碧眼

モーリス・ルヴェル Maurice Level

田中早苗訳




 女は寝台のそばに立って、しょんぼりと考えこんでいた。病室用のだぶだぶな被布にくるまっているせいでもあろうが、何だか実際よりも痩せ細って見えた。
 あの愛くるしい顔もすっかり衰えてしまった。眼の縁はうすくくろずんだけれど、哀愁をたたえた底知れぬ深さの碧眼あおめが不釣合なほど大きく見えて、それが僅かに顔の全体を明るくしているようだ。頬は、肺病患者によくある病的紅潮を呈し、そして鼻の両側に出来た深いくぼみは、あたかも止め度ない涙のために、そこのところだけったかと思わせるのであった。
 彼女は、受持の医員がそばへやって来たのを見て、お辞儀をすると、
「おい四番、お前さんは外出したいって云ったそうだが、本統かい」
「はい」
 かすかに囁くほどの声で答えた。
「飛んでもないことだ。お前さんはやっと二、三前に起床おきられるようになったばかりじゃないか。それに、こんな天気に外出するとまた悪くなるよ。もう少し我慢をしなさい。此院ここは別段不足がない筈なんだが、それとも誰か気に触ることでもしたかい」
「いいえ、先生、そんなことはございません」
「そんなら何故だしぬけに外出したいなんて云うんだね」
「わたし、どうしても出かけなければなりません」
 きっぱり云って退けた。その声は案外しっかりしていた。そして、問いかえされぬ前に急いで後をつづけた。
「今日は万聖節でございますわね。わたし一緒になっていたひとの墓に、今日はきっとお詣りしてお花をげるっていう約束をしました。わたしの外には誰もお花なんかげてくれ手がないんです。それで、堅い約束をしましたの」
 涙が一滴、眼瞼まぶたにきらりと光ったのを彼女は指で押しぬぐった。
 医員は何となく可憫かわいそうになって来た。そして一種の好奇心からか、それとも何か云ってやらねばあんまり無愛想だとでも思ったのか、ふと彼女に問いかけた。
「その情人ひと何時いつ亡くなったの」
「もう、一年になります」
「何だってそんなに若死をしたんだね?」
 女は慄然ぞっとしたようであった。その落ちくぼんだ胸部や、細々と痩せた手首などが一そう惨々いたいたしく見えた。そして彼女は半ば眼をつぶり、くちをふるわせながら、
死刑おしおきになりましたの」
 と呟くようにいった。
 医員は暫く唇を噛んでいたが、
「それは可憫かわいそうな。ほんとうにお気の毒だね。それで、どうしても外出がしたいというなら、出かけなさい。風邪を引かんように気をつけてね。明日は帰って来なければいけないよ」
 病院の門を出ると、ぞっと寒気がした。
 それは寂しい秋の午前あさであった。こまかい霧雨が壁に降りかかり、すべてのものが――空も建物も裸になった樹々も、霧にとざされた遠方おちかたも――おしなべて灰色に見えた。人々は早くこの濡れた往来からのがれようとして、せわしげに歩いていた。
 彼女は真夏からずっと入院していたので、衣物きものもそのときに着て来た、地質の薄い、色の華美はでなものであった。痩せた襟のあたりにつけたリボンが皺くちゃになったのも、殊に哀れ深く見えた。スカートも、上衣も、ネクタイも、夏の頃は晴やかに微笑したものであっただろうが、今はすべてが灰色のうすら寒い四辺あたりの色に対照すると、いやに寂しくうちしおれて見えるのであった。
 彼女は覚束ない歩調あしどりで歩いて行ったが、呼吸いき切れがするのと、頭がふらふらするので、時々じっと立ち止まらねばならなかった。
 街を行く人々は皆なふりかえって彼女を見た。彼女は物が云いたげにもじもじしているようであったが、それも恐ろしいかして、神経的にきょときょと左右に気を配りながら歩いて行った。
 そんな風にして、とうとう巴里パリの半ばを横ぎって、セーヌ河岸がしまでやって来ると、暫く立ちどまって、その緩やかな、溷濁こんだくした水面をじっと見まもった。が、きりで刺すような寒さに身内がぞくぞくしてとて静然じっとしていられないので、彼女は再び歩きだした。
 やがてモーベール広場からコブラン通りの方へ出ると、どうやら気分が落ちついて来た。その辺は長く住み慣れた土地なので、見覚えのある顔もちらほら見えて来た。彼女を見て噂をしてゆく者もあった。
彼女あれがヴァンダの情婦いろだぜ、滅法めっぽうやつれやがったな」
「ヴァンダって誰だい」
「お前知らねえのか。あの、そら、人殺しをやった……」
 彼女は終局しまいまでそれを聞くのが恐ろしさに、両手で顔をかくして足早に行き過ぎた。
 とある見すぼらしいホテルの前へ来たときは、もう日が暮れかけていた。このホテルは彼女が病気になる以前に巣喰っていたところなのだ。
 彼女はつかつかと戸口を入って行った。階下したは小さなカッフェになっていて、曖昧な娼婦おんな達や、それらに飼われている情夫おとこ達がそこに集まって花牌はなをひいていた。
「おお、碧眼あおめさんが帰って来た」
 と皆んながびっくりして叫んだ。『碧眼あおめ』というのが彼女の通り名であったのだ。
「一杯おりよ、碧眼あおめさん。ここがいてるぜ、サア此方こっちへおいで」
 歓迎されたのは嬉しかったが、もうもうと煙草の煙りのこもったへやへ入ると、しきりに咳が出て呼吸いきつまりそうだった。
「いいえ、わたし左様そうしていられないの。女将おかみさん居て?」
「ああ彼処あすこにいるよ」
 すると彼女は、女将おかみの方へ臆病らしい笑顔を向けて、
「わたしおねがいがあってよ、マダム。衣物きものを取りに来たの。これじゃ寒くてやりきれないんですもの」
「お前さんの荷物はみんな屋根部屋の方へ片づけさせておいたから、何処かにあるだろうよ。誰か見にやりましょう。まア暖炉ストーブそばへ来ておあたりよ」
「ええ難有ありがとう。でも、わたし左様そうしていられないの。ちょいと出かけて、すぐ帰って来るわ」
 戸口の方へ行きかけると、男の一人が後ろから冷嘲ひやかした。
「もう稼業しょうばいをお始めかい。馬鹿に手廻しがいいじゃないか」
 間もなく彼女は出ていった。一寸でも暖かい室内へやに入った後なので、外へ出ると寒さが一しお身にしみた。
 墓地の近所へ来ると、墓詣りをする人々は、手に珠数だまや花束をさげて急ぎ足に歩いていた。或る者は真黒な喪服をすっぽりとかついで、悄然と力ない歩調あしどりをしているかと思うと、一方には華やかに着かざって、饒舌おしゃべりをしたり高笑いをしたりしながらやって来る者もある。そういう人々は、墓詣りということが普通ただの習慣となってしまっているらしい。『時』が彼等の悲哀かなしみを磨り減らしたのであろう。
 鋪道に沿うて、花屋の手車が一杯に押しならんでいた。菊のちぢれた花と薔薇の房とが重なり合い、含羞草ねむりぐさは、その黄金こがね色の花粉をすみれの束の上に散らしていた。墓地へ近くなるにしたがって、石碑いし屋の前には、きれいな唐草模様や、くすんだ色で塗った安物の花瓶が、棚の上に並べられてあった。そしてもっと先きへ行くと、むぎわら菊の花環だの大きな珠数だまなどを売っていた。
 彼女は欲しそうな眼つきでそれ等のものを見た。何か、小さな花束一つでもいいから買って行きたいと思った――墓地の片隅に、姓名なまえの一字だも記されてないのっぺらぼうな土饅頭どまんじゅうの下によこたわっている、あの哀れな男のために。
 殺人者――そんなことは彼女にとって何の意味もなかった。只もう可愛い情夫おとこ、それは彼女の肉と精神こころのすべてを捧げた恋人であったのだ。彼は、逆上した瞬間に人をあやめた。しかしその恐ろしい負目おいめは、もう払ってしまったではないか。
 今後これからは決して他の男と関係もしないし、今までの生活をさらりと止めて正業に立ちかえって、真面目な女になろう――そして、彼を一生の想い出として生きよう――それは、情夫おとこ捕縛あげられた日に、堅く堅く誓ったことであった。
 彼女は今、じっと花を眺めていた。と、花屋が薔薇の花を突きつけて、
「花束ですか。菊はいかが。菫もございます」
 彼女は黙って歩きだした。が、ふところに一銭の持合せもないと知りつつ、やっぱり何か花が欲しかった。何とかして手に入れたかった――きっと花を供えるという約束をしたのだから。
 初めは空腹と体の疲れで気が遠くなりそうだったが、今はそんなことも忘れてしまって、墓場の土饅頭のことばかりを考えていた。せめて花束でも供えてその土饅頭を賑わしてやりたい。それには金だ。金をどうして手に入れよう。どうしたらいいだろう。
 その際に取るべき方法が、はっきりと胸に浮んで来た。それをしたからとて、死者に誓った操を破ることになろうとも思えなかった。
 恰度、真面目な職人が工場こうばへ帰って来ると、いきなり道具を握って余念もなく仕事をはじめると同じように、彼女は機械的に髪の恰好をなおし、貧しい着物の襟をかき合せると、以前にし慣れた調子で街を歩きはじめた。
 あの頃は、こうして街を稼ぐのにも張合があった。何故って、天にも地にもたった一人の可愛い者であったあの情夫おとこが、宿のカッフェで花牌はなをひきながら彼女を待っていてくれたから――彼女はそんなことを思いだしながら、腰にしなをつくって、注意ぶかい視線を左右に投げつつ歩いていった。そして時々、すれちがう男達へ低声こごえで呼びかけた。
「ちょいと……お待ちなさいよ……」
 だが、彼女はあまりに焦悴やつれていた。男達は一眼見ると、逃げるようにさっさと行ってしまった。彼女の顔は、もはや歓楽にふさわしい顔ではなかった。体だってもそうだ。骨ばって、痩せこけた深いくぼみが、薄い木棉もめんの着物の上からも判然はっきりとわかるのであった。
 以前の美くしかった時分、ほんとうに『碧眼あおめ』だった時分には、見る人を惚々ほれぼれとさせたものだが、もうすっかり変ってしまった。今は単に憫憐あわれみの対象にしか過ぎないのだ。
 陽かげがだんだん薄くなって来た。ぐずぐずしていると、花も買えないうちに墓地の門が閉まるかも知れない。
 霧雨は相変らず細々と降りつづいて、すべてのものが灰色の陰影かげのなかにぼかされかけていた。彼女の痩せた顔の輪廓もおぼろになって、熱に燃える大きな二つの眼玉ばかりが人目をひいた。
 折から、外套の襟を立て両手をかくしに突込んで、今寂しい街角を曲ろうとしている一人の男を見かけると、彼女はつと立ち塞がるようにして、
「ちょいと……一緒にいらっしゃいナ……」
 何となく、全身の切願がその声にこもっていた。男はちらと彼女の方を見た。彼女はすぐに身を擦りよせたが、或る高い使命に励まされてでもいるような眼付で、男の顔をじっと見まもった。
 男は彼女の腕をとった。それから間もなく、先刻さっきのホテルへ連れこまれた。
「わたしの鍵と、燭台をね」
 カッフェの戸口から女が性急せっかちに声をかけると、女将おかみが鍵と燭台をもって来て、
「部屋は二十三番よ。二階の三つ目の戸を開けるんだよ」
 と低声こごえに教えてくれた。カッフェにいた男女が、好奇心ものずきに廊下を覗いているらしい気勢けはいがしたが、彼女が客を連れて階段をあがりかけたときに、どっと笑い声が聞えた。
 暫く経って彼女が再び階下したへ降りて来たときは、殆んど暗くなっていた。で、あわただしく客を送りだしてから、また小走りに街へ出て行った。そして最初に見つけた花屋の前で、に鳴らしていた銀貨を二つほうりだして、一番手近な花束を一つ買った。
 それから、せっせと墓地まで駆けてゆくと、恰度墓参に入っていた人々が一団になってぞろぞろ出て来るのに出っくわした。彼女ははっと思うと身ぶるえがした。もう間に合わないだろうか?
 門のところへ行くと、
「駄目駄目、もう時間がない」
 と門番が止めた。
「お願いですお願いです、大急ぎで駆けて行ってすぐに帰って来ます。たった二分間……」
「じゃ、行ってらっしゃい。早く出なければいけませんよ」
 彼女は幾度も小石につまずいたりして、暗がりを夢中になって駆けていった。可成り長い道なので、呼吸いきがはずんで、胸が灼けつくように苦しかった。
 やっとのことで刑死者の墓地へ辿りつくと、彼女はそこへがっくりと膝まずいて、花を地べたに撒きちらした。熱い涙がひとりでに湧いて来て、ひしと顔に押しあてた両手の指の間から止め度もなくはふりおちた。おいのりをあげたいと思ったが、その文句が頭にうかんで来ない。彼女はただ泣きながら大地に接吻くちづけをした。
「もし、お前さん、お前さん」
 と呼んでみた。体が綿のように疲れはて、手足は感覚を失っていたけれど、何だかほっと安心して気が晴れ晴れとなったのを覚えた。
 やがて彼女はちあがって、また大急ぎで引きかえした。門番の前へ帰って来たときは、微笑さえうかべていった。
「ねえ、早かったでしょう」
 しかし、これで墓参も済んだ。恋人のそばへ行って約束を果して来たと思うと、またがっかりして急に寒さと疲れを覚えて来た。歩くのがやっとであった。咳がしきりに込みあげて来るものだから、幾度か立ちどまっては、壁にりかからねばならなかった。
 やっとホテルまで帰って来ると、転げるように戸口を入った。ホテルの連中は、例のむっとするうん気と煙りの中でまだ花牌はなをひいていたが、彼女の顔を見ると皆んなが変に黙りこんでしまった。
 彼女は強いて笑顔をつくっていた。と、隅の方にいた一人の女が、椅子にそりかえって嘲笑ひやかすように声をかけた。
「ちょいと碧眼あおめさん、今日の皮切りは素敵だったわねえ。でも、厭な気持ちがしたでしょう、何ぼ何でもね」
 碧眼あおめは肩をすくめた。
「お前さん、先刻さっきのお客、誰だか知っていて?」と前の女。
「いいえ、わたし知らないわ」
「じゃ教えてあげよう。彼男あれはね、ル・バングよ」
「え、何ですって?……ル……?」
 碧眼あおめは口ごもった。
 すると、前の女はぐっと酒杯さかずきを乾してから、花牌はなふだを取りあげながらいった。
「ええ、ル・バングよ……あの死刑執行吏くびきりにんのサ」





底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
   2003(平成15)年2月14日初版
底本の親本:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
初出:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
入力:ノワール
校正:栗田美恵子
2020年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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