誰?

モリス・ルヴェル Level, Maurice

田中早苗訳




 その日、私はかなり遅くまで仕事をやった。そしてやっと書物机から眼をあけた[#「眼をあけた」はママ]ときは、もう黄昏の仄暗さが書斎に迫ってきていた。私はそのままで数分間、じっとしていた。非常に根気をつめた仕事の後なので、頭がぼうっと疲れて、ただ機械的に四辺あたりを見廻した。
 仄かに薄れゆく光線に包まれて、あらゆるものが灰色に、不確実に見えたが、夕陽の最後の照りかえしで、卓子テーブルと、鏡面と、壁にかけた油絵だけが、明るい斑点でも置いたように画然くっきりと光っていた。それからもう一つの斑点が、特別な強度をもって、書架の上に飾ってあった一個の骸骨のあたりを、明々あかあかと染めていた。私はふと顔をげると、その頬骨の尖端から顎骨の不気味な角度にかけて、あらゆる細部が瞭然はっきりと眼に映った。すべてのものが暮れ足の早い蔭影に呑まれて行くのに、独りこの骸骨だけは、徐々と、確実たしかに生命を喚びかえして、る看る肉が付いていくようであった。歯のところに、唇がかぶさった。眼窩に眼球めだまが据わった。やがて不思議な幻覚の力によって、暗がりの中に薄ぼんやりと、私の方を見守っている一つの顔が浮び出した。
 その顔は、皮肉な微笑に口元を歪めながら、じっと私を睥睨にらみつけた。それは我々が妄想のうちに見る漠然たる面影とはちがって、あまりに顕然まざまざと、まるで現実の人を見るようなので、私は思わず手を伸べてそれに触ろうとした。と、忽然頬肉ほおが落ちて、眼窩は空洞うつろとなって、――薄い霧のようなものがふんわりとその顔を押し包んだ……と思うと、それはやはり一個の骸骨に過ぎないのであった。他の骸骨とすこしもかわるところがなかった。
 私は燈火あかりを点けて、また書き物をつづけた。何だか気になるので、変化へんげを見た場所を二三度覗くようにしたが、いつの間にかその些細な興奮も消え、すべてを忘れて仕事に没頭していた。
 それから四五日経って、私は外出したが、家の前で出合がしらに、一人の青年と擦れちがった。青年は路傍みちばたへ寄って私を通してくれた。私は会釈した。青年も同じように会釈をかえしながら行き過ぎた。が、何だか見覚えのある顔だ、知った人にちがいない、きっと先方でも立ち止まって私を見ているだろう、そう思って背後うしろをふりかえったが、青年は知らん顔でグングン歩いて行った。それでも私はじっと立ち止まって、彼が人込の中へかくれて見えなくなるまで、その後ろ影を見送った。
「ナンダ馬鹿馬鹿しい、見違えたんだ」と思ったが、その後からすぐにまた心に問うた。「どこだっけ、あの男に会ったのは? ……何家どこかの客間でか? ……それとも病院であったか? ……うちの診察室か?」
 いや、直接じかに会ったのではないようだが、知人しりびとの誰かに似ていたから間違えたんだ。こう決めてしまって、そのことは頭から遠ざけた。いや努めて遠ざけるようにした――というのは、いくら忘れようとしても、内実はしきりにそれが気になるからであった。
 だが、たしかに知っていた顔だ。凹んだ眼でしかもいかつく、人を見据える眼光まなざし、髭のない鼻の下、真一文字にむすんだ口角ばった顎――それらはあまりに著しい特徴で、めったに忘れたり、他人のと間違えたりすることの有り得ないものだ。だが全体どこで見た顔だろう? 一晩中記憶を絞ったけれど、とうとう思い出せなんだ。そしてその後長いこと、四週間も五週間もこの不審が頭にこびりついていた。
 ところがある日、私は再びこの青年と街で邂逅めぐりあった。私は殆ど凝視するように彼の顔を見た。彼もまた例の冷たい表情で私の方を見かえした。その冷たい目付は、私がよく知っていたものだ。それだのに彼はちっとも私を知ってるようなふうを見せないで、一秒間も躊躇することなく、私を通すために大急ぎで右へよけた。これでいよいよ私は、思い違いであったという結論に達しなければならなかった。私が本統ほんとうに彼を知っていたのなら、彼もまた私を見覚えていて、たとえ街上でなりと二度目に出会ったのだから、目付でなり立ち止まるなりして、その心持を表示しなければならぬわけだが、ちっともそんな気振りを見せない。してみると、いよいよ私の思い違いとするより外はないのだ。
 私はそれっきりこの青年のことは忘れていた。
 すると、それから程なく、ある日の暮れ方近くに、一人の男が初診患者として私の診察室へやって来た。その男が戸口を入って来たのを見ると、私は吃驚びっくりして、挨拶すべく起ち上った。その男というのは、かの青年であった。私は彼を見た瞬間に、例の誰かに似ているという強迫観念が猛然と頭をもたげた。で、私は思わず、懇意な人を歓迎でもするような態度で、手を延べてつかつかと彼の方へ歩いて行った。彼は吃驚した。私もハッと思って椅子をすすめつつ、
「失礼ですが貴方はよく似ておられますよ、私の……」
 と吃りながら言いかけたが、相手が冷たくこちらを見据えているので、
「どこかお悪いんですか?」
 と言葉をらした。
 青年はすぐに返事もせずに、静かに椅子に腰をおろして、両手を肱掛に伸ばしていた。私はもう一度脳漿をしぼった。「どこでこの男に会ったんだろう?」としきりに例の記憶を辿っていたが、突然にある考え――というよりはむしろ一つの幻影まぼろしがさっと胸に閃いた。しかもそれがあまりに驚くべきことなので、危なく大きな声で叫ぶところであった。「解った!」と。私はとうとう彼の正体を突き止めることができた。かつて夕闇の中で、書架の上に現われた変化の顔――それを今まざまざとこの生きている男の肩の上に認めたのである。その暗合のあまり不思議なのに呆れて、私は相手の言葉も耳に入らなかったが、ふと気がつくと、彼はずっと前から何かしゃべっていたのであった。
「……僕はどうも生れつき異常へんなんです。子供の時から自分は友達と異っているということに気がついていました。時々突然に家を飛びだしてどこかに隠れて独りぼっちになろうとしました。そうかと思うと目茶苦茶に友達が欲しくなりました。そんなふうに興奮するとまるで夢中でした。時としては、何という理由わけもなく、急に癇癪が起りましてね……そんなときには大抵海岸か山の方へ転地しましたが、ちっとも効果ききめがありませんでした。それは子供の時分のことですが、この頃はまた、すこしの音響ものおとにも驚愕びっくりするくせが付き、そして明るい光線を見るのが非常な苦痛です。体は至って壮健じょうぶですが、全体に痛みを覚えます。二三の医師にせましたが、みんなどこにも故障がないという診断です。それから夜もいけません。朝に眼が醒めたときは、徹宵よっぴて放蕩でもしたように体がぐだぐだに疲れています。時々これぞという原因もなしに、しきりに懊悩煩悶しまして、頭がぐらぐらします。それに睡眠ができないので困ります。たまに眠ったかと思うと夢魔うなされるので……」
「酒はあがりますか?」
「僕は酒は大嫌いで、アルコールのにおいも厭です。僕の飲みものといえば、まず水だけですね。ところで、もう一つ一番いけないことをお話しするのを忘れていました……これには自分でも閉口していますが……どんな些末つまらんことでも他人から反対されると、口に出して言われる場合は無論のこと、目付なり、仕草なり、その他どんな微かな仕方ででも、自分の意に逆らったことをされると、嚇怒かっとなるのです。だから僕は決して武器などを携帯しないように気をつけています。自分を制しきれなくなってそんな武器ものを振り廻しちゃ大変ですからね、そんなときには僕の意思というものが留守になっています。他の人格が僕の頭に入って来て、僕を追い使うので、まったく正気じゃないんです、だから正気にかえったときは。[#「かえったときは。」はママ]自分が何をやったかまるっきり記憶おぼえがありません……、だが不思議じゃありませんか、自分は人殺しをやりたかったんだということだけは、きっと頭に残っています。こうした発作が家にいるときに起ると、いきなり自分の部屋に引籠るから安全ですが、これまでも度々あったように、ひょっと戸外で起りますと、どこをどう歩いて、どんなことをやるんですか、夜半よなかになって見も知らぬ場所の共同椅子の上などで目が醒めるまでは、一向に気がつかないんです。そんなときは、もしや夢中で何か罪をやったんじゃないか、と思うと急に恐ろしくなって、飛ぶように家に帰って閉じ籠りますが、早鐘を打つように動悸がして、心が怖々おじおじしてちっとも落着くということができません。それでも四五日何事もなく経過すると、やっと解放されたような気がしてほっと安心します。こんな状態ようですから、先生、どうも放抛うっちゃっておけないんです。僕は今に健康からだこわすばかりでなく、頭も狂いそうです。……一体どうしたらいいでしょう?」
「そんなに心配することない」と私は言った。「ちょっとした神経的症状に過ぎないんだから、じきになおりますよ。だが、第一にその原因を発見しなければならんね。あなたは仕事のために頭を使い過ぎるんじゃありませすか?[#「ありませすか?」はママ] ……そんなこともない……そんなら特に神経を悩ますというような心配事でもあるんでしょう? ……それもないか……? ……何も原因がないって? ……しかし医者には何もかも正直に打明けなければなりませんぞ」
「僕はありのままに申し上げたのです」
「何か他に事情がありましょう。あなたは御兄姉ごきょうだいはおありですか? ……無い……お母さんは御在命ですか? ……そうですか……お母さんは神経質なお方でしょう? ……そうじゃないって……そんならお父さんは、やはり御健全じょうぶですか?」
「父は亡くなりました」と青年は極めて低い声で答えた。
夭折わかじにの方でしたか?」
「ええ、僕がやっと二歳ふたつになった年に死んだそうです」
「病名は何でしたかね?」青年はこの質問がよほど神経に触ったらしく、さっと顔色が蒼ざめた。その瞬間に、私はかの変化に最もよく似た顔を見たと思った。
 彼は暫く考えてから答えた。「実は……僕がこんな惨めな健康からだになったというのも、本統の原因はそれなんです。僕は知っています、父は、斬首台ギロチーヌで果てたのです」
 ああ、私はここまで穿鑿せんさくをすすめた心無さをどんなに後悔したことか! 私は一所懸命に話を他へそらそうと努めた。しかし幸いに気まずい思いもしないで、お互いに諒解し合った。私は努めて平静に、有望らしい調子で相手を励まし、大体の養生法を言い聞かせ、なお処方も書いてやった。それから、もっと気を確かに持っていなれけば[#「いなれけば」はママ]ならぬことと、近いうちに再診をうけに来るように注意して、彼を送り出した。
 そのあとで私は召使に言った。「今日はもう誰が来ても断るんだ」
 私は実際、患者の話を聴いたり、診察のできそうな気分ではなかった。頭が混乱していた……変化……それに酷似そっくりの顔……あの青年の告白……私は静かに坐って、思想かんがえを纏めようと努めたが、眼はひとりでに書架の上の骸骨の方へ惹付けられていた。しかしいくら見つめても、あの不思議な類似の謎を解くことができない。で、私はとうとう書架の前へ歩いて行った。そしてかの骸骨を手に取ると、今までに気づかなかった不思議なことが眼に止まった。それは骸骨の後頭部の下の方に、広く、嶮しいみぞのついていることであった。疑いもなく、激しい斧の一撃をくらったあとだ。斬首台ギロチーヌの刃の下らんとする瞬間に、犠牲者が本能的に身を退くようにするので、よくこんなふうに傾斜した切り傷が出来るものなのだ。
 あるいは偶然の暗合であったかも分らぬ。多分私は前にあの青年と街のどこかで会ったことがあって、潜在的に記憶に印象したその顔を、私が幻想的にあの骸骨に被せて、自分で変化を見たように信じていたんだと説明することも出来よう。……多分……そんなことかもしれぬ。しかし諸君、世の中には解決などせずにおきたいと思われる神秘がいくらもあるのだ。
★★





底本:「幻影城 9月号(第2巻・第10号)」幻影城
   1976(昭和51)年9月1日発行
底本の親本:「新青年」
   1923(大正12)年1月増刊号
初出:「新青年」
   1923(大正12)年1月増刊号
入力:sogo
校正:ノワール
2019年4月26日作成
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