「わたしなんか、麻酔剤をかけなければならぬような手術をうけるとしたら、知らないドクトルの手にはかかりたくありませんね」
と美くしいマダム・シャリニがいいだした。
「そんなときは、やっぱり恋人の手で
老ドクトルは、自分の職業のことが話題にのぼったので、遠慮して黙りこんでいたが、そのとき初めて首をふって、
「それは大変な考え違いですよ、マダム。そんなときは、滅多に恋人なんかの手にかかるもんじゃありません」
「何故ですの? 恋しい人が
「ところが麻酔の醒め際なんか、そんな詩的なものじゃありません」ドクトルは笑いながら、「麻酔からの醒め際は厭な気持のするもので、そのときの患者の顔といったら、見られたもんじゃありません。どんな美人だって恋人から愛想をつかされるにきまっています」
といったが、暫く押黙ったあとでつけ加えた。
「そればかりでなく、迂闊に恋人なんかの手にかかると、
これには皆が反対説を唱えだしたので、ドクトルも後へ
「そんなら、私の説を証拠立てるために、皆さんにごく旧いお話を一つお聴きに入れよう。実は、私がその悲劇の主人公なんですがね、今はお話したって誰に迷惑のかかる気づかいもありません。というのは、関係者がみな死んでしもうて、生き残っているのは私独りなのです。但し関係者の
私は今は七十の声がかかって、御覧のとおりの老ぼれなんだが、その時分は二十四になったばかりで、若い盛りでした。
私は病院の助手をやっていたが、恰度その頃、或る婦人と恋に
彼女と逢引をするためなら、どんな愚劣な真似でもやりかねなかったのです。そして彼女の平和のためや、世間の誹謗を防ぐためなら、どんな大きな犠牲をも払っただろうし、また、万一われわれの恋が
数ヶ月間はこの上もなく幸福でした。慎ましくしていたので、誰一人感づいた者もなかったけれど、或る日、
彼女は床づいていて、真蒼な不安な顔をして、眼のふちが
前の晩、突然、腹部に激烈な疼痛が起ったので、家人が寝台に寝かしたそうですが、それ以来
診ると、一時間も、いや一分間も猶予の出来ない状態なので、早速院長を招んだところ、院長の診断もやはり、すぐその場で手術をしなければ
サアこうなると、知らない患者のために落ちついて手術の準備をするのと、最愛の
隣りの
『わたし平気よ。どうぞ心配しないで……貴方の御手で麻酔をかけてね』
私は手真似で反対したが、彼女はどうしても
『きっとね。貴方に眠らせて頂くわ』
私は『
私の苦難はこれから始まるのです。
院長や、医員や、看護婦たちが容易ならぬ
女が麻酔剤を数滴吸入しかけたとき、何だか厭がる風だったが、ふと私の顔を見るとにっこり笑っておとなしく、私のするがままに任せました。しかし、そのときは、まだ麻酔が不完全だったのです。というのは、私が感動のあまり度を失って、マスクをぴったりと口へ当てなかったために、その隙間から空気が入りすぎて、クロロフォムの吸入量が少なかったからです。
なお、私は突発し得るさまざまな危険を考えていました。たびたび
院長はシャツの袖を高々とまくりあげ、にゅっと伸ばした腕に波をうたせながらやって来て、
『麻酔はいいかね?』
その声を聞くと、私は神経がぐっと引きしまりました。急に病院気分になって緊張して答えました。
『まだです』
『早くしたまえ』
私は病人の上にかがみこんで、
『聞えますか』
と訊ねると、女は二度瞬きをしました。『聞える』ということを眼付で答えているのです。
『耳の中で何かブンブンいっているでしょう。どんな音がしますか』
『鐘……』
微かにつぶやきながら、一、二度
私はまた、じっと身をかがめました。女のすうすういう呼吸がクロロフォム臭くなって来て、もうすっかり麻酔におちたのです。
『よろしゅうございます』
と私は院長に報告しました。
が、やがて院長のメスが白い皮膚の上を
院長は立ちすくんで、
『おい、麻酔が十分でないよ』
といいます。私は大急ぎでマスクへまた数滴のクロロフォムを垂らしました。
院長はもう一度患者の上に屈みました。が、彼女は又もや呻いて、今度は何かわけのわからぬことを口走りました。
私は早くこの手術を終らせてしまいたいと思って、どんなにやきもきしたことでしょう。一刻も早く覚醒する彼女を見たい、恐ろしい夢魔を追い払ってしまいたいと、そればっかり念じていました。彼女はもう身動きはしないがやはり呻いて、何かぶつぶついっていた、と思うと突然に男の名――しかも『ジャン』という私の名前を
私はぎょっとしました。しかし彼女は夢でも見ているらしく、つづいてこんなことをいいました。
『心配しないで、ね……わたし平気よ……』
サア今度は、
彼女が覚醒しないで、そのまま私の腕に死んでゆくかも知れないという心配よりも、
やがて、彼女はほんとうに危っかしい
『院長、麻酔が十分でないようです』
『何かしゃべったって……構わんじゃないか……もう暴れアしないから大丈夫だよ』
そのとき、女ははっきりと声を張りあげて、
『わたし平気よ……貴方がついていて……眠らせて下さるんですもの……』
と一語一語を明瞭にいってのけたのです。私は更にクロロフォムを四滴、五滴とつづけざまにマスクへ垂らして、それを女の顔へひしと押し当てました。彼女のしどろもどろな声が、私の手でしっかと抑えつけている
『わたし眠るのよ……あら、鐘が聞えるわ……今に
私はもう夢中でした。隣室で、多分戸口に耳を押しつけていた彼女の
何にしても、もっとよく
『会いましょうね……晩に……二人っきりよ……そしたら、また抱擁してね……』
まだやっています。私は頭がぐらぐらっとしました。今度は何を云いだすか知れたもんじゃない――そう考えるといよいよ
ふと気がつくと、壜が空っぽになっています。サア大変、麻酔剤の量が多すぎた。
その瞬間に、院長が、簡単だけれど心配そうな声で、
『はてナ、血圧が馬鹿に低くなったぞ』
と、いきなり私を押し
『呼吸が止まってるじゃないか……酸素吸入か……エーテルを……早く早く……』
けれども、もう手遅れでした。可哀そうに、彼女はぐったりと
われわれは有らゆる手段をつくしたけれど、何の
こう語り終って、ドクトルは五分間もじっと黙想に沈んでいたが、やがて次のようにつけ加えた。
「こうした事故はしばしば起るもので、誰だって、絶対に麻酔剤の危険がないということは云えるものじゃありません。が、あの場合、私が彼女の恋人でなくて、冷静に仕事の出来る立場にあったなら、そして、彼女の生命を自分の手に握っているという重大な責任と、彼女を破滅させる恐ろしい秘密を
それっきりドクトルは黙りこんだ。
冷たい秋風が、濡れた窓硝子をはたはたと鳴らしていた。そして、その秋風に誘われて来たような一脈の哀愁が、しんみりと
マダム・シャリニは肱掛椅子の背にぐったりと
人々はその晩に限って、常よりも早く散り散りに帰って行った。