暗中の接吻
モーリス・ルヴェル Maurice Level
田中早苗訳
「御免なさい……御免なさい……」
女は膝まずいて哀願していた。男は少しやさしい口調になって、
「起ちなさい、もう泣かんでもいい。おれにも欠点があったんだからな」
「いいえ、貴郎、飛んでもない……」
女が口ごもりながらいうと、男は首をふって、
「お前と別れたのが悪かったんだよ。お前はおれを愛していたのだからね。尤も、おれだって初めはこんな風に考える余裕もなかったさ。あの当座、硫酸で顔を灼かれた痛みがひどくて、それから盲になって、おれの一生は恐怖と死のほかに何にもないということが初めてわかった時分は、今とは似ても似つかぬ考えに囚われていたんだ。誰だってああした苦しみの最中には、急にあきらめがつきやしないからな。だが盲になって不断の闇に閉されると、眠っている人のように、却って物事がはっきりと見えて来て、気が静まるものだよ。この頃おれは肉眼が見えない代りに、心眼で物を見るようになった。おれたちが住まっていたあの家が見える。昔の平和な日が、お前の笑顔が、眼前にちらつく。そうかと思うと、別れた晩のお前の寂しそうな顔が見える。裁判官はああした事情を知らないものだから、ただお前がおれをこんな不具者にしたという点に重きをおいたんだね。だから、おれは法廷へ出て詳しく説明をしたのだよ。裁判官は無論お前を禁錮にするつもりだった。そうするとお前は、何処ぞの監獄でじりじりと老い朽ちる外はなかったんだ。しかしお前を何年牢に入れたって、おれの視力はかえって来やしない。ところで、おれが証人席についたとき、お前はびくびくものだったろう。おれがきっとお前の罪状を洗いざらい申し立てて、こっ酷くやっつけはしないかと思ってね。だが、おれにはそんなことは出来ないんだ」
女は両手に顔をうずめて、涙にむせびながら、
「貴郎は何てやさしい方でしょうね」
「おれは公平だよ」
彼女は歔欷あげながら言葉をついだ。
「後悔しています。わたしは何という恐ろしいことをしたんでしょう。それだのに、貴郎は裁判官にわたしの放免を願って下さったのね。そして今もこんなに優しくして下さるんですもの。わたしは恥かしくて穴にでも入りたいくらいよ……済みません、ほんとうに済みません……」
彼は、女がしゃべったり泣いたりするのを黙って聞いていた。椅子の背へ仰のけに頭を凭たせ、肱掛けに手をおいたまま、何の感動もないような風で耳を傾けていたが、やがて女が静まるのを待って問いかけた。
「お前はこれから何うするんだい」
「わかりません。わたし大変疲れていますから、四、五日ゆっくり休みたいんです。それから勤めに出ます。また売り子か、衣裳屋の生模型の口でも探しますわ」
「お前は相変らず美くしいだろうな」
それを訊いたときの男の声はこわばっていた。
女は答えなかった。
「お前の美くしい顔が一目見たいなア」
彼女はなお黙りこんでいた。
男はちょっと身ぶるいして、呟くようにいった。
「もう晩になっただろう。電燈をつけてくれ。眼が見えなくても、四辺が明るいと思えば気持がいいものだ。お前はどこにいるんだい。暖炉棚の傍に? そんなら手をのべて御覧。そこにスイッチがあるから、ひねっておくれ」
盲いた眼瞼の奥には何の変化も感じないけれど、女の唇からアッという驚きの声がもれたので、彼は電燈がついたのを知った。女は自分の罪業の跡をば初めて電燈の下にまざまざと見たのであった。
男の顔は、白い条痕をなしている間に、赤い溝が交錯し、額に黒ずんだ襞が灼きついていて二タ目と見られぬ物凄い形相だった。
彼が法廷に立って女のために放免を哀願ったときは、女は被告席にうずくまったっきり泣き咽んでいて、彼の顔を見上げる勇気もなかったが、今目のあたりにこの物すごい形相を見ると、堪らなく厭な気持がするのだ。
しかし男は格別怒った風もなく、低声で、
「どうだ、凄い顔になっただろう。まるで昔の面影があるまい。おや、お前もう遁げるのか」
女は声をふるわせまいと努めながら、
「遁げるもんですか。ここに、じっとしているわ」
「そうかい、そんならもっと此方へお寄り。顔が見られない代り、せめてお前の手に触ってみたいな。もう一度そのふっくりした手に触らせてくれないか。極まりがわるいけれどお願いだ。一寸でいいから手を握らせてくれ。盲というものはな、触っただけでも、奇態にさまざまな思い出がかえって来るものだよ」
女は顔をそむけて、手をのべると、男は彼女の指を嬉しそうにいじくりながら、
「おお、可愛い手だ。ふるえなくてもいいよ。嬉しい仲であった時分のことを思い出させてくれ。おや、おれの与った指環をはめていないね。どうしたんだい。おれは取りかえした覚えはないが。お前も『これはわたし達の結婚指環にしましょう』って云っていたではないか。何故脱ったの」
「だって、極まりがわるいんですもの」
「いいから箝めていなさい。ね、きっと左様すると誓ってくれ」
「では、左様しますわ」
男はしばらく何か考えこんでいたが、やがて落ちついた声で、
「外はもう真暗だろう。そして大変寒いね。盲になると寒さが身に沁みるぞ……お前の手は暖かい。が、おれのはまるで氷だ……盲は勘がいいっていうが、おれなんかはまだそれほど鋭くなっていない。追々鋭敏になるだろう。おれは駆けだしの盲で、いわば幼稚園の子供みたようなもんだからな」
女は男に手をまかせたまま、ほっと溜息をして、
「おお神様、神様……」
男は夢の中で物をいっているような調子で後をつづけた。
「お前が来てくれたので、こんな嬉しいことはない。お前さえ承知なら、いつまでも一緒にいて貰いたいんだが、しかしもうそんなことは出来やしない。今後おれと同棲するということは随分辛いこったからな。それに、おれたちのように嬉しい思い出をもった者は、成るだけそれを壊さぬようにそっとしておく方がいいのだ。おれの顔はもう見ても慄然とするだろう?」
女はそんなことはないと頑張ったが、男はにっと皮肉に笑って、
「嘘をつけ。おれは前に、情婦から硫酸をぶっかけられた男を見たことがあるが、その顔といったら二度と見られたものじゃなかった。女たちは彼に逢うと顔をそむけたよ。それでも彼は自分の顔が見えないものだから、厭がる人をつかまえては話しかけていたっけ。おれも今はその男と同様なんだ。え、そうだろう。長らく同棲したお前でさえも、厭がってふるえているんだからな。おれはよくわかるよ。お前はいつまでもこの顔を思いだして魘されるだろうが、それを思うとおれは悲しい……もうこんな話は止そう。ところでお前はすぐに勤め口を探すといったね。それについてお前の計画を話してくれないか。もっと傍へ来いよ、おれは耳も少し遠くなったんだ……で、どうだね、今の話は」
二人の肱掛椅子が、殆んど触れるばかりに引きよせられた。女はむっつりと黙りこんでいたが、男は吐息をして、
「ああ懐かしい匂いがするね。おれはもう一度この匂いが嗅ぎたさに、お前の使いつけの香水を買ってみたが、どうもしっくりしなかった。お前がつけると、髪や肌の匂いと調和するからいいんだね。もっと此方へお寄り。今帰って行くと二度と来てはくれまいから、せめて匂いだけでもたんのうさせておくれ。お前はふるえているね。この顔がそんなに怖いのか」
「わたし、寒いのよ」
「なるほど、薄着だな。外套も着て来なかったようだね。もう十一月だよ……外は曇って、じめじめして、寒いだろう。大層ふるえているね……おれ達の旧の家は暖かくて、気持がよかったな。お前も思いだすだろう。あの時分は、抱きよせるとお前は恍惚とおれの肩へ顔をかくしたりしたもんだが、今じゃおれに抱かれたがる女なんか一人だってありはしない。もっと傍へお寄り。そっちの手も握らせてくれないか。左様左様。ところで、お前はおれが会いたいという言伝を弁護士から聞いたときに、どう思ったの」
「来なければならないと思いました」
「そんなら、まだおれを愛していてくれるんだね」
「それは愛していますわ」
と彼女は思いきって一呼吸にいってのけた。
「そんなら、別れの接吻をさせてくれ。厭でもあろうが、ね、接吻だけでいいんだよ。帰りたければ帰してやるからね。いいだろう? ね、いいだろう?」
女は思わず後退りをした。しかし、そうした心が恥かしくもあり、男のことを思えば気の毒にもなって、その切なる頼みを無下に拒むわけにも行かなかった。それで彼女は眼をつぶって、男の肩へ額をよせた。
が、ふと眼をあけたとき、男の醜悪な顔がすれすれに迫って来るのを見ると、ぞっとして急に抜けだそうと身もだえした。けれども男は一層強く彼女をひきよせて、
「帰りたいか。お待ち、お前はまだ沁々おれの顔を見ないだろうが、ようく見て御覧……唇を貸して……もっと思いきって前へ出せよ……どうだ怖かアないか」
「おお苦しい」
と女は呻いた。
「そうじゃあるまい、怖いんだろう」
「おお苦しい、苦しい」
すると男は低声になって、
「しっ、声を出すんじゃない。静かにしろ。おれに捉まったが百年目だ。これ、じたばたしたって駄目だよ、腕力ならおれの方がずっと強いんだ」
と左の手で女の両腕をぐっと押えつけたまま、右手で上衣のかくしから一つの小壜を取りだして歯で栓を抜いた。
「うむ、硫酸だよ。顔を仰向けろ……左様左様……今にわかるぞ……おれたちは飛びっきり似合いの一対になるんだ。お互いっこだ……ははア、ふるえているな。おれがお前の放免を願ったのと、今日ここへ呼びよせた理由が解っただろう。美くしいその顔をおれと揃えにしてやるんだ。さアお前も化物になれ、おれと同じ盲になれ……ああ、痛むさ、そりゃ猛烈に痛むさ」
女が哀願しようとして口をあけると、
「こら口を開いちゃ可かん。閉めろ……殺そうと云やしない……殺してしまっちゃ、刑罰が軽すぎるからな」
肱で女の体をしっかと押えつけ、その口を手で塞いで、硫酸をたらたらと額に、眼に、頬に滴らした。
女は死物ぐるいに藻掻きだしたが、男は離さばこそ、なお犇と締めつけて、
「そら、もう少しだ……おれを噛んだな、此女奴。噛んだって平気だ……どうだ、痛いか……地獄の責苦だろう」
そうして徐々と薬液を滴らしているうちに、突然、
「やッ、おれの手にもかかった」
と叫んで女を突離した。
女は床にころがって、それから絨毯の上をのたうち廻った。顔は真紅な襤褸をひろげたようになっていた。
男はすっくと起ちあがって歩きだした。一度女の体に蹴躓ずいたが、やがて手さぐりで電燈を消すと、四辺はたちまち真の闇にとざされた。
失明した男女の体内も今はそのような闇であった。
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
2003(平成15)年2月14日初版
底本の親本:「夜鳥」春陽堂
1928(昭和3)年6月23日
初出:「新青年」
1926(大正15)年9月号
※初出時の表題は「闇」です。
入力:ノワール
校正:栗田美恵子
2021年12月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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