幻想
モーリス・ルヴェル Maurice Level
田中早苗訳
乞食は、その日、辻馬車の扉を開け閉てして貰いためた僅かの小銭を衣嚢の底でしっかと握り、寒さで青色になって、首をちぢめて、身を切るような寒風を避ける場所を探しながら、急ぎ足の人々とともに往来を歩いて行った。
すっかり草臥れてしまって、『どうじゃ一銭』を云うさえ億劫だし、手をのべたくても、手套なしの手は我慢にも衣嚢から出せないほど凍かんでいた。
横っちょに吹きつける粉雪が髭にたまり、頸筋へ溶けこむのにも気づかずに、彼はひたすら或る瞑想にふけった。
「たった一時間でいいから、金持ちになりてえなア。そうすると、おれは何を措いても馬車を一台買うぜ」
彼は立ちどまって、思案ありげにちょっと首をふったが、
「さて、それから何を買おうか」
と心に問うてみた。さまざまな栄耀栄華の幻影が後から後からと頭にちらついた。が、詮じつめると、どれもこれも欠点があって面白くなかった。その度ごとに彼は肩をゆすぶって、
「いや、こいつも駄目だ……して見ると真正の幸福ってものは無えもんだなア」
そんなことを考えながら、とぼとぼ歩いてゆくと、或る家の軒下にもう一人の乞食がぶるぶる慄えながら立っているのが眼にとまった。
その乞食はしかめっ面をして、手をさしのべて、
「お助けなされて下さりませ、お願いでござります……どうぞや、どうぞ……」
と呻っているけれど、声があまりにかぼそいもんだから、街の物音にかき消されて些しも人の注意をひかない。
傍には、泥まみれになった惨めな雑種犬が一疋、身をふるわせて微かに吠えながら、一生懸命に尻尾をふっていた。
前の乞食はそこに立ちどまった。犬は主人の同類がやって来たのを見ると、嬉しがって、少し元気よく吠えて鼻頭を摺りつけるようにした。で、乞食は注意ぶかくその犬の主人の様子を見ると、ひどい襤褸を着て、破れ靴を穿いて、あわれな手首は寒さでぶす色になり、眼を閉じた顔は真蒼で、胸には『めくら』と書いた灰色の板をぶらさげていた。
盲乞食は人の立ちどまった気配がすると、哀れっぽい声を振りしぼって、
「お助けなされて下さりませ、旦那さま……哀れな盲でござります……」
前の乞食は身じろきも[#「身じろきも」はママ]しずに、そこに突立っていた。
往来の人々は顔を背けてさっさと通りすぎた。温かそうな毛皮の外套を着こんだ一人の貴婦人が、定服の召使に傘を翳させながら、そこの広い戸口から出て来たが、乞食どもを見るとマッフで口を庇うようにして、素早く拾い歩きをして、待っていた馬車の中へすっと消えてしまった。
盲は例の単調な哀願をつづけた。
「お助けなされて下さりませ……どうぞ一銭与って下さい……」
しかし誰一人振りむきもせなんだ。暫くして前の乞食は、自分のかくしから幾枚かの銅貨を摘みだして、盲乞食にくれてやった。犬はそれを見ると嬉しそうに吠え立てた。盲は貰った銅貨をばふるえる指に握りしめて、
「お難有うござります、旦那さま……お難有うござります……」
乞食は『旦那さま』という敬称を聞くと、
「おれは旦那さまじゃねえんだよ、兄弟。お前と同じ惨めな乞食さ」
と口まで出かかったのを、ふと思いかえして引っこめた。そして自分がこんな場合に散々聴かされている言葉で答えた。
「いや些しばかりでお気の毒だな」
「恐れ入ります、旦那さま。お寒いのに、わざわざお手をお出しなすって……お難有うございます。こんな日は、私のような病人はまことに難渋いたします。その苦しみというものは、とてもとてもお話しになったものじゃござんせん」
乞食は聞いているうちに、ああ気の毒なという感じが胸一杯にこみあげて来た。
「わしは解っている。よく解っているよ」
自分以上に悩んでいる者を見た彼は、もう自分の貧苦などをうち忘れて、
「お前は生れつき眼が見えないのか」
「いいえ、齢を老りしだいに悪くなりましたので、お医者は老齢のせいだといいます。白内障とかいう眼だそうでございます。けれど、老齢のせいばかりではございません……あまり度々不幸な目に遭ってあまり酷く泣かされたせいでございます」
「じゃ、随分不幸つづきだったんだね」
「はい、旦那さま、一年のうちに女房と、娘と、男の子を二人死られました。こうして私を愛してくれるべき可愛い者達にすっかり先死たれ、おまけに大病に取憑かれて、すんでのことに彼世へ行くところでございました。幸い癒りはしましたもののもう体が弱って仕事が出来ませんので、年中貧乏で不自由をしております。何日も物を食べずに暮らすことが珍らしくありません。昨日少しばかりの麺麭屑を、この犬と二人で頒けて食べてから、まだ何も口に入れませぬ。今旦那さまに戴いたこのお銭で、今晩と明日の食べものを求める積りでございます。ハイ」
乞食はこの盲の述懐を聴きながら、自分の衣嚢の中で銅貨をいじくっていた。手探りで数えるとそれが四十八銭あった。
「来いよ、わしと一緒に。此処はあんまり寒いから、そこいらへ行って何か御馳走しよう」
「それはそれは、旦那さま、どうも恐れ入ります」
と盲は嬉しさに上気して、吃り吃りいった。
「さア出掛けよう」
乞食は、盲の手を執って、自分の服の濡れていることや、薄っぺらなことを覚られぬように用心しながら歩きだした。犬は首をあげ、耳をしゃんと聳てて、雑鬧の中を進んで行った。交通の頻繁い街を横ぎるときなどは、鎖をピンと張るようにして、機敏に主人を導くのであった。
彼等はこうして稍しばらく歩いて行ったが、やがて裏街の或る小さな飲食店の前に立ちどまると、乞食は戸をあけて、盲に声をかけた。
「さアお入り」
暖炉の前の食卓を択んで盲を坐らせ、自分もその前に腰をかけた。
四、五人の労働者風の客が、黙りこくって、めいめいに小さな厚い皿のものを貪るように掻込んでいた。
盲は犬の鎖を解いてやって、炉の方へ手をかざしながら、ほっと溜息をして、
「大そう気持のいいところでございますね」
乞食は女中を呼んで、盲のために肉菜汁とふかし肉を誂えた。
「そして旦那は何を召上ります?」
女中が訊くと、
「わしは何も要らない」
やがて、ぷんぷん美味そうな匂いのする肉菜汁と、肉の皿がはこばれた。盲は無言で緩くり緩くりそれを平らげた。乞食は傍でじっとその様子を見ていたが、自分の食料として持っていた小さな麺麭片をば、食卓の下でそっと割って犬にやった。そして、盲が肉菜汁と肉をすっかり食べ終ったときに、彼はいった。
「何か一杯お飲り。そうすると脚に力がつくぞ」
それから間もなく女中を呼んで、
「ねえさん、何程」
「四十四銭頂きます」
彼はその勘定を支払って、別に四銭のチップを女中にくれて、それから盲に腕を貸した。
やがて街へ出ると、彼は訊ねた。
「お前はこれから遠方へ帰るのか」
「ここは一体何処でございましょう」
「サン・ラザール停車場の近所だよ」
「では、可成り遠うございますな。私は河向うの或る小舎に寝泊りしておりますので」
「そんなら途中まで送ってあげよう」
「難有うござります。御親切に、どうも難有うござります」
「いや、いや、そんなに礼をいうほどのことでもないさ」
何という理由もなく、彼は幸福を感じた。むしょうに嬉しい気持になった。何が愉快だってこれほど愉快を感じたことはなかった。彼は歩きながら恍惚と夢見るような思いに浸っていた。自分こそ食べ物もなく、今宵の寝所にも困っている体であることも忘れ、その上に困苦も、襤褸服も、自分が乞食であることすらも忘れてしまったのであった。
彼はときどき盲の方へ振りかえっては訊いた。
「わしの足が早すぎはしないか。随分草臥れただろう」
その度に盲はひどく恐縮して、
「ど、どういたしまして、旦那さま」
そんな風に挨拶されると、乞食はまた嬉しくなって莞爾莞爾した。彼は急に金持ちの慈善家になったという不思議な感じがすると同時に、此方をそう思いこんでしまった相手の幻想によって擽ぐられるのであった。
湿っぽい河風にあたると、盲は早くも河岸へ来たのを感じて、
「ここまで来ればもう一人で帰れます。犬がついていますから大丈夫です」
「そうかい。では、気をつけて行けよ」
と乞食は寛闊な口調でいった。
彼は今、或る妙な思いに浸っているのだ。その妙な思いというのはこうだ――おれがあんなに度々あんなに熱心に憬がれた夢が、今実現された。おれはついに申し分のない幸福な心持を味わったのだ。不断狂人になるほど希っていたように、実際の金持になったり、美味いものをたらふく食ったり、美人から恋われたりするよりも、今のこの歓びの方がどんなに尊いか知れない。この盲人は、同じ仲間に手を引かれているとは夢にも知らないで、おれのことを親切な金持ちの旦那さまだと信じきっている。して見ればおれは、ほんとうの金持ちになったも同様だ。何といったって、今夜のような深い混りっ気のない歓びというものは、おれとしては、二度と再び味うことの出来ない心持なんだ――
しかし、こうした大歓喜も長くはつづかなかった。ふと気がつくと、彼はもう現実にかえっていたのである。
「では、ここでお別れだ」
二人は恰度橋の中央へ来ていた――乞食は立ちどまって、もしや銅貨一枚でも残っていはしないかと思って衣嚢へ手をやったが、もう空っぽだった。
彼は盲とかたく握手をした。盲はもう一度感謝をくりかえして、
「お難有うござります、旦那さま。どうぞ御姓名を伺わせて下さい、貴方さまの御幸福をお祷りするために」
「名乗るほどのこともないさ。寒いから早くお帰り。わしこそお蔭で大変いい心持になったよ。左様なら」
すたすた帰りかけたが、やがて立ちどまって、橋の上から漫々たる河面の闇をじっと瞰きこんだ。
「左様なら」
一声高くそういったかと思うと、彼は不意に欄干へ上った――つづいてざぶりッ――とはげしい水音。
「身投げだ。救けろ」
「橋からじゃ駄目だ」
「河岸へ行け、早く早く」
大勢の人がたちまち右往左往に駆けだした。盲乞食はその騒ぎに揉まれながら、
「どうしたんですか。何かありましたか」
問いかけると、
「乞食が河へ飛び込みやがったんだ」
威勢のいい弥次馬が、擲り飛ばしそうな勢いでこう呶鳴りながら、どんどん駆けて行った。
すると盲乞食は気倦そうに肩を一つゆすぶって、独りごとをいった。
「其奴なんかは、とにかく勇気があったんだな、それだけの勇気が」
それから彼は空でも見上げるように顔を仰向け、背中を丸めて、靴の爪尖で犬をさぐり、杖で地面を叩きながら、とぼとぼと歩いて行った――何も知らずに。
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
2003(平成15)年2月14日初版
底本の親本:「夜鳥」春陽堂
1928(昭和3)年6月23日
初出:「新青年」
1925(大正14)年1月増刊号
※初出時の表題は「雪降る夜」です。
入力:ノワール
校正:栗田美恵子
2020年3月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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