乞食
モーリス・ルヴェル Maurice Level
田中早苗訳
夜は刻々に暗くなってゆく。
一人の老ぼれた乞食が、道ばたの溝のところに立ちどまって、この一夜を野宿すべき恰好な場所を物色している。
彼はやがて、一枚のあんぺらにくるまって身を横えると、小さな包みをば枕代りに頭の下へ押しこんだ。そのあんぺらは彼にとって殆んど外套の代用をなしているものであるし、またその包みは年中杖の尖にぶらさげて持ちあるいているのである。
彼は飢と疲れでがっくりと仰臥になったまま、暗い蒼穹にきらめく星屑をうち眺めた。
街道は森閑と茂った森にそうていて、人っ子一人通らない。鳥はみな塒にかえってしまった。向うの村は大きなどす黒い汚点のように見えている。老乞食はこうした寂しい場所にじっと寝ころんでいると、何だか悲しくなって来て、喉に大きな塊りがこみあげて来るのであった。
彼はまるっきり両親というものを知らない。元来捨て児だったのを、或る百姓に拾われて暫く育てられたが、また捨てられてしまった。それで、子供の時分から路傍に物乞いして辛と生命をつないできた彼は、生きてゆくことの辛苦を厭というほど嘗めさせられたのである。それに、日蔭ばかりをくぐって来たものだから、世の中については悲惨ということの外には何も知らない。長い冬の夜は、水車場の軒下で明かすのだ。彼には、物乞いをする恥と、むしろ死にたいという望み――再び醒めざる眠りにおちたら如何に楽だろうという憬れがあるだけで、その外に何の考えとてもない。
世間のすべての人が彼に対して情なくも疑りぶかいのだが、一等困るのは、皆んなが彼を怖がっているらしく思われることである。村の子供等は彼の姿を見ると逃げ隠れるし、犬どもは彼の汚いぼろ服に吠えつく。
それにも拘らず、彼は他人に対して悪意というものを持ったことがない。貧苦のために痴鈍になったとはいうものの、元来樸訥で優しい気象を彼はもっているのである。
彼は今うとうとと眠りかけたが、ふと向うから馬の鈴の音が聞えて来た。顔をあげると、燈りが一つちらちらと街道を動いて来るのが見える。彼はぼんやりその燈りを見つめていると、やがて一台の大きな荷車と、それを牽いている一頭の逞ましい馬がはっきりと見えて来た。その荷馬車は非常に高く荷物を積んでいて、街道一杯にふさがっているようだ。そして一人の男が鼻唄をうたいながら馬の傍を歩いている。
唄は直きに杜絶えた。と、道が登り坂になって、蹄鉄のはげしく石に触れる音がする。馬子はぴしゃりぴしゃりと鞭をあてながら、尖り声で馬を叱りとばしている。
「それっ! しっかり!」
荷が重いものだから、馬は満身の力をしぼって、頸が精一杯に前へのびる。二、三度立ちどまって膝を折りそうにしてはまた起ちあがる。そしてその度に、肩のあたりから後脚へかけておそろしく緊張する。
そのうちに曲り角へ来て馬車はぱったりと立ちどまった。馬子は車輪に肩をあてて両手で輻を押しながら、
「それ、畜生、しっかり!」
と一層はげしく呶鳴る。馬はあらゆる筋肉を緊張めて懸命に前へ牽きだそうとするけれど、車台は微塵も動かない。
「こらっ! しっかり!」
馬は、重荷のために後退りするのを防ごうとして、蹄にこめた満身の力でふるえながら、脚をひろげ、鼻息をふうふう喘ませている。
そのときに馬子は、溝の縁に半身を起している乞食を見つけて声をかけた。
「おい大将、手を貸してくれないか。こん畜生がどうしても動こうとしない。ここへ来て一緒に押してくれ」
乞食は起きあがった。そして、その弱い力のありったけをふり搾って後押しをやった。
「こら、よいしょ!」
馬子と声を合せて怒鳴った。けれども徒労だった。
乞食は直きにぐったりと疲れてしまった。それに、馬が可憫そうで堪らなくなった。
「少し息をつかせておやりよ。これじゃ荷が重過ぎらア」
「重いことがあるもんか。此馬意久地がねえんだ。我がままをさせると癖になるから駄目だよ。さあ畜生、しっかりしろ!……大将、石を一つ拾って来てくれ。車が退らからねえように止め石に使うんだ。そして斜かけに登らせよう」
乞食は大きな石を一つ拾って来た。
「こうするんだ」と馬子はいった。「おれが後押しをやるから、お前は馬の頸を左の方へ向けて、鞭で脚をうんと引ぱたいてくれ。そうしたら動くだろう」
鞭で打たれる苦しさに、馬はもう一度はげしい努力をやる。蹄鉄で小石を蹴るたびに火花が散る。
「その意気、その意気」
斜かけに牽きだそうとして、馬がうんと一つ踏んばったので、馬子は〆たとばかり、止め石を当てるために車台の下へかがんだ拍子に足が辷った。と同時に馬がたじたじと後退りをしたものだから、馬子はアッ! と叫んで打倒れた。
彼は仰向けになったまま今にも胸へのしかかろうとする轍をば、両手で精一杯に支えている。肱がその重さで地面へ喰いこみ、顔面はひきつり、眼はつり上っている。
彼は苦しい声をふりしぼって、
「馬を前へ出してくれ。おれはもう轢かれそうだ」
乞食は、見なくても、想像でその状態がわかった。そこで彼は轅を引張ったり、鞭でひっ叩いたりして一生懸命に馬を出そうとするけれど、拗ねた動物は却って膝を折りまげて、どたりと横っ倒しになった。と、車台が前のめりして、轅棒が地面にくっついた。
カンテラがひっくりかえって燈が消えた。
あとは寂然たる夜の闇で、何の物音もなく、ただ馬の鼻息とともに馬子が呼吸づまるような声で、
「馬を出せ、前へ出せ」
と喚いているだけだ。が、乞食はどうしても馬を起ち上らせることが出来ないものだから、断念めてしまって、今度は馬子の方へ行って彼を救い出そうとした。しかし馬子は、もう一、二吋で体へ触れそうになっている轍をば両手にこめた満身の力で僅かに支えているけれど、今に精根がつきると轢き殺されるのだ。とても身動きなど出来るものでない。それは自分にもよくわかっていた。だから乞食が屈みかけたのを見るとあわてて怒鳴った。
「おれに触っちゃいけない……触っちゃいけない……それよりも早く村へ駆けて行って、おれの家へ知らせてくれ……リュシャっていうんだ……村の右側の、つっかけの家だ……早く助けに来いといってくれ……まだ十分間は支えていられそうだ……早く早く」
乞食は夢中になって駆けだした。丘を登ってまっすぐに村の方へ駆けて行った。村ではどの家もみな鎧戸が締まっていて、街道は真暗で、人っ子一人通らない。犬どもは彼の駆けて来るのを見るとはげしく吠え立てた。が、彼は夢中で何も聞かず、何も見なかった。丘の下で轢き殺されそうになっている男の、おそろしい幻影ばかりが目先にちらついた。
乞食はやがて立ちどまった。街道はそこから平坦になっている。右手の突っかけに一軒の百姓家があって、窓の隙間から一条の燈影がもれている。この家にちがいない。彼は拳骨でその鎧戸をどんどん叩くと、
「帰ったのか、ジュール」
屋内から声がする。だが乞食は息切れがしているので返事が出来ない。やたらに叩くばかりだ。と、やがて寝台の軋る音と、床に跫音がした。それから窓が開いて、眠そうな百姓が燈影へぬっと顔を出した。
「帰ったのか、ジュール」
そのとき乞食はやっと物がいえるようになった。
「うんにゃ、おれだよ。あのね……」
けれども百姓は皆まで云わせなかった。
「手前何だってそんなところにうろうろしているんだ。夜夜中人を叩き起しやがって」
ぴしゃりと窓を締めきって、
「無宿者奴、碌でもねえ野郎だ」
この邪慳な声と仕方にびっくりして、乞食はそこに立ちすくんだまま考えた。
「おれの用を何だと思ってるんだろう。おれは何も悪いことをするんじゃなし、叩き起したっていいじゃないか。奴は何も知らねえんだな、可憫そうに」
彼はまた恐る恐る鎧戸を叩いた。
「まだぐずぐずしているかッ、畜生、取っちめてやるぞ」
屋内から今の声が怒鳴った。
「開けてくれ」
「帰れ帰れ」
「うんにゃ、開けてくれ」
そのとき凄まじい勢いで再び窓が開いたものだから、乞食は面喰って跳びのいた。百姓爺が癇癪をおこして鉄砲を持ちだしたのである。
「おれのいうことが聞えねえか、乞食奴。ぐずぐずしていると鉄砲弾ア喰わせるぞ」
つづいて寝床の中から憤った女の声で、
「射っておやり、人助けになるよ、ほんとうに。無宿者なんか盗みでもするより芸がありやしない。盗みどころか、彼奴等はもっともっと悪いことをするんだよ」
乞食は銃口を向けられるとぎょっとして暗がりへ隠れた。彼は思わず身ぶるいした。が、恐怖のために一寸の間忘れていた哀れな馬子のことをまた思いだした。今頃はあの街道で七転八倒の苦しみをやっているだろう――そう思うと、邪慳なこの爺が堪らなく癪にさわって来た。
たとえ食べものや寝所が欲しさに戸を叩いたとしても、牛小舎の隅の藁床へなりと寝かしてくれたっていいじゃないか。犬に食わせる麺麭の片らぐらい頒けてくれたってよさそうなものだ。いかにぼろ服を着ておればとて、金持ちの奴等がおれを殺そうと脅かすなんて、あんまり馬鹿にしていやがる――そう考えると、一種の狂暴な憤りが全身を走った。
彼は杖で鎧戸をしたたか叩いてやろうとしたが、ふと思いかえして、
「いやいや、そんなことをやると、彼爺発砲するぜ……声を立てると村の奴等が起きて来て、おれを半殺しの目に遭わせるだろう。おれが何をいったって聴くもんか……何処へ行っても手を借してくれる奴なんかありはしない。おれがひどい目に遭わされるばかりだ」
彼はちょっと考えたあとで、他手を借りずにもう一度あの男を救いだす工夫をしようと決心して、元の場所へ引きかえした。彼は狂気のように駆けだした。
「あれから何うしたんだろう。あすこで、惨たらしく死んでいるのではあるまいか」
こうした恐怖が、彼に若者のような脚の力を与えた。
荷馬車のあったところへ行くと、いきなり声をかけた。
「おい」
返事がない。
「おい、どうした」
真暗で馬は見えないけれど、嘶きを便りに行ってみると、元の場所から少し退ったところに、馬は相変らず横っ倒れになっていた。車台がそれだけ後退りをしたのである。
「おい、おい」
乞食は身をかがめて、折から雲間をもれた月光にすかして見ると、かの馬子は両手を十字架のようにひろげて、眼を塞いで、口から血を吐いていた。そして重い轍は丁度軌道にでも載ったように、ぎっしりとその胸に喰いこんでいた。
乞食は、果敢なく死んでしまったこの男のために、もう何の助けにもならなかった。と、ますますこの男の両親の仕打が腹立たしくなった。
「おれは復讐をするんだ」
乞食はもう一度かの百姓家へ駆けて行った。今度は鉄砲なんかを眼中におかないで、むしろ一種の残酷な歓びをもって、先刻の鎧戸をがんがん叩いた。
「帰ったのか、ジュール」
乞食は黙っていた。
やがて窓があいて爺の顔が出て、再び同じ問いをくりかえしたとき、彼はやっと答えた。
「うんにゃ、先刻の乞食だよ。お前さんとこの倅が街道で死にかかっていたから、知らせに来たんだがね」
すると母親のおろおろ声が爺のそれとこんぐらかって、
「な、何だって。こっちへお入り、早く早く」
だが乞食は帽子のひさしを眉深にひきおろして、
「騒いだって駄目だよ。先刻おれが来たときに慌てなければならなかったんだ。お前さんとこの倅はな、可憫そうに、重い荷馬車を胸に載っけているぜ」
捨て台辞をいって、のっそりと歩きだした。
「早く早く、父さん」母親はわめき立てた。「駆けて行くんだよ、駆けて」
父親はあたふたと着物をひっかけながら怒鳴った。
「場所は何処だい。おい、行ってしまっちゃ駄目だよ……聞かしてくれ、後生だから……」
だが乞食は例の杖を背負って、早くも闇の中へ消えてしまっていた。
四辺はひっそりと静まりかえって、答えるものとてはただ、人声で目をさました雄鶏が糞堆の上でけたたましく鳴いたのと、頸を高くもたげて月に遠吠えする犬の声ばかり。
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
2003(平成15)年2月14日初版
底本の親本:「夜鳥」春陽堂
1928(昭和3)年6月23日
初出:「新青年」
1923(大正12)年8月号
※「呶鳴」と「怒鳴」の混在は、底本通りです。
※初出時の表題は「夜の荷馬車」です。
入力:ノワール
校正:栗田美恵子
2020年9月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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