のカツプに一つつがせてのちとこよこたはりさふらふ。子の上にかゝき夢より醒めさふらひしは二三時の頃にさふらひけん、月あか水色みづいろの船室をてらり申しさふらひき。翌日甲板かんぱんで申しさふらふに、明日あすはポオト・サイドに着く日なりとてたれおもてにもすくなからぬ色の動くを知り申しさふらふ彼処かしこにて恋人のふみる人もあるべしなど、あやにくなることの思はれさふらて、ふと涙こぼさふらふなど、いかにもいかにも不覚なるわたくしさふらふ。さるはこの船の客人まろうどの中に花嫁となり給ふために海渡る人六人むたりありと云ふことを三重の君語り給ひしを知ればにもさふらふべし。食事は邦人のコツクの手になる日本料理をこの日より船室に配らせさふらふ。安達夫人と共に船ばたに立ちさふらひしに、夕映ゆふはえの際立ちてきらやかに美しく見え申してさふらへば、その奥なるアフリカのりくも思ひ遺られて微笑ほゝゑまれも致しさふらひし。夜は舳先へさきに見る月の清らなること昨日きのふに異らずさふらふ。ベツカ夫人鈴子すゞこの君の愛子まなご、マリイ、エヂツ、アンネスト、エレクの君達皆私に馴れ給ひ、就眠の際の挨拶をも受け申しさふらふ母君はゝぎみにキスしてき給ふ愛らしさ、傍目わきめにも子を持たぬ人の覚えあたはぬ快さを覚え申しさふらふ巴里パリイとははや三時間も時の違ひさふらふらん。味気あぢきなくさふらふかな。我髪梳きて口そそぎ枕に就きさふらふとき、君はいまだカンパン・プルミエにある人人の画室に語り興じ給ふらん、あるはパンテオンのキヤツフエに寒ければとてアメリカンなど飲みて給ふらん、ピガルの広場の前の例の家の伊太利亜少女イタリアをとめの楽人にや聞きほれて給ふらん。※[#濁点付き井、405-7]クトル・マツセの三がいの暗き梯子をたどりあがりて、部屋をひらき、手さぐりにダルメツトとりつつを点じ給ひてのちも、光及ばぬ隅の暗さを見入りて我をや切に恋ひ給ふらん。二十七日の十時に船はポオト・サイド港にり申しさふらひき。暑気にはかに加はり、薄き単衣ひとへ[#ルビの「ひとへ」は底本では「ひとひ」]となりて甲板かふばんさふらへど堪へ難くもさふらふかな。安達夫婦、富谷とみたに判事、山崎大尉の君、赤塚ドクトル達、皆船を雇ひてかれさふらふ。私にも同行をお勧め下されしにさふらへど、心進まづしてとゞまりしにさふらふ。船に来る商人あきびとの荷をベツカの君と見歩きさふらひしが、鈴木に掛け合はさせ、ぬひ入れの壁掛二枚を買ひ申しさふらふ。一つはクレオパトラと思はるる女王ぢよわうと男とが一じゆもとに空を仰ぎ居る図、もとより木の上には鳥形とりがた星形ほしがたの形象字あまたあるものにさふらふ。今一つは駱駝らくだに乗りたる武者二人ふたり、馬に乗れる二人ふたり、一つおきに並びて鎗、刀などを振れる形のものにさふらふ。馬は黒く、駱駝らくだは栗色にさふらふ。人の顔もやや薄きと濃きといづれも代赭たいしやにて色少し変へあり申しさふらふ。まことにこの商人あきびとども、石炭積みにきたれる人ども、いづれも皆代赭たいしやならぬ色もなしなどと独り思ひさふらひき。みすまるのたま、もとより硝子がらすさふらふべけれど、美しければ二人の娘のれうに緑と薄紫の二掛ふたかけを求めさふらふ珠数じゆずにして朝にゆふべに白き手に打ち揉むにもよろしからん。レモンを日に焼けぬまじなひに買ひ申しさふらへど、おそらく君いまさぬ日にさるたしなみを続けべしと思はれぬさかひさふらふ。手のすぢさうする男も参り、英国の紳士達の前に片膝立てつついみじきうらなひを致すさまも見え申しさふらふ。二シリングとやらのあたひ払はばよきよしなれど、私は恐ろしき事云はれんかと、ありのすさびにも心おびえさふらふて手をすることを惜しみ申しさふらふ。午後いよいよ発※[#「執/れんが」、U+24360、406-13]致し申しさふらふにはかなる[#「にはかなる」は底本では「にはかかなる」]暑さの身につらく覚ゆる故にてさふらふべきなれど、船の動かぬが苦しきならんかなどとも思ひ申しさふらふ。この国の煙草たばこやまひせぬ日にてありなばゆかしくもあらまし、日本人の売子うりこのそを勧めさふらふにも今はうるさくのみ思ひ申しさふらふ。石炭を積むこと終り、上下の甲板かふばんに張られし帆木綿ほもめんの幕取り去られさふらへば少しくむし暑さも直り、銭乞ふむれの船に乗りて楽の立つるなどもやや面白く思はれ申しさふらふ。六時にいかりは抜かれさふらふうれしと思へるはわたくし一人ひとりなるやも知らずさふらふ。ピラミツト形したる塩の山、白き、鼠色、黒になりたるものあるを左右に見つつ、船は運河に進みさふらふ。君も見給ひし所ながら蘆の青やかに美くしくひたる河岸かはぎしに、さまで高からぬ灯火の柱の立てるなど、余りに人気ひとげ近きがばかりの世界のせきとも思はれがたさふらふよ。夜通よどほし河の景色を見つつ起きてあかさんと[#「明さんと」は底本では「明んさと」]云ひ給ふ君も無きにはあらずさふらひしが、私は船の進行すると同時に窓の開かれし船室に帰り、朝よりもてわづらひし※[#「執/れんが」、U+24360、407-11]ある身体からだを横たへ申しさふらふ。赤塚氏例のごと見舞ひ給ひ、今日けふ陸にての買物のしくじりなど真面目まじめに語られさふらふ。この夜中よなかには船の度度たびたびとゞまれるを感じ申しさふらふ。ゆきちがひになる船のためにかさふらひけん。朝まだきそとさふらふに、左右なる砂山に数多あまた鴨の居る如く見えて駱駝らくだの眠り居るが見え申しさふらふ。やや日たけけば、そのけものにうち乗りて往来ゆききするアラビヤ人なども多く見えさふらふ。水色の波砂山の下に目ざむるばかりに見ゆるスエズ港にりて、このふみいだしまゐらせさふらふ

(二)


 かばかりの炎※[#「執/れんが」、U+24360、408-5]だ知らぬ身なりしかなと、日もよるも苦しみ続けさふらふ程は、この航海よ、わが想像のほかなりし世界を歩むよと憎く、甲板かふばんでて浪の起伏おきふしを見さふらふことも悲しく、ベツドの中に朝より読書のみ致して髪もたゞ梳きて根束ねつかぬるばかりのさまにてさふらひき。旋風器せんぷうきの起す風はわが髪のしづくたるる濡髪ぬれがみとなるをすら救はずさふらへば、そのおとの頭に響くおといよ/\うとましく覚え、それもさふらうては身はたゞ[#「執/れんが」、U+24360、408-9]湯の中にあると思はばよからんと心を定め申しさふらふ。さは云へ身の衰へくを思ひさふらふてつかねむりをも得たき願ひに夜は何時いつも氷を頂きてね申しさふらふ。紅海に出でて四日よつか目の夜は睡眠の欲と外囲ぐわいゐの苦しさとに枕持ちて甲板かふばんの籐椅子をとことしにで申しさふらふの一つ二つ残れる広き所に散りぼひたる長椅子の上には、私より先にや三四人の人、白き団扇うちはを稀に動かしつつねむりを求めてあるを見受けさふらふ三十分さんじつぷんもその一人ひとりとなりてありさふらひけん。くらがりの海のものおそろしさも、衰弱のきよくとなれる神経を刺すこと多く、はてはもとの※[#「執/れんが」、U+24360、409-4]湯の中に死なずして目をひらうをとなり申しさふらひき。その頃私が人にうち語りしことに心細き筋多かりしにさふらふべし。明日あすの朝より印度洋のむかひ風吹くと云ひて船員達の喜びて語れる夜のやや更けゆくに、早く私の船室の窓は風を運びさふらふ。いかばかりのうれしさにさふらひけん。翌朝よくてうはわが室づき男女なんによの顔に血の多く見えしは思ひなしにや。運動会、競技の会、この日より続続ぞくぞく行はれ、私もやうやく船内を散歩しまはるやうになり申しさふらふ。後方の下甲板したかふばんには何時いつ二十にじふ四五しごまで越せしと見るばかりのひんよき英国紳士十五六人、四五人づつ横の列つくりて手を取り合ひ足揃へて歩めるを見受けさふらふが、この人達は香港ホンコンへ巡査となりて渡る人と云ふことを赤塚氏より聞きて知り申しさふらふ。大英国はうらやむべき国よなどひそかに思ひ申しさふらふ。この甲板かふばん藁蒲団わらぶとん敷き詰めて角力すまふの催しなどもありしよしにさふらふ。私の室づきの山中は五人抜きの勝利を得しよしさふらふ。大阪生れの者にや梅やんとか云ふ優名やさなを呼ばれる人がと可笑をかしくさふらひき。ボオイの仲間ばかりならず白人の客人まろうども多く負かせしとかにさふらふ。私の見さふらひしは洗濯の競技にて、香港へく若き人達に貴婦人の一部うち交りて、出火の際の水を運ぶ桶に七分の水を入れたると、洗濯石鹸しやぼん一つづつ前へ置き、ボオイが大籠に入れてよごれしタオルを持ちきたるを、目に見分けずうしろへ手をやりてその一つを皆の取れば初めの笛鳴り、中にも紳士はホワイトシヤツの袖口をいとひもあへずしやぶしやぶと洗濯を初めさふらふの厚きタオルなれば、のいひなづけのもとき給ふ中の一人二人ひとりふたりの姫達のために私はいたましき気の致しさふらふ。審判長は鷲鼻わしばなせる英人の大僧正にさふらふ。見る人見らるる人の笑ひ声の中にまた笛鳴りて、ボオイの引ける麻綱の上にタオルはされ申しさふらふ。この競技の審判の陪審官は女の中よりづるよし聞きさふらひしかど、乾きし上にて決ることにさふらへば、私はそのまゝ帰り申しさふらふ。前方の下甲板かふばんには水泳場の設けられありさふらふ。実ははや四五日の前、紅海にりてよりの設備なりしことにもさふらひけん、私は今日けふ迄知らざりしにさふらふ。ベツカの愛女あいぢよマリイの君は黒の水泳服、ヱヂツの君はお納戸なんどの服着て船長に泳ぎを習ひ給ふを見申しさふらふ男女をとこをんなと一時間おきに代るよしにさふらふむかひ風の日になりたりとは申すものの有るは印度洋にさふらふ額髪ひたひがみの湯のしづく落す苦しさも昼と夜に一度づつはめ申しさふらふ。ベツカ夫人、君は寿命のあり給はばコロンボに上陸し給ふやとある日私をふうし給ひさふらふ。心弱き人は醜くもさふらふかな。子を見ん命、君を見ん命のさばかり惜しく歎かるるにてさふらふべし。明後日あさつてコロンボにると云ふ日の夜、音楽会のありとてベツカの君誘ひ給ひたれば、れいは波のおとたゞ聞きふけりて過ぎし日のまぼろしを追ふ頃を、髪上げきぬへて甲板かふばんで申しさふらふに、はや会場の整ひさふらふて、私は招かるるまゝに大使の姪とやらん聞えたるスペインの貴婦人に並びて前列の椅子に着き申しさふらふかざり電気の灯火つねよりも倍したる明るさをもて海のくらがりを破るありさまは、余りなる人の子よと竜神わたつみいからずやなど思ひ申しさふらふ。初めの程のピヤニストのすぐれたれば声曲家せいきよくかは皆いろなく見え申しさふらふ。かの香港ホンコンへ志し給ふ若き人達の中よりも弾手ひきて歌ひ手のかはがはさふらひしは物優しき限りに覚え申しさふらふ。中に至りて大僧正の君立ち給ひ、この程の競技に勝ちたる人人を呼び出すを、そが美しき夫人、一人一人ひとりひとりの手に賞を与へ申しさふらふ一人ひとりにて十四五の賞得しはかの香港ホンコンへの君達の中にてさふらひき。それより後方の甲板かふばん立食場りつしよくじやうは開かれ、案内致されし私は僧正の君の勧めにて、サンドウヰツチ、アイスクリイムなどの馳走を戴きさふらふ。平野をどり舞人まひびとと思はるる黒紋附に白袴しろばかま穿きたるいでたちのボオイ達、こちたく塗れるおしろいの顔、出場でば待遠まちどほげに此方彼方こなたかなたするが、目に変化へんげのものの心地もせられて可笑をかしくさふらひき。遠州灘を夢のにとか云ふやうなる歌に合せる手は誰の附けしか知らず、四人の舞人まひびと二人ふたりづつからみ合ひさふらふりの奇妙さ、顔と顔る注文通りに合はぬ気の毒さ、中に座頭ざがしらと見ゆる端の舞手まひてはわが風呂を世話する男にさふらふなる太鼓三味線のなぐらるる如き音たて申しさふらふこと、倫敦ロンドンの地下の家にて聞きし印度楽インドがくの思はれて独り苦笑致しさふらふ。その帰りてよりまた心地しくなり申しさふらふ。コロンボに着きしは九日こゝのかの朝にさふらひき。木彫きぼりの羅漢達の如き人人船の中を右往左往し、荷上げの音かしましき中へ私はまたよろめきながらさふらふ。窓の皆とざさるる苦しさ、港なる日は船室にあるにもあられぬためにさふらふ。妹のれうにとて宝石二つ三つ求めさふらひしは土地にて名の知られし商人あきびとさふらふやらん、我等を見て日本の大使、公使、だい武官、せう武官、学者、実業家の名刺を数知れず見せさふらふがうるさくさふらひし。はては私のをも乞はれ、与へさふらふに、よき商人あきびとなりと云ふ筋を書けよと重ねて乞はれさふらひしかば、
  この人は何をあきなふ恋人のあかき涙としろき涙と
 と致して逃げいださふらふ此処ここにてもまたふみ得給ふ人多くさふらひき。安達様親戚の君ボンベイより[#「ボンベイより」は底本では「ボンペイより」]来てあり給ふはずなるが、昼すぐるまで船へ見え給はず、夫人の心づかひし給ひしはこの船の一日早く入港せし故とお気の毒に思ひ申しさふらふ。午後はこの君達あらかた留守になり申しさふらふ。残れるはちさき人伴へる婦人達のみ、さあらぬはわたくしの如き病人にさふらふ。スペインの君は幼き人二人ふたりれたる身にて、なほやまひがちに弱げなるをいとほしく何時いつも見てありさふらふ。もつとも支那人のまめまめしき乳母はしたがへるにさふらふ。結婚して六年間に六度むたび海越えて故郷ふるさとを見にくと云ひ給へるを、思ふまゝに事する憎き婦人なりと云ひ合へる男達もあるよしにさふらふ。この君の室はわたくしなどの室よりは一階下の食堂の隣にさふらふ。やや広ければ特別室とせられ、あたひも其れに添ひたるもののよしにさふらへど、機関に近く窓の小さければ、特別は特別に※[#「執/れんが」、U+24360、414-3]き意なりしかなど船員を揶揄やゆしあるを見申しさふらふ。新聞の届きしとて人の見せ給ふを見ればいづれも既に巴里パリイの宿にて読みしものにさふらへば、今更の如く水上すゐじやう日月じつげつなしと覚束なさを歎かれさふらひき。今宵こよい出帆する予定の変りて明日あす未明に碇を抜くよしさふらふ錫蘭セイロンルビイ、錫蘭セイロンダイヤ、エメラルド、見切りて安くあきなはんと云ひつつ客を追ひ歩きさふら商人あきびとは、客室サロンの中にまで満ち申し、ところもあらぬまゝ一隅いちぐうちさく腰掛けれるに、うしろの窓より貴婦人貴婦人レデイレデイと云ふ人人のありさふらふに、見返ればこれも宝のたま安げにざらざらと音させて勧むるむれさふらひき。梛子やしを松と見ればたゞ大磯あたりの心地する海岸のホテルども、夜はがくれのの美しく見え申しさふらふ。赤塚氏は父君ちちぎみへの御土産おんつとに菩提樹の実の珠数玉じゆずだまを買はんと再び船を雇ひてかれさふらふ。夜は暑くるしきとこの中に、西部利亜シベリアの汽車の食堂にありし二十はたちばかりのボオイの露人、六代目菊五郎にいきうつしなりと思へりしに、今日けふ見し荷揚人足の黒人奴くろんぼの中に頭くるくると青くりたりし一人ひとりがまたその六代目の顔してありしことなどを思ひでて可笑をかしがりさふらひき。十日とをかの朝八時頃、※[#「執/れんが」、U+24360、415-6]田丸の此処ここに入港せしと云ふを聞き、私は心ときめき申しさふらふ去年こぞ君の乗り給ひたればとて今その影のとゞまれるならねど、ゆかりはうれしくはた悲しきものにさふらふき違ひたらばとの懸念より新聞など皆新嘉坡シンガポオルに置き来たりしとか、ボオイがの船のことを云ひてあるうちにはや私の船は進行を初めさふらふ。なつかしき船はつひに私の目にらぬものにさふらひき。この日の夕飯は食堂のも日本料理なれば彼処かしこで給へとの人の言葉をそむくも少し憎げなりと思ひさふらふうへ、物ごゝろも進みさふらひけん、私は船にさふらうてのち初めての洋装を致して下へ参りさふらふ。料理は鮪の刺身、照焼の魚、鴫焼しぎやき茄子なす、ひややつこ、薩摩汁などにさふらひき。ささふらへど、この日は浪やや高く、こと昨日きのふより今日けふまで一日一夜いちにちひとよの静止ののちさふらへば、客人まろうど達は船酔ひがちに食事も進まぬやうさふらひき。赤塚氏朝夕二度来給ふこと変らず、独逸ドイツ仏蘭西フランスをかたみにめ合ふ事のみ致し、えいは大国の風ありとのみをよき事にして話より何時いつも遠ざけられさふらふも、こはこのちさき一室のみの事にて、まことは満船の客英人ならぬは敷島のやまとの国を故郷ふるさととして帰る七人と、独逸ドイツ一人ひとり西班牙スペイン一人ひとり仏蘭西フランス人一組の夫婦あるのみにさふらふれも英人なりとほこりかに云ひし黒人くろんぼのドクトルはコロンボにて降りしにさふらふ

(三)


 十月十四の午後の出来事をづ書くべきにさふらはん。その前夜ぜんや私常よりも一層眠りぐるしく、ほとほとと一睡の夢も結びかねて明かせしにさふらふ昼餐ちうざんを運ばれ、服薬を致しなどせしのち何程なにほどの時のにてもなくさふらへど、意地悪き迄の深き眠りに落ちしにさふらふ。目覚めさふらひしは前の甲板かふばん、上の甲板かふばんに起りし騒音の神経を叩きしにてさふらふ。多くの人の足音、まじる声、波ならぬ喞筒ポンプとも覚ゆる水の音、また桶より流す水の音、また例の火事の際の予習の初まりつれ、最上層の甲板かんぱんにてはボオトを降ろすならんなど、寝返りして目のひらきし瞬間にが思ひしはれにてさふらひき。
 急ぎ足にて自室に帰り来給ひし安達氏が、夫人に、
「火事ぞ。」
 と云ひ給ひし声よ、いかばかりの驚怖きやうふを私にも与へさふらひけん、思ひづべくも余りに複雑にさふらふ。されどまた、
「さばかりのものならねど。」
 と続きて云ひ給ふにいさゝか心落ち居候ゐさふらひぬ。この時起き上らんとする心ながら手の一つも私は動かずさふらひき。いかなる際と云ふとも、この部屋にも昼もこもれる女の一人ひとりを忘れ給はぬ人の幾人いくたりかはあるべし。溜息つくうちに、私はく思ひ申しさふらふ。ボオイの松本の顔のあらはれさふらふ
「煙の臭ひうるさしとおぼさずや。」
いな。火は何処いづくにて。」
「右舷の客室サロン。」
「なほ燃えてあるや。」
「今少し。さらば、用おはさば召し給へ。」
 この男のきしのち何時いつの程にか我身の力附きたりと云ふよりも常に倍したる活気を覚えさふらひて、私は手早く身づくろひを致し終りさふらふ
「與謝野の君、火のありと申すなれば、とにかく御身おんみ一つの用意ばしなさせ給へ。」
 安達夫人は静かにとばりそとよりかく云ひ給ひさふらふ紙入かみいれたゞ一つふところに入れて廊下にさふらふに、此処ここ出水でみずのさまに水きかひ、草履穿ざうりばきの足の踏み入れがたく覚えられさふらひしかば、食堂の上の円きてすり一人ひとりもたれしに、安達氏、富谷とみたに氏など来給ひて、や消火しつくしたる如しと仰せられさふらふ。原因は電線の発火にさふらひき。それよりのち二夜ふたよは満船らふの火の光に夜をてらし続けられさふらふ。くらがりの海をそとに漏りがたき弱き火をけて船の進みくさま、昔の遠洋とほやう航海のさまも思はれ申しさふらひき。かかる時船ばたのりんの光の時得顔ときえがほ金光きんくわうを散らしさふらふこと、はためざましくさふらひき。カトリツクの尼君昨夜よべ紐にてりんを釣られしなど語る人もおはしき。の国へ帰りく船と申す如き心地も此夜頃このよごろに深く身に沁みさふらひしか。ピアノの音、蓄音器の声もせず、波のひゞきのみすごげに立ちり申しさふらふ
 公園と植物園にく事、乗物は自動車にする事、同行には船附ふねづきのドクトルの君または赤塚氏にお頼みする事、私も洋装する事など、新嘉坡シンガポウル[#「新嘉坡」は底本では「新坡嘉」]入港と云ふ十六日の朝より、いくたび、小林夫人と大事だいじの如く語り合はれさふらひけん。されどそれも皆夫人が足運び来給はるにて、私はこの日も甲斐なく寝台ねだいに横たはりりしにさふらふ。昼前に久しぶりにてびんにさしぐしする髪に結ひ上げさふらひしは、帽子の留針とめばりのためにさふらふ。鼠色の服を着けさふらて、帽は黒のおほへるをして甲板かんぱんに立ちさふらふに、私を不思議さうのぞかぬはなく、はづかしくさふらひき。いよいよ船の港に進みさふらふに、丸木船漕げる土人多く見え申しさふらふ中に、十二三の子の一人ひとり乗りたるを見て、
「君の如き子よ。」
 と小林氏の子息に私語さゝやき申しさふらふ。光るにたはぶるると覚えて心もうれしくさふらひき。この港に許嫁いひなづけを見給ふ三人みたりの花嫁の君の顔のぞき見ずやと云ふ人のありしはたれさふらひけん。桟橋に船の着きさふらふに出迎への人多く、ほとほと百に余りさふらふ人の一時に船へ進みさふらふつひに花婿の君達もそれと見分け得ずさふらひき。この頃より我心地しくなりさふらひしは陸の※[#「執/れんが」、U+24360、420-5]風ひたと船に迫りきたりし故かとも思ひさふらふ。鈴木を尋ね、預けたる鍵を受取りて部屋にり、私はまた靴のまゝうち臥しることになり申しさふらふ此処ここにて必ずべきものと思ひし家よりの手紙を手にするを得ざりしちから落しも加はりさふらひけん。小林の君、赤塚の君皆あがり給ひさふらふ。四時頃に悩ましさのやや静まりたれば絵の具箱をもちて廊甲板らうかんぱんに座を取りスケツチを一枚いたしさふらふ。たそがれと云ふもののなきあたりとは聞きさふらひしが、絵筆を持てる時とてより強くその感をあぢはさふらふ今日けふより点火されし遊歩甲板かんぱんの電灯の光にて、水色の麻のナフキン、象牙の箸、象牙の櫛など勧めらるるがまゝにあがなひさふらふ初更しよかうの頃、甲板かふばんの長椅子にさふらふに、オルレアンやツウルあたりの野の雛罌粟コクリコの花の盛りの目に見えさふらうて私は泣き申しさふらひき。ひろばかり隔たれるうしろの方に給ひし安達夫人の何事かと歩み寄り給ひしこそ恥しくさふらひしか。
雛罌粟コクリコの盛りの頃にはなほいま一人ひとりして故郷ふるさとを見に帰るべき心ゆめ持たずさふらひき。」
 かく語りし時、の君の御目おんめにも光る露の見え申しさふらふ
明日あす領事の奥村氏が我等を招かんと云ひ給ひしが、曲げてその仲間に加はり給へ。今日けふ逢ひしに君のうへをいとよく知り給へば。」
 と、この時勧められさふらひき。今日けふの如く早くより支度したくせず、静かにその時までなしてなど心に思ひさふらひて、
うれしき事に思ひはべり。」
 と答へまつりさふらふ。夜もすがら前の甲板かふばんに荷を積む音の私を眠らしめずさふらひしが、なほそのあたりに立働く人のうへを思はれぬにさふらはねば腹も立てずさふらひき。翌日は朝より赤塚氏のひ来給ひてさまざまの興ある話を聞かせ給ひさふらふ昨夜よべの散歩に天草あたりよりきたれる哀れなる女達の住める街を通り給ひて、門涼かどすゞみせる二人ふたりの女の故国人ここくじんと見て語りし身の上話などにてさふらひき。
 領事館のあるは市のそとなる山の中にてほぼ三里のみちさふらふ。自動車にありて二十分が程に我眼の見し所のものすべて珍しからぬはなかりしこと、幾多の西の国にもまささふらふ裸体はだかの車夫が引ける武者絵の人力車に相乗あひのりせる裸体人はだかびと、青物市場いちばなどに見る如き土間に売品ばいひんを並べたる商家よ、中形ちゆうがた湯帷巾ゆかたを着たる天草をんなよ、あなさがな、悪きは数へさふらふまじ。焔の木と云へるアカシヤに似たる大木の並木が附けし火の雲、二月の花、三月の花、はた楓の紅葉もみぢの盛りを仮にもあかしと思ひさふらひけん、かばかり積極的なる植物はまだ見知らず、魂を奪はれさふらひき。
 奥村氏の家は青銅いろに塗られしものにて、突出つきだされたる楼上ろうじやう八方はつぱうは支那すだれに囲はれ、一けんけんそれの掲げられたるより、なつかしき雛罌粟ひなげしの色せる絹笠をたる灯火の見ゆるを下より仰ぎ見さふらひし時、いかばかり心をどりさふらひけん。らん近き籐椅子にさふらふに、見渡さるる限りのオレンヂの森、海のやうにて、近き庭には名も知らぬ百花、百花と云ふ字の貧弱なることよ、万花ばんくわとや申しさふらふべき。宿り木、かづらなどにてすくなくも一木ひとぎ五色ごしきの花附けぬはなくさふらへば、実れる木も多く、葉の紅葉もみぢはた雁来紅がんらいこうの色したる棕櫚しゆろに似たる木など目もあやに夕闇に浮び申しさふらひき。夢ごこちなる耳に遠方をちかたの虫の声のきたりしこそ云ふよしもなきなまめかしさを感ぜしめさふらふ。日本食のかずかずのおん料理頂きしよりもなほ主人夫妻の君の私をもてなし給ふ厚さのうれしくさふらひき。帰りさふらふ時、車に乗りし私に、「夫人よ、心強く持ちてあり給へ」など云ひ給ひさふらふ。望まれて書きし歌に君のことの思はずきたりて、ひそかに拭へりし袖の雫や見られさふらひけん。卓にかざられし緋と桃色のホノルルの花を束にして私等女三人をんなさんにんに取らせ給ひさふらふ。新婚し給ひて一月ひとつきとか云ひ給ひし郵船会社支店長某氏の夫人に、
 ホノルルは何を祝ひて咲くやらんこの若き日のいものため
 と書きて贈りしその花にさふらふ。奥村氏の前庭ぜんてい紅木槿垣べにむくげがきひまつはりしもその花にさふらふ。翌日ははやほろほろと船室の中にべにこぼさふらふ。十八日に新嘉坡シンガポウルで、二十三日に香港ホンコンさふらふ迄また私は甲板かふばんのぞかんともせずさふらひき。気候は次第にひやゝかになりセルさへかろきに過ぐる心地するもありさふらふ新嘉坡シンガポウルにて積まれし数数かずかずの※[#「執/れんが」、U+24360、424-6]帯の果物は食事のたびに並べられさふらふ。マンゴスチンと申す茄子なすの如き色形いろかたちせるもの、皮やむくべき、甘き汁を吸ふ事やすると惑ひさふらひしに、鈴木のきたりて、二つにたてに割りて中子なかごさじにて食へと教へ申しさふらふ。これを中中なかなか味よきものと私は覚え申しさふらひき。機関長の君の見舞に見え、欧洲より極東まで寝て通り給ふ君などとふうし給ひさふらふ。大阪の小野氏にこの船中にてしよ対面を遂げんとはゆめ思はざりしことにさふらふ。十二三年前にふみの上のまじはりせし同氏は今新嘉坡シンガポウルより五六十里奥の山にて護謨ゴムの栽培に従事されるよしにさふらふ兄君あにぎみやまひ重ければとて大阪へ帰り給ふ不幸の際にいましけれど何時いつも話多くなり申しさふらひき。初め船のドクトルの君より紹介せんと云ひ給ひし時、同じ姓持つ人、大阪の同じ町にありしが名の変りるにやと云ひさふらひしが、当りしも不思議にさふらふ香港ホンコンの夜のは珠玉なりと君のかねて云ひ給ひしが、この港にさふらひしはゆふべも過ぎし頃にて、甲板かふばんでし私の目は余りのまばゆさにくらまむと致しさふらふ。京の円山を十倍したるやうにほのかに輸廓りんくわくの思はるる山の傾斜のがくれに建てられしやかたどもにともれる青き火、黄なる火、紫の火、さては近き海岸のあかき火など波に映るさまは何人なんびとの想像にかのぼさふらふべき。よる見しにつゆ劣らぬこの山の街の朝の眺めもまたうれしきものにさふらひき。されど支那商人のきたりて真鍮のうつは並べて商ふ、それはまだよし、孔雀の色に何時いつも変らぬ紺青こんじやう青竹色あおたけいろのこちたき色を交へし絹の模様物を左右より見せ附けられさふらふ苦苦にがにがしくさふらひき。赤塚氏など皆云ふ迄もなく上陸し給ひケエブルカアに乗り給ひしよしにさふらふ此処ここにても東京よりのふみは手に致さずさふらひき。書きがたふしの起りつつあるにやあらんなど、思ひさふらひき。かくてやうや明日あすの朝薩摩富士の見ゆべしと云ふ海にきたさふらふ。これにて船中せんちゆうふでとどめ申しさふらふ。かしこ。(十月廿七日)


晶子への書翰しよかん



 雑誌レザンナルの主筆に頼まれて晶子が書いた「仏蘭西フランスに於ける第一印象」についていろんな手紙を受取つた。東帰とうきを急ぐ晶子は第二第三の印象を書く暇も無く匆匆そうそうとして巴里パリイを見捨てたから、その出立後しゆつたつごに受取つたそれ等の手紙の中の二三を訳して晶子へ送る事とする。晶子の批評が仏蘭西フランス中流の婦人に同情してあつた為に、反響はおほむそれ等の階級からおこつたやうである。初めの手紙は仏蘭西フランス女権拡張会の副会頭ブリユンシユ・※[#濁点付き井、427-6]ツク夫人から来た。

(一)


 わたくし種種いろいろの新聞雑誌であなたに関した記事を非常な興味をもつて読みました。其れから私は仏蘭西フランスの婦人にむかつてあなたが甚だ厳格であつた事を苦痛をもつて考察しました。想ふにあなたは我我われわれ同国人について少し早計さうけいに判断なさいましたやうです。勿論巴里パリイへ来られた外国婦人が公衆の間に散在して挑発的の化粧をした流行の人形に対して多く寛容でない事は私にもよく領解せられます。しかしあなたに断言致します、それ等が決して所謂いはゆる仏蘭西フランス婦人でないと云ふ事を。しあなたが我国の精神その物である、真面目まじめな活動的の婦人を知らうとお考へになるならば、あなたがそれ等を何処どこにお見いだしになるかと云ふ事を申上げる事が出来ます。女権論者は我国に存在して居ります。仏蘭西フランス女権拡張会は数千人の会員を有して居ります。夫人よ、私共の要求が何であるかと云ふ事をお知りに成らうとお望みですか。私は喜んであなたに其れを示すの光栄をつでせう。また希望ならば私共の出版物をお送り致しませう。若又もしまたあなたが私のもとにおで下さるならば、私の所持して居る種種いろいろの参考書類によつて私共の勢力如何いかん、私共の組織如何いかん覧に成る事が出来ると存じます。私が日本の温健な婦人改良論者であるあなたと交際を得ると云ふ事は私のまつたく感謝する所です。私はその点についておたがひの国語が相違して居るにかゝはらずおたがひの意見が領会りやうくわいし得られると云ふ事を信じます。(下略)
 次の手紙は巴里パリイ市民中の一老紳士ジユウル・フレエル氏から来たものだ。

(二)


 あなたが「仏蘭西フランスでの第一印象」と云ふ題でアンナル誌にお書きに成つたのを、わたくしは最も溌剌はつらつたる感興をもつて読みました。あなたの一般的批評はその観察の深くかつ大にして肯綮こうけいに当つて居る事を示して居り、あはせてあなたの天才を引立たせて居ります。仏蘭西フランスの婦人についてあなたが彼等の精神及び感情の質を善く叙述された事を私は感嘆致します。私は常に国民の中堅に住んで、あなたのお述べに成つたそれ等の者を最も親しく観察して居る七十五歳の一老人です。夫人よ、彼等は仏蘭西フランス国民の精粋せいすゐの位置を占めて居る者です。私は精粋せいすゐと云ひます。何となれば彼等自身の労作と生活の威厳とにつて、彼等は謙遜なる平和の中に名誉と廉直との情緒に包まれた団欒だんらんを形作つて居る家庭を成就した者ですから。又あなたの意見の如く、たとひ教育は乏しくとも情操の質を価値あらしめる婦人を見いだすと云ふ事、及び賞讃すべき犠牲的精神をもつて子女を育てあげる所の慈母を見いだすと云ふ事はすべこの単純なる階級の間により多くあるのです。又更に物質上の整理、経済上の種種しゆ/″\の用意、幸福と歓喜とのみなもとである家政を好く按排あんばいする等の為に熟達した機敏をつて居る事も、この階級を除いて何処いづくに発見せられるでせうか。
 私は我我われわれの社会的約束例へば門閥、富、又は学校教育等によつて高い階級に置かれた様な婦人を敢て誹謗しようと欲するのでは無いが、私は以上の事を断言しると信じます。何故なにゆゑなれば高貴なる婦人を最も近く観る時はすべて偽造的である。すべ贅沢ぜいたくの陳列及び事事ことごとしき嬌飾けうしよくそれ等よりも、卓越した機敏と貞淑な点をかへつてひくい階級の婦人に見いだすのです。なほこの問題に関しては複雑な討議を費さねば成らぬはずです。
 私は余りに傍径わきみちをしましたからめませう。夫人よ、私は自分の驚嘆と敬意とを表明して、仏蘭西フランス婦人の上に与へられたあなたの非凡にして公明な批判に対する感謝をあなたに捧呈ほうていするのがこの手紙の目的でした。(下略)
 次の手紙はマルセエユ市のヱム、デエと云ふ未婚婦人から来た。多分教育にでも従事して居る若い女であらう。

(三)


 拝啓、夫人よ、あなたがアンナル誌にお書きに成つた「仏蘭西フランスに於る第一印象」を深い注意と新しい興味とをもつて拝読しました。ついてはあなたのお筆が与へた動機にる反省をあなたにむかつて書送る事を年若き一仏蘭西フランス婦人にお許し下さい。わたくししたゝめた[#「したゝめた」は底本では「したゝあた」]所書ところがきやゝ不完全ですからこの手紙が果してお手もとに達するか否かを懸念しますが、しかしあなたは巴里パリイに於て既に著名なおひとですから多分無事にお手許てもとに届くだらうと思ひます。著名な卓識ある一ぢよ詩人に対して一せう市民の娘が手紙を捧げると云ふ事は甚だ大胆に過ぎますが何卒なにとぞお許し[#「お許し」は底本では「お許して」]下さい。実は以前から日本と云ふあなたの美しい国が絶えず私を引附けて居りました。私はその優雅な島、菊及びはちすの国に関し、種種いろいろ書冊しよさつの中にある美しい記載につて読みました。そして最近数年の間にその文明国民たる知識につて一等国の中に重大な一地位をち得た国民の住まつて居るその国に一度遊びたいと云ふ事が私の希望であつたのです。
 さて私があなたに手紙を捧げる事をあへてする理由は、あなたのお書きに成つた問題に対して仏蘭西フランス婦人の意見を知りたいと云ふ希望をあなたの記事に見いだしたからです。私は市民の中級に位置して居る女ですから、あなたが私共を対象とせられた感想文は特に私を感動させました。あなたは例へば英国婦人の為す如く仏蘭西フランスの婦人はその権利を要求しない様であるとお述べに成りました。其れは真実です。しかかく女権論者は我国に於ても非常な進歩を致しました。そして私一個人としては男子と女子との間が本来平等のものであると考へて居る上から女子もまた選挙権を有すると云ふ如き日の早晩到来する事を期待して居ります。しかし夫人よ、政治上や社会上のある位地が女子の自然の職務と一致しないでは無からうかと云ふ事をあなたはお考へに成りませんか。私には政治上の位地を占有した婦人は比較的深い注意と興味とをもつて婦人自身の義務につくす事が出来ない様に見えます。と云つて私共婦人を退化した因循いんじゆん卑屈の人種であると思ふのでは無いのです。教育につてます/\自己を修養しようと望む仏蘭西フランスの若い婦人は現に非常に多数であると信じます。ああ夫人よ、私は有らゆる手段をもつて自身を教育しようとつとめて居る一人いちにんです。私は無智です。私には知らない事が沢山たくさんにあります。私は読書と研究によつて常に自身を完全にしようと心掛けて居ります。しかし私は沢山たくさんときがありません。しかときたゞ迅速に過ぎ去ります。私はうもだ私のときを整理する事を知らないのでせうか。ああ夫人よ、あなたのおつしやつた事は道理であると信じます。しかし特に下婢かひなどのすくない、あるひまつたそれ等の者を有して居ないところの一婦人に於て家庭の仕事を節減する方法がうして有りませうか。私の理想はお説の如く、家庭の義務及び智識上の修養を融会ゆうくわいする事を知つた、教養ある敏活な一婦人と成りたい事です。又お説の如く子女の教育が母としての本質的の職能であると云ふ事は私にも信ぜられます。如何いかにも婦人はこのいたいたげな愛らしい者の精神に優良な原理と偉大にして善美な愛とを注ぎ入れて未来の社会を形作ると云ふ事にその身をさゝげねば成らないでせう。夫人よ、厚顔にもあなたに対して手紙を書いた事をうぞおゆる[#「お赦し」は底本では「お赦しし」]下さい。私に取つて会話の際に甚だ嫻雅かんがであると想像せられるあなたの国語を解しないと云ふ事は甚だ遺憾に存じます。なほまたたとひあなたが私の国語を承知に成りませんとしてもかくこの手紙の内容を御会得ごゑとく下さる事を私は希望致します。夫人よ、この希望を何卒なにとぞこの差出人にお許し下さい。
 私は私共の国と格段に異つた美しい国の日本婦人と話したいと常に願つて居ります。日本婦人があれ程しとやかな形の好い固有の服装を次第に捨てようとして居ると云ふ事は真実ですか。夫人よ、私の尊敬と称讃とをお受け下さい。地中海の岸も甚だ好風景に富んで居りますから少しく其れを賞玩においでに成りませんか。(下略)


ミラノ



 僕は往復二ヶ月間の割引二等乗車券を買つて伊太利行イタリイゆきの汽車に乗つた。仏蘭西フランスから瑞西スヰスはひるとう真冬の景色で枯残つた菊の花に綿わたの様な雪が降つて居た。ひだと云ふひだを白くいたアルプス連山の姿はかねて想像して居た様な雄大なおもむきで無く、白い盛装をした欧洲婦人のむれを望む様に優美であつた。其れに湖はだ凍らずに御納戸おなんど色をたゝへ、遊客いうかくの帰つて仕舞しまつた湖畔の別荘やホテルがいろいろに数奇すきを凝らした美しい建築を静かに湖水に映して居たのは目もめる心地がした。冬ですら[#「冬ですら」は底本では「冬ですから」]彩色いろ絵葉書で見た通りの色彩に富んで居るのだから、夏の湖畔はだけ豊麗な風致に満ちるのだか知れないと思つた。
 少年の時に地理書で教へられた長い隧道トンネルを越えて伊太利イタリイはひり、マヂオル湖に沿うて汽車のはしまゝに風物は秋に逆戻りして、葡萄ぶだうの葉は赤く、板屋楓プラタアン広葉ひろばを光らし、青ぐさかもの上に並んだ積藁わらによからは紫の陽炎かげろふが立つて居た。アロナ附近でベツクリンの絵の「死の島」はこれつたのだらうと想はれる湖上の島を眺めなが昼食ちうじきを取つて居ると、同じ卓へむかひ合せに着いた姉妹きやうだいの英国婦人の、少し容色きりやうの劣つた姉の方がしきりにまづ仏蘭西フランス語で僕に話し掛けて「日本はわが英国と兄弟の国だ」とか「ゼネラル乃木がうだ」とか愛嬌あいけういた。一体に国人の話す仏蘭西フランス語は僕等に仏蘭西フランス人のよりも聞取きゝとりよい。此方こちら先方さきに劣らずまづいのだが、双方で動詞の変化などを間違へながら意思が通じ合ふから面白い。妹の方は顔を赤くして話す様な内気な娘だが、瑞西スヰスで棒の様な垂氷つらゝを見たことなどを語ると姉の方が其れを訳して聞かせた。たがひに面倒な言葉を要する内容の話を避ける様にするのだから随分気の利かない会話ばかりだが、食事が済んでも女達が席を去らないのでつひにミラノまで話し込んで仕舞しまつた。姉の方が伊太利イタリイのホテルの安心のならないことを僕に注意して、※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ネチヤでは自分達が先に行つて泊つて居る父の馴染なじみのホテルへ来る様にと言つたが、一等室に乗つて居る二人に書生旅行の僕が附合へさうに無いからその親切を謝して僕はミラノへ降りた。
 早速さつそく停車場ステエシヨンから遠くない「伊太利亜イタリアホテル」へはひつて行つた。ベデカアで読んで置いた中位ちゆうぐらゐのホテルだ。二日ふつか以上なら下宿なみにすると主婦が言ふ。部屋代と三度の食事其他そのた一切を込めて二日で十フランと云ふやすい約束で泊つた。僕の姓のヨサノから想像して主婦は僕を伊太利イタリイ人の子孫かと云つて笑はせた。明日あすの晩の、※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ネチヤゆきの汽車の時間を下部ギヤルソンに問うて二十三時二十分と答へられたのには一寸ちよつとくらつた。この国には午前午後の区別が無いとかねてベデカア氏に注意せられて居たのだが余り唐突だしぬけなので弱つた。見れば頭上の時計迄が二十四時間で書かれて居るのである。其れから僕の時計を五十五分進ませた。
 夜食にあゆのフライが出た。日本の様な風味だ。にはとりにあしらつた米も日本まいの様に美味うまかつた。びんの腰をわらで巻いた赤い葡萄ぶだう酒はうせ廉物やすものだらうが、巴里パリイで飲んだ同じ物より本場だけに快く僕を酔はせた。
 ミラノは伊太利イタリイの大阪だ。商工業地として仏蘭西フランス里昂リオンと同じ程度に活気に満ちた街だけあつて僕の様な風来の旅客りよかくには落着いて滞在の出来ない土地の様だ。町の名にダンテ、※[#濁点付き井、437-11]ンチ、ガリバルヂイ、マクマホンなどと耳慣れた偉人の名が附いて居るのでせはしく見物して廻る者の記憶に便利である。の中央にある大寺院ドオモをうた。これ迄竪長いゴシツクを見慣れてた目にこの方形ほうけいに大きな伊太利イタリイ式ゴシツクのさう美と優美とを兼ねた外観に驚かされた。外壁ぐわいへきの上の彫像は二千あると云ふが一一いちいちい形をして居る。ベデカア氏は月夜げつやの光景をめたが、この下で折柄をりから時雨しぐれに立濡れた僕の感じも悪くなかつた。二万人をれ得ると云ふ堂内には、暗い中に立つた幾十の大石柱が四方の窓の濃麗な彩色硝子さいしきがらすから薄明うすあかりにぼんやりとしらんで、正面の聖壇には蝋燭の星が黄金きんを綴り、その前の椅子には幾列かの善男善女がしづか黙祷もくたうふけつて居る。精進しやうじんの悪い僕も思はず靴音をぬすんで歩まねば成らなかつた。
 ドオモの前の広場には伊太利イタリイ皇帝としての奈破翁ナポレオンの騎馬の記念銅像があり、其処そこが各所に通ずる電車の交叉点だけに人と車で雑沓ざつたふを極めて居る。僕がドオモを出ると三人の怪しい男が寄つて来て、初めはポルトガル語で、其れから英仏両語で食事を一緒にしようなどと勧める。僕の顔はう云ふ訳か、兎角とかくポルトガル人に[#「ポルトガル人に」は底本では「ホルトガル人に」]間違へられる。支那人シノワアと云はれるよりか余程よほど気持がいい。ポルトガルも[#「ポルトガルも」は底本では「ホルトガルも」]今こそ衰へたれ、欧洲人の一部である。さてそれ等の男に口を利かれて、伊太利イタリイ険呑けんのんなのはこれだと思つたから、僕は答もせずにずんずんと附近の宏荘な商品陳列じよ[#濁点付き井、439-2]ツトリオ・エマヌエルの中へはひつた。其処そことほり抜けて※[#濁点付き井、439-3]ンチの石像のある広場で絵葉書を買つて居ると横から口を出す奴がある。見れば今の三人だ。斯麼こんな奴に見込まれてはたまらないと思つて、急足いそぎあし伊太利イタリイ銀行の前へ出て折好く来合せた六号の電車に飛乗つてサンタ・マリア・デレ・グラツチイの方にむかつた。
 此寺このてらの式は何と云ふのか知らないが、赤煉瓦づくり大分だいぶ東洋臭い古い建築である。聖壇がモザイクで出来て居る。内院の廊の壁に坊さん達の肖像を濃厚な色彩でいたのが大半げて居る。もう夕暮だつたが有名な食堂の壁画を観ることを許された。僕のこの地へとゞまつたのは実はロンバルド派の第一にんたるレオナルド・ダ・※[#濁点付き井、439-10]ンチのこの「最後の晩餐ばんさん」の為であつた。一方に小さな窓が一つあるばかりの暗い室だから善くは見えないが、僕は望遠鏡を取出して眺めた。模写コツピイで見て居たのとちがつて剥落はくらくを極めて居る。基督キリストの顔が女の様にかれて居た。
 翌てうは早く出てブレラの美術館ピナコテカくまで市内の各所をかけ歩いた。スフオルチエスコの古城こじやう方形はうけいの珍しい城であつた。其後そのうしろの新公園を朝霧の中に濡れた落葉を踏んで凱旋門まで抜けたのは気持を清清すが/″\させた。其処そこで逢つた三人づれの小学の女生徒が黒い服に揃ひの青い帽をかぶつて背嚢はいなうを負うて居たのは可愛かあいかつた。一人は俗謡らしい物を歌ひ一人は口笛を吹いて其れに合せて居る労働者にも其処そこで逢つた。サン・ロレンツオ寺のくづれた古廊こらうも秋の季節に見るべき物である。
 美術館ピナコテカでは沢山たくさんあるリユニイの絵を面白いと思つた。ラフワエルの「処女のマリア」は呼物よびものであるにかゝはらず芝居がゝつた有難くない絵であつた。※[#濁点付き井、440-8]ンチの作だらうと云ふ「基督キリスト」は一も二も無く※[#濁点付き井、440-8]ンチに決めて仕舞しまひたい程い絵である。これも女らしい基督キリストで、顔にも髪にも緑色を用ひたのが其の悲しのある表情に適して居た。


※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ネチヤ



 午前四時に※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ネチヤへ着いた。水の上の街は夜霧よぎりの中にぼんやりと黒く浮いて居る。乗客じようかくすくな夜汽車よぎしやから降りた三十人程の者は夜が明けてのちに来る一銭蒸汽を待つつもりか大抵停車場ステエシヨンの待合室へはひつて仕舞しまつた。前の岸には五六隻のゴンドラが寄つて客を呼んで居る。三四人其れに乗る人もある様だから僕もその内の一隻へ飛乗つた。いや飛乗らうものならぐに顛覆てんぷくするに決つてるが、其れと見て岸に居る一人のたちばうが船をおさへてれる。其処そこへ船の中から差出す船頭の手につかまつてつと乗つたのだ。早速さつそくたちばう君に五文銭一枚を与へねば成らなかつた。ゴンドラは軽くをどる様に水を切つて小さな運河へはひつた。天鵞絨ビロウドを張つた真黒まつくろ屋形やがたの中に腰を掛けた気持は上海シヤンハイで夜中に乗つた支那の端艇はしけを思ひ出させた。狭い運河の左右は高い家家いへいへしきられ、前はやみと夜霧とで二けんと先が見えない。運河は矢鱈やたらと曲り、曲り角の高い壁に折折をりをり小さな瓦斯がすとうの霞んでる所もある。出会ふ舟も無いのだが、大きな曲り角へ来る度に船頭が「ホオイ」と妙に淋しい調子で声を掛ける。あとはなみなみとした水を切るの音ばかりだ。一人乗つてる僕は大分だいぶ心細かつたが二十分ののちに再び大きな運河へ出て詩人の名を家に附けたホテル・カサ・ペトラルカの門前へ着いたのでほつと安心した。かどの鈴を船頭がやゝ久しく押してると、これ※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ネチヤ美人と云ふのだらう、目の大きく張つた、チチヤノの絵に見る様な若い女が寝巻の上ににはかに着けたらしい赤い格子縞の前掛まへかけ姿で白い蝋燭を手にして門をけてれた。
 一寝入ひとねいりしたと思ふも無く寺寺てらでらの朝の鐘が遠近をちこちから水を渡つて響くので目が覚めた。窓の下が騒がしいのでリドウを揚げると運河には水色みづいろの霧が降つて居る。弱い朝日の光が霧を透すので青青あをあをとした水が、紫を帯び、其れに前の家家いへいへの柱や欄干や旗やゴンドラを繋ぐくひなどが様様さま/″\の色を映してるのがたまらなく美しい。そして騒がしいのはふゴンドラの船頭の声であつた。
 朝の食事をすませてホテルの門を出ると、ぐ半ちやう程左に面白い形の橋がある。橋の両側も通路だが、中央の通路は両側に商家が並んで織物や土地の名物の硝子ガラスの器又はモザイクの細工物などを売つて居る。これ※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ネチヤに四百以上もある橋の中で第一に古くて名高いリアルトけうであつた。僕はそれを渡つて地図の示すまゝに右へ折れたが、細いみち突当つきあたると思ふと、左右に、又はすに幾筋となく分れ、橋又橋を越へてしば/\突当つきあたり、しば/\曲る。丸で迷宮の中を歩むのだ。男は然程さほど注意を惹かないが、ゆきふ女がおいも若きも引る様な広いジユツプ穿いて、腰の下迄ある長い黒の肩掛を一寸ちよつと中から片手で胸の所の合目あはせめつまんで歩くのが目に附く。[#「。」は底本では「、」]石井柏亭の気に入つたのはこの姿ステイルだと思つたが、僕には十数年ぜんの日本の田舎ゐなかの女学生を見る様で野暮やぼ臭かつた。一体に※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ネチヤ女とめるけれど目が大きいのと鼻が馬鹿に高いだけで色は青くろいし表情は沈んでる。もつとも柏亭君の滞在は長かつたから良家りやうかの女を見た上の批評だらうが、僕の短い逗留とうりう中では先刻迎へに出てれたホテルの一人ひとり娘を除いたほかに美しいと思ふ女は見当らなかつた。
 突然出た広場は歩廊ほらうのある大きな層楼で三ぱうを囲まれ、一方に幾つかのまる屋根と様様さまさまの色大理石を用ひた幾十の柱と五つの扉とを外にしたサン・マルコの大寺院が金碧朱白きんぺきしゆはくの沈雅なおもむきをした外壁ぐわいへきの絵を、前に立つた三つの大きなはたの上に光らせて居る。広場の中央には名物の鳩が幾百となくりて豆や菓子をれる旅客りよかくめぐり、肩や手にのぼつて驚かぬものもある。歩廊ほらうの中にづらりと並んだ店から土産物を勧める声に振返りもせず、左に高い鐘楼を一べつしたまゝ僕はサン・マルコ煤色すゝいろをした扉を押してはひつた。朝の勤行ごんぎやうが白い法衣はふえ金色こんじき袈裟けさの長老を主座にして行はれてる最中であつた。初めて見るビザンチン式の建築やモザイクの壁画はゴシツクやルネツサンス式以外に古雅な特色をつて居る。案内者が頼みもしないに錠をけていろんな所を見せた。中二階の様な所へもあがらせて高い壁画や天井画に接近させたが、出る時に一フランを強請ねだつた。隣にある昔の市長の住んだドガアルの宮殿はモネがこのいた絵で見知つて居たが、僕の着いた当日は何かの節会せちゑで縦覧させない。美術館も休んでると聞いてむかひの岸へ渡ることを止め、海岸へ出て真直まつすぐに北へ歩いた。アドリヤ海は春の様に霞んで碇泊してる大小の汽船は節会せちゑの為に満艦飾をして居る。僕は※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ネチヤが海上の一王として東洋に迄交通して[#「交通して」は底本では「交通し」]居た貴族政治の昔を忍ばずに居られなかつた。絵葉書うり擬宝玉売にせだまうりとがうるさくゆき旅客りよかく附纒つきまとつた。僕は何時いつしかコバルト色の服と猩猩緋しやうじやうひ胴衣※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ストンを着たこの国の青年海軍士官と仏蘭西フランス語で話しながら歩いた。士官は中世から今迄引続いてる海軍造船所へれて行つて節会せちゑかゝはらず縦覧させてれた。古代の船の模型などにも益を受けたが、門前にある希臘ギリシヤから持つて来た四つの大獅子おほじしの古い彫刻の方が僕には面白かつた。
 ホテルで昼食ちうじきすませてからゴンドラを雇つてサンタ・マリヤを始め沢山たくさんなお寺廻りをした。大運河の両がんの層楼はいづれも昔の建築で大抵は当時の貴族の邸宅だが、今はホテルや又は名も無い富家ふかいうに帰して、※(「木+射」、第3水準1-85-92)へきしや朱欄さては金泥きんでい画壁ぐわへきを水に映し、階上より色色いろいろの大きな旗をなびかせて、川に臨んだ入口ごとにゴンドラを繋く数本のくひ是亦これまた青や赤に彩られて居る。船頭はフオスカリだの、ムシユコだの、バルバルコだのと昔の主人の貴族の名を呼びつつ其邸そのやしき指点してんして教へた。仏蘭西フランス語を知つて居る船頭がそれ等の貴族の旧邸で今は美術品の製造所に成つて居る家家いへいへ矢鱈やたらに船を着けて記念の為に縦覧せよと勧める。モザイクの製造所其他そのたを二三縦覧して土産物を買はせられたのに懲りて、あとは何と云つても船からあがらなかつた。夕方ホテルの裏に当る青物市場いちば魚市場うをいちばを過ぎて最も奮い市街を散歩したが、狭い間口の雑貨店が不調和に濃厚な色彩を見せたのと、人間の風采ふうさいひどきたないのとが上海シヤンハイの旧城内によく似て居た。此辺このあたりの狭い町角では薩摩いもや梨をでて湯気ゆげの立つのを売つて居た。
 三日みつか目には美術館でチチアノの「基督クリスト昇天」、「ピエタ」を始めチエボオロの、又貴族政治時代の栄華をドガアルの宮殿に眺めたが、フイイレンチエゆきの汽車の時間が迫つたからくはしく書く余裕が無い。最後に昨夜の月明げつめい何処どこからとも無く響くギタルのを聞いて寝たのが何だか物哀ものがなしかつたことを附記して置く。


フィイレンチェ



 ヂヨツト、ダンテ、ミケランゼロ、ボツカチオ、ラフワエル、アンゼリコ、バルトロメオとう芸術史上の偉人を多く出したフイイレンチエに来てアルノ河の岸に宿やどつた。彼寺かのてら此邸このてい、皆それ等古人の目に触れ、前の橋、うしろみちすべそれ等偉人の足跡をしるして居るのだと思へば予の胸はおのづからをどる。
 シニヨリヤの狭い広場がづ面白い。昔も今も市の中心として百の男女なんによが常にうようよとして居る前に、十四世紀初期の建築の粗樸そぼくな外観をもつて城の如く屹立きつりつして居るのは、※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ツクチオ邸だ。其れとなゝめに対して右方うはうそびえたウフイツチ邸は階下の広大な看棚ロオヂアを広場に面せしめて、その中には希臘ギリシヤ羅馬ロオマ時代の古彫像が生ける如くぐんを成して居る。予は※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ツクチオ邸のかいを昇つて、※[#濁点付き井、449-2]ンチとミケランゼロ二人の意匠に成つた「五百人の広間」のいろ大理石の装飾其他そのた、更に隣のウフイツチ邸をうて幾十室に満ちた絵と彫刻をだ一べつするだけに二時間を費した。
 ※[#濁点付き井、449-8]ンチ、バルトロメオ、ラフワエル、リツピ、チチアノ等の傑作の多い中に、チチアノの花神フロラ、ラフワエルの自画像、ヂヨツトのマドンナの前にはしばら低徊ていくわいせざるを得なかつた。数百の肖像画のみをならべた室には※[#濁点付き井、449-11]ンチ、ミケランゼロ、リツピ等の肖像もあつた。ミケランゼロのデツサンやスケツチを多くをさめて居るのもに類が無からう。伊太利イタリイ各派の名品ばかりで無く欧洲各派の佳作も多数にをさめられて居る。
 予は和蘭ヲランダ派のリユウバンスについその気魄きはくと精力の偉大、その技巧の自由を驚歎しながら、何となく官臭とも云ふべき厭味いやみのあるのに服しなかつたが、此処ここにある両ていの内の「バツカスの興宴きようえん」の超脱して居るのを観て初めてこの大画家が好きに成つた。愛神あいしんキユピツトに立小便をさせたなどは実に人を眼中に置かない遣方やりかただと思ふ。この邸の裏からぐ対岸のピチ邸へ連接する※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ツクチオ橋の中央に長い石廊せきらうが架せられて居る。予は其れを越へてピチ邸の絵画館をも観た。
 ウフイツチ邸に劣らぬ多数の名幅ををさめた中にラフワエルとチチアノの傑作が最も多く、就中なかんづく予はラフワエルの円形の中に描いたマドンナががうも宗教臭味しうみを帯びず、だ画題をマドンナにつて崇高優美な人間を描き出した見識と筆力とに敬服した。これ等の諸邸はいづれもフイイレンチエ歴代の貴族である。日本の岩崎、三井、安田の諸富豪、島津、毛利、前田、鍋島の各貴族がその私邸と所蔵の美術品とを公開しもしくは国家に寄附して一般に縦覧せしめるのはいづれの日であらうか。
 予はフイイレンチエの偉人廟パンテオンであるサンタ・クロスの広場へ来てダンテの大石像を仰ぎ、寺内じないはひつてヂヨツトの筆に成る粗樸そぼくにして雄健ゆうけんな大壁画に見恍みとれた。堂の四壁しへきにはミケランゼロ、ガレリヨ、マキアベリイとう芸術家、学者、政治家の墓が無数にある。ダンテのもあるが、真の墓はラ※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ンナにあつて此処ここのは名誉的空墓くうぼだ。
 フイイレンチエ随一ずゐいちの大寺院ドオモは十四世紀以来数百年を費して大成し、伊太利イタリイゴシツク建築中最も著しい特色をつて居る。外観の配色は柔かい白と緑とより成り、何となく木造の感をおこさせるがすべて石造だ。その左側さそくの鐘楼もまた荘麗である。予はしば/\この門前を徘徊はいくわいして帰るに忍びなかつた。
 予はもと貴族のやしきであつて後世牢獄とも成つた事のあるバルゼロの国立博物館をうて、ミケランゼロのダ※[#濁点付き井、452-13]ツド其他そのたの彫像を、又その最上の一室を占めたドナテロの諸作を観た。就中なかんづくドナテロのダ※[#濁点付き井、453-1]ツドのなさけもあり勇気も智慧もある微笑びせうの立像に心を惹かされた。又有名なダンテの肖像をも壁画の中に仰ぎ見た。ダンテは頭巾づきん上衣うはぎも共に赤かつた。
 案内者はその右手の女群ぢよぐん一人ひとりがベアトリチエだと教へてくれた。しかしベアトリチエは詩人が空想の女で史実には何の憑拠ひようきよもないらしい。ダンテもウフイツチ邸で見たラフワエルも美男子びだんしだが、これが昔からフイイレンチエの男のタイプなのであらう。今もこの土地の男にはダンテやラフワエル風の好男子が多い様だ。それに反して女は皆ボチセリイの「春」にいた女の様に顔だちが堅く引緊ひきしまり過ぎて居る。
 ボチセリイの「春」と云へば其れは此処ここの美術学校の絵画館で見る事が出来た。写真版で見た時むかつて右手のつたの葉をくはへた女の形をいやだと思つたが実物に対しても同じ感を失はなかつた。其処そこにはボチセリイの作も多くあつたが、ミケランゼロの彫像には巨大なダ※[#濁点付き井、454-3]ツドを初め多数に傑作をあつめて居た。予は此処ここですつかり彫刻が好きになつて仕舞しまつた。羅馬ロオマへ行つたら更にこの感が深からうと想はれる。予はまたこの絵画館でリユニイが書いた「女人によにん水浴」の図を見て、近世のシヤ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンヌの画風の由来する所を知つた気がした。
 ルネツサンス芸術の保護者であつた貴族メデイチの霊廟をサン・ロレンツオうてミケランゼロの建築にやゝ久しく陶然とした。種種しゆじゆいろ大理石を自由に使役して、この高雅と壮大と優麗との調和を成就したれの才の絶大さよ。此処ここには彼れの雄偉ゆうゐなる未成品「ちう」「」「てう」「せき」の四像もあつた。予はフイイレンチエに来てはじめてミケランゼロとドナテロの彫像を、さうして彼等の精神を真に黙会もくくわいした現代の天才は一人ひとりのロダン翁であることを感じた。ロダンはミケランゼロの直系である。
 下宿の主人ロツテイニイ夫婦は予を詩人だと聞いて非常に歓待してれる。毎予を芝居や珈琲店キヤツフエへ伴つて行つてその支払をう云つても予にさせないと云ふ様なことは、欧洲のホテルや下宿の主人にして珍らしい。一体にこの地の人は正直で親切である。なぜ僕はもつと早く来て此処ここ三月みつきとゞまらなかつたか。


巴里パリイを去らうとして



 羅馬ロオマ七日なぬか、ナポリとポンペイに二日ふつかと云ふ駆歩かけあしの旅をして伊太利イタリイから帰つて見ると、予が巴里パリイとゞまる時日は残りすくなくなつて居る。せめていまねん此処ここに遊んで居たいのだが家郷かきやうの事情は其れを許さない。にはかに心せはしくなつて来た。
 告別の為に内藤とロダン翁をうて、翁の手紙を受取つた大阪の水落露石みづおちろせきの伝言など述べ、露石から託された※(「くさかんむり+惠」、第3水準1-91-24)けいさい漫画集を呈した。翁は画集を喜んでしばらくわんを放たずに眺め込み、※(「くさかんむり+惠」、第3水準1-91-24)けいさいの略伝を問うたのち、日本人の名は覚えにくいからと云つて画集のすゑに作者と水落君との名を記す事を望まれた。翁の談話中に多年巴里パリイに学んで居る彫塑家藤川勇造君の製作を近頃観たと云つて激賞して居た。
 翁はみづから案内して数室にわたる自分の製作を観せ、「う感じるか、自分はこの部分がいと思ふ。これは不充分だ」などと一一いち/\謙遜する所なく自讃して聞かせた。その中に日本の踊子「花子の首」は特に絹の蒲団の上に横たへられて居た。翁のデツサン二百余点と十幾個の製作とを東京に送つて展覧会を開く相談は、目下もくか日本大使館の安達あだちみね一郎氏が引受けて東京へ帰つて居るが、翁は東京の有島氏とも協議して便宜に取計らふやう予に依頼された。翁は日本の外務省から通知があり次第荷造りをして発送すると云はれた。製作の中には「花子の首」をも加へると云つて居た。
 詩宗しそう※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルアアレン翁を約束して置いた日にうた。けてれた快濶な女中に名刺を渡すと、気軽な詩人はぐに出迎へて握手しながら「あなた方はこの遠方へ三度まで訪ねて下さつて初めてお目にかゝる事が出来たのですね」と云つた。内藤理学士と一緒にうたのである。ロダン翁は老齢とし所為せゐで少し日常の事には耄碌まうろくの気味だから、逢ふ度に初対面の挨拶をしたり以前の話を忘れて居たりして訪客はうかくを困らすが、其れに比べて※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルアアレン翁が前に二度その留守へ尋ねた予等の事を覚えて居てれたのはうれしかつた。
 もつとも翁は五十幾歳の元気盛りだから七十三歳のロダン翁と一緒には云はれない。翁の書斎は予が見たこの国のの文学者の書斎に比べて非常に狭くつ質素な物で、六畳敷程の二室ふたまを日本の座敷流に真中まんなかを打抜き、其れに幾つかの大きな書棚や二つの大きなタアブル其他そのたが据ゑられて居るから、やつと四五脚の椅子を並べる空席があるばかりだ。予等の外に白耳義ベルジツクの青年詩人が一人先に来合せて居た。翁は自分の椅子を予に与へて暖炉シユミネの横の狭い壁の隅へ身を退いて坐られた。
 室内は流石さすがに詩人の神経質な用意がゆき渡つて、筆一つでもゆがんで置かれない程整然として居た。小さな卓に菊の花がけてあつた。四方の壁に幾十の小さな額がかゝつて居るが、見渡した所すべてが近頃の親しい作家の絵ばかりであるのは一だ。予が幾枚かの浮世絵を呈したので、談は日本画に移つたが、久しく東洋の研究に興味をつて居る翁がわが浮世絵の作家の名を幾人もすらすらと列挙して「自分は春信をより多く好む」などと肯綮こうけいあたつた批評をせられたのは意外であつた。詩人レニエ氏のひげも有名だが、※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルアアレン翁のおとがひまで垂れさがつた口髭も名物である。翁は少し背をかゞめてその口髭のある顔を前に出しながら、予等の為に自家の詩について快濶に色色いろ/\と語られた。「ある人は自分の作物さくぶつに東洋の思想と共通の点があると評したが君達は何と思ふか」と問はれた。又「自分の作物さくぶつを読んだ一外国人が自分にむかつて印度へ旅行した事があるだらうと問ふから、いなと云つたら、其れは不思議だ、あなたのある象徴サンボルに用ひた花が同じ様な意味で印度の何処どこかの門に描かれて居ると云つたが、まつたくの暗合だ」とも語られた。
 予は又晶子が翁に呈する為に残して置いた[#「置いた」は底本では「置いた。」]春泥しゆんでい集」を翁に贈つた。翁は日本の三十一音から成るタンカを知つて居て「今もなほ如此かくのごとき素朴な詩の作られるのは懐かしい」と[#「懐かしい」と」は底本では「懐かしい」 と」]云ひ、その装幀さうていの美をめて「これが自分の書斎へ来た最初の日本の出版物だ」と云はれた。談は出版物に及んで「先年日本の書肆しよしの希望に任せて小さな一書を東京で出版した事がある」と語られたのは予等に取つて初耳であつた。予が先生の新しい詩集「そよぐ麦」の特別ずりを買つた事を告げたら「其れは好かつた。もう一月前に品切と成つたのでこの某君などはかい遅れたさうだ」とかたはらの若い詩人を見て云はれた。
 翁は日本の詩壇の近状を問ひ、仏蘭西フランスの象徴主義の影響した事を聞いて驚き、主な日本詩人の名を予等より聞いて書留かきとめられた。翁は死なないうちに一度日本を訪問すると云はれた。翁の名を、※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルアアレンと発音し、同じく白耳義ベルジツク人であるメエテルリンクをメテルランクと発音することを今日けふ翁にたゞして知つた。翁はその詩集「触手しよくしゆある都会」をその初めに自署して予に与へられた。翁の夫人に会ふことを得なかつたが、翌てう翁と夫人から鄭重な礼状を受け取つた。夫人に捧げた日本の織物に対してである。
 国立劇場コメデイイ・フランセエズを辞した老優ル・バルヂイが噂の如くポルト・サン・マルタン座へはひつて首席となり、文芸院学士アカデミシヤンアンリイ・バタイユの新作「炬火たいまつ」を演じると云ふので巴里パリイ初冬しよとうの劇壇はその方へ一寸ちよつと人気を集めて居る。其れに巨万の慰労金を貰つて国立劇場を隠退した俳優は巴里パリイ市で興行することの出来ない規定があるのに、剛腹がうふく[#「剛腹と」は底本では「剛復と」]我儘わがまゝとを極めた性格の老優が其れを破つてサン・マルタン座へ出たのだから、初日にはコメデイイ・フランセエズの[#「コメデイイ・フランセエズの」は底本では「コメデイイ・フラセエズの」]役員が揃つて見物し翌日直ちに裁判沙汰ざたが持上つた。ル・バルヂイ氏にう云ふ言分いひぶんがあるか知らないが、新聞の上の批評では裁判の予測が衆口しゆうこう一斉に不利な様だ。
 梅原と内藤と[#「内藤と」は底本では「内藤ないふぢと」]三人で「炬火たいまつ」を観たが、愛情の生活から思想の生活にかへると云ふ筋の全体は甘く出来た作だが、部分に少しづつ面白い所を見受けた。舞台に出る男女がすべて医学界の名家であるのも目先が変つて居た。主人公たる老大医たいいを演じたのでル・バルデイの芸を予は初めて観たのだが、ムネ・シユリイ以外に円熟した老優としては如何いかにもこの人を推さざるを得ないと感服した。決闘の負傷によつ絶入たへいる迄の昂張かうちやうした最後の一幕の長台詞ながぜりふくまで醇化して森厳しんげんの気に満ち、一秒のすきらせず演じる名優は仏国に二人ふたりと見いだし難いと思つた。予は何となく故団蔵のおもかげおもひ出すのであつた。予はこの人が近く更に演じやうとするロスタンの「シラノ・ド・ベルジユラツク」を観ずして東に帰らねば成らないのをかなしむ。
 この二月ふたつき程日本に滞在して居るうち母堂のに接して巴里パリイへ帰つたシヤランソン嬢が再び予と前後して東京へはずだ。シベリヤを経るのだから予よりも先に着くであらう。嬢は富豪のむすめで珍らしい日本贔屓びいきの婦人だ。ことに日本文学を愛して、日本語をたくみに語り、日本文をも立派に書く。源氏物語を湖月抄と首引くびびきで読んでその質問で予の友人を困らせた程の※[#「執/れんが」、U+24360、462-1]心家だ。嬢は日本の文人とまじはることを望んで居る。日本の文人が嬢をして失望せしめないならば彼女は永久桜咲く国にとゞまりたいと云ふ希望をさへつて居るのである。(十二月十日)








巴里より をはり





底本:「巴里より」金尾文淵堂
   1914(大正3)年5月3日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。固有名詞も原則として例外とはしませんでしたが、人名のみは底本のままとしました。
※「じゆの字を中に書いた」の「壽」は、文意から新字にはあらためませんでした。
※底本の総ルビをパララルビに変更しました。被ルビ文字の選定に当たっては、以下の方針で対処しました。
(1)漢語の読みが明治大正期特有の場合は付す。
 (例 寝台ねだい未亡人びばうじん旅客りよかく等)
(2)外国の土地や事物名等に片仮名を振っている場合は付す。
 (例 巴里パリイ珈琲店キヤツフエ等)
(3)和語や俗語の読みを当てた場合は付す。
 (例 幸福さひはひ簡短てみじかゐど流行子はやりつこ厭倦あき退散ひけ等)
(4)送り仮名に省略がある場合は付す。
 (例 ばかりとゞまる等)
(5)複数の読みがあったり、常用音訓以外の読みがあって、音読した際に読み誤る可能性が高いと判断される場合は付す。
 振り仮名の表記が揺れている場合。
 (例 まえぜん連中れんちゆう連中れんぢゆう甲板かふばん甲板かんぱん空地あきち空地くうち先刻さつき先刻さき発動機モツウル発動機モウツル等)
 平仮名と片仮名両方の表記がある場合。
 (例 護謨ごむ護謨ゴム硝子がらす硝子ガラス麺麭ぱん麺麭パン等)
※疑わしい表記の一部は、初出の東京朝日新聞ほか、「定本 與謝野晶子全集 第二十巻」講談社(1981(昭56)年)、「世界紀行文学全集」フランス篇、イギリス篇ほか、修道社(1971(昭和46)〜1972(昭和47)年)、「鉄幹と晶子 第三号」和泉書院(1997(平成9)年)、「与謝野晶子研究」赤塚行雄、學藝書林(1994(平成6)年)を参考にしてあらため、底本の形を、当該箇所に注記しました。
※底本の組み版にはルビ付き活字が用いられたと思われ、これが、不自然なルビ付けの要因になったと推測されます。
※片仮名表記の揺れは、底本通りにしました。
※底本の写真、絵葉書、挿画および題字については、このファイルにはおさめていません。また、「裝幀及び挿画(徳永柳洲氏作)」も、同様に収録していません。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:武田秀男
校正:松永正敏
2011年5月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「執/れんが」、U+24360    1-5、5-13、7-4、9-1、9-7、13-2、14-5、14-9、16-2、18-3、21-13、21-13、12-12、23-3、24-7、25-1、25-4、25-11、26-8、39-5、43-1、49-12、54-1、56-6、58-2、60-11、70-8、84-3、86-3、87-3、89-13、112-12、113-2、120-1、121-4、121-6、123-9、130-3、130-6、130-9、166-3、169-11、204-3、204-5、222-5、223-3、239-4、257-11、284-12、285-1、299-1、330-11、334-13、342-3、357-6、368-11、406-13、407-11、408-5、408-9、409-4、414-3、415-6、420-5、424-6、462-1
濁点付き井    11-4、24-10、33-5、156-8、166-6、166-9、169-3、189-8、206-9、212-3、215-4、216-10、217-10、223-6、254-7、293-4、345-5、346-7、379-1、379-1、379-1、405-7、427-6、437-11、439-2、439-3、439-10、440-8、440-8、449-2、449-8、449-11、452-13、453-1、454-3


●図書カード